大正妖精綺譚

「氾濫だ! 逃げろ‼」

 晋一朗の言葉に反応した武と環がとっさに動き、人々を避難させようと誘導する。

「みんな、こっちだ!」
「川から離れてください! 早く‼︎」

 混乱の中、いつの間に人型に戻ったのか、着流し姿のノアが駆け寄ってきた。
 瑠生も小姫の元へ走ってくる。

「この龍はなんだい⁉」
「この川の神サマのようだけど、この暴れようはいったい……⁉︎」
「グォォオオオーッ‼」

 龍神はのたうつように巨体を旋回させた。
 尾がうねり、両岸の土を削り木々を薙ぎ払う。地面を叩く轟音が響いた。
 龍神はまるで、正気を失っているかのように荒れ狂っている。

「小姫ちゃん、賽子を!」
「ええ!」

 小姫は急いで賽子を振った。
 水色の光が弾け、朔耶の背中に翼が生える。
 すぐに地面を蹴って、朔耶は龍神の上に飛び上がった。隙を探すが見つからず、悔しげに下唇を噛む。

水棲馬(ケルピー)のときのようにはいかないか」
「そもそも封印できる相手じゃナイ!」

 為す術なく、焦りが生じる。
 小姫は無意識に魔導書(グリモワール)を抱きしめた。

「どうしたらいいの……」

 ──そのとき。
 魔導書がほのかに桜色の光を帯びた。
 それは徐々に輝きを増して、小姫の身体を包み込む。

 パンッと光が飛び散った瞬間、小姫は禍々しい気配を感じ取った。
 龍神の身体に、黒い靄のようなものが絡みついているのが目に映る。

「なに、あれ……」

 龍神が苦しげに身を捩るたび、靄もまた脈打つようにその身体を締め上げる。
 嫌な気配に、ぞわりと背筋が粟立った。

「危ない!」

 朔耶が急降下して、小姫たちをその翼で横に押しやる。
 次の瞬間、朔耶の身体は龍神の尾に弾かれ、反対岸まで飛ばされた。
 
「朔耶くんっ⁉︎」
「小姫‼︎」

 晋一朗が小姫の腕を引いた。
 直後、龍神の角が真横をかすめる。

「……っ!」

 小姫の目には、龍神に巻き付く黒い靄がまだ見えていた。
 龍神は怒っているのではなく、苦しんでいるのかもしれない。
 小姫はそっと手を伸ばした。

「なにしてる⁉︎」
「この靄を取り除けば、正気に戻るかもしれない!」
「靄……?」
「見えてないの?」

 そのとき、魔導書の頁がひとりでに開いた。ぱらぱらと紙がめくられ、白い光が溢れ出す。
 やがて、ひとつの言葉が糸を紡ぐように綴られた。
 導かれるように、小姫はそっとその言葉を読み上げる。

「穢れを収め、禍を封ぜよ──‼︎」

 次の瞬間、龍神が悲鳴のような咆哮をあげた。絡みついていた黒い靄が、一気に魔導書へ吸い寄せられる。
 靄が暴れ、生き物みたいに蠢きながら、小姫の腕へ巻き付いてきた。

「きゃっ……!」

 頭の奥へ、暗く澱んだ感情が流れ込んでくる。
 胸が押し潰されそうになった。

「小姫!」

 倒れそうになった小姫の身体を、晋一朗がとっさに支える。
 魔導書が白銀色の閃光を放ち、一瞬、視界が白く爆ぜた。

 瞬きを繰り返し、視界が輪郭を取り戻すと、巨大な龍神は静かにその身を横たえていた。靄は見えなくなっている。
 荒ぶる川の濁流も、次第に落ち着いていった。

「朔耶くん!」
「……娘」

 低く響く声に、小姫は目を見開く。
 龍神が川辺に身を横たえたまま、ゆっくりと小姫を見た。濁っていた瞳に、正気の色が戻っている。その声には、悪夢から醒めたばかりのような深い疲労がにじんでいた。

「其方たちが、黒き穢れより我を救ってくれたのか」

 龍神は静かに振り返ると、その手でそっと朔耶をすくい上げた。
 気を失っていた朔耶が目を覚ます。

「……ん? えっ⁉︎ うわぁっ⁉︎」
「危害は加えん」

 龍神は目を細めると、朔耶を小姫の隣へそっと下ろした。
 同時に、ぼろぼろになった背中の翼が、淡い光となって消えていく。

「いっ……たた……。これ、絶対どっか折れてる……」
「大丈夫⁉︎」

 うずくまる朔耶を、小姫は慌てて支えた。

「少しは手加減してよね」

 痛みに顔をしかめながらも、朔耶は龍神を見上げて軽口を叩く。相手が神であろうと臆した様子はない。

「すまぬことをした。穢れに呑まれ、我を失っていた」
「いったい、なにがあったのですか?」

 小姫が問いかけると、龍神は重たげにまぶたを上げた。

「近頃、異様な力が帝都全体を覆っている。禍々しく、強大な妖精の気配……おそらくは、妖精王(ハイエルフ)
「妖精王?」
「神族に近い、妖精の王だ。その魔力にあてられ、理を乱された妖精たちが次々と穢れに呑まれている。最近の異変も、その影響であろう」
「妖精王が、人間界に来ているということですか?」
「うむ。なにかを探しているようだが、目的までは分からぬ」

 ふと、龍神の視線が瑠生へと向いた。

「其方」

 深紅の瞳が、じっと瑠生を見据える。

「──人間か?」
「えっ……?」

 瑠生が眉を寄せた、そのとき。
 龍神がはっと顔を上げた。

「嗚呼……」

 全身の鱗がざわりと逆立つ。

「古き樹が、ひとつ絶えた」