大正妖精綺譚

「大変!」

 草履を脱ぎ捨て、小姫は迷いなく池に飛び込んだ。
 振袖が水を吸い重くまとわりついて、手足が思うように動かせない。身体がどんどん沈んで、音が遠ざかっていく。

「……っ!」

 溺れる、と思ったそのとき。

 ぐい、と腕を掴まれ、強い力で引き寄せられた。
 驚いて目を開くと、苦笑を浮かべた芸者の顔が間近にあった。華奢に見えた腕は意外なほど力強く、小姫の身体をしっかりと支えてくれている。
 二人はそのまま水面へと顔を出した。

「落ち着いて。この池、そんなに深くないよ」
「ぷはっ。……す、すみません。助けるつもりが、助けられてしまいました」

 情けなさに目を伏せると、芸者はおかしそうに声をあげた。

「あははっ。今日一番の事件だよ」
「今日一番ですか⁉」

 妖精を見たことや翼が生えたことよりも、小姫が池に飛び込んだことのほうがおおごとなのか。
 屈託のない笑顔につられて、小姫の顔もほころんだ。

「大丈夫か!」
「あ、お兄さんが来てくれたね」

 芸者の腕から晋一朗の手へと引き渡され、あっという間に小姫の身体は陸に引き上げられた。
 一方、芸者は濡れた着物をものともせず、池の縁に手をかけて、ひょいと自力で岸に上がる。

「なにを考えている」

 袖を絞る小姫の頭上に、低く険しい声が振ってきた。

「いきなり飛び込むなんて、無茶にもほどがあるだろう」
「だ、だって……」

 言いかけたところで、どやどやと人の気配が近付いてきた。騒ぎを聞きつけて、様子を見に来たのだろう。
 びしょ濡れの芸者と、びしょ濡れの自分。そして見合い相手。これは、どう見ても──

「……修羅場?」
「阿呆か!」
「ど、どうしよう⁉︎」

 すると、芸者がくすりと笑って立ち上がった。小姫の手を取って指先を優しく開かせると、そこに瑠璃色の石を落とす。
 小姫が投げた賽子だった。どうやら拾ってくれていたらしい。

「楽しい時間をありがとう。──じゃあね、お姉さん」

 そう言って、芸者はすっと身を翻し、人気の少ないほうへ姿を消した。

「……行っちゃった。どうしよう、なにも説明していないのに」
「そんなもの、あとでいい」

 晋一朗はため息をついて背広を脱ぐと、ばさりと小姫の頭に被せた。急に視界が暗くなり、鼻先に晋一朗の衣の香りが漂う。

「ないよりましだろう」
「ありがとう、ございます……」

 なぜかどきどきと胸が騒ぐ。
 そこへ、松蔵と朱美が料亭の女中とともにやってきた。

「小姫! どうした、びしょ濡れじゃないか!」
「これは、えっと、馬が──」

 しどろもどろになった小姫を遮るように、晋一朗が口を開く。

「猫! ……が、池で溺れていたんです。彼女はそれを助けようとして、足を滑らせてしまって。僕がついていながら、申し訳ございません」

 頭を下げた晋一朗に、松蔵が驚いたように首を振った。

「とんでもない! 娘のお転婆ぶりにさぞ驚いたでしょう。……まったくおまえは、子供の頃から変わっていないな。昔も、木から下りられなくなった猫を助けようとして──」
「お父さま、その話はいいから!」

 櫻宮家に迎え入れられて少しした頃、木から下りられなくなった仔猫を助けようとして木に登り、自分まで下りられなくなってしまったことがあった。あのとき、拾われてきたばかりの瑠生が助けてくれて、そのおかげで自然と仲良くなることができたのだ。
 懐かしい思い出話ではあるが、こんな場面で蒸し返さないでもらいたい。

「お着替えをご用意いたします」

 女中の言葉に頷いて、松蔵が小姫に手を差し出す。
 すると、晋一朗が小姫の傍らに片膝をついた。

「ここは僕が。姉さん、草履を頼むよ」

 失礼します、と言ってから、晋一朗は小姫の背中を支えると、もう片方の腕を膝の裏に回して抱き上げた。

「──きゃっ」

 途端に視線が高くなり、驚いて晋一朗の胸元を掴む。目を白黒させていると、小姫にだけ聞こえる声で、彼が言った。

「……重いな」
「降ります‼︎」

 足をばたつかせて暴れると、ぎゅっと抱え直される。

「じっとしていろ」
「うう……」

 恥ずかしさで、まともに顔が見られない。うつむくと、晋一朗の服の色が、水を吸ってじわじわと変わっていくのが目に入った。

「降ろして。貴方まで濡れちゃう──」

 そう言っても、晋一朗は動かなかった。
 どうしたのだろうと顔を上げると、視線が絡んだ。
 小姫の耳元に、晋一朗が口を寄せる。

「これは提案なんだが」

 耳元でささやかれ、頬にかかる吐息に思わず肩が跳ねる。

「な、なんでしょう……?」
「おまえ、俺と偽装(・・)婚約しないか?」
「はっ?」

 一瞬、意味が分からず、小姫は間抜けな声をあげてしまった。まじまじと晋一朗を見つめる。表情から察するに、冗談で言っているわけではなさそうだ。

「偽装婚約……?」
「俺はこれ以上、余計な見合いをしたくない。おまえもそうだろう?」

 図星を突かれ、「うっ」と呻く。

「骨董店には偵察に来たのかと思ったが、おまえ、俺のこと分かってなかったよな」
「お見合いの話は、あの日の夜に聞いたのよ」

 それに、身上書は瑠生が持って行ってしまったため、相手が晋一朗だとは今日まで知らなかったのだ。

「……どうして、お見合いしたくないの?」

 小姫が尋ねると、晋一朗はわずかに視線をそらした。

「笑わないか?」
「約束しかねるけど、努力はする」

 晋一朗は「正直なやつ」と言って小さく笑った。

「…………俺は、妖精に興味がある」
「えっ?」
「はじめて妖精を見たときの衝撃は忘れられない。彼らの神秘性に、俺はずっと魅せられているんだ」

 晋一朗の声音は、普段の理知的な響きとは違い、どこか少年のそれに近かった。

「将来はノアのように、郷土研究をしながら妖精を保護する活動がしたいと思っている。……だが、家の事情でそうもいかない。家の望む人生を歩むほど、俺の夢は遠ざかる。だからせめて、正式に家督を継ぐまでは、好きなことをしていたい」

 世間では、嫡男が家の仕事を継ぐのは当たり前、当然の義務だとされている。
 晋一朗の言葉に、小姫の胸はぎゅっと締めつけられた。

「……私も、夢があるんです」

 思わず、言葉がこぼれる。

是松(これまつ)一家を再興したい。支援の手からこぼれ落ちる人たちを助けたい。お祖父さまに、恩返しがしたいんです。結婚することが家のため、恩返しだと言われてしまえばそれまでですが、私はお祖父さまのように、人々の味方になりたいの」

 英雄になりたいわけではない。もちろん、義賊が完全な正義ではないことも分かっている。いまの時代にあったやり方で、自分なりの是松一家を立ち上げたいのだ。

「だから、誰かの妻になる人生は、まだ歩きたくない……」

 晋一朗は驚いたように小姫を見つめたあと、ふっと笑った。

「どうりで池に飛び込むはずだ」
「どういう意味です」
「普通は人を呼ぶところを、おまえは芸者を助けるために迷うことなく池に入った。無茶で無謀なお人好しだな」
「褒めてます?」
「呆れている。……が、他人のためにそこまでできるのか、と感心もした」

 否定されなかったことに驚くと同時に、胸の奥からじんわりと嬉しさが込み上げてくる。

「……やっぱり褒めてますよね?」
「調子に乗るな」

 怒られてしまったが、それでもにやにやしていると、晋一朗がコホンと咳払いをした。

「利害は一致している。それに、婚約者なら一緒に行動しやすいだろう。妖精を探しやすくなる。俺は時間稼ぎができたらそれでいい。適当なところで、おまえから破談にしてくれ」
「そんなことしたら、あなたの立場が悪くなるわよ」
「構わない。だから──」

 小姫を抱える腕に、ぐっと力が入る。

「俺の婚約者になってくれ」

 偽装の、と分かっていても、心臓がどくんと跳ねた。まっすぐに見つめられ、吸い込まれそうな錯覚に陥る。
 それを押し隠して、小姫は小さく頭を下げた。

「──ふつつか者ですが、なにとぞよろしくお願いいたします」
「これで共犯者だな」

 晋一朗がほくそ笑むので、小姫もニッと笑ってみせる。
 昼下がりのやわらかな光が、品のある笑い方とはいえない表情の二人を包むように降り注いでいた。