大正妖精綺譚

「えっ……?」

 インクがもこりと浮き上がったかと思った、次の瞬間。
 紙の中から、もぞもぞと黒いなにかが這い出してきた。べちょり、と机に落ちたそれは、ぎこちなく首をもたげて「ギニョワァアォワァァァ〜」と鳴き声をあげる。

「キャーッ⁉︎」

 異形の登場に、小姫は思わず悲鳴をあげた。
 武がしっしと手を振って追い払おうとするが、黒い塊は五本足で机の上を這い回り、じりじりとこちらに近付いてくる。

「さすがにあれは妖精じゃないよな⁉︎」
「もしかして──」

 自分の思い付きを確かめるため、小姫は瑠生のほうを振り返った。
 小姫の視線に気が付いた瑠生が、手に持つ紙と黒い塊を見比べて、得心したように頷いた。

「なるほど。僕は『絵を具現化する』能力を授かったようだね」
「とても強力な力、ですね……?」

 環の感心半分呆れ半分の声に、小姫はがっくりと肩を落とした。

「絵が上手ければ、の話だけどね」

 机の上では、タビがタビもどきを前脚でてしてしと叩こうとして、タビもどきに「ギョワァ」と抗議されている。
 瑠生が不思議そうに首をかしげた。

「特徴は捉えていると思うんだけど」
「どこが⁉︎」
「黒いところとか」

 小姫は思わず、額を押さえてため息をついた。

「瑠生、ためしにお花を描いてくれない?」
「いいよ」

 瑠生は新しく紙を取り、すらすらとペンを走らせる。数秒もしないうちに描き上げると、小姫に向かって差し出した。

「はい、どうぞ」
「……なにこれ」

 小姫が想像していたのは、花びらが四枚の記号化された花の絵だ。けれど、紙に描かれていたのは、ぐしゃぐしゃと丸まった黒い線の集合体だった。それがふわりと揺らいだかと思うと、綿埃のようなものがぽろりと紙の中からこぼれ落ちた。
 指先でつまみ上げて、まじまじと眺める。そして、先程とまったく同じ事を口にした。

「……なにこれ」
「薔薇だよ」
「どうしてわざわざ難しいものに挑戦するのよ!」
「小姫に贈るなら薔薇かなって。ああ、桜のほうがよかった?」

 悪びれる様子もなく、瑠生が笑う。
 小姫が顔をしかめていると、環が眼鏡の縁を押さえながら、綿埃めいた薔薇を覗き込んだ。

「描き手本人の『意識』ではなく、あくまで『描写』が反映されるようですね」
「瑠生が薔薇のつもりで描いていても、絵がこれ(・・)だから綿埃として具現化されてしまうのね」
「残念ながら……」

 せっかく良い能力を手に入れたのに、もったいない。
 瑠生が自分が描いた薔薇もどきを見ながら、顎に手を添えた。

「複雑なものほど、再現が難しいということだね」
「いえ。若さまの画力が壊滅的なんです」

 環の遠慮のない言葉に、瑠生が眉をひそめる。

「そこまで言う?」
「事実ですので」

 武がタビもどきをつつきながら、「でも」と口を挟んだ。

「うまく使えば、かなり便利っすよね」

 タビもどきが「ギョギョ」と鳴きながら武から逃げるのを、本物のタビが追いかけた。いつの間に打ち解けたのか、じゃれ合って遊んでいる。

「妖精を捕まえるときに使えそうな道具とか、描けたりしません?」
「単純な形状のものから練習しましょう。若さま、虫取り網を描いてみてください」

 瑠生の画力がどこまで通用するのか。
 検証実験がはじまりかけた、そのとき。
 ふっ、と瑠生の胸元で淡く灯っていた紫の光が、音もなく消えた。
 同時に、机の上を駆け回っていたタビもどきの輪郭がぶわりと崩れる。

「ギュゥゥ……」

 黒い塊は数歩よろめき、ぱちん、と弾けるようにして消えた。薔薇もどきも形を失い、机には散らばった黒いインクの染みだけが残った。しん、と部屋が静まりかえる。
 タビがぽかんとした顔で机を見つめて、インク跡を名残惜しそうに引っ掻いた。

「……きえちゃったぁ」
「時間制限があるんだね」

 自分の胸元を確認して、瑠生が言う。

「従者の紋様が消えると、能力も効果を失うのか」
「そうみたい。けれど、どのくらい持続するのか、いまいち分からないのよね」

 何度か能力を使っているが、効果の持続時間はまちまちだ。
 付与される能力が無作為なように、使える時間もその時々で違うのかもしれない。

「せっかく面白くなってきたのにな」

 武が残念そうに笑って、机に肘をついた。

「髙澤くん、腕にインクがつきますよ」
「うおっ、危ねぇ」

 環がてきぱきとインク染みを布で拭き取る。
 小姫はそれを眺めながら、深々とため息をついた。

「……まずは、絵の練習が必要ね」