人は死にたい時がある。
でもそれは、その感情を知っている人だけのものだ。
知らない人は、わからないまま。
だから、最後まで気付けない。僕も君もあなたも。
言えなくなってしまった環境で、誰が言えるものだろうか。
まさかこんなはずはなかったと唖然として、絶望的な光景の中で。
変えたいと願うのなら。
死にたい気持ちが変わってしまったとしても。
それを受け入れる覚悟があるのなら。
また物語は変わるのだろう。
地震はいつ起こるかわからないと聞く。
だから、人はハザードマップや避難場所を覚えておく必要があると先生が教える。
この地域は、山が近いから山を登って走ればいい。
それ以上に教わることなどない。
ぼーっと聞き流す先生の授業。LHRの時間でわざわざ学ぶのは浜松だけなのだろうかと疑問を抱く。
他の県でも危ないところは危ないと聞く。
あの三大都市である大阪も南海トラフ大震災の災害地域になると予見されている。
「親が心配するだろうから一七一を使って親の電話番号に連絡するように」
まぁそんなこと言っても落ち着くまでは連絡するよりも先に逃げるべきだと続けた。
実際にやってみようということで、一番前の窓側の席でぼーっとしている鈴木雅也の連絡先を打ち込む。
「好きだよ」
なんてことを小声で録音して送る。
廊下側の一番後ろの私から鈴木の動きはよく見える。
鈴木がスマホを見て訝しむように画面を見ている。
黒板を見て、一七一の災害用を確認して私に顔を向け睨みを効かす。
気づいてくれたみたい。ウインクで返すと彼はため息をついて前を向いた。
録音は聞いてくれないみたいだ。
クラスメイトも新しいことにワイワイと楽しんでいる様子。
「じゃあ、まぁ、親の電話番号も覚えるようにな。親が心配するだろうし」
チャイムがなって授業は終わり。
席を立ち、鈴木の元に向かう。
「ねぇねぇ、電話聞いてくれた?」
「電話?聞いてないけど。あれ、空電話でしょ」
「違うよ」
「何言ってんだか」
「ねぇ、聞いて」
「嫌だね」
「なんで?」
「めんどい。さっさと帰りたいし」
「とか言って、海でも行くんでしょ?」
「……死にてぇ」
彼の口癖だ。
死にたいなんて思ってないくせに、死にて、とか死にたいとか軽いジョークのように使う。
それに怒るのはいつも私ではなくて。
「お前もうそれやめなよ」
隣にいる柊佑だ。
「柊さ、そんな間に受けて生きてたら、疲れちゃうぜ?」
「マジで」
「冗談が通じないお人だなぁ」
ツンツンと腕に指を当てる鈴木は、いつも会話をするときは楽しそう。
「まぁ、いいや。今日部活は?行くの?」
「行かね。めんどい」
めんどいも口癖かもしれない。
SHRのチャイムがなって席に戻る。
この時間は短くてちょっと会話したら終わりだ。
鈴木と話す時間を多く取りたい。それができないのは、彼がSHR後すぐに教室を出てしまうからだ。
自由人と言った方が彼らしく感じるだろうか。
柊と同じ部活なのに彼は行きたい時に部活に行っている。毎日参加の部活で部員はあまりいい目で見ていないらしい。
そんな彼が顧問に怒られないのは部活での実績があるからだ。
優勝して学校に貢献している彼を怒れる人はいない。
大目に見ているのだ。
私や柊はそんなふうに結果を残していないから部活に行く。
写真部の私は短い時間だけど部活に参加して、帰りが合えば柊と帰る。
できれば、鈴木と帰りたいけれど、部活がある日も最後まで残らずパッと切り上げて帰ってしまう。
テストもしっかり結果を出しているので、優秀ではあるけれど。
「どうにかならないかなぁ」
今日も帰りの合った柊に文句を垂れる。
「自由人がどうにかなってたら今頃優等生なのにな」
彼のことを鈴木と呼ぶのは鈴木がいる前だけだ。
いないときはいつも自由人なんてあだ名でみんな言う。
「チヤホヤされてただろうな」
「……」
「雨宮は嫌だろ、そうなったら」
彼は私の気持ちに気づいている。
気づいていて私といるのは友情からだろうか。
「モヤモヤしちゃうかも。今の彼を見てるからさ。優等生になんかなっちゃったら。このままでいてほしいけど、それだと話せないから……」
「早めに伝えたら?」
「でも」
「後で好きになってくれるかもしれない」
「あの自由人が?他の女に行ったらどうするの?」
「怒んなよ、まだ何も決まってない」
「……怒ってないし」
図星なだけに間を開けてしまった。
スマホでインスタをチェックする。
初期設定のままストーリーも載せない鈴木のプロフィール。
海が好きなら海のストーリーでも載せればいいのに。
無理やり作らせた私が言えることではなかった。
一度提案をしてみた。けれど、彼は載せるために行ってないからと断った。
なんだかそれ以上に踏み込んではいけない予感がして二の足を踏んだ。
じゃ、帰るわ、なんて軽口で歩を進め、私を置いていった彼。
自由人は、私に興味なんかないらしい。
振り向いてくれる気がしない。
触れる前に遠くに行ってしまいそうで、触ることも伝えることもできないまま。
「ほらみて」
位置情報アプリの彼は圏外なのかアイコンは学校のまま止まっている。
「距離を置かれているのに、どうやって伝えるのさ」
位置情報アプリも入れて入れてと懇願してやっと入れてくれた。
だけど、放課後になると大抵は圏外なのか止まったまま。
最寄りに向かう電車がきて、柊と乗る。向かい合う席で話を続ける。
電車は発進した。
「もしさ、地震が来て津波なんて起きたら、彼は本当に死ぬのかな」
「縁起でもない」
外に視線を逸らす彼。
「だって」
「どうせ、死にたいなんて嘘だろ」
「でも」
「本当に死にたいのなら、死にたい奴が死にたいっていうと思うか?」
「それは……」
軽口叩いて人と楽しそうに話す彼が死にたいようには見えない。
「でも、だったら、死にたいって言わない人は死にたいってこと?」
「……」
彼は何か隠すように外の景色を見やる。
そこには浜名湖の景色が見えている。
夕暮れの湖は日の明るさを反射してとても綺麗だ。
「津波が来て、逃げなかったら、死にたかったことの立証だな」
「ねぇ」
言い方に棘があるように見えて、止めた。
彼は普段そんな棘のある言い方をしない。
「センシティブな話を始めたのは、雨宮だろ」
「でもさ」
「今日の授業、いつ起こるかわからないって言って、園児の時から避難訓練してきただろ。防災意識とか言って、ダラダラやってる奴らばっかり。またやるのかよってふざけてるやつも多い。そんな中で、いざって時が来たらみんな逃げられると思うか」
「……」
「死ぬんだよ。この街の人間は。浜名湖だって荒れるかもな。この電車に乗ってる人も飲み込まれるかもな」
「……」
「それでもみんな逃げるんだよ。死にたいなんて言ってる奴らでも結局のところ逃げる。そんな死に方はしたくないなんて言って」
「……柊も鈴木もちゃんと逃げる?」
「あぁ、逃げるよ。僕もあの自由人も。どうせ、死にたい奴なんていない」
目が合って、顔を逸らす彼に隠していることがあるんじゃないかと思えた私は、神経質なのだろうか。
「本気で言ってくれてるんだよね?」
「あぁ」
それでも目が合わないことに一抹の不安を覚えた。
「あの自由人は、逃げるよ絶対に」
どこか含みのある言葉。彼らが仲良くなった理由を私は知らない。
高校二年生になった頃にはもう仲が良かった覚えがある。
というか、一緒にいる時間が長いだけで仲がいいというのは違うのかもしれない。
一つ先の駅の私は電車から降りる。
空気を重くしたのは私のせいだ。
明日謝らないとと決めた。
翌日、鈴木はクラスの男子生徒とゲラゲラと笑っていた。
とても愉快そうに楽しそうに。
話しかけに行きたかったが、授業が始まってしまう。
やはりSHRの前の五分を使う以外に話しかける方法はない。
六限目の授業が終わりすぐに彼の前に立つ。
「昨日の電話聞いた?」
「え、あれまじでなんか言ってるの?」
「そりゃあそうだよ。じゃなきゃ、聞かない」
「えぇ、めんどい」
「じゃあ、今聞いてよ。時間あるじゃん」
「短いしいいや」
「ええええええ」
わざと大声を出すと彼は私の口を塞いだ。
「わかった。聞く聞くから」
「本当?」
キラキラ輝かせているだろう私の目を彼は一切見ない。
「てか、なんで毎日この時間に来るわけ?少しくらい帰る準備しなよ」
「持ち物なんて基本弁当くらいじゃん」
「置き勉してんのかよ」
「弁当は持ち帰ってる!」
「違う違う。そうじゃない」
頬を膨らませた私に一切目を合わせない。
興味がないから距離を置いているんだろうか。
へー、興味ないんだー。へー。
「教材は?」
「いらない」
「持ち帰って勉強は?」
「しない。だから、テスト期間は教えてね。優等生」
「全く優等生じゃないんだけど」
「知ってる」
「死にて」
チャイムがなる。
無理やり会話を終わらせるために雑に死にてとか言ったような気がするけれど、気のせいだろうか。
目が合わない理由を知りたい。女子への耐性がない?否、私に興味がないだけだ。
他の女の子とは目を合わせている。
私が可愛くないからだろうか。いや、彼のタイプではない子と目を合わせている。これも違う。
ジトっと睨みつけてみるけれど、彼には無力だ。反応がない。ぼーっと外を見ているだけ。
SHRが終わり、また今日もすぐに帰ってしまった彼。
柊が学校の近くの駅で電車を待っていた。今日は部活がないらしい。
「ん、どうぞ」
すぐそこの自販機で買ってきたお茶を彼に渡す。
「なんの真似?」
柊は、私と違って両手が空いているのになかなか受け取ろうとしない。
「昨日のお詫び」
「別に怒ってないんだけど」
「怒ってるじゃんその言い方」
「……ありがと」
ようやく手にしたペットボトルのキャップを取りお茶を飲む彼。
蓋を閉めると彼は口を開いた。
「雨宮もすげぇ真面目だよな」
秋も近づき、微風が髪を乱す。
「謝るのに、これ用意しちゃってさ」
「私は真面目じゃないよ」
「真面目だよ。僕もよく言われる。似たもの同士だよな」
「何?私に気があるの?」
試す口で言うと彼は軽く笑う。
首を横に振ってから、私を見る。目が合った。
「死にたい奴は人に好意を寄せないよ」
「自由人の話はしてないんですけど」
「どうかな。でも、今日はよく話せてたじゃん」
「少しだけだよ」
いつの間にか彼が主導権を握っていた。
空気は昨日より軽くなっていた。
「そうかな。すごく楽しそうだったじゃん」
「楽しくないよ。もっと喋りたい」
「喋っておかないと損しちゃうかもね」
「やだー、もっと喋りたい」
口を開けて笑う彼。
「そうだ、私が素直に鈴木に告白したらさ、柊も隠していること教えてよ」
「隠してること?」
首にかけているヘッドホンに触れる柊の指に触れる。
「ヘッドホン、最初の頃はつけてなかったよね。ヘッドホンを買った理由でもいいよ」
「あぁ、音がいいからかな」
そう言う彼は、私と会う前からヘッドホンを肩にかけていた。
登下校も全部、最近はかけている。
それ以上踏み込まなくてもいいかと思い、話を変える。
「進路どうする?」
「自由人に似てきたな。話題の変え方が雑だよ」
「じゃあ、もっと踏み込んでもいい?」
そうやって、もう一度試すと彼はヘッドホンを外してカバンにしまう。
「この状態で僕が何か隠していることがあると思う?」
「……ないね」
てっきりキスマや首を掻いたの跡があるのかと思っていた。
そんなものはなかった。
「その勘、自由人に使えるといいね」
なんてアドバイスをされるものだから、イラッとして腕を小突いた。
「私たち頭のいい学校じゃないんだから、探偵なんて無理だよ」
「そうだな」
妙に納得されていることも許せなくて、また彼の腕を小突いた。
そんなある日の休日、鈴木の位置情報アプリが動いていた。
弁天島の近くの海にいる。家からは遠いけれど母に車を出してもらえればすぐに着く。
母に頼み込んで車を出してもらった。
どうしてそんなことをしたのかよく覚えてない。
ただ、駆り立てるように何故だか必死だった。
焦る気持ちとは裏腹に心ここにあらずといった気持ち。
海について必死に走って彼の元に向かう。
そこには海をただ眺めるだけの鈴木の姿があった。
「ねぇ、何してるの。帰ろ」
私は、どうしてそんなことを言ったのだろう。
鈴木は、いつも通り私をみてくれない。
「怖く、ないの?あの授業受けて、津波が来たらって考えたら」
「それでもここに来るよ」
「なんで……」
「なんでだろう。満たされていくんだ。この海の音、匂い、色」
「……色?」
「いつも違うんだ。夕暮れに行くけどさ。怖くなるほど暗い日もあれば、澄んだような明るさ。青い時も赤い時も、橙の時も」
「橙……」
私たちに近づく足音。
「それ、黄昏って言うんだろ」
振り返れば、柊がいた。
「柊も来てんだ」
「俺も位置情報アプリ入ってるし、鈴木と繋がってる」
「あぁ、だから来たのか」
普段圏外にしていると言うのに、今日だけ反応がある。
何か珍しい気がしてきただけ。
「この景色、確かに毎日見たくなるよな」
「お、わかる?」
軽口を叩くように彼は飛び起きて、柊の肩を叩く。
「浜名湖の景色しか見てないから。これもいいな」
「だろ」
「てか、なんで今日、圏外設定にしなかったの?」
嬉しいはずなのに聞きたいことを聞かないといけないように思った。
「特に理由はないけど。え、何、毎日監視してんの?」
「監視じゃないし!」
反射的に否定する。
毎日見ていたことは否定できないけれど。
「まぁ、なんていうか、たまには設定解除しとくかと思って。特に理由はないよ」
せっかくだし遊ぶか?と彼は続ける。
「いいね、やるか」
柊も私も乗っかった。
だけど、鈴木が真っ先にやったのは海に突っ込むことだった。
「えぇ!?」
驚いていると柊は私の腕を掴んで海に飛び込む。
「ぎゃあ!!」
口の中に海水が入ってしょっぱい。
「うわぁぁ!」
学校で見せるみたいに鈴木は愉快そうに笑う。
「やったなあ!!」
子供みたいにバシャバシャと鈴木に水をかける。
「うわ、おい!」
彼も口に水が入ったのだろう、舌を出して塩っぱそうな顔をする。
「柊、全然、水かかってねぇじゃんか!」
首を掴んで膝をかくんと落とされ、尻餅をつく柊。
「おっしゃあ!みろ、ばーか」
子供のようにはしゃぐ私たち以外に大人も子供もいない。
思う存分、騒ぎまくる。
着替えがないことを後で笑い飛ばして。
こんなふうにはしゃいだのはいつぶりだろう。
もう一生こんなことは起きないんじゃないかと思うほど、充実していた。
心は満たされていた。
もっと三人でいる時間が続いて欲しいと、思った。
びしょびしょのまま砂浜に座り込む。
「明日は仲良く三人で休もうね」
なんて私が言うと鈴木は愉快そうに笑った。
「月曜なのマジで恨む」と、柊。
「ずっといたいな……。この海眺めて、三人で……」
鈴木の顔を覗くと空虚な目を海に向けていた。
どうして、こんなにも楽しい時間にそんな目ができるのだろう。
「死にたいって……、本気で思ってる……」
彼の冷たい手に触れる。本当に遠くに行ってしまう前に、しっかりと捕まえておきたかった。
「ねぇ……」
「……死ぬんだよ、みんな」
柊と同じようなことを言って彼は立ち上がる。
「帰ろうか……」
柊が何か問う。
そんな問いに耳を傾けず歩を進めてしまう。
柊の隣で、私は首を横にふる。
先に行く鈴木とそこに残る私たち。
震える私の背中を摩ってくれる柊。
海に入ったせいで寒くなっているのか、どうしても遠くに行く彼が悲しくて震えているのか、わからない。
「死にたいって、ただの口癖で……、生きていたいんじゃないの……」
柊が言った言葉だ。
訴えようにも届かない。
もどかしいなんてものじゃない。
自由に見えた人が何かに縛られている姿は苦しい。
好きって気持ちを言わせないようにしている様子が悲しい。
「ごめん……、泣きたいわけじゃなくて……」
ただ寒くて震えているだけだと柊に伝えたい。
だけど、彼は言葉を発しない。
代わりに薄い上着を被せてくれた。
なんの寒さ対策にならないけれど、その優しさが温かかった。
月曜日、柊は風邪で休むと朝のSHRで先生が伝えた。
あのあと大雨が降ったのも原因だろう。季節外れの大雨は少し長引いている。
今日も曇りだ。通り雨でも降るかもしれない。
対角線の先の窓側の鈴木はいつも通り学校に来ている。
先に帰っただけあって風邪引く前に風呂にでも浸かったのだろう。
びしょ濡れで帰った私は母に車が濡れちゃうじゃない!と怒られた。
柊もまた怒られたらしい。インスタのDMで聞いた。
部活で使うパソコン室でこれまで撮ってきた写真を学校用のパソコンに転送する。
そろそろ第二回の写真コンテストがある。
県大会なんかもあるらしいけれど、興味がないのでそちらには参加しない。
写真を並べて何を出そうか考える。
パッといい写真が見つからない。
前撮った時は、この写真がいいと思うものはあった。
今見ると全くそうは思えない。
何が良くて良いと思えたのだろう。
これではまるで。
「記念写真みたいだな」
隣に座っていた鈴木に驚く。
静かに作業するみんなの前で大きな声が出なくて良かったと安堵する。
「何してんの?」
「こっちのセリフ。なんできたの?部活は?」
「サボる。な、柊の見舞いに行かね?」
「え?」
「あいつ、昨日のアレで体調崩したらしいじゃん?なんか品でも持ってけば、機嫌良くなるだろ」
「適当な」
「あいつの最寄りって都筑駅だろ?ちょっと良い場所知ってるんだ、今から行くぞ」
有無言わせずに私の腕を引っ張る。
スマホで時間を確認しているあたり、電車時間も調べたらしい。
荷物をとって、一眼レフも肩にかける。
電車に乗り、座らずに扉の前で立ったまま。
「座らないの?」
「めんどい」
「……」
カメラ用の道具は重いし、座りたいのだけど。
「カメラ肩にかけてると写真部って感じがするな」
「当然、写真部ですから」
「そうだよな」
「普段はどう見えてるわけ?」
「普段?特に考えたことないな」
興味がないと言うわけらしい。
「へー」
雑に返すと鈴木は私の顔を覗かせる。
「ちょっと怒ってる?」
「怒ってないし!」
ぺシンっと彼の腕を叩く。
「怒ってんじゃん」
「怒ってない!ていうか、このへん近所じゃないでしょ?」
彼の家は高丘の方で電車がないので、遅くなったらバスで帰ったりするらしい。
「うん、また戻ってくるだけだし、最悪親でも呼ぼうかな」
「……」
「良くないって?良いじゃん別に」
そうこう言っていると柊の最寄りである都筑駅に到着した。
けれど、彼は降りようとしなかった。
「ここじゃないの?」
「もう一つ先の駅にあるんだよ」
お見舞いよりも先に都築神社と言う場所に行きたいらしい。
隣の駅に着いて少し歩くと神社に向かう階段が見えた。
これを上りきると神社があるらしい。
「長くない?これ、あの坂から行った方が絶対楽じゃん」
文句を言うと彼は、いつも通りの笑みを浮かべる。
「案外階段のほうが楽なんだよ。それに、こう言う場所ズルしたくないしね」
「妙に真面目だ」
それに返すことはなかった。
見えてきた神社。振り返るとその先には青い景色が広がっていた。
「ここなら良い写真撮れるんじゃない?」
彼の声にハッとして肩にかけていたカメラを起動する。
神社を撮って、その左を行ったところから見える景色を撮る。
浜名湖が見えて、見栄えのいい建物も含めて、気分が良かった。
「ねぇねぇ、なんでこの場所知ってるの?学校で話題にならなくない?」
「ならないね」
「なんで知ってるの?」
「今度答えようかな」
それよりも今はいい写真を撮ったら?と彼は促してくる。
絶妙にそらしてくるのは何故だろう。
訝しむ私に興味すらないのか階段に座る。
隣に座りたかったけれど、彼が望んでいるのはいい写真を撮ることだ。
それまでは待たせてしまうしかない。
彼の後ろ姿はとても小さく見えて、怯えているように見えて、自由人らしくなかった。もっと背を伸ばしてたり胸を張っていたりするものだと思っていたから。
だけど、それが絵になるからつい撮りたくなる。
他の景色もたくさん撮って、満足した頃彼の右隣に座った。
「連れてきてくれてありがと」
「本当は夕暮れまで待ちたいんだけどな、お見舞いもあるし」
「待とうよ。ずっと、このまま」
「無理だよ、ほら」
言葉に被せるように、彼の肩に頭を乗せた。
「離れていかないで」
「……それは」
「できるよ。絶対に。今だけでも、ここにいて」
「……」
「最近全然話せてないじゃん。少しくらいいいでしょ?」
幼馴染で突然、親の引っ越しに伴い離れた関係が今こうやって高校で再開できたのだから。
あの頃のように戯れあっていたい。頬を摘んできた当時のように彼がしてくれることはないのだけれど。
「一生このままがいい……」
ボソッと彼の呟いた言葉に耳を疑った。
彼を見やると左目から涙を流していた。
「どうしたの?何かあったの?」
「なんでもない。もう二人で会うこともないし、柊を入れた三人で会うこともない。これが最後だ」
「待ってよ……、別れみたいじゃん。また引っ越すの?」
「……」
彼は階段を降りていく。
「ねぇ!」
階段を駆け下り、彼の前で立ち止まる。
「どう言うこと?最後って何?」
「二人に何ができようと、もう変わらない。嘘はつかない」
「……言っている意味がわからない」
「だろ?ほら、あいつ待ってるし行こうぜ」
あっけらかんと話を変えて、階段を下っていく。
何ができようとはなんだろうか。何かできることが増えるのだろうか。その先で待ってる未来は変わらないと言うのだろうか。
彼は、いつもみたいに笑ってる。愉快そうに。それが自由に見える。いつもの光景。
それさえも私の前から消えて、柊の前からも消えるのだろうか。
「カバン持って!」
彼の腹にぶつけるように鞄を預ける。
「痛ええ!」
「意味わかんないこと言った罰!言うこと聞いてね」
「めんどいんだけど」
いつもの口癖。
肩に掛け直す仕草を見るに彼は不愉快ではない様子。
歩を進め、その先で彼が隣にいないことに気づく。
歩まぬ彼に気づいたのは振り返った時だった。
目が合うとハッとしたような我に帰った彼。
一歩も動こうとせず足踏みをする彼に首を傾げる私。
「また、来ような……。ここ。なんか、願い事でも叶えてもらおう」
神社に目を向ける彼の目は寂しそうで、もう終わりと言わんばかりの悲しさに溢れていた。
後ろで強い風がなびく。
前髪が揺れて目の前の彼を隠す。
彼が一瞬見えなくなって、不安に襲われる。
また遠くに行ってしまうのだろうか。
親の離婚が原因で家を引っ越し、離れ離れになった彼とようやく再会できたと言うのに。
風が止む。
彼が泣いていたように見えたのは気のせいだろうか。
「願い、叶えてもらったの?」
だから、泣いているの?
けれど、被りを振って階段を降りる彼。
「叶えてもらったよ。もう十分かもしれないな」
ならば、どうして被りを振ったのだろう。何に対して被りを振ったのだろう。
「今度、阿久津って女児に会う。その願いが叶ったのかもな」
隣に立ち、ニッと笑う。
そんな明るい話ではないことくらい私は理解していた。
「阿久津って、鈴木の父さんの苗字じゃ……」
「異母兄妹ってやつなのかな。会ってやれって」
「そっか、鈴木は仲が悪いわけじゃないもんね」
何度か会っては、飯を共にする仲だと聞いている。
「めんどいけどね」
「うわ、でた」
「ほらいくぞ」
彼の背中を追いかける。
やはり彼は先に行く。追い越すことも追いつくこともできないかもしれない。
だけど、一緒にいられるこの時間を大事にしたかった。この関係を大事にしたかった。
この都築神社で私もその願いを叶えてもらおうかと考えたが、被りを振った。
今この関係が続いているのならそれでいい気がしたからだ。
彼の家に着くと母親が出てくれた。お見舞いの品を渡すと良かったらと家に入れてくれた。
風は引いてきたみたいで勉強をしようと机に向かう彼を鈴木と二人で全力で止める。
ベッドに無理やり寝かせて病人扱いすると柊は苛立っていた。
「せっかくきたんだから病人らしくしてくれ、めんどいな」
「そうだよ、あまりないシチュエーションなんだからさ」
不平不満を柊にぶつける。
「この状況を楽しもうと思えるお前らが異常だよ。病院に行け」
「えぇ」
「そんなんなら死にてぇわ」
鈴木の雑な死にてぇ発言に柊は枕をぶん投げた。
「お前、いつも言ってんじゃん、やめろって」
「そんな真面目に生きんなよ。死ぬぞ?」
「真面目に取り合ってないやつに言われたくない」
「うえぇ、死にてぇ」
「あのな」
部屋をノックする音が聞こえて、一旦会話をやめる。
柊の母がお見舞いの品で渡したはずのものが皿に置かれている。
お見舞いの品で持ってきた地元の名物コッコだ。私が選び、鈴木が買ってくれた。
すぐに柊の母は部屋を出た。
膝立ちで写真をパシャパシャ撮る。
「思ったより可愛い、ね?」
隣の鈴木に聞くと彼はスマホをいじっていた。
腕をド突くと彼はため息をついた。
「いちいち可愛いかどうか聞いてくんなよ」
「怒ることないじゃん」
「怒ってない。可愛い可愛い。とても可愛い。満足か?」
鈴木はヘイトを貯めるのが上手い。
私や柊はそういう彼に怒りを感じるのだ。
そんなに死にたいなら殺してやると、気持ちを改める。
本気で彼の腕を殴る。刹那、彼はひょいと避けて空振った私はバランスを崩して床にうつ伏せで倒れた。
痛みに泣きそうになる。
「人の家で暴れんなよ」
鈴木があっけらかんという。
「それ僕のセリフな」
「セリフとかあんのかよ、めんどいな」
私を無視して軽口を叩き合う彼らを睨みつける。
彼らはスマホゲームで対戦を始めていた。
ハブられた私は、コッコちゃんを愛でながら食べた。
とても美味しい。
一人満足そうな私と目があったのは鈴木だった。
ニコッと微笑むとスマホを向けてパシャリと音が鳴る。カメラで撮ったのだ。
盛れてない顔を撮るとはいい度胸だと思う。
しかし、こんなタイミングでないと彼は私を撮ったりしない。
写真フォルダを私でいっぱいにしてやろうとポーズを決める。
彼は興味を失ったのかスマホゲームに戻った。
仕返しをしてやろうと後ろから抱きつく。
「無視しないで」
可愛く寂しそうにいう。
「人の家でいちゃつくなよ」と、柊。
「最近、鈴木が構ってくれない理由わかる?」
ベッドに座る柊に問う。
「え、いや」
「私のことが嫌いだからだと思うんだよね」
鈴木は私の体を乱暴に退かすとトイレに行くと出ていった。
まるで逃げるようなしぐさ。
高校生にもなって幼馴染を引き摺るような私に辟易しているのかもしれない。
逃げれば追うしかないけれど、人の家でそんなことまでできない。
柊の見舞いに来ていて、柊を一人にするのはいかがなものか。
「好きならちゃんと伝えたら?」
柊が、鈴木のいなくなった部屋で静かにいう。
「でも」
「あいつ、なんか消えそうじゃん。死にたいとか本気じゃないって今まで思ってたけど……。ここ数週間変わってきてる」
「やっぱり、そう思う?」
柊も同様に鈴木の変化に気づいていたらしい。
今まで通りにふざけることが減って、悲しい顔をすることが増えて、その理由は奥底にしまっている。
今日もまた泣いていた。
滅多に泣かない人が泣いていた。どう声をかけてあげれば良かったのだろう。
だけれど、重い空気を作りたくなくて少しおどけて見せる。
「ああいう、離れていく人を好きになるくらいなら、柊みたいに真面目な人を選ぼうかなぁ」
彼の隣に座って上目遣いで彼の横顔を見る。王道のイケメン顔というべきか。
鈴木はアイドルみたいな完璧すぎる顔立ち。好きフィルターでもかかっているのかもしれないけれど。
「僕は恋愛しないよ」
「なんで?」
「別れるから」
「……」
彼が、鈴木の死にてぇ発言に怒るのは別れを経験しているからだろうか。誰かが死んで、もう経験したくないと。
辺りを見渡す。質素で本もなければフィギュアもない。
足元に何かがあるのが見えた。
手に取ろうとすると柊がパッと奪い取って鞄に突っ込んだ。
刹那に見えた。ロープだ。
それをわざわざ隠そうとする心理にはきっと隠したい何かがあるわけで。
「焦りすぎじゃない?」
「人のもの勝手に手に取るべきじゃない」
「ごめん。でもさ」
襟元からチラッと見えた赤い線。
「そのロープで首でも絞めたの?」
「……」
「形状が同じだから隠した?」
「……」
「ヘッドホンを耳に当てないで首にかけてるのは、カモフラージュ?」
「……」
「恋愛をしないっていうのは、こんな自分を知られたくないから?」
「……女の勘はうざいな」
暗い空気にしたくないと乗っかっていく。
「女なので。可愛い子はうざいんだよ」
「自分で言うか?」
「よく言われるから」
「女子と馴染めなくて男と話してる方が楽って?」
「……」
図星を突かれて目を逸らした。
形勢逆転だ。
「あんまりお互い干渉し合わない方がいい」
低く冷たい声で彼は告げる。
私が女子と馴染めていないと気づいたのは、中学生の頃。
環境が変化して、その期間に苗字を変える人、地元の内で引っ越した人。
それをみんなが教えてくれることなんてなくて、だから気付けないまま地雷を踏んだ。
『ねぇ、なんでそんなズケズケと家庭の話してくるの?』
そんな友達の問いにうまく答えられなかった。
明らかな嫌悪感に気づく、敵視するような睨み。
みんな、距離を置きたいようだった。
それから一人だった。孤独だった。
高校に入って、鈴木に苗字を変えた彼と廊下ですれ違った時、はしゃいだ。
久々だね、なんて話して放課後にカフェで長々と話した。
久しぶりに人と話してすごく楽しかった。
そんな時、柊とも仲良くなった。
女子と話さない私の嫌な噂を耳にしているはずなのに、彼は嫌がることもせず話してくれた。
なのに、私は今、そんな彼を傷つけた。
友達だからもっと知りたい。
でもそれは、不快になる。
友達という関係はこんなにも浅いもので、分かり合えないものだっただろうか。
しかし、それ以上に嫌われたくないと。
「ごめん」
謝ることしかできない。
本当の気持ちを伝えれば、きっと私を嫌いになる。
せっかくできた友達を失いたくない。
明るいだけの私だと猫をかぶって生きる。
誰かの脇役のまま生きていく。
そう決めていたはずなのに、私には未だに上手く演じることができない。
ただ可愛いだけの猫でいい。それだけでいい。
「愛嬌だけで生きてる君に、僕を理解できないよ」
彼の追撃に反論したくなる。
愛嬌を求めてきたのはみんなだと。
やりたくてやってきたわけじゃない。
だけど、いつの間にか抜けなくなったこの愛嬌を武器にしないと生きていけなかった。
可愛い可愛いっていうから、アイドルみたいにキラキラの笑顔を見せた。
泣いてる時だって、強い子だから、頑張れる子だから、もう大丈夫って言って笑って見せる。
それをすれば、みんな安心した。
迷惑のかからない子だと安堵していた。
今の私は、迷惑人だ。
扉の開く音が聞こえる。
自由人が呆けている。
どういう状況なのか気になるらしい。
「私帰るね」
「え、じゃあ、俺もいくわ」
「いいよ、私一人で」
「いや、俺、今日お前の家、泊まるから。親には連絡してるけど、聞いてない?」
「……え?」
「俺ら、帰るわ。明日絶対学校こいよ!病人!」
「おま」
何か言いかけた柊の言葉を遮るように扉を閉める。
親に礼を言って私と同じ電車に乗っている目の前の彼。
人が少ないからか今度は座るらしい。
だいぶ暗くなってしまったので、男の子が一人隣にいてくれるのはありがたい。
最寄り駅で降りるとすぐに母に電話する。
許可を出したと返事が来た。
隣の彼を睨みつける。
少し一人でいたい気分なのに、部屋にいられたら困る。
というか、高校生の男女を部屋で二人きりにするというのはいかがなものか。
食卓に座るとちゃんと三人分の食事が用意されていた。
家族LINEには父が残業で遅くなると連絡が来ている。
隣に用意されている食事は鈴木のものだ。
普通に家に入って、普通に食事をとる。
昔なら当たり前だったけれど、今の私たちの環境ではあり得ない話だ。
そして。
「明日、休みなのにどうして学校こいって言ったの?」
帰る前に柊に言った言葉。
部活が一緒だからといって、鈴木は部活をサボり気味で部活の予定なんて気にしていないように見える。
そんな彼がわざわざ伝えた理由はなんだろうか。
「明日、大会のメンバーが決まるんだ。だから、いてもらった方がいいかなって」
「そんなこと」
「俺が言えたことじゃないけど、明日は予定が入ってるんでね」
最後まで言う前に彼は気楽な声でいう。
そんな精神状態ではないはずだろうに、軽口のように言えるのは気持ちを紛らわすためなのかもしれない。
「でも、わざわざここにいる理由って」
「こっからの方が近いんだよ。三ヶ日って電車ですぐだろ?高丘より全然近い」
「自転車で行くよりはいいってことね」
「そゆこと」
美味しそうにご飯を食べる彼の横顔を見て、まぁいいやと深くは考えないことにした。
が、寝床が気になる。
まさか同じ部屋で二人きりなんてことあり得ないだろう。
では彼は、どこで寝ると言うのか。
風呂上がりの格好なんてとても彼に見せられない。
「やっぱだめ!」
「どした?」
「どこで寝るつもり?風呂もどうするつもり?」
早口に言うけれど、当の本人は気にしていない様子。
「一緒に寝る?風呂も」
「ばか!!」
左腕を思いっきり叩くと彼は悶絶していた。
今はそれどころではないと言うのに。
「別よ、今日、お父さんの部屋で寝てもらうからね」と、母が割り込む。
「承知」と、鈴木。
「なんだよかった」
ほっとする私の顔をなんとも言えない顔で見ている鈴木と目があった。
「何?」
「あ、いや、高校生だし、気にするだろうって」
目線を母に向ける鈴木に後から合わせる私。
ウインクする母に感謝の瞳を送る。
夕飯も風呂も終え、部屋に戻る。
ラフな格好で鈴木と会うことはなかった。
けれど、ノック音が聞こえて「だめ!」と声を出すと「わかってる」と優しい声が聞こえた。
めんどいなんて言って部屋に入ってくるような人じゃない。
本当は優しいのに、どうしてめんどいとか、死にてぇなんて言うようになってしまったのか。
考えないようにしているけれど、やはり気になってしまう。
「明日さ、写真撮ってこいよ」
そんな言葉に不思議さを感じて二の句を待つ。
「コンテストで出す写真、学校でも撮れそうなのあるしさ」
「余計なお世話だよ」
今日撮れたので満足。そんなこと言えば、彼は勿体無いとか言うのだろうか。
「そうかも。でもさ、もっと見たいよ。何か感じれる写真」
「そんなこと言われたら、撮るしかないじゃん」
簡単に釣られてしまっていいのだろうか。
ドア越しに話す私たちは、きっと昔のような関係に戻っているのだろう。
それだけは同じ気持ちであって欲しいなんて、思ってる。
「学校のさ、ちょっと坂登るところあるじゃん?そこからの景色とか最高だからさ」
海だけでなく山も行っていたなんて驚きだ。
「そうなんだ。明日行ってみる」
「ありがと、楽しみにしてる」
「うん」
「おやすみ」
「……おやすみ」
最後に思えてしまうこの会話。どこにも行かないでなんて言葉が出そうになって抑えた。
どっか遠くに行こうとする彼に近づくことはできないのだろうか。
彼にモヤっとすることばかり。
いつか彼にときめいたあの頃の気持ちは、不安に変わってしまった。
この先もずっとこのモヤっとする気持ちを抱えていかなきゃいけないのか。
一抹の不安は消えないまま、次の日を迎えた。
家を出るタイミングは同じだった。
昼前の電車で先に三ヶ日に向かった彼。
その十分後の電車に乗って学校に向かう。
彼の言っていた坂道を登る。
時刻十三時三分。
突然の揺れにしゃがみ込む。
感じたことのない激しい揺れに車でさえ動いてしまっている。
スマホが嫌な音を立て始める。
緊急地震速報。
静岡の名が入っている。
時間を使う暇も与えてはくれない。揺れが激しさを増していく。
いつか習った『南海トラフ大震災』が、今来たんじゃないかと胸騒ぎがする。
津波が来る。
あの十数年前にテレビで目撃した家も人も車も全部を飲み込んで侵食していくあの悍ましい光景を思い出す。
まさか、本当に……。
再び速報が流れる。
津波警報。
揺れが治る。
逃げなきゃ。
全速力で走って逃げる。
町内放送が騒がしい。
家から出た子供や大人が必死に逃げている。
ここまで津波が来ないかもしれない。
しかし、川が氾濫した場合予想するのは不可能だ。
そんなのを授業で習った。
今日が雨じゃなくてよかったと思う。
坂を登り切ると小学校が見えた。
避難所だ。以前授業でやった。覚えてる。
学校にいる間に地震が来たら坂の上にある学校に避難するようにと聞いている。
坂を下ったところにある我が校はリスクが大きいと担任が教えてくれた。
小学校の校舎につくとそこにいた人たちが屋上に向かうように呼びかける。きっと小学生の教師だ。
今日が休みだったせいで、誰も知り合いを見れていない。
……柊。
本当に学校に行っているのなら、ここまで全力で走ってくるはずだ。
あの辺は、障害物がない。ましてやグラウンドならば落ち着いた今逃げれる。
電話をかける。
何度かけても繋がらない。
屋上に到着するとそこにはスマホを耳に当てる人たちが多くいた。
みんな電話をかけているんだ。だから、電波を拾ってくれない。
『171にかけるように』
担任の言葉が鮮明に思い起こされる。
恐怖が勝っているはずなのに意外と冷静なのかもしれない。
柊に『171』を使って伝言を入れる。
「生きてたら連絡返して。どっかで落ち合お」
死んでることなんて考えたくもなかった。
誰も死んでほしくないから。
連絡が返ってくることを信じて、スマホで緊急速報を見る。
回線が混み合ってラグが発生している。無制限ギガのスマホでこうなるのだから、相当ここに人が集まってきているのだろうと予測する。
位置情報アプリを開いてみる。ラグが発生している中ちゃんと起動してくれるかわからないけれど、不安を払拭したくて試した。
電波が届きずらいためにカクカクに動きが固まっている。
それでもこの近くにいる人たちは動いているみたい。
ちゃんと逃げている。
柊もまた逃げていた。
そろそろこの辺に来る頃。
右奥に見える浜名湖の景色。いつも見ていたはずのものが少しづつ変化していっている気がしてならない。
もしかして、浜名湖さえも氾濫しているのだろうか。
近くを通る川の波は荒くなっている。逆流しかねない勢い。
そこに部活動着を着ている男子生徒が屋上へとやってきた。
その後ろには柊の姿があった。
「柊!」
目が合うと手を振ってくれる彼。
駆け寄り、思いのままに体を預ける。
すっぽりと埋まる私はこの時初めて怖いのだと知った。
冷静であったけれど、今ではもう震えが止まらない。
立っていられないほど。
絶望がこの先待ち受けようとそれら全てから目を逸らしてしまいたいくらいなのに。
人の悲鳴が聞こえてくる。
助けてくれと枯れた声が届く。
「もう無理……」
つぶやく声に彼は背中を摩ってくれた。
「鈴木から連絡がない。生きてんのかあいつ」
そんな声に首を横に振った。
「位置情報アプリは動いてるけど。返信はないの」
「あいつ……」
「学校きてないの?」
「きてない。前に誰かと会うって聞いてたけど乗り気じゃないから行かないと思ってた」
やはり阿久津って子に会いにいっているんだ。
女児とは聞いている。
腹違いの娘さん。
このタイミングで会うなんて偶然なんだろうか。
三ヶ日のほうは大丈夫だろうか。
地形で言えば、山ばかりなので万が一津波が来ようとも逃げれるはず。
ただ最近はここのところずっと雨。
嫌な予感がする。変な胸騒ぎがして、落ち着かない。
「大丈夫、位置情報アプリが動いているから」
言い聞かせるようにするけれど、ふと柊を見ると何やら考え込む様子。
予想した言葉に言わないでと言うよりも早く彼は言ってしまう。
「普段動かさないものをわざわざ動くようにしたってことは、何かあったんじゃないか」
「……」
あの時と一緒だ。
海にいる鈴木が、なぜか位置情報アプリで位置を知らせた件。
彼は、高校生になって初めて子供のようにはっちゃけた。
三人でいるのが嬉しいような、それでいて、いつか人は死ぬのだと現実を見ているその様。
何かの決意表明だったのか……。
もう長くないというような意図。
もしかして。
「あいつ」
「だめ!言わないで!それ以上は」
必死な私に彼は口を閉じた。
いつも、勘だけが鋭い。
嫌な予感もよく当たる。
ただの妄想が妄想でなくなる瞬間を見てきた。
言ってほしくないけれど、それが答えであることを私は知った。同時に目の前の柊も察しがついた。
けれど。
「そんな、予知なんてフィクションじゃないんだから……、ありえないだろ」
彼は、信じきれないみたい。
私も同じだった。
「今のこの悲惨な状況を知ってたなら、大事にしていれば」
多くの人は助かったのかもしれないと、思った。しかし。
「大事にしたとして、信じるとは思えないよ。一人一人にいうなんて無理だよ」
未だ冷静な私は、柊の言葉に賛同できなかった。
「ここに波が来るとは思えないけど」
刹那、スマホのブザーがなる。緊急時になるそれは三ヶ日のほうで土砂崩れがあったという速報。
農業が盛んな地域で起こったと地域の名前を見て思う。
季節外れの大雨が地盤をゆるくしてしまったのだろうか。
そして、そこには鈴木もいる。
巻き込まれていないといい。
スマホで位置情報アプリを起動する。
動いていない。ラグが発生しているためだろうか。
少ししてようやく動いたと思えば、人が歩くペース。彼の方は津波の心配はなさそうだ。
そもそもこの辺は浜名湖はあれど、海は遠い。
波も低いから運動部の鈴木は逃げ切れるはず。
あとで連絡が欲しい。
動けているのなら、『171』に気づいてほしけれど、それどころじゃないのかもしれない。
そんな不安を抱えながら一夜が明けた。
この地域も他県も一変しているとも知らず、安心し切った私たちに待ち受ける現実も知らずに。
この街から津波が引いて、避難勧告も解除されたあと、誰からともなく家に向かった。
自分の家は大丈夫なのだろうかと心配の声が上がっていた。
電車は動いていない。
土砂崩れの影響もあって線路が使えないのかもしれない。
柊と家に向かう道中を歩く。
避難所にいたほうがいいのかもしれないけれど、未だ家族とは連絡が取れていない。
鈴木とも連絡が取れない。
夜中に何度も電話をかけたのに、電波が届かなかったためか繋がらない。
けれど、位置情報アプリはカクカクとこちらへ動いている様子だった。
生きているのなら、連絡くらい欲しいと何度も願う。
それにしても。
「どうして、ついてくるの?」
隣を歩く柊に問う。
彼とは言い合いになったばかり。
「なら、昨日なんでハグを求めたの?」
質問に質問で返さないで欲しい。
「あれは、不安で、怖くて」
「本当は鈴木に頼りたかったんじゃないの?」
それはそうだけれど、本人の前で言えるような自信はなかった。
「代わりになれるかわかんないけど、鈴木が見つかるまでは隣にいるよ」
「……なんで」
嬉しいなと思いつつも、どうして気にかけてくれるのか理解できなかった。
彼に言ったこと、本人は傷つかないのだろうか。
「なんでって言われても、鈴木のこと、僕も心配だから。一旦、忘れてさ、鈴木がきてからでいい」
一時休戦というわけではないけれど、言い合いをする暇はないとお互いに思っていた。
一人では心細いしありがたいことだ。感謝だ。
「ありがとね」
「家族は?安否どうなの?」
「仕事先が山越えたところだから大丈夫だと思う。土砂崩れが起きたエリアでもないし」
そっちは?と、顔を向ける。
彼はスマホをいじって首を横に振った。
連絡がつかないらしい。
「災害用ダイアルで連絡したけど、多分まだ聞いてすらない」
「そっか……」
「それよりさ、こっから鈴木の元へ向かうってだいぶ遠いんじゃ」
駅で数えると五つくらいの距離。遠いのはわかっている。
でもやらないと気が済まない。
それに今は、動かないことの方が怖い。
この悲惨な現状に打ちのめされて終わるのは嫌だ。
「土砂崩れが起きた地域だって行けるかどうかわかんないし。警察が規制かけてるかもしれない」
「そうかもしれないけど、いかなきゃわかんないじゃん。今は情報さえ満足に得られないんだから」
でもといいかける彼の言葉に被せる。
「そんなにリスクを考えるのなら、首絞めるなんて自殺行為しなきゃいいじゃん!そっちの方がリスク大きいじゃん!」
ついに言ってしまった。
彼が不安に思うのは正しいことだし、私自身も不安はある。
だからと言って、そうやって否定ばかりされていては気が狂う。
「やっぱ、一人で行く!うざい!」
彼を置いて、スタスタと向かう。
昨日の今日で神経質になっているんだと思う。
ちゃんと寝れていないし、ストレスだって溜まる。それを仕方がないと言い聞かせる。
追いかけて欲しいなんてこれっぽっちも思っていないけれど、彼は立ち止まったまま動こうとしなかった。
二駅ほどの区間を歩く。二時間くらいかかっただろうか。
このままでは昼を過ぎる。
昼食だってあるわけじゃないだろう。
この辺に避難所でもないだろうか。
スマホで位置情報アプリを開く。
知り合いでもいてくれたらいいのに。
何人かは圏外になっている。
その中で鈴木の携帯が近くにあることを知る。
空腹を我慢して、彼の携帯の場所へ向かう。
立ち止まっているように見えるため、急げば間に合う。
その先には上り坂でインター沿いにでる。
彼はそこで待っているのかもしれない。
会えると思うと気持ちが上がる。
小走りに向かう。
けれど、そこにいたのは鈴木ではなかった。
膝を抱えてしゃがみ込んでいるその子は明らかに女の子で、小さかった。
園児くらいの年齢だろうか。
スマホを確認してみても、鈴木のスマホはここにある。
彼女が手に持っているものに気が付く。
それは彼が使っているスマホ。
私があげたキーホルダーはついていなかった。
それ以上に、この子は誰なのか。
「ねぇ、君、名前、なんていうの?」
膝をついて顔を覗かせる。
「……」
私を見るや否やしゃくりをあげて泣き始めた。
親はどこにいるのか。
子を置いて何をしているのか気になる。
「このスマホ、誰から借りたの?」
「……お兄ちゃん……っ、お兄ちゃんが……っ!」
もしかして、以前言っていた鈴木の腹違いの妹。
「阿久津ちゃん?」
「うぅっ……」
「これ、なんで」
聞いてみても、彼女は泣くばかりで話してくれない。
「親はどこにいるの?近くにいる?」
首だけでも動かしてもらうためにイェスノークエスチョンで問う。
彼女は首を横に振った。
どうやら、この子は一人でこっちへ向かってきていたらしい。
地震直後は危ないというのになぜそんなことができたのか。
誰かに襲われたらどうするのだろう。
そんなことを考えたせいか私まで不安になる。
「ちょっと人のいるところのに出ようか」
立てるかどうか聞いて、彼女は自分で立ったのでゆっくりと歩く。
地図アプリで近くの学校を探す。
とりあえず学校に行けばいいんじゃないかと思っているけれど、みんなそんなもんだろう。
近くの小学校に到着すると避難者がたくさんきていた。
どこに行けばいいのか。
鈴木のスマホがここにある以上探す当てになるのは阿久津だけ。
「あら、阿久津ちゃんじゃない!大丈夫だった!?」
よく見れば汚れている阿久津に知らないおばちゃんが声をかけた。
「あの」
「あら、みない顔ね。阿久津ちゃんをありがとね。うちの息子と同じ幼稚園で何度も会ってるの」
「……」
後ろから子供が歩いてくる。
「阿久津、サッカーしようぜ。友達いなくて暇なんだ」
その子は同じく園児で園も一緒なのだろうと推測する。
にしても、この現状の中よくサッカーをやりたいと思えるものだ。
「うちの子がすみません。ちょっと」
頭を叩くおばちゃん。阿久津は何も言わず俯いている。
「じゃあ、姉ちゃん遊んでよ。俺、可愛い子タイプなんだよね」
「……」
どうやら見る目があるらしい。
「姉妹揃って可愛いなんて羨ましいぜ」
おばちゃんに引っ叩かれる息子さん。
「あ、いや、姉妹じゃないけど」
「ほんとうちの子がすみません」
「正志くん、うるさい」
ようやく口を開いた阿久津。
見る目のある息子さんは正志というらしい。
正志は、ケッと言って学校のグラウンドの方へと走っていってしまう。
じっと見つめる阿久津の横顔を見る。
不意に目があって、屈んで彼女の持つスマホに指を指す。
「これ、あなたのなの?お守り?」
明らかに鈴木のものだけど、彼の名を出してさっきのように泣かれても困る。
少し離れた質問から進めていきたい。
けれど、彼女は首を横に振るだけ。
「お守りじゃないの?じゃあ」
「お兄ちゃんが渡してくれた……。でも……」
何を思い出したのか。その先の言葉が欲しかったけれど、彼女は俯いてしまう。
「お兄さんがいるの?いくつくらいの、名前は?」
これが鈴木じゃないことを祈りながら。
「……」
黙る彼女に、もう一つだけ問う。
「このスマホみてもいい?」
スッと手渡してくれた。
気持ちが落ち着いたみたいで安心した。
スマホのロック画面を見るとそれは鈴木がいつも使ってるもので間違いない。
ロックを解除するための暗証番号まではわからない。
結局のところ場所を聞く以外に彼に会う方法はない。
「これ、どこでもらったの?」
「向こう」
指を指す方角は、私が行こうとしていたところ。
鈴木が以前言っていたように三ヶ日にいるのだろうか。
その日、意地でも止めていたらこんなに歩くことにはならなかったのに。
生きているのなら、連絡をして欲しいだなんて思っていたけれど、このスマホが意味するのは一つだけ。
想像したくないものほど、想像にたやすい。
唇が震える。
三ヶ日へ向かいたくないと足が震える。
それでも行かなければと、自分を鼓舞する。
「ありがとうね。これ、返すね」
スマホを手に持たせて、三ヶ日に向かう。
歩き始めて日が沈み始めた頃、土砂崩れを起こした街が見えてきた。
ここにいるはずなんだと思ってみても、体は休みを求めている。
救急隊や自衛隊がいる。もう救助活動が行われているんだと知った。
そして、視界の端に柊の姿が見えた。
救急隊に運ばれる誰かへ必死に声をかけている。
黒エリアと書かれたそこに置かれた誰かの横で膝をつく柊。
トリアージタッグの色に合わせて人の容体によって分別しているのだと近くの救急員が教えてくれた。
それはつまり、黒は死んだということ。
焦った私は、柊の元へ突っ走る。
だけど。
「……お前……っ、まじで……、ふざけんなよ……っ」
タッグに書かれた名前、鈴木雅也。チラッと見えたそれに声が出なくなる。
「なんで、死んでんだよ……。お前が死んだら、ダメだろ……」
柊の声が虚しく響く。
私の存在に気づいていないのか、ボソボソと言葉を連ねる。
そして。
「死にたい僕が死ねなくて……どうすんだよ……」
彼は、死にたいと言った。
遅れて届いた言葉に一瞬思考が止まる。
死んだ鈴木の前で何を言っているんだと怒りが湧いてくる。
「柊!!」
拳を握り、彼に怒鳴る。
「何言ってんの!?ねぇ!!」
胸ぐらを掴んで、押し倒す。
「本人の前で……、なんてこと……!!」
鈴木がトリアージの結果死んでしまったことも許せない。
人の死を知って自己犠牲的な考えが何より許せなかった。
柊が死んで鈴木が生きてくれればなんていう命の等価交換を望む声が聞き捨てられなかった。
「あぁ……いたんだ……、雨宮。先に来てるのかと思ってた……」
「……柊」
「でも、悪く思わないでよ……。雨宮だって気づいてただろ。僕の願望を代わりに叶えたバカが今ここでのたれ死んでる。顔は変形しているのに、なんでわかったか、わかるか……?腹違いの妹が電話したんだってな」
「……っ!?」
「鈴木の身元がわかったのは、特徴を隊員に教えていたからだそうだ」
それよりもと続ける。
「まぁまぁ劣悪な環境で育ったくせに一丁前に自己犠牲で死んでった。羨ましい死に方だ……」
言っている意味さえどうでも良くなるほど、目の前の彼に憤りを感じる。
彼が、今まで隠してきた思いがこんな形で知ることになるとは思いもしなかった。
人の死を嘆くよりも先に鈴木の死が侮辱されているようで、それが何より許せない。
好きな人とわかりあうこともなく、呆気なく、終わった喪失感を味わいたくなかったのかもしれない。
助けられなかったこと、距離ができたまま終えたことへの悲しみも柊にぶつけた。
「最低だよ……そんなことどうして本人の前で言えるの……」
「僕は僕が嫌いだ。それはこいつみたいに気持ちを吐露することなんてできないから。羨ましい……僕にないもの全部持って死んでった……」
鈴木の死体を見ても泣かない彼に背筋が凍る。
まるで好きなアイドルを尊ぶような眼差しに悪寒が走る。
どうしてそんな目で見れるのか。全く理解ができなかった。
「君みたいにごく一般的で普通の家庭で育った人にはわからないだろうね……」
言葉を返すよりも先に涙が伝う。
「やめて……」
鈴木と距離ができたきっかけは彼が母と一緒に高丘へ引っ越したこと。
家の距離が遠くなっただけ。また会えばいつも通りのはず。
心理的な距離なんてできないと思っていたが、彼は一切の連絡を返してはくれなかった。
高校生になり再開して、久しぶりに話した彼は少し変わっていた。
変化していたのは目の奥が笑っていないこと。
それはなんだか無理しているように見えたから。
彼もまた私とは違うからと距離をとったんじゃないだろうか。
そんな疑念はずっと心に残ったまま。
思い返すほどに、柊の胸ぐらを掴んでいた手は弱くなっていった。
彼の軽い力で切り離された手は私に膝に落ちる。
「みんながみんな生きたいって思いながら生きてない。こんな状況でも死にたい気持ちに従った鈴木がいる。死にたいやつだっているんだよ。お前とは違うんだよ、全部が」
彼は立ち上がるとスタスタとどこかへ行ってしまう。
隣で横たわる鈴木の死体を見て私はただ涙を流すことしかできなかった。
どうにもこの世界は息苦しい。
いつか願ったあの日の思いは誰にも届くことなく今を生きてる。
ロープで首を絞めるようになったのはいつからだろう。
家庭が崩壊して父親が出ていってからだろうか。
それとも僕の成績が親の理想に届かなかったことがきっかけか。
きっと後者だ。
プレッシャーに押しつぶされて、精神的に参ってしまいそうな時に見つけた解決策。
首を絞めて一旦全部頭を真っ白にする。
そうすると何で悩んでいたのかも忘れられる。
部活のグラウンドでやってしまった時は人もいなかったし安心し切っていた。
しかし、最悪なことにあの鈴木にバレてしまった。
「死にたいのか、お前」
ベンチで横になり目が覚めた時に聞いた言葉。
他の部員、顧問がいたらどうしようかと焦っていた。
あたりを見回してもここにいるのは鈴木だけ。
「別に……ていうか、なんで」
今日は部活がなくなった。レギュラーメンバーでさえここにはいない。どうして彼がここにいるのか。
普段から練習なんてめんどいってネガティブなことを言うくせに。
自主練の前に溜まっていたストレスを解消しようと思っただけでこいつがいるなんて聞いてない。
「どっかのタイミングで学校で首絞めするかなって思っただけ。ほら、よく目についてたし」
首に手を当てて言う彼。
ずっと前から気づいてたと言うことだ。
なぜ前々から言ってくれなかったのだろうか。
「部員にバラすのか?」
この学校はあまり治安が良くない。
いじめに発展する可能性だってある。
脅される前に要件を聞きたい。
「バラさないよ。けどね、一つ交換条件をつけようか」
その条件を彼が守ることはなかった。
目の前に運ばれてきた遺体姿の鈴木。
命は平等じゃないらしい。
死にたい僕が生きて、それでも生きようとしていた彼が死んだ。
鈴木のことが好きな雨宮さえ置いていって。
雨宮を泣かせたのは僕だ。だけど、どっかのタイミングでどうせ泣くのだから今泣かせても良いだろうと言う考えは当たっていたのだろうか。
鈴木は以前から雨宮は勘が良すぎて、危険だと言っていた。
彼が何かを隠していても気づいてしまうから気づかせないように全部を隠しているとボソッと呟いていたことを思い出す。
こんなことして嫌うよりも先に理由に気づくかもしれない。
鈴木も雨宮も勘が冴えているから好ましくない。
しかし、気になっていたことも問うことができたのは利点かもしれない。
それは僕が誰かに聞いて欲しかった言葉なのかもしれない。
このまま関係が終わっても良いけれど、死にたいなんて思う奴にかける言葉を聞いてみたい。
雨宮はどんな答えを出すだろう。
少し歩いた先には避難所がある。
そこを少し歩いたところに我が家がある。
未だ連絡が返ってこない母はどこにいるのだろう。
浜名湖沿いのこの辺は景色がいいことだけが取り柄だったはずなのに、ここにはもう何もなかった。
家も倒壊して車はどこかへ消えて、異臭を放っている。
危険だとわかっているのに一歩二歩と踏み込んでいく。スマホのライトで足元を照らす。
この家にはもう住めない。
非常食もダメになっている。
避難所生活をすることになるのだろうか。
グニャっと足元が揺らいで尻餅をついた。
足元には人の腕が伸びていた。
嫌な予感がする。
腕に触れると冷たいそれは生き物だと感じさせない異物感がある。
その腕に沿って砂や泥を払っていく。
タンスが倒れかかっているので、退かす。また泥や砂を払う。
長い髪を端へと撫でれば顔が浮かぶ。
泥や砂で汚くなった母の顔。
「なぁ……おい……」
冷たくなった母が声を出すわけもなくて。
昨日まで元気だったくせに今はもうどこにもない。
死んでしまっているんだと言うことを思い知らされる。
今日はずっと死体に会ってばかりだ。
羨ましいと言っていたはずなのに、僕はこんなものになりたいのだろうか。
否、なりたいから死にたいと願ったんだろう。
この先、何を聞いても返ってこなくて、動いている姿もなくて、焼かれて骨になる。
墓を前に会えば思い出すのだろう。そのあとで後悔するのだろう。
ちゃんと話し合っていればよかった、と。
父はどうして出ていったのか。
母はどうして止めなかったのか。
僕になぜ学力を求めたのか。
原因はどれだけあったのか。
どこにあったのか。
知ろうとしないで怒鳴って勉強から逃げてきたつけだろうか。
それとも、勉強を強要した母に罰でも与えたのだろうか。
僕を苦しめる人がもういない。解放されたはずの心には淋しさがある。心にぽっかりと穴が空いたよう。
望んだ母の死に方じゃない。
両親を恨み愛せなかった僕が送る復讐なんてものは現実的じゃなかった。
非現実的な出来事が起きたと言うのに今更そんなこと言うのは愚考だろう。
なのにどうして、今気づいているはずの答えから必死に逃げようとしているのか。
命なんてものは頑丈で簡単に死なせてくれないはずなのに。
鈴木も母も死んでった。
あっけなく脆く弱かった。
僕にも死ぬ勇気が、ちゃんとした意思があれば、確実に死ねたのだろうか。
やはりあの時の鈴木の行いを恨む。
生かさず殺して欲しかった。
そうだ。
そうすれば、悲しまなくて済んだのだから。
どれだけ恨んでも受け入れ難い死に様。
顔も変形して体はぐちゃぐちゃ。
滑稽な姿に呆然として、後から襲ってくる絶望や喪失感には耐えられなかった。
この家には壁という壁もなくなった。
隠れて泣くことさえできない。
あぁ、羨ましいんだ。
こんな非現実的な死が、望んでいた死が身の回りに起こってしまってどこか喜んでいる自分がいるんだ。
相反する気持ちが心をぐちゃぐちゃにする。
泥まみれの床を不必要にぶん殴る。
きっと感情を整理したかったのだろう。
羨ましい、憎い、喜ばしい、恨み。
沸々と込み上げる怒りが、喉を痛めつけるほどの怒声となって、言葉へ変化する。
「ふざけんな……馬鹿か!!ありえない!!人らしく死にやがって!僕が殺すんだ!あの日決めたじゃないか!!家族もろとも一緒に死んでやるって……っ!鈴木に救われてしまったあの日から!!無様な僕がこれ以上現れないように!!なのになんで……!!」
羨望の眼差しはこのことを言うのかと思う。
涙が出るほどに希望の光に見えるから。
また夜明けが来るのなら僕はその光へと歩いてみよう。
人が脆いのなら、僕もちゃんと死ねるはず。
もうこれ以上、哀れな僕を生かさないで。
愛とは何か考えたことがある。
それは人を思いやることだと思ってた。
けれど、プラスアルファ大切に思う、も含まれるんじゃないか。考え始めたのは阿久津という妹ができた時だ。
愛は、平等ではないし、一般的な解もない。
強いていうなら、結婚だろうか。大多数が結婚式で愛を誓う。
形だけの式になんの意味があるのか。
考える人の方が少ないのかもしれない。
両親がいる生活が当たり前じゃないなんてすぐに理解できるものじゃない。
小学生の頃なんかは、普通という言葉を使って、母親が料理をするのは普通だとか共働きは普通だとか。
キリがないほどに例がある。
どうでもいいと切り捨てるには俺の家庭環境では厳しいものがあった。
父親が不倫して作った子供。阿久津ライナ。
幼児で可愛げのある子。
公園でライナを見た時、父親の顔が浮かんだ。
何度も父親の跡をつけて見つけた最寄りの公園に妻と思わしき女と三人でボールを使って遊んでいた。
僕らを捨てて愛し合う家族ができると知った時、愛は増産できるものだったと気づいた。
愛なんてものは一つじゃない。
なんでこんな子供が愛されているのだろう。
成績も運動もできた俺が愛されていなかった。
認めたくない。
そんな思いが溢れる。
妻らしき女が投げたボールをライナはキャッチすることができず、こちらへ転がってくる。
俺に気づいた父親に見向きもせず目の前のライナに声をかける。
ライナの名はさっきから父親も妻も声にしている。
しゃがみ込んで彼女の目線に合わせる。
「ライナちゃんっていうの?はいこれボール」
手渡すと可愛らしい笑みでありがとうと言う。
憎かった。
こんなやつのどこがいいのか。
そんな感情を抑え込んで質問する。
「苗字、なんて言うの」
フルネームが知りたいなと付け足す。
「阿久津!阿久津ライナ!」
それは両親が離婚して手放した苗字だった。
なぜこの幼児に与えなければならないのか。
法的な問題とかそんな話じゃない。
感情的な話だった。
「そっか、珍しい苗字だね……」
そっと頭を撫でようとする刹那、父親の言葉が鋭く突き刺す。
「触るな!勝手に人の子に触れるんじゃない」
いつもみたくカラッと笑う。
まるで演じるように。
「やだなぁ父さん。俺のこともう忘れちゃった?」
立ち上がるとライナは俺に目を向けたままだった。
「……お父、さん?」
疑問が沸いている。
「そうだよ。腹違いだけどね。君は僕の妹だ」
「お前」
父親の言葉に被せるように言う。
「雅也!!父さんがつけてくれた名前でしょ?忘れないでよ」
敵意のある声音に足が震えていた。
父親の両肩に手を乗せ、頭を下げたまま。
「あんたの子供じゃんか」
こんなにも愛されていなかったのかと知ると悲しさに涙が出そうだった。
必死に堪える。
そして、愛がなんたるかを教えてやると強く誓う。
呪いでもなんでもいい。
一生愛で苦しめてやる。
俺はただ愛を知れたらそれでいい。
「じゃ、ライナ、俺とあそぼか。ボール遊びは得意なんだよ」
人前でいつも見せる他愛のない笑顔。
傷ついていることなんて誰にもバレていないはずだ。
それから程なくして遊び終えた俺は妻と交代して、父親の隣に座る。
「遊んでくれて」
間髪入れずに耳元で囁く。
「母さんには言わないよ。ノイローゼになるから」
その一言だけで精神的なストレスがかかっていることを知らせる。
顔を強張らせる父親の目は見ないように視線をライナ達に向ける。
「母さんの悲鳴を聞きながらでてく姿じゃ、表情なんてわかんなかったでしょ。あんなにも一途に愛してくれている人を蔑ろにしてここで子を育てるなんていつかバレるんじゃないか?」
「……」
「何が原因とか言わないんだな。不倫したくせに一丁前に謝罪したつもりかよ」
ライナがこっちを振り向いて手を振ってくれる。笑顔を作って振り返すと彼女はまた妻とボールで遊び始めた。
変な幼児だ。
「これからたまには会おうよ」
愛がなんなのか教えこんでやると言い聞かせながら。
「いやそれは」
「母さんにバラすよ?別に三ヶ日なんてさほど遠くない」
もはや脅しだった。
離婚が成立したのは、母親が出した条件をあらかた飲んだから。
養育費もこの先僕にも母親にも会わないこと。
だけど、この県から出ていくことだけはしなかった。
「あれ看護師でしょ?医者と看護師の不倫なんてドラマだけだと思ってた。若い女の方がいいんだろ。医者は金さえ払えば不倫も許されるか」
「雅也、それは」
「大丈夫、これは僕と父さんの問題だ。話し合ってこ」
これが、父親と度々会うことになった理由だ。
愛のない父親が、愛を知るための物語。
都築神社にはとある伝説が言い伝えられている。
何か願いを叶えるためならたった一つを犠牲にタイムリープができる。
賽銭箱に五円玉を入れ、二礼二拍手で願いを唱える。
背後で風がゴーゴーと音を立てる。
願いを叶えてくれるようなそんな気がした。
そして、未曾有の大災害がやってくる。
望んだことはようやく叶った。
こんなやり方があったんだと二回目のループで知る。
犠牲者は多いが、俺の気持ちは高揚していた。
現実は、今もなお最悪を更新していた。
見覚えのある顔、虚な目をした男性。
隣には、昨日避難所まで保護した園児、阿久津がいる。
「お兄ちゃん!!」
近くの学校の外に置かれた遺体安置に駆け寄るとワンワンと泣き出した。
その背後で口を戦慄かせて膝から崩れ落ちる男性。
もしかすると、鈴木の父親ではないかと考える。
「雅也……あぁ……なんてこと……」
やはりと思う。
しかし、震える声音は高揚していて、表情もなんだか開放感があった。
ようやく地獄が終わったような。
刹那、阿久津の泣き声にハッと気づいたように目を見開く。
両手をゆるゆると地面につけたかと思えば、髪の毛を掻きむしる。
彼の心情にどんな変化があったのかまるで理解が追いつかない。
ところ構わず発狂する姿に同じ年くらいの大人達が必死に落ち着かせ始める。
それでも発狂し続けた彼は魂が抜けたように静かになった。
大人に促されるまま校舎へと入っていく背中はとても小さい。
一連の出来事がなんだか不気味で怖くて、それが誰にでも起こりえることなのだと思わされる。
校舎内でも発狂する人がいて外に出てきたと言うのに。
彼の顔はもうない。ぐちゃぐちゃで原型を留めていないそれが現実じゃないと錯覚している。
空気が重い。ただただ苦しい。
みんなが大切なもの全部を失って傷心して、人生が狂っていく。
気持ちを切り替えようと浜名湖に目をやる刹那、視界の端に柊が見えた。
まさか彼も今の一部始終を見ていたんじゃないだろうか。
私の視線に気づいた彼はスッと目を逸らして、浜名湖へ向かっていく。正確には猪鼻湖だけれど。
そのさきに何があるのか私にはわからない。
だけれど、彼が望んでいることはわかる。
死にたい。
それだけのために彼は湖に向かっている。
もう、どうでもいい……。
なんだか、疲れた。
昨日の今日で、一気に状況が変わって、平穏が消えて、命が奪われた。
これ以上誰かが死んだって、たった一人増えただけ。
1人減ろうが増えようがテレビニュースやネット記事では大した差にならない。
何よりも彼の心理についていけない。
こんな状況さえどうでもいいほどに死にたいのなら、死んじゃえばいい。
どうせ、私にはわからないのだから。
喧嘩した言い訳をただすらすらと並べていく。
見て見ぬ振りをして、目を逸らして、校舎に向かう。
親を待つんだ。
連絡をとり、すぐに向かうと返事があった。
奪われた命もあれば、生き残った命もある。
冬のような寒さも夏の暑すぎる熱もなくて良かったと思う。
合流した後で家に帰るつもりだ。
生活ができそうなら、そのままいつもみたいに生活する。
無理なら、避難所生活。
それか、どこか他県にでもいくだろう。
そんなことをふんわりと考える。
叔父も叔母も県外だし、何より海から遠い。
安全な地域に引っ越すだろうことは会うよりも先に理解している。
もうこの世に鈴木はいない。
阿久津と親しい関係でもないのだから、いる理由もない。
どうして鈴木の父親は阿久津を思うよりも先に鈴木の死を嘆いたのかなんて、興味がない。
家庭の事情に躊躇いもなく踏み込むほどデリカシーのない女じゃない。
こんなあっけなく人が死ぬのなら、もう少しくらい距離を近づけたかった。
鈴木のことが好きだとちゃんと伝えれば良かった。
後悔は、今更消えない。
街ごと飲み込んだあの波と一緒に消えてくれればいいのに。
でももうしょうがないのだ。
仕方がないのだ。
私にできることなんてない。
自然の脅威に立ち向かうなんてこと、できるわけがない。
母が来る。
優しく包み込んでくれて、安堵したように私は泣いた。
この恐怖から逃げられるなら、それでいいや。
もう私と一緒にいてくれる友達はいないのだから。
元から好かれるような人間じゃない。
家族にさえ愛されていればそれでいい。
夜が開けて、想像通りに県外に引っ越すことになった。
父親は、転勤と言っていたけれど、転職をすることにしたらしい。
半月は浜松で働いて、そのあとは有給をとって転職先で仕事を覚えていくそうだ。
次の家が決まるまでは叔父叔母の家で寝泊まりすることが決まった。
場所が変われば、変わらない日常がそこにはあった。
誰もが笑って過ごしていて、まるであの未曾有の大災害を忘れている。
死者も行方不明者も大勢いる。そんな事実がなかったかのように普通の生活が送られている。
転校先ではどこから引っ越してきたのかは非公開になった。
いじめを考慮したのだろう。
うまく学校に馴染めず、いじめっ子が波に飲まれて死んで仕舞えば良かったのにといった暴言を吐かないように。
小さい頃にあった大震災でそんな話を聞いた。
懸命な判断なのかもしれない。
そのおかげで、学校では馴染むことができて、男友達もできた。女友達はまだ気が引ける。怖い。
私の恋も終わり、新しい彼氏でも作ろう。
元々彼氏なんていなかったけど。
ここの街はみんな仲良くしてくれる。
あとは引越し先さえ決まれば、元通りの生活に戻る。
未曾有の大災害なんて忘れて仕舞えばいい。
なのにどうして、いつまでもぐちゃぐちゃになった鈴木の顔を思い出してしまうのだろう。
ふっと思い出して、眠れなくなって。
学校で眠ってしまって、目が覚めれば目の前に鈴木がいるように見えて。
睡眠不足が原因なのか、食欲不振が原因か、貧血気味になり、体育を休むようになった。
部活も入っていない。
帰りの足が重い。
「碧!」
後ろから聞こえる男子の声に振り返る。
「真斗……」
「お前、最近大丈夫か?」
少し前から仲良くしてくれる同じクラスの男子生徒。
スポーツ万能で勉強もできる。
なんとなく鈴木に似ている。
「あ、うん。大丈夫だよ」
「そんなこと言って、本当は?」
見透かしているようで、目を合わせることができない。
本当のことなんて言えない。
いじめの可能性を考えたら、なおさら。
「大丈夫だって。それより、帰り道こっちじゃないでしょ?」
「……あー、こっちこっち。こっちの方が近道なんだ」
嘘なのはお見通しだった。
気付けないわけがない。
今までこんなこと言っているの鈴木くらいしかいなかった。
なんでまだ鈴木のことばかりを考えているのだろう。
そんな疑問に被りを振るように、口を開く。
「それじゃ、ちょっと歩きながら話そうよ」
彼は、自転車から降りて私の歩幅に合わせて歩く。
その優しさがまた鈴木に似ていた。
昔の彼は優しさの塊で、私が嫌がることはしなかった。
「このまち、なんもねぇなって思わん?」
「そうかな」
「東京に行くにしても、少し遠いし、県内に街っていう街もない。住宅街があるからスーパーやカフェは少ないけどある。お前の住んでた街ってなんかあるの?」
今はもう何もないよ、とは言えなかった。
波が全部飲み込んじゃったなんて自虐風に言えば、困惑するに決まってる。
「うーん、私、あんまり外出なかったからわかんない」
嘘ではなかった。
栄えているわけでもないあの街は、自転車で出かけるくらいしかなくて、交通の便は悪い。
電車だって朝と夕方以外は一時間に一本だ。遊びに行こうと思えば、交通費の方が高い。
今の家の方が、歩きで行ける距離だし、とても楽。
「なんかそんな気がする。本とか読んでそう」
「そうかな。あんまり読まないよ」
「ほんとかよ」
「どっちか言うと、ゲーム」
「おいおい、意外だな。何やるの」
「カートゲーム」
「王道かよ。もっと知らないの来るかと思った」
「私のことなんだと思ってるの?」
「重い枷を担ってそうだなって」
「意味わかんなーい」
とケラケラ笑う。
そんな暗い顔した覚えがない。
二歩三歩と歩いた先で彼が隣にいないことに気づく。後ろを向けば、真面目な顔をした彼が突っ立っていた。
「少しくらい本音を言える相手、欲しくないの?」
時間が止まったように感じて、平衡感覚を失いそうになる。
聞いて欲しくなかった言葉。
私の過去なんてどうでもいい。
何か言えば、可愛い子ぶってうざいなんて言われる。愛嬌は人を傷つける武器にもなる。
嫌われたくないのなら、言わない。
それが最適解。
そうやって自分に言い聞かせてきた。
でも、彼はもう気づいているんだ。
重い枷なんて言葉が出たのは、暗い顔に気づいて言えないことが増えていることを暗示していた。
本音が言えないなんてもはやバレているだけ。
しかし。
「まだ、半月のあなたに言うわけないでしょ?」
と、悪い顔をして言ってみた。
彼は笑った。
どんな意味が含まれているのかわからない。
私のこともまた意味わからないと思っているのだろう。
「そうだな。じゃあさ、どっか遊びに行かない?関係を深めたいと思って。土曜日の昼、空いてる?」
もちろん、デートとかじゃないよと、彼は付け足す。
そんな言葉を信じる相手がどこにいるのだろうか。
断るのは勿体無い気がして、提案に乗っかることにした。
土曜日、予定を決めて、集合場所で落ち合った。
彼は、シンプルな服装に軽く髪をセットしている。
やっぱりと内心思うのと同時に私もまた同じことをしているのだと思うとお互いに考えることは一緒だった。
今日、何が起きてもおかしくない。
「久しぶり」
「昨日ぶりだから」
なんて言葉を返せば、近くのカフェに行こうと誘われる。
「映画の予約はしてあるから、大丈夫」
一時間近く暇なので、カフェに行くのは妥当なのかもしれない。
恋愛経験がないのでよくわからない。
適当にベラベラ会話して、意外と気が合うなと思う。
もう少し話していたいタイミングで、映画の時間が迫っていた。
映画を見て、このままどっかにいくくだりを想像していたけれど、彼は解散を提案してきた。
「もう帰るの?」
なんて言えば。
「じゃあ、もう少しいる?もっといる?」
って、かえしてくる。
「もっといる」
甘えた声で言えば、彼は嬉しそうに私の手を握る。
いつか鈴木にしてもらいたかったことの一つ。なのにどうして足りないの?
しかし、そんなことどうでも良かった。
近くのカフェに入って、お互いに目を合わせれば、恥ずかしそうに目をそらす。足元でちょんちょんと揶揄う。
火照る気持ちが入り乱れて、机に手を置いて彼の手の甲を撫でる。
目の前に鈴木がいるようで、望んでいた答えが待っていた。
真斗の顔に鈴木の面影を感じれば、気持ちは膨れ上がっていく一方。
ようやく会えた。
もうどこにも行かないで。
愛を感じて、会話も終わって、そこには知らない人の顔が目に映る。
こんなんでいいのかな。
鈴木を感じられたのなら、誰でもいいのかもしれない。
でもやはり、私はまだ、鈴木を忘れられないでいる。
死んで欲しくなかったから。
溢れてきた涙を彼に隠れて拭う。
「そろそろ、帰ろ」
私は先に立ち上がってカフェを出る。
鈴木はもうこの世にいない。
全部、忘れなきゃ。
そう決意した。
冬休みに入る頃、LINEの通知がいつもより多いことに気づいてアプリを開いた。
普段、真斗くらいしかLINEで連絡を取らない。
他の友はインスタだ。
LINEの一番上には柊のアイコンがある。右端には一の数字がある。
『少し話したい。会える?』
短い文章。
あの日、柊は湖に向かって歩いて行ったはず。
自殺でもしに行ったんだと思っていたけれど、彼は死んでいなかったらしい。
しかし、今更話すことなんてない。
彼と会う理由なんてどこにあるのだろう。
考えないようにして生きているけれど、柊は今も何かと考えて生きているのかもしれない。
憶測で話すのはやめよう。
それに会う必要もない。
けれど、彼は電話をよこしてきた。
ぶち切ってスマホをソファにぶん投げる。
「ちょっと、スマホは大事に使いなさいよ」
最近引っ越した我が家は、ようやく安定してきて、家具も揃い始めている。
このソファも新調したもの。
スマホよりもソファを大事にして欲しいのだと思う。
「うるさいな」
イライラしながら、リビングを出る。
廊下を父さんが通ったけれど、ただいまを無視して部屋に戻る。
今更、浜松に戻る理由なんてない。
部屋のベッドでうつ伏せになりバシバシとマットを叩く。
思い出させないで欲しかった。
もう浜松の人間の誰とも会いたくないし、名前も見たくない。
忘れるように数ヶ月を過ごしたのに、どうして連絡なんて来るのか。
LINEのアカウント変えれば良かった。
せっかく引っ越したのだから。
部屋をノックする音が聞こえる。
ガン無視した父さんが怒っているのだろうか。
それさえも無視すると入るぞと言って勝手に入ってきた。
「入んないでよ!!」
「柊って子から電話来てたよ。間違えて電話に出ちゃった」
ほいと、スマホを手渡すと柊の声が聞こえた。
「……」
あとで絶対ぶっ殺すと誓う。
飄々とした顔で出ていく父さんに殺意を向けても鈍感な父さんは気づいていない。
「もしもし、少し時間もらえない?」
上体を起こし、うんと声をかける。二の句を待つ。
「鈴木を生き返らせるって言ったら、協力してくれる?」
「……あのさ、そんなふざけたこと言うなら切るけど」
「違うんだ、待ってくれ。タイムリープの伝説、知ってるだろ?」
「は?」
とうとう頭が狂ってしまったのかとため息をつく。
そんなこと言うタイプじゃないと思っていたけれど、勘違いだったらしい。
柊はそんなオカルト話を信じるたちじゃないだろうに。
いつかの電車で二人話した時、彼はもっとも現実的で正しいことを言っていたはず。
「都築神社、調べてみてよ」
「……だから」
「いいから」
電話をスピーカーにして、検索エンジンをかける。
するとLINEからURLが送られてきた。
それをタップルすると都築神社の伝承が書いてある。
「調べろって言ったじゃん」
「遅いから」
そこには彼の言う通り、タイムリープの話が載っている。
一つの願いを叶える場合、一つ犠牲を生む。
等価交換とも言える関係性でない限り、できないという。
「都市伝説か何かでしょ」
そもそもそんなことができるのなら、未曾有の大災害が起きる犠牲と同時に被災者を助けることだってできたはず。
「……ねぇ、まさか」
そんなことができないのなら、一人を助けるために犠牲を払う。
「一人だけなら、犠牲も少ないって思わない?」
「バカ言わないで。そんなこと誰が信じるの」
「じゃあ、俺たち、なんで鈴木が位置情報アプリの現在地が表示されているだけで、海に行ったの」
「そんなの」
「俺たちが、何かを悟ったからじゃない?」
「でも」
それなら、なんでその悟った感情はとうになくなっているのか。
「誰かがその記憶に改変をおこしたとすれば?」
「あの日、改変した人がいるなら、それさえも変えるべきだって事?」
「犠牲さえあれば、鈴木は生きているかもしれない」
未曾有の大災害が起きる前日、彼の行動は明らかにおかしかった。
私の家に泊まること。
一緒に都築神社に行ったこと。
涙を流したこと。
そして、都築神社の伝説について触れていたこと。
死ぬことを知っていたから、救って欲しかった?
「まさか」
「お願い、少しでもいい。わがままに協力して」
「……わかった」
信じたわけじゃない。
でも、何かと一致する。
違和感を抱いたあの日の記憶が呼び起こされる。
気がつけば、私は母さんに最寄り駅まで車を出して欲しいとお願いしていた。
冬休みに入って、柊と落ち合う。
思ったよりも復興作業が進んでいた。
柊は親が亡くなったようで、仮設住宅に住んでいるらしい。
バイトもできないから、支給された飯を食べているそうだ。
学校の再開にも目処が立っていないらしい。
同学年にも亡くなった人は多いらしくて、精神を病んで病院に入院する人もいたらしい。
「ここ、座って」
彼に促されるまま、ベッドに座る。
ベッドに座られることを拒む男子もいるようだけれど、彼はそうではないらしい。
「一人で、ここ住んでるの?」
「身寄りがないからな。一人で、適当に時間潰してる。復興作業の手伝いとかしながらね」
「……」
「引越し先があれば、良かったけど、そううまくはいかないな」
「そっか……」
「雨宮はどうしてるの」
「引っ越して、転校した」
「それくらい知ってる。話題になってたよ」
「そんなまさか」
「鈴木が死んで、浜松から逃げ出したって」
「……」
「どうでもいいけど」
本題に入ろうか、と彼はいう。
机に置いてあった封筒を手渡す。
開けても良さげだったので開けると、一冊のノートが入ってあった。
一枚捲るとそこには鈴木の字が広がっていた。
鈴木のノートには、父親の住所や阿久津の現在、どこで生まれたかなど詳細に書かれていた。
伝説が本当だった時に起こる現実的な物語。
父親が、鈴木の死を見て何を思うのか。
その遺体を阿久津も見た場合の心情の変化。
何パターンにも分かれて、書き連ねている。
最後には、完遂するために必要なことが箇条書きで書かれていた。
「これ」
「鈴木は、大災害を予見してた」
「……」
「でないと、こんなこと書けない」
「……これは、復讐?」
「僕はそう思ってる」
彼の目を見ると、嘘はなかった。
「でもどうして」
「信じ切れる理由はわからないけど、縋るほどに憎んでたって考えると大胆だけれど、尤もわかりやすい」
何より、とノートのページを捲り指をさす。
『父親に愛を教える』が最終目標と丸をつけている。
「鈴木を失うことだけで、愛について知ることはできないと思う。あくまで仮定だけど。でも、そこに阿久津って腹違いの女の子が出てこれば、話は変わってくる」
「……」
「あの日、見たんだ。鈴木の遺体に泣いてよりつく女の子と少し離れて泣いている父親の姿」
少し外に出ようかと彼はいう。
浜名湖沿いを歩くと少しして立ち止まる。
「僕は、ようやく死ねるって思ったんだ」
「……」
「家に帰ったら母が死んでた。鈴木の死の次は母なのかって」
浜名湖を見やる柊。
「もう全部終わりにしようって。それで、浜名湖に歩いて溺れて死んでやろうって。そしたら、人影が見えたんだ」
震える声。
「鈴木が、目の前に立ってた。腹まで浸かったくらいだったかな。これ以上行かせないような顔してた。それでも行こうとする僕の腕を引っ張った奴がいるんだ」
「だれ?」
「鈴木じゃなかった。ただのおっさん。命が、救われたんだ」
死ねなかった、と呟く。
「呪いじゃないかって思えた。どうして、死なせてくれないんだって。でも、わかった気がする。このノートを見つけて、読んだ時に気づいた。鈴木を生き返らせることができるんじゃないか」
それで、雨宮を呼んだと告白する。
「何を犠牲にするの」
風がなびく。髪が揺れて、開いては閉じてを繰り返す彼の口。
「……決めきれないな」
辛そうに言うものだから、それ以上に返す言葉がない。
聞きたいことさえ聞けない。
どうして、鈴木の家に行ったのか。
彼の住んでいる街は県内といえど遠い。
「でも、鈴木を救う気があるのなら、協力してほしい。今から、都築神社にいく」
決定的な証拠まではいかないけれど、鈴木が残したノートの通りにことが進んだと考えれば、彼は一度未来を見ている。
未曾有の大災害を知っていて、その上で行動できた。
もしかすると、私に写真を撮りにいかせるために学校に行かせたのは、未来を知っていたから。
私たちを救って、父親に復讐をした。
許せないのは、自己犠牲で私たちを救ったこと。
それに、自分が死んで復讐を完遂したと思うのなら、生ぬるい。
復讐なんかよりもっとやれることがあるはずなのに。
父親のために復讐するのなら、阿久津はどうなるのか。
あの子は、あなたが好きだったからあなたの死体の前で泣いていた。
彼女の気持ちまで踏み躙るなんて許せなかった。
神社の前に立つ。
何を代償に鈴木を生かそうか。
そもそもどうやってタイムリープするのか。
神社の前に来たとはいえ、二礼二拍手でもしたらいいのか。
とりあえず五円玉でも入れておこう。
「僕が考えた犠牲がある。雨宮はついてきてくれればいい」
「……わかった」
お賽銭に五円玉を入れる。
二礼二拍手をすると意識が遠のく。
後ろで音を立てる風が聞こえなくなる。
そして、意識が消えた。
チャイムがなる。
騒がしい学校。見覚えのある廊下、教室。
夏用の制服を着ている自分に驚く。
スマホを見ると九月。時刻は十六時になる。
すぐに放課後になる。
柊に目を向ければ、お互いタイムリープしたのだと気づく。
本当にタイムリープができたんだ。
私の記憶も柊の記憶も残ってる。
黒板には、『171』やハザードマップが書かれている。
鈴木は、私の『好きだよ』の電話に睨みを効かせていたはず。
放課後に入り、すぐに鈴木を捕まえに行った。
彼の腕を掴むと驚いたように振り返った。
「ねぇ、今日から一ヶ月間、ずっと一緒にいるのはどう?」
「……何言ってんだ」
ふざけているのかといいたげな彼。
「せっかくだし、遊ぼうよ」
「お前とそう言う気にはなれない」
「何を想像したの?」
「サッカーでもするか?弱いくせに」
「なんか子供みたい」
「めんどいな」
いつもの口癖が出てくる。
鈴木は、変わらず鈴木だった。
「じゃあな、またあした」
腕を振り払って廊下をスタスタと歩き去っていく。
「一ヶ月も一緒にいようなんてバレるだろ」
いつの間にかきていた柊に言われて、頭を冷やす。
「そんなこと言われても」
「鈴木はタイムリープの伝説を知ってる。一筋縄じゃ行かないことを理解するべきだ」
「じゃあ、どうやって死ぬ未来を変えるの?みんなが鈴木の死で壊れていった。私もそう。あなたもそうでしょ?なら、どうやって」
「……雨宮も、壊れたのか?」
思えば、そんな話をしたことはなかった。
鈴木の死を受け入れたくなくて、望んでいた展開を他の誰に面影を乗せて。
最低なことをしたのはわかってる。
だけど、柊にはいえない。もちろん、鈴木にもいえない。
「あの後、父親の転勤で引っ越しが決まっちゃってさ。忘れたくない街だよ、ここは。でもね、忘れたいって思ってる自分がいて、乖離して、気持ちがぐちゃぐちゃになっちゃった」
廊下の先に鈴木はいない。
鈴木は、いつもそうだ。
勝手にどっかいって、一人で生きようとしている。
そんなこと高校生には到底できないはずなのに。
彼は自分で未来を作ろうとした。
自分のいない未来で、呪いを作った。復讐者になろうとした。
腹違いの妹があんなにも泣いている姿、これ以上見たくない。
自己犠牲の先にある復讐は許されないし、許さない。
今はもう、その感情だけで十分だ。
彼の死を止める。
「柊、どうやって止めようか」
縋る私の思いを汲んでか、図書室で作戦会議をすることになった。
何せ、一ヶ月はあるのだ。
うまくいけば、生きる未来を作れる。
地図をコピーして土砂崩れの被害範囲を丸で囲う。
浅い波が押し寄せてくるところは青色で囲った。
どうしても鈴木が死んだあのエリアには行かせない方がいいことが改めて思い知らされる。
どうにも逃げ場がない。
そしてもし鈴木を助けた場合、阿久津がどうなってしまうのかも考慮したい。
鈴木は、阿久津のことを気にかけている。
仲がいいと思っていたけれど、あのノートを見た後到底そう思うことはできなかった。
阿久津は父親に復讐するための道具だったに過ぎない。
彼女はそのために仲良くされて、絶望のどん底に突き落とされた。
彼女を思うなら今のうちに突き離しておいた方がいい。
「阿久津ちゃんのこと考えてるんだけどさ、この地図を見てるとどうして生き残れたのか疑問が湧くね」
考えてみれば、阿久津は鈴木がわざわざ助けている。
ちょうど被害のない場所にいて阿久津を助けてスマホを渡す。
危険な場所から離れてもらうにしても園児一人を歩かせるだなんておかしい。
「始めに位置情報アプリが動き始めたのはこの辺だったっけ」
と、柊は黒で小さく丸をつける。
「動き始めた場所から土砂の被害地域はそんなに遠くないね」
逆に言えば近すぎるわけでもない。
「なら、助けた後で土砂に巻き込まれた?いやだとしたら、辻褄が合わない。阿久津を救うだけなら一緒に逃げればいい」
「他に助けたい誰かがいた?」
ふと思い浮かぶのは、鈴木の母親だ。しかし、柊が鈴木の家に行けたとなると母親は生存してる。
「後で考えよう。鈴木を最優先に助けたい。阿久津って子が生きてるなら今回も助けられると思う。確証はないけど」
それと今回のリープは一aにしようと続ける。
自分達のリープした世界線をaとして一は一回目ということだろう。
「鈴木が土砂に巻き込まれないようにするなら、三ヶ日エリアに居ないようにする。阿久津も同様に」
「難しくない?」
復讐として完璧だったaの世界線。そして。
「鈴木が一aを知らないとは限らないでしょ?」
aの世界線の記憶を引き継いでいる私たち同様に鈴木もまたリープしたと気づいているかもしれない。
「確かに。なら無理やり呼び出すっていうのはどう?阿久津って子と鈴木に会いたいから連れてきてって」
「うーん……」
鋭い鈴木相手に安直すぎる。
「今回は、雨宮が尻すぼみしてるな」
「被災後は柊が億劫になってたのにね……。私、変だね……」
あの時は気が気でなかった。
どうしてもこの目で生きていることを確かめたかった。
今はもう何をしても死んでしまうんじゃないかと助かる見込みは少ないんじゃないかと勘繰ってしまう。
「復讐を望む人が最後行き着く先ってなんだと思う?」
柊に問う。
「わかんないな」
「破滅だよ……。破滅願望ってあるじゃない?私はあると思うの。復讐を願うなら尚更。aの世界線であったように、自分が死んでもそういうこと望むから」
「つまり、都筑神社で願った望みの代償は、自死?」
「そんなこと思いたくないんだけどね」
あんなノートを見てしまっては、自死を願いの代償にしていてもおかしくない。
「私はあの神社で柊の望んだ通りにした。何も考えないようにした。正しいって思いたいけど、私は正直あなたのことも疑ってる」
「……今は、鈴木のことを考えようって言っただろ」
不安な目に気づかんとばかりに顔を地図に向けている。
問題点は波よりも土砂だと断定している様子。
波の被害は柊の家にもあったはずなのに。
考えたくないから目を背けているのか、本気で鈴木だけを助けようと思っているのか甚だ疑問だった。
「少なくとも阿久津って子と仲良くなっておくのは手だと思う。女子なら姉ができたみたいでいいんじゃない?」
「それなら鈴木がいるじゃん」
話を無視された私はぶっきらぼうに返す。
「阿久津を被害の少ないこっちに連れてきていれば、鈴木はこっちにくるんじゃないかって話」
「……なるほど。死なせなくて済むね」
阿久津に会って仲良くなって、被災日当日はこちらへ連れてくる。
鈴木も三ヶ日に行く理由がなくなる。
最高にいい案だ。
「じゃあ、阿久津ちゃんに会いに行こ」
「三ヶ日に住んでるの?」
「住んでると思う。ちょっと行ったとこに幼稚園あったはず」
日も暮れていたので次の日の放課後すぐに向かうことにした。
阿久津が通っているであろう幼稚園に着くと子供たちはもういなかった。
下校時間を過ぎて親が迎えにきたのかもしれない。
阿久津の家までは知らない。
これでは、計画が達成されない。
鈴木を生かすためには絶対に必要なことだ。
このまま帰るわけにはいかない。
近くの公園を探す。
遊んでいる可能性を考えれば、公園くらいしか思いつかない。
すぐそこにあるのなら行こうと柊が言う。
彼も鈴木を助けたいみたいで安心した。
公園には思いのほか園児くらいの子たちが遊んでいる。
そこにはaの世界線で見た正志がいた。
阿久津はどうにも見当たらない。
見る目のある正志だ。一aの世界線でも声をかければ話くらいは聞いてくれるだろう。
私のような可愛い子ならば当然。
「ねぇ僕、最近よくここで遊んでるよね」
声をかけると彼は不思議そうな顔をする。
「おばさん誰?みたことない」
隣にいた柊は笑いを堪えているようで肩をぶん殴った。
以前、お姉さんと言っていたくせに今はおばさんらしい。
女子高校生であり、制服も着ている私がなぜおばさんと言われなければならないのか。
「おばさんじゃないよ、高校生だし。それでね、聞きたいことがあるんだけど」
正志の目線に合わるべくしゃがんで問う。
「阿久津ちゃんって子わかるかな」
聞いてみたはいいけれど、彼はそれ以上にぼーっと私をみている。
どうやら気になっている様子。
a世界線と変わらず好きなタイプは同じみたいで安心した。
「お姉さんもしかして阿久津のお姉さん?三兄弟?」
同じ制服の男子が家連れて帰ってったと続ける。
鈴木だと察する。
いつも帰りが早いのは阿久津にあっているから?
「お姉さん呼びに変えれて偉いよー。正志くんは阿久津ちゃんと仲良い?」
「仲良いけど、最近お兄さんがずっと付きっきりでなんか……」
やっぱり阿久津と会っても仲良くなるには時間がかかるかもしれない。
「そっかありがと」
と、立ち上がり彼女の家を突き止めようと決める。
「克樹、パス!」
なんて声が正志から発せられる。
サッカーボールを蹴って遊ぶ彼らはきっとこの先起こる大災害を知らない。
知らせる必要もないかと思う。正志は生きているのだから。
正志から阿久津の家を聞くと大通りの右側に位置するらしい。突き当たりだからすぐにわかると言う。
その道中、鈴木は見当たらなかった。
そして、阿久津の家と思わしき場所に到着した。
何度かこのあたりを歩いて阿久津に会い、話しかける。
そうすれば、阿久津とも仲良くなれるかもしれない。
考えを巡らせていると、突然柊が私の腕を掴んで阿久津の家から離れた。
彼女家が見えなくなるほどに離れてしまう。
「ちょっと!!」
腕が痛かったのもあるけれど、何も言わずに離れたことに腹が立つ。
「雨宮はマジでおばさんなのか?」
「は?」
「ドアの鍵が開く音が聞こえた。ほら、鈴木が出てきただろ」
目を細めて阿久津の家をみやると鈴木と阿久津が出てきていた。
玄関の前には阿久津の母親と思わしき人と談笑している。チラチラとあたりを確認しているのは父親にバレないためだろうか。
少しすると彼は、道路を歩き始める。
追いかける阿久津が、何かを言う。
それが問いだと気づいた時には、阿久津は嬉しそうに笑う。
良好な関係なのだろう。
それと同時に彼女は、彼に違う感情を抱いているように見えた。
兄弟愛ではない何かがそこにはあるように感じた。
思い返せば、阿久津と初めて会った世界線aで鈴木の名を一向に出さなかったのは今起きている恐怖からではないのかもしれない。
「帰るか。このまま鈴木にバレるわけにも行かないし」
柊の提案に首を横に振った。
無理だ。
なんだか、あの二人の関係が気持ち悪い。
もし、兄弟愛ではない何かなら鈴木の遺体を見た時の阿久津の涙は兄弟に向けるそれではない。
「雨宮、そろそろ帰ろう」
鈴木がこちらへ向かってきていることに気づく。
柊に手首を掴まれ、流されるまま。
タイミングよくきた電車に乗ると私はぼーっと外を見ていた。
柊は、それ以上私に何かを言うことはしなかった。
ある日、ひょんなことで阿久津と会話するタイミングが生まれた。
いつも通り足繁く通っていた阿久津の家の付近。スーパーで見かけた彼女に、声をかけた。
一人で買い物する彼女が、商品を見比べて悩んでいた。
柊は、この場にいない。
部活に行っていないと鈴木にバレることを恐れたらしい。
「今日、お兄ちゃんいないから、料理教えて」
家に上がらせてもらうと母親が出迎えてくれた。
阿久津みわが、母親の名らしい。
それを知ったのは、みわが電話に出ている時だ。
キッチンに入る。棚に飾られている家族写真に目がいく。
両親の間に阿久津が屈託ない笑顔を見せている。
鈴木はこんな思い出の写真を見て何を思ったのだろう。
より復讐してやると誓ったのだろうか。
彼がいつも見せていた笑顔の裏にはドス黒いものがあったのか。
そう思うとなんだか悲しくなる。
私の知っている彼は、演技でもしていたのだろうか、と。
「ケーキ作りたいの。今日、雅也くん来ないの。だから、今のうちに覚えちゃいたい」
「うん、いいよ」
彼女は嬉しそうに笑う。
子供の笑顔はこんなにも可愛らしいものなのかと微笑む。
こっちまで嬉しくなる。
未曾有の大災害まで時間がなかったから、ちょうどいいタイミングだ。
「ケーキさ、場所変えて見せてあげたら?普段行かないような公園にピクニックしてみたら、思い出も増えるんじゃない?」
鈴木はきっとこの棚に写真を飾られることを嫌がるだろう。
だけど、未曾有の大災害当日ならば、写真を撮られても飾られることはない。
この辺も被害が出る。
大丈夫、うまくいく。
「そうかも!そうする!碧ちゃん!」
制服が一緒で同性だから大丈夫だと思ったこの子は、将来危ないなと思うけれど、それ以上に危険な未来がある以上仕方がない。
彼女が好きな鈴木が死んだらその先の未来はもっと酷なものになる。
「雅也のどんなところが好きなの?」
「え?」
「だって、顔に書いてあるよ」
顔を赤らめる彼女はとてもピュアだった。
「それは……、かっこいいじゃん。大人だし」
園児には高校生が大人に見えるらしい。
「初恋だと思うの」
初恋相手が鈴木とはとんだ最低ものだ。
彼女の気持ちを蔑ろにするなんて、許せないなと思う。
「碧ちゃんは、雅也くんのこと、どこまで知ってるの?」
「うーん、知らないかも。あなたほどは知らないかな」
「そうなの?じゃあ、私の方が上だね」
「そうだね」
きっと阿久津も私も知らない鈴木がいるんだろうと言うことは、言わなくていい。
初恋なんてどうせ叶わないのだから。
作業を進め、完成させる。
「今度は一人で練習してみて。雅也も一人で作ったもののほうが喜んでくれるんじゃないかな」
「そうかなぁ。不安だよぅ」
「あなた、可愛いし、大丈夫よ」
と、洗った手で頭を撫でると子供らしい顔を見せた。
子供をたぶらかす鈴木を一瞬でも死んでしまえと思ったのは、ここだけの話。
うまく行かなければどうせ、彼は死ぬ。
その未来を変えたくてタイムリープしたことを忘れてはいけない。
決意を改める。
連絡先を交換して、未曾有の大災害当日の昼前に会うように伝える。
彼女は親のスマホから毎日、連絡をくれた。
今日は上手くできなかったとか、上手くできたとか、その日によってバラバラだ。
鈴木が来てくれて嬉しかったとか、恋をしている子の言葉はキラキラと輝いていた。
初恋が敗れようと二人が生きていることの方が正しい。
生きていれば、どうにかなると言う保証はないけれど。
どうにかなると思っていた方が気は楽だ。
それは誰かがいると言うことが大前提である。
そんな大前提を忘れてしまったから、逃げてしまうのだ。
自暴自棄になる。
良くないと本当にわかっていたなら、目を背けることもなかっただろう。
他の男に面影を寄せることもないのだろう。
経験してようやくわかる。
私には、鈴木が必要なんだ。
彼を生かさなきゃならない。
絶対に救う。
生きてさえいればそれでいい。
未曾有の大災害当日、彼女は昼前に鈴木を呼び出すことができたそうだ。
少し怒っている様子だという彼女の不安を気にもせず、楽しんできてとLINEを送る。
この日、私と柊は一緒にいた。
鈴木を救うと決めたあの日の都築神社にきている。
「よく阿久津をこっちに取り込めたもんだな」
「まぁね」
「人の恋心を利用するなんて考えつかないだろ」
「そう言うクズ男っているじゃん?ちょっと知恵を借りただけ」
願いさえ叶えば、タイムリープは終わるはず。
あとは。
「柊が考えた願いの代償って?何を犠牲にしたの?」
「……」
神社に体を向け、私に背中を向けている彼。
表情が見えないけれど、もう一度口をひらく。
「世界線aの時の感情、今もあるんじゃない?」
死にたいと口にしたあの時の気持ちは消えていないはず。
「残念だけど、僕はそう簡単に口を割らないよ」
「……」
「言ったら叶わなくなっちゃいそうじゃん?願いを人に言わないのって叶わない可能性が出てくるからでしょ。出る杭は打たれるみたいに」
「望んだことは同じじゃん。犠牲は」
「犠牲は、僕が望んだこと。知る必要はない」
言葉を被せてそれ以上聞くなと言わんばかりに、階段を降りていく。
どこにいくのか聞くよりも先に、地震が起こる。
時間だ。
これから大災害がやってくる。
街は波に飲まれて、土砂がそのうちやってくる。
でも、もう大丈夫。
鈴木は、生きてる。
元から願いはこれだけだ。
一夜が明けて、阿久津と連絡が取れた。
鈴木は生きていて、阿久津と一緒にいるそうだ。
安心したのも束の間。
ひどく激しい頭痛にうなされる。
膝をついて、頭を抑える。
眩暈がしてくる。
前の前にある都築神社を見やる。
けれど、意識を失った私は、その場に横たわった。
目が覚めると、広がる景色に唖然とした。
黒板に書かれている『171』の文字。
一aの記憶はある。
また、タイムリープしたみたい。
鈴木を生かした。
阿久津がいてようやくできたことなのに。
失敗したと言うことなのだろうか。
どうして?なぜ?
柊が選んだ犠牲が叶わなかったから?
教室にいる鈴木が私をみている。
目が合う。
彼は何かを察したようで、私に声をかけてきた。
放課後に、柊も呼んで、都築神社へと向かった。
その道中、私たちは一言も喋らなかった。
一体何が起きて、もう一度やり直したのか。
階段を登りきるとまた、頭痛が激しさを増す。
それは柊も同じだったみたい。
苦しさの果て、私と柊は横たわった。
「なんで……?」
誰かの声。
「少し眠ってもらおうか」
鈴木の声がだけが、響く。
意識はまた、途絶えた。
聞かずとも願いには代償があり、犠牲がある。
雨宮の言葉には鋭い考察力があって、一時も気を許すことはできない。
彼女の言葉の通りだ。
僕は、『僕の命を犠牲に鈴木を生かすこと』を望んだ。
そして、それは叶った。
正直、何をしなくても鈴木は生きていたんじゃないかと思う。
願ったのだから。
神なら叶えてくれるだろうなんて思った。
雨宮の言葉を聞かんと神社を離れたあと、向かってくる車と事故に遭って死んだ。
だけれど、目が覚めた。
黒板に書かれている『171』に驚かされる。
生きている。
死にたくて、選んだ犠牲は、叶わなかった。
誰も叶えてくれなかった。
何度自分で行なってきたか。
その度にどうしてできなかったのか。
なぜ死なせてくれないのか。
都築神社に向かう電車内。鈴木の顔色を窺う。
どうしようもないほどに、逃げ出したかった。
この電車に飛び込んで、死んでやりたい。
湖に身を投げ出して、死にたい。
練炭炊いて部屋で死にたい。
思えば、いつから僕は死にたいだなんて思うようになったのか。
なぜ人は人を生かすのか。
雨宮が望んだから鈴木を生かすことにした。
別に何がどうなったっていい。
人に生きててほしいなんて思うのは、エゴだ。
僕は望んでない。
犠牲が叶う瞬間、とても嬉しかった。
ようやく終わりにできるんだって思えた。
命はいらない。
生まれてくることは間違い。
死を求めることは救済である。
考えることを放棄したい。
唯一の解決策。
またタイムリープしたのは、きっと鈴木の願いが叶わなかったから。
彼が望んだ犠牲が得られなかったから。
もう一度願いを叶えるのなら、鈴木の願いを叶えてからだろう。
しかし、復讐がメインとなると僕の願いは叶わない。
叶わないのなら、どうしようもない。
何度もタイムリープするだけ。
一生終わらないエンドレスゲーム。
ならば、どうしろと言うのか。
願いも犠牲も放棄した場合、世界は変わらないままだろうか。
全部失って、死ぬこともできない。
aの世界線で見た鈴木の姿。
命を捨てるために湖に浸かっていった僕の前に前に現れた彼はなんなのか。
死んだはずの彼にいった言葉、彼は知っているのだろうか。
『羨ましい……。お前ばっかりなんで自分の都合のいい生き方ができるんだ……!命投げ打ってまで、妹助けたってなんだよ。こっちは真面目に生きてきたってのに。お前は、自堕落に生きて、部活もサボって、授業中だって、寝やがって。しまいには、僕の望んだ死さえ手に入れて。行きたい時に部活きて、あっさり部員に勝って、レギュラーに選ばれて。僕の努力がどうして、報われないんだよ!お前ばっかり、ふざけんなよ!』
目の前の彼にぶつけた言葉、何かに縋るように肩を掴もうとする。が、幻覚だったのかあっさりとすり抜ける。
鈴木と僕は何が違った。
どこで間違えた。
僕はどう生きていれば、こんなに苦しまずに済んだ?
親が望む学力にもなれず、変わりもない。
部活さえ、レギュラーになれない始末。
どうしたら、変えられた?
どうしたら、生きたいって思えた?
どうしたら、いいのかなんてこんなに長い時間があってわからないままだ。
都築神社に到着した三人。
睨みつけていた鈴木の背。
激しい頭痛にうなされ、誰かの声が聞こえる。
『なんで……?』
『とりあえず、眠ってもらおうかな』
ハッとした。
鈴木の声に感情がない。
そうだ、いつもそうだった。
言うだけ言って、毎日雑に生きている。
消化試合でもしているような、雑さ。
いつか見た団体戦県大会の勝ちが確定して必要のない試合に出た鈴木の顔や声に似ていた。
そうか……。
生きるための理由を探してた僕とは反対だ。
死んでいくものが身近に多かった僕とは違う。
鈴木は、とっくに心の奥底から死んでいた。
どうして、早く気づけなかったのだろう。
自然な笑顔に騙された。
人の痛いところをついてくる時も嘘をついている時も全部バレていたのは、雨宮と幼馴染だからじゃない。
鈴木自身が、人の感情の変化に敏感だったから。
全てに気づける彼だから、一aの世界線では何もしなかった。
どれだけ行動してもお見通し、か。
負けを認めるしかない。
いつだって僕は、彼に勝てなかった。
人と比べられ続けたる僕の隣にいて欲しくないなと妬んだ。
それでも彼のために何かできないかなんて思うのは烏滸がましかった。
だからもう、次のリープも何もできずに終わるんだろうと、思った。
いやそうだろう。誰にも変えることはできない。
きっと、雨宮でさえも。
さて、どっから話そうか。
雨宮と柊を目の前に特別話したい欲はない。
けれど、タイムリープしてしまっている以上、俺の願いを叶えるためにも話し合いは必要だった。
ようやく得られたはずのものがもう一度やり直しとなってしまっては、何度も同じことをする復習とは違う。
体力もいるし、知恵もいる。
先見の目もないといけない。
目を覚ました二人にちょっと散歩しようかと都築神社の中に入る。
それは、本来の世界線の話だ。
彼らが前回の世界線を一aの世界線といい、俺が死んだ世界をaの世界線と言った。
ならば、一Aの世界線を俺が、二人を救うのに失敗した世界線。
本来の世界線がAの世界線としたとき、二人が死んだ世界とする。
「まずは、世界線Aを見ようか」
地震が起きた当日、彼らは家にいた。
逃げ惑う雨宮は箪笥の下敷きになり、救助が来なくて死んだ。
柊の家は、湖寄りだったこともあって波が家に入ってきて死んだ。こちらも救助が来なかったためだ。
残念ながら、この辺は大きい病院もなければ、あったとしても救助のヘリが来ない。
自衛隊も遠くてすぐには来ない。
俺は、家にいた。海から遠く海抜も高いために波の被害もなければ、揺れも地震対策をしていたおかげでなんとかなった。
二人の死を知ったのは、高校に来た時だ。
部活のグループラインを見て、生存者だけでも学校に行こうと言う話になった。
高校の体育館では、自衛隊が指揮をとり安否確認をしていて、二人の名前の隣には死亡という文字が書かれていた。
死因や誰が連絡したのかまで教えてくれることはなかった。守秘義務があるらしい。
「嘘……」
言葉を詰まらせる雨宮は涙目だった。
「まだおわんないよ。君らが勝手に始めたんだから、終わらせてもらわないと」
いくよと、腕を引っ張る。
二人の命だけじゃなかった。
阿久津も父親も死んだ。
三ヶ日の避難所にてそれを知らされる。
これは天罰だと思った。
不倫した挙句、子を作って家庭を持った二人は神から罰を与えられたんだ、と。
だけど、そこには見覚えのある女の姿があった。
何度か話したことのある不倫相手。
彼女は、悲しいという感情を持ち合わせていないように見えた。
悲しいというより、うまくいったはずなのにというニュアンスが見て取れる。
それは怒りにも似た感情なのかもしれない。
そして、思う。
彼女は、父親を利用していたんだと。
毎日高級品を着飾って、子供のことにあまり興味はないけれど、家庭のためにと動く姿勢。
見落としていた。
父親をATM代わりにしていたということを。
殺さなきゃと、思った。
こんな魔女に俺の家庭は奪われたんだ。
母は、満足に仕事をしてない。
ずっと父親が働かなくていいと家事をさせていたのだから、簡単に就職先を見つけることもできない。
高校生になった俺にいつもごめんね、という。
誰のせいだろうか。
悪魔はこいつなんじゃないか。
だけど、子供みたいに感情に合わせて動くことはなかった。
なんとなく悟っていたのかもしれない。
人を信じれば信じるほど悲しくなるのは、裏切られたなんて思うから。
命に終わりを知っていれば、まぁそうだよなって思える。
いつか関係性も命も全部が終わる。
父親が、不倫相手と阿久津がボール遊びしているのを微笑ましそうに見ているあの瞬間に思った。
俺の時は仕事が忙しいと幼少期に会うことは少なかったというのに。
愛情とはなんだろうか。
考えてみても答えが出なかった。
知識がないからかもしれない。
どうでもいいという気持ちもあった。
知ったところで、心はとっくに空っぽだったから。
何度この景色を見ても、俺の心に湧くものはなかった。
世界線一Aを見ていこうか。
都築神社の外に出る。もう一度、戸を開くと新しい景色が見えてくる。
犠牲の代償に願いを叶える。
そんな犠牲のもと叶えたのが、現実改変のやり方だ。
人の犠牲によって得られたのは、復興であり、思いやりの心。
大事にすべきものは、現状維持ではなく現状を改善していく考え方にある。
そして、地元だけでなく県外の人間でさえその強い魂に心を打たれた。
だが、この時も雨宮、柊は死んだ。
動かせなかった。
ここから離れようと無理なことをいう俺に疲れているんじゃないか、どうかしてしまったのか、と不安を寄せた。
突然そんなことを言われたら困るのかもしれない。
いや、困ってしまったから俺を宥めようとしたのだ。
一度目のリープで叶わなかったこと。
反省点を生かしたのがaの世界線だ。
もう一度、都築神社の外に出る。
震えている雨宮にトラウマを与えるかもしれないと危惧する。
柊は、とっくに死んだ顔をみせていた。
俺が選んだ願いと犠牲に気づいたのかもしれない。
何もしないことが正解だったと答えを出したのだろうか。
けれど、二人がタイムリープをして現実を改変してしまった時点で、もう一度やり直さねばならないのは、お互い様だ。
あと何回同じことを繰り返せばいいだろうかと思う。
気が滅入る。
もうラストにしたいのだが。
柊が望みを放棄しても犠牲は得る。
こいつが望んだのは、きっと己の死だ。
厄介なことをしてくれた。
これでは、どう未来をつくればいいのかわからない。
柊の犠牲の詳細がわかれば、端的なものであればあるほど、捻りのある返しができるのだけれど……。
やはり、ここで二人の精神状態を最低で最悪なものにするしかない。
「aの世界線は、二人が見てきた通りだ。予想外のことが起きても、うまく利用できたし、なんとかなった」
「あれは、鈴木が望んだ未来で間違いないのか」
柊がいう。
「あぁ。そうだ。あれで十分だったはずだ」
「……あのノートは」
「ノート?」
一瞬なんのことだかわからなかった。が、すぐに気づく。
「家に入ったのか?」
「そりゃそうだろ。僕らは生き残った。お前が、死んだ。鈴木の母親が生きてるって聞いて、線香上げに行ったんだ」
「……」
「そしたら、鈴木の部屋からあんなノートが見つかった」
「…………そうか。じゃあ、ま、しょうがないか」
「悪かったな、最高の未来が築けたっていうのに」
してやったりといったニュアンスがどうも気に食わなかった。
「命を犠牲に選んだお前は、俺の望みに反してる」
「そうか?いつも死にたいとか言ってた割に本来の世界線じゃ、生きてたんだろ」
生きていてよかったなと付け足す柊。
「死にきれず、死体を見たお前が望んだことは、死ぬこと。どんだけ死にてぇのお前」
「……」
「やめてよ……、喧嘩は」
と、溢れる涙を拭いながら雨宮はつぶやく。
拭ってやりたいと思いつつも、ここでちゃんと止めておかないと雨宮は都築神社で犠牲を得て、願いを叶えるかもしれない。
それだけは阻止してやりたい。
「阿久津を利用してまで、俺を生かして何がしたいんだ?下手すぎる。あえて聞かないようにしてたけど、阿久津は全部俺に話してくれた」
「……」
「同じ制服の女子ってお前くらいしかいないだろ。他の女子と関わらないようにしてんだから」
「でも」
「あの家に入ってみてどうだった?写真を見てどう思った?あの不倫相手の女を見てどう思った!?」
「それは」
「全部、奪われた。全部奪い返しても、あいつは悲しみなんか知らない。夫婦愛なんてもの存在しない」
「……だったら、なんで阿久津ちゃんと仲良くしたの?何度も何度も一緒にいたら気持ちが苦しくなっちゃうだけじゃん!」
「あの妹は妹じゃない。どっかで絶対父親に教えてやる。ようやく叶えたはずなのに」
「それを止めたくて、私たちはタイムリープしたの!鈴木がそんなやつじゃないって信じてるから!」
「信じてる!?何が?俺の何を知ってる?俺を俺たらしめるのは何かわかんのか?お前にとって俺はなんだっていうんだよ」
「……」
「この世界は、何かが奪われても大して変わらない。お前だってわかってるだろ。いなくなったら代わりがいる。ここに一人欲しいと思えば、誰かがいる。大災害が起きようが、他の県ではありふれた当たり前の生活がある。奪われたものの悲しみに誰が寄り添う?誰が理解できる?同じ痛みを知らぬもの同士に信じられるものなんかあるのかよ」
雨宮との圧倒的な違いは、家族愛を知っているか知らないか、だ。
不倫された挙句、母親は衰弱していった。
雨宮の親は、不倫することもなく普通って括りの中で当たり前に生活してる。
高校生にもなれば、親は離婚したり、再婚したりする。
愛してくれる相手なら誰もよかったんじゃないか、愛してくれる人が一人だけじゃないということ知ってしまう。
何も求めてなかったはずなのに、求めてしまう。
愛を知りたくなる。愛を求めている。
そんなやつを世間は醜いという。
被害者面するなと釘を打つ。
男なんだから男らしくあれという。
こんな世で何を愛せるか。
目の前の女子を泣かせておいて、愛なんかを求めていいものか。
否。許されないだろう。
だから、最後までやり切るしかない。
タイムリープだって結構苦しいさ。
毎日生きてるのに、毎日が変わらない。
同じ時間を生活して、同じルーティンをこなす。
未来が変わるなんてことその瞬間には起きない。
何度も積み重ねてようやく得られた。
勘の鋭すぎる雨宮から距離を置いたことで得られた最善の未来。
一aの世界線で気付かされた諦めない心。
へし折ってぶっ壊して最善の未来を得る。
二人とも持っているんだ。
恐ろしいほどに、強い心がある。
彼らはきっとその先の未来で愛を知る。
ならば、今心をぶっ壊しても問題ない。
そう思うことにして、今に賭ける。
この戦いは、俺一人で十分なのだ。
それでも彼女は口を開く。
「信じない……」
「犬みたいに吠えていればいい」
未来を変える。
その旅を続ける。
死んで得られたはずの未来。
黒板に書かれる『181』の文字。
誰かがタイムリープしたんだと気づく。
声をかけてきたその人のその目で理解した。
こいつと一緒にきたもう一人がいる。
柊に問う必要もなかった。
簡単すぎたから。
極端な変化は、気付きやすい。
そもそも一aの世界線で動かなかったのは、この二人だと確証を得るため。
壊すのなら、徹底的に壊す。
次の未来でまた、会うのなら、今度はお互いの最善の末会いたいと願いながら。
『柊と雨宮の命を救うこと』
犠牲は。
『最悪の未来』