大正妖精綺譚

 小姫は魔導書(グリモワール)を抱えて、部屋の外へ飛び出した。
 小人は迷うことなく廊下を駆け階段を下り、そのまま庭へ続く引き戸の隙間へと消える。
 追いかけて戸を開けると、ひやりとした外気が頬を撫でた。

 夕暮れの庭は、まだわずかに明るさを残している。
 石灯籠の合間を、小さな影がちょろちょろと走っていくのが見えた。

「待ってってば!」
「姫さん! 大丈夫か⁉︎」

 庭の奥に声を投げたとき、背後から聞き慣れた声が飛んできた。
 振り返ると、濃鼠の着物を尻っ端折りにした武が駆け寄ってくるところだった。

「急に力が発動したから、なんかあったのかと……」
「ごめん、間違えて賽子を落としちゃったの。武兄こそ大丈夫だった?」

 そう言って武の手を取ると、てのひらにひとすじ赤い線が入っていた。

「血が出てる!」
「持ってた湯飲みを割っちまってな。たいしたことねえよ」

 急に『怪力』になったせいで、力が制御できなかったのだろう。
 引っ込めようとする武の手をぎゅっと掴んで、懐から出したハンカチを握らせる。

「ちゃんと押さえて」
「こんな上等な布、もったいねえ!」
「こういうときに使うものよ。それより、妖精が現れたの」

 言いながら、小姫は庭の奥へと視線を向けた。
 賽子を持ったままの小人は、皐月の木の根元に身をひそめて、こちらの様子を伺っている。

「小っこいな。弱そうだし、すぐに封印できるんじゃないか?」
「でも、賽子を持っているの。そのまま封印して大丈夫かしら」
「お嬢さま! 髙澤くん!」

 息を弾ませて、タビを抱いた環が駆け寄ってきた。

「タビくんに交渉をお願いしてはどうでしょう」
「長谷川さん」

 迎えに来てもらったときに、武には一通りの事情は伝えてある。武はすぐに環とタビに場所を譲った。
 タビが環の腕からぴょんと降りて、皐月の木にそっと近付く。

「ねえ。それ、かえして?」

 ちょこんと座ったタビに、小人は賽子を抱え直しながら口を動かした。
 小姫には聞き取れなかったが、タビには通じたようだ。ふんふんと頷くと、尻尾を揺らして振り返った。

「かえしたくないって。きらきらしてて気に入ったみたい」
「う〜ん。そっかぁ……」

 交渉の余地はないだろうかと小姫がじっと見つめると、小人はぎゅっと賽子を抱え直してしまう。

「あっ、だめそう」
「でしたら……」

 環がタビの横にそっとしゃがんだ。
 懐から小さな包みを取り出し、するりと紐を解く。すると、中から黄色い金平糖が現れた。環はそれをひとつつまんで、小人へと差し出す。

「こういったものは、お好みでしょうか」

 小人の顔が、ぱっと環を向いた。賽子と金平糖を見比べるように、視線を行き来させている。

「それと交換してください」

 環の言葉を、タビが通訳して小人に伝える。
 小人は少し悩んでから、賽子を環へ差し出した。代わりに金平糖を受け取ると、めずらしげに眺めまわす。しばらくして満足したのか、金平糖から視線を外すと、小人はタビに向かってなにかを伝えた。

「……ふんふん。へぇ。そっかぁ」
「小人さん、なんて言ってるの?」

 小姫の呼びかけにタビが振り向く。金色の瞳が、一瞬、妖しく煌めいて見えた。

「ちかくに、つよい妖精のけはいがするって」
「強い妖精? それって──」

 聞き返そうとしたとき、小人がぴょんと飛んで、小姫の持っていた魔導書に飛び乗った。

「えっ、なに?」
「はやく中に入りたいって」
「そうなの?」

 自分から封印されたがる妖精は初めてだ。
 もっと話を聞きたかったけれど、小人の気が変わる前に、保護したほうがいいかもしれない。
 小姫は本を開いて、小人を空白の(ページ)にそっと乗せた。

「此の書に憩い、暫しの安らぎを得よ。時満ちるとき然るべき処へ還さん」

 丁寧に唱えると、光がゆっくりと広がり、小人の身体を包み込んだ。輪郭がほどけるように揺らぎ、やがて本の中へ吸い込まれていく。魔導書の頁に、新たに金平糖を抱えた小人の姿が写し取られた。

「ふふ。金平糖も一緒に封印されちゃった」

 武と環にも見えるように、小姫は本を持ち上げた。
 環が眼鏡のつるを押さえながら、開いた頁を覗き込む。

「いまのが『封印』ですか。興味深い現象ですね」
「あ、模様が……」

 環の頬に浮かんでいた数字が、すうっと薄れて消えていく。
 身体に浮かび上がった紋様が消えると、能力の効果もなくなるらしいことは、これまでの経験からなんとなく察しがついていた。
 タビが環の足に頭を擦り寄せながら、少し残念そうに言う。

「匂い、うすくなっちゃった」
「能力が発動すると、なにか匂いがするんですか?」
「うん。とってもいい匂いだよ!」
「どんな?」

 気になった小姫は、軽く背伸びをして環の襟元へ顔を寄せた。すん、と軽く息を吸い込む。が、効力が消えたためか、それとも人間には分からないのか、匂いを感じ取ることはできなかった。

「分かんないや」
「お嬢さま!」

 ぴしりと制止の声がする。
 顔を上げると、環がわずかに眉を寄せてこちらを見下ろしていた。

「不用意に近付かれるのはお控えください」
「え? あ、ごめんなさい」

 近付きすぎたかな、と思ったとき、武の大きな手が降ってきた。遠慮のない手つきで頭を撫でられ、軽く前につんのめる。

「武兄! なにするのよ」
「ははは。姫さんは相変わらずだな」
「髙澤くん! 軽率にお嬢さまに触れるんじゃありません!」

 ぴしゃりと武の手を払いのけると、環は小姫に、賽子と金平糖を差し出した。

「残り物で恐縮ですが」
「わぁ、嬉しい。ありが──わっ⁉︎」

 受け取ろうとして、うっかり手を滑らせる。
 金平糖は受け止めることができたものの、賽子が地面に転がり落ちた。

「あーっ‼︎」
「またですか‼︎」
「なんだどうした⁉︎」

 賽子はすぐにぴたりと動きを止めた。出目から水色の光が溢れ出す。

「やっちゃった……」