大正妖精綺譚

 庭に出ると、風に揺れる木々のさざめきが耳に届いた。夜気に触れた瞬間、こもっていた熱がすうっと引いていく。
 ところどころに立つ瓦斯燈(ガスとう)が、芝生を走る小径にやわらかな光を落としている。等間隔にある植え込みは丁寧に刈り込まれており、庭の片隅には装飾を施された長椅子がひっそりと置かれていた。

「……ここなら大丈夫そうね」

 小姫は鼬を掴んでいた手を離し、舞踏服の足元をふわりとめくった。長靴下(ストッキング)に包まれた脚と靴下留め(ガーター)が、ちらりと覗く。

「おい‼︎」
「え? ……わぁっ⁉︎」

 鋭い声にハッとして、小姫は慌てて裾を下ろした。
 自分が抱きかかえられたままだったことを思い出す。

「ごめんなさい! 早く出してあげなきゃと思って!」
「どうしてそう自分のことには無頓着なんだ……」

 困惑したような声に、さすがに恥ずかしさが募る。
 気まずくなって顔を背けると、生垣の向こうに人影が見えた。
 瓦斯燈の灯りが届くぎりぎりの場所に、ひとりの女性が立っている。落ち着かない様子で辺りを見回し、なにかを探しているようだった。

「あの方、どうしたのかしら」

 小姫が首をかしげるのと同時に、ばさり、と舞踏服の中で鼬が跳ねた。下半身を覆う布が、内側から押し上げられる。

「えっ⁉︎」
「うわっ⁉︎」

 晋一朗が慌てたようにバッと顔を真横にそらした。
 次の瞬間、桜色の布を翻し、白い影が小姫の足元からするりと抜け出す。鼬姿の妖精は、地面を蹴ってそのまま一直線に女性の元へ駆けていった。
 
「追わないと!」

 顔を背けていたからか、晋一朗の反応が一拍遅い。こころなしか、耳が赤くなっているような気がする。
 小姫はぐいと晋一朗のタイを引っ張った。

「晋一朗さん!」
「え? あ、ああ──」

 ギクシャクと返事をした晋一朗がそのまま走り出そうとしたので、小姫はふたたびタイを引っ張る。

「まずは降ろして!」
「そ、そうだな!」

 もたもたしているうちに、鼬は女性の足元へと飛び込んだ。女性はすぐにしゃがみ込み、そっと両手を差し向ける。

「どこに行っていたの?」

 まるで子供をあやすような、やわらかな声。
 鼬は一度だけ小さく鳴くと、そのまま女性の腕の中へ丸く収まる。広間での暴れようが嘘のようにおとなしい。

「あの……」

 ようやく地面に降ろされた小姫は、そっと女性に近付いて声をかけた。
 近くで見ると、小姫と同じくらいの年頃に見える。澄んだ水色の舞踏服は上質な布で仕立てられており、控えめながらも、一目で良家の令嬢と分かる佇まいだ。
 顔を上げた女性の瞳が、ふいに大きく見開かれる。

「……桜の(きみ)!」

 どこか嬉しそうな口振りに、小姫はきょとんと首をかしげた。

「どこかでお目にかかりましたでしょうか?」
「以前、神保町で助けていただきました」
「──あのときの女学生さん!」

 翠柳堂(すいりゅうどう)に立ち寄る前、古書店をひやかしていたときに見かけた女学生だ。
 通りすがりの男にわざと肩を当てられたのを見て、小姫が男に仕返しをしたのである。

「あのときはありがとうございました。胸がスッといたしました! またお会いできるなんて……」
「いやぁ……あはは……」

 お礼を言われるのは嬉しいけれど、あまり褒められたことでもない。
 晋一朗も「なにしたんだこいつ」というような顔でこちらを見ている。
 小姫ははぐらかすように微笑んだ。

「ええと、桜の君というのは?」
「桜色のおリボンをされていたので、勝手ながらそう呼ばせていただいておりました」

 恥ずかしそうに告げられて、なんだか面映ゆい気持ちになった。
 二つ名みたいで格好いい。是松一家を再興できたら名乗ってみるのもいいかもしれない。

「私、櫻宮小姫と申します。こちらは一応、婚約者? の柳瀬晋一朗さんです」
「一応も疑問符も不要ですよ」

 よそ行きの笑顔で晋一朗が言う。

「あなたは、白峰(しらみね)男爵家のご令嬢ではありませんか? 以前、お宅の催しでお見受けしました」
「はい。申し遅れました、白峰澪子(みおこ)でございます」

 丁寧に頭を下げる澪子に、小姫はそっと問いかけた。

「その子は?」
「えっ……?」

 澪子は一瞬警戒したように、鼬を抱く腕に力を込める。が、小姫がにこっと笑ってみせると、ためらいがちに口を開いた。

「……白玉(しらたま)、と呼んでいます」
「可愛い名前! うちにはね、タビっていう黒猫の妖精がいるの」
「黒猫の、妖精……?」

 思わずといった様子でつぶやいた澪子に、小姫は大きく頷いた。

「おはぎかあんこにしようと思っていたのに、父の一存でいまの名前になってしまって」
「まぁ……。あんこでしたら善哉(ぜんざい)が完成しましたのに」
「本当ね!」

 くすくすと笑い合ううちに、張っていた空気がやわらいでいく。

「あの、どうして妖精のことを……」
「近くに専門家がいるんです。ねっ?」

 晋一朗を見上げると、彼は小さく頷いた。
 澪子は少し迷うように視線を落とすと、少しして静かに口を開いた。

「……森の精霊(レーシィ)をご存知でしょうか」

 澪子の問いに、晋一朗が応える。

「森に住むといわれる妖精ですね。身長を自在に操ることができるのだとか」
「もしかして、この子が?」

 小姫が身をかがめて澪子の腕の中を覗き込むと、白玉が「シャーッ」と威嚇の声をあげた。舞踏服に包んで捕獲したことで、すっかり嫌われてしまったらしい。
 澪子が白玉の頭を撫でて落ち着かせる。

「この子はプーカという種族の妖精だそうです」
「プーカは変身能力を持つと聞いたことがありますが──」
「そのようですね。けれど、この子はこの姿がお気に入りのようで、私も変身するところは見たことがないのです」
「そうですか……」

 ちょっとがっかりした様子の晋一朗だったが、すぐに気を取り直して質問を重ねた。

「ところで、森の精霊がどうかしましたか?」
「その……」

 澪子の声がわずかに沈んで、視線が揺れる。白玉がくるりと身をよじって、澪子の指先に頬を寄せた。
 小姫はその様子を見つめながら、そっと告げる。

「無理にお話ししなくても構いませんよ。でも、もし困っていらっしゃるなら、少しだけでもお力になれるかもしれません」
「桜の君……」

 澪子はしばらく逡巡して、それからゆっくりと口を開いた。

「聞いてくださいますか、小姫さま」
「もちろん」