大正妖精綺譚

 まばゆい光の奔流に呑み込まれ、小姫(こひめ)はぎゅっと目を閉じた。
 落ちているような、泳いでいるような、不思議な感覚。
 耳元では、妖精たちの歌声が絶え間なく響いている。

 やがて、足先がふわりと柔らかな地面へと触れた。

「……っ」

 ゆっくりと目を開くと、そこは、昼とも夜ともつかない世界だった。

 淡く発光する花々が一面に咲き乱れ、甘い香りが漂っている。見上げれば、硝子のように透き通った木々が空へ枝を伸ばし、その間から白い光の粒が舞い落ちていた。遠くには、見たこともない巨大な月が浮かんでいる。

 あまりの美しさに言葉を失い佇んでいると、場違いな声が響いた。

「ココが妖精界⁉︎」
「うるさいぞ、ノア」
「だって、まさか来られるなんて……」

 風が吹くたびに、鈴のような音が鳴り響く。
 まるで、誰かの夢の中へ入り込んでしまったかのような、不自然な感覚。

「──タビは⁉︎」

 はっとして、小姫は周囲を見回した。
 傍らにいたはずの、黒猫の姿が見当たらない。
 視線を彷徨わせた小姫の肩に、晋一朗(しんいちろう)が静かに手を乗せた。

「タビならきっと、人間界で魔導書(グリモワール)を守ってくれているだろう」
「……そうですね」

 小姫は胸の前でぎゅっと拳を握った。
 今は立ち止まっている場合じゃない。瑠生(るい)を、探さなければ。

 周囲を見回すと、硝子の森の奥で、薄紫の光が脈打っているのが見えた。呼吸をするかのように、うっすらと明滅を繰り返している。
 引き寄せられるように、小姫はそちらへ足を向けた。

 そのとき。
 ずるり、と地面から黒いものが溢れ出した。
 泥のようで煙のような、輪郭を持たないなにか。それはゆっくりと集まって、巨大な獣の形を作り上げた。
 漆黒の身体に、異様に長い手足。枝分かれのない一対の角の生えた、羚羊(レイヨウ)のような生き物が唸る。

「若が描きそうな化け物が出てきたぞ⁉︎」

 (たける)の声に反応して、巨大な羚羊は咆哮をあげた。
 ぞわりと空気が震え、黒い靄が一気に吹き荒れ、幻想的な花畑を呑み込んだ。

「歓迎されてはいないようですね」

 (たまき)の静かな声に、小姫はごくりと唾を吞み込んだ。
 けれど、怖気づいている暇はない。小姫はぎゅっと賽子を握りしめ、仲間たちを振り返る。

「力を貸して!」
「おう!」
Yea(うん)!」
「もちろん!」

 みんなの返事に背中を押され、小姫は賽子(サイコロ)を転がした。
 賽子の動きが止まり、出目が定まる。
 ノアの手のひらが黄色く光った。

「またボクぅ⁉」

 バリッと着物が裂け、金色の獣毛が一気にノアの全身を覆う。月光を浴びた狼が、しなやかに地面へ着地した。

「……着替え、もうナイんだけど?」
「誰かに貸してもらうしかないね」

 俺は嫌だけど、と笑う朔耶(さくや)の背後に、羚羊の黒い脚が振り下ろされる。
 ノアがとっさに朔耶の襟元を咥え、その場から飛び退いた。

 その隙に、小姫は再び賽子を振るった。
 朔耶の額に金春色の光が迸り、その背に純白の翼が広がる。龍神にぼろぼろにされた羽根は、輝きを取り戻していた。
 朔耶は風のような速度で飛び上がり、そのまま獣の頭部を押さえ込んだ。

「小姫ちゃん! こいつは俺たちが抑えておくから、先に行って!」
「でもっ……」

 いままで遭遇した妖精とは比べものにならない気配に、不安が募る。
 金色の狼が振り向きざまに片目をつぶった。

「人間界に戻ったらご褒美にデートしてよ、桜姫」
「ノアさん。芝居でそういうこと言う役は、だいたい早く退場する(死ぬ)んだよ」

 朔耶の指摘に、芝居好きのノアは素直に頷く。

「たしかに!」
「まったく。ノアさんは俺が守るから、小姫ちゃんたちは早く行って!」

 朔耶は白い翼を大きく広げ、羚羊の前へ立ちはだかった。
 小姫はその背中に向かって叫ぶ。

「絶対、無理しないでね!」
「分かってる」

 朔耶が振り返ることなく答える。
 次の瞬間、羚羊が後肢で立ち上がって牙を剝いた。

「行こう!」

 晋一朗に促され、小姫たちは硝子の森の奥へ駆け出した。
 背後で、獣の咆哮が高くあがった。



 硝子のような木々が並ぶ森を駆け抜ける。
 枝葉が触れ合うたび、しゃらしゃらと鈴みたいな音が鳴った。

「……妙ですね」
「どうした?」

 ふいに足を止めた環に、武が眉をひそめる。

「さっきから、同じ場所を回っているような気がします」

 小姫は周囲を見回した。
 硝子のような木々はどれも似た形をしていて、判別がつかない。美しい景色が方向感覚を狂わせる。

「おそらく、この森自体が私たちを惑わせようとしているのだと思います」
「幻覚か?」

 問いながら、晋一朗は透き通った幹へそっと触れた。透明な樹皮に、ゆらりと波紋のような光が走る。

「いえ。道そのものが入れ替わっているのかもしれません。進んでいるつもりでも、別の場所へ誘導されている」
「なんだそれ」

 武が舌打ちする。
 環は細めた目で、森の奥を見据えた。

「若さまが、我々を近付かせまいとしているのでしょうか」

 小姫はぎゅっと唇を噛みしめた。

 そのとき、ごうっと風が吹き抜けた。
 硝子の木々が軋み、枝が生き物みたいに絡み合う。道のあった場所が、みるみる塞がれていった。
 これ以上の侵入を拒んでいるかのようだ。
 環が鋭く周囲を見回す。

「あちらです!」

 迷いのない声に、小姫は顔を上げる。
 絡み合う硝子樹の向こう。ほとんど塞がりかけた細い道を、環はまっすぐ指差した。

「若さまの気配がします」
「よっしゃ! 任せろ!」

 武が拳を鳴らし、塞がった木々の前へ進み出た。

「武兄?」
「おりゃぁあっ‼」

 武は躊躇なく、硝子樹に肩から突っ込んだ。
 パキパキパキンッ、と甲高い音が響き、絡み合った枝がまとめてへし折れる。

「えぇっ!?」

 小姫は思わず声をあげた。
 強引に道を押し広げた武は、振り返ってニカッと笑う。

「賽子なんざ使わなくたって、気合でなんとでもできんだよ!」

 晋一朗が即座に小姫に言い添えた。

「真似するなよ?」
「さすがにできない……」

 砕け散った枝の向こうに、道が続いている。
 薄紫の光が、先ほどより近く感じられた。

 一歩踏み出そうとした、そのとき。
 折れたはずの枝が、ゆっくりと持ち上がった。砕けた断面から、無数の細い枝が再生するように伸び、絡み合いながらふたたび道を塞いでいく。

「またかよ!」

 武が舌打ちと同時に前へ出る。
 拳が振るわれるたび、枝がまとめて弾け飛んだ。けれど、木々はそれ以上の速さで修復を続ける。

「このままでは埒があきません。隙を作るので、お嬢さまと柳瀬さまは進んでください」
「二人は?」
「ついていってやりてえが、こいつらぶっ壊すので精一杯だ」

 硝子が砕ける音が響く。
 蠢く枝を叩き落として、武と環が強引に道をこじ開けた。

「いまだ!」
「行くぞ!」

 晋一朗の声に、小姫は迷いを呑み込んだ。
 いまは、前へ進むしかない。
 木々の隙間へ身を滑り込ませると、晋一朗も隣を離れずについてきた。
 背後から、枝が再び絡み合って道を閉ざしていく音が聞こえた。
 武と環を残していくことに胸が痛む。けれど、足を止めるわけにはいかなかった。
 小姫は森の奥へと視線を向け、さらに速度を上げた。