大正妖精綺譚

「ちょっ──えッ⁉」

 止める間もなく、ガシッと蛙を掴み上げる。
 そして、軽やかに欄干から飛び降りると、唖然とする小姫に向かって、鷲掴みにした蛙を差し出した。

「はい、どうぞ」

 平然とした顔の芸者の手の中で、蛙がじたばたともがいている。

「え、あ……うぅっ……」
「よ、よし。封印しよう。いや、ここではまずいか」

 さすがの晋一朗も、わずかに動揺しているようだ。
 そのとき、びちっと湿った音を立てて、蛙が芸者の手から飛び跳ねた。

「あっ」

 足の上に、なにかが乗った感触。
 視線を落とした小姫は凍りついた。
 足袋の上に、羽を広げた蛙がくっついている。

「いやぁぁあああっ‼︎」

 反射的に足を振るが、蛙はしがみついて離れない。

「動くな、妖精が逃げる! じっとしていろ!」
「無理ですっ‼︎」

 妖精だと言われようが、見た目が蛙ならそれは恐怖の対象でしかない。
 叫ぶように答えながら、小姫は勢いよく魔導書を開いた。空白の(ページ)が光を帯びる。

「待て、人前で──」
「此の書に憩い暫しの安らぎを得よ‼︎ 時満ちるとき然るべき処へ還さん‼︎」

 晋一朗の制止を振り切って、小姫は早口で呪文を唱えた。
 白い光が瞬き、一瞬の明滅ののち、蛙の姿がかき消える。
 バンッと本を閉じ、それを風呂敷でぐるぐる巻きにして、小姫は胸をなで下ろした。

「すんなり封印できてよかった……」
「……いまの、奇術?」

 ぽかんとした様子の芸者が、目を丸くして小姫の手元を見つめる。

「いまのは、ええと──」

 言い訳を考えながら口を開いた、その瞬間。
 ザバッと池の水面が盛り上がり、水が弧を描いて噴き出した。飛沫がきらきらと宙に舞い散る。

 水の中から姿を現したのは、一頭の馬。魚のひれを思わせるたてがみに、黒緑色の馬体。全身に水をまとい、どこか妖しく、それでいて息を呑むほど美しい。
 しなやかな四肢で水を蹴り、馬は太鼓橋のたもとへと躍り出た。

「ただの馬じゃない……ですよね」
「間違いなく妖精だ。たしか、水棲馬(ケルピー)といったか……」

 晋一朗は妖精の美しさに見惚れているのか、どこか吐息まじりの声で小さく答えた。その視線は水棲馬から離れない。
 水棲馬はゆっくりと首を巡らせると、まるで値踏みをするように小姫たちを見据えた。
 晋一朗がはっとしたように前へ出て、小姫と芸者を背にかばう。

「先日の俥夫は供待ちか?」
「今日は自動車だから、武兄(たけるにい)は来ていないの」

 自動車運転手鑑札(免許)は持っているものの、武は車が苦手なようで、運転を嫌がる。そのため今日の運転手は、是松の代から櫻宮家に仕えている武の父が務めていた。

「使える力は『影』だけか。分が悪いな」
「お姉さんたち、あの馬も捕まえたいの?」
「そ、そうですね……」
「……不思議な馬。いや、本物の馬じゃないのか」

 芸者は独り言のようにつぶやきながら、臆することなくするすると水棲馬へ近付いていった。
 馬は耳をピンと立て、金の瞳で警戒するように芸者を見つめている。水を含んだたてがみが、ざわりと不穏に揺れた。

「ど、どうしましょう」

 小姫が小声で問うと、晋一朗は水棲馬から視線をそらさぬまま低く告げる。

賽子(サイコロ)も持っているか?」
「ええ」
「あの妖精は魔力を消耗させないと捕まえられないだろう。いまのうちに、俺の能力の解放を」
「分かりました! ……ええと、能力の解放って?」

 威勢よく返事したものの、そういえば詳しい説明を聞いていない。

「賽子を振って、俺に割り当てられた数字を出せ」
「ええっ⁉︎」

 運任せな仕様に、思わず声が裏返る。

「他の数字が出たら?」
「……一が出るまで降り続けろ」

 晋一朗も思うところがあるようだ。非効率だと顔に出ていた。
 悠長なことをしている場合ではないが、根気よく振るしかない。
 小姫はしゃがみ込んで、地面に賽子を転がした。

「えいっ。……三ですね」
「もう一回」
「五……六…………」

 ころころと転がる賽子の目を、必死に追う。

「出たっ!」

 瞬間、晋一朗の首筋に『()』の符号が青く浮かび、足元の影がぶわりと大きく広がった。

「本を開いて待っていろ」

 そのとき、ふいに水棲馬が嘶いた。カッカッと後ろ脚を踏みならす音がする。
 立ち上がって顔を上げた瞬間、小姫は目を見開いた。
 芸者が馬の首へと手を伸ばし、ひらりとその背に横乗りで座った。その身のこなしは、まるで軽業師のようだ。

「すごい……」

 感嘆したのも束の間。
 水棲馬が前脚を高く上げ、勢いよく振り下ろす。水飛沫が弾け、周囲に散った。水棲馬は水面を駆け、池の中央へと移動する。晋一朗の影が追うが、なかなか捕らえることができない。

「くそ、水面だと動かしにくいな」
「このっ、大人しくしろっ……!」

 荒い口調で言いながら、芸者は振り落とされまいと、濡れた馬体にしがみついている。

「危ないっ!」

 考えるより先に、身体が動く。
 小姫は賽子を拾い上げ、芸者に向かって祈るように放り投げた。

「当たって……!」

 賽子は弧を描き、芸者の額にこつんとぶつかる。
 白い肌に、『()』の紋様が金春色(こんぱるいろ)の光を帯びて浮かび上がった。
 空気が震え、芸者の背中に閃光が走る。次の瞬間、淡く輝く純白の翼が、花が開くように生え広がった。

「なに……?」

 芸者が戸惑ったように、自分の背中を振り返る。

「うまくいった!」
「おまえ、また……」

 晋一朗の呆れ声が聞こえたけれど、構っている暇はない。

「小言はあと! 芸者さん、背中に翼があるの! 飛べるはずよ!」

 一瞬きょとんとしたものの、芸者はすぐにこくんと頷いた。
 大きく翼を羽ばたかせて体勢を立て直すと、ふたたび水棲馬の背中へ腰をかける。そして、翼で視界を覆うように包み込むと、水棲馬の動きが目に見えて鈍った。

「いまだっ!」

 少しでも近付くため、小姫は太鼓橋を渡り、中央の小島へと走る。

「此の書に憩い、暫しの安らぎを得よ。時満ちるとき、然るべき処へ還さんっ!」

 やわらかな白い光が、水棲馬を包み込む。
 水棲馬は激しく身をよじって抗うが、その動きも次第に鈍り、やがて光りに呑まれるように本の中へと吸い込まれていった。空白だった頁にひとつの陰影が浮かび、美しい馬の姿を結ぶ。

「捕まえた……」
「すごいね」

 ほっと息をついた小姫の前に、芸者がふわりと降りてきた。翼を器用に動かして、水面すれすれに留まっている。

「これ、どうなってるの?」

 その場でくるりと回っただけなのに、その仕種は舞のように美しい。
 目を奪われかけたとき、芸者の額に浮かんでいた紋様が薄くなり、ぱっと消えた。同時に、背中の翼もかき消える。

「わっ⁉︎」

 バシャン、と水飛沫が高く上がり、芸者の身体が水に沈んだ。