大正妖精綺譚

「おいで、小姫(こひめ)
「小姫さん」

 屋敷内へと戻るその手前で、瑠生(るい)晋一朗(しんいちろう)がほとんど同時に手を差し出した。
 左右から伸びる手に、小姫は思わず足を止める。どちらを取るべきか決めかねて視線を行き来させていると、足元に黒い影が飛び込んできた。

「コヒメ!」
「タビ! どうしてここに?」

 勢いよく駆け寄ってきた黒猫の背中には、風呂敷包みがひとつ、しっかりと結びつけられている。
 しゃがみ込んでそれをほどくと、中から現れたのは、見慣れた革張りの魔導書(グリモワール)と、瑠璃色に光る賽子(サイコロ)だった。

「持ってきてくれたのね。ありがとう!」
「たまにぃが、ひつようになるかも、って言ってたよ」

 (たまき)はなにかしらの気配を感じ取ったのかもしれない。それでこうして、タビに魔導具を託してくれたのだろう。
 空になった風呂敷を折ってタビの首にリボン結びをすると、タビは嬉しそうに喉を鳴らした。
 背後から、息を呑む音が聞こえる。

「……タビ?」
「あっ、ルイだ! シンイチローもいる! なにしてるの?」

 タビがひょいと顔を上げる。
 無邪気さにつられたように、瑠生がたじろぎつつ口を開いた。

「なにって、きみこそ……ていうか喋って……」
「おしごと、だよ!」
「これで信じる気になった? 妖精は実在するって」

 得意げに鼻を鳴らすと、瑠生は言葉を失ったように、しばらくタビを見つめていた。



 屋敷内に戻ると、広間はすでに片付けられていた。先程の騒ぎなどなかったかのように、元通り整えられている。

「どこにいるのかしら……」

 さりげなく視線を巡らせて、水色の舞踏服(ドレス)姿を探す。けれども、白玉(しらたま)の姿は見あたらない。
 代わりに目に入るのは、楽しげに談笑する令嬢や、グラスを傾ける紳士たちばかりだ。
 もう帰ってしまったのだろうかと焦りがよぎったとき、瑠生が小さく顎をしゃくった。

「──いたよ」

 人の流れの奥。落ち着いた卓の一角に、視線が吸い寄せられる。
 白峰(しらみね)男爵と、澪子(みおこ)の婚約者。そして、その腕に寄り添うように立つ、少女の姿をした白玉。

「よかった……」

 ところが、ほっと息をついたのも束の間、白峰男爵が席を立った。婚約者もそれに倣い、白玉の肩に手を添える。どうやら、引き上げるつもりのようだ。
 このまま連れて行かれてしまったら、保護するのが難しくなってしまう。

「引き止めなきゃ」

 思わず一歩踏み出すと、瑠生が小姫の手を引いた。
 ぱっと見上げると、瑠生は小さく微笑んで、小姫の手を自分の腕に添えさせる。
 そして、そのまま迷いなく男爵の前へ進み出た。

「白峰男爵」
「ああ、先程はどうも」

 穏やかな笑みで振り返る男爵に、小姫は余所行きの表情を作って静かに頭を下げる。

「先程はお恥ずかしいところをお見せして、失礼いたしました」
「男には宴席の付き合いもありますからな。少しくらいは目をつぶっておあげなさい」
「ええ、ごもっともでございますわ」

 胸の内でべーっと舌を出しながら、にっこりと微笑む。そして、さりげなく白玉へと視線を向けて、持っている魔導書を指先で叩いた。
 白玉がこくりと小さく頷いたとき、音楽が切り替わり、軽やかな円舞曲(ワルツ)が流れはじめた。

「晋一朗くんと踊ってきたらどうだい?」

 微笑んではいるけれど、瑠生の声音にはあからさまに不満がにじんでいる。
 思わず笑いそうになるのをかろうじで堪え、小姫は瑠生の腕から手を離した。

「ええ、仲直りにちょうどいいですわ。白峰さま、失礼いたします」

 小さく頭を下げて、くるりと振り返る。
 少し後ろにいた晋一朗が、すぐに手を差し出した。

「また踊ることになるとはな」

 晋一朗に手を引かれ、自然な足取りで輪の中へと滑り込む。
 ぐっと腰を引き寄せられて、小姫は思わずうろたえた。

「ちょ、近い……!」
「本が見えないようにするためだ。そのまま開け。落とすなよ」

 すぐ近くで囁かれる声。逃げ場のない距離に、一瞬心臓が跳ねる。
 晋一朗の胸元に隠れる形で、小姫はそっと魔導書を開いた。

 人の流れがゆるやかにほどけ、ふたたび輪を描いていく。
 その向こうで、白玉たちの姿がわずかに動いた。出口へ向かうようだ。

 流れに身を任せ、くるくると回る。
 やがて軌道が重なり、すれ違った──その瞬間。
 小姫は息を潜め、わずかに唇を動かした。

「此の書に憩い、暫しの安らぎを得よ。時満ちるとき、然るべき処へ還さん……」

 真っ白の(ページ)が、かすかに光を帯びる。淡い光がふわりと溢れ、その輝きが糸のように白玉の身体を包み込んだ。
 そして、瞬きほどの間に、水色の舞踏服の少女は音もなくふつりと消えた。

 途切れることなく続く円舞曲。
 小姫は紙面に写し取られた白玉の頭をそっと撫でた。本を閉じ、なにごともなかった様子で足を運ぶ。

「澪子……?」

 はじめに気が付いたのは、白峰男爵のようだ。
 目を離した一瞬の隙に澪子の姿がかき消え、戸惑いの声をあげている。

「澪子はどこへ行った⁉︎」
「またですか。よほど私との婚姻がお嫌らしい」
「馬鹿な。あれにそんな意識があるものか」

 ざわ、と広間の空気が波立った。ささやきは瞬く間に広がり、次第にざわめきへと変わっていく。
 小姫は視線を上げないまま、晋一朗の動きに合わせて一歩引いた。するりと輪から外れ、人の流れに紛れ込む。

「行くぞ」
「ええ」

 背後でざわめきが膨らんでいく。
 振り返ることなく、小姫と晋一朗は広間をあとにした。