大正妖精綺譚

「誰だ⁉︎」

 武の声に、全員が弾かれたように顔を上げた。
 小姫が寄りかかっていた大樹の幹が、ゆっくりと波打つように軋む。
 やがて、ごつごつとした樹皮の表面に、皺だらけの老人の顔が浮かび上がった。

「お嬢さん、大丈夫かい」
「……妖精?」

 肩の痛みに呼吸を乱しながら、小姫はぼんやりと大樹を見上げた。
 樹皮に浮かぶ老人の顔が、皺を深めるように笑う。

「人間からは人面樹(じんめんじゅ)と呼ばれておる」
「ボクの国でいう樹人(トレント)か。アナタは日本の妖精──妖怪なんだね」
「樹人とは、ずいぶん洒落た名前だのぅ」

 ノアの言葉に感心したように返しながら、老いた樹の妖怪は小姫の傷口へと枝を伸ばした。
 晋一朗が、その枝を掴む。

「なにをするつもりだ」
「そう怖い顔をするでない。礼をしたいだけじゃ」
「礼……?」
「赤帽子どもには、ほとほと困っておってなぁ」

 晋一朗はなおも警戒するように人面樹を見据えていたが、やがてゆっくりと手を離した。
 同時に、小姫の肩へ絡みついていた影が、さらさらと霧散していく。
 伸びた枝が小姫の腕をそっと包み、かさりと葉擦れの音が響くと、枝先が淡く光った。

「あ……」

 灼けるような痛みが少しずつ遠のいて、熱が鎮まる。
 やがて光が消え、するすると枝が離れた。
 小姫は自分の肩へ触れ、着物の袖を捲った。ざっくりと裂けていたはずの傷口が、綺麗に塞がっている。

「すごい。治ってる……」

 しかし、ほっと息をついた小姫とは対照的に、晋一朗は硬い表情のまま、その腕を見つめていた。

「痕は……、消せないのか?」

 小姫の肌には、肩口から腕にかけて、生々しい傷痕が残っていた。
 低く押し殺した声に、人面樹は申し訳なさそうに枝葉を揺らす。

「傷を塞ぐだけで精一杯じゃった。すまんのぅ、お嬢さん」
「そんな! 治療していただいてありがとうございます。……傷痕は、勲章とでも思いますわ」
「おお、逞しい」

 小姫が笑いかけると、人面樹も安心したように笑顔をみせた。
 一方で、晋一朗は険しい表情を崩さない。

「……俺のせいだ」
「え?」
「かばいきれなかった。すまない」

 唇を引き結んだ顔に、小姫は驚いて首を振った。

「晋一朗さんのせいじゃありません! 油断した私が悪いんです!」
「油断したのはこちらも同じだ。二度もきみに怪我を負わせてしまった」

 晋一朗の視線が、小姫の肩へと落ちる。

「責任は取る」
「……はい?」

 迷いなく言い切られて、小姫は思わず間の抜けた声をあげた。
 ──そのとき。

「ずいぶん勝手なことを言ってくれるね」

 ひやりとした声が、木立の奥から響く。
 振り返ると、瑠生がこちらを見つめていた。静かな声音とは裏腹に、その目には抑えきれない怒りがにじんでいる。

「瑠生……」
「お嬢さま! 血が──」

 環が息を切らしながら駆け寄ってくる。

「治してもらったから、大丈夫。それより、どうしてここに?」
「仕事で近くに来ていたんです。そうしたら突然、妖精たちが現れて、ここまで案内されまして」
「そっか、賽子で五を出しちゃったから……」

 環の能力に惹かれて姿を見せた妖精たちが、異変を察して連れてきてくれたようだ。

「怪我は本当に大丈夫なんですね?」
「うん、大丈──」

 言い終える前に、ぐい、と身体を引き寄せられた。
 背広に血が移るのも構わず、強い力で抱きしめられる。瑠生は、かすかに震えていた。

「小姫……」
「瑠生、大丈夫。大丈夫だから……」

 落ち着かせるようにぽんぽんと背中を叩きながら、できるだけいつも通りの声で言う。
 抱きしめる力がゆるまったかと思うと、瑠生はゆっくりと顔を上げ、晋一朗を見据えた。
 ぴり、と空気が張り詰める。

「小姫を傷付けておいて、責任は取る? ふざけるな」
「こらこら、喧嘩をするでない」

 のんびりとしたしわがれ声が割って入り、人面樹がわさりと枝葉を揺らした。

「今は人間同士で睨み合っておる場合ではないぞ」
「……どういう意味です?」

 ノアが真剣な面持ちで尋ねたとき、ざあ、と強く風が吹いた。
 人面樹の枝葉が一斉にざわめき、湿り気を含んだ風が、冷たく頬を撫でていく。

「妖精界が、揺れておる」

 人面樹の声が低く沈んだ。

「このままでは、帝都ごと裂けるであろう」