大正妖精綺譚

 和と洋の文化が溶けあいはじめた時代──大正の帝都東京。

 銘仙の着物に海老茶色の女袴。そして、いくぶん履き込んだ革の編み上げ靴。一目で女学生と分かる出で立ちをした小姫(こひめ)は、髪に飾った桜色のリボンを揺らしながら、颯爽と神保町の大通りを歩いていた。

 道端の街路樹にはうっすら若葉が覗きはじめていて、春先のやわらかな風が心地良い。

 古書店の前で足をゆるめ、店先をひやかそうと覗き込んだ硝子戸に、勝ち気な瞳が映る。
 小さく鼻を鳴らした小姫のうしろを、二人連れの女学生が通り過ぎた。肩を寄せ合うように歩く少女たち。その間を、正面から来た山高帽の男が割って入った。男の肩に押された女学生が、小さく悲鳴をあげてよろける。

「なにあいつ……」

 いくらでも避けられる道幅があるのに、わざとぶつかったとしか思えない。装身具の杖を振り回しながら歩いているところを見ると、掏摸ではなさそうだ。小さな嫌がらせで憂さ晴らしでもしているのだろうか。
 男はそのまま、こちらに向かって歩いてきた。
 小姫は口の端でふっと笑うと、大股で足を踏み出した。わざわざ斜めに寄ってきて肩を突き出した男を半身でかわし、よろけたふりをして鳩尾に重い当身をくらわせる。

「ぐっ……⁉︎」
「きゃっ! 申し訳ございません!」
「き、気を付けたまえ!」

 さっと距離を取り、頭を下げる。
 後ろ暗いところがあるからか、男はそれ以上の文句は言わず、腹をさすりながら逃げるように去っていった。

「フン。そっちこそ気を付けたまえっての!」

 べーっと舌を出して顔を上げると、先程の女学生二人が、驚いた表情で小姫のことを見つめていた。男に制裁を加える瞬間を見られてしまったようだ。

「あ、あはは……」

 苦笑いをしながら手を振ると、少女たちはにこりと微笑み返してくれた。会釈をして立ち去る背中を見送って、小姫はため息をついた。

「またやっちゃった……」

 感情だけで動くな、と家族にはいつも言われている。
 それでも、黙って見過ごすのは嫌だった。
 自分の行いが正義だとは決して思っていないけれど、自分より弱い相手に手を出す輩に仕返しをしてなにが悪い、という思いは少なからずあった。あのような男は口で注意をしたところで、女が意見するのは生意気だと言ってくるのが目に見えているから、つい行動でものを言ってしまったのだ。

「バレたら怒られるだろうなぁ」

 ひとりごちて、ふたたび歩き出そうとした、そのとき。

「姫さん!」

 よく通る声に顔を向けると、正面からガラガラと音を立てて走ってきた人力俥が、小姫の前でぴたりと停まった。

「女中も連れないで、なにしてんです!」
「あ、武兄(たけるにい)

 腹掛と股引をいなせに着こなした青年は、小姫の家のお抱え俥夫、髙澤(たかざわ)(たける)だ。

 六尺(180cm)近い大男で、小麦色に焼けた腕や脚にはしっかりとした筋肉がついている。その恵まれた体躯から、護衛のような役割も担っていた。
 子供の頃から知っている気安さから、小姫は三歳年上の武を兄のように慕っていて、武のほうも、雇用主の娘として一線を保ちながらも、ときおり砕けた態度で接してくれる。

「おっと、外では髙澤って呼ぶ約束ですぜ」
「そっちこそ、外ではお嬢さまって呼ぶんじゃなかったの?」
「いけね、そうだった」

 武の「姫さん」という呼びかけは、「小姫お嬢さん」が簡略化されたあだ名のようなものだ。

「私は別にどちらでもいいのだけど」
「いや、けじめはきちっとつけねえと」
「で、武兄こそこんなところでなにしてるの?」
「だから髙澤ですってェ」

 頑なに言い返しながら、武が人力俥の梶棒を下ろす。

「俺は旦那さまのお言いつけで、お嬢さまを迎えにきたんですよ」
「げっ、お父さま帰ってるの?」
「なんでも、お嬢さまに大事な話があるそうで」

 武が差し出した手を渋々取って、小姫は座席に腰を下ろした。

「どうせまた縁談話でしょ。嫌だって言ってるのに」
「なにがそんなに嫌なんです」

 小姫にぐるぐると毛布を巻き付けながら、武が訊いた。せかせかした動きとは裏腹に、その手つきはとても優しい。

「そんなに縛らなくたって、逃げたりしないよ」
「そんなつもりは! きつかったか⁉」

 慌てて毛布を剥ぎ取ろうとする武を手で制して、小姫はくすっと笑った。なんともからかいがいのある兄貴分だ。

「冗談だって」
「ったく……」

 呆れ顔で支木の内側に入った武が、「動かしますよ」と言って梶棒を持ち上げる。
 座席が水平になり緩やかに走り出すのを待って、小姫は武の背中に話しかけた。

「私の夢は、是松(これまつ)一家を再興させることなの。結婚なんてする暇ないわ」
櫻宮(さくらみや)家のお嬢さまが、なに言ってんです」

 櫻宮家は小姫の父の松蔵(まつぞう)が、戦争特需の不動産業で成功させた、いわゆる土地成金である。
 しかしその前身は、明治の世に名を馳せた義賊『是松一家』だ。悪しきを挫き弱きを助ける庶民の味方で、「是松一家に盗られたのなら名誉と思え」とまで言われた存在だった。
 その親分こそ、小姫の祖父である是松だ。現在は引退し、生まれ故郷の静岡で隠居生活を送っている。

「私はお祖父さまに恩を返したいの」
「お嬢さま……」

 小姫と松蔵の間に、血のつながりはない。
 四谷区の貧民窟で生まれた小姫は、十歳のときに母親を病で失った。賭博で身を持ち崩した父親に売られ、女衒に連れていかれそうになって逃げ出したところを、是松の気まぐれに拾われたのだ。
 是松は小姫を、自身の息子である松蔵の実子という扱いで櫻宮家に迎え入れた。松蔵はすでに妻と死別しており、小姫は庶子とされたが、子供がいなかったためか使用人たちから軽んぜられることなく、むしろ喜んで受け入れられた。

 小姫という名前も、このとき与えられたものだ。

 実父につけられた名前を名乗りたくなくて黙っていると、松蔵が「小さなお姫さまってことで、小姫ってのはどうだい?」と茶目っ気たっぷりに訊いてきた。すんなり受け入れた小姫に、是松は「そんな奇天烈な名前でいいのか」とぶすくれていたが、あとで聞けば、本当は自分が名前をつけたかったらしい。

 はじめは、なにか裏があるのだろうと警戒していた。

 けれど、櫻宮家で過ごすうち、是松が自分を助けたのは、本当にただの気まぐれだったのだと知った。
 自分は運が良かったのだ。本来なら、女衒から逃げ延びたところで野垂れ死んでいたか、捕まって死ぬよりも酷い目にあっていただろう。

 軽快に走る武の背中から目を離して、小姫は流れていく景色に視線を移した。
 都市のめざましい発展の裏には、恩恵を受けることなく取り残された人たちがたくさんいる。
 是松一家を再興させれば、その人たちを救うことができるのではないか。そして、過去の武勇伝を照れくさそうに語る是松を、喜ばせることができるのではないか。

 祖父がかの有名な『是松親分』だと知った日から、小姫はずっと、一家の再興を夢見ていた。