* * *
「たま兄、早く!」
「お嬢さま、待ってください! それと、外では長谷川とお呼びください!」
お目付役の環を連れて、小姫は晋一朗との待ち合わせ場所に急いでいた。
本当は、朔耶を贔屓にしている女中を伴うつもりだったのに、瑠生の横槍が入って環が同行することになったのだ。
「瑠生のせいで遅刻だわ……!」
「開演には間に合いますから、走らないで! 転びますよ!」
環は小姫の五つ上、二十二歳だ。
小姫が引き取られたのと同じ頃、郷里より上京してきて櫻宮家の書生となった。
学業を終えたのちも、櫻宮家に残り瑠生の側近として仕えてくれる予定だという。
「たま兄まで私を子供扱いするんだから!」
「お嬢さま、前!」
「え? ──わぷっ⁉︎」
うしろを見ながら走っていた小姫は、前から来た人の胸に頭から突っ込んでしまった。
「いたた。失礼しまし──」
顔を上げると、すぐ間近に晋一朗の顔があった。
はじめこそ能面のように無表情な男だと思っていたが、能面は角度を変えると豊かな表情が表れるということを、ふいに思い出した。晋一朗もそうだ。下から見上げる表情は、いかにも呆れ顔だった。
「おまえは本当に落ち着きがないな」
「し、晋一朗さん……」
ぶつかった拍子に、腕を支えてくれたらしい。
そっと手を離した晋一朗の視線が、小姫の背後へと流れた。一瞬で表情がすっと変わる。
「大丈夫ですか、小姫さん」
直前までのぞんざいな調子はどこへやら。
よそゆきの笑顔に、小姫の腕に鳥肌が立つ。
「あ、はい。……大丈夫です」
「お怪我がなくてなによりです。ところで、彼は?」
「今日の監視役ですわ」
小姫の紹介に、環がコホンと咳払いをして一礼する。
「本日お供させていただきます、長谷川環と申します。よろしくお願いいたします」
「長谷川さんですね。よろしく」
和やかに挨拶を交わして、芝居小屋へ向かって歩き出す。
晋一朗が小声で話しかけてきた。
「どうせ連れてくるのなら、『従者』の俥夫にしろ」
「瑠生に邪魔されたんだもの」
「瑠生? ああ、きみの兄上か」
「兄というか弟というか……」
小姫が曖昧に言ったとき、うしろを歩いていた環の足がふいに止まった。
「たま──じゃなかった、長谷川?」
環はわずかに眉を寄せて、周囲を見回している。
「どうかしたの?」
「あ、いえ……」
環ははっとしたように小姫へ向き直ると、頭を下げた。
「失礼いたしました」
「なにかあった?」
「……少し、妙な気配がしたもので」
環の視線が、なにかを探るように宙をなぞる。
小姫も立ち止まって、あたりを見回した。
通りは人で溢れ、呼び込みの声や笑い声が賑やかに飛び交っている。活気ある往来にしか見えない。
「おかしなものは、なさそうだけれど……」
「どういうことだ?」
晋一朗が訊いた。
「長谷川は勘が鋭いの。天候の変化とか、探し物の場所とか、落とし穴とか、すぐに見抜くのよ」
「落とし穴?」
怪訝そうに首をかしげる晋一朗に、環が答える。
「人より少し観察力があるだけです。落とし穴にいたっては、お嬢さまが庭で不審な動きをしていたので気が付いたまでで……」
「おま──、小姫さんはそんなことまでなさるのですね」
なにやってんだ、という目で見られ、小姫は慌てて手を振った。
「子供の頃の話ですから! とにかく、長谷川の勘は侮れないのよ」
「本当に、たいしたことでは……。人混みに当てられたのかもしれません。さあ、参りましょう。遅れたら大変ですよ」
芝居小屋の中は、むっとするような熱気に満ちていた。
客席はすし詰めで、あちこちから笑い声や話し声が聞こえてくる。
やがて、太鼓がひとつ鳴った。
同時にざわめきがすっと引き、幕が上がる。
その瞬間、空気が変わった。
現れたのは、花魁姿の朔耶だ。
白粉に整えられた顔立ちはあまりにも優美で、作り物めいてさえ見える。
流れるような所作には隙がなく、ただただ美しい。
袖をひらりと返す、それだけの動きにも目が離せない。
そのとき、客席から掛け声が飛んだ。
「待ってました!」
「朔耶っ!」
それを合図にしたように、場が一気に熱を帯びる。
小姫は息をするのも忘れて、目の前の芝居にのめり込んだ。
「たま兄、早く!」
「お嬢さま、待ってください! それと、外では長谷川とお呼びください!」
お目付役の環を連れて、小姫は晋一朗との待ち合わせ場所に急いでいた。
本当は、朔耶を贔屓にしている女中を伴うつもりだったのに、瑠生の横槍が入って環が同行することになったのだ。
「瑠生のせいで遅刻だわ……!」
「開演には間に合いますから、走らないで! 転びますよ!」
環は小姫の五つ上、二十二歳だ。
小姫が引き取られたのと同じ頃、郷里より上京してきて櫻宮家の書生となった。
学業を終えたのちも、櫻宮家に残り瑠生の側近として仕えてくれる予定だという。
「たま兄まで私を子供扱いするんだから!」
「お嬢さま、前!」
「え? ──わぷっ⁉︎」
うしろを見ながら走っていた小姫は、前から来た人の胸に頭から突っ込んでしまった。
「いたた。失礼しまし──」
顔を上げると、すぐ間近に晋一朗の顔があった。
はじめこそ能面のように無表情な男だと思っていたが、能面は角度を変えると豊かな表情が表れるということを、ふいに思い出した。晋一朗もそうだ。下から見上げる表情は、いかにも呆れ顔だった。
「おまえは本当に落ち着きがないな」
「し、晋一朗さん……」
ぶつかった拍子に、腕を支えてくれたらしい。
そっと手を離した晋一朗の視線が、小姫の背後へと流れた。一瞬で表情がすっと変わる。
「大丈夫ですか、小姫さん」
直前までのぞんざいな調子はどこへやら。
よそゆきの笑顔に、小姫の腕に鳥肌が立つ。
「あ、はい。……大丈夫です」
「お怪我がなくてなによりです。ところで、彼は?」
「今日の監視役ですわ」
小姫の紹介に、環がコホンと咳払いをして一礼する。
「本日お供させていただきます、長谷川環と申します。よろしくお願いいたします」
「長谷川さんですね。よろしく」
和やかに挨拶を交わして、芝居小屋へ向かって歩き出す。
晋一朗が小声で話しかけてきた。
「どうせ連れてくるのなら、『従者』の俥夫にしろ」
「瑠生に邪魔されたんだもの」
「瑠生? ああ、きみの兄上か」
「兄というか弟というか……」
小姫が曖昧に言ったとき、うしろを歩いていた環の足がふいに止まった。
「たま──じゃなかった、長谷川?」
環はわずかに眉を寄せて、周囲を見回している。
「どうかしたの?」
「あ、いえ……」
環ははっとしたように小姫へ向き直ると、頭を下げた。
「失礼いたしました」
「なにかあった?」
「……少し、妙な気配がしたもので」
環の視線が、なにかを探るように宙をなぞる。
小姫も立ち止まって、あたりを見回した。
通りは人で溢れ、呼び込みの声や笑い声が賑やかに飛び交っている。活気ある往来にしか見えない。
「おかしなものは、なさそうだけれど……」
「どういうことだ?」
晋一朗が訊いた。
「長谷川は勘が鋭いの。天候の変化とか、探し物の場所とか、落とし穴とか、すぐに見抜くのよ」
「落とし穴?」
怪訝そうに首をかしげる晋一朗に、環が答える。
「人より少し観察力があるだけです。落とし穴にいたっては、お嬢さまが庭で不審な動きをしていたので気が付いたまでで……」
「おま──、小姫さんはそんなことまでなさるのですね」
なにやってんだ、という目で見られ、小姫は慌てて手を振った。
「子供の頃の話ですから! とにかく、長谷川の勘は侮れないのよ」
「本当に、たいしたことでは……。人混みに当てられたのかもしれません。さあ、参りましょう。遅れたら大変ですよ」
芝居小屋の中は、むっとするような熱気に満ちていた。
客席はすし詰めで、あちこちから笑い声や話し声が聞こえてくる。
やがて、太鼓がひとつ鳴った。
同時にざわめきがすっと引き、幕が上がる。
その瞬間、空気が変わった。
現れたのは、花魁姿の朔耶だ。
白粉に整えられた顔立ちはあまりにも優美で、作り物めいてさえ見える。
流れるような所作には隙がなく、ただただ美しい。
袖をひらりと返す、それだけの動きにも目が離せない。
そのとき、客席から掛け声が飛んだ。
「待ってました!」
「朔耶っ!」
それを合図にしたように、場が一気に熱を帯びる。
小姫は息をするのも忘れて、目の前の芝居にのめり込んだ。
