新聞社や時計店など、煉瓦造りの建物が立ち並ぶ大通りを抜けて少しすると、木造の商店が軒を連ねる路地にたどり着く。酒屋に菓子屋、金物屋など、表通りと比べると、よほど身近な風景だ。
一心地ついた気がして背もたれに身を預けたとき、見覚えのない看板が目に留まった。『翠柳堂』と書かれている。様々な色の硝子を贅沢に使ったそれは、日の光を受けてきらきらと輝いていた。
「待って、武兄」
「どうした?」
看板の美しさにつられて、小姫は思わず口を開いた。
「あそこ、なんのお店か知ってる?」
走りを止めた武が、店先を一瞥して振り返る。
「ああ、最近できた骨董屋だな。舶来品を扱ってるって聞きやしたぜ」
「へぇ……」
異国の文化にあまり馴染みのない小姫には、どういった品が並んでいるのか、いまいち想像が及ばない。
首をひねっていると、武がだらしなく頬をゆるませた。
「えらい別嬪の女主人がいるって噂でさァ」
「もう、そんなことばっかり」
呆れて言うと、武はどこか嬉しそうにニッと笑う。
「やきもちか〜?」
「そうね。足がなくなったら困るもの」
軽口を返しながらも、小姫は骨董屋から目が離せなくなっていた。自分には縁のない店であるのに、どうしてか強く心惹かれる。
すると、武が路肩に俥を寄せて、梶棒を下ろした。
「少しだけですよ」
「いいの? ありがとう!」
小姫の好奇心は、すっかり見透かされていたらしい。
心がはやり、踏み台が用意されるのも待たず、小姫は座席から飛び降りた。
「姫さん⁉︎」
踏み台を放り投げ慌てて身構えた武の両腕の間に、かろやかに着地を決める。得意げに見上げると、武は行き場を失った腕を震わせて眉を吊り上げていた。
「危ないことすんなっていつも言ってんだろ!」
「運動は得意なの知ってるでしょ? じゃ、いってきまーす!」
小言を軽く聞き流して駆け出す小姫を、武は苦笑しながら見送った。
「ったく、いつまでたってもお転婆だな」
「ごめんくださーい……」
軋む扉をそっと開くと、カランと頭上で音がした。
沓摺をまたいで店の中に入ると、西洋風の時計に洋燈、不思議な意匠の家具、欧文の書物や雑貨などが所狭しと並んでいた。
噂の女主人の姿は見あたらない。
ふと、洋装の観音さまのような女性像に目が留まる。小姫は思わず感嘆のため息をついた。
「綺麗……」
「──誰?」
背後から聞こえた声に驚いて振り返ると、奥の長椅子から、仕立ての良い青磁色の着流し姿の青年が、あくびを噛み殺すようにして起き上がった。羽織を枕にくつろいでいたらしい。
羽二重の頬に、濡羽色の髪がさらりとこぼれる。
良く言えば繊細、悪く言えば神経質そうな顔立ち。どこか能面のように見えるその青年は、小姫を一瞥すると、面倒臭そうに言い放った。
「なんの用? この店、きみのような若者向けの品物は置いてないよ」
「なっ……」
言外に「客でないなら帰れ」と匂わされた気がして、思わず眉をひそめる。けれど、ひやかしであることに変わりはない。
おとなしく立ち去ろうとしたとき、鋳物の呼び鈴が、ふたたびカランと音を立てた。
武が来たのかと顔を向けた小姫の目に、まぶしい光が射し込んだ。ぱちぱちと瞬きを繰り返していると、今度は耳に明るい声が飛び込んでくる。
「あれ、めずらしいね。お客サンだ~!」
金に輝く髪に、新緑のようにさわやかな翠の瞳。
おそろしく背が高く手脚も長い男性が、ひょっこりと姿を現した。高い頬骨にすっと通った鼻梁は、日本人にはないものだ。三つ揃いの背広服をさらりと着こなす西洋人に、小姫の目は釘付けになった。
「きみ、不躾に見過ぎ」
「ご、ごめんなさい」
着流しの男の声に我に返る。
異国の血を引く身内もいるが、こんなに間近で西洋人を見るのははじめてだった。
「フフッ。ボクのコト、そんなに気になる?」
「はい! あっ……」
にこやかに問われ、つい首を縦に振ってしまう。気恥ずかしさにうつむくと、着流しの男が呆れまじりの息をついた。
「きみねぇ……」
「だって、すっごく綺麗なんだもの! 髪はお天道さまの色だし、瞳はまるで宝石みたい! とっても素敵!」
勢い込んで告げる小姫に、金髪の男は少し驚いた顔をしたが、徐々に面白そうな表情に変わる。
「そんなふうに言ってくれるなんて嬉しいな。ありがとう、お嬢サン」
流暢に日本語を操る金髪の男は、小姫の手を優しく取って引き寄せると、甲に軽く唇で触れた。
「わぁっ⁉︎」
西洋式の挨拶は心得ていたけれど、実際にされるのははじめてだ。
驚いて手を引っ込めようとするが、思いのほかしっかりと掴まれていて離せない。指先から熱が伝わってきて、なんだかどきどきしてしまう。
「ボクはNoah Grenville。コッチの無愛想なのは晋一朗っていうんだ。キミは?」
「え、えっと……」
小姫が言葉に詰まっていると、晋一朗と呼ばれた男が「おい」と口を開いた。
「いつまで手を握っているつもりだ」
「バレたか。ゴメンね、嬉しくてつい」
ノアと名乗った男は、悪びれるふうもなく微笑んで、小姫の手をそっと離した。
本人にそのつもりはないのだろうけれど、晋一朗からの思わぬ助け船にほっとしながら、小姫は自由になった右手を左手で包んだ。なんだかとても気恥ずかしい。
「それで、キミの名前はなんていうの?」
「申し遅れました。私、櫻宮小姫と申します」
この辺りの地主とあって、櫻宮の名前はそれなりに有名だ。今さらだけれど精一杯取り繕ってそれらしく挨拶をしてみせると、晋一朗の眉がピクリと動いた。
「櫻宮商会の……?」
「そうですが」
途端、晋一朗が不愉快そうに顔をしかめた。
小姫がその理由を問うより先に、ノアがはしゃいだ声をあげる。
「Princess of Cherry Blossoms! キミかぁ!」
「ぷりん……? ええと、私のことをご存知で?」
どこかで会ったことがあるだろうかと首をひねるが、一瞬でその考えを打ち消した。こんなに美しい顔の西洋人、一度見たら忘れるはずがない。
「今日は晋一朗のテーサツにきたの?」
「偵察? どういう意味でしょう」
すると、晋一朗が聞こえよがしに「チッ」と舌を鳴らした。
この男、見た目は品があって育ちが良さそうなのに、どうにも感じが悪い。
さすがにカチンときて、小姫は出入口に足を向ける。
「もう帰ります。お邪魔しましたっ!」
腹立たしさに任せて身を翻したと同時に、袖の袂がなにかに触れた。
しまった、と思ったときにはもう、豪奢な表紙の洋書がドサリと床に落ちていた。
「ごめんなさい!」
慌ててかがみ込んで本に触れた、その刹那────
開かれた頁から、キラキラと光る粒子がふわりと宙へ舞い上がった。
「え……?」
それは次第に勢いを増して、虹色に煌めいたかと思うと、雪崩のように一気に溢れた。
美しくも非現実的な光景に、小姫は息を呑む。
「まずい!」
晋一朗が叫ぶのと同時に、パンッと光彩が部屋中に飛び散る。
なんだか花火みたいだ、と惚けたように眺めていると、小姫の顔の前を、雀ほどの大きさの少女が横切った。その背中には、蜻蛉のような緻密な羽が生えている。
「お人形が飛んでる……」
仏蘭西人形のように美しい少女の背中を追って辺りを見回すと、色とりどりの光の中、半透明の小人や水をまとった馬、帽子をかぶった西洋風な小鬼など、多種多様な生き物がのびのびと辺りを駆け回っていた。
「百鬼夜行……?」
一心地ついた気がして背もたれに身を預けたとき、見覚えのない看板が目に留まった。『翠柳堂』と書かれている。様々な色の硝子を贅沢に使ったそれは、日の光を受けてきらきらと輝いていた。
「待って、武兄」
「どうした?」
看板の美しさにつられて、小姫は思わず口を開いた。
「あそこ、なんのお店か知ってる?」
走りを止めた武が、店先を一瞥して振り返る。
「ああ、最近できた骨董屋だな。舶来品を扱ってるって聞きやしたぜ」
「へぇ……」
異国の文化にあまり馴染みのない小姫には、どういった品が並んでいるのか、いまいち想像が及ばない。
首をひねっていると、武がだらしなく頬をゆるませた。
「えらい別嬪の女主人がいるって噂でさァ」
「もう、そんなことばっかり」
呆れて言うと、武はどこか嬉しそうにニッと笑う。
「やきもちか〜?」
「そうね。足がなくなったら困るもの」
軽口を返しながらも、小姫は骨董屋から目が離せなくなっていた。自分には縁のない店であるのに、どうしてか強く心惹かれる。
すると、武が路肩に俥を寄せて、梶棒を下ろした。
「少しだけですよ」
「いいの? ありがとう!」
小姫の好奇心は、すっかり見透かされていたらしい。
心がはやり、踏み台が用意されるのも待たず、小姫は座席から飛び降りた。
「姫さん⁉︎」
踏み台を放り投げ慌てて身構えた武の両腕の間に、かろやかに着地を決める。得意げに見上げると、武は行き場を失った腕を震わせて眉を吊り上げていた。
「危ないことすんなっていつも言ってんだろ!」
「運動は得意なの知ってるでしょ? じゃ、いってきまーす!」
小言を軽く聞き流して駆け出す小姫を、武は苦笑しながら見送った。
「ったく、いつまでたってもお転婆だな」
「ごめんくださーい……」
軋む扉をそっと開くと、カランと頭上で音がした。
沓摺をまたいで店の中に入ると、西洋風の時計に洋燈、不思議な意匠の家具、欧文の書物や雑貨などが所狭しと並んでいた。
噂の女主人の姿は見あたらない。
ふと、洋装の観音さまのような女性像に目が留まる。小姫は思わず感嘆のため息をついた。
「綺麗……」
「──誰?」
背後から聞こえた声に驚いて振り返ると、奥の長椅子から、仕立ての良い青磁色の着流し姿の青年が、あくびを噛み殺すようにして起き上がった。羽織を枕にくつろいでいたらしい。
羽二重の頬に、濡羽色の髪がさらりとこぼれる。
良く言えば繊細、悪く言えば神経質そうな顔立ち。どこか能面のように見えるその青年は、小姫を一瞥すると、面倒臭そうに言い放った。
「なんの用? この店、きみのような若者向けの品物は置いてないよ」
「なっ……」
言外に「客でないなら帰れ」と匂わされた気がして、思わず眉をひそめる。けれど、ひやかしであることに変わりはない。
おとなしく立ち去ろうとしたとき、鋳物の呼び鈴が、ふたたびカランと音を立てた。
武が来たのかと顔を向けた小姫の目に、まぶしい光が射し込んだ。ぱちぱちと瞬きを繰り返していると、今度は耳に明るい声が飛び込んでくる。
「あれ、めずらしいね。お客サンだ~!」
金に輝く髪に、新緑のようにさわやかな翠の瞳。
おそろしく背が高く手脚も長い男性が、ひょっこりと姿を現した。高い頬骨にすっと通った鼻梁は、日本人にはないものだ。三つ揃いの背広服をさらりと着こなす西洋人に、小姫の目は釘付けになった。
「きみ、不躾に見過ぎ」
「ご、ごめんなさい」
着流しの男の声に我に返る。
異国の血を引く身内もいるが、こんなに間近で西洋人を見るのははじめてだった。
「フフッ。ボクのコト、そんなに気になる?」
「はい! あっ……」
にこやかに問われ、つい首を縦に振ってしまう。気恥ずかしさにうつむくと、着流しの男が呆れまじりの息をついた。
「きみねぇ……」
「だって、すっごく綺麗なんだもの! 髪はお天道さまの色だし、瞳はまるで宝石みたい! とっても素敵!」
勢い込んで告げる小姫に、金髪の男は少し驚いた顔をしたが、徐々に面白そうな表情に変わる。
「そんなふうに言ってくれるなんて嬉しいな。ありがとう、お嬢サン」
流暢に日本語を操る金髪の男は、小姫の手を優しく取って引き寄せると、甲に軽く唇で触れた。
「わぁっ⁉︎」
西洋式の挨拶は心得ていたけれど、実際にされるのははじめてだ。
驚いて手を引っ込めようとするが、思いのほかしっかりと掴まれていて離せない。指先から熱が伝わってきて、なんだかどきどきしてしまう。
「ボクはNoah Grenville。コッチの無愛想なのは晋一朗っていうんだ。キミは?」
「え、えっと……」
小姫が言葉に詰まっていると、晋一朗と呼ばれた男が「おい」と口を開いた。
「いつまで手を握っているつもりだ」
「バレたか。ゴメンね、嬉しくてつい」
ノアと名乗った男は、悪びれるふうもなく微笑んで、小姫の手をそっと離した。
本人にそのつもりはないのだろうけれど、晋一朗からの思わぬ助け船にほっとしながら、小姫は自由になった右手を左手で包んだ。なんだかとても気恥ずかしい。
「それで、キミの名前はなんていうの?」
「申し遅れました。私、櫻宮小姫と申します」
この辺りの地主とあって、櫻宮の名前はそれなりに有名だ。今さらだけれど精一杯取り繕ってそれらしく挨拶をしてみせると、晋一朗の眉がピクリと動いた。
「櫻宮商会の……?」
「そうですが」
途端、晋一朗が不愉快そうに顔をしかめた。
小姫がその理由を問うより先に、ノアがはしゃいだ声をあげる。
「Princess of Cherry Blossoms! キミかぁ!」
「ぷりん……? ええと、私のことをご存知で?」
どこかで会ったことがあるだろうかと首をひねるが、一瞬でその考えを打ち消した。こんなに美しい顔の西洋人、一度見たら忘れるはずがない。
「今日は晋一朗のテーサツにきたの?」
「偵察? どういう意味でしょう」
すると、晋一朗が聞こえよがしに「チッ」と舌を鳴らした。
この男、見た目は品があって育ちが良さそうなのに、どうにも感じが悪い。
さすがにカチンときて、小姫は出入口に足を向ける。
「もう帰ります。お邪魔しましたっ!」
腹立たしさに任せて身を翻したと同時に、袖の袂がなにかに触れた。
しまった、と思ったときにはもう、豪奢な表紙の洋書がドサリと床に落ちていた。
「ごめんなさい!」
慌ててかがみ込んで本に触れた、その刹那────
開かれた頁から、キラキラと光る粒子がふわりと宙へ舞い上がった。
「え……?」
それは次第に勢いを増して、虹色に煌めいたかと思うと、雪崩のように一気に溢れた。
美しくも非現実的な光景に、小姫は息を呑む。
「まずい!」
晋一朗が叫ぶのと同時に、パンッと光彩が部屋中に飛び散る。
なんだか花火みたいだ、と惚けたように眺めていると、小姫の顔の前を、雀ほどの大きさの少女が横切った。その背中には、蜻蛉のような緻密な羽が生えている。
「お人形が飛んでる……」
仏蘭西人形のように美しい少女の背中を追って辺りを見回すと、色とりどりの光の中、半透明の小人や水をまとった馬、帽子をかぶった西洋風な小鬼など、多種多様な生き物がのびのびと辺りを駆け回っていた。
「百鬼夜行……?」
