二人だけのハイドアウェイ


 カラン、と──


 ドアベルが澄んだ音色を奏でた。相変わらず降り続く小雨の音に混じって、ローファーの足音が一つ。ペトリコールが少女と共に建物の中に漂う。


「こんにちは、ハイドさん!」


 少女が声をかけた先、レトロな電球の真下、薄暗い店内にポツンと佇む石造りのテーブルの前で。パタリと青年は本を置いた。一つに括られていた長髪が肩で揺れる。活字に向けられていた視線が、少女の方へと動く。涼しげな瞳を細めて、青年はなんとも穏やかな笑みを浮かべた。


「こんにちは、涼華(すずか)さん」


 そこは、2人だけの秘密の場所。

「あの、熊谷(くまがい)さん」
「あ、はい」
「これ、欠席の日に配られた提出書類。まだ貰ってない、よね?」
「あ、うん。多分……」
「じゃあどうぞ」
「あ、ありがと」

 
 ろくに視線も合わせないまま私が紙を受け取ると、クラス委員のその男子はそくさくと戻ってしまった。無表情だった男子は、友達の輪に戻った瞬間に弾けるような笑顔になる。


「……」


 手元に視線を移して、淡々とそれらを揃えた。提出書類とはいえ、紙切れ3枚。言い方といい渡し方といい、異様に丁寧だと思った。


(相手が私ってこともあるのかなあ……?)


 それらをファイルに仕舞い、卓上に体を伸ばした。だらりと、それはもう怠惰な姿で。既に教室には人がいないため、誰にも醜態を晒す事はない。まあ、見られても特に困る事はないけど。



(曇りはやっぱ嫌いだなあ)


 机に突っ伏したまま教室の窓から覗く空は、なんともどんよりとした曇り空だった。灰色まみれ。まるで私の今の心みたい。こんな日に限って天気が悪いと言うのは最悪だった。


 空いている右手でシャーペンを弄ぶ。退屈でしょうがなさすぎた。晴れ渡る青空だった河川敷でも散歩に寄ろうと思ったのに。


「あーあ」


 肺に溜まっていた空気を吐き出しても心の霞は一向に晴れてくれなかった。代わりに、と言ってはなんだが、後頭部に軽い衝撃が走り、ゆるゆると頭を上げる。ペンケースを縦に持つ友達と目が合った。にやりとその口が吊り上がる。


「なーに授業終わってんのにどんよりしてんの?」
優楽(ゆうら)かあ。何も叩かなくても……」
「軽く元気入れてあげただけ!てか、どうしたの?ほら、折角の放課後だよ?部活もオフだし、もっとエンジョイしようよ!」
「うー、そりゃ私だってしたいけど……」

 
 あいにく、こんな曇り空じゃ心も気分も優れない。なんてことは、きっと彼女も分かっているのだろう。仕方ないかと言いたげに肩をすくめる。


「じゃあ取り敢えず帰ったら?ほら、ただぼーっと教室にいるのも時間の無駄なんだしさ」
「……うーん、まあ……そうだね」
「ほら立って!そんで、のんびり漫画かテレビか見てなよ!」
「……うん」
「漫画と言えばさ、もうすぐあの恋愛漫画の新刊発売日なんだよねー!もうほんと楽しみ!」
「そうなんだ。それは良かったね」
「ほんとそう!前のからもう一年以上経っててもうダメかなーって諦めかけてたんだけど……」


 頷きながら、心の中で「始まった」と呟いた。ふとしたきっかけがあれば優楽はポンポンと口から様々な話題が溢れてくる。最初の方はいいが、あまりに長話すぎると相槌を打つのが面倒くさくなる。なんて、本人に言えるわけもないが。


「でさ、今は主人公とその親友がちょっと喧嘩しててさ、そこに主人公が好きな彼が出てきてー」
「そっか。それは見どころだね」
「そうなのー!めっちゃいいところで終わっちゃったから続きが気になって気になって……」


 頬に手を当てて興奮する優楽は、突如我に返って私の方を向いた。


「ごめん喋りすぎた!思わず興奮しちゃって……」
「いいよいいよー。優楽の話、好きだし」
「ほんと!やっぱ涼華は優しいなー」


 ぎゅっと抱きついてくる友達に対して、私は正直に喜べなかった。今の表情も、多分というか絶対に愛想笑いしかできていない。


(ごめん。優しくなんてないんだよ)


 ただ、話を聞いているように見せかけているだけだから。1人気まずい雰囲気をどうにかしようと、無理やり話題を振る。


「ところで優楽は、なんかするの?この後で」
「あたしは他クラスのメンバーと一緒にカラオケ!」
「他クラス?」
「そっ!大体は同じ中学の面子なんだけどね。でも、2人だけ男子も誘ったの!実はその片方のことを友達が好きでさぁー」


 あっ、と思った。止める間も無く再び優楽からお喋りの洪水が生まれる。ついさっき長話から逃れたと思ったのに。


「その男子ね、バスケ部で陰ながらファンがいっぱいいるって噂で!誘うのキツイかなーって思ったんだけどどうしても友達のこと応援したくてさ。そしたらカラオケ来れるって!凄くない!?」
「へー。それは優楽のおかげだね」
「でしょでしょ?私頑張って誘ったんだよー。あ、でも友達の名前も出しているよーって言ったら来るって返事が来たから、もしかして2人脈ありなんじゃって思ってるんだけどー」
「ふーん」
「だから今日どうなるんだろっ?メチャ気になる!あっ、凉華も来る!?」
「え、あ……いやー、私は……やめとくよ」


 ゆるゆると首を振ると、優楽は少しだけ残念そうな表情を浮かべた。


「そっかー。ま、あんたは人見知りだもんね。初対面の人と話すのは難しい、か?」
「そう、だね……」


 半分正解、といったところだった。ようやく彼女の話が終わり、私は意を決して口を開こうとした。しかし。


「あのさっ……」
「ゆーら!」


 入り口から彼女の名前が飛んでくる。瞬時に振り返った優楽は「やばっ」と慌ててリュックを背負った。


「じゃあ行ってくるわ。また明日ね、凉華ー!」
「あ……うん」


 優楽は手を振るなり颯爽と教室を出て行った。


「……」

 
 彼女に振った手をゆっくりと降ろす。気づけばぽつんと孤独になっていて、途端に虚しさが押し寄せてきた。


「行っちゃった……」


 自分だけは話しておきながら、友達が来た瞬間に私から離れて行ってしまった彼女の姿がまだ目に焼きついている。


(ほんとは私も、色々話したいことあるんだけどな)


 せっかく切り出すチャンスだったのに。胸の中がより一層重たくなった。鉛を飲み込んだみたいだった。


 優楽を見送った私は渋々教室を出る。仕方なく帰ることにした。これ以上学校に残っても何もないし。耳にイヤホンを付けながら地下鉄に乗った。まだ17時前。人は少なく、席に座って程よい揺れに身を委ねる。地下鉄の揺れは穏やかだから心地よい。しかし、途中の駅で降りて別の線路に乗り換えなければいけないのが、ほんの少しだけ、億劫に感じた。


 何も見えない窓に再び退屈が襲ってくる。これからどうするものかと悩んだ。やはり、直接家に帰る気にはならない。自然豊かな場所、あるいはのんびりとした時間を感じられる事は何かないものか。この重苦しさを、少しでも軽減させられるように。


(南北線の方まで歩いても良かったんだけどな。けど、いつも通ってる道だし、つまんないし……)


 黒い外しか映さない窓を眺めながらぼんやりと物思いに耽る。南北線こそ私の最寄りがある線路。そこに乗って仕舞えば乗り換えなんてせずに座っていれば目的地まで着く。代わりに歩く時間が必要だが。その道さえも、ここ最近は通り過ぎて物珍しくもなんともなくなってしまったのだ。慣れとは恐ろしい。


 どうしたものかと悩んでいる最中であっという間に乗り換えの駅にたどり着いてしまった。人の流れに沿って別のホームに移り、地下鉄を待つ。

 
 気晴らしにネットサーフィンをしてみたけど、どうしても気分が晴れない。優楽のことが頭に浮かんで、大きくため息をついた。別に彼女は何も悪くない。ただ、いつも溌剌としていて言いたい事はなんでも躊躇なく口にする、そんな性格に少しばかり嫉妬を抱いていた。きっとああいう子が世の中で明るい人生を送っているのだろう。


 優楽とは出会ってまだ2ヶ月に満たない。それでも既に友達と会える関係にはなっていると思う。それもこれも、彼女の性格のおかげ。クラスに話せる人がほとんどいない私に最初に声を掛けてくれたのは優楽だった。クラスの輪に引っ張ってくれたのも、クラスに溶け込めたのも。彼女には感謝している。


 けれど、そんな優楽に感じる難点が一つ。それこそが、彼女の日常的な長話だった。それもほとんど一方通行の。とてもお喋りが好きな優楽の話は突如始まり、大抵それは1、2分では済まない。それも、見た感じでは私に対して話すことが多い気がする。他の友達とは、普通の会話をしているところしか見受けられない。どうして私だけなのか。


(……ううん、ほんとは、理由は分かってる)


 私が、人とあまり言葉を交わさないから。だから優楽には、私はあまり話さない子という認識をされているのだろう。


 そんなことは、ないんだけれど。と言うのも、私は本当は誰かとたくさん話したい。会話をしたい。でも、然程仲良くもない相手とのコミュニケーションは大の苦手だった。当然、完全に心を許せるわけではないクラスメートとは他愛の話すらほとんどできない。優楽を除いては。


 だからこそ、優楽には私の話も聞いて貰いたいのだが。


「……はあ」


 色々考え込んでいたらまた体が重くなる。心が次第に黒に侵食されているような、行き場のない不快感が広がった。


 車内にアナウンスが鳴る。いつの間にか、最寄りまであと4駅というところまでやってきていた。


(確かここ、森林公園があるんだよね)


 今まで一度も行ったことはないけれど。扉が開いて、私はその駅に降り立った。改札を出たら取り敢えず一番近い出口を選んで地上に上がる。
 

 近い、のではなかった。出た瞬間から自然だった。芝生に砂利道、鬱蒼と茂った木々が蔓延る。まばらに小学生らしき子供や大人がいるぐらいで、比較的静かな場所だった。見せつけのカップルや男子高校生の集団なんかを見なくていいことに安堵する。


 舗装された道に沿って散歩する。夏に成りきれないぬるい空気が体に纏わりついて、顔周りを仰ぐのに忙しい。しかし、どこかで流れているのか水流の音と群青色の空を見ると、少しだけ涼しくなった気がした。


 スマホを取り出し、太陽光の量やら露出やらをいじって、頭上の青さを手元に収める。いい感じの青空の写真に、私は思わず頰を緩めた。夏の昼空が一番好きだ。青が深くて、澄んでいて、どこまでも広い。あの季節が来ることを考えると楽しみで仕方なかった。


(夏。……夏、かあ)


 もうすぐ、夏。高校二度目の夏は、青春を謳歌するに相応しい最後の季節だろう。自称進学校の私の高校じゃ、冬休みあたりから勉強を強要される。


(……嫌だなあ、受験)


 けど、それだけじゃない。思う存分遊べるのも、期間限定の思い出を作れるのも、高校で出会った人と過ごせるのも、そのタイムリミットが刻一刻と迫っている。


 今を思う存分楽しむためにも、沢山の人と交流したいのだが。


(……そんな気持ちも、はっきり言えればいいのにな)


 自分の性格を恨んだ。沸々と湧き上がる感情をどうにかしたくて、足元の小石を蹴飛ばした。何度か地面で跳ねたそれは、木の幹に当たって見えなくなった。その少し後にポチャンと音が鳴った。


 不意に、頭部に小さな感触を感じる。怪訝に思いながら頭に触れたら、今度は手の甲に冷たさが走った。ポツリポツリと、スマホの液晶に水滴が増えていく。


「あ……っ」


 気づいた時には遅かった。一瞬にして雨が降り始める。


「やばっ」


 リュックを頭上に掲げて走った。見れば、いつの間にか周りに人は1人もいなかった。思えば青空の端には雨雲があったはず。


(どうしよ。どこか、屋根のある場所へ……)


 慌てたのがいけなかったのか、反射的に駅と反対方向へ走ってしまった自分を恨む。ここまで来たら、大きな木の下かそこらで雨宿りする他ない。


 次第に木々が深くなってきた。と、森林の中に隠れるようにして佇むレンガ調の建物が現れた。屋根が広く、外にいても十分な雨除けになるように見える。


(やった。ラッキー)


 私はその建物へと駆けた。


「あーあ、びしょ濡れだ」


 下ろしたリュックは雨のせいで色が濃くなっていた。不幸中の幸いと言うべきか、中身まで洪水というわけではなかった。入れておいたジャージが水分を吸ってくれたらしい。


 荷物は置いておいて今度は自分の服の水滴を払った。スカートの裾を絞ると水が滴って足元が円形に濡れる。それでも全身はしっとりしていて、しばらくは乾きそうにない。


 壁に背を預けて空を見上げた。先ほどの青さは何処にもなく、ただスカイグレーがどこまでも広がっている。止む目処が立たないことは言うまでもなかった。


「どうしよう……」


 こうなるんだったら、真っ直ぐ帰るべきだった。ふらりと気分に任せるのではなく。時計を見ながらそう後悔した。


 深く息を吐いた、その時だった。


 カラン──と


 ドアベルの音がすぐ横から聞こえてきたのは。

 私のすぐ隣はこの建物のドアだったらしい。雨に気を取られていて気づかなかった。反射的に音源の方を向き、身を縮こませる。まさかこんな建物から人が出てくるとは思わなかったから。しかし、それ以上に別のことで言葉を失った。


 開いたそこから出てきたのは、1人の男性だった。見た目からしておそらく二十代前半。黒いインナーに腰まである上着。薄手に見えるとは言え、この時期には暑そうな気がする。


 その人はドアの隙間から雨降りの空を見上げて、物憂げな表情を浮かべる。よく見れば短髪ではなく、長髪を一つに括っていた。ゆらり、とその綺麗な髪が肩で揺れて。男性は涼しげな瞳をさらに細めた。


(うっわ……)


 口から溢れそうになった感嘆の声を寸前で飲み込み、代わりに心の中で呟く。この世のものとは思えないその整った顔立ちと、儚さを感じさせる横顔に思わず見惚れてしまった。自分に注がれた視線に気が付いたのか、はたまた、私が無意識に音を出してしまったのか。その男性は、空に向けていた視線を私に移行した。


「あ……」

 
 先に声が漏れたのは私だった。初めて見る正面からのその人の顔は、やはり恐ろしく綺麗だった。今まで抱いたことのない感情にドギマギする。対して男性は、ただ切れ長の目を少し見開いていた。僅かに開いた口からは「誰だ」と言葉が飛び出るだろうと、そう予想した。


 だが。


 その人はキュッと目を細めて、穏やかに微笑んだ。


「雨宿りですか?」
「え、あっ、そ、そうです」
「突然降ってきましたもんね」
「は、はい。驚いちゃって……」
「ですよね。……もしかして、結構濡れましたか?」
「あ……はい。傘、持っていなくて……」


 初対面の人と普通に会話が出来ていることに驚きつつ。その男性は、勝手に雨宿りをしていた私を咎める素振りを何一つしなかった。てっきり、注意か非難の視線が飛んでくるものかと思っていたのに。

 
 ほっと胸を撫で下ろす。しかし、びしょ濡れの格好といい、傘を持たない不運さといい、別の意味で穴に入りたくなった。


 果たして、事情を聞いた男性は。


 クスリと笑い声を漏らした。それから、手招きをしてきた。


「よければ、中で雨宿りをしていきませんか?」
「えっ、中って……この、建物の?」
「ええ。そこだと、雨粒が吹き込むこともあるかと思うので」
「そんな……大丈夫です。迷惑ですし……」
「僕しかいないですし、人が来ることもありませんから迷惑だなんて思いませんよ。……あ、無理強いしたいわけではないのですが」


 笑顔とは一転、申し訳なさを醸し出すその表情に心が痛んだ。


(折角の申し出を、断るのも申し訳ないかなあ)


 実際の理由としては半分。この男性と近づけるかもしれないと下心が残りの理由。側から見れば最低な人間だと思われるかもしれない。


(流石に初対面の人の家、なのかは分からないけど、そこに入るのはなぁ。……でも、雨がいつ止むかも分からないし、ずっとここにいるのはお互いに気まずいかも……)


 そうして悩みに悩みに悩んだ挙句。


「じゃあ、お言葉に甘えて」


 建物の中にお邪魔することに決めた。その男性はにっこりと笑みを浮かべて頷く。


「どうぞ」


 彼の後ろに続いて足を踏み入れたそこは、一言で表せば予想通りだった。洋風なタイルの床も、天井から吊り下がる電球も、数個置かれているテーブルも。外壁と同じレンガ調の壁によく合っている。


(なんか素敵……。まるでカフェみたい)


 雰囲気といいレイアウトといい、ここがお店だったら世の中に知られて仕舞えばあっという間に人気店になるだろう。


 不意に男性から苦笑が聞こえた。


「ああ、すいません。あまりに興味津々でご覧になっていたようですから、つい……」
「あ、ごめんなさい」
「いえいえ。むしろ嬉しいです。ここ、気に入りましたか?」
「はい!まるで秘密のカフェみたいな場所ですよね!?もうほんと素敵で……」


 そこまで口にしてハッと我に返る。


(やばっ。ちょっと興奮しすぎた……)


 しかし、男性は先程より大きな笑い声を溢す。それはもう喜色めいていた。


「そんなに気に入って頂けたなら良かったです」


 そう言って、男性は一つのテーブルの席に着く。薄暗くて見えなかったが、目を凝らすとその上には開いたままの文庫本が置かれていた。彼はそれを手に取り、それから私の方を向く。


「お好きな場所に座って下さい」
「え、で、でも私、服が濡れてて……」
「お気になさらないで大丈夫ですよ。突っ立っているのも大変でしょう?」
「は、はい……」


 そうは言われたものの、ここで再び苦悩が訪れる。


(流石に同じ席は近すぎるよね。かと言って、距離があるのも変な気がするし……)


 席は全部で5つ。互い違いに2列で並ぶ真ん中に男性が居た。必要があるのかないのか分からない思考を巡らせた後に、男性と同じ席を選んだ。向かい側の椅子に腰掛け、荷物を足元に立て掛ける。


 まさか目の前に来るとは予想していなかったのだろう。男性は本から顔を上げ、ほんの少しだけ喫驚を露わにしていた。だが、それも一瞬。男性は柔らかな笑みをたたえる。いつ見ても整っているその表情に、心は素直にときめいた。


 私は男性が持っている本に注目する。


「何を読んでいるんですか?」
「これですか」


 男性は丁寧に革製のブックカバーを外して表紙を見せてくれた。


「シェイクスピアのハムレットですよ」
「へ、へぇー。……えっと、戯曲、でしたっけ?私には難しくて読めないなあ」
「本は普段お読みになるんですか?」
「読みますけど、青春小説とかライトノベルとかですよ。ほら、10代に人気だったり小説賞で受賞したやつだったりとか。そういうのは気になるんですけど、純文学とか名作とかは読む気にはなれないですね。面白いですか?」
「ええ。面白い、と言うよりは、深くてのめり込んでしまうような感じでしょうか」
「なるほど……」


 嬉しそうな笑顔に思わず視線を逸らした。


(私には分からない感覚かもなぁ)


 壁と言うべきか、年齢や趣味の差を感じた。


「ところで」


 今度は男性が切り出す。


「貴女は、何故ここへ来たのですか?」
「ああ、それは……、」


 口籠る。どこまで話すべきか。


(他愛も無い理由まで言う?初対面の人に?)


 いや、それがいいんじゃないかと逆張りの考えが浮かんだ。


「気晴らしの散歩、ですかね。本当は河川敷にでも行こうと思ったんですけど、曇り空で気分が乗らなかったので。代わりにふらっとこの森林公園に立ち寄ったんです。そしたら、急に雨が降ってきたものだから……」
「それでこの場所を見つけたと言うわけですか」
「はい」
「なるほど。それはすごい偶然ですね」


 きゅっと男性の目が細められる。


「自然がある場所がお好きなんですか?」
「はい、まあ。なんかこう、良いじゃないですか?青空とか水の流れとか、木漏れ日とか森とか。忙しい日常に立ち止まって、生きてるってことを改めて実感できるみたいな……。上手く言葉にできないんですけど、そういうのが好きなんです。人が居ない、自然に囲まれているのが」
「それは。とても良い趣味ですね」


 男性は口元を軽く拳で隠して笑った。いつ見ても上品だった。私の話に、こんなにも笑顔になってくれる人がいる。思わず調子が乗ってきてしまい、言葉がどんどん溢れてきた。


「それに私、そんな日常を写真に収めるのも好きなんです」
「おや、そうなんですか」
「はい。それで、そのままでもいいんですけど最近は色々と加工をつけて自分の理想の景色というか、光の淡さとか空の色を変えるのを頑張っていて。……これが私が撮った写真なんですけど」
「ほう」


 私はついさっきの森林公園の晴天を差し出した。男性はスマホをじっと眺めて、それから口元に笑みを浮かべる。


「とても素敵な写真ですね。空の青さが一層深い」
「え、やっぱ分かります!?それ、彩度とか露出とかをいじって色が深くなるようにしたんですよ。やっぱり水色よりも群青に近い方がいいなって思って……」
「確かに、僕もこっちの空の方が好きですね」
「本当ですか!?やっぱいいですよね。夏に近くなるほど群青が鮮やかになっていくのでこの季節の空は毎日見ていられるんですよ!」


 ──なんて。そこまで話してハッと口を押さえる。恐る恐る顔を上げると、男性は肩を震わせていた。


「あ、ごめんなさい。話しすぎました、つい……」
「いえいえ」


 首を横に振る男性からは、薄らと光る瞳といい、くしゃりと解けた先ほどとは異なる笑顔といい、少しだけ幼さのようなものを感じた。意外と表情豊かな人なのかもしれない。指先で涙を拭った男性は言う。


「青空のことばかりを仰っていますけど、雨はお嫌いなんですか?」
「んー、そうですね。雨が嫌いというよりは、雨雲のどんよりとした雰囲気が嫌だ、みたいな……?」
「と言うことは、雨ではなくその空模様が好みではないと?」
「そうなりますね。雨粒とか、傘とか、水溜りとかはむしろ見てるのも写真に撮るのも好きだし」
「なるほど。……雨といえばですけど」


 頷いた男性は人差し指を立てて窓を指す。


「どうやらもう止んだようですよ」
「えっ……あっ、ほんとだ!」


 話に夢中で気が付かなかったが、窓の外の景色はすっかり雨上がりの後だった。ガラスについた雨粒が日光を反射して宝石のように輝いている。


「すいません、つい夢中になって話してしまって……」
「いえいえ。むしろ、僕も楽しい時間を過ごすことができましたから」


 そう言う男性の表情は心底嬉しそうだった。嘘偽りは見えない。良かったと胸を撫で下ろす。


「それじゃあ、そろそろ私、帰ります」
「そうですか。では」


 男性は立ち上がり、扉を開けてくれた。カランと心地よい音が鳴る。終わりの合図のような鈴の音に、寂しさが胸を埋めた。私はリュックを持った手に力を込める。


「あ、あのっ」


 振り返った男性は首をかしげる。


「どうかしましたか?」
「私、熊谷涼華って言うんです」
「……?」
「図々しいかもしれないんですけど……また、ここに来ていいですか……?」


 正直無茶なお願いだとは分かっていた。それでも、これで終わりだと考えるとどうしても惜しいと思ってしまう。


 果たして、男性は──、


「もちろん、いいですよ」


 優しい微笑みを私に向けていた。


「雨の日ならば、僕はここに居ますから」
「……!」


 その返答に飛び上がりそうなほど嬉しかったのは言うまでもない。


「今日はありがとうございました。また来ます!」


 建物から出て、数歩ほど歩いたところで。


「涼華」


 不意に私の名前が鼓膜を震わせた。反射的に振り返ったそこには、男性の微笑があった。


「とても素敵な名前ですね」
「ーーっ!」


 今日の中で、いや、人生で一番幸せな瞬間だと思った。


 

「では、それぞれのグループでテーマについて話し合って下さい」


 クラス委員の合図により、指定されたグループごとに机を合わせる。本日のLHR(ロングホームルーム)は学校行事についての改善点を述べて意見を出すと言う内容だった。私が息苦しいと感じる時間の一つ。


「学校行事の改善点だってー。なんかある?」
「たっくさんあるでしょ。まずは運動祭の練習時間の少なさだし、競技大会の敗者に優しくないところもあるし、文化祭だって……」
「ちょっと(あん)、一気に出し過ぎ!」
「流石は実行委員を経験してるだけあるなー」


 3人の会話はそんな様子でどんどん弾んでいく。元々普段から共に行動する仲らしい。他グループは班員全員で話し合いを重ねているのに対し、取り残されてるのは進行役の男子と私ぐらいだった。


「えっと、じゃあ改善点をなるべく具体的で簡潔にして言ってもらえるかな?メモするから」
「分かったよー。一つ目はね……」


 ここで進行役も会話の輪に混ざり、完全に私はぼっちになってしまった。


(あーあ、なんか気まずい……)


 することも無くてペンをいじったり机に突っ伏してみたりする。流石にスマホを出す気にはなれなかった。


「大体はこんなところかなー。あとは……なんかあったりする、熊谷さん」
「え、あっ、私?」
「うん」
「えと……」


 唐突に話をふられて言葉に詰まる。学校行事の改善すべき点、何かあるだろうか。記憶を巡らせてもどうしても楽しい思い出だけが蘇る。


「ああ、あれかな。あの……」
「そう言えば、文化祭の開催日程ってどうなったんだっけ?」


 私の声は別の女子によって遮られた。


「ほら、去年は他校と被りまくりだったからさ。そこなんとかして欲しくない?」
「確かに。それに、なんか開催時間短くない?もっと長くしようよー」
「でもそれじゃ大変だろ?」
「……」


 すでにそこでは別の話題で盛り上がる輪が生まれていた。私の入る隙間なんて無い。折角のチャンスだったのに。


 でも、こんなことは日常茶飯事だった。


 居た堪れなくなって窓に目線を向ける。黒に染まった雲から、丁度雨粒が落ち始めたところだった。


            *


 ステンドグラスのようなガラスがはめ込まれた扉をそっと開く。


「こ、こんにちは……」


 薄暗い屋内を覗くと、あの男性が読書を止めたところだった。


「こんにちは、涼華さん」


 前髪で隠れていた顔が露わになり、そこに笑みが浮かんでいたことに嬉しさを感じる。


「本当にいらっしゃったんですね」
「あ、はい。……その、すいません」
「どうして謝るのですか?」
「えっと、その……やっぱり、迷惑だったかなって」


 恐る恐る尋ねると、男性は苦笑して首を横に振った。


「そんな訳ないですよ。ごめんなさい。僕の言い方が悪かったのかもしれませんね。少し驚いただけなんです。本当に再び来ていただくことができるなんて」
「えっ……」
「なので、むしろ嬉しいですよ」


 その言葉に安堵した。


(良かった)


 この前と同じように男性と向かい合うように座り、気になることを尋ねてみる。


「あのっ、……お名前、なんていうんですか?」
「名前……。僕の、ですか?」
「はい。私……貴方のこと、なんて呼べばいいかなって……」
「そういうことですか」


 男性は顎に指を当ててたっぷりと沈黙する。


「……そうですね、お任せしますよ」
「えっ……」
「涼華さんのお好きなように呼んでいただければ」
「あ、そうですか……」


 想定外の返答に面食らう。名前を教えるわけでも、拒むわけでもなく、任せる。男性の表情はいつも通りだった。それが逆にショックだった。


(まあ、それもそうか。ただの他人だもんね)


 嫌な考えを振り払って、私は真面目に彼の呼び名を考える。正直、好きなようにと言われるのが一番困るのだが。


「んー……じゃあ、ハイドさんで!」


 自信満々に公言した。


「……なぜですか?」


 男性はさも不思議そうな様子で本から顔を上げる。任せるとは言ったものの、やはり由来は気になるらしい。私は得意げな笑みを浮かべた。


「この場所、まるで隠れ家みたいですし。それに、貴方もひっそりと隠れるようにここに居たので」


 最初は意味が伝わらなかったらしい。しかし、男性は俯いて数秒後、「ああ」と声を上げた。その顔には納得の笑みがあった。


「なるほど。面白いアイディアですね」


 それから「良いですよ」と男性──ハイドさんは微笑んだ。気に入ってくれたようだった。


「ハイドさんが読んでるそれは、またハムレットですか?」
「いえ。これはミステリーです」
「へえ。色んなジャンルの本を読むんですね。ハイドさんは読書が趣味なんですか?それとも暇つぶし?」
「うーん、どうでしょう……」


 困ったように微笑むハイドさんの表情には薄らと影が落ちていた。あまり触れられたくはなかったのだろうか。


 気まずさを感じて話題転換を試みる。


「今日、学校で行事の改善点について話し合ったんですよ」
「改善点、ですか?何をしたい、とかではないんですね」
「そうなんです。新しくするというよりは、今あるものを良くしていこうみたいな感じなんですけど。でも、私はどれも楽しい思い出しかないから、直すところなんてないんじゃないかって思ってるんですけどね。同じ班の子はここをこうした方がいいとか意見バンバン言ってて凄いなーって思って」
「それはそれは。きっとその子は運営に携わっている子なんでしょうね」
「そうなんですよ!実行委員とか掛け持ちしてて、やっぱそういう人たちって視点が違うなーって感じました。あ、あとは……」


 一方的に話をしても、ハイドさんは嫌な顔一つもせずに相槌をくれる。だから余計に私の口は止まらなかった。


 LHRでは飽き足らず、授業の軽い愚痴や小さな出来事も話した。その時、不意にハイドさんが笑い声を溢す。私は慌てて口を閉ざした。


「ごめんなさい。一方的に喋りすぎですよね、私……」
「いえいえ。むしろもっと聞きたいくらいですよ。……涼華さんは、とても学校を楽しんでいるんですね」
「そりゃあ楽しいですよ。大体は自由だし、自分のやりたいことができるし」
「そうですか。きっと、ご友人も多いんでしょうね」
「──……」


 多分、ハイドさんは何気なく口にしたのだろう。しかし、その言葉は私の心を深い海に沈めてしまう。


「……涼華さん?どうかしましたか?」
「あ、えっと……」


 自身の腕をぎゅっと掴む。


(言えない、よね。暗い雰囲気になるだろうし、ハイドさんもこんな話は聞きたくないよ)


 何でもない、そう取り繕おうとした。だが。


「余計なことかもしれませんが」


 ハイドさんは本を置く。


「本音は、吐き出した方が楽になりますよ」
「えっ……」
「なんて、あまり親しくもない人間に言われても困りますかね?」


 目を細めて笑うハイドさんに、喉の奥でつっかえていた物が音を立てて崩れ落ちていくような感覚を味わった。頬の筋肉が自然と緩む。私は思い切って口を開いた。


「私、あんまり、って言うか全く友達いないんですよ」
「え……」


 ハイドさんが表情を引き攣らせたので、慌てて訂正をかけた。


「虐められてるとか不登校とかじゃないんです!……ただ、コミュニケーションを取るのが苦手って言うか……」
「コミュニケーション、ですか?」
「はい。その、そこまで親しくもない人と会話するのが苦手で、かといって沈黙も気まずいじゃないですか。だから、余計に話せなくて……」
「ふうむ。そうなんですね」


 頷くハイドさんは深刻そうな表情を浮かべる。本気で考えていると、そう思わせられた。


「それは……難しいですね。苦手な人、という訳ではないんですか?」
「苦手とか受け付けないっていう人は居ますけど……でも、みんながみんなそうな訳じゃないし。だから、ただの人見知りみたいなものなのかなぁって」
「うーむ……」


 あまりにも私より複雑な顔をするハイドさんに、なんだかおかしくなってしまって無意識に微笑む。


「不思議ですよね。ハイドさんとは、こんなに言葉が出てくるのに」


 そう言うと、ハイドさんは目を見開いて固まった後、その綺麗な目元を柔らかくして笑みをたたえた。


 しばらく雨が止まなかったその日は、夕刻まで話を続けた。

「ハイドさんって、本当に雨の日にしかここにいないんですか?」


 夏目漱石の本を読むハイドさんに、学校で出された課題を解きながら尋ねてみる。聞かれた彼は首をかしげた。


「どうしたんですか、急に」
「いや。ちょっと気になったまでなんですけど……」


 目を合わせずに答えたら、ハイドさんはニヤリと笑う。悟られたと分かってしまった。


(何気ない風を装ったはずなんだけどなあ)


 顔に熱が集まった。


「雨の日以外もここを訪れたんですね」
「……はい。けど、開いてなかったから。本当に雨の日にしかいないんだなあって」
「基本そうですね」
「何か、理由でもあるんですか?」
「理由ですか……」


 ハイドさんはしばらく沈黙する。


「うーん、特別な理由はないですよ。まあ、気分と言ったところでしょうね」
「ふーん。曖昧ですね」
「そんなもんですよ」

 
 ハイドさんの柔らかな声が部屋を満たす。


「涼華さんもそうでしょう?」
「……そうかもしれません」


 心の中に穏やかなものが広がっていく感覚があった。この人と居ると、やはり普段とは違う空気が流れている気がした。


「今日から地理の時間に動画作りをすることになったんですよー」
「地理の動画、ですか。どんな内容なんですか?」
「んー、それがねえ、なんでもいいっていうんですよ。教科書とかに書いてあることなら大体許されるらしいので」
「それはまたアバウトなテーマですね」
「そそ。だからテーマ決めの時点で困っちゃうんですよ。一応、決まりはしたんですけどね」
「どんな内容なんですか?」
「水質汚染についてらしいです」
「……らしい?」
「はい。って言うのも、決まった時、私怪我しちゃって保健室行ってたんで」
「なるほど。なんだか真面目なテーマなんですね」


 ハイドさんの言葉にこれ以上ない共感が生まれる。


(なんてったって、地理の班員はみんな真面目な人ばっかだからなあ)


 陽キャだけでは困る。かと言って、真面目すぎる人しかいないのもまたつまらなかった。実験とか資料探しとかの単語が聞こえたあたり、おそらく学術の発表のような感じになるのだろうと予想できる。つまりはいかにも研究のようになりそうなわけで。


(まあ、内容を決めてもらっているだけでありがたいんだけどね)


 脳裏に班員の各々の顔が浮かび上がる。私が保健室から戻ってきた時は、既に真剣な面持ちで話し合いを進めていた。そこに、私の入る隙間は無かった。


「それに、班の1人が動画の内容考えるって言い出したんです。だから、撮影とか原稿とかを他に任せるって」
「それは。随分と積極的な方ですね」
「うーん。それはそうなんですけどね。その人、編集とか機械とかはあんまり得意じゃないみたいで。だから、大丈夫かなーって……」
「ああ、なるほど」


 ハイドさんは苦笑した。


「それは……難しいですね」
「そうなんですよ。任せてって行ってくれるのは嬉しいんだけど、どうしても不安になっちゃって……」


 その男子の性格上、なんでも自分で問題を解決するだろう。あまり人には相談しないから。


「まあ、最悪困ったら周りが手伝うって感じになると思うんですけどね」
「そうですね。今はそれが得策でしょう」


 ハイドさんは頷いて肯定の意を見せる。


(その最悪が、いつ来るかなあ)


 課題を片付けながら、どうしてもそちらの方が気になって仕方なかった。
「では、自分がやりたい種目の指定位置に集まって下さい」


 先生の合図で体育館内の生徒がぞろぞろと移動を始める。体育の種目選択の時間だった。


「ねね、今回はどうする?」
「私はやっぱテニスかなー。大会近いし、部活でも体育でも練習したいし」

「なあ、お前さ、バレーやらね?」
「バレー?いいけど……男女のバランス大丈夫かよ?」


 口々に迷いを示す中で、私もまた、種目を選ばずにいた子羊だった。おまけに相談する相手も居ないから、1人で悩む他ない。


(取り敢えず、体育館内でできる競技がいいなあ。外だと日焼けしそうだし)


 なんてぼーっと考えていた。


「すーずかっ!」
「うわぁっ!」


 背後から突然優楽が顔を出す。


「ちょ、驚かさないでよ……」
「あははっ。ごめんごめん」


 お腹を抱えて笑う優楽には悪びれる態度が見られなかった。じっと睨みつけていると流石の彼女も落ち着く。


「ごめんってば。ところで涼華は種目決めた?」
「うーん、まだ……」
「そっか。あたしはね、バレーにする!バレー部もいるし男子も入りそうだからガチっぽくて楽しそうじゃん!?」
「そうだね……」
「それにさ、ほぼ毎日試合できるめちゃよくない!?遊びって言ったら失礼かもしれないけどやっぱバレーってわちゃわちゃやるのにぴったりじゃん!連休の時とかもよく友達と体育館借りてやってたんだけどね」
「へ、へぇ……」
「……って、話してると時間無くなっちゃう!てか、涼華もバレーやらない!?」
「えっ、バレーは、ちょっと……」


 種目自体は嫌いじゃないけど、集まるであろうことが予想できるからなるべくやりたくはない。


「私は……別にする、かな」
「そっか。じゃああたし行くね」


 別種目だと知るなり優楽は颯爽と去っていった。ぽつんと1人、私は取り残される。


(いつも嵐みたいな人だなあ)


 さて、優楽と別れた私は悩みに悩んだ挙句、無難なバドミントンを選択した。集合場所に訪れてみれば、3分の2が女子という状況。


「えーっと、これで全員かな?」


 1人の女子が周囲を見回す。他に人が増えそうな気配が無いと分かると、頷いて話を進めた。


「それじゃあ、最初はチーム分けからいこうか。公式戦があるわけじゃないから、どう分けても良いんだけど……」


 ぐるりと全員を見回してみる。女子も男子も、そこまで積極的な人が居たわけじゃなかった。むしろ、どちらかというと控えめな方。


(多分、男子と女子は混ぜない方が良いよね)


 そんなことを心の中で呟きつつ。


「うーん……やっぱ、男女は一緒の方がいい?」
「……」


 誰も答えない。それぞれ顔を見合わせるばかり。進行役を受け持つ女子は困ったように笑う。


「んーと、じゃあ男女混合で分けよっか。それぞれで3グループに分けてね」


 意見が出なかったので仕方なく、という感じでそれぞれの人数を3等分にすることになった。


(男子と一緒かあ)


 微妙なチームに、先が思いやられた。


            *


「……なんてことがあったんですよ」
「チーム分けですか。それは悩みどころでしたね」
「ほんとそうですよ。結局ほとんど知らない人と同じになっちゃったし。やってる間は良いんですけど、試合とかの声掛けが気まずいんですよ」


 ため息と共に机に突っ伏す。頭上からはくすくすと遠慮がちな笑い声が聞こえた。


(奇数とかになったら尚更気まずくなるよ……)


 首を動かした拍子に見えた窓の外で稲妻が走る。今日は午後から酷い雨降りになった。ここを初めて見つけた日以来、折り畳み傘を持つようになったから雨に吹かれる事は無くなったが。


「体育とは懐かしいですね」

 
 天井を仰ぐハイドさんは目を細めて微笑んでいる。


「……ハイドさんは、運動とか得意なんですか?」
「さあ、どうでしょうね。学生の頃はそれなりに部活もやっていましたが」
「ハイドさん、何部だったんですか?」
「僕ですか?」


 顔を正面に向き直した彼は悪戯っぽい笑みを浮かべる。
 

「何だと思います?」
「えー、……文化部ですかね。パソコン部、とか?」
「いいえ、違います」
「じゃあ美術部とか!」
「違いますねえ」


 ハイドさんは楽しそうに首を振った。


(うーん、他に文化部ある?)


 しかし、吹奏楽や書道部はどうも違う気がした。


「……分かんない、です」


 思考を巡らせるも思い付かず、白旗を上げることにする。「そうですか」とハイドさんは嬉しそうに言った。当てられない自信が余程あったのだろう。


「それで、何部だったんですか?」
「サッカー部です」
「へっ、さ、サッカー!?」


 予想外すぎる返答に思わず立ち上がった。素っ頓狂な声をあげる私に対して、ハイドさんは穏やかに頷く。


「まあ中学の頃の話なんですけどね」
「いやいや、それでも意外でしたよ!ちなみに、高校は?」
「高校は……まあ、文化部を転々と、というところですかね」
「サッカーは続けなかったんですか?」
「はい。他にやりたいことがあったので」


 そう言ったハイドさんは、先程とは打って変わって笑顔を曇らせた。何処か感傷的であまり思い出したくはないと言いたげな表情に、それ以上踏み込む事はできなかった。


 しばらく沈黙が続いた。くぐもった雨音だけが屋内に響く。テーブルの模様をなぞって、それから窓に視線を移した。幾重もの雨粒が出逢って別れて再び出会う。それを繰り返す。


「涼華さんは」

 
 不意に名前を呼ばれてハイドさんを見た。相変わらずの優しい微笑みを浮かべた彼は、しかし視線をテーブルに落としている。


「涼華さんは、きっと、遠慮しているのでしょうね」
「……えっ」


 唐突に何のことだろうと、意図が分からなかった。ハイドさんは私と目を合わせずに続ける。


「貴女は他人と距離があるからコミュニケーションが取りずらいと思っているのかもしれません。けれど、それはおそらく違います。貴女は遠慮して自分の話をしないのではないですか?」
「え、あ……」
「自分が話すと相手の時間を奪うから。自分の意見を出すと相手を傷つけるかもしれないから。そんな恐怖があるから、自ら話したがらないのではないですか?」
「それ、は……」
「確かに、自分の話ばかりする人はあまりよく思われないかもしれません。話し手よりも聞き手の方が好かれると言われることもあります」


 「ですが」とハイドさんは私に真剣な眼差しを向けてきた。いつになく真面目な表情に、静かに息を呑む。心臓が鷲掴みにされた気分だった。


 冷酷ささえ持ち合わせたその瞳に私を映したまま、ハイドさんは静かに口を開く。


「自分を抑えてばかりでは、貴女を殺すことになりますよ」
「……っ!?」


 ドクンと胸が高鳴った。汗が額に、首筋に、掌にじわりと滲む。恐ろしいほど静かに、ハイドさんはとても暴力的な単語を投げてきた。


「些細なことかもしれません。でも、言いたいことを飲み込んで蓄積していては、自分が苦しむだけです。そして、それを、他人のためだから、とそう許してしまってはいけません」
「……」
「言いたい事ははっきりと口にするべきですよ。思いやりは大切ですが、そのせいで自分を蔑ろにはしないで下さい。まあ、極端に何でもかんでも言ってしまうのも良くはないんですがね」


 ふはっとここでようやくハイドさんは頬を綻ばせる。けれど、決して穏やかな様子ではなくて、私は複雑な心境になった。


「だから、涼華さんは自分の気持ちを抑え込まないで下さい。そうじゃないと……」


 そこでハイドさんは口を閉ざす。何かを噛み締めるように、その目は一点をじっと眺めていた。


「……ハイドさん?」
「……いえ、なんでもないです」


 首を振ったハイドさんはいつもの微笑みを取り戻した。でも、何処か弱々しさを感じさせられる。


「涼華さんは、自分の気持ちをちゃんと言葉にして下さい」


 私は何も言えなかった。ただ、頷いた。


 良かった。そう呟いたハイドさんは顔を上げてぼんやりと宙を見つめる。虚ろな瞳は、壁でも空でもなくて、もっと遠く、誰も知らないような場所──例えば古い記憶の中──を眺めている、そんな気がした。


            *


「……遠慮、かあ」


 帰宅して早2時間。着替えた私は自室でハイドさんの言葉を繰り返した。


(あんなに感情的になったハイドさん、初めて見たな……)


 きっかけは多分、部活の話。いや、過去を思い出させてしまった事自体に原因があったのだろう。明らかに様子がおかしかった。


「……いいのかな?」


 クッションをぎゅっと抱き寄せる。ハイドさんの言う事は、全て心当たりがあった。というより、気づいていた。それを分かって知らないふりをしていただけだ。


「どうすればいいんだろ……」


 その時、スマホから着信音が鳴る。地理のグループライン宛てだった。私がメンションされていて、アプリを開く。


『熊谷さんは水質汚染の対策についての原稿と写真をお願いします』


 送り主はもちろん率先的に動いていた男子。おそらくはスライドのような形式で作成するつもりだろう。


(もうちょっとこう、砕けた感じで良いんじゃないかな?)


 周囲の声を盗み聞きする限り、環境問題をテーマにした劇や短編ドラマのようなものを撮影する班もあるらしい。そっちの方が面白そうだと、私は内心ワクワクしていたのだが。


「やっぱ、そっちの方がいいのになあ」


 でも、今から内容を変更するほどの時間は無い。そう、諦めようとした。しかし、ハイドさんの言葉がどうても頭から離れず、ぐるぐると脳内で回り続ける。


 その夜は眠れなかった。

 地理の授業がやってきた。発表まであと数時間。各々が仕上げに入っているところだろう。


「それじゃあ、みんなが集めてくれた写真や内容を確認しましょう。それが終わればもう提出できます」
「意外と簡単に終わったね」
「早く終わらせちゃいますか」


 みんなが嬉々としているのは、おそらく自由な時間が持てるから。とっとと片付けてしまおうと早速男子がタブレットを起動した。しかし、何度か液晶に指を滑らせた後、その表情が固まる。そして焦りを露わにしながら何度もタブレットを操作した。異変に気がついた班員が声を掛ける。


「どうしたの?」
「……ない」
「えっ?」
「データが、ないんです。今まで撮ったもの、全部」
「……ええっ!?」


 みんなで確認したところ、確かにこれまで撮ったはずの動画が全て無くなっていた。アプリやファイルを確認してもどこにも見当たらない。途方に暮れた私たちは先生に縋ったが、データの復活は不可能だった。おそらく、誰かが誤って消したか、保存されないままアプリを閉じめしまったことが原因だと考えられる。


「……ってことは、1から作り直しってこと?」
「そうなるな」


 タブレットを持った男子は項垂れた。


「ごめん、みんな。僕のせいです……」


 深く反省の意を示す、彼に、みんなは笑顔を向ける。


「まっ、仕方ないよ。誰のせいでもないんだから」
「そうだよ。先生も、作っていた事は把握してくれたし。提出期限も延長してくれたから」


 実際、彼は動画作りを誰よりも頑張っていた。そんな人を非難する事はない。


「……とはいえ、どうするか?」


 1人の男子が呟く。時間こそ20分ほどと尺は多くはないものの、実験風景や結果の写真が無くなってしまったため、代案を考えなければ間に合わない。


「どうしよ……」
「何を撮るかだな……」
「これから出来ることか……」


 3人は暗い表情をした。


(代案……)


 言ってしまえば、こうしたいという構想は私の頭の中ですでに練っていた。というのも、他の班の意見を取り入れてこんな動画が作れればと空想はしていたのだ。


(人さえ集まれば、隙間時間で撮ることはできると思う。実験なんかより時間も掛からない)


 正直、実験よりもクラスメートの受けも良いと思う。


(でも……)


 唇を噛んだ。このメンバーが、私の案に乗ってくれるかどうか。それに、もっと人員も必要になる。つまりはクラスメートの協力も必須。

 
 代案を言うべきか、このまま4人で悩み込むか。勇気が出ない私には、決断ができない。班員の表情と、アイディアを持つ自分と、話した先が見えない未来。


 私は唾を飲み込んで、気づかれないように掌を握った。


「あのさ……実は、代案があるんだ」


 思い切って口にする。心臓が飛び出てきそうなほどに煩かった。さて、私の言葉を聞いた3人は弾かれたように顔を上げる。


「ほんと!?」
「どんなやつ?」


 期待に満ち溢れた自然に、鼓動がさらに加速する。


「その、内容はまるっきり変わっちゃうんだけど……」


 上手く呂律が回らない中で、脳内の構想を一つ一つ言葉に落とし込む。説明している間も依然として緊張と不安は焦ることが無かった。


「……ていうのなんだけど……どうかな?」


 恐る恐る尋ねてみる。果たして、3人の反応はというと。揃って顔を見合わせて、それから輝いた瞳を私に向けた。


「え、いいじゃんそれ!」
「確かにそれなら2、3日ぐらいで撮り終わる事はできるかもしれません!」
「やろう!」


 否定どころか、驚くほどの肯定の眼差しが返ってきたことに少々面食らいつつ、ようやく強張った体が解けていく。石化の魔法が解かれたように。私は笑みを浮かべた。


「良かった。ありがとう!」
「いや、お礼を言うのは僕らの方です」
「うん。それに、まだ人を集めないと出来ないからね……」
「うん」

 
 だから、と私は意を決してクラスメートに声を掛けた。全員とは言わないけれど、なるべく多めに。声を掛けた人はみんな、初めは目を見開いていたけれど、依頼をすると快く受け入れてくれた。その中には優楽も。


「やっっと涼華が自分から話してくれたーっ!」


 わしゃわしゃと頭を撫でてきた優楽は心の底から嬉しそうに笑っていて、照れ臭さが湧いてきた。


「よし、じゃあ人数も確保したし、明日の放課後から早速撮影しよう!」


 班員の3人が頷く。自ら開始宣言をした事ない私は、不思議な気持ちに包まれていた。でも、それは悪いものではなく、明らかに私の中の何かを変えてくれた、そんな気がした。


 放課後、私は即座に地下鉄に乗って目的の駅を目指す。雲の隙間から日光が差していて雨が止んでしまったかと心配したが、かろうじて小雨が降っていた。いつもの道を通り、あの扉を開ける。


「ハイドさん!」


 勢いよく開けたその先には、案の定本を片手に待つハイドさんが目を見開いていた。


「どうしたんですか、涼華さん。随分と勢いよく……」
「あの、聞いて欲しいことがあるんです!」


 息も絶え絶え、屋内に足を踏み入れながら言った。速い鼓動が収まらない。不安とは違う、高揚感から成るもの。


 ハイドさんの正面に座った私は早速今日の出来事を話した。驚きに満ちていたその表情は、やかで柔らかに微笑み、「良かったですね、本当に」と一言を添えてくれた。

 さて、地理の動画でのアクシデントから数日間。私は班員と共に放課後を動画撮影に費やした。教室を借りて、クラスメートにも出演してもらって、時には家庭科室を利用して。


 私は思い描くような画角と内容になるように説明を重ねながら、一人一人の立ち位置を決定する。言わば監督のような役割。人生初の経験に戸惑いながらも意見を発することを恐れず、協力してくれる人に指示をしていく。


 誰一人として文句や役割放棄をする事なく、動画撮影は終わった。協力者のクラスメートには頭が上がらなかったが。


「めちゃ楽しかったよ!」
「頼まれたの意外だったから張り切って出来て良かった」
「いやー、熊谷さんの動画楽しみだな」


 クラスメートから口々に寄せられたのは、そんな明るい言葉の数々。


(ああ、言ってみて良かった……)


 浮かんできた涙をそっと拭き取りながら、心の中でみんな、そしてハイドさんに感謝した。


        
            *

「それで、私の班が作った動画が一番面白いってみんなから好評だったんです!」
「それはそれは。良かったですね。ちなみに、どんな動画だったのですか?」
「えーっとね、簡単に言うとコメディが入った学園ドラマみたいな感じにしたんです。環境問題を学んでいる授業風景を撮ったり、家庭のキッチンを模して水質汚染対策を示してみたり」
「本格的なんですね。それは凄い。僕も見てみたかったなあ」
「私もハイドさんに見せられなくて残念です……」


 データは学校に保管されている。おそらくすぐに削除されるだろう。クラスメートがはっきり写った動画を個人が所有していると色々と不安な点がある、という理由で。


「初めてにしては結構な自信作だったんですから!」


 私は胸を張る。今までだったら到底出来そうになかったことをやり遂げた自分が誇らしく思えた。自画自賛、なんて言われたっていい。


 ハイドさんはクスクスと笑い、不意に目を細めた。


「涼華さんは本当に、努力されましたね」
「まあそうですね。けど、私よりも協力してくれた人たちの方が大変だったと思うし……」
「いえ、そういうことではなくて」


 ハイドさんは静かに首を振った。


「貴女は今まで抑えていた自分を解放した。それはきっと、恐怖も伴った事でしょう。それでも、貴女は自分の心に従うことができたのです。それが、僕はとても凄い事だと尊敬します」
「え、いや、そこまで言われる事じゃ……」


 流石に褒めすぎだろうと思った。しかし、こんなにも変化した自分を認めてくれることは素直に嬉しかった。


「ハイドさんのおかげですよ。あの言葉がなかったら、私はあんなことできなかったし」


 だから。私は真っ直ぐにハイドさんを見つめる。


「ありがとうございます、本当に」


 そう言って微笑みかけた。ハイドさんは一瞬固まった後に笑みを浮かべる。


「はい」

 あの発表から数日。久しぶりの雨に、心を弾ませながら道を行く。私はいつものように隠れ家を目指していた。今日の出来事をハイドさんと話すために。


 嬉々としながら隠れ家の目の前に来る。しかし、ドアノブを捻っても、目の前の扉が開く事はなかった。


「……あれ?」


 何度力を込めても開かない。びくともしないそれに首をかしげる。空は雨模様だというのに。


「おかしいな?」


 何かつっかえているのかもと視線を落とした先で、一枚の紙切れを見つける。拾い上げると、そこには丁寧な文字が並んでいた。


『涼華さんへ
 申し訳ないのですが、しばらくここを訪れることができなくなりました。僕にもやるべきことが見つかったので』


 書かれていたのはそれだけだった。


 一瞬、世界が無音になった。ぎゅっと恐ろしいほどに心臓が縮こまって、肺が苦しくなる。


「……そっか。そうだよね」


 衝撃的な内容に苦いものが心の中に広がる。私たちは元々赤の他人。本来なら何の関わりも持つことがなかったはずだった。


 それに、ハイドさんにやることが出来たのは喜ばしいこと。それはつまり、生きる理由が増えたというわけだから。


 しかし、どうしてもそれを心から喜べない自分がいた。


「しばらく来れないってだけで、もう会えないわけじゃないし……っ」


 そう自分に言い聞かせつつも、手紙を持つ手の震えが止まらない。もう一度会える可能性も、会えない可能性も、どちらも確証が無いから。


「……っよし、今日は帰ろう。そして勉強しよう」


 ぼやけた視界を振り払い、私は手紙をポケットに突っ込んで踵を返した。


 それからというもの。私の日常は殆ど変わらずに過ぎて行く。放課後の寄り道が無くなった、ただそれだけ。クラスメートや優楽との関係は良好だし、不満や息苦しさを感じることもほとんど無くなった。だが、代わりに心の何処かには必ず空虚感があって、それはたびたび姿を現しては私にため息をつかせた。


 それでも、いつか会えるはずだと自分を鼓舞して毎日を過ごす。森林公園がある駅の名前を聞いては気になり、雨降る日には隠れ家を訪れてみたりもした。けれど、やっぱり扉は開かなくて。


 それを何度も繰り返した。しかし、雨が降る日は次第に減っていき、比例して夏の香りが強まっていく。そうしてハイドさんに会えない日が続いて。



 気がつけば、夏休みだった。