大正妖精綺譚

 櫻宮(さくらみや)家の邸宅は、和と洋が入り交じった造りをしている。一階は応接室や書斎、食堂などの洋間が多く、二階には畳敷きの和室が並ぶ。
 二階にある小姫(こひめ)の部屋も、障子越しにやわらかな光が入ってくる落ち着いた和室だ。

「……よしっ」

 畳の上に置かれた鏡台を覗き込んで、小姫はそっと紅を引いた。唇がほんのりと色づいて、いつもより少しだけ大人びて見える。
 それだけのことなのに、なんだか胸のあたりがそわそわした。

「……別に、深い意味なんてないんだから。身だしなみよ、身だしなみ」

 今日は晋一朗(しんいちろう)と共に、朔耶(さくや)の芝居を観に浅草へ行く。
 あくまで偽装作戦の一部であり、且つ、朔耶に『妖精王の賽子(サイコロ)』の『従者(ヴァレット)』にしてしまったことの説明をし、協力を取り付けるための外出だ。

 自分に言い聞かせるように鏡を見つめるが、どうにも落ち着かない。
 髪は乱れていないか、紅の色は濃すぎないか、どうでもいいことばかり気になってしまう。

「ええい! 偽装婚約者(共犯者)相手に、なにを気にする必要があるというの!」

 腹を括って立ち上がり、襖に手をかけたとき、すぐ向こうから低い声が聞こえた。

「──小姫」
瑠生(るい)?」

 そっと襖を開けると、苛立ちを含んだ表情の瑠生が目の前にいた。
 びっくりしたのも束の間、瑠生が一歩踏み込んでくる。

「どういうつもり?」
「なんのこと?」

 不機嫌な様子に気が付かないふりをして問い返す。
 次の瞬間。逃がさない、と言わんばかりの手つきで強く手首を掴まれた。

「どこに行くの?」
「……浅草だけど」
「誰と?」

 婚約が成立したことは、松蔵(まつぞう)から聞いているはずだ。分かっているくせに、と言いかけて口を閉ざす。
 瑠衣の目は、冗談を許すようなものではなかった。

「結婚するつもりはないんじゃなかったの?」
「それは……」
「気が変わった?」
「…………」

 偽装婚約なのだと打ち明けるべきか、一瞬迷う。
 けれど、それを言えば余計に話がややこしくなる気がして、口をつぐんだ。
 行動を制限されたくはないし、本当のことを言ったところで、瑠生が納得するとも思えない。

「小姫」
 
 名前を呼ばれて、思わず肩が揺れる。

「僕は、理由を聞いているのだけど?」

 優しい声音なのに、逃げられない。
 小姫は観念して口を開いた。

「……放っておけなかったの」
「なにを?」
「晋一朗さんのこと」

 名前を口にした瞬間、瑠生の指先がわずかに震えた気がした。
 小姫は思いつくまま、ぽつぽつと言葉を並べる。

「やりたいことがあって、それを諦めたくないって言ってた。私もそう。だから、その……お互い助け合えたらいいかなって」

 これなら嘘は言っていない。
 お互いの夢を叶えるため、無駄な縁談を組まれないようにするために偽装を決めたのだ。

「つまり小姫は、その男のために自分の人生を差し出すことにしたの?」
「そこまで大げさじゃないよ。ちょっと協力するだけ」
「結婚が『ちょっと』……?」

 手首を掴む瑠生の手に、じわりと力がこもる。

「僕は反対だ」
「瑠生……」
「小姫が無茶をするのは、いまにはじまったことじゃないけれど、今回は度が過ぎてる」
「無茶なんて──」
「してるでしょ」

 間髪入れずに返される。

「先日、池に飛び込んだのは誰?」
「あれは、芸者さんを助けるために……」
「自分がどうなるか、考えなかった?」
「……気付いたら身体が動いてたの」

 正直に答えると、瑠生は大きくため息をついた。

「小姫は自分を軽く見すぎてる。小姫になにかあったら、悲しむ人間がどれだけいると思っているの」

 諭すような声が、静かに響く。瑠生がさらに一歩、近付いてきた。
 目を瞬かせていると、そっと頬を撫でられる。

「お願いだから、あまり勝手なことはしないで」

 瑠生の表情が、苦しげに歪む。

「ずっとこの家にいてよ、小姫」

 懇願するような言葉に、胸の奥がざわりと波立つ。

「……それじゃ、駄目なの」

 小姫は、小さく、けれどはっきりと告げた。
 頬に触れていた指か、ぴたりと止まる。

「家にいるだけじゃ、誰も助けられないもの。困っている人がいたら手を伸ばしたいし、できることがあるならやらなくちゃって思うの」
「小姫……」

 うまく伝わっているか分からない。けれど、これが小姫の本心だ。
 瑠生はなにも言わず、しばらくこちらを見つめていたが、やがて小さくため息をついた。

「……本当に、困った子だね」

 呆れたように笑うと、瑠生はぐいと小姫の顎を持ち上げた。

「瑠生……?」

 逃げる間もなく、親指で口をなぞられる。

「この色、似合ってないよ」
「えっ⁉︎」

 瑠生はふたたびため息をつくと、ワイシャツの袖で小姫の唇を丁寧に拭った。白い生地に、薄桃色の紅がにじむ。
 まるで最初からなにもなかったかのように、小姫の唇から色が消えた。
 洗濯が大変だろうな、とどこかぼんやりとそれを見つめていると、瑠生は満足したように頷いた。

「はい、これでいい」
「もう……」

 ようやく手を離され、小姫はほっと胸をなで下ろした。
 瑠生は昔からこうだ。生まれのせいか、自分が気を許したものにだけ、強い執着心を見せることが時折ある。けれど、今日は少しばかり行き過ぎている気がした。
 違和感を覚えるが、これ以上は時間がない。小姫は急いで瑠生の横を通り抜けた。

「小姫」
「なに?」
「もう池には飛び込まないでね」
「飛び込まないよ!」

 べーっと舌を出して、小姫は階段を駆け下りた。

     ◆     ◆     ◆

 階下から「走るんじゃありません!」と小姫を叱る久子(ひさこ)の声が聞こえてくる。
 一瞬だけ目を細めた瑠生だったが、すぐに表情を消すと、廊下の先へ声を投げた。

「──(たまき)
「はい」

 一人の青年が、すっと姿を現した。
 若葉色の着物に袴を穿いた書生姿。そして細縁の丸眼鏡。落ち着いた佇まいの青年は、櫻宮家の書生、長谷川(はせがわ)環だ。
 瑠生は階段のほうを見つめたまま、静かに言った。

「小姫から絶対に目を離さないで」
「分かりました」

 環は穏やかに応じるも、すぐには動かなかった。
 わずかに間を置いてから、やわらかな声で付け加える。

「若さまも、ご無理なさいませんよう」
「……早く行って」
「承知いたしました」

 一礼して踵を返す環の背中を無言で見送ったのち、瑠生は小さく息をはいた。

「……本当に、手のかかる子だ」