オレンジ色の夕日が差し込む放課後の誰もいない教室。
「お願い! 誰にも言わないで!」
私は向かいに座る古屋くんに向かって、目を閉じて両手を合わせると、拝み倒した。
ついさっき日直の日誌を書きながら、ピアスを開けたのを忘れて髪を耳にかけてしまったのだ。うちの学校はピアスでは校則違反だった。
先生にチクられたら、どうしよう。不安でソワソワしてくる。
「……別にピアスくらい普通だと思うけど」
古屋くんの予想と違う反応に私はビックリして目を開けた。
彼は「んー」と首を傾げ、そのあと男性にしては長めの髪をかきあげる。ツーブロックの刈り込みと耳が露わになり、それを私の方へ見せてきた。
「こういう透明なラブレットスタッドのピアスなら目立たないよ」
古屋くんの左耳には軟骨一か所と耳たぶ二か所の計三か所もピアスがついていた。全然、気がつかなかった。って、古屋くんちゃんと話すの今日が初めてなんだけど。
彼はなんてゆーかヤンキーとか不良って感じではなくて、でもいつもさりげなく髪型とか制服の着崩し方がオシャレで、男子の中じゃ物静かな方だけど浮いてる様子もなくて、ちょっと不思議な存在だった。
同じ校則違反をしていることに安心した私は、先ほど慌てて隠したピアスを今度はちゃんと見せるように、古屋くんの方へセミロングの髪を耳にかける。
「これファーストピアスで……まだ開けたばっかりだから、外せなくて。本当は透明のピアッサーが良かったんだけど……ドラッグストアで売り切れてて……」
するっと古屋くんの手がこちらに伸びてきて、思いの外その手が大きくてドキリとする。高校生になったら、急に周りの男子たちが大きくなってしまって変な感じ。
「触っていい?」
もう触られるつもりでドキドキしてたら、触れる寸前の距離になってから、彼は手を止めて、そう聞いてきた。また首を傾げている。クセなのかな。ワンコみたいで可愛いと思ってしまう。私は彼の問いかけに小さく頷く。
横を向いて彼が耳を触りやすいようにしていると、そっと彼の指が耳のフチを撫でた。ひんやりとして心臓がバクバクする。きっと顔赤いかもと思い、古屋くんの方を見られない。
「熱持ってる。腫れてるし。自分で開けたの? 病院?」
「自分で開けた。やっぱ、これ腫れてるよね」
「消毒はちゃんとしてる?」
「一応、お風呂あがった時に消毒液かけてるけど、上手くできてないかも。ドバドバ見当違いなところにかかってて、どっちかっていうと肩を消毒してるのに近い……」
「ふふ。三崎さんって面白いね。ちょっと意外」
「え、意外かな。恥ずかしい……」
私はサイドの髪で耳をおおう。
「あ、でも悪い意味じゃないよ。いつも学級委員長とかテキパキこなしてるのしか見たことなかったから。ピアスの消毒に四苦八苦してるの想像したら面白かった」
「もう、ほんと恥ずかしいぃ〜」
髪の毛の上から耳を押さえて、嘆く私を見て古屋くんはまた笑う。
「ごめん。ごめん。あはは。お詫びにピアス用の消毒液、使いやすいの教えてあげるよ。日誌書き終わったら、ドラッグストアいこ」
彼は机に転がっていたキャップ部分が可愛いイヌの形をしている私のシャープペンシルを拾い上げると、日誌の続きをちゃっちゃと書いてしまった。
駅前にあるドラッグストアと雑貨店が合体したバラエティーショップに立ち寄る。男の子と放課後に二人で出かけるのが初めてでソワソワしてしまう。ピアスコーナーで古屋くんがピアスホールのケア商品を選んでくれている間、私はピアスを見ていた。
両耳用が多いなぁ。片耳用だと結構ゴツい。どうせならカッコイイのよりは可愛いのがいいな。やっぱりもう片方も開けた方がいいかな。毎月のお小遣いが五千円の私からすると、ピアスの穴を追加で開けるのも、ピアスを買うのもお財布がなかなか厳しい。
そんなことを考えながら、いくつかピアスを手に取って見ていたら、ピアスホールの洗浄と消毒が一緒にできるケア商品を手に持った古屋くんが戻ってきた。
「このタイプがいいよ。ちょっとドロっとしてる消毒液だから、ピアスのバーベルのところに何滴か落とす感じで使うの」
「バーベル?」
「ピアスの棒のところ。でも、三崎さんまだ開けたばかりなんでしょ? あんまりバーベル前後に動かすと、ピアスホールが安定するのに時間かかっちゃうから、なるべく触らないように気をつけた方がいいよ」
「膿んでそうで、気になって何度も鏡見ながらピアス動かしちゃったかも」
「本当に膿んじゃったら、皮膚科にちゃんと行こうね。ほっといちゃダメだよ。約束」
指切りを求められて、ドキリとした。男の子と指切り……どころか、こうやってスキンシップなんて小学校以来な気がする。
「うん……」
私は恥ずかしかったけど、彼の小指に指をからめた。
公園のベンチに並んで座って、消毒の仕方を教えてもらう。今日はワイシャツ一枚でちょうどいい。夏の終わりで秋の始まりが一番好きな季節だなぁ。
教室と同様に放課後の公園も、夕日でオレンジ色だった。
私は折りたたみ式の鏡をカバンから出して、耳を見る。時折、古屋くんの顔が映りこむので、意識してしまう。彼はまず消毒綿でピアスホールの周りをキレイにしてくれた。
「お風呂でゴシゴシする必要はないから、石鹸つけて優しく洗うじゃん。で、お風呂あがったら、ピアスの穴とバーベルの隙間にさっき買った消毒ジェルをこうやって垂らすの」
耳を触られながらの鏡越しの指導は、声が直接鼓膜に届いてドキドキしてしまう。あんまりドキドキしているのを悟られないように、私は神妙な顔をした。
「いまは開けたてだから、ケアそれぐらいで大丈夫。消毒のしすぎも良くないから、一日一回か二回ね。とにかく早くピアスホールに皮膚が再生するように、清潔にそっとしておく感じ。かぶれて痒くなったりしたら、さっきも言ったけど絶対に病院行って」
あんまり喋る印象がなかった物静かな古屋くんから怒涛のピアス講義をされ圧倒される。それにしてもピアスのケアとしてダメと言われたことを今まで全部していた気がする……。
「はい……わかりました」
私が思わず先生に注意されたかのように、しょんぼりな返事をすると、「なんで敬語。ウケる」と古屋くんは笑った。
「それはそうと、三崎さん、右耳だけにしたの、理由あるの? なんとなく?」
両耳じゃなくて、右耳にしか開けなかった理由は……。
「……左は自分で上手くできなさそうだったから。私、右利きだし」
「誰かに手伝ってもらえばよかったのに」
「え? だって、お医者さん以外の人に頼むのは法律違反になるって……」
「真面目か! 三崎さん、面白いな~。でも、それなら病院でちゃんと開けたらよかったのに」
「だって、お小遣いじゃ足らなかったし……」
「バイトは?」
「? うちの高校、バイト禁止だよ」
「ウソ。知らんかった。普通にバイトしてた、オレ」
古屋くんはケラケラと笑っている。
「三崎さんくらいだよ、そんな校則に詳しいの」
むぅと私は唇をとがらせる。
「ごめん。ごめん。怒らないで」
彼は器用に消毒ジェルのふたを片手で閉めながら、眉を下げてニシシと笑う。私は手渡された消毒ジェルと一緒に鏡をカバンへしまった。
「でもさ、ほんと、なんでそんな真面目な三崎さんがピアスなんて開けたの?」
私は自分の耳たぶに触ろうとして、さっき「あんまり触らない方がいい」と言われたのを思い出し、行先のなくなった指で耳のふちを触る。
「……別に……理由はないよ。なんとなく気分転換」
「気分転換、超わかる。オレもこの前ノリで軟骨開けた」
そう言って古屋くんは両耳に髪の毛をかけた。さっき教室で見せてくれた左耳だけじゃなくて、右耳にも三か所透明ピアスがついている。合計六か所もピアスの穴が開いていた。
「たくさん開いてる!」
「あはは。オレ、中学二年生くらいまでチビでさ。あんまり面白いことも言えないし。でもピアス開けたら、なんかちょっと自信でたんだよね。まぁ学校じゃ隠してたし、同中の奴でもオレがピアスしてるの知らんだろうから、ただの自己満だったけど」
「男の子ってタケノコみたいだよね。夏休みとか少し会わないだけで、ワッと育ってる感じ」
小柄だったという過去をあまり感じさせない今の古屋くんを見て、思わず親せきのおばさんみたいなことを言ってしまった。
「この前、家に帰ってきた姉ちゃんにもそれ言われた~」
「お姉さん、一人暮らし?」
「うん。東京で美容師してて。たまに帰ってくるんだけど、髪の毛めっちゃ実験台にされる」
彼は毛先を指でつまむ。
「ヘアスタイル、いつもオシャレだよね。そっか、それでなんだ」
「三崎さんに髪型見られてたとか恥ずかしい~。でも姉ちゃんに褒められたって伝えとく。絶対めっちゃ喜ぶ」
「お姉さんと仲良しなんだね~」
「めっちゃイジられてきたけどね~。服装ダサいとか髪型ダサいとか眉毛がボサボサとか。三崎さん、キョーダイは?」
「うちもお姉ちゃんがいるよ~」
私はベンチに座ったまま足を伸ばした。スニーカーのつま先を見ながら、両手の指の腹同士を合わせる。
「んー。あんまり仲良くないん?」
「ううん。別にそんなことないんだけど……」
メガネをかけて優しく寡黙な姉を思い出す。一人で黙々と何かをするのが好きな姉は、小さい頃の私がまとわりつくのを嫌がっていた記憶がある。イジメられていたわけではないけど、心の距離はわりと遠い。
「……お姉ちゃんね、絵がすごく上手で。でもそれは趣味なんだろうなぁって漠然と思ってたんだよね」
姉はいま高校三年生で受験生だ。普通に文系の大学を志望していたし、成績もそれなりに良かったと思う。実際に成績表見たことないけれど。
「そしたら、この前、お父さんとお母さんに突然『美大に行きたい』って言ってて」
普段あまり自己主張しない姉の意思表示は、親だけでなく私にも青天の霹靂だった。しかも、もうすぐ十月。受験まで三カ月くらいしかないのに。でも、それだけ本気なのかもしれない。
「私さー。大学ね、指定校推薦狙ってたんだけど」
「え、まだオレら、一年生じゃん。もう、そんなことまで考えてるん?」
「そう。学校の定期試験はいいんだけど、受験みたいな一発勝負の試験すごい苦手だから、指定校推薦がよかったの」
高校受験は想像以上に自分にはストレスだった。できれば、大学は生活態度や学内試験といった日々の努力が報われる方式で合格したい。なんとか第一希望の高校に合格した時、最初に考えたのは、そのことだった。
「でも指定校って私大じゃん?」
お父さんはサラリーマンで、お母さんは扶養の範囲内でパートをしてる。別に貧乏ってわけじゃないけど、無尽蔵にお金がある家でもない。
「美大ってすごいお金かかるみたいだし、親から何か言われたわけじゃないけど、国立大学目指した方がいいのかなって思って、そしたら、だんだんモヤモヤしてきて……」
「なるほど。だから、ピアス開けたんだ」
「ん。そう……です」
「三崎さん、さっきからちょいちょい先生に怒られた学生みたいな喋り方になんのツボる。ブクククク……」
「もう! いじわる」
私は笑ってばかりいる古屋くんの肩を軽く小突く。でも彼に話をしたらピアスを開けても全然解消しなかったモヤモヤが、少しだけ晴れた気がした。
その日は、古屋くんと連絡先を交換して別れた。お風呂からあがり、自室で鏡を見ながら今日買った消毒液を耳たぶにつけようとして、意外と難しくて四苦八苦していると、スマホが光った。
【古屋匠海】
『ちゃんとできた?』
『消毒』
エスパー! と思いつつ、泣いてるネコのスタンプを返す。
【古屋匠海】
『意外と』
『不器用』
『うける』
自分でも薄っすらと不器用だと思ってはいたが、そう指摘され「ガーン」と落ち込んでいるネコのスタンプを今度は返した。
【古屋匠海】
『明日もやってあげる』
『公園で』
『待ち合わせ』
私は『ありがとう』という文字と、とっておきの可愛いウサギのスタンプを返した。
◇◇◇
「ピアスホール完成したら、つけたいピアス決めてたりする?」
翌日の放課後、昨日と同じ公園で古屋くんは私の耳たぶをつまんで消毒をしながら、そんな質問をしてきた。
私は耳を触られているのが、こそばゆくて……でも動かないように頑張っていたところに、彼の声が耳に届いて、ドキドキが我慢の限界すぎて少しだけ身をよじる。
「んーん。決めてない。本当に突然思いついて実行したというか……」
消毒はもう終わったというのに、古屋くんは私の耳から手を放してくれない。
「そういえば、透明のピアッサーなかったのに我慢できずに、チタンのピアッサー買って自分で開けたんだもんね」
「我ながら後先考えてなさすぎだよねぇ」
「うん。イメージと違って、三崎さんオモロってなった」
ようやく耳から手を離してくれた。消毒液の容器を彼から受け取る。古屋くんはまだ私の耳を見ていた。そして、「んー」と言いながら首をかしげる。
「オレさ、趣味でアクセサリー作ってるんだけど」
藪から棒にそういうと彼はポケットからスマホを取り出した。そして、カメラロールにある作った作品の写真を見せてくれる。写真には、メンズ向けの指輪やペンダントトップ、ピアスが映っていた。
「え。すごくない? これ。普通にお店に売ってそう」
「えへへ。マジ? 照れる。叔父さんが銀細工の職人で、教えてもらってて」
あまりのクオリティの高さにビックリして、お世辞抜きに褒め言葉が口から飛び出してしまった。
「……あのさ……できたらでいいんだけど、三崎さんのピアス作らせてくれないかな? もちろんデザインとか希望叶えるし!」
「それはすごく嬉しいけど、私お小遣いだけだし、あんまりお金払えないよ……」
古屋くんの作品は明らかに駅ビルとかにあるバラエティーショップのアクセサリーのような値段では買えなさそうなものだった。
「いやいや、お金はいらない! これはプレゼント。その代わり制作例として使わせてほしくて。いまは作っても自分で使ったり、姉ちゃんにあげたりくらいなんだけど……」
彼はスマホで人気のSNSアプリを開くと、自分のアカウントを見せてくれた。ジュエリー作りの日々をつづっているようだ。
「ゆくゆくは作品のネット販売、始めたいんだ。オーダーメイドとかもしたくて。でも制作例がメンズものばっかりでさ。姉ちゃんもゴツいのが好きで。三崎さん、可愛い感じのアクセサリー好きそうだったから」
なるほど。プロモーション的な。
「でも、それだけで本当にタダでもらっちゃっていいの?」
「その……できたら……その……着用してる写真を使わせてほしい! 顔は嫌なら映らないようにするから!」
両手を合わせて「お願い」と古屋くんはポーズを取る。
「顔見せなしなら全然いいよ。でも、古屋くん、男女問わず結構友達多いよね? こんなに素敵なアクセサリー作れるなら、女の子みんな喜んで引き受けると思うけど」
私の疑問に彼は気まずそうに眼をそらす。なんだろ?
「……キモいって引かれそうで、あんまり言いたくないんだけど……三崎さん、耳の形かわいいから……ぜひともモデルを……お願いしたく……」
予想していなかった回答に私は髪の毛で耳を隠す。たぶん、私いま顔真っ赤だ。顔が熱い。でも、問題発言をした古屋くん本人もかなり照れくさそうに口元を隠して目をそらしていた。
ちょっと気まずくなって、二人とも黙り込む。古屋くんが「遅くなると危ないから」と言って立ち上がり、私もそれに続く。彼と駅まで歩いて、路線が違うので、そこで別れた。
帰りの電車の中でメッセージが届く。
【古屋匠海】
『明日、叔父さんの工房が出してるカタログ持ってくるから。あと、バーベルとか、ポストの形とか。ってわからないかもしれないけど、とにかく、アクセサリーのパーツカタログもいろいろ持ってくるから、一緒に見よ!』
いつもは短文というか、単語でポツポツ送ってくる彼にしては長い文章だ。思わず、私が「長文!」って返したら、
【古屋匠海】
『メモ帳に書いてから貼った』
って返ってきて、電車内なのに座り込みそうになるほど、彼の可愛さに萌えてしまったので、ウサギが感動でウルウル、キラキラしてるスタンプを返しておいた。
それから放課後は公園で待ち合わせをして、消毒をしてもらってから、彼に色んなアクセサリーのカタログを見せてもらったりしつつ、希望を伝えるのが私たちの日課になった。
【古屋匠海】
『駅前のマック』
『でもいい?』
『今日』
『雨、降ってきた』
お昼休みにそうメッセージが来て、教室の彼を探すと、窓から空を見あげていた。私は「OK」のネコスタンプを返す。
【古屋匠海】
『あ』
『忘れた』
疑問な顔をしているイヌのスタンプを送ると、すぐに返事が返ってきた。
【古屋匠海】
『傘』
私は少しだけ考えてから「折りたたみで良ければ」と返事を打つ。古屋くんから変な白い毛玉のようなキャラクターがフルフル震えて「ありがとう」と言っているスタンプが届く。
一緒に帰るのは、日直のあとで駅ビルに寄って以来だった。なんだか、急に胸がムズムズしてきた。だって、傘一本しかないって、古屋くん理解してるのかな……。
昇降口で待ち合わせをする。課題ノートをクラス分集めて教師に出しに行っていたので、少し古屋くんを待たせてしまっていたが、おかげで下駄箱の周りに学生はほとんどいなかった。
「ごめん。待たせちゃったよね」
「ううん。ノート集めてるの見てたし」
上履きから靴を履き替える。カバンから折りたたみ傘を取り出すと、古屋くんが手を出してきた。私が首を傾げると、
「オレのが身長高いんで」
と、きまり悪そうに返される。昼休みの胸のムズムズがぶり返してきた。
一緒の一つの傘に入って歩く。肩が触れそうな距離で並ぶと、古屋くんは私の頭一つ分くらい大きかった。「オレのが身長高いんで」というなんでもないセリフを思い出して、またムズムズする。さっきからずっと気分が落ち着かない。
車道側にいる彼は私が濡れないように傘を傾けてくれていたけど、古屋くんの右肩の方が濡れてて気になる。
「三崎さんって、ネコとかウサギとかイヌとか、動物の可愛いイラスト好きだよね」
急に話を振られて、思わず「え?」と聞き返してしまった。古屋くんは傘を指さす。私の折りたたみ傘は、イヌの絵柄がワンポイントでプリントされている。
「この傘もそうだし、メッセで送ってくれるスタンプもどれも可愛いし」
好きなものを当てられると嬉しいけど、ちょっと恥ずかしい。私は頭をかく。
「あはは。バレちゃった? 私、こういうのに目がなくて。メッセのスタンプとか軽率に買っちゃう」
ふと、指摘を受けて、なにかキッカケあったっけ? と思い返してみた。
雨の日。まだ小さかった頃、公園に遊びにいく約束を母に反故にされた私は、リビングで大人しくお絵かきをしていた姉にウザがらみをしていた。たぶん、髪をひっぱったり、クレヨン折ったりしてたと思う。
困り果てた姉は「ほら、しーちゃんの好きなもの描いてあげるよ。ネコさんにする? ウサギさんにする?」と聞いてくれた。二歳しか違わないのに、姉は昔から驚くほど「お姉ちゃん」だった。
その時、姉が描いてくれた大きな葉っぱの傘をさしたウサギさんに私は虜になって、しばらく事あるごとに姉に「描いて」と、せがんでいたと思う。何度思い返してもウザい妹だった。反省。
でも、あのウサギ、ほんと可愛かったなぁ。イラスト残ってるかな。帰ったら探してみよう。
「ねぇ、古屋くん。イラストからピアスにすることってできる?」
「細かい表情とかまでイラストを完全に表現するのはオレにはまだできないけど、ネコとかシルエットならできるよ。なにか、リクエスト思いついた?」
作ってくれるピアスのモチーフについて、私は決めかねていたのだ。そういえば、やたら古屋くんが動物モチーフ推しだったのって、私がそういうグッズで身の回りの小物を揃えていたからか。観察されていたことに知って、こそばゆくなった。
「うん。今度、見せるね」
なるべく肩のあたりそうな距離にいる右隣の彼を見ないようにして、私はそう返す。しとしとと降る雨が傘に当たって、私と古屋くんの会話の間をつないでくれた。
帰宅すると、母から早く風呂に入れと急かされた。湯船につかりながら、さっきのマックでの出来事を思い出して悶える。
お店のテーブルに並んで座って耳を消毒されるのは、短時間ながらかなり恥ずかしかった。
(ああああああ! どう見てもイチャついてるカップルじゃん!)
ぶくぶくと、お湯に顔を半分沈めていく。最近、毎日のように放課後、古屋くんと一緒にいる。なんとなく彼女とかはいなさそうだけど(気配的に)、正直なにを考えているのか、よくわからない男の子だ。
お風呂をあがってから、自室の思い出箱をひっくり返す。でも、姉に書いてもらったイラストは見つからなかった。
私はため息をひとつ吐いてから、仕方なく姉の部屋の扉をノックする。中から返事が返ってきて、私は扉を開けた。姉は勉強していたようだ。
「どうしたの? また、文房具?」
姉にはカッターやコンパスなど文房具が必要な時によく借りるので、今回もそう思われたらしい。
「ううん。違う。お姉ちゃん、勉強してたの? 邪魔して、ごめんね」
「いいよ。大丈夫。パパは美大受験してもいいよって言ってくれたけど、ママからいずれにせよ、浪人するのは厳しいって言われてるから。一応ね」
私の言葉に暗に「美大受験するのに、なんで普通の勉強してるの?」って意味を感じ取ってしまったらしい姉に申し訳ない気持ちになる。なんだか、気まずい間。
「で、詩音、どうしたの?」
気まずい間を姉は苦笑して、そうつないでくれた。いつの頃からか姉は私のことを「しーちゃん」とは呼んでくれなくなったが、優しいところは変わらない。
「昔さ、お姉ちゃんが描いてくれたウサギの絵、覚えてる? 葉っぱの傘持ってるの」
姉は首を傾げる。そして、しばらくしてから「ああ、あのウサギね」と笑った。
「あれ、もう一度、描いてほしいんだけど……」
また、姉は首を傾げた。その後で「ふふ。変な子」と言って、スケッチブックにサラサラと描いてくれた。明らかに昔よりも数十倍はクオリティの高い『葉っぱの傘を持ったウサギさん』のイラストを手に入れた私は、それをマジマジと見る。
「お姉ちゃんがメッセのスタンプ作ってくれたら、私、買うのにな」
「あはは。なにそれ。でも、それもいいかもね~」
少し勉強疲れしていたのか、姉はそう言ってまた苦笑した。お礼を言って、姉の部屋を後にする。久しぶりに、姉とちゃんと会話をした気がした。古屋くんのお陰かも。
イラストをさっそく写真に撮って、古屋くんにメッセで送る。
【古屋匠海】
『おー』
『かわいい』
『実際に見せて』
『できたら』
『イラスト』
なんとなくだけど、古屋くんはメッセージを送ったあとで、「これじゃ伝わらないかも」と思って単語をつけ足してるっぽい。彼から送られてくる独特な文章が、だんだんクセになってきた。かわいい。
私はOKというネコのスタンプとともに、「明日、持っていくね」と添えて返信した。
次の日。選択科目で教室を移動したけど、忘れ物に気がついて自分の教室へと急いで戻る。すると、教室から声が聞こえてきた。
「古屋さ、昨日、マックでイチャついてたっしょ」
「えー、なになに? 古屋って彼女いたの?」
昨日のことだ。冷や汗がドッとでてきて、私は扉の手前で固まる。
「それがさ、あれ、三崎さんっしょ?」
「学級イインチョーの???」
「……ちがう。つきあってないよ」
古屋くんのぶっきらぼうな声が響いた。
「いやいやいやいや! あの距離感で、それはないだろ」
「マックで何してん? 古屋~」
「三崎さんの耳を、なんか……こう、撫でてた!」
だんだん指先が冷たくなっていく感じがする。嫌だな、こういう会話……。
「だから、なんでもないよ。耳も触ってないし、三崎さんとは何でもない。たまたまマックで会っただけだし。お前の見てた方向から、そう見えただけでしょ」
私と付き合ってる疑いをかけられて、心底嫌そうな対応をする古屋くんの声を聞いていたら、いたたまれなくなって、私は教室には入らずに選択科目の教室に戻った。
それから、今日は会いたくなくて、帰りのホームルームが始まる前に、古屋くんに「お母さんから用事言われて、今日はすぐ帰らないといけなくなった」と嘘のメッセージを送る。彼からは「了解!」というセリフの書かれた変な白い毛玉のようなキャラクターのスタンプが返ってきた。
◇◇◇
あれから、なんやかんやと理由をつけて会うのを避けてたら、一週間が過ぎた。そして、日直の順番がまた巡ってきて……出席番号が一つ前である古屋くんと一緒に当番になる。
前回と同じくオレンジ色の夕日が差し込む放課後の教室。前回と違って、私も彼もワイシャツの上からセーターのベストを着ていた。
日誌を埋める私を、彼は肘をついて見ている。私は早くこの仕事を終わらせようと、シャーペンを走らせた。
「ねぇ。オレなんか怒らせるようなことした?」
五限の項目を埋めていたら、そう問いかけられる。
「ううん。なんで? そんなことないよ。ちょっと、本当に忙しかっただけで……実はさ、耳のモデルの件なんだけど……やっぱり難しいかなって……」
私は日誌から顔も上げずに、ペラペラとこの一週間考えた言い訳を口にした。古屋くんはそれを聞き終える前に、ズボンのポケットに手を入れて何かを取り出す。それから、私が書きこんでいる五限の項目の上に、それを置いた。
「試作品」
それは高さ三センチくらいの置物だった。大きな葉っぱの傘を持ったウサギさん。
「イラストの写真だけで作ったから、後ろ姿とかはオレの想像で補完したけど」
すごく可愛い置物を前に、私は思わず日誌から顔をあげて古屋くんを見る。今度は彼の方が俯いて置物の方を見てたので、目は合わなかった。でも、私がシャーペンを止めたのを見て、古屋くんは目線をあげた。
「……ピアスにしたらデカくね? って思うかもしれないけど、これは試作品なので……試しに、プラ粘土で作っただけなので……ピアスはもっと小さく作る予定ですし……」
古屋くんの声はどんどん小さくなっていって、目線もまた下がっていった。
「ぶくく……」
イラストからこんなに精巧な立体物を作り出せるのに、自信なさげな古屋くんを見てたら、面白くて笑いが口からもれてしまう。私は下を向いて、笑いを堪えた。
「オレなんかしでかして、怒ってたなら、これで許してほしいです」
上目づかいでそう請われて、そもそも別に怒っていたわけじゃないけど、頑なになっていた心がほぐれる。
「これ、くれるの?」
頷く古屋くん。私は置物を手に取って、回して背面までよく見る。ガチャガチャのカプセルに入ってそうなくらいの完成度だった。
「あのさ。本当にオレ、何したの? 三崎さんとこんな感じになるの、もう二度と嫌だから教えて」
しょんぼり顔の古屋くんに対して、これ以上黙ってるのも申し訳ないと思って、気まずいながら、私は先週の聞いてしまった会話の話をすることにした。
「なんかちょっと……あそこまで関係を全否定されると、自分でもビックリするくらいショック受けちゃって……ごめんね」
「え……だって、三崎さん、ピアスのことは『誰にも言わないで』って言ってたから」
想定外の答えに「え……?」と私もビックリする。でも、確かに私は彼に誰にも言わないでほしいと頼んでいた。すっかり忘れていたけど。
「ピアスの話を伏せて、三崎さんの耳が好きだから触ってたとか……いや、それは事実なんだけど、それだとオレが一方的にセクハラしてたみたいになるし、ピアスの話は避けては通れないし……」
「ふふ。耳が好きなのは、事実なの?」
口元を押さえて、なにやらブツブツ説明をしている古屋くんに、思わずツッコミを入れてしまう。私が苦笑していると、彼の大きな手が伸びてくる。前と同じように彼は触れる直前で「触ってもいい?」と聞いてきた。私は「いいよ」と髪を耳にかける。
でも、彼は何故か出した手を引っ込めて、立ち上がった。なんだろう? と疑問に思ってたら、わざわざイスを私の右横に持ってきて座り直す。机越しだった距離が急に縮まってしまい心臓がバクバクしてくる。
耳のフチに彼の指が触れた。
「腫れひいたね」
私は「うん」と小さく返す。消毒されてる時から思ってたけど、隣に座られて耳を触れながら話をされると、距離が近すぎる!
しばらく触った後で指の感触が離れたので「もう終わりかな」とホッとしてたら、耳を触っていた手がそのまま後頭部に入ってきた。首の後ろを触れて、次に左耳になでてから左肩におりた。
それから私は彼の方へ引き寄せられると、右肩に柔らかい重さが乗る。右を見ると、古屋くんの後頭部が見えた。状況が理解できず、私は硬直する。もはや、まな板の上の鯉。
「……あのさ、オレ……耳だけじゃなくて……三崎さんのこと全体的に好きなんすけど……付き合ってくれると、その……ピアスの話しないでも、あいつらに『彼女だよ』って言えるし、嬉しいんですけど……」
肩に頭を置かれた状態でそんなことを言われて、頭が沸騰しそうだった。私の頸動脈はいまにも爆発しそうなポンプみたいにドクドクしている。
古屋くんの言うことを理解しようと、ぐるぐると反芻する。付き合う……付き合うって、あの意味? 合ってる? ぐるぐると目が回る。なんとか「うん」と頷くと、肩が軽くなった。古屋くんが顔をあげた反動で、彼の鼻柱と私の耳が触れる。
グイッと、さらに彼の方へ引き寄せられた。
(え? なに? なんなの? キスされる? 耳に!?!?)
もうわけがわからなくて、ギュッと目を閉じる。その時、だった。
カプッ。
「へっ???」
ええええええええ!?!? 声にならない悲鳴をあげて、私は耳を押さえてガタリと椅子から立ち上がった。
いま、耳……噛まれたよね? え? は?
「喜びのあまり噛んでみたい衝動にかられたのですが、噛んでいいか聞いたら、きっと『それはダメ』って言われそうだったので」
それは、そう!
しょんぼり顔で言い訳にならないことを言う古屋くんを見ながら、私はワナワナして、髪の毛で両耳を急いで隠した。顔が熱い。きっとまた真っ赤になってる!
変な男の子と付き合っちゃったかもしれない……。
(おしまい)
「お願い! 誰にも言わないで!」
私は向かいに座る古屋くんに向かって、目を閉じて両手を合わせると、拝み倒した。
ついさっき日直の日誌を書きながら、ピアスを開けたのを忘れて髪を耳にかけてしまったのだ。うちの学校はピアスでは校則違反だった。
先生にチクられたら、どうしよう。不安でソワソワしてくる。
「……別にピアスくらい普通だと思うけど」
古屋くんの予想と違う反応に私はビックリして目を開けた。
彼は「んー」と首を傾げ、そのあと男性にしては長めの髪をかきあげる。ツーブロックの刈り込みと耳が露わになり、それを私の方へ見せてきた。
「こういう透明なラブレットスタッドのピアスなら目立たないよ」
古屋くんの左耳には軟骨一か所と耳たぶ二か所の計三か所もピアスがついていた。全然、気がつかなかった。って、古屋くんちゃんと話すの今日が初めてなんだけど。
彼はなんてゆーかヤンキーとか不良って感じではなくて、でもいつもさりげなく髪型とか制服の着崩し方がオシャレで、男子の中じゃ物静かな方だけど浮いてる様子もなくて、ちょっと不思議な存在だった。
同じ校則違反をしていることに安心した私は、先ほど慌てて隠したピアスを今度はちゃんと見せるように、古屋くんの方へセミロングの髪を耳にかける。
「これファーストピアスで……まだ開けたばっかりだから、外せなくて。本当は透明のピアッサーが良かったんだけど……ドラッグストアで売り切れてて……」
するっと古屋くんの手がこちらに伸びてきて、思いの外その手が大きくてドキリとする。高校生になったら、急に周りの男子たちが大きくなってしまって変な感じ。
「触っていい?」
もう触られるつもりでドキドキしてたら、触れる寸前の距離になってから、彼は手を止めて、そう聞いてきた。また首を傾げている。クセなのかな。ワンコみたいで可愛いと思ってしまう。私は彼の問いかけに小さく頷く。
横を向いて彼が耳を触りやすいようにしていると、そっと彼の指が耳のフチを撫でた。ひんやりとして心臓がバクバクする。きっと顔赤いかもと思い、古屋くんの方を見られない。
「熱持ってる。腫れてるし。自分で開けたの? 病院?」
「自分で開けた。やっぱ、これ腫れてるよね」
「消毒はちゃんとしてる?」
「一応、お風呂あがった時に消毒液かけてるけど、上手くできてないかも。ドバドバ見当違いなところにかかってて、どっちかっていうと肩を消毒してるのに近い……」
「ふふ。三崎さんって面白いね。ちょっと意外」
「え、意外かな。恥ずかしい……」
私はサイドの髪で耳をおおう。
「あ、でも悪い意味じゃないよ。いつも学級委員長とかテキパキこなしてるのしか見たことなかったから。ピアスの消毒に四苦八苦してるの想像したら面白かった」
「もう、ほんと恥ずかしいぃ〜」
髪の毛の上から耳を押さえて、嘆く私を見て古屋くんはまた笑う。
「ごめん。ごめん。あはは。お詫びにピアス用の消毒液、使いやすいの教えてあげるよ。日誌書き終わったら、ドラッグストアいこ」
彼は机に転がっていたキャップ部分が可愛いイヌの形をしている私のシャープペンシルを拾い上げると、日誌の続きをちゃっちゃと書いてしまった。
駅前にあるドラッグストアと雑貨店が合体したバラエティーショップに立ち寄る。男の子と放課後に二人で出かけるのが初めてでソワソワしてしまう。ピアスコーナーで古屋くんがピアスホールのケア商品を選んでくれている間、私はピアスを見ていた。
両耳用が多いなぁ。片耳用だと結構ゴツい。どうせならカッコイイのよりは可愛いのがいいな。やっぱりもう片方も開けた方がいいかな。毎月のお小遣いが五千円の私からすると、ピアスの穴を追加で開けるのも、ピアスを買うのもお財布がなかなか厳しい。
そんなことを考えながら、いくつかピアスを手に取って見ていたら、ピアスホールの洗浄と消毒が一緒にできるケア商品を手に持った古屋くんが戻ってきた。
「このタイプがいいよ。ちょっとドロっとしてる消毒液だから、ピアスのバーベルのところに何滴か落とす感じで使うの」
「バーベル?」
「ピアスの棒のところ。でも、三崎さんまだ開けたばかりなんでしょ? あんまりバーベル前後に動かすと、ピアスホールが安定するのに時間かかっちゃうから、なるべく触らないように気をつけた方がいいよ」
「膿んでそうで、気になって何度も鏡見ながらピアス動かしちゃったかも」
「本当に膿んじゃったら、皮膚科にちゃんと行こうね。ほっといちゃダメだよ。約束」
指切りを求められて、ドキリとした。男の子と指切り……どころか、こうやってスキンシップなんて小学校以来な気がする。
「うん……」
私は恥ずかしかったけど、彼の小指に指をからめた。
公園のベンチに並んで座って、消毒の仕方を教えてもらう。今日はワイシャツ一枚でちょうどいい。夏の終わりで秋の始まりが一番好きな季節だなぁ。
教室と同様に放課後の公園も、夕日でオレンジ色だった。
私は折りたたみ式の鏡をカバンから出して、耳を見る。時折、古屋くんの顔が映りこむので、意識してしまう。彼はまず消毒綿でピアスホールの周りをキレイにしてくれた。
「お風呂でゴシゴシする必要はないから、石鹸つけて優しく洗うじゃん。で、お風呂あがったら、ピアスの穴とバーベルの隙間にさっき買った消毒ジェルをこうやって垂らすの」
耳を触られながらの鏡越しの指導は、声が直接鼓膜に届いてドキドキしてしまう。あんまりドキドキしているのを悟られないように、私は神妙な顔をした。
「いまは開けたてだから、ケアそれぐらいで大丈夫。消毒のしすぎも良くないから、一日一回か二回ね。とにかく早くピアスホールに皮膚が再生するように、清潔にそっとしておく感じ。かぶれて痒くなったりしたら、さっきも言ったけど絶対に病院行って」
あんまり喋る印象がなかった物静かな古屋くんから怒涛のピアス講義をされ圧倒される。それにしてもピアスのケアとしてダメと言われたことを今まで全部していた気がする……。
「はい……わかりました」
私が思わず先生に注意されたかのように、しょんぼりな返事をすると、「なんで敬語。ウケる」と古屋くんは笑った。
「それはそうと、三崎さん、右耳だけにしたの、理由あるの? なんとなく?」
両耳じゃなくて、右耳にしか開けなかった理由は……。
「……左は自分で上手くできなさそうだったから。私、右利きだし」
「誰かに手伝ってもらえばよかったのに」
「え? だって、お医者さん以外の人に頼むのは法律違反になるって……」
「真面目か! 三崎さん、面白いな~。でも、それなら病院でちゃんと開けたらよかったのに」
「だって、お小遣いじゃ足らなかったし……」
「バイトは?」
「? うちの高校、バイト禁止だよ」
「ウソ。知らんかった。普通にバイトしてた、オレ」
古屋くんはケラケラと笑っている。
「三崎さんくらいだよ、そんな校則に詳しいの」
むぅと私は唇をとがらせる。
「ごめん。ごめん。怒らないで」
彼は器用に消毒ジェルのふたを片手で閉めながら、眉を下げてニシシと笑う。私は手渡された消毒ジェルと一緒に鏡をカバンへしまった。
「でもさ、ほんと、なんでそんな真面目な三崎さんがピアスなんて開けたの?」
私は自分の耳たぶに触ろうとして、さっき「あんまり触らない方がいい」と言われたのを思い出し、行先のなくなった指で耳のふちを触る。
「……別に……理由はないよ。なんとなく気分転換」
「気分転換、超わかる。オレもこの前ノリで軟骨開けた」
そう言って古屋くんは両耳に髪の毛をかけた。さっき教室で見せてくれた左耳だけじゃなくて、右耳にも三か所透明ピアスがついている。合計六か所もピアスの穴が開いていた。
「たくさん開いてる!」
「あはは。オレ、中学二年生くらいまでチビでさ。あんまり面白いことも言えないし。でもピアス開けたら、なんかちょっと自信でたんだよね。まぁ学校じゃ隠してたし、同中の奴でもオレがピアスしてるの知らんだろうから、ただの自己満だったけど」
「男の子ってタケノコみたいだよね。夏休みとか少し会わないだけで、ワッと育ってる感じ」
小柄だったという過去をあまり感じさせない今の古屋くんを見て、思わず親せきのおばさんみたいなことを言ってしまった。
「この前、家に帰ってきた姉ちゃんにもそれ言われた~」
「お姉さん、一人暮らし?」
「うん。東京で美容師してて。たまに帰ってくるんだけど、髪の毛めっちゃ実験台にされる」
彼は毛先を指でつまむ。
「ヘアスタイル、いつもオシャレだよね。そっか、それでなんだ」
「三崎さんに髪型見られてたとか恥ずかしい~。でも姉ちゃんに褒められたって伝えとく。絶対めっちゃ喜ぶ」
「お姉さんと仲良しなんだね~」
「めっちゃイジられてきたけどね~。服装ダサいとか髪型ダサいとか眉毛がボサボサとか。三崎さん、キョーダイは?」
「うちもお姉ちゃんがいるよ~」
私はベンチに座ったまま足を伸ばした。スニーカーのつま先を見ながら、両手の指の腹同士を合わせる。
「んー。あんまり仲良くないん?」
「ううん。別にそんなことないんだけど……」
メガネをかけて優しく寡黙な姉を思い出す。一人で黙々と何かをするのが好きな姉は、小さい頃の私がまとわりつくのを嫌がっていた記憶がある。イジメられていたわけではないけど、心の距離はわりと遠い。
「……お姉ちゃんね、絵がすごく上手で。でもそれは趣味なんだろうなぁって漠然と思ってたんだよね」
姉はいま高校三年生で受験生だ。普通に文系の大学を志望していたし、成績もそれなりに良かったと思う。実際に成績表見たことないけれど。
「そしたら、この前、お父さんとお母さんに突然『美大に行きたい』って言ってて」
普段あまり自己主張しない姉の意思表示は、親だけでなく私にも青天の霹靂だった。しかも、もうすぐ十月。受験まで三カ月くらいしかないのに。でも、それだけ本気なのかもしれない。
「私さー。大学ね、指定校推薦狙ってたんだけど」
「え、まだオレら、一年生じゃん。もう、そんなことまで考えてるん?」
「そう。学校の定期試験はいいんだけど、受験みたいな一発勝負の試験すごい苦手だから、指定校推薦がよかったの」
高校受験は想像以上に自分にはストレスだった。できれば、大学は生活態度や学内試験といった日々の努力が報われる方式で合格したい。なんとか第一希望の高校に合格した時、最初に考えたのは、そのことだった。
「でも指定校って私大じゃん?」
お父さんはサラリーマンで、お母さんは扶養の範囲内でパートをしてる。別に貧乏ってわけじゃないけど、無尽蔵にお金がある家でもない。
「美大ってすごいお金かかるみたいだし、親から何か言われたわけじゃないけど、国立大学目指した方がいいのかなって思って、そしたら、だんだんモヤモヤしてきて……」
「なるほど。だから、ピアス開けたんだ」
「ん。そう……です」
「三崎さん、さっきからちょいちょい先生に怒られた学生みたいな喋り方になんのツボる。ブクククク……」
「もう! いじわる」
私は笑ってばかりいる古屋くんの肩を軽く小突く。でも彼に話をしたらピアスを開けても全然解消しなかったモヤモヤが、少しだけ晴れた気がした。
その日は、古屋くんと連絡先を交換して別れた。お風呂からあがり、自室で鏡を見ながら今日買った消毒液を耳たぶにつけようとして、意外と難しくて四苦八苦していると、スマホが光った。
【古屋匠海】
『ちゃんとできた?』
『消毒』
エスパー! と思いつつ、泣いてるネコのスタンプを返す。
【古屋匠海】
『意外と』
『不器用』
『うける』
自分でも薄っすらと不器用だと思ってはいたが、そう指摘され「ガーン」と落ち込んでいるネコのスタンプを今度は返した。
【古屋匠海】
『明日もやってあげる』
『公園で』
『待ち合わせ』
私は『ありがとう』という文字と、とっておきの可愛いウサギのスタンプを返した。
◇◇◇
「ピアスホール完成したら、つけたいピアス決めてたりする?」
翌日の放課後、昨日と同じ公園で古屋くんは私の耳たぶをつまんで消毒をしながら、そんな質問をしてきた。
私は耳を触られているのが、こそばゆくて……でも動かないように頑張っていたところに、彼の声が耳に届いて、ドキドキが我慢の限界すぎて少しだけ身をよじる。
「んーん。決めてない。本当に突然思いついて実行したというか……」
消毒はもう終わったというのに、古屋くんは私の耳から手を放してくれない。
「そういえば、透明のピアッサーなかったのに我慢できずに、チタンのピアッサー買って自分で開けたんだもんね」
「我ながら後先考えてなさすぎだよねぇ」
「うん。イメージと違って、三崎さんオモロってなった」
ようやく耳から手を離してくれた。消毒液の容器を彼から受け取る。古屋くんはまだ私の耳を見ていた。そして、「んー」と言いながら首をかしげる。
「オレさ、趣味でアクセサリー作ってるんだけど」
藪から棒にそういうと彼はポケットからスマホを取り出した。そして、カメラロールにある作った作品の写真を見せてくれる。写真には、メンズ向けの指輪やペンダントトップ、ピアスが映っていた。
「え。すごくない? これ。普通にお店に売ってそう」
「えへへ。マジ? 照れる。叔父さんが銀細工の職人で、教えてもらってて」
あまりのクオリティの高さにビックリして、お世辞抜きに褒め言葉が口から飛び出してしまった。
「……あのさ……できたらでいいんだけど、三崎さんのピアス作らせてくれないかな? もちろんデザインとか希望叶えるし!」
「それはすごく嬉しいけど、私お小遣いだけだし、あんまりお金払えないよ……」
古屋くんの作品は明らかに駅ビルとかにあるバラエティーショップのアクセサリーのような値段では買えなさそうなものだった。
「いやいや、お金はいらない! これはプレゼント。その代わり制作例として使わせてほしくて。いまは作っても自分で使ったり、姉ちゃんにあげたりくらいなんだけど……」
彼はスマホで人気のSNSアプリを開くと、自分のアカウントを見せてくれた。ジュエリー作りの日々をつづっているようだ。
「ゆくゆくは作品のネット販売、始めたいんだ。オーダーメイドとかもしたくて。でも制作例がメンズものばっかりでさ。姉ちゃんもゴツいのが好きで。三崎さん、可愛い感じのアクセサリー好きそうだったから」
なるほど。プロモーション的な。
「でも、それだけで本当にタダでもらっちゃっていいの?」
「その……できたら……その……着用してる写真を使わせてほしい! 顔は嫌なら映らないようにするから!」
両手を合わせて「お願い」と古屋くんはポーズを取る。
「顔見せなしなら全然いいよ。でも、古屋くん、男女問わず結構友達多いよね? こんなに素敵なアクセサリー作れるなら、女の子みんな喜んで引き受けると思うけど」
私の疑問に彼は気まずそうに眼をそらす。なんだろ?
「……キモいって引かれそうで、あんまり言いたくないんだけど……三崎さん、耳の形かわいいから……ぜひともモデルを……お願いしたく……」
予想していなかった回答に私は髪の毛で耳を隠す。たぶん、私いま顔真っ赤だ。顔が熱い。でも、問題発言をした古屋くん本人もかなり照れくさそうに口元を隠して目をそらしていた。
ちょっと気まずくなって、二人とも黙り込む。古屋くんが「遅くなると危ないから」と言って立ち上がり、私もそれに続く。彼と駅まで歩いて、路線が違うので、そこで別れた。
帰りの電車の中でメッセージが届く。
【古屋匠海】
『明日、叔父さんの工房が出してるカタログ持ってくるから。あと、バーベルとか、ポストの形とか。ってわからないかもしれないけど、とにかく、アクセサリーのパーツカタログもいろいろ持ってくるから、一緒に見よ!』
いつもは短文というか、単語でポツポツ送ってくる彼にしては長い文章だ。思わず、私が「長文!」って返したら、
【古屋匠海】
『メモ帳に書いてから貼った』
って返ってきて、電車内なのに座り込みそうになるほど、彼の可愛さに萌えてしまったので、ウサギが感動でウルウル、キラキラしてるスタンプを返しておいた。
それから放課後は公園で待ち合わせをして、消毒をしてもらってから、彼に色んなアクセサリーのカタログを見せてもらったりしつつ、希望を伝えるのが私たちの日課になった。
【古屋匠海】
『駅前のマック』
『でもいい?』
『今日』
『雨、降ってきた』
お昼休みにそうメッセージが来て、教室の彼を探すと、窓から空を見あげていた。私は「OK」のネコスタンプを返す。
【古屋匠海】
『あ』
『忘れた』
疑問な顔をしているイヌのスタンプを送ると、すぐに返事が返ってきた。
【古屋匠海】
『傘』
私は少しだけ考えてから「折りたたみで良ければ」と返事を打つ。古屋くんから変な白い毛玉のようなキャラクターがフルフル震えて「ありがとう」と言っているスタンプが届く。
一緒に帰るのは、日直のあとで駅ビルに寄って以来だった。なんだか、急に胸がムズムズしてきた。だって、傘一本しかないって、古屋くん理解してるのかな……。
昇降口で待ち合わせをする。課題ノートをクラス分集めて教師に出しに行っていたので、少し古屋くんを待たせてしまっていたが、おかげで下駄箱の周りに学生はほとんどいなかった。
「ごめん。待たせちゃったよね」
「ううん。ノート集めてるの見てたし」
上履きから靴を履き替える。カバンから折りたたみ傘を取り出すと、古屋くんが手を出してきた。私が首を傾げると、
「オレのが身長高いんで」
と、きまり悪そうに返される。昼休みの胸のムズムズがぶり返してきた。
一緒の一つの傘に入って歩く。肩が触れそうな距離で並ぶと、古屋くんは私の頭一つ分くらい大きかった。「オレのが身長高いんで」というなんでもないセリフを思い出して、またムズムズする。さっきからずっと気分が落ち着かない。
車道側にいる彼は私が濡れないように傘を傾けてくれていたけど、古屋くんの右肩の方が濡れてて気になる。
「三崎さんって、ネコとかウサギとかイヌとか、動物の可愛いイラスト好きだよね」
急に話を振られて、思わず「え?」と聞き返してしまった。古屋くんは傘を指さす。私の折りたたみ傘は、イヌの絵柄がワンポイントでプリントされている。
「この傘もそうだし、メッセで送ってくれるスタンプもどれも可愛いし」
好きなものを当てられると嬉しいけど、ちょっと恥ずかしい。私は頭をかく。
「あはは。バレちゃった? 私、こういうのに目がなくて。メッセのスタンプとか軽率に買っちゃう」
ふと、指摘を受けて、なにかキッカケあったっけ? と思い返してみた。
雨の日。まだ小さかった頃、公園に遊びにいく約束を母に反故にされた私は、リビングで大人しくお絵かきをしていた姉にウザがらみをしていた。たぶん、髪をひっぱったり、クレヨン折ったりしてたと思う。
困り果てた姉は「ほら、しーちゃんの好きなもの描いてあげるよ。ネコさんにする? ウサギさんにする?」と聞いてくれた。二歳しか違わないのに、姉は昔から驚くほど「お姉ちゃん」だった。
その時、姉が描いてくれた大きな葉っぱの傘をさしたウサギさんに私は虜になって、しばらく事あるごとに姉に「描いて」と、せがんでいたと思う。何度思い返してもウザい妹だった。反省。
でも、あのウサギ、ほんと可愛かったなぁ。イラスト残ってるかな。帰ったら探してみよう。
「ねぇ、古屋くん。イラストからピアスにすることってできる?」
「細かい表情とかまでイラストを完全に表現するのはオレにはまだできないけど、ネコとかシルエットならできるよ。なにか、リクエスト思いついた?」
作ってくれるピアスのモチーフについて、私は決めかねていたのだ。そういえば、やたら古屋くんが動物モチーフ推しだったのって、私がそういうグッズで身の回りの小物を揃えていたからか。観察されていたことに知って、こそばゆくなった。
「うん。今度、見せるね」
なるべく肩のあたりそうな距離にいる右隣の彼を見ないようにして、私はそう返す。しとしとと降る雨が傘に当たって、私と古屋くんの会話の間をつないでくれた。
帰宅すると、母から早く風呂に入れと急かされた。湯船につかりながら、さっきのマックでの出来事を思い出して悶える。
お店のテーブルに並んで座って耳を消毒されるのは、短時間ながらかなり恥ずかしかった。
(ああああああ! どう見てもイチャついてるカップルじゃん!)
ぶくぶくと、お湯に顔を半分沈めていく。最近、毎日のように放課後、古屋くんと一緒にいる。なんとなく彼女とかはいなさそうだけど(気配的に)、正直なにを考えているのか、よくわからない男の子だ。
お風呂をあがってから、自室の思い出箱をひっくり返す。でも、姉に書いてもらったイラストは見つからなかった。
私はため息をひとつ吐いてから、仕方なく姉の部屋の扉をノックする。中から返事が返ってきて、私は扉を開けた。姉は勉強していたようだ。
「どうしたの? また、文房具?」
姉にはカッターやコンパスなど文房具が必要な時によく借りるので、今回もそう思われたらしい。
「ううん。違う。お姉ちゃん、勉強してたの? 邪魔して、ごめんね」
「いいよ。大丈夫。パパは美大受験してもいいよって言ってくれたけど、ママからいずれにせよ、浪人するのは厳しいって言われてるから。一応ね」
私の言葉に暗に「美大受験するのに、なんで普通の勉強してるの?」って意味を感じ取ってしまったらしい姉に申し訳ない気持ちになる。なんだか、気まずい間。
「で、詩音、どうしたの?」
気まずい間を姉は苦笑して、そうつないでくれた。いつの頃からか姉は私のことを「しーちゃん」とは呼んでくれなくなったが、優しいところは変わらない。
「昔さ、お姉ちゃんが描いてくれたウサギの絵、覚えてる? 葉っぱの傘持ってるの」
姉は首を傾げる。そして、しばらくしてから「ああ、あのウサギね」と笑った。
「あれ、もう一度、描いてほしいんだけど……」
また、姉は首を傾げた。その後で「ふふ。変な子」と言って、スケッチブックにサラサラと描いてくれた。明らかに昔よりも数十倍はクオリティの高い『葉っぱの傘を持ったウサギさん』のイラストを手に入れた私は、それをマジマジと見る。
「お姉ちゃんがメッセのスタンプ作ってくれたら、私、買うのにな」
「あはは。なにそれ。でも、それもいいかもね~」
少し勉強疲れしていたのか、姉はそう言ってまた苦笑した。お礼を言って、姉の部屋を後にする。久しぶりに、姉とちゃんと会話をした気がした。古屋くんのお陰かも。
イラストをさっそく写真に撮って、古屋くんにメッセで送る。
【古屋匠海】
『おー』
『かわいい』
『実際に見せて』
『できたら』
『イラスト』
なんとなくだけど、古屋くんはメッセージを送ったあとで、「これじゃ伝わらないかも」と思って単語をつけ足してるっぽい。彼から送られてくる独特な文章が、だんだんクセになってきた。かわいい。
私はOKというネコのスタンプとともに、「明日、持っていくね」と添えて返信した。
次の日。選択科目で教室を移動したけど、忘れ物に気がついて自分の教室へと急いで戻る。すると、教室から声が聞こえてきた。
「古屋さ、昨日、マックでイチャついてたっしょ」
「えー、なになに? 古屋って彼女いたの?」
昨日のことだ。冷や汗がドッとでてきて、私は扉の手前で固まる。
「それがさ、あれ、三崎さんっしょ?」
「学級イインチョーの???」
「……ちがう。つきあってないよ」
古屋くんのぶっきらぼうな声が響いた。
「いやいやいやいや! あの距離感で、それはないだろ」
「マックで何してん? 古屋~」
「三崎さんの耳を、なんか……こう、撫でてた!」
だんだん指先が冷たくなっていく感じがする。嫌だな、こういう会話……。
「だから、なんでもないよ。耳も触ってないし、三崎さんとは何でもない。たまたまマックで会っただけだし。お前の見てた方向から、そう見えただけでしょ」
私と付き合ってる疑いをかけられて、心底嫌そうな対応をする古屋くんの声を聞いていたら、いたたまれなくなって、私は教室には入らずに選択科目の教室に戻った。
それから、今日は会いたくなくて、帰りのホームルームが始まる前に、古屋くんに「お母さんから用事言われて、今日はすぐ帰らないといけなくなった」と嘘のメッセージを送る。彼からは「了解!」というセリフの書かれた変な白い毛玉のようなキャラクターのスタンプが返ってきた。
◇◇◇
あれから、なんやかんやと理由をつけて会うのを避けてたら、一週間が過ぎた。そして、日直の順番がまた巡ってきて……出席番号が一つ前である古屋くんと一緒に当番になる。
前回と同じくオレンジ色の夕日が差し込む放課後の教室。前回と違って、私も彼もワイシャツの上からセーターのベストを着ていた。
日誌を埋める私を、彼は肘をついて見ている。私は早くこの仕事を終わらせようと、シャーペンを走らせた。
「ねぇ。オレなんか怒らせるようなことした?」
五限の項目を埋めていたら、そう問いかけられる。
「ううん。なんで? そんなことないよ。ちょっと、本当に忙しかっただけで……実はさ、耳のモデルの件なんだけど……やっぱり難しいかなって……」
私は日誌から顔も上げずに、ペラペラとこの一週間考えた言い訳を口にした。古屋くんはそれを聞き終える前に、ズボンのポケットに手を入れて何かを取り出す。それから、私が書きこんでいる五限の項目の上に、それを置いた。
「試作品」
それは高さ三センチくらいの置物だった。大きな葉っぱの傘を持ったウサギさん。
「イラストの写真だけで作ったから、後ろ姿とかはオレの想像で補完したけど」
すごく可愛い置物を前に、私は思わず日誌から顔をあげて古屋くんを見る。今度は彼の方が俯いて置物の方を見てたので、目は合わなかった。でも、私がシャーペンを止めたのを見て、古屋くんは目線をあげた。
「……ピアスにしたらデカくね? って思うかもしれないけど、これは試作品なので……試しに、プラ粘土で作っただけなので……ピアスはもっと小さく作る予定ですし……」
古屋くんの声はどんどん小さくなっていって、目線もまた下がっていった。
「ぶくく……」
イラストからこんなに精巧な立体物を作り出せるのに、自信なさげな古屋くんを見てたら、面白くて笑いが口からもれてしまう。私は下を向いて、笑いを堪えた。
「オレなんかしでかして、怒ってたなら、これで許してほしいです」
上目づかいでそう請われて、そもそも別に怒っていたわけじゃないけど、頑なになっていた心がほぐれる。
「これ、くれるの?」
頷く古屋くん。私は置物を手に取って、回して背面までよく見る。ガチャガチャのカプセルに入ってそうなくらいの完成度だった。
「あのさ。本当にオレ、何したの? 三崎さんとこんな感じになるの、もう二度と嫌だから教えて」
しょんぼり顔の古屋くんに対して、これ以上黙ってるのも申し訳ないと思って、気まずいながら、私は先週の聞いてしまった会話の話をすることにした。
「なんかちょっと……あそこまで関係を全否定されると、自分でもビックリするくらいショック受けちゃって……ごめんね」
「え……だって、三崎さん、ピアスのことは『誰にも言わないで』って言ってたから」
想定外の答えに「え……?」と私もビックリする。でも、確かに私は彼に誰にも言わないでほしいと頼んでいた。すっかり忘れていたけど。
「ピアスの話を伏せて、三崎さんの耳が好きだから触ってたとか……いや、それは事実なんだけど、それだとオレが一方的にセクハラしてたみたいになるし、ピアスの話は避けては通れないし……」
「ふふ。耳が好きなのは、事実なの?」
口元を押さえて、なにやらブツブツ説明をしている古屋くんに、思わずツッコミを入れてしまう。私が苦笑していると、彼の大きな手が伸びてくる。前と同じように彼は触れる直前で「触ってもいい?」と聞いてきた。私は「いいよ」と髪を耳にかける。
でも、彼は何故か出した手を引っ込めて、立ち上がった。なんだろう? と疑問に思ってたら、わざわざイスを私の右横に持ってきて座り直す。机越しだった距離が急に縮まってしまい心臓がバクバクしてくる。
耳のフチに彼の指が触れた。
「腫れひいたね」
私は「うん」と小さく返す。消毒されてる時から思ってたけど、隣に座られて耳を触れながら話をされると、距離が近すぎる!
しばらく触った後で指の感触が離れたので「もう終わりかな」とホッとしてたら、耳を触っていた手がそのまま後頭部に入ってきた。首の後ろを触れて、次に左耳になでてから左肩におりた。
それから私は彼の方へ引き寄せられると、右肩に柔らかい重さが乗る。右を見ると、古屋くんの後頭部が見えた。状況が理解できず、私は硬直する。もはや、まな板の上の鯉。
「……あのさ、オレ……耳だけじゃなくて……三崎さんのこと全体的に好きなんすけど……付き合ってくれると、その……ピアスの話しないでも、あいつらに『彼女だよ』って言えるし、嬉しいんですけど……」
肩に頭を置かれた状態でそんなことを言われて、頭が沸騰しそうだった。私の頸動脈はいまにも爆発しそうなポンプみたいにドクドクしている。
古屋くんの言うことを理解しようと、ぐるぐると反芻する。付き合う……付き合うって、あの意味? 合ってる? ぐるぐると目が回る。なんとか「うん」と頷くと、肩が軽くなった。古屋くんが顔をあげた反動で、彼の鼻柱と私の耳が触れる。
グイッと、さらに彼の方へ引き寄せられた。
(え? なに? なんなの? キスされる? 耳に!?!?)
もうわけがわからなくて、ギュッと目を閉じる。その時、だった。
カプッ。
「へっ???」
ええええええええ!?!? 声にならない悲鳴をあげて、私は耳を押さえてガタリと椅子から立ち上がった。
いま、耳……噛まれたよね? え? は?
「喜びのあまり噛んでみたい衝動にかられたのですが、噛んでいいか聞いたら、きっと『それはダメ』って言われそうだったので」
それは、そう!
しょんぼり顔で言い訳にならないことを言う古屋くんを見ながら、私はワナワナして、髪の毛で両耳を急いで隠した。顔が熱い。きっとまた真っ赤になってる!
変な男の子と付き合っちゃったかもしれない……。
(おしまい)