あの日から、数日が経った。
帝都の空は、どこか薄暗くなったような気がする。
小姫は窓の外に視線をやり、そっと息をついた。
ふいに、日比谷公園での出来事がよみがえる。
──責任は取る。
晋一朗の声が思い出された。
あのときの彼の顔は、どんな表情をしていただろうか。
「責任を取るって、つまりは、そういうこと……よね?」
偽装のはずの婚約が、ふいに現実味を帯びてくる。
「もしかして、晋一朗さんも──」
そこまで言いかけて、小姫ははっと目を見開いた。
「も、ってなによ、も、って! これじゃまるで……」
まるで、小姫が晋一朗のことを好いているかのようではないか。
その考えは、なんの違和感もなく、小姫の心に染みわたった。
「そっか、私……。晋一朗さんのこと……」
けれど、すぐに心の片隅がすうっと冷える。
無意識に、自分の肩へと手を伸ばした。
晋一朗は真面目な人だ。あの状況で、彼がああ言うのは当然だろう。
傷を負わせたことへの負い目。そして、偽装とはいえ婚約者をこのまま放り出せば、彼個人だけでなく、柳瀬家の体面にも関わる。そういう立場の人なのだ。
胸の奥に浮かびかけていたものを、小姫はそっと押し込めた。
息を整え、窓の外へ視線を戻す。
いまは他に、考えるべきことが山ほどある。
──妖精界が、揺れておる。
ざわめく枝葉。老人のような顔の人面樹は、あのとき確かにそう言っていた。
──このままでは、帝都ごと裂けるであろう。
その言葉の意味が、少しずつ輪郭を持ちはじめている。
路地裏で、夜になると光る影が見える。
川辺で、水が逆流したように跳ねる。
人々の間でささやかれる不安の声。それは、日を追う毎に増えていた。
「橋が落ちたってよ」
「山林火災が増えてるって」
「大きな地震でもくるんじゃねえか?」
帝都のあちこちで、異変が積み重なっていく。
このまま放っておいたら、もっと大きなことが起こる。そんな不安が、胸の奥にじわりと広がった。知らず、指先に力がこもる。
そのとき、廊下の向こうから声がした。
「小姫、いる? 入るよ」
こちらの返事を待たず、襖が開く。
いかにも不機嫌そうな表情の瑠生が姿を見せた。
「俥の準備ができたみたい」
「分かったわ。行きましょう」
「本当に、動いて大丈夫?」
「大丈夫だってば」
「……ならいいけど」
腕を振り上げてみせても、短く答える声はどこか硬い。
あの日以来、瑠生は以前にも増して過保護になってしまった。それでも、小姫を止めることはできないと諦めたのか、無理に行動を抑え込もうとはしてこない。
「本当は、二度と小姫を関わらせたくないのだけれど、なにを言っても効果がないからね」
「分かってるじゃない」
「その代わり、絶対に僕から離れないでね」
* * *
翠柳堂の二階へ集まった面々は、揃って難しい顔をしていた。
「こないだの小鬼、噛むわ引っ掻くわで捕まえるの大変だったな」
「泣き女を宥めるのも苦労したよ。泣きながら襲いかかってくるんだもん」
ため息をつく武の腕は傷だらけで、朔耶の顔にも疲れが浮かんでいる。
これまでは大きな混乱もなく封印ができていたけれど、最近、妖精たちの様子が目に見えておかしい。比較的穏やかな性質の妖精までも、見境なく暴れているようだった。
「私の能力で集まった妖精たちの話をまとめると、どうやら一部の妖精が凶暴化しているようです。最近の自然災害は、どうやらその妖精たちの影響が強いそうで……」
環の言葉に、タビも尻尾を揺らして頷く。
「うん。小豆洗いのおじいちゃんが、水が枯れてこまってたよ」
「小豆洗い⁉︎ どこにいるの⁉︎」
「きしたにさんちの井戸」
「どこのキシタニサン⁉︎」
ノアが食い気味に詰め寄ると、タビはうるさそうに耳を伏せた。
「妖怪はシャイなコが多くて、なかなか姿を見せてくれないんだ。今度紹介して!」
「きがむいたらね」
あっさりと受け流され、ノアが「ええー⁉︎」と叫ぶなか、晋一朗が顔をしかめた。
「妖精界の異常が、こちら側へ影響を及ぼしはじめているのだろうか」
「人面樹さんは、このままでは帝都ごと裂けると言っていたけれど……」
小姫が思い返すように言うと、室内がしんと静まりかえる。
晋一朗は、文机に広げられた地図へ視線を落とした。
「被害状況を確認して、暴走した妖精を封印しながら、地道に異変の原因を探るしかないか」
「よし! じゃあいつもの、いってみよー!」
ノアの明るい声に、空気がやわらぐ。
小姫は賽子を取り出して、ぽいっと畳へ放った。ころり、と小さな音を立てて転がる。
淡い光を帯びた賽子が止まった瞬間、ノアの手のひらに『Ⅱ』の紋様が浮かび、一瞬のうちに大きな狼が現れた。
「ふふん。こういうコトもあろうかと、今日は破れてもいい服を着てきたもんね」
ぱたぱた揺れる金の尻尾に、タビが目を爛々とさせて飛びかかる。
その姿につられて、小姫はノアに近寄った。
「ノアさん。ひとつお願いがあるのですが」
「なぁに、桜姫」
「私、一度でいいから狼のノアさんを撫で回してみたかったんです!」
「なんだ、そんなこと? いくらでもドーゾ!」
気安く承諾したノアは、その場へどさっと伏せてくれる。
小姫は目を輝かせて、大型犬よりもひと回り大きい狼の首へ抱きついた。
「わぁ〜! モフモフ〜!」
ふわふわの毛皮に顔を埋めて、夢中で毛並みを撫でる。
ふいに、ぐいっと腕を引っ張られた。瑠生が、険しい顔で小姫とノアを引き離す。
「なに? 瑠生もさわりたかった?」
「あのね、小姫。ここにいるのは狼の皮を被った狼なんだよ?」
「どういうこと?」
「いいから離れて」
「えぇ〜⁉」
不満で頬を膨らませる小姫を、晋一朗が半眼で見つめ、瑠生は頭が痛そうに眉間に指を当てた。
「きみは警戒心という言葉を覚えたほうがいいな」
「それについては同感だよ」
「ノアさんは噛まないわよ。ねえ?」
振り返ると、ノアと朔耶に武まで、揃ってけらけら笑っている。
環がため息をつきながら言った。
「しかし、このまま街に出ては騒ぎになってしまいますね」
「情報収集をするなら、やっぱりたま兄の能力がいいわよね」
そう言ってふたたび賽子を転がすと、瑠生の胸のあたりがぼんやりと光った。
「残念。六だった」
「それでしたら……。若、首輪と引紐を具現化できませんか」
「ああ、なるほどね」
犬は放し飼いにされているのが一般的だが、近頃は富裕層の間で、洋犬を繋いで散歩をするのが流行っているらしい。
環が紙とペンを差し出すと、瑠生はさらさらと迷いなく線を引いた。
「首輪と引紐なら簡単だよ。はい」
描き終えた瞬間、線がゆらりと紙面を泳いだ。紙の中から、ツヤツヤした物体が浮かび上がる。やがて全身を現したそれは、すーっと天井まで昇っていった。
「……ゴム風船?」
「あれ、おかしいなぁ」
首をかしげる瑠生の手元を覗き込んだ環の表情が露骨に曇る。
「丸に棒……。これは風船になっても仕方ありませんね」
「誰が判定してるのか知らないけど、感性を疑うね」
「金魚すくいのポイにならなかっただけ、いいのではないですか?」
瑠生が横目で環を睨む。
そのうしろで、朔耶と武が必死に笑いを堪えていた。
帝都の空は、どこか薄暗くなったような気がする。
小姫は窓の外に視線をやり、そっと息をついた。
ふいに、日比谷公園での出来事がよみがえる。
──責任は取る。
晋一朗の声が思い出された。
あのときの彼の顔は、どんな表情をしていただろうか。
「責任を取るって、つまりは、そういうこと……よね?」
偽装のはずの婚約が、ふいに現実味を帯びてくる。
「もしかして、晋一朗さんも──」
そこまで言いかけて、小姫ははっと目を見開いた。
「も、ってなによ、も、って! これじゃまるで……」
まるで、小姫が晋一朗のことを好いているかのようではないか。
その考えは、なんの違和感もなく、小姫の心に染みわたった。
「そっか、私……。晋一朗さんのこと……」
けれど、すぐに心の片隅がすうっと冷える。
無意識に、自分の肩へと手を伸ばした。
晋一朗は真面目な人だ。あの状況で、彼がああ言うのは当然だろう。
傷を負わせたことへの負い目。そして、偽装とはいえ婚約者をこのまま放り出せば、彼個人だけでなく、柳瀬家の体面にも関わる。そういう立場の人なのだ。
胸の奥に浮かびかけていたものを、小姫はそっと押し込めた。
息を整え、窓の外へ視線を戻す。
いまは他に、考えるべきことが山ほどある。
──妖精界が、揺れておる。
ざわめく枝葉。老人のような顔の人面樹は、あのとき確かにそう言っていた。
──このままでは、帝都ごと裂けるであろう。
その言葉の意味が、少しずつ輪郭を持ちはじめている。
路地裏で、夜になると光る影が見える。
川辺で、水が逆流したように跳ねる。
人々の間でささやかれる不安の声。それは、日を追う毎に増えていた。
「橋が落ちたってよ」
「山林火災が増えてるって」
「大きな地震でもくるんじゃねえか?」
帝都のあちこちで、異変が積み重なっていく。
このまま放っておいたら、もっと大きなことが起こる。そんな不安が、胸の奥にじわりと広がった。知らず、指先に力がこもる。
そのとき、廊下の向こうから声がした。
「小姫、いる? 入るよ」
こちらの返事を待たず、襖が開く。
いかにも不機嫌そうな表情の瑠生が姿を見せた。
「俥の準備ができたみたい」
「分かったわ。行きましょう」
「本当に、動いて大丈夫?」
「大丈夫だってば」
「……ならいいけど」
腕を振り上げてみせても、短く答える声はどこか硬い。
あの日以来、瑠生は以前にも増して過保護になってしまった。それでも、小姫を止めることはできないと諦めたのか、無理に行動を抑え込もうとはしてこない。
「本当は、二度と小姫を関わらせたくないのだけれど、なにを言っても効果がないからね」
「分かってるじゃない」
「その代わり、絶対に僕から離れないでね」
* * *
翠柳堂の二階へ集まった面々は、揃って難しい顔をしていた。
「こないだの小鬼、噛むわ引っ掻くわで捕まえるの大変だったな」
「泣き女を宥めるのも苦労したよ。泣きながら襲いかかってくるんだもん」
ため息をつく武の腕は傷だらけで、朔耶の顔にも疲れが浮かんでいる。
これまでは大きな混乱もなく封印ができていたけれど、最近、妖精たちの様子が目に見えておかしい。比較的穏やかな性質の妖精までも、見境なく暴れているようだった。
「私の能力で集まった妖精たちの話をまとめると、どうやら一部の妖精が凶暴化しているようです。最近の自然災害は、どうやらその妖精たちの影響が強いそうで……」
環の言葉に、タビも尻尾を揺らして頷く。
「うん。小豆洗いのおじいちゃんが、水が枯れてこまってたよ」
「小豆洗い⁉︎ どこにいるの⁉︎」
「きしたにさんちの井戸」
「どこのキシタニサン⁉︎」
ノアが食い気味に詰め寄ると、タビはうるさそうに耳を伏せた。
「妖怪はシャイなコが多くて、なかなか姿を見せてくれないんだ。今度紹介して!」
「きがむいたらね」
あっさりと受け流され、ノアが「ええー⁉︎」と叫ぶなか、晋一朗が顔をしかめた。
「妖精界の異常が、こちら側へ影響を及ぼしはじめているのだろうか」
「人面樹さんは、このままでは帝都ごと裂けると言っていたけれど……」
小姫が思い返すように言うと、室内がしんと静まりかえる。
晋一朗は、文机に広げられた地図へ視線を落とした。
「被害状況を確認して、暴走した妖精を封印しながら、地道に異変の原因を探るしかないか」
「よし! じゃあいつもの、いってみよー!」
ノアの明るい声に、空気がやわらぐ。
小姫は賽子を取り出して、ぽいっと畳へ放った。ころり、と小さな音を立てて転がる。
淡い光を帯びた賽子が止まった瞬間、ノアの手のひらに『Ⅱ』の紋様が浮かび、一瞬のうちに大きな狼が現れた。
「ふふん。こういうコトもあろうかと、今日は破れてもいい服を着てきたもんね」
ぱたぱた揺れる金の尻尾に、タビが目を爛々とさせて飛びかかる。
その姿につられて、小姫はノアに近寄った。
「ノアさん。ひとつお願いがあるのですが」
「なぁに、桜姫」
「私、一度でいいから狼のノアさんを撫で回してみたかったんです!」
「なんだ、そんなこと? いくらでもドーゾ!」
気安く承諾したノアは、その場へどさっと伏せてくれる。
小姫は目を輝かせて、大型犬よりもひと回り大きい狼の首へ抱きついた。
「わぁ〜! モフモフ〜!」
ふわふわの毛皮に顔を埋めて、夢中で毛並みを撫でる。
ふいに、ぐいっと腕を引っ張られた。瑠生が、険しい顔で小姫とノアを引き離す。
「なに? 瑠生もさわりたかった?」
「あのね、小姫。ここにいるのは狼の皮を被った狼なんだよ?」
「どういうこと?」
「いいから離れて」
「えぇ〜⁉」
不満で頬を膨らませる小姫を、晋一朗が半眼で見つめ、瑠生は頭が痛そうに眉間に指を当てた。
「きみは警戒心という言葉を覚えたほうがいいな」
「それについては同感だよ」
「ノアさんは噛まないわよ。ねえ?」
振り返ると、ノアと朔耶に武まで、揃ってけらけら笑っている。
環がため息をつきながら言った。
「しかし、このまま街に出ては騒ぎになってしまいますね」
「情報収集をするなら、やっぱりたま兄の能力がいいわよね」
そう言ってふたたび賽子を転がすと、瑠生の胸のあたりがぼんやりと光った。
「残念。六だった」
「それでしたら……。若、首輪と引紐を具現化できませんか」
「ああ、なるほどね」
犬は放し飼いにされているのが一般的だが、近頃は富裕層の間で、洋犬を繋いで散歩をするのが流行っているらしい。
環が紙とペンを差し出すと、瑠生はさらさらと迷いなく線を引いた。
「首輪と引紐なら簡単だよ。はい」
描き終えた瞬間、線がゆらりと紙面を泳いだ。紙の中から、ツヤツヤした物体が浮かび上がる。やがて全身を現したそれは、すーっと天井まで昇っていった。
「……ゴム風船?」
「あれ、おかしいなぁ」
首をかしげる瑠生の手元を覗き込んだ環の表情が露骨に曇る。
「丸に棒……。これは風船になっても仕方ありませんね」
「誰が判定してるのか知らないけど、感性を疑うね」
「金魚すくいのポイにならなかっただけ、いいのではないですか?」
瑠生が横目で環を睨む。
そのうしろで、朔耶と武が必死に笑いを堪えていた。
