大正妖精綺譚

「待ちなさいったら!」

 白い麗糸(レース)の日傘を振り上げ、小姫(こひめ)は公園の芝生の上を駆け抜けた。
 鋭い鉤爪を持った妖精が、木々を飛び回って逃げていく。

「小姫ちゃん!」

 ふっと頭上に影が差し、よく通る凛とした声が降ってきた。
 東屋の屋根の上に、朔耶(さくや)がひらりと舞い降りる。その背中には、純白の翼が広がっていた。

「俺が追いかけるよ!」
「ボクも!」

 地面を蹴って飛び出したのは、大型犬よりも大きな黄金色の狼──ノアだ。

「俺も行きます!」

 (たける)がノアに続いて走り出す。
 小姫はぎゅっと日傘の柄を握りしめた。

「どうしてこんなことに……!」

 ことの発端は、数刻ほど前まで遡る。


     *     *     *


「お綺麗ねぇ」
「お嬢さまのお友達?」
「朔耶さまのご令妹らしいわよ」
「本当⁉︎」

 廊下の向こうから聞こえてくる女中たちのささやき声に、小姫はなんともいえない気持ちで額を押さえた。

「……朔耶くん」
「なぁに?」

 応接間の椅子へ優雅に腰掛けた『令嬢』は、涼しい顔で小首をかしげる。
 薄水色の絽の着物に、白い麗糸の半襟。長い下げ髪は劇団の小道具(かつら)だろうか。硝子玉のついた飾り紐が揺れている。
 顔立ちが整いすぎているせいで、まったく違和感がない。どう見ても、どこか良家のお嬢さまだ。

「その格好はなに?」
「可愛いでしょ?」
「うん、可愛い。……じゃなくて! どうして女の子の姿なの⁉︎ みんなすっかり騙されてるわ」

 思わず声をあげると、朔耶はころころと楽しそうに笑った。

「男の格好だと目立つじゃん? 小姫ちゃん、一応(・・)婚約者いるし」

 一応、と妙に強調され、小姫は「うっ」と呻いた。
 偽装婚約なのだから間違ってはいない。間違ってはいないのだけれど。

「それで、今日はどうしたの? 妖精がいた?」
「違うよー。今日は、デートのお誘いにきたんだ」
「デェト⁉︎」
「たまには気分転換も必要じゃない? 俺──じゃなかった。わたくしと遊びましょ、小姫ちゃん?」

 朔耶は高めの作り声で、にっこりと笑った。

 たしかに、ここ最近は妖精騒ぎに振り回されっぱなしで、ゆっくり街を歩く暇もなかった。喫茶店、新しく出来た雑貨屋、活動写真館。行きたい場所はたくさんある。

「……す、少しだけね?」
「やった!」
「なら、武兄(たけるにい)に俥を頼んでくるわ」
「えー、二人きりがいいなぁ」

 朔耶が唇を尖らせる。

「女の子同士のお出掛けなんだし、問題ないよ」
「う〜ん……」

 いまの朔耶は、どこからどう見ても可愛らしい女の子だ。背も自分より少し高いくらいだし、並んで歩けば姉妹のように見えるかもしれない。

「いい……のかなぁ?」
「お嬢さま」

 悩みながら応接間を出ると、うしろから声がかかる。振り返れば、久子(ひさこ)がにこやかな笑みを浮かべて立っていた。

「お出掛けなさるのでしたら、誰かお連れください」
「別に大丈──」
「武さん」

 有無を言わさず、久子は廊下の向こうへ声を飛ばす。すぐに武が現れた。

「はい」
「お嬢さまが外出されるので、お供なさい」
「分かりました」

 久子に見送られながら、三人揃って玄関に向かった。
 先に草履へ足を通した朔耶が、くるりと振り返る。

「せっかく小姫ちゃんと二人きりになれると思ったのにな。ま、武さんならいっか」
「……すいません、お会いしたことありましたっけ?」

 武は『令嬢』をまじまじと見つめ、困ったように首をかしげた。
 小姫は堪えきれず、ぷっと吹き出す。

「武兄、気付いてないの?」
「え?」

 怪訝そうに眉を寄せる武の顔を、朔耶がくすくす笑いながら上目遣いで見つめた。

「俺だよ、俺」
「おまえ──朔耶か⁉︎」
「あははっ、引っかかった」

 武は目を丸くしたまま、令嬢姿の朔耶を凝視する。

「うわ、まったく気付かなかった。怖ッ!」
「え〜、可愛いって言って?」
「いや、まぁ、可愛いけどよ……」
「へぇ〜。武さんってこういうのが好みなんだ?」

 けらけらと朔耶が笑い、武が「からかうんじゃねえっ!」と大声をあげる。
 そんなやり取りがおかしくて、小姫はくすくすと肩を揺らした。こんなふうに笑ったのは、久しぶりな気がする。
 最近は妖精に振り回されてばかりだったから、こういう時間は貴重だ。
 気付かないうちに張っていた肩の力が、すうっと抜けていくような気がした。

 朔耶が満足そうに袖をひるがえし、くるりとその場で回ってみせる。

「武さんまで騙せるとは思わなかったなぁ」

 揺れる硝子玉を指先で弄びながら、朔耶は楽しそうに目を細めた。

「これなら晋一朗(しんいちろう)さんのことも騙せるかな?」
「それは難しいんじゃないかしら」

 小姫の脳裏に、呆れたようにため息をつく晋一朗の顔が浮かぶ。
 あの人なら、一瞬で朔耶の変装を見抜きそうだ。

「へぇ?」

 朔耶がにやにやと口元をゆるめた。

「ずいぶん信頼してるんだねぇ」
「えっ? 違っ……そういう意味じゃなくて!」

 慌てて否定すると、朔耶はますます面白そうに笑う。

「はいはい、ごちそーさまー」
「朔耶くん!」
「姫さん、顔が赤いぞ」
「武兄まで!」

 二人にからかわれて、小姫は逃げるように歩き出す。

「もうっ、いいから早く行きましょう!」

 背後から、楽しそうな笑い声が追いかけてきた。