気づいたときにはソファーに押し倒されていた。
情欲で光る真っ赤なルビーが、私を見下ろす。
こんな状況なのに、それがとても綺麗だと思った。
「……いいのか。
抵抗しないのなら、このまま涼音を抱くぞ」
かりっと耳朶を囓られ、正気に戻る。
「ゆ、許してください……」
「素直でよろしい」
半べそをかいて私が懇願し、旦那様は右頬を歪めてにやりと笑った。
田沢さんがお茶の準備をしてくれているあいだに旦那様は服を着替えに行った。
いくら家とはいえ、破れたままの服を着ているわけにはいかない。
戻ってきた彼はシャツとズボンという、簡単な格好になっていた。
「腹が減った……」
私の隣に腰を下ろしながら、彼が情けない顔をする。
「お夕食前ですので、これで我慢してください」
と、田沢さんが置いたのは今をときめく『今村屋』のあんパンだった。
「おお、助かる」
喜んで食べている旦那様の頬からは先ほどの傷が消えていた。
「え?
え?」
「ああ、これか?」
わけがわからなくて混乱している私に気づき、旦那様は傷があった頬に触れた。
「涼音から精気をわけてもらったからな。
治った」
にかっと旦那様が牙をのぞかせて笑う。
そうか、こんなに簡単に治るのか。
だったら、心配しなくてもいい。
「それにしても」
口の中のあんパンをお茶で流し、旦那様は私と向かいあった。
「普通、あれだけ精気を吸われたらぐったりしているものなのだがな」
旦那様は盛んに首を捻っているが、そうなのか。
しかし、具合の悪さなど少しも感じない。
強いていえば少々、あくびが出るくらいだ。
「あまりにうまくて無意識に貪ってしまって、殺してしまったんじゃないかと心配したくらいなのだがな」
「え……」
さらっと言って旦那様はお茶を飲んでいるが、もしかして私は命の危機だったんだろうか。
あの、ぼーっとなったのはその、……そういう気分になったのではなく、お迎えが来そうになっていたから?
「いやー、涼音は良質な精気を、しかも人よりもかなり多く蓄えられるようだ。
これからもよろしく頼む」
「……は、……はい」
旦那様に精気を吸われるたびに私は命の危機かもしれないのに彼は明るく笑っていて、微妙な気持ちになった。
しかし、旦那様の役に立って死ぬのであればそれはそれで本望だ。
――でも。
傷つけないように気をつけながら爪で私の頬をつついて遊んでいる旦那様に曖昧な笑顔を向ける。
紫乃は、私が旦那様に殺される未来が見えると言っていた。
しかもそれは、彼に胸を貫かれて、だ。
その未来で私は、旦那様の怒りでもを買ってしまったんだろうか……。
それからしばらくは、とにかく新しい生活に慣れるのに必死だった。
今まで下女以下の扱いだったのが急に人並みどころか〝奥様〟などと呼ばれる立場になっただけでも大変なのに、旦那様の生活は完全に洋式。
いろいろ違いすぎて、覚えるのが大変だ。
――そのうえ。
「わ、私ごとにそんなものはもったいないです……!」
私が言った途端、みるみる旦那様の機嫌が悪くなっていく。
「そんなことをいう涼音は、喰ってしまうぞ」
脅すように旦那様が大きく口を開け、鋭い牙がのぞく。
「ひ、ひっ。
た、食べないでください……」
それに小さく悲鳴を上げ、目に涙をうっすらと溜めて私がガタガタと震えるのもいつものことだ。
「涼音はその、〝私ごとき〟をいつになったらやめるのだ?」
田沢さんが淹れていくれたお茶を飲みながら、旦那様がはぁっとため息をつく。
「も、申し訳ありません」
お買い物に行った日、彼に〝私ごとき〟と言うのをやめろと注意された。
しかし、身に染みついたそれはつい私の口から出てきてしまう。
「あ、あと、そのやたらと出てくる〝申し訳ありません〟も禁止な」
「え……」
だったらどうやって詫びればいいのだろう?
だったら、「すみません」
ならいいんだろうか。
「謝るのは本当に悪いことをしたときだけにしろ。
申し訳ありませんの大安売りをするな、価値が下がる」
再び旦那様がため息をつく。
……え、謝罪の言葉に価値なんてあるの?
と、疑問だった。
夕餉はもちろん、洋食だった。
フォークとナイフの使い方もだいぶ、慣れてきた。
おかげで料理を味わえる余裕も出てきている。
「この、ポタージュ?
美味しいです」
「そうか。
なら、また作らせよう」
にっこりと旦那様が微笑む。
彼の西洋好きは幕末からなのらしい。
どんどん入ってくる西洋文化が面白くていろいろ取り入れたそうだ。
その熱はいまだ冷めやらぬらしいが、幕末といえばまだ父が物心つくかつかぬかの頃。
ずいぶん長く、熱中しているようだ。
「では、いってくる」
「いってらっしゃいませ、旦那様」
夕餉のあとは迎えに来た菰野さんとまた出ていく。
例の、人攫い探しだ。
大怪我を負って動けない今ならきっと捕まえられると彼は躍起になっている。
ヤツの首を私たちの祝言の祝いに添えるのだとか言っていたが、それはやめていただきたい。
実家での生活が嘘のように、ここでは穏やかな時間が流れている。
おかげでいまだに私はもう死んでいて、天国にでもいるのではないかと疑っているくらいだ。
その日は朝餉のあと、ようやく仕立て上がった着物を着せてもらった。
普段着なら自分で着るが、今日は旦那様のご主人様である、綱木長官にご挨拶へ行く。
粗相のないようにしなければいけないので、綺麗に着付けてもらった。
「どう、ですか……?」
準備が済み、リビングで待っていた旦那様と菰野さんの前に出る。
「やつがれの見立てに間違いはなかったな」
満足げに旦那様が頷く。
今日はあの買い物で購入し、この日のために仕立てた淡い水色で裾に桜を散らした着物を着た。
「ほんと、あの妙ちきりんな着物とは月とすっぽんですよ」
菰野さんも頷いているが妙ちきりんな着物とはここに連れてこられた日、着ていた紫乃のお下がりだろう。
それにあまりのおかしさにあの日、旦那様も「ちんどん屋」
と言っていた。
「これなら綱木長官に会わせられますか」
「うん」
旦那様がまた、満足げに頷く。
この家に来てすでに半月ほどが経っていた。
当座の着物は至急仕立てにしたので翌日には届いたが、こういう着物は丁寧な仕立てが必要なのでできあがるまでに時間がかかり、今日となったわけだ。
「よかったー。
もう、綱木長官が早く連れてこいっていうのに、この人は涼音さんの着物ができるまではダメだって頑として首を縦に振らなくて」
「え……」
つい、旦那様の顔を見上げていた。
それならば着物に拘らず、早く挨拶へ行ったほうがよかったのではないだろうか。
ああ、でも私がみすぼらしい格好をしていれば、旦那様が恥を掻く。
だからだと思ったものの。
「涼音に恥を掻かせるわけにはいかないであろう?」
意味が理解できなくて、まじまじと旦那様の顔を見る。
「やつがれは別に、あのドブネズミのような着物でもちんどん屋のような着物でもかまわないが、あんなものを着て人前に出れば涼音が恥を掻くであろう?
それはよくない」
「あ……」
温かいものが私の胸を満たしていく。
紫乃は私に恥を掻かせようと、曰く「最悪」
な振り袖を着せ、できるだけおかしくなるように帯や小物を選んだ。
けれど旦那様は私が恥を掻かないでいいようにと、似合う着物を仕立ててくれた。
「……ありがとう、ございます」
浮かんでくる涙に気づかれたくなくて、頭を下げるフリをして俯いた。
あの日、鬼に嫁ぐなんてと恐怖しかなかったが、こんなに優しい旦那様にもらわれて本当によかったと思う。
「恥を掻かないようにっていうのは賛成ですけど、借りれば済む問題なんですよ、借りれば。
それを、最高に似合う着物が仕立て上がるまではダメだって勘弁してくださいよ」
もう定番になりつつある、呆れるようなため息を菰野さんがつく。
気を遣ってくださるのはありがたいですが、少しは菰野さんに迷惑をかけないようにしていただきたい。
今日も菰野さんの運転で車だが、異能特別部隊の本部まですぐなので裏道は使わない。
これから会う綱木長官とはどんな人なのだろう。
異能特別部隊の名は知れ渡っているが、長官である綱木公通は謎の存在だった。
なにしろ、公の場にまったく出てこないのだ。
しかし、鬼である旦那様を使役しているくらいだし、かなり怖い方なんだろうか。
「緊張しているのか」
私が硬い顔をしていたのか、旦那様から少し心配そうに尋ねられた。
「……はい」
綱木長官が恐ろしい方だったらという不安もあるが、それ以上に旦那様との結婚は認めない、出ていけと言われたら私は居場所を失ってしまう。
「なに、恐れることなどない。
ただの好々爺だ」
「そうですよ、しょっちゅう隠れて休憩していて、秘書官がいつも嘆いているくらいです」
「はぁ……?」
旦那様の言葉を菰野さんがさらに補足してくれたが、まったく想像がつかない。
というか、そんな人がエリート部隊の長官だなんていうのがすでに、信じられなかった。
あれこれ想像を巡らせているうちに、異能特別部隊の本部に着いていた。
「ここが……」
レンガ造り二階建ての立派な建物が目の前に広がっている。
いくつかの棟に別れているのか、奥には木造の建物が見えた。
「ああ、あれか。
厩舎だ」
私がそれを見ているのに気づいたのか、旦那様が説明してくれる。
失念していたが軍人さんはよく馬に乗っている。
あそこで飼っているのだろう。
菰野さんと旦那様に連れられて建物に入る。
「こっちだ」