「……私、今夜ここを出るつもりなのです」
小さいけれど、どこか決意を含んだ声だった。
「ここ、というのは──」
「東京を出ます。この子を遣わしてくれた方と一緒に」
澪子はぽつぽつと、自分の生い立ちを話し始めた。
「私の父はとても厳格な人間なのです。私は自分の気持ちを表すことも許されず、父の言うまま様々な習い事をこなしてきました。ほとんどを屋敷の中で過ごし、外へ出ることはあっても、決められた場所、決められた時間の中だけ。ずっと家の──父の意向に従ってきました。すべては白峰家のため、より良い縁談のため。いつの間にか、結婚も決まっていたんです。おかしいですよね。私自身のことなのに、私はなにも知らないなんて。それでも、それが当たり前だと思っていました。ですが──」
ざぁっと風が吹いて木々が揺れ、澪子の視線が風の流れを追うように動く。
少し前までおどおどしていた彼女の頬に熱が戻り、ほんのりと赤みが差した。
「彼と出会って、知ってしまった。世界の広さを。誰にも決められない生き方があるのだということを」
その言葉に、小姫の胸の奥が揺れた。
ふいに、幼い頃の記憶が脳裏をかすめる。
薄暗い路地。じめっと濁った空気。空腹を誤魔化すことばかり考え、息を潜めるように過ごしていた日々。是松と出会うまでの、あの頃────
気が付けば、視界がにじんでいた。
つ、と一筋の涙がこぼれる。
「……あ、れ」
思いがけない現象に、自分でも驚く。
「小姫さま?」
「ごめんなさい! さっきの風で、目に埃が……」
慌てて指先で目尻を拭おうとしたとき。
帳が下りるように、視界がすっと暗くなった。
「じっとしていろ」
低い声と同時に、少し硬い布が押し当てられる。
「晋一朗さん……?」
「ハンカチを持っていなかった。我慢してくれ」
押し当てられているのは、どうやら晋一朗の袖のようだ。
「胸に挿しているのは?」
「……あ」
間の抜けた声に、小姫はくすりと笑みをこぼした。
晋一朗のおかげで、胸の奥が少しずつ落ち着いてくる。
そっと袖を押し返すと、晋一朗は無言で手を引いた。
「……彼、というのは、森の精霊のことですか?」
小さく問うと、澪子は静かに頷いた。
「はい。もうすぐ、迎えに来る予定なのです」
そして小姫たちに向き直り、まっすぐ頭を下げた。
「お願いします。私たちのこと、どうか見逃してください」
「澪子さま……」
澪子の腕の中で、白玉が「グルル」と唸る。
白玉は、自分が人々の目を引いているうちに彼女たちを逃そうと、広間で暴れ回っていたのだろう。
「ごめんなさい、白玉。私が邪魔をしてしまったのね」
小姫は一歩距離を詰めて、白玉を抱く澪子の腕にそっと触れた。
「見逃すもなにも、止めるつもりなんてありません。……ちゃんと、自分で決めたんですよね」
「はい」
力強く頷いた澪子に、小姫はにっこりと笑いかける。
「それなら、白玉の代わりに私が広間でひと暴れ──」
「待て」
晋一朗の声が、静かに差し挟まれた。
小姫はちらりと彼を見て、ふっと口元をゆるめる。
「反対するなら、あなたとの婚約は破棄するけれど、よろしいかしら?」
軽い口調で、脅しにならない脅し文句を披露する。
晋一朗は、やれやれといった様子で首を振った。
「……それは困りますね。破棄されては堪らないので、私も協力いたしましょう」
「ふふ。嬉しいわ、晋一朗さん」
晋一朗はフンと鼻を鳴らして、屋敷のほうを振り向いた。
「そろそろ騒ぎが収まりそうだ。森の精霊はいつ──」
そのとき、ふっと風が止んだ。
先程まで木々を揺らしていたざわめきが、嘘のように消える。
次の瞬間。
庭の奥、闇の中に、淡い光がにじみ出た。月明かりとも瓦斯燈とも違う、清らかな光。
それがゆっくりと形を結び、やがて、背の高い人影が現れた。
神秘的な長い白髪。その間から、枝のような角が伸びている。
息を呑むほど端正な顔が、まっすぐに澪子を見た。
「待たせてすまない、澪子」
「来てくれたのね、ゼファー」
澪子の声がかすかに震える。
森の精霊──ゼファーの銀色の目が、すっとこちらへ向けられた。
わずかに細められる瞳。その視線に射抜かれて、小姫は思わず息を詰めた。
同時に、ひゅっと風が走る。
「っ……⁉︎」
一陣の風が、刃のように足元を吹き抜けた。
ゼファーの視線は、明らかに警戒の色を帯びている。邪魔者だと見做されたようだ。
「待って、ゼファー! この方たちは──」
澪子が慌てて踏み出したとき、鋭い声が響いた。
「澪子! どこにいる!」
複数の足音が、こちらへ近づいてくる気配がする。
「お父さま……」
澪子の顔が強張った。
小姫はわずかに息を吸い、晋一朗へ視線を送る。
「ちゃんと付き合ってくださいね」
「嫌な予感しかしないのだが」
「今さらでしょう? ここで引いたら、婚約者失格ですよ」
短く言葉を交わすと、小姫はすぐに澪子を振り返った。
「ここは任せて、隠れてください」
「え、ええ……!」
小さく頷き、澪子たちは急いで木のうしろへと身を寄せる。
隠れるのを見届けるより早く、足音がすぐ近くで止まった。
ゆっくり振り返ると、澪子の父と覚しき年配の男性が立っていた。
その隣にもう一人。婚約者だろうか、澪子の父とそう変わらない年齢の男が並んでいる。
きっと、家同士の結びつきとしては、申し分のない相手なのだろう。
本人同士が望んだ縁であれば、年の差など関係ない。けれど、澪子はなにも知らされていなかった。もしかしたら、今日初めて会ったのかもしれない。当人の気持ちが、まるで置き去りにされている。
こっそり歯噛みしたとき、聞き慣れた声が聞こえた。
「小姫、こんなところにいたのか」
「お兄さま……」
澪子を探しに来た人々の中に、瑠生の姿があった。
呼びかける声に力を込めると、瑠生の目がかすかに細められる。
「なにかあったのですか?」
「きみたち、水色の舞踏服を着た娘を見なかったかね。先程の騒ぎに気を取られているうちに、見失ってしまったのだ」
澪子の父──白峰男爵の問いに、小姫はしれっと首を振った。
「さあ。見ておりませんわ」
そして、わずかに息を吸い込み、ぱっと表情を変えた。
小さいけれど、どこか決意を含んだ声だった。
「ここ、というのは──」
「東京を出ます。この子を遣わしてくれた方と一緒に」
澪子はぽつぽつと、自分の生い立ちを話し始めた。
「私の父はとても厳格な人間なのです。私は自分の気持ちを表すことも許されず、父の言うまま様々な習い事をこなしてきました。ほとんどを屋敷の中で過ごし、外へ出ることはあっても、決められた場所、決められた時間の中だけ。ずっと家の──父の意向に従ってきました。すべては白峰家のため、より良い縁談のため。いつの間にか、結婚も決まっていたんです。おかしいですよね。私自身のことなのに、私はなにも知らないなんて。それでも、それが当たり前だと思っていました。ですが──」
ざぁっと風が吹いて木々が揺れ、澪子の視線が風の流れを追うように動く。
少し前までおどおどしていた彼女の頬に熱が戻り、ほんのりと赤みが差した。
「彼と出会って、知ってしまった。世界の広さを。誰にも決められない生き方があるのだということを」
その言葉に、小姫の胸の奥が揺れた。
ふいに、幼い頃の記憶が脳裏をかすめる。
薄暗い路地。じめっと濁った空気。空腹を誤魔化すことばかり考え、息を潜めるように過ごしていた日々。是松と出会うまでの、あの頃────
気が付けば、視界がにじんでいた。
つ、と一筋の涙がこぼれる。
「……あ、れ」
思いがけない現象に、自分でも驚く。
「小姫さま?」
「ごめんなさい! さっきの風で、目に埃が……」
慌てて指先で目尻を拭おうとしたとき。
帳が下りるように、視界がすっと暗くなった。
「じっとしていろ」
低い声と同時に、少し硬い布が押し当てられる。
「晋一朗さん……?」
「ハンカチを持っていなかった。我慢してくれ」
押し当てられているのは、どうやら晋一朗の袖のようだ。
「胸に挿しているのは?」
「……あ」
間の抜けた声に、小姫はくすりと笑みをこぼした。
晋一朗のおかげで、胸の奥が少しずつ落ち着いてくる。
そっと袖を押し返すと、晋一朗は無言で手を引いた。
「……彼、というのは、森の精霊のことですか?」
小さく問うと、澪子は静かに頷いた。
「はい。もうすぐ、迎えに来る予定なのです」
そして小姫たちに向き直り、まっすぐ頭を下げた。
「お願いします。私たちのこと、どうか見逃してください」
「澪子さま……」
澪子の腕の中で、白玉が「グルル」と唸る。
白玉は、自分が人々の目を引いているうちに彼女たちを逃そうと、広間で暴れ回っていたのだろう。
「ごめんなさい、白玉。私が邪魔をしてしまったのね」
小姫は一歩距離を詰めて、白玉を抱く澪子の腕にそっと触れた。
「見逃すもなにも、止めるつもりなんてありません。……ちゃんと、自分で決めたんですよね」
「はい」
力強く頷いた澪子に、小姫はにっこりと笑いかける。
「それなら、白玉の代わりに私が広間でひと暴れ──」
「待て」
晋一朗の声が、静かに差し挟まれた。
小姫はちらりと彼を見て、ふっと口元をゆるめる。
「反対するなら、あなたとの婚約は破棄するけれど、よろしいかしら?」
軽い口調で、脅しにならない脅し文句を披露する。
晋一朗は、やれやれといった様子で首を振った。
「……それは困りますね。破棄されては堪らないので、私も協力いたしましょう」
「ふふ。嬉しいわ、晋一朗さん」
晋一朗はフンと鼻を鳴らして、屋敷のほうを振り向いた。
「そろそろ騒ぎが収まりそうだ。森の精霊はいつ──」
そのとき、ふっと風が止んだ。
先程まで木々を揺らしていたざわめきが、嘘のように消える。
次の瞬間。
庭の奥、闇の中に、淡い光がにじみ出た。月明かりとも瓦斯燈とも違う、清らかな光。
それがゆっくりと形を結び、やがて、背の高い人影が現れた。
神秘的な長い白髪。その間から、枝のような角が伸びている。
息を呑むほど端正な顔が、まっすぐに澪子を見た。
「待たせてすまない、澪子」
「来てくれたのね、ゼファー」
澪子の声がかすかに震える。
森の精霊──ゼファーの銀色の目が、すっとこちらへ向けられた。
わずかに細められる瞳。その視線に射抜かれて、小姫は思わず息を詰めた。
同時に、ひゅっと風が走る。
「っ……⁉︎」
一陣の風が、刃のように足元を吹き抜けた。
ゼファーの視線は、明らかに警戒の色を帯びている。邪魔者だと見做されたようだ。
「待って、ゼファー! この方たちは──」
澪子が慌てて踏み出したとき、鋭い声が響いた。
「澪子! どこにいる!」
複数の足音が、こちらへ近づいてくる気配がする。
「お父さま……」
澪子の顔が強張った。
小姫はわずかに息を吸い、晋一朗へ視線を送る。
「ちゃんと付き合ってくださいね」
「嫌な予感しかしないのだが」
「今さらでしょう? ここで引いたら、婚約者失格ですよ」
短く言葉を交わすと、小姫はすぐに澪子を振り返った。
「ここは任せて、隠れてください」
「え、ええ……!」
小さく頷き、澪子たちは急いで木のうしろへと身を寄せる。
隠れるのを見届けるより早く、足音がすぐ近くで止まった。
ゆっくり振り返ると、澪子の父と覚しき年配の男性が立っていた。
その隣にもう一人。婚約者だろうか、澪子の父とそう変わらない年齢の男が並んでいる。
きっと、家同士の結びつきとしては、申し分のない相手なのだろう。
本人同士が望んだ縁であれば、年の差など関係ない。けれど、澪子はなにも知らされていなかった。もしかしたら、今日初めて会ったのかもしれない。当人の気持ちが、まるで置き去りにされている。
こっそり歯噛みしたとき、聞き慣れた声が聞こえた。
「小姫、こんなところにいたのか」
「お兄さま……」
澪子を探しに来た人々の中に、瑠生の姿があった。
呼びかける声に力を込めると、瑠生の目がかすかに細められる。
「なにかあったのですか?」
「きみたち、水色の舞踏服を着た娘を見なかったかね。先程の騒ぎに気を取られているうちに、見失ってしまったのだ」
澪子の父──白峰男爵の問いに、小姫はしれっと首を振った。
「さあ。見ておりませんわ」
そして、わずかに息を吸い込み、ぱっと表情を変えた。
