膝の上でそっと指先を組み直しながら、小姫は小さく息をはいた。
着慣れない服に、履き慣れない靴。
淡い桜色のやわらかな布地が幾重にも重なった舞踏服が、動くたびにふわりと揺れる。
首や腕を露出しているせいで、どうにも落ち着かない。
綺麗だとは思うけれど、これを着て人前に出るのかと思うと、妙にそわそわしてしまう。
「その舞踏服、よく似合っているよ」
顔を上げると、隣に座る瑠生と目が合った。黒の燕尾服姿が、やけに様になっている。身内ながら、思わず見惚れてしまいそうだった。
「やっぱり小姫は桜色が似合うね」
「櫻宮だからって、桜色ばかり着せるのはどうかと思う」
ふてくされながら言うと、瑠生はくすりと笑った。
「僕のタイも桜色にすればよかったかな」
やがて、二人を乗せた車はゆるやかに速度を落とし、煉瓦造りの洋館の前で静かに止まった。
「着いたみたいだね」
本来なら、父が出席するはずだった慈善パーティー。
今夜はその名代として瑠生が参加し、小姫はその同伴である。
集うのは、裕福な華族や財閥に連なる人たちだ。
正直、憂鬱でならなかった。慈善パーティーなど開いても、本当に困っている者の助けにはならないのに。
「小姫」
先に車を降りた瑠生が、自然な仕草で手を差し出した。
西洋の血を引く瑠生の端正な顔立ちが、こういう場ではいっそう映える。
差し出された手に指先を重ねると、引き上げられるように外へ連れ出され、そのまま腕を取らされた。
視線が集まってくるのが分かる。ひそやかな声が、耳に届いた。
「……あちらが櫻宮の?」
「本当にご兄妹なのかしら」
「ご事情がおありなのでしょう?」
くすくすと笑う気配に、胸の奥がちくりと痛んだ。
聞こえないふりをすればいいだけなのに、どうしても耳に残る。
子供の頃のように言い返すこともできず、行き場のない悔しさが胸に溜まっていく。
ぎゅっ、と舞踏服の布を掴んだとき、瑠生が隣で足を止め、声の方向へ静かに視線を向けた。
「瑠生……?」
やわらかく、非の打ちどころのない微笑み。
それだけで、ささやき合っていた声がぴたりと止まった。気まずそうに視線をそらし、誰もなにも言わなくなる。
「小姫、僕だけを見て。大丈夫だから」
小姫の両頬に手を当てると、言い含めるように瑠生が告げた。
そのまま腰に手を添えられ、導かれるように歩き出す。
正面玄関で招待状を見せ、絨毯の敷き詰められた廊下を進む。大広間の扉が開かれると、光と音楽が一気に溢れた。
管弦楽の旋律に合わせて踊る男女。壁際では、卓を囲んだ人々が談笑している。
まぶしさに思わず目を細めた。
やはり、こういう場は好きになれそうにない。
「少し挨拶をしてくるよ」
瑠生が耳元で低く告げる。
「なら私も──」
「すぐに戻るから、ここで待っていて」
有無を言わせない、やわらかな声音。
腰に添えられていた手が、ゆっくりと離れていく。
「瑠生……」
喧騒の中、燕尾服の背中を見送っていると、ひとり取り残されたような心細さがよぎる。
令嬢としての振る舞いを身に着けるための習い事はしているけれど、所詮は付け焼き刃だ。
ここにいる人たちとは生まれが違う。はじめから裕福で、何不自由なく育ってきた人たちと自分は違う。
仄暗い感情が沸き起こる。
「──だめだめ、しっかりしなくちゃ!」
「お美しいご令嬢」
沈む気持ちを追い出そうと頭を振ったとき、見知らぬ青年に声をかけられた。仕立ての良い洋装に身を包み、どこか気障な笑みを浮かべている。
「お名前をお伺いしても?」
「え……っと……」
慣れた口調。距離の近さに、思わず一歩引く。
「よろしければ、一曲いかがですか」
嫌です、と一刀両断にするわけにもいかず、どう断ろうかと周囲へ目を向けたとき。
見慣れた姿が、迷いなくこちらへ歩いてくるのが見えた。華やかさよりも厳格さの勝る隙のない洋装が、かえってその人らしさを際立たせている。
晋一朗だ。胸の奥が、わずかに浮き立ったような気がした。
「私の婚約者に、なにかご用でしょうか?」
「いえ、声をおかけしただけで……」
「そうですか」
晋一朗の静かな一言に、男は気まずそうに笑って身を引くと、そのまま人々の中へ紛れていった。
「大丈夫か?」
「なにしてるの?」
同時に声が重なって、小姫は思わず目を瞬かせた。
「……困っているように見えたんだが」
少しだけ間を置いて返ってきた答えに、思わず笑みをこぼす。どうやら、わざわざ助けに来てくれたらしい。
「どうやって追い払おうか悩んでいたの。助かったわ。さすが婚約者さま」
「次はおまえの番だ」
「えっ?」
思わず間の抜けた声がもれる。
「一曲、お相手願えますか?」
丁寧な言い回しだけれど、差し出した手も、こちらを見る視線にも、まったく遠慮がない。断るという選択肢が用意されていないのだ。
周りに目を向けると、晋一朗を見つめる瞳の多さに気が付いた。
「そういうことね」
婚約者がいるという、対外的な主張である。
ぽんっと弾みをつけて彼の手を取ると、晋一朗は一瞬、文句を言いたげな顔をした。
いたずらっぽく笑ってみせると、小さく息をついてから、小姫を円舞曲を踊る輪の中へと導く。
くるりと回ると、ふわりと桜色の裾が広がった。
着慣れない服に、履き慣れない靴。
淡い桜色のやわらかな布地が幾重にも重なった舞踏服が、動くたびにふわりと揺れる。
首や腕を露出しているせいで、どうにも落ち着かない。
綺麗だとは思うけれど、これを着て人前に出るのかと思うと、妙にそわそわしてしまう。
「その舞踏服、よく似合っているよ」
顔を上げると、隣に座る瑠生と目が合った。黒の燕尾服姿が、やけに様になっている。身内ながら、思わず見惚れてしまいそうだった。
「やっぱり小姫は桜色が似合うね」
「櫻宮だからって、桜色ばかり着せるのはどうかと思う」
ふてくされながら言うと、瑠生はくすりと笑った。
「僕のタイも桜色にすればよかったかな」
やがて、二人を乗せた車はゆるやかに速度を落とし、煉瓦造りの洋館の前で静かに止まった。
「着いたみたいだね」
本来なら、父が出席するはずだった慈善パーティー。
今夜はその名代として瑠生が参加し、小姫はその同伴である。
集うのは、裕福な華族や財閥に連なる人たちだ。
正直、憂鬱でならなかった。慈善パーティーなど開いても、本当に困っている者の助けにはならないのに。
「小姫」
先に車を降りた瑠生が、自然な仕草で手を差し出した。
西洋の血を引く瑠生の端正な顔立ちが、こういう場ではいっそう映える。
差し出された手に指先を重ねると、引き上げられるように外へ連れ出され、そのまま腕を取らされた。
視線が集まってくるのが分かる。ひそやかな声が、耳に届いた。
「……あちらが櫻宮の?」
「本当にご兄妹なのかしら」
「ご事情がおありなのでしょう?」
くすくすと笑う気配に、胸の奥がちくりと痛んだ。
聞こえないふりをすればいいだけなのに、どうしても耳に残る。
子供の頃のように言い返すこともできず、行き場のない悔しさが胸に溜まっていく。
ぎゅっ、と舞踏服の布を掴んだとき、瑠生が隣で足を止め、声の方向へ静かに視線を向けた。
「瑠生……?」
やわらかく、非の打ちどころのない微笑み。
それだけで、ささやき合っていた声がぴたりと止まった。気まずそうに視線をそらし、誰もなにも言わなくなる。
「小姫、僕だけを見て。大丈夫だから」
小姫の両頬に手を当てると、言い含めるように瑠生が告げた。
そのまま腰に手を添えられ、導かれるように歩き出す。
正面玄関で招待状を見せ、絨毯の敷き詰められた廊下を進む。大広間の扉が開かれると、光と音楽が一気に溢れた。
管弦楽の旋律に合わせて踊る男女。壁際では、卓を囲んだ人々が談笑している。
まぶしさに思わず目を細めた。
やはり、こういう場は好きになれそうにない。
「少し挨拶をしてくるよ」
瑠生が耳元で低く告げる。
「なら私も──」
「すぐに戻るから、ここで待っていて」
有無を言わせない、やわらかな声音。
腰に添えられていた手が、ゆっくりと離れていく。
「瑠生……」
喧騒の中、燕尾服の背中を見送っていると、ひとり取り残されたような心細さがよぎる。
令嬢としての振る舞いを身に着けるための習い事はしているけれど、所詮は付け焼き刃だ。
ここにいる人たちとは生まれが違う。はじめから裕福で、何不自由なく育ってきた人たちと自分は違う。
仄暗い感情が沸き起こる。
「──だめだめ、しっかりしなくちゃ!」
「お美しいご令嬢」
沈む気持ちを追い出そうと頭を振ったとき、見知らぬ青年に声をかけられた。仕立ての良い洋装に身を包み、どこか気障な笑みを浮かべている。
「お名前をお伺いしても?」
「え……っと……」
慣れた口調。距離の近さに、思わず一歩引く。
「よろしければ、一曲いかがですか」
嫌です、と一刀両断にするわけにもいかず、どう断ろうかと周囲へ目を向けたとき。
見慣れた姿が、迷いなくこちらへ歩いてくるのが見えた。華やかさよりも厳格さの勝る隙のない洋装が、かえってその人らしさを際立たせている。
晋一朗だ。胸の奥が、わずかに浮き立ったような気がした。
「私の婚約者に、なにかご用でしょうか?」
「いえ、声をおかけしただけで……」
「そうですか」
晋一朗の静かな一言に、男は気まずそうに笑って身を引くと、そのまま人々の中へ紛れていった。
「大丈夫か?」
「なにしてるの?」
同時に声が重なって、小姫は思わず目を瞬かせた。
「……困っているように見えたんだが」
少しだけ間を置いて返ってきた答えに、思わず笑みをこぼす。どうやら、わざわざ助けに来てくれたらしい。
「どうやって追い払おうか悩んでいたの。助かったわ。さすが婚約者さま」
「次はおまえの番だ」
「えっ?」
思わず間の抜けた声がもれる。
「一曲、お相手願えますか?」
丁寧な言い回しだけれど、差し出した手も、こちらを見る視線にも、まったく遠慮がない。断るという選択肢が用意されていないのだ。
周りに目を向けると、晋一朗を見つめる瞳の多さに気が付いた。
「そういうことね」
婚約者がいるという、対外的な主張である。
ぽんっと弾みをつけて彼の手を取ると、晋一朗は一瞬、文句を言いたげな顔をした。
いたずらっぽく笑ってみせると、小さく息をついてから、小姫を円舞曲を踊る輪の中へと導く。
くるりと回ると、ふわりと桜色の裾が広がった。
