少女漫画みたいな恋

 放課後の掃除中、運ぶ机の重さに思わずため息が漏れてしまう。


 運び終えて机の引き出し部分を覗いてみると、参考書らしきものがぎっしりと詰め込まれていた。どうりで重いわけだ。


 すると誰かが私の前を通り過ぎる。その人はまっすぐに自分のロッカーへと向かっていく。あまりにも他人事に。


 「上浦(かみうら)さん、担当の掃除終わったなら机運ぶの手伝ってくれないかな?」


 そう声をかけた瞬間、相手が振り返るのと同時に冷たい視線が飛んでくる。まるで北風が襲ってきたかのように周囲の空気が冷えていく。


 上浦さんという男子高校生を一言で表すなら氷。それもジュースに入っているような小さいものじゃなくて、南極とか北極にある氷床のような大きいもの。


 誰かに話しかけられても黙って聞いてるか、たまにうんとか、ふうんとかしか言わない。しかも無表情で。私も笑ったところを見たことがない。きっと感情を表に出さないんだろう。でもそれだけならまだ不器用な人なんだなと思える。


 だけど友だちが言うには頼みごとをすると速攻で断られるらしい。やだとか、なんで俺なのとか、そんな独りよがりなことを言って。それを聞いて疑う自分がいた。


 友だちとはいえ噂話だし、アニメの世界じゃないんだからそんな人いるはずないでしょと思っていたから。


 だから今、掃除の手伝いを頼んだら親切にやってくれるんじゃないかと私は密かに期待していたというのに返ってきたのは。


 「それ俺の担当じゃないから帰ってもいいんだよね?」


 たったその一言。でも諦められない。まだ皆掃除を一生懸命してるから。


 「そんな、同じ班でしょ。机運べば終わるから少しくらい手伝ってくれても……」


 「おれは忙しいんだ。お前はどうせ異性と遊んでるんだろ?」


 「はぁ?」


 流石にその偏見はひどい。見た目の問題? それとも、男子に話しかけられることが多いから?


 確かにお洒落はしてきてるつもりだけど高校生なんだし、自分で言うのもなんだけど、見た目には少し自信がある。だから男の人と付き合ったことだってある。


 でも、いくらなんでもその言い方は……と考えていたら、上浦さんはロッカーにあったリュックを担ぎ、教室を去って行ってしまった。


 何なの、あの人。


 完全にいなくなった後でそう毒づく。もちろん心の中で。


 掃除も終わり、解散してから自分も帰り支度をする。自分のリュックがあの乱暴に担がれたあの人のそれと重なって不愉快になった。そして嫌なことはさらに続いて。


 「みおちゃん、今日予定ある?」


 「うん。だからもう帰るね」


 いつものやり取りを秒で行う。同じクラスの陽キャ、日高(ひだか)。その文字を思考にすら浮かべたくない。


 しつこいけど、毎度あんな調子だから、適当に返せば大丈夫。


 その後も何度か声をかけられたけど、同じ言葉を返せばそれで終わり。気にしない、気にしない。




 荷物をちゃんと確認し終えると、私は台風のごとく教室を去った。早く。早くあそこに行かなくては。


 辿り着いた店の前に立つ。そこには書店と書かれた看板が立てかけられている。


 これを見るのはもう何回目になるのかな。それくらいに私はここに通い詰めている。


 そう、私は一ヶ月に一回のペースでここに来ている。どうしてか? それは……。


 私はある場所に向かって足を動かしていく。なんの迷いもなく真っすぐに。そしてお目当ての商品棚に辿り着くと、発売日だからか、平積みされた目的物を目にする。


 少女漫画。それが私の求めていたもの。現実とは違い大概素敵な男の子と結ばれるヒロインは私の理想そのものだから。


 空でも飛べるのではないかと思うくらいに足取りが軽い。早くお会計、お会計!


 だけどレジ前に着くとかなりのお客さんが並んでいた。その中でも私より年下の女の子が多く占めている気がする。手には皆、私と同じ少女漫画を握りしめていた。


 まだ会計までに時間がかかりそうだから少し読んでみたが、冒頭から衝撃的な展開が続き、つい物語の世界へ入り込んでしまう。


 あまりにも集中していたせいか、誰かに呼びかけられるまで私の番がきていたことに全く気づかなかった。まぁ、誰かと言ってもこの場で呼びかけるのはレジを担当する店員さんだろうけど。でもどうしてだろう。その声をどこかで聞いたことが……。


 するとその時、くすくすと笑う声が聞こえた気がした。その声に顔を上げれば。


 そこには知らない人がいた。いや、それだと誤解が生じてしまうだろう。正確には知っている。容貌からして一目瞭然だった。しかもその人のことはさっき見たのだから。


 目の前にいる店員は上浦さんだった。間違いない。ただ私は上浦さんの笑ったところを見たことがない。


 だから知らない人に見えた。いつも見せない表情なだけなのにこんなにも別人に思えるなんて。ってそんなことよりも。


 「どうして笑ってるんですか」


 初めて上浦さんの笑顔を見れたとはいえ、笑われるのはあまりいい気がしない。


 すると自分が過剰に笑っていることに今さら気づいたのか、パタリと笑うのをやめる。だけど頬は今も緩めたまま。間違いなく、いつもの上浦さんのする表情ではない。


 「いや、ごめん。なんていうか、意外だなと思ってさ。男慣れしてそうなのに少女漫画をニヤニヤしながら読んでるギャップが面白いなって」


 「さっきもいってたけど、わたし今付き合ってないし」


 『今』という単語を小さく発音する。


 すると上浦さんは目を丸くした。上浦さんも驚くんだ。本当にびっくりしたのか、上浦さんはしばらく声を出さなかったが、「そうなの?」と小さく問いかけてきた。


 私は大きく首を縦に振る。骨が折れてしまうのではないかと思うくらいに。だって、正直男慣れしているとは思われたくたいもん。

 ここは全力でピュアな女の子だとアピールせねば。するとその様子が面白かったのか、上浦さんは再び笑う。


 「笠木さんって面白いんだな」


 その瞬間心臓が大きく跳ねるのを感じた。こんな感覚、少女漫画以外に味わったことない。


 これが少女漫画のヒロインが必ず経験するドキッというものなのかな。


 でも多分違う。あまりにも学校と今とでキャラが違いすぎたから、きっとその落差についていけてないだけだと思う、多分、うん……。


 家に帰って少女漫画を読むも、その日はなぜかページが思うように進まなかった。ギャップの激しい男の子が登場人物のお話は特に。

 


 翌日、教室の戸を引くと、瞬時に視界が上浦さんを捉える。どうやら読書をしているみたい。でも昨日の雰囲気とはまるで違う。


 いや、昨日の学校での雰囲気とは同じだった。相変わらず無表情を突き通している。昨日書店ではあんなに笑っていたのに。


 私は視界の先を進んでいく。上浦さんに挨拶しようと思って。そしたら昨日みたいな笑顔がまた見れると思ったから。


 「上浦さん、おはよう!」


 上浦さんを取り巻く雰囲気とは不釣り合いなほどに元気な声で挨拶をする。だけど彼は見向きもしない。ずっと本に視線がいったまま。


 まぁ、雰囲気でなんとなく無視されるんだろうなとは思ってたけどね。


 だけど……。


 「おはよ」


 素っ気ないし短いけれど、言葉が返ってきた。前に挨拶して無視されたし、今回もそんな感じの雰囲気だったから、その短い返事は正直嬉しかった。


 放課後の掃除も今日は最後までいてくれた。終わったらすぐに帰ってしまったけど。


 「みおちゃ~ん」


 身支度をしていた時、またも不愉快な声が降りてきた。


 「その呼び方やめてくれませんか」


 また彼はやって来た。いつもの文言早く、と祈る。


 「もぉ~そんな冷たい態度取らないでよ~。で、今日予定ある?」


 「あるので帰ります」


 決まり文句を口にしながらリュックのチャックを勢いよく占めて、私は踵を返す。いつもならこれで終わり、なのに。


 「ねぇ」


 呼び止められた。こんなことは初めてで、頭の中が混乱する。


 このまま無視して教室を去りたい。


 だけど無視をすれば今後の学校生活に悪影響を及ぼすことはなんとなく想像がつく。


 あの日高だ。彼ほど影響力を持つ人物は少なくともクラス内に存在しない。


 「予定って何があるの?」


 その瞬間、身体が硬直していく心地がした。まるで幽霊に遭遇して金縛りにあっているような、そんな感覚。


 「えっと、友だちとカラオケする予定があって……」


 固まって動かない口を力いっぱい動かした。我ながらちゃんと嘘をつけたと思う。


 「友だちってあの集団だよね。確か今日、委員会の集まりだよね」


 私は今度こそ言葉を失う。とうとう嘘がバレてしまった。


 そんな私に容赦なく日高は。


 「嘘はよくないよ、みおちゃん。でもまぁ、これでみおちゃんに予定ないことわかったから結果オーライか。じゃあ、僕の誘い、のってくれるよね? 昔からの仲だし」


 その瞬間ぞわっとした。ふわわと、あの過去を思い出しかけて。


 何も反応を示さないことを同意と捉えたのか、日高は素早く立ち上がった。私のそばまで来ると、突然制服の袖を掴まれた。


 そのまま教室の出口へと引っ張られていく。嫌だ。そう言いたいけど声が出ない。もうすぐそこまで出口が迫っていたその時。


 「放してあげなよ」


 日高よりも低い声が耳に届く。しかもすこし怒りを含んだような、そんな声。引っ張られてて動いていた足も止まった。


 いったい何が起きたのだろうか。気になって顔を上げると、教室の出口になんと、上浦さんが立ちはだかっていたのだ。


 どうして?


 「なんだ、上浦かぁ。いつも他人に干渉してこないくせに、今どうして首を突っ込んでくるのかな?」


 やばい、上浦さんが絡まれている。日高の声はいつも通り明るいように聞こえるけれど、どこか怒りが込められている気がした。


 このまま喧嘩になってしまうのだろうか。だとしたら、全部私のせいだ。上浦さんは何も関係ないのに……。


 だけどそんな私の心配は杞憂に終わった。


 「別に。ただバイトに遅れてる笠木さんを迎えに来ただけ」


 「えっ? みおちゃんってアルバイトしてたの?」


 勢いよく振り返ってきた日高の表情は面白いくらい驚きで溢れている。私も一瞬驚いたけど、すぐに意図がわかって軽く頷けた。


 そうだったんだと、日高は弱々しく声を発する。と同時に袖を握る力を緩めた。


 日高の支配から逃れた私は、上浦さんの「行くぞ」という呼びかけによって、足を動かす。


 そしてそのまま彼の斜め後ろを歩き始めた。




 校門を抜けると、私はすぐに頭を下げる。


 「助けてくれてありがとう」


 上浦さんがいなかったら、今頃どうなっていたことか。考えただけで鳥肌が立つ。


 「ちょっと、いきなり頭下げるな。俺が謝らせてるみたいじゃん」


 そう言われてすぐに頭を上げると、そこには迷惑そうな顔をしている上浦さんがいた。


 「ごめん……」


 また頭を下げそうになったけど、何とか堪える。


 「いいよ、大したことしてないし。忘れ物を取りに来ただけだから。ラッキーだったな」


 そう言うと上浦さんが微笑みかけてきた。それは間違いなく書店で見た上浦さんの笑顔。


 まるで少女漫画の大ゴマの中で笑うヒーローのように。


 その瞬間、心臓が大きく跳ねるのを感じた。少女漫画を読んだ時のような、いや、それ以上に大きく跳ねた気がする。


 「あいつらに俺の言ったことが嘘だってバレるかもしれないから、またお店に寄ってく?」


 「えっ?」


 突然すぎて言葉が出ない。あの上浦さんがそんなことを言うとは思っていなかったから。


 何も言わない私に少しムッとした顔になった上浦さんは「行くの、行かないの? どっち?」と返事を急かす。


 「行く!」


 いつも見せない上浦さんの表情をもっと見たい。そう思ったから。


 勢いのある返事に上浦さんが驚く。それも学校では見せない貴重な表情。


 嬉しくてつい小さく噴き出すと、再び怒った表情を見せてプイっとそっぽを向かれてしまった。


 そのまま早足で先に行ってしまうから、私は慌てて追いつく。その間も心臓が大きく跳ねていた。


 多分、追いつくために走ったからだと思うけどね。



 
 結局お店に着くまで、一言もお話しできなかったなぁ。まぁ、書店までの道のりに同じ高校の生徒たくさん見かけたし。


 一緒に歩いてるだけで変な噂が立ちそうだし、上浦さんが積極的に話しかけてたらなおさらだよね。上浦さん、笠木さんの前ではあんなキャラなんだ、て。


 上浦さんはアルバイトでお店の奥へと消えてしまった。昨日はレジをやっていたから、お話できたのに。なんだか寂しいなって、私何を考えてるんだか。


 のんびりと本棚を見渡しながらお店を巡回する。小さな書店だからすぐに巡回は終わってしまうんだけど。


 だからもっとゆっくり回ろうと、なんとなく少女漫画が並べられている本棚を眺めていると、聞き馴染んだ声が背後から聞こえた。


 「本当に少女漫画が好きなんだな」


 「うん」


 決して馬鹿にしているのではなく、純粋に尋ねてきているのがわかるから、私は素直に頷く。


 「どうして少女漫画が好きなんだ?」


 本棚の整理をしつつ、上浦さんはそう聴いてきた。正直それはいずれされる質問だと思っていたから答えることに迷いはない。


 「心に傷を負うことなく恋した感覚に浸れるから、かな」


 頭上にクエッションマークが浮かんでいる上浦さんを確認してからさらに言葉を続ける。


 「現実の恋って傷つく場面がたくさんあるでしょ。すれ違ったり、裏切られたり、お別れしたり。少女漫画にもそういう場面あるけど、自分が傷つくことはないから……」


 「それって……」


 「うん。昔そういうことが自分の身に起きたの」


 ふぅ、と息が漏れる。だめだ、やっぱりこの話はまだ私にとっては重すぎた。


 でも話さなきゃ。彼のまっすぐな目と合って。だから。


 「あのね、すごく重い話だけど。いい?」


 「うん」


 上浦さんは棚の整理を始める。仕事の片手間みたいだけど、多分私が話しやすいように。


 長く話すために息を吸う。これから話すのは私の初恋の失敗。ゆっくりと息を吐いて、呼吸を整える。




 初恋の人と出逢ったのは中学二年の新学期だった。そう、ちょうど五月雨が降る頃。私は知らなかったけど、学年では明るくてかっこいい人気者として有名だったらしい。


 隣の席になった彼は、ひっきりなしに私に話しかけてきた。休み時間はもちろん、後ろの席だったから授業の時でもおかまいなく。


 最初はしつこいなと思ってたけど、情報に敏感なのか、話してくれる内容は面白いし、評判通り容姿もいいし、明るいし。


 そして優しさもあった。うっかり、私が教科書を忘れてしまった時は彼の教科書を机と机の間に置いてくれたり、寝ていてあてられた時はこっそりとノートに答えを書いてくれたり。


 まるで小学生の時読んでた少女漫画のヒーローのようだった。まさに恋に憧れる女の子の理想そのもの。私も例外ではなかった。


 だって好きになるよ。お日様みたいにキラキラしてて、かっこよくて、面白い話をしてくれるんだもん。しかもそんな人が積極的に話しかけてきてくれて。むしろ好きにならない女の子いるの?って思っちゃったくらい。


 学校の席替えで、彼と席が離れる前日となったある日のこと。


 放課後に彼から北校舎四階の一番端っこの教室に来てくださいと言われた。


 いつも教室で話しているだけだから、正直驚いてしまう。他の教室にまで呼んで話したいこと。


 まさか告白だったりして、なんて少女漫画のヒロインみたいな自分に呆れる。 


 だいたい、彼を狙っている女子生徒は多いのだ。そんな隣の席なだけでチャンスがあるとは到底思えない。


 それでも嬉しかった。席が離れたらもう話せなくなると思って寂しかったから。


 だからそれだけでいい。密かに恋心を抱いている私には。


 待ち合わせの教室の前に辿り着き、戸を開けると、そこには席に座っている彼がいた。教室と同じ席に。


 「あ、みおちゃん」


 控えめに名前を呼ぶ彼。いつも通りじゃなくて、不安になったりドギマギしたり心が忙しくなる。


 「ごめん。待たせたよね」


 「ううん、全然。座ってよ」


 「うん」


 私は自然と彼の隣に座る。教室と同じ席の位置に。


 「なんか、不思議な感じだな。ほら、教室からだれもいなくなっちゃったみたいで」


 「確かに。ここって空き教室なの?」


 「うん。教室だと放課後になっても生徒がいるでしょ」


 「そうだね。でも、どうしてだれもいないところで話したかったの?」


 二人きりで話せるのは嬉しい。だけどどうして?という疑問は拭えなくて。


 彼は視線を外し、でもすぐに戻して、彼は自分の薄い唇を開けた。


 「おれと付き合ってほしい」


 一瞬、そのセリフが吹き出しになって見えた気がした。まるで少女漫画の世界に迷い込んだかのように。私が固まっていたせいか、彼があたふたし始める。


 「あっ、その……。明日、席替えでしょ? みおちゃんと話す時間が楽しくて、だけど席替えしたら、今まで見たいに気軽に話せなくなると思ったんだ。だからもっと、みおちゃんとの時間を作りたくて、それで。あ、返事はいつでも……」


 「私もお付き合いしたい」


 「えっ?」


 人生初の告白の返事。恥ずかしさから相手の顔をまともに見れない。


 「私も話す時間が楽しかった。だけど明日席替えっていわれて正直寂しかった。だから……」


 私は顔を上げた。目の前の彼以上に頬を赤く染め、でもちゃんと喉に力を込めて。


 「こちらこそ、よろしくお願いします!」


 それが初恋の実った瞬間だった。心拍数を遅くさせることができない。


 少女漫画のヒロインっていつもこんな気持ちなんだ。好きな人と付き合うことがこんなにも幸せなことだなんて。


 この人の特別になれた。学年中の女の子たちが憧れる彼の。それがとてつもなく嬉しくて、誇らしかった。


 だけど幸せなひと時は一瞬で崩れていくもの。
 付き合いたての頃は一緒に帰ったり、放課後デートをしたり。


 だけど少しずつ減っていき、ついには話しかけてくれることさえなくなってしまった。


 できればこんなことは考えたくない。もしかしたら、私以外の女の子とお付き合いしているんじゃないかって。


 彼は優しい人だから、そんなことはしないと信じている。


 だけど心のどこかでその憶測が暴れている気がした。そしてそれは、見事に的中してしまうことになる。


 ある日の放課後に、用事があるからと先に帰った彼を尾行した私は衝撃の光景を目の当たりにした。


 待ち合わせでもしていたのだろうか。公園の敷地内に入った彼は、そのままベンチに座る女性の隣に腰を下ろして。


 その女性は時々見かける制服を着ていた。二人はベンチで時折笑いながら話しているよう。


 男性と女性が誰もいない公園でお喋りする。しかも長い時間。それらは二人が恋人同士だと推測してしまうものだった。


 そしてそれは、確信へと変貌する。彼と見知らぬ女性がお互いに距離を詰めていく。顔を近づけることによって。


 もう少しでお互いの唇が触れそうになった時、見ていられなくなった私は思わずその場から離れた。


 今のってキス? キスだよね?


 あんなの少女漫画でしか見たことない。だけどこれで確信した。


 彼は私じゃない女性が好きなんだと。


 かっこいいし、優しいし、明るいし。素敵なところを詰めたような男の子だった。


 でも私の答えは決まっている。どんなに素敵な男の子であったとしても。


 もしかしたら他にもたくさん恋人がいるのかもしれない。彼を信じられなくなった今、次から次へと彼の悪い側面を勝手に想像してしまう。


 翌日、自分でも驚くくらいに冷たい声で、「別れよう」と切り出した。


 彼にはあの女性がいるから首を縦に振ってくれるだろう。私の代わりなんてきっとたくさんいる。そう思っていたから。


 「えっ、なんで? 嫌だよ」


 その返事に私は目を丸くすること以外の表情を一瞬忘れてしまった。


 そして同時に心が溶けてしまうのではないかと思わせるほどに熱い怒りの炎がこみ上げてくる。


 誰かにこんなにも怒りを覚えるのは生まれて初めてだった。


 「えっ、てこっちが聞きたいんだけど。わたし昨日見たから。他校の女子生徒と一緒にいるところ」


 「あれは、ただの知り合いだよ。たまたま会ったから公園で話してたんだよ」


 必死に言い訳を並べるも、そんなのは無駄。   
 「じゃあ、その女子生徒とキスをしたのはどう説明するの?」


 「それは……」


 「さよなら」


 その言葉を吐いて、私は踵を返す。


 一音だけ彼が声を出したが、途中で止めたのか、その後声は届かなかった。もう二度と振り返らない。


 教室を出て長い廊下を出ていく。時々生徒や先生とすれ違いながら。人はこうやって出会いと別れを繰り返すのだろうか。


 やがて玄関へと辿り着き、ローファーを吐いて外へと踏み出す。新しい一歩を踏み出すように。


 校門の前で一度立ち止まり、大きく呼吸をする。そして心に強く誓った。
 こんなに苦しいのなら。痛いのなら。傷つくのなら。


 もう恋なんてしない。


 もう二度と。


 それからだった。


 現実の男の子じゃなくて、白黒の男の子に恋をするようになったのは。
 


 「ごめん」


 重い過去を明かし終えて、彼がぽつりこぼす。漫画の最後のページを閉ざした時のような、そんな小さな音。


 「どうして上浦さんが謝るの?」


 悪いのはその彼だし、そもそも今の話に上浦さんは関係ないのに。だけど目の前にいる現実の男の子は首を振る。


 「見た目とか雰囲気で、軽い女って決めつけて……」


 「うん。それは結構傷ついた」


 申し訳なさそうにしている彼に、でもついそんなことを呟いてしまう。今まで本音で話してたから、そのせい。


 なにか付け足さないと、と言葉を探していると。


 「おれも、そういう経験があって……」


 「え?」


 予想外すぎて、声も表情も生まれない。


 ついていけない思考に、さらに上浦さんは情報を乗せようとする。運んでいる最中の机に嫌がらせで参考書を置くように。


 「同じく中二のときだった。ある女の子とクラスも部活も、委員会まで一緒だったから、そういう関係になるのに時間はかからなくて。でも……」


 その後の展開は私が辿ったものと同じだった。その女の子と別の男が一緒にいるところを目撃して、キスまでしていたという。


 しかも、二人そろって、上浦さんの陰口を言っていたらしい。勉強とか部活頑張りすぎて付き合いが悪いとか、そんなのと付き合うのがどうかしてたとか。


 上浦さんの目が黒いトーンで塗り潰された漫画の中の登場人物と重なる。そしてさらに衝撃の事実が。


 「その男、今同じクラスにいる」


 「えぇ⁉」


 「あの男と同じ空気吸いたくなくて。だから」


 「だから、すぐに帰ってたの?」


 こくりと頷く上浦さん。


 誰って聴きたかったけど、もう言わせたくなかった。これ以上、上浦さんに傷ついてほしくなくて。


 って、どうしてそんな気持ちになるのだろう。昨日の放課後までは、冷酷な男だと思ってたのに。


 上浦さん、と奥から声が聞こえた。そうだった、上浦さんバイト中だったんだ。


 「ごめん、行かないと。色々ありがと」


 こちらこそ、と言う前に上浦さんは足早に去ってしまう。お礼を渡すのは私のほうなのに。


 バイトが終わるまで待とうかな、とも考えたけど、いつ終わるかわからないし、それにこれじゃストーカーみたいで結局帰ることにした。


 でも書店の入り口に身体を向けた時、外の人影が急いで消えるのを目撃した。まるで逃げるように。


 もしかして、万引き?と物騒なことを考えながら、私も書店を出た。
 
 


 「見ちゃった」


 肩がビクッとする。その声は普段放課後にしか聴かないはずなのに、それが今日朝の昇降口で降ってきたのだから。


 しかも何? 見ちゃったって。


 「なんの話ですか?」


 本当にわからなくて、そう返すと。


 「二人っきりでいたところ。上浦と」


 歩いていた足が止まる。まさか、昨日の影……。


 「しかも、ダメじゃん。人のことコソコソ話すなんて。おれとみおちゃんの馴れ初めをさぁ」


 「やめて!」


 もう話しかけないで。私に関わらないで。


 別れたのにどうして付きまとうの。この男、元彼の日高は!


 「いいのかな、そんな態度取って」


 「なっ」


 「そうだねぇ。みおちゃんが少女漫画好きで、上浦と二人きりでいたこと。あぁ、上浦がみおちゃんの前ではクールじゃないってことも。ぜーんぶ広めちゃおっかな」


 「どうして」


 「どうしてじゃねぇよ。一方的に振ってきて」


 「それは他の女の子といたから」


 「他の女いてもよくね?」


 「はぁ?」


 ダメだ、話が通じない。まるで異国の人と話しているようだった。これ以上まともに話せそうもない。


 でも。


 「わかった、私の悪口なら百歩譲っていい。だけど、上浦さんを巻き込むのはやめて。絶対に」


 上浦さんには全く関係のないこと。全部私と元彼の日高だけの問題だから。


 「は? あいつめっちゃ関係あるよ。なんたって今カノの元カレだからさ」


 「……」


 「ひどい奴だよな。付き合っておいて彼女放ったらかすとかさ」


 「もう黙って」


 勉強と部活に勤しむことの何が悪いの? 


 驚いた。


 上浦さんの言ってる男が日高だったことじゃない。


 日高のあまりの非道さに。


 「あれ、そんなこといえる立場?」


 目の前の男が悪魔に見えてくる。いや、きっともともと。


 はぁ、と面倒くさそうに息を吐いた後に日高は。


 「まぁ、いいや。追い詰めても、おれになんの得もないし。じゃあさ、今日から放課後の誘い、受けてくれる? そしたら昨日のことは内緒にするからさ!」


 にこっと頬を上げただけで悪意が周りに飛び散る。それほどに見てて気分が悪くなった。


 何それ。汚い取引なんかして。


 でも……。


 「わかった……」
 自分でも驚くくらいに低い声が出た。


 上浦さんを守るため。傷だらけの彼に、もうこれ以上心の怪我を負わせたくないから。


 日高は目をギラギラとさせていた。作戦が上手くいったと、敵がしそうな目。


 それから満足したのか、じゃあ早速今日の放課後ね、と日高が立ち去ろうとした時だった。


 「広めろよ、いくらでも」


 その声は私の隣からで。学校の時とも、昨日とも違う目を上浦さんは日高に向けていた。


 怒りすら感じさせない、まるで汚いものを見るような、そんな眼差し。


 「あ、でも放課後はダメだな。というか今からダメだ」


 直後、ぐいっと手首を掴まれた。何が起きているか分からないまま、掴んでいる手の持ち主はどこかへ私を引っ張ってゆく。


 「ちょっと、どこ行くの上浦さん」


 呼びかけてみたけど、上浦さんが止まるのも手を離す気配もなかった。


 仕方なく黙って、遠ざかる日高を見た。目と口を大きく開けて間の抜けた表情している。信じられないものを見ているかのように。


 そしてたくさんの目と合うことで、自分たちがどれだけ注目を浴びているか思い知らされる。


 恥ずかしさから、周りをまともに見れなくなって、依然として私をどこかへ連れて行こうとする上浦さんのほうに目がいってしまう。


 「突然ごめん」


 通学路として誰も通らないような細い道で、手を離される。手のひらの汗が空気に触れて冷えてゆく。


 「ううん、大丈夫」


 「……もしかして、全部知っちゃった?」


 「うん……」


 日高の今カノの元カレ。だけど、そんなのどうだっていい。ただ言いたいのは。


 「ありがとう、助けてくれて」


 上浦さんがこうしてくれなかったら、今日の放課後どうなってたかわからない。


 「助けるのなんて、当たり前だよ」


 昨日の過去を聞いたから、とは続かなかった。


 代わりに上浦さんの頬が優しい色で染まってゆく。漫画の表現なら、頬に黒く細い斜線が描かれるのだろう。


 というか、さっきから少女漫画な展開の連続だった。元カレに絡まれているところを救われて、たくさんの生徒の目にさらされながら逃げて。


 ちょうどチャイムが鳴り始める。遅刻確定。


 でも、戻りたくない。少なくとも今だけは。あの人の顔を。


 「ねぇ」


 静かだった細い道に響く心地よい声。


 「今日は休まない? 学校」


 「……休んで、どうするの?」


 「新しいページ描きたい」


 それだけでわかった。すごく遠回しだけど。
 大きく頷いてから、あてもなく私たちは歩き出す。


 どこへ行ったって絶対に楽しい。


 これから浮かぶ吹き出しは、きっと素敵なセリフで溢れるだろう。


 「というか、あのとき場所は違ったけど、あいつらとのやり取り一緒に見てたんだな」


 「運命だね」


 ほら、早速。