「どれだけ仲がよくても、全部を言う必要はないからね」
貴方はただ静かに、そう言った。
きっと、私を救うために言ったわけじゃない。
思ったことを零しただけ。
だけど、私の心は確かに晴れていったんだ。
◇
「月乃ちゃん、変!」
無邪気な子供の、残酷な言葉。
女の子が変身して戦う物語や童話が好きだとか、リボン柄やハート柄の物を持っていただけなのに。
強い否定は傷跡として、まだ残っている。
どうしたら、“変”じゃなくなるんだろう?
いつだって否定されないことを一番に行動して、気付いたときには、周りの目を気にすることが当たり前になっていた。
“雨宮月乃”はどんな人なのか。
必死に周りの声を聞いて、私は“雨宮月乃”を演じるようになった。
「雨宮さんって、クールだよね」
「孤高の花って感じで近付けねえよ」
「年上の彼氏とかいそうじゃない?」
知り合いの少ない高校に進学して、“雨宮月乃”はそんなふうに言われていた。
クールってことは、笑わないほうがいいのかも。
孤高の花なら、誰とも話さないように。
彼氏はいたことないけど……同級生とは付き合うべきじゃないってこと?
そうやって、みんなが思う“雨宮月乃”でいたのに。
「なんか偉そう」
「レベルが低いやつとは付き合えない、みたいな?」
「……ウザ」
入学から一ヶ月が経とうとしたころ、悪意の籠った言葉が、私に投げつけられた。
直接言われたわけではないけど、私に聞こえるようなところで言っているのだから、隠した刃を突きつけられた感覚。
無邪気な子供と違って、完全に私を攻撃するために発せられた言葉に、私は酷く怯えた。
誰かが「全人類に好かれることなど、不可能だ」と言っていたけれど。
それでも私は、私を否定する人を一人でも減らしたくて、必死に取り繕ってたのに。
それなのに、あんなことを言われて。
どうするのが正解だったんだろう。
「雨宮さん、彼氏いないならさ、俺と付き合わない?」
途方に暮れていた私に、さらなる試練が重なった。
昼休み、いつものように自分の席で小説を読んでいたら、彼は前の席に座り、話しかけてきた。
――雨宮さん、年上の彼氏がいるって本当?
入学してから、ずっと誰からも声をかけられなかったから、私は上手に反応できなかった。
それが、無言の肯定となり、彼はそう言い切った。
クラスメイトの目がある中で。
「高槻君、本気で言ってる……?」
私が応えるよりも先に、周りの女子が動揺のままに言った。
彼、高槻冬弥は、学年で一番人気と言っても過言ではない人。
そんな人に特別な人ができるなんて、と女子たちの目が訴えている。
「本気も本気。ちょー本気だよ」
こんなにも薄っぺらい告白があるなんて、知らなかった。
彼は頬杖をつき、私を見つめる。
その黒い瞳は私にまっすぐ向けられ、思わず見つめ返してしまった。
すると、当然のごとく、女子たちからの悲鳴が聞こえてくる。
そうやって声を上げていないで、正解を教えてよ。
“雨宮月乃”は、この人と付き合うべきなの?
「冬弥、雨宮さんを困らせるな」
私の戸惑いを察してくれたのは、私の斜め前の席に座る久遠侑海君。
いつもスマホだけを見ていて、周りの人にはあまり興味を持っていなさそうな人。
さっきも、高槻君に話しかけられてもスマホに集中していたし、そんな久遠君から私が困ってる、なんて言葉が出てくるなんて、思ってもいなかった。
高槻君にノリで告白されたことよりも、久遠君の反応のほうが驚きかもしれない。
「困らせてない……って、侑海、タンマ! 引っ張んなよ、痛いから!」
久遠君は高槻君の襟元を掴み、無理矢理立たせている。
シャツの皺を見るに、それなりの力で引っ張っていそうだ。
「てか、まだ雨宮さんの答え聞いてないんだけど!」
「人前で告白してくるような、空気の読めない男とは付き合えません。はい、終了。解散」
久遠君はまた、私がなにか言うより先に応えた。
随分と冷たい返しだけど、正直似たようなことを思っていただけに、否定できなかった。
◇
「告られた!?」
週末、幼なじみの優愛と近所にあるカフェに行き、近況を聞かれたので、高槻君のことを伝えた。
ただ、優愛にはそのワードだけが頭に残ったようで、店の中だというのに、優愛は大きな声で反応した。
あまり大きくはない店内に、優愛の声が響く。
周りから少し迷惑そうな目を向けられ、優愛はペコペコと頭を下げた。
「そっかそっかあ……月乃、高校生になって、一気に綺麗になったもんね」
それはきっと、私が優愛にオシャレについていろいろ聞いたことを言っているんだろう。
“雨宮月乃”であるために、垢抜ける必要があるとすぐに察したけど、私はそういったことには疎かった。
だから、たくさん優愛に聞いたのが、もはや懐かしい。
といっても、そのきっかけまでは話していないけど……
「それで、オーケーしたの?」
その表情は興味津々であることを示していて、目は口ほどに物を言うとはこういうことか、と思った。
「……してない」
「そうなの? やっと月乃にも春が来たのかなって思ったのになあ」
優愛がボヤいたのと同じくらいのタイミングで、飲み物が届けられた。
優愛の前にはカフェラテ、私の前にはクリームソーダ。
中学生のときから来ているこのお店の、クリームソーダがずっと好きなのに。
目の前で泡が弾けていく様子を見ているだけで、なかなか手が伸びなかった。
高校生にもなって、クリームソーダなんて。
こんなの、“雨宮月乃”じゃない。
被害妄想だとわかっていても、誰かからそんなふうに思われているような気がした。
私も、優愛みたいにカフェラテが飲めるようになれば。
そうすればきっと、誰にも失望されないんだろうか……
「月乃?」
固まってしまった私を、優愛は心配そうな表情で見ている。
なにか、言わないと。
でもなにを?
なんでもない、なんて適当すぎることを言って、誤魔化せるとは思えない間ができてしまっているのに。
だけど、私がそうやっていろいろ考えているうちに、優愛の表情は笑顔に変わった。
「ね、ひと口ちょうだい?」
優愛はクリームソーダのバニラアイスを指さした。
私は小さく頷いて、スプーンでバニラアイスをすくう。
そして、それを優愛のほうに向けると、優愛は迷わずアイスを口に含んだ。
……優愛、甘いものはニガテなのに。
「うん、久々に食べたけど、美味しいね」
全然嫌がる素振りを見せなくて。
「月乃も、はやく食べなよ」
優愛に促されて、私は再びアイスをすくった。
いつもと変わらない、甘いバニラアイス。
これを頼んでよかったと、その味だけで思えた。
そんな私を、優愛は柔らかい瞳で見てきた。
「……なに?」
「可愛いなって思って」
まるで、子供や犬、猫を見ているような優しい表情で、私は少し恥ずかしかった。
◇
カフェを出ると、私たちは近くのショッピングモールに移動した。
文具店や服屋、雑貨店と、優愛が行きたいところに合わせて店内を歩き回っていく。
「月乃は用事、ないの?」
「あ……本屋、行きたいかも」
ふと、学校で読む本がないことに気付いた。
だけど、私が自分から行きたいところを言ったのも、それが本屋ということも初めてに近くて、優愛はちょっとだけ驚いた顔をした。
……もしかして、間違えた?
「私も欲しいマンガがあるんだった。行こっか」
優愛は私の腕を引き、歩き進んだ。
こうして優愛に引っ張られていると、自分が気にしていたことが小さくなっていく気がした。
「よし、じゃあ一旦解散で」
本屋に着くと、早速優愛が言った。
そんな提案をされるなんて思っていなくて、反応が遅れてしまった。
「解散って」
「じゃあ、またあとで」
私が引き止めるよりも先に、優愛は店内に消えていった。
なにか、私といると都合が悪いことがあるのかな。
私には知られたくないこと、とか。
ちょっと落ち込みモードに入りつつ、私も本屋に足を踏み入れた。
雑誌コーナーや参考書コーナーを横目に、小説コーナーに向かう。
ファンタジーやヒューマンドラマ、青春小説や恋愛もの。
たくさんの小説がある中で、私が手を伸ばしたのは、ミステリーもの。
“雨宮月乃”が読んでいそう、というイメージで選んだそれは、私の興味を引くものではなかった。
私はそれを手にしたまま、児童向けコーナーに立ち寄った。
白雪姫にシンデレラ、かぐや姫、人魚姫。
これこそが、私が誰にも言えない、本当に好きなもの。
だけど、私が立っている周りにいるのは、私よりも小さな子ばかり。
お母さんに欲しい本をねだる声や、仕掛け本で遊ぶ楽しそうな声が辺りから聞こえてくる。
私みたいな人が立ち入っていい場所ではないと言われているような気がして、私はその場から静かに離れた。
そしてたった一冊の小説を買うと、私は優愛を探すために店内を見てまわる。
たしか、欲しいマンガがあると言っていたから、マンガコーナーにいるはず……
そう思ってマンガコーナーに行くと、そこにいたのは、優愛ではなく、キャップを被った背の高い男の人だった。
少女マンガのコーナーに、男の人。
その空間がさっきまでの私に似ているように思えて、ついその姿を見つめてしまった。
彼は私の視線に気付いたのか、こちらを向いた。
「……久遠、君?」
考えるよりも先に名前を言ったのは、間違ったかもしれない。
他人のフリをすればよかった。
そうすれば、彼の気まずそうな表情を見なくて済んだのに。
「あー……雨宮さん、ちょっとだけ待っててくれる? これ、買ってくるから」
久遠君は手に持っていたマンガを軽く上げた。
私には頷くことしかできなくて、それを見た久遠君はそのままレジに向かった。
久遠君が、少女マンガ。
異質な組み合わせのように感じて、私の脳はなかなか受け止めてくれない。
あの久遠君が。
女子たちにクールでかっこいいと人気な、彼が。
「月乃?」
立ち尽くしていると、優愛に名前を呼ばれた。
優愛はこの書店の袋を持っている。
「月乃がマンガコーナーにいるなんて珍しいね。なにか気になるものあった?」
私が気になるもの。
今は、マンガよりも久遠君のことで頭がいっぱいだ。
だけど、学校が違う優愛に、久遠君のことは言えない。
私だったら、他人に児童向けコーナーにいたことを話されたくない。
しかも、勝手に。
「……ごめん、優愛。用事を思い出しちゃって……ここで解散にしてもいい?」
急にこんなことを言って、優愛は少し不思議そうに私を見る。
だけど、すぐに察してくれたように見えた。
「了解。じゃあ、また遊ぼうね」
手を振って去っていく優愛を見ていると、また今度、埋め合わせをしないとな、と思った。
そして、優愛と入れ替わるように、久遠君が戻ってきた。
「お待たせ。ちょっと移動しようか」
久遠君に言われるがまま、私たちは本屋を後にした。
小さいころから来ているこの場所を、久遠君と歩いていることが不思議でならない。
というより、久遠君の地元はここじゃないはずなのに、久遠君は迷わず休憩スペースに到着した。
「雨宮さん、なにがいい?」
自販機の前に立ち、カバンから財布を取り出しながら自然に聞いてきた。
「いや、私は……」
「遠慮しなくていいよ。俺が付き合わせてるし」
そう言われて、また断るのは悪い気がした。
久遠君の前にあるのは、カップタイプの自販機。
コーヒーかココアの選択になってくるわけだけど、“雨宮月乃”として、ココアを選ぶのは間違っている気がした。
「……コーヒーで」
私が答えると、久遠君は慣れた様子で自販機のボタンを押していった。
「先に座ってて」
淹れたてのコーヒーを受け取り、私は空いている席に座った。
久遠君は、ココアを買ったらしい。
甘い匂いが鼻をくすぐって、私もそれにすればよかった、なんて思ってしまった。
「こんなところで知り合いに会うとは思ってなかったから、本当にびっくりしたよ」
やっぱり、気付かないフリをするべきだった。
久遠君の表情は、私にそう思わせた。
「雨宮さんもびっくりしたでしょ。俺が少女マンガ買ってるところを見てさ」
――変でしょ?
彼の複雑な表情が、そう語っている気がした。
驚いたのは確かだ。
高校から離れた場所で久遠君に会ったのも含めて、驚くことしかなかった。
でも、変だとは思わなかった。
「姉さんの影響で、結構マンガが好きでさ。昔から、少年マンガでも少女マンガでも、構わずなんでも読んでるんだけど……やっぱり、男が少女マンガを読むってなると、受け入れてくれる人ばっかりじゃないんだよね」
久遠君はココアの水面を見つめたまま言う。
少し伏し目がちになっているのが、ただ下を向いているのか、落ち込んでいるのかわからない。
久遠君が言う、受け入れてくれない人の中に私も入っているような気がして。
驚いてしまった手前、私は受け入れるよ、なんて言えるわけがなかった。
それは気休めの言葉でしかないから。
「小学生のとき、近所の本屋で少女マンガコーナーにいたら、同級生たちと出くわして、からかわれたことがあったんだ。男のくせに変なのって」
――月乃ちゃん、変!
かつて、私も言われた言葉。
それがいつもより明確に再生された。
変だと言われたら、どれだけ傷つくのか、私は知っている。
だからこそ、久遠君になにか言いたいのに、いい言葉が思い浮かばない。
「で、そのとき咄嗟に返したんだ。これは姉さんので、俺は別に好きじゃないって」
それを語る瞬間が、一番傷付いているように見えた。
「あのときの俺は、からかわれて、恥ずかしくなってさ。だから、思ってもないことを言ったというか……それからしばらくは、少女マンガは読めなかったな」
私も、あれから女児向けアニメが見れなくなった。
可愛いものを避けるようになった。
好きなのに、心惹かれるのに、意図的に距離を取って。
そうしないと、また誰かに傷付けられるような気がしていたから。
だけど、その時間はなによりも苦痛だったのを覚えている。
「でも、それよりも、好きなものを自分で否定してしまったことが、俺にとって一番つらくて、本当にしんどかった」
久遠君の表情が、そのつらさを物語っていた。
彼を変だとからかった人たちは、この傷付いた姿を想像したことはあるのだろうか。
これだけ人を傷付けておきながら、なんとも思っていないのだろうか。
久遠君を目の前にしているからこそ、私は見ず知らずの人に怒りを覚えた。
「そんな俺に、姉さんが言ったんだ。好きなものがあることは、恥ずかしいことなんかじゃない。それをからかう奴のほうがよっぽど恥ずかしいし、かっこ悪い。それに、わざわざ他人と共有してやる必要もないってね」
そんな素敵な言葉があったなんて、知らなかった。
久遠君のお姉さんの言葉は、過去の私まで救ってくれたような気がした。
そっか……なにを好きでも、恥ずかしくないのか。
もっと、はやく知りたかったな。
「それ以来、俺はまた少女マンガを読むようになったけど、自分の好きな物を誰にも言っていない。また否定されるのも、否定するのも嫌だから」
「……高槻君にも?」
久遠君と高槻君は、他人の私から見ても親友のようで。
お互いに知らないことなんてないように見えていた。
「言ってない。どれだけ仲がよくても、全部を言う必要はないからね」
どれだけ仲がよくても、隠しごとがあってもいい。
それもまた、私を救ってくれた。
さっき、優愛になにかを隠されたような気がして落ち込んだ私も。
優愛に全部話せなくて後ろめたさを感じていた私も。
そうして心が軽くなったことで、ふと気付いたことがあった。
「それなのに……どうして、私に話してくれたの?」
きっと、久遠君は誰にも話すつもりはなかったんだと思う。
それを話させてしまって、悪いことをしてしまったような気がしてならない。
「もう、好きなものを自分で否定したくなくて。誰かに知られるようなことがあったら、隠さずに話そうって決めてたんだ。あとは、雨宮さんが、すごく申し訳なさそうな顔をしてるから、かな」
久遠君に指摘されて、私は思わず両手で顔を覆った。
そんなにわかりやすい顔をしていたなんて、恥ずかしい。
いつもならポーカーフェイスを保てているのに。
今日は優愛と会ったり、久遠君に親近感を抱いたから、気が抜けているのかもしれない。
「……久遠君は、強いね」
「俺は全然強くないよ。好きなものを好きだって言うまで、結構時間かかったし。まだ、冬弥にも好きなもの言えないし」
それでも私には、久遠君は勇気ある人に見えた。
私も、彼のようになれたら。
好きなものを好きだって言えたら。
だけど、どうしても否定されたときのことを想像してしまう。
”雨宮月乃”が好きだと語れば、失望されるんじゃないかって、悪いことばかり考えて。
……でもきっと、久遠君は否定しない。
自分の好きなものを大切にしている久遠君なら、私の好きなものを受け止めてくれる。
「私……本当は、コーヒーよりココアのほうが、好きで……」
急にこんなことを言って、変な人だと思われないかな。
そもそも、らしくないって言われそう。
せっかく勇気を振り絞ったのに、久遠君の反応が怖くて、顔が上げられない。
「実はそうじゃないかと思ってた」
顔を上げると、久遠君は優しく微笑んでいた。
そして、久遠君は私の前に置かれていたコーヒーと、自分の前にあったココアを交換し、コーヒーに口をつけた。
私がコーヒーに手を伸ばさないから、気を使って飲んでいないのかと思ったら、違ったらしい。
甘いココアは、私の身体に染み渡った。
「……あ、そうだ。この前は冬弥がごめんね?」
久遠君はコーヒーを飲み終え、カップを捨てると、振り向きざまに言った。
そういえば、高槻君に告白をされていたんだった。
本気か冗談か判断しがたい、公開告白を。
「高校生になったから超可愛い彼女作るんだって、変に張り切っててさ」
そうだとしても、場所は考えてほしかった。
「もうしないように言っておいたから」
久遠君はそう言いながら、私のほうに右手を伸ばした。
代わりにごみを捨ててくれるという意味のようで、私はカップを渡した。
「……ありがとう」
これでは高槻君のことを言っているのか、ごみのことを言っているのかわからないということに、言ってから気付いた。
だけど、久遠君の柔らかい笑みを見ていると、そんな些細なことはどうでもいいんだろうと思った。
「じゃあ、また学校で」
そう言って去っていく久遠君の背中に、私は会釈を返した。
……本屋に戻ろう。
ミステリー小説はまだ必要だけど、私の部屋に好きなものを、少しでも。
そしてまた、久遠君と話がしたい。
”雨宮月乃”としてじゃなくて、私として。
そうして足を踏み出した世界は、ほんの少し前まで見ていた世界と違って見えた。