大正妖精綺譚

「それにしても、瑠生クンの能力はホントにすごいね〜」

 ノアが軽やかに地面を蹴りながら、感心したように尻尾を揺らす。
 顔をつきあわせていても仕方がないと、ひとまず外に出ることになり、ノアの首には着替え用の着物が巻かれた。
 さらにそこから、晋一朗の手へ黒い紐のようなものが伸びている。よく見ると、それは足元にまで続いていた。
 何度描いても首輪と引紐は具現化されず、ガラクタばかりが山となり、最終的に能力の解放された晋一朗の影が引紐代わりに採用されたのだ。

「描いたモノを、そのまま実体化できるなんて、絵さえ上手ければほとんどなんでも作れちゃうじゃない」
「創造の力か……。そう考えると、かなり規格外だな」

 影を器用に操りながら、晋一朗が静かに頷く。

「問題は瑠生さんの画力だけどね。いやぁ、傑作だったなぁ」
「うるさい」

 肩を震わせて笑う朔耶に、瑠生の眉間のしわが深まる。
 その様子がおかしくて、小姫までつられて笑ってしまった。
 日比谷公園での一件以来、どこか重たかった空気が、ようやく少しだけいつもの調子へ戻ったような気がした。

「……しかし、なんか変な天気だな」
「最近ずっとこのような様子ですね」

 武と環が空を見上げる。
 昼間だというのにどこか薄暗く、夏真っ盛りのはずなのに、妙に肌寒い。
 表通りへ出ると、人々のざわめきが耳に届いた。

「また川が荒れたらしいぞ」
「夜になると、何者かに襲われるって聞いたぜ」
「このあいだの火事も普通じゃなかったし……」

 みんな、目に見えないなにかに怯えているようだった。

「まずは橋の様子を見るんだっけ?」
「ああ。崩れたのは小規模な橋らしいが、近隣にも被害が出ている」

 ふんふん、と地面の匂いを嗅いだノアが「こっちだよ」と首を振った。

「まぁ大きい。外国の犬?」
「おりこうなのねぇ」

 金色の狼の姿は、さすがに目立ちはするものの、『金持ちの変わった犬』くらいに思われているようだ。
 通りすがりの婦人たちの声に気を良くしたのか、ノアは尻尾をぶんぶんさせて愛想を振りまいていた。

「えへへ〜」
「ノア、ちょっと静かにしろ」



 やがて一行は、問題の橋へ辿り着いた。櫻宮(さくらみや)商会が管理する、私設の橋だ。
 川に架かった石橋の一部が崩れ、周囲には木材や瓦礫が散乱している。近くの家屋も壁が崩れており、人々が慌ただしく片付けに追われていた。

「思ったよりひどいわね……」

 小姫は小さく眉を寄せた。
 大雨が降ったわけでもないのに、川の水は濁り、普段よりも勢いが強い。
 自然災害のようにも見えるが、これも妖精の影響なのだろうか。

「人手が足りてねえな」

 武が周囲を見回し、袖をまくる。

「姫さん。俺、ちょっと手伝ってきてもいいか?」
「ええ、もちろん」
「ありがとな。こういうのは早ぇほうがいいからさ」

 言うなり武は、崩れた木材を軽々と持ち上げた。近くにいた男たちが目を丸くする。

「兄ちゃんすげえな!」
「へへっ、鍛えてっからな!」

 見る間に瓦礫が片付いていく。武の能力を解放するまでもなさそうだ。
 小姫も袖をまくり、人々に混ざって細かな木片を拾いはじめた。

「小姫ちゃん?」
「少しでも手伝いたくて」
「じゃあ俺も」

 朔耶が袖にたすきを掛けながら、くるりと晋一朗たちを振り返る。

「そこの三人も、見てないで手を動かす!」
「……そうだな」

 微苦笑を浮かべ、晋一朗が頷いた。瑠生と環も袖をまくり、崩れた木材へ手を伸ばす。
 そこへ、近隣の住人や大工が集まってきた。

「櫻宮のお坊ちゃんじゃねえですか。わざわざ様子を見にきてくださったんで?」
「やあ。片付けだけでも手伝えたらと思ってね。向こうには柳瀬商事の跡継ぎもいるよ。鋼鉄製の橋に架け替えてもらえるよう、頼んでみようか」
「そりゃあいい!」

 瑠生のそつのない話術に、片付けに追われぴりついていた周囲の空気が、少しだけやわらぐ。
 子供たちも集まってきて、遊び半分に大人たちを手伝いはじめた。

「お姉ちゃん、これどこに置けばいい?」
「向こうに積んでくれる?」
「わー! でっかい犬ー!」
「ワン!」

 ノアが心得たように、子守を買って出てくれる。子供たちは巨大な狼を連れて、歓声をあげながら駆けていった。
 壊れた橋や外壁を片付ける者、炊き出しを始める者、怪我人を運ぶ者。誰かが困っていれば、自然と別の誰かが手を貸していた。
 これこそが、新しい『是松(これまつ)一家』の目指す形なのかもしれない。

「無理していないか?」

 ふいに、晋一朗が尋ねてきた。小姫の右肩へと視線が落ちる。

「瑠生も晋一朗さんも、いつまでも心配しすぎです。人面樹さんがきちんと治療してくれたおかげで、ちっとも痛まないわ」
「ならいいが……」

 くすぐったさと同時に、切なさが胸に灯った。
 傷痕のことで、責任を感じてほしくない。重荷になりたくない。
 その負い目から、優しくしてほしくない。だけど気にかけてほしい。
 晋一朗への気持ちを自覚してしまったばかりに、些細な言葉ひとつに、こんなにも揺さぶられてしまう。

「……小姫?」
「──っ」

 普段は「小姫さん」と言うくせに、人目がないと途端に距離が近くなる。
 ずるい、と思った。そんなふうに呼ばれたら、勝手に期待してしまう。
 自分だけが振り回されているみたいで、なんだか悔しい。

「……なんでもありません!」

 動揺を悟られないように、ぷいとそっぽを向いたとき。
 ざばん、と大きな水音が響いた。
 濁った川の水面が、不自然に大きく波打っている。ごろごろと雷鳴が聞こえ、真っ黒な雲が近付いてくるのが見えた。

「なんだ……?」

 人々が手を止めて川を見つめるなか、ごぼり、と川の中央が盛り上がった。
 思わず息を吞むほどの気配。
 濁流が渦を巻き、黒く巨大な影がゆっくりと浮かび上がった。
 鹿のような角。長い胴体に、連なった鱗。鋭利な瞳は、墨を流したように濁っている。

「龍……?」

 次の瞬間、龍が咆哮をあげた。
 耳をつんざくような音と同時に、巨大な尾が橋の残骸へと叩きつけられた。