大正妖精綺譚

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「ぶえっくしゅん!」
「まったく……」

 大捕物の翌日。
 櫻宮家の自室で毛布にくるまる小姫に、女中頭の久子(ひさこ)が呆れた目を向けた。

「まさかお見合いの場で池に飛び込むなんて、思いもしませんでしたよ」
「仕方ないじゃない。猫が溺れていたんだもの」

 懐紙を差し出しながら大仰にため息をつく久子に、小姫は鼻声で言い返した。

 晋一朗と小姫が偽装婚約の密約を結んだのち、その場はお開きとなり、小姫は松蔵とともに、武の父が運転する自動車で屋敷に戻った。
 朝とは違う着物で疲れて帰ってきた小姫に、使用人たちはなにごとかとざわめき、瑠生は顔色を変えて松蔵に詰め寄っていたらしい。

 その日の夜のうち、小姫は見事に熱を出した。

「旦那さまもがっかりなさっておいででしたよ。今回こそうまくいくと思っていたのに、と」
「どうして断られることが前提なのよ」
「あら、断られない自信がおありですか? 結婚はお嫌なんじゃありませんでした?」

 久子は小姫が櫻宮家に迎え入れられた当初から、身の回りの世話をしてくれている。距離感が心地良い反面、お小言が耳に痛い。
 久子のぼやきを聞きながら鼻をかんだとき、息を切らせて年若い女中が駆け込んできた。

「お嬢さま、大変ですっ」
「なんですか騒々しい」

 久子が眉をひそめる中、女中は興奮した様子で小姫に告げた。

長内(おさない)朔耶(さくや)さまがお見えです!」
「なんですって!?」
「…………誰?」

 覚えのない名前にきょとんとすると、久子と女中は信じられないといった顔で身を乗り出した。

「ご存じないのですか⁉ 盈月座(えいげつざ)の、朔耶さまですよ‼」
「朔耶さま……?」



 身なりを整えて応接室へ顔を出すと、松蔵が椅子から立ち上がった。心配そうに小姫を見つめる。

「おお、小姫。大丈夫か?」
「ええ。あの、お客さまがいらしたと聞いて……」

 奥の椅子に腰かけていた人物が、すっと立ち上がって振り向いた。
 さらさらの黒髪。整った顔立ちに、陶器のようになめらかな肌。長いまつ毛に縁取られた黒目がちな瞳。まるで、美のかたまりのような少年だ。

 あまりの美しさに圧倒されかけたとき、ふと記憶の奥でなにかが重なる。
 シャラ、とビラ簪の音が聞こえたような気がして、小姫はハッと目を見開いた。思わず声がひっくり返る。

「あなた、男の子だったの⁉︎」

 目の前にいたのは、昨日の大捕物で大活躍をしたあの芸者──の、化粧を落とした姿だった。

「浅草の芝居一座『盈月座』で女形を務めております、長内朔耶と申します。昨日は名前も告げず、失礼いたしました。助けていただいてありがとうございます」

 涼やかな声で朔耶が言った。
 艶然と微笑む姿は、女の自分よりも色気がある。こんなに綺麗な子がいるなんて。
 端に控えている久子がほう、とため息をこぼすのが聞こえた。松蔵の声も、こころなしか浮かれている。

 小姫は浅草で芝居を観たことがなかったが、久子や先程の女中の様子からして、人気の役者なのだろう。
 小姫たちと出会ったとき、朔耶は贔屓筋との席を終えて、庭を散策していたところだったらしい。

「いやぁ、あまりにもお綺麗なので、娘が助けたという猫が人に化けて恩返しに来たのかと思いましたよ」
「騒ぎにならないよう、僕のことは伏せてくださっていたのですね。お気遣いありがとうございます」

 言いながら、朔耶は小姫に向かって、こっそり片目をつぶってみせた。
 茶目っ気のある仕草に、思わずきゅんとしてしまう。

「櫻宮さまのことは、料亭の女将さんに伺いました。お見合いのお席だったそうで……」

 小姫はハッと我に返った。見惚れている場合ではない。朔耶はきっと、昨日の出来事について話を聞きにきたのだろう。
 どう切り出そうかと思ったとき、家令の森谷(もりや)が静かに部屋に入ってきた。
 本人は詳しく教えてくれないが、聞くところによると、彼は是松一家の金庫番だったそうだ。背広の下の背中には、立派な唐獅子が彫られているとか、いないとか。

「旦那さま、柳瀬晋一朗さまがお見えです」
「なにっ⁉︎」

 思わず、という調子で松蔵が叫ぶ。

「断るのにどうして直接家に来るんだ!?」
「だから、どうして断られることが前提なんです!」

 日頃の行いのせいなのは承知しているが、はなから諦められているのも、なんだか悔しい。
 小姫が唇を尖らせていると、朔耶がくすりと笑った。

「もしかして、昨日の方ですか? ご迷惑でなければ、僕にもご挨拶させてください」
「ええ、構いませんが……」

 松蔵の目配せに、森谷がさっと動く。
 ほどなくして、晋一朗が現れた。

「ご来客中のところ申し訳ございません。失礼を承知で、急ぎ昨日のお返事に参りました」

 ちらりと送られた目配せに、小姫は小さく頷いた。話を合わせろ、ということだろう。いよいよ偽装作戦の本番だ。
 身構える松蔵に、晋一朗がピシッと頭を下げた。

「願わくは、前向きにお話しを進めさせていただきたく存じます」
「…………えっ?」

 松蔵が間の抜けた声をあげた。森谷と久子も、目を丸くして晋一朗を見つめている。

「ご令嬢の勇敢な振る舞いに、深く感銘を受けました」

 そう前置きをして、晋一朗はまっすぐ小姫を見つめた。
 思いがけず真正面から向けられた眼差しに、一瞬心臓がどきりとする。

「小姫さん、僕と縁を結んでいただけますでしょうか?」

 おまえ、なんて言っていたくせに、ちゃっかり名前呼びである。
 よくもまあここまでよどみなく言葉が出てくるものだと妙に感心しながら、小姫は晋一朗を見つめ返した。

「私でよければ、喜んで」
「ありがとうございます。……ただ、僕はまだ半人前の学生の身の上です。一人前になるまで待っていてもらえますか?」
「ええ、もちろん! お父さま、いいでしょう?」

 間髪入れずに答えて、小姫は松蔵を振り返った。
 結納を先延ばしにする口実だ。ぼろが出る前に、話をまとめてしまわなければ。

「えっ? あっ、ああ。もちろんだとも!」

 乗り遅れた様子の松蔵は、ぱちぱちと瞬きをしてから、ようやくうんと頷いた。
 嘘をついている罪悪感はあるけれど、縁談から逃れるためには仕方ない。

「嬉しい!」

 小姫は大袈裟なくらいに喜んでみせた。
 ひとまず、第一関門は突破だ。
 そっと胸をなで下ろしたところで、ふいに視線を感じた。振り返ると、朔耶が意味ありげに笑っている。
 もしかしたら、彼には見破られているかもしれない。

「おめでとうございます」

 祝意を表する朔耶に、晋一朗は如才なく微笑んで右手を差し出す。

「きみは僕たちのキューピットですよ」
「キューピット?」
「恋の天使(・・)、という意味です」

 晋一朗は、芸者の正体に気が付いていたようだ。
 昨日の朔耶は、たしかに西洋画の天使もかくやという姿だった。

「……なるほどね」

 朔耶はいたずらっぽい笑顔で、晋一朗の右手を握った。

いろいろ(・・・・)お話をお伺いしたいのですが、このあと稽古があってすぐに戻らなければならないんです。よろしければ、盈月座の新作公演にご招待させてください」
「ええ、ぜひ。……そういうことで小姫さん、デートしましょう」
「デェト?」

 聞き慣れない単語に首をかしげると、晋一朗がさらりと言った。

「僕と逢い引きしましょう、というお誘いです」
「……喜んで」

 小姫は片頬をひきつらせそうになりながら頷いた。
 本物の役者を前に、いつまでこの茶番を続けなければならないのか。

 そして、利害で結ばれた関係が、これからどこへ向かうのか。小姫にはまだ、想像もつかなかった。