大正妖精綺譚

 思わずもれた小姫のつぶやきに、羽の生えた少女が振り向く。目が合うと、クスッと笑って片目をつぶり、明滅したのち溶けるように消えてしまった。

「百鬼夜行かぁ。言い得て妙だネ」
「言ってる場合か!」

 床に座り込んだままの小姫のうしろから、晋一郎が覆い被さるようにして本に手を伸ばす。
 小姫はぎょっとして振り返った。

「なにするの⁉︎」
「おとなしくしてろ! ……だめだ、反応しない!」
主人(マスター)が書き換えられたのかも!」

 ノアの言葉に、晋一朗が睨むように小姫を見据える。

「いまから俺が言う言葉を復唱しろ。いいな?」

 返事を待たず、晋一朗は小姫の手を取り、光る頁の上に乗せた。
 重ねられた手に否応なく包まれて、胸が騒ぐ。

「ちょっと──」

 思わず声が上擦るが、晋一朗は気にも留めず、なにごとかを唱え始めた。

「此の書に憩い」
「こ、此の書に憩い……?」

 視線で促され、小姫は訳も分からないまま晋一朗の言葉をなぞる。
 逃げ場を失った手のひらの下で、紙面が不思議な輝きを帯びた。

「此の書に憩い、暫しの安らぎを得よ。時満ちるとき、然るべき処へ還さん────!」

 光が大きく膨れ上がり、白く弾ける。
 空間を飛び交っていた生き物たちが、吸い込まれるように本の中へと消えていく。幻想的な光景は、まるで煙が晴れるように消失した。
 晋一朗が、パタンと音を立てて本を閉じる。

「何匹か逃げたな……」

 不機嫌そうな声がふいに耳元で響き、小姫の心臓は大きく跳ねた。
 うしろから抱きすくめられるような体勢になっていたことを思い出し、小姫は慌てて身体をひねる。

「ちょっと! いつまで──」

 勢いよく振り向いた瞬間、小姫の唇を『なにか』がかすめた。

「……ッ⁉︎」

 一瞬、なにが起きたのか分からなかった。けれど、唇に残った感触が、否応なく現実を突き付ける。
 近すぎる距離で目が合って、二人同時に息を呑んだ。
 晋一朗が口に手を当て、弾かれたように一歩引く。その表情が、わずかに崩れた。

「おまえ……っ」
「えっ? あっ⁉︎」

 事態を理解するのと同時に、一瞬で顔に熱が集まる。
 頭が真っ白になり、言い訳も抗議も言葉にならず、口をパクパクさせながら視線を彷徨わせることしかできない。
 そのとき、小姫の目に信じられないものが映り込んだ。

「……は?」
「人のくち……っ、人にぶつかっておいて、なんだその反応は!」
「う、うしろ……」

 小姫は晋一朗の肩越しに指を差した。
 仔犬ほどの大きさの、太った蜥蜴のような生き物が、のしのしと床を歩いている。尾の先には炎が揺れ、背中には翼が生えていた。
 こんな動物、見たことがない。

「なにかいる‼︎」
「ピッ⁉︎」

 小姫の大声に反応した蜥蜴が、びくりと身をすくめ火を吐いた。じゅっと嫌な音を立てて、木の床が黒く焦げる。

「キャーッ⁉︎」

 小姫は反射的に晋一朗の肩を掴んで揺すった。

「なにあれ、どうなってるの⁉︎」
「少し静かにしててくれ」

 小姫の口を片手で塞ぎ、晋一朗はノアに向かって叫ぶ。

火蜥蜴(サラマンダー)だ! 逃がすな!」
Yea(うん)!」

 ノアが近くにあった三叉の燭台を手に取って構えた、そのとき。

「姫さん‼︎」

 店の扉が勢いよく開き、武が飛び込んできた。悲鳴が外まで届いたらしい。晋一朗に取り押さえられているかのような小姫の姿を目にして、武の表情が怒りに染まる。

「てめえ‼︎ なにしてやがる‼︎」

 足元の火蜥蜴には目もくれず、腕まくりしながら一歩踏み出す。
 すると、威嚇のような甲高い鳴き声とともに、火蜥蜴が武の足に向かって火を放った。

「ピィィーッ‼︎」
「熱ッ⁉︎ うわっ、なんだこいつ⁉︎」

 ふくらはぎに炎が走り、武が飛び上がる。
 火蜥蜴は追い打ちをかけるように、次々と火を吐いた。

「あちちちッ‼︎ やめろォ‼︎」
「俥屋サン! そのコ捕まえて‼︎」
「ええっ⁉︎ 捕まえろったって──素手じゃ無理だろ⁉︎」

 見知らぬ西洋人からの無茶振りに律儀に応じようとした武だが、低く身構えて威嚇を続ける異形を前に、困惑の声をあげた。
 晋一朗が小さく息をついて立ち上がる。

「……逃げられたら厄介だな」
「さっきみたいに、この中にしまえないの?」

 小姫は洋書を拾って、晋一朗を見上げた。

「力の強い妖精は、魔力を消耗させてからでないと捕まえにくいんだ」
「妖精……?」

 聞き返す自分の声が場違いに響く。
 差し出された晋一朗の手を取って立ち上がると、指先をきゅっと握り込まれた。驚いて顔を上げると、感情の読みにくい真っ黒な瞳に射抜かれる。

「櫻宮小姫。きみが、魔導書(グリモワール)の新たな主人だ。妖精を封印しろ」
「……ぐり? は?」

 不可思議なものの存在など一切信じそうにない晋一朗の口から、『妖精』などという言葉が出てくること自体信じがたいが、事実、目の前には火を吹く蜥蜴がうろついている。

「人の話を聞いているのか」
「えーっと……」
「きみが逃がした妖精たちを、捕まえろと言っているんだ」
「意味分かんないんだけど」

 頭が追いつかず、つい投げやりに返すと、晋一朗はわずかに片頬を引きつらせた。
 彼は袖の内に手を入れて、瑠璃(ラピスラズリ)でできた小さな賽子(サイコロ)を取り出すと、半ば強引に小姫の手に握らせて顎をしゃくる。

「これをあの俥夫に投げ当てろ」
「どうして?」
「いいから」

 晋一朗の有無を言わせない圧力に、ためらいつつも小姫は腕を振りかぶった。

「武兄、ごめんっ‼︎」

 小姫の手を離れた賽子は、ほのかな光をまといながら一直線に飛び、武の二の腕に命中した。
 瞬間、カッと橙色の光が弾け、『()』という符号が浮かび上がる。

「痛ッ。なんだ⁉︎」
Oberon's Dice(オベロンのサイコロ)──妖精の力を借りるコトのできる魔導具だよ」

 火蜥蜴と睨み合ったまま、ノアが言った。

「いまのでキミに、なんらかの能力が宿ったハズ!」
「はあ⁉︎」
「なんらかってなに⁉︎」

 揃って声をあげる小姫と武に、晋一朗が告げる。

「どんな力が与えられるかは、完全に無作為だ。使ってみないと分からない」
「なによそれ!」

 武に妖精の力が宿ったとして、能力が分からなければ使いようがないではないか。

「どう、武兄」
「どうって言われても、特に変わった感じは……」

 手を開いたり閉じたりしながら首をかしげる武に、晋一朗が小さく眉をしかめた。

「使えないな」
「てめえっ」

 と、武が声を荒げかけたとき。
 火蜥蜴が低い唸り声をあげ、炎の灯る尻尾を大きく揺らした。空気が一気に熱を孕む。

「このままじゃ火事になっちゃう……」

 骨董屋の周辺は木造の家が建ち並んでいる。ひとたび火がつけば、取り返しがつかない。
 焦る小姫を安心させるように、武が言った。

「能力だかなんだか知らねえが、そんなもんあてになんねえ! 気力でとっ捕まえてやりまさァ!」
「武兄……」

 武が啖呵を切って身を乗り出す。その瞬間、バキッと音がして床板がひしゃげた。

「どわっ⁉︎ この床板、腐ってやがる!」
「おい、俥夫」

 踏み抜いた足を引き抜きながら顔をしかめる武に、晋一朗が手近にあった木彫りの置物を放り投げた。
 慌てて受け止めた武の手の中で、置物が粉々に砕け散る。その様子を一瞥して、晋一朗は淡々と言った。

「……どうやら、きみの能力は『怪力』のようだな」
「これ弁償しろとか言わないよな⁉︎」

 こぼれ落ちる木片を見下ろして、半ば悲鳴のような声をあげる武をよそに、晋一朗は素知らぬ顔で腕を組んでいる。
 小姫は声を張りあげた。

「そんなことより、早くあの蜥蜴を捕まえて!」
「つっても、こんな馬鹿力じゃ握り潰しちまいそうだ」

 たしかに、置物を粉砕した手で触れれば、相手が無事で済むとは思えない。
 火蜥蜴が小さな翼を広げ、ふわりと宙へ舞い上がった。熱を帯びた風にあおられ、頬がひりつく。

「どうしたら……」