大正妖精綺譚

「おまえは随分、これに執着しているな」
「瑠生は大切な家族なの。連れていかせたりなんてしない」
「はて。私に娘はいないはずだが……」
「私とあなたに血のつながりなんてないし、瑠生と私にも血のつながりはないわ。それでも、あなたよりも私のほうが、ずっとずっと瑠生を知ってる!」
「小姫……」

 瑠生が泣きそうな顔で息を呑む。
 けれど次の瞬間、遠くで悲鳴が響いた。
 瑠生の表情が、苦しげに歪んだ。

「……最初から、僕なんていなければよかったんだ」
「だめ、瑠生‼︎」

 次の瞬間。
 空間が、びしりと音を立てて裂けた。
 裂け目の奥で、虹色の光が渦を巻く。
 冷たい風が吹き抜け、公園中の木々が大きくしなる。
 瑠生の身体が、ふわりと浮いた。

「瑠生‼︎」

 小姫は手を伸ばすが、瑠生は自嘲するみたいに薄く笑うだけで、こちらの手を取ろうとしない。

「そうしたら、誰も傷付かなくて済んだのにね」
「若さまっ!!」

 武と環が地面を蹴るが、進路を塞ぐように黒い炎が噴き上がり、熱風に弾かれ二人はたたらを踏んだ。

「ぐっ……!」

 裂け目の向こうから、無数の光が溢れ出す。
 甘い花の香り。耳鳴りのような歌声。魔性の気配。
 瑠生の身体が、ゆっくりと裂け目へ引き寄せられていく。

「瑠生っ!!」

 駆け出した小姫に、瑠生がそっと手を伸ばす。
 触れそうになった指先が、途中で止まった。

「ごめん」

 小姫の肩を押し返す力は、驚くほど優しかった。

「……っ⁉︎」
「小姫‼︎」

 よろめいた身体を、うしろから晋一朗が受け止める。
 伸ばした指先は届かない。
 瑠生の身体は、虹色の裂け目へ吸い込まれるように消えていった。

「瑠生……!!」
「案ずるな」

 妖精王が藍白の瞳を細め、ぞっとするほど穏やかな声で言った。

「私の新しい器だ。壊したりはせぬ」

 次の瞬間。
 瑠生と妖精王を呑み込んだ裂け目は、音もなく閉じた。

「瑠生! 瑠生……っ‼︎」

 どうして、ひとりで背負おうとするの。
 どうして、手を取ってくれなかったの。

 小姫の叫びは、悲鳴と轟音にかき消された。

 地面はなお低く唸り続け、建物の崩れ落ちる音も止まらない。
 建物の崩壊。燃え広がる炎。逃げ惑う人々。
 この騒ぎでは、警察も消防も手が回らないだろう。

 瑠生を追いかけたい。
 いますぐ追いかけて、連れ戻したい。
 けれど、街の人を見捨てられない。
 いまこの瞬間にも、誰かが助けを待っている。

「……街の人を、助けに行くわ」
「お嬢さま! ですが──」
「瑠生は絶対に迎えに行く。けれどその前に、いま助けを求めている人たちを放ってはおけない」

 小姫が覚悟を決めた、そのとき。
 鋭い鳴き声とともに、黒い影が飛び込んできた。

「コヒメ!」
「タビ⁉︎」

 小姫の肩に飛び乗ったタビが、頬擦りしながら得意げに言った。

「すけっと、連れてきたよ!」
「助っ人……?」
「おうおう。ずいぶん派手な騒ぎになってるじゃねえか」

 よく通る低音に、小姫はハッと顔を上げた。
 棒縞の着流しに夏羽織、パナマ帽をかぶった男が、鋭い眼光でこちらを見据えている。

是松(これまつ)お祖父さま──‼︎」

 是松は煙管をくゆらせ、不敵に口角を吊り上げた。
 その半歩後ろには、運転方である武の父と、家令の森谷(もりや)が控えている。

「是松一家、見参ってな」
「どうしてここに……」
「最近おめえの元気がねえって松蔵(まつぞう)に聞いてな。ちっと顔を見に来たところだったんだが、家に着くなりその化け猫が声かけてきやがった」

 腰を抜かすところだったぜ、と是松が笑う。

「化け猫じゃないよ。猫の妖精(ケット・シー)だよ」
「おんなじだろうが」
「ちがうもん」

 タビがぶわりと尻尾を膨らませる。

「あのね、街のようすがおかしかったから、しんぱいだったの。そしたら急にたまにぃの匂いがしたから、なにかあったんだって思って、おうちの前にいたおじいちゃんに話しかけちゃったの」
「タビ……」

 猫のふりをするという約束は、綺麗さっぱり忘れているらしい。
 けれど、小姫のために助けを呼んでくれたのだと思うと、胸の奥がじんわり熱くなった。

「若い衆はもう走らせてる。避難の誘導に火消しの手伝い、人手集め……やれることから動かしてる最中だ」
「お祖父さま!」

 小姫は思わず駆け寄って、そのまま是松の腕に抱きついた。嬉しさと安心感に、張り詰めていたものが少しだけゆるんだ。
 是松はふっと鼻で笑う。

「……ったく、おめえはいつまでたっても甘えん坊だな」

 その様子を見ていた晋一朗が、わずかに表情を和らげる。
 それに気付いたのか、是松の眉がぴくりと跳ねた。途端に小姫を引き剥がす。

「おいっ。婚約者の前でなにやってんだ」
「えっ?」

 是松は咳払いをひとつして、晋一朗へ向き直った。