第三話

 朝、芦原温泉駅を出ると、僕は一路金沢に向かった。金沢までは祖父が見学を予定していた場所はなく、ただペダルを漕ぎ続けるだけだった。
 金沢の市街地の外れに入った頃、僕は昼食を取ることにした。できれば立ち食い蕎麦屋かラーメン屋、定食屋などにしたかったが、残念ながらそういう店は見つからなかった。
 仕方なく僕は軽食も取れそうな喫茶店に入ることにした。祖父の高校時代には、令和ならどこにでもある有名チェーンのコーヒーショップはまだ存在しておらず、喫茶店はそのほとんどが個人経営の店だったようだった。僕はそういう個人経営の喫茶店に入るのは初めてだったが、炎天下の道を何時間も自転車を漕ぎ続けてきた自分にとって、冷房の効いた店内は正に天国だった。
僕が腰を降ろした席のテーブルは、なんと伝説のインベーダーゲームが組み込まれたものだった。コンピューターゲームの歴史にも興味があった僕は知っていた。今、僕がいる一九七八年の八月、それはインベーダーゲームが正に大ブームを巻き起こしている最中のはずだった。
インベーダーゲームは簡単に言うとこういうゲームだ。教室に並べられた机みたいに縦横奇麗に隊列を組んだ宇宙船の艦隊が左右に移動しながら少しずつ下に降りてくるのを砲台から弾を発射して撃ち落とすというものだ。敵の宇宙船を全て撃ち落とせば何度でもゲームを続けられるが、敵が一機でも砲台に達すればゲームオーバーだ。
戦闘中、艦隊の上に突然現れる母船を撃ち落とした場合の得点は不定で最高点は五百点だ。
令和の時代から見れば、インベーダーゲームは極めて原始的なゲームだが、シューティングゲームの元祖とも言うべきもので、コンピューターゲームの地位を確立させたと言っても良い存在だった。そんなわけで、僕も一度、懐かしいゲームを集めた店にわざわざ出かけてプレーしたことがあった。
感慨深げにゲームの画面を眺めていると店員がやってきた。サンドイッチを注文したところ、それはいくらも待たないうちに運ばれてきた。
味も悪くなく、リーズナブルな価格ではあったが、苦行を続けてきた体には少々物足りなかった。そんなわけで、僕はあっという間にサンドイッチを完食してしまった。
とはいうものの、せっかく冷房の効いた店をさっさと出てしまうのはもったいない気がした。かといって追加の注文をするのも、手持ちの資金を考えると贅沢に過ぎた。
その時、ふと名案が浮かんだ。インベーダーゲームをすれば店に堂々と居座れると。出資はわずか五十円で済む。
実はインベーダーゲームにはバグがあったのだ。それを発見したプレーヤーが「N打ち」という無敵の攻略法を編み出したのだ。その「N打ち」を使えば誰でも延々とゲームを続けることができるのだった。
更には母船を撃ち落とした時の得点にも法則があり、それを心得ていれば、毎回最高の五百点をゲットできるのであった。
僕は五十円玉を投入すると、インベーダーゲームを始めた。僕はとうに昼食を済ませたとは言え、ゲームを続けているので、店員の目を気にすることなく冷房の効いた店に居座ることができた。
しかし、僕の休息を邪魔する予想外の人物が現れた。ちょっとガラの悪そうな二十歳くらいの青年が正面から僕とインベーダーゲームを見下ろしていた。
「兄ちゃん、今のゲームが終ったら代わってくれよ」
 それは依頼というよりを命令に聞こえた。
「はい、分かりました」
 そうは言ったものの、冷房の効いた店に居座るために貴重な五十円を投資した身としては、簡単には引き下がれなかった。元を取ったと思えるまではゲームを止めるつもりなどなかった。
 だから、僕は黙々とゲームを続けた。
 青年は、僕の隣の席に腰を降ろし、コーヒーを飲みながら僕が負けるのを今か今かと待ち望んでいた。しかし、一向に席を離れる気配のないことに気づくと、とうとうしびれを切らした。
「おい、兄ちゃん、こっそり次のゲームを始めたりしてないだろうな」
 青年は僕を疑っていた。長時間ゲームを続けられる人間などまだいないはずだから、当然の反応と言えた。
「してませんよ」
 僕はゲームの盤面から目を離さずに答えた。
「もし、嘘ついていやがったら...」
 言いかけた青年の言葉は、僕のスコアを見て途中で途切れた。
「嘘だろう...」
 言ったきり、青年の目は僕のプレーに釘付けになった。僕は母船を撃ち落とす度に必ず最高得点の五百点をゲットし、青年には理解できない戦略でインベーダーの船団を繰り返し全滅させていたからだ。
 そのうち、青年が口を開いた。
「なあ、兄ちゃん、それ、どうやってやってるんだ?俺にも教えてくれないか?」
 その言葉を聞いて僕ははっとした。「N打ち」も「母船の法則」も、今の時点では、まだ発見されていなかったことに気づいたからだ。
 本来の発見者ではない青年が、今の時点で「N打ち」や「母船の法則」を知ること、それは歴史が変わることを意味していた。
 ことの重大性に愕然とした僕は、すぐさま敵の攻撃を受け続けゲームを終わらせた。
「すみません。お待たせしました。どうぞ」
 僕は慌てて席を立った。
「待てよ、兄ちゃん、俺にも秘密を教えてくれよ」
「秘密なんてありませんよ。じゃあ、僕はこれで...」
 店から逃げ出そうとすると、僕は更に声を掛けられた。
「おい、ちょっと待てよ。飯おごるからさあ」
「いえ、先を急ぎますので」
 引き留める青年を振り切って僕は店を出た。そして、自転車に跨ると、全速力で走りだした。
『歴史を変えるような行動を取らないように最大限の注意を払わなければならない』と僕は走りながら肝に命じた。

 喫茶店を出て間もなく、僕は金沢に着いた。芦原温泉駅から、約60キロを走り、東京の中心から横浜まで一往復半するくらいの距離を漕いだわけだ。
 祖父の見学予定地は武家屋敷跡と兼六園だけだったので、早々に見学を済ませると僕は金沢のユースにむかった。ユースのハンドブックに載っていた地図は分かりにくく、少し道に迷ったりしたが、僕はどうにかたどり着くことができた。
 予約も無しに泊めてもらえるのだろうか不安になったが、杞憂だった。飛び込みでやってきた、十六歳の高校一年生をあっさりと泊めてくれるなんて令和ではありえないような気がした。
 
 八人部屋のベッドで体を休めていると夕食の時間になった。食堂の中には長いテーブルを繋いだ列が何列も並んでいて、すでに多くの人が食べ始めていた。厨房前のカウンターの上には、ご飯やおかずがセットされたトレーが並んでいて、自分でそれを取って空いた席に座って食べるようだった。
 食事中の人たち中には僕と同世代の女の子の姿もちらほらと見えた。この中に祖母もいるのだろうか?そうは思ったものの、なんの手掛かりもないままに、適当に女の子を選び、まだ空席がいくらでもあるのにも関わらず、隣や前に座るというのもはばかられた。
 だからぼくは、前も左右も空いた席を選び腰を降ろした。食べ始めると、徐々に僕の周囲にも人が集まり始めたが、男性ばかりだった。夕食時に祖母と出会うかもしれないという淡い期待はあっさりと裏切られた。

 ゆっくりと風呂を済ませ、ベッドでくつろいでいると、アナウンスが入った。8時から食堂でミーティングが行われるという内容だった。できることなら、そのままベッドで休んでいたかったが、僕はミーティングという黒ミサの如くおぞましい集会に出席しなければならなかった。そこで祖母と出会う可能性が高いと斉藤さんに言われていたからだ。
 ベッドから這い出て食堂に入ると、職員の若者の指示でテーブルを後ろに移動させ、椅子だけを横に列を作って並べるように言われた。
 並べ終わった後、僕は食堂の中央の左右が開いた場所に腰を降ろした。本当は人との関りを避け、最後尾の角にでも席を取りたかったが、祖母と出会わなければ消滅する身としてはそうする訳にもいかなかった。しかし、そんな僕の思惑とは裏腹に、僕の周囲に座ったのはやはり男性ばかりだった。
 こんな恐ろしい会に出席する人など、そうはいまいと思っていたのに、あっという間に席は九割がた埋まってしまった。しかも、参加者の顔はどれも皆楽し気で驚いてしまった。
 唖然としていると、先ほどの若者が、まるで教師みたいな面持ちで前方正面に現れた。
「皆さん、ご参加ありがとうございます。それでは、ミーティングを始めたいと思います」
 彼が怪しい教団の教祖で、説教を始めるのか、あるいは参加者の前で宙にでも浮くのかと思ったがそうではなかった。
 彼は観光マップが張られたホワイトボードを脇から持ってくると、金沢の観光案内を始めた。彼の観光案内は、所々笑いを取る楽しいもので、僕も何度か笑ってしまった。興味深い内容も含まれていて、僕は翌日、彼が勧める場所を訪れてみたいと素直に思った。しかし、これは参加者を安心させ怪しい信仰に導く手段かも知れず、油断はできないと僕は身を引き締めた。

 観光案内が終ると、彼は大きな声で参加者に呼び掛けた。
「それでは皆さん、この後は一緒に歌いましょう」
 いよいよこれからが黒ミサの本番かと僕が身構えていると、隣の人から怪しげな歌集を手渡された。中を開くのが怖かった。僕が怯えている間に、先ほどの彼がギターと椅子を持って来て参加者の正面に座った。
「それでは皆さん、まずは17ページを開いてください」
 言われて参加者たちは一斉に歌集のページをめくり始めた。いよいよ教祖を称える歌が始まるのかと思ったが、彼が弾き始めた歌のイントロは、父方の祖父が好きな懐メロの番組で聞いたことのある有名な歌のものだった。
 
 それからしばらく歌が続いた。他の参加者たちはきちんと声を出して楽し気に歌っていた。歌の大半は聞いたこともないものばかりだった。仕方なく、僕は口パクをして歌っている振りをした。
 令和の高校生からすると、異様としか思えない会の様子に圧倒され、僕は参加した理由を忘れかけていた。僕は祖母を探しにここに来たのだった。参加者の男女比はほぼ同じだったが、僕の周りは男性ばかりだった。この状態では、僕が祖母に出会う可能性はゼロに等しかった。僕は少し焦った。

 歌の時間が終ると、先ほどの彼が次の指示を飛ばした。
「では、みなさん、椅子を食堂の真ん中に向けて楕円形に並べてください」
 言われた途端に参加者たちは、まるでクラスメートみたいな雰囲気でテキパキと椅子を並べ替えていった。その様子を僕は呆然と見ていた。あっという間に椅子は楕円形に並べ替えられ、みんながそれぞれ腰を降ろした。先ほどの彼は、いつの間にか食堂の中央に立っていた。
「それでは・・・」
 彼が口を開いた瞬間に、いよいよ空中浮揚の儀式が始まるのかと鳥肌が立ったが、そうではなかった。彼は僕の予想とはまるで見当違いなことを話し始めた。
「これからフルーツバスケットを始めます。このゲームのルールはみなさんご存じと思いますが・・・」
 そう断ってから、彼はルールの説明を始めた。それは要するに椅子取りゲームの変形だった。真ん中に立ったオニが、例えば「眼鏡を掛けた人」と言ったら、眼鏡を掛けた人は席から立って空いた別の席に移動しなければならない。モタモタしていて座る席がなくなってしまった人が次のオニになるということを繰り返す馬鹿馬鹿しいゲームだった。
 とはいえ、僕は参加せざるを得なかった。この愚かなゲームの途中で祖母と出会う機会があるかもしれなかったからだ。「T‐シャツを着ている人」とか、「短パンをはいている人」とか言われて、僕は何度か席を立って他の席に移動するはめになった。女性の隣に座ることもあったが、そんなゲームの途中では、話をする機会などまるでなかった。
 こんなことをしていたら祖母と出会うことはできないと思った。それならば、こんなバカなゲームに付き合う必要はないと感じ始めた頃、ふと名案が浮かんだ。それを実行すべく、次に立った時にわざと負けてオニになった。そして、僕は叫んだ。
「愛子という名前の人」
 しかし、世の中はそうは甘くなかった。誰一人立ち上がる人はなく、僕は周り中からの嘲笑に包まれた。


 第四話

  
 朝、金沢のユースを出た後、僕は祖父が予定していた見学地を全て回ると金沢の街に別れを告げた。
 金沢の街を出てしばらくすると、僕は幹線道を外れた。僕が向かったのは常花という小さな町だった。金沢から北に向かって伸びる常花線の終着駅である常花駅が今日の宿泊予定地だったからだ。
 常花には見学を予定している場所は無く、翌日に富山県の五箇山を抜けて岐阜県の白川郷に行くための中継点として、祖父は常花駅を宿泊先に選んだようだった。
 走っていた道が常花線の線路と合流した後は、僕は線路と並行して自転車を漕いだ。道路脇の凸面鏡に映る夕陽を背にした自分の姿が、なんとなく面白かった。今日は余裕を持って目的地に到着できそうだったせいか、旅の夕暮れが何故かとても優しく感じられた。
 周囲に人家が増え、そろそろ駅のある市街地に入ろうとした頃、左手に小さな祠があるのが目についた。その途端、僕の背中に寒気が走った。祠の後ろには入口が閉ざされた洞窟のような物があり、祠はまるで洞窟の門番でもするかのようにそこに建っていた。
 不意に僕を襲った何とも言えぬ嫌な感じは、つい先ほどまで感じていた穏やかな気分を吹き飛ばしてしまった。ただ、その感覚は一時的なもので、目的の駅に到着した時には奇麗に消え失せていた。
 
 路線の終点である小さな駅は、外に野宿にちょうど良いベンチを備えていた。幸いなことに、その上には屋根も伸びていたので、雨に濡れる心配もなさそうだった。一応、駅舎の外なので追い出されることも無かろうと思った。
 僕はベンチの脇に自転車を止めると、ベンチに腰を降ろし、周囲を見回した。駅前には古い映画などで見られるタイプの店があった。「よろず屋」と呼ばれるコンビニの昭和版のような店には、菓子パンぐらいはおいてありそうだった。後でその店で夕食を調達しようと思った。
 
 ベンチでくつろいでいると、駅舎から駅員さんが出てきた。僕を見て嫌な顔をするかと思ったが、そうではなかった。
「おや、お兄さん、今日はここで野宿するつもりかい?」
 尋ねてきた駅員さんの口調は柔らかだった。
「ああ、はい、そのつもりです」
 それでも僕は恐る恐る答えた。
「そうか、それなら、そこじゃなくて、駅舎の中のベンチを使いなさい。自転車も駅舎の中に入れて構わないよ。普段は最終列車が出てから鍵を掛けるんだけど、今夜は開けておいてあげるから」
「ありがとうございます」
 予想外の展開に僕は嬉しくなった。
「そんな所にいると蚊に刺されるから、早く駅舎に入りなさい」
「ありがとうございます、そうさせて頂きます」
 僕は立ち上がり、深々と駅員さんに頭を下げた。

 その後、僕は自転車に鍵だけを掛けて駅舎に入ると、改札口の傍のベンチに腰を降ろした。芦原温泉の駅前での経験からして、こんな田舎では僕のバッグから何かを盗もうとする人などいないだろうと思った。自転車も駅舎に入れてよいなら、後で荷物を外す手間も省けるのも嬉しかった。

 しばらくすると、駅に列車が入ってきた。乗客の数はごくわずかで、皆、僕には目もくれずに去っていったが、一人だけ例外がいた。最後に改札を抜けてきた高校生らしき美少女だった。
 少女は初め、僕に一瞥もくれずに出口に向かおうとしたが、僕の前に差し掛かった途端、感電でもしたかのように足を止めた。
 そして、何か恐ろしい物でものぞき込むように僕の方を見た。僕は少女の顔が見る見る青ざめてゆくのが分かった。直後に少女は吐き気でも催したかのように口元を抑えると、逃げ出すように小走りで駅舎から出て行った。
 一体、僕の何が、そうまで少女に嫌悪感を抱かせたのか、僕にはさっぱり分からなかった。

 それから約十分後、事態は急転した。
 そろそろ陽が沈もうかという頃だった。ベンチに座る僕の前に駅員さんがやってきた。駅員さんはどこか顔色が悪いように見えた。
「おい、君、今すぐここから出て行ってくれ」
 駅員さんの態度の急変に僕はひどく驚いた。
「ええ、さっき泊って良いって言ってくれたじゃないですか」
 他に泊まる当てのない僕にとっては死活問題だった。
「済まない、事情が変わったんだ」
 駅員さんの声はまるで何かに怯えているようだった。
「でも、今更、泊る所も探せませんし、何とかなりませんか」
「いや、ダメだ。ああ、その代わり、君が泊まれるところは、ちゃんと見つけてあるから」
「でも、僕、お金がありませんから」
「心配するな。おじさんの親戚の家がタダで泊らせてくれるから。食事もさせてくれるそうだ。それなら、君も文句はないだろう?」
「ええ、まあ」
 駅に泊まるよりも遥かに良い提案をしているのに、駅員さんの口調には優しさが感じられなかった。
「さあ、早くしたまえ。日が暮れてしまうじゃないか」
 駅員さんはひどく焦っているようだった。日が沈んだからと言って、急に暗くなるわけでもないのに、そこまで僕を急かす理由が分からなかった。
「何やってんだ、早くしろ」
 とうとう駅員さんは命令口調になった。
 僕は、その迫力に押されて立ち上がった。そして、駅員さんの後について駅舎を出た。

 駅を出た途端、駅員さんは駆け出しそうな勢いで歩き始めた。自転車を押しながら後に続いた僕は、何度も駅員さんに怒られた。
「もたもたするな。手遅れになるぞ」
 駅員さんは僕を置き去りにするくらいの速さで歩き続けた。駅員さんがお寺の門前に差し掛かった頃には、僕との間には少々間が開くほどだった。ちょうど陽が沈もうとしていた。
「走れ、死にたいのか」
 急かすにしても、大袈裟な表現だと思ったが、言われた通り僕は走った。駅員さんに追いつくと、僕は寺の門の中に引っ張り込まれた。その瞬間に陽が沈んだ。
「間に合ったか」
 そうつぶやくと駅員さんはその場にへたり込んでしまった。

 その後、駅員さんは僕を寺の本堂で住職に引き合わせた。
「いいか、ご住職の話をよく聞いて、言われた通りにするんだ。じゃあな」
 そう言い置いて駅員さんは憔悴した表情で駅に戻っていった。
 僕の前に座った住職は、既にその日の勤めを終えていたようで平服だった。年齢は僕の父と同じくらい、つまり四十代前半に見えた。
「さて、まずは君の名前を聞かせてもらおうかな」
 住職の言葉にはどこかしら緊張が感じられた。
「桑原久雄です。突然お邪魔してすみません」
「いや、気にすることはない。これはこの寺の住職としての務めだからね」
 貧乏旅行者を寺に泊めるのが住職の務めというのは少し変な気もしたが、それについて問うことはできなかった。住職の態度には相変わらず緊張感が漂っていたからだ。そして、住職は表情を崩さぬまま言葉を繋いだ。
「久雄君、ここはお寺なので、いくつかきちんと守ってもらわないとことがあるんだ。いいかね?」
「はい、わかりました」
「まず、君はこの寺の建物から出ないでくれたまえ。他にも守って欲しいことがあるんだが、それはまた、後で話そう。とりあえず、絶対に寺の建物の外にでないように。分かったね」
「はい、決して出ません」
「よろしい。では、君も疲れているだろうから、部屋で少し休みなさい。夕食の時間になったら呼びに行くから」
「はい、分かりました。じゃあ、その前に自転車に付けて荷物を取りに行っても良いですか?」
「だめだ、さっき建物の外に出るなと言っただろう」
 住職の言葉には怒気が籠っていた。
「ああ、済みません。そうでしたね」
「ああ、寝巻やタオルなどはこちらで用意するから心配はいらないよ」
 住職は取ってつけたような笑顔で言った後に立ち上がった。
「じゃあ、部屋に案内しよう。ついてきなさい」
「はい」
 そのまま、僕は本堂のすぐ隣の部屋に連れていかれた。

 夜の七時ごろ、僕は住職の奥様に呼ばれて食堂に入った。そこには驚くべき光景が待ち構えていた。住職の隣に座っていたのは駅で見かけた少女だった。
 奥様に促されて、僕は少女の向かいに腰を降ろした。
 
 食事が始まった後、僕は奥様の質問攻めにあった。どうして自転車で一人旅をしようと思ったのか、旅でどんな経験をしてきたのか、普段をどういう高校生活を送っているのか、次から次へと訊かれた。
 裏腹に、向かいに座る少女は全く無言で、僕とは目を合わせようともしなかった。それどころか、いくらも食べないうちに「ごちそうさま」と消え入りそうな声で言った。
「ごめんなさい。何か食欲が無くて。ちょっと部屋で休ませてもらいます」
 少女はそう宣言すると、そそくさと食堂から出て行ってしまった。
「あら、あの子どうしたのかしら。いつもはうるさい位におしゃべりをしてモリモリと食べるのに」
 奥様が不思議そうに言った言葉に、住職は何の反応も示さなかった。
 夕食が終ると、僕は住職から部屋にいるように厳命された。

 夕食の後、風呂を済ませ、部屋で翌日の予定を確かめていると、障子の向こうで住職の声がした。
「お邪魔するよ」
 そう言って住職は障子を開け、部屋に入ってきた。僕はその場で姿勢を正した。正座した僕の前に住職は腰を降ろした。夜も更けてきたというのに、住職はなぜか立派に法衣に着替えていた。
「さて、久雄君、これからとても重要な話をするからよく聞いてくれたまえ」
 住職の声には相変わらず緊張感が漂っていた。
「はい、分かりました」
 僕は膝の上の拳に無意識に力が入るのを感じた。
「これから私は大事な修行に入るんだ。一晩中お経を唱えなければならず、とても集中力が必要だ。だから、君には邪魔をして欲しくないんだ」
「分からりました。具体的にはどうすれば良いのでしょうか?」
 静かにしている以外に何か特別なことがあるのだろうかと思って尋ねた。
「良いか。君は、明日の朝、私が障子を開けて入ってくるまで、決して部屋の外に出てはならない。分かったかな?」
「はい、分かりました」
 案外当たり前のことだったので、僕は少し拍子抜けした。
「それと、この障子の外で誰が何と言おうと決して耳を貸してはいかん。朝が来て、私が障子を開けるまでは、決して障子を開けてはいけない。分かったかな?」
「はい、もちろんです。お世話になった上にご迷惑などかけられません」
 きっぱりと言い切ったのに、住職は更に続けた。
「悪いが障子に札を張らせてもらうよ。もし、それが破れていたら、君が外に出たと分かるからね」
「はい、わかりました」
 僕は、随分と念の入ったことだと思いながら答えた。
「それから」 
「あの、まだ何か?」
 さすがに少しくど過ぎないかと思った。
「もし、外に出たら仏罰が下るのは間違いないと思ってくれたまえ」
 極めつけに妙な脅しまでされると、さすがに少し腹が立ったが、世話になっている身としては怒りを露わにすることはできなかった。
「分かりました。お言葉に従います」
 少々怒りが滲んだ返答になってしまったが、住職は嫌な顔はしなかった。
「では、失礼するよ」 
 住職はそう言うと立ち上がった。
「はい」とだけ僕は答えた。
 住職は部屋を出ると、言葉通りに障子に札を張り付けているようだった。その後
少しすると本堂から住職の読経が聞こえてきた。
 
 その後、疲れもあってすぐに寝てしまった僕が目を覚ましたのは、夜中の二時頃、正に草木も眠る丑三つ時だった。
 微かに聞こえてくる住職の読経に混じって女性の声がした。
「久雄君、久雄君」
 その声は僕を呼んでいた。
 最初、僕は夢を見ているのかと思ったが、そうではないと気づいた。
「久雄君、起きているんでしょう。私、この寺の娘よ。お話したいことがあるの。中に入れてくれないかな?」
 そうか、さっきのあの子かと思った。僕の反応を待ちきれないかのように娘は更に呼び掛けてきた。
「私ね、愛子っていう名前なんだ。ねえ、中に入れてよ」
 『愛子』という言葉を聞いて、僕は一気に布団から飛び出した。そうして障子を開けようとしたが、寸での所で手が止まった。
「どうしたの?早く中に入れてよ」
 甘ったるい声だった。
 その甘さに僕は違和感を覚えた。
 『愛子』と聞いて血が上った頭が徐々に冷えていった。
 冷静になると妙なことが多すぎることに気づいた。まず、娘は先ほどまでとは態度が違い過ぎた。それに、仮にも寺の娘が、父の修行中、しかも真夜中に男の部屋に潜り込もうとするとは思えなかった。それに、どうしても部屋に入りたければ障子を開けて入ってくれば済むことだった。
 そこに思いが至った時、僕の中である推測が頭をもたげた。障子の外の娘は部屋に入ってこないのではなく、僕が障子を開けなければ部屋に入ってくることができないのではないかということだった。
 そこから恐ろしい想像が一気に形をなしていった。今、障子の向こうで僕を呼んでいるのは寺の娘ではない。いや、人間ではないかもしれないということだった。
 そして僕は悟った。住職の読経は彼自身の修行のためではなく、僕のお祓いのため
なのだと。
 たぶん、夕方、僕はあの祠の前であやかしに目を着けられたのだ。そして寺の娘は駅で僕の顔に死相が出ているのに気付いたのだろう。
 娘はすぐに父親である住職に相談し、住職は、陽が沈みあやかしの力が増す前に僕を寺に引き入れるように駅員さんに頼んだのだ。駅員さんが焦っていたのは、たぶんそのせいだ。
 そして今、あやかしは、『愛子』だと名乗り、住職が施してくれた部屋の封印を僕に破らせようとしているのだ。
 そう考えれば、全てに納得がいった。
 僕は静かに後ずさりすると、布団に潜り込んだ。そして、掛布団を頭からかぶり、必死に耳を塞いだ。あまりの恐怖に眠気はまったく訪れなかった。朝まで耐えるしかないと思った。長い長い夜になった。

 障子が開く音がした。
 被っていた布団をはがし上体を起こすと、戸口に住職が立っていた。
「久雄君、もう大丈夫だ。これであやかしは二度と襲ってこないよ」
 住職は笑顔を浮かべていた。それを見て僕は体中から一気に力が抜けるのを感じた。
「どうして昨夜、あやかしのことを教えてくれなかったんですか?」
 僕は恨み言を言った。
「良く言うだろう。『敵を欺くためには、まず味方からって』」
 住職の言い分はもっともだったが、どうにか知らせる方法もあったのではないかと、愚痴を言いたくなった。
「どうせ、ろくに寝ていないのだろう。朝食の支度ができたら起こしてあげるから、君はもう少し寝ていたまえ」
「はい」
 僕は気の抜けた返事をして、そのまま布団に倒れこんだ。緊張が解けたせいか、あっという間に眠りに落ちだ。

 約2時間後、僕を起こしてくれたのは寺の娘だった。
「起きて、久雄君。朝食の用意ができているから」
 目を開けると、昨日とは打って変わって満面の笑みをたたえた娘の顔が見えた。
「着替えたら食堂に来て」
 そう言うと、娘は軽やかな足取りで部屋から出て行った。
 
 食堂に入るとテーブルの上には僕の分の朝食だけが残されていた。
 娘は台所で洗い物をしていた。彼女の両親は、既に朝食を済ませたようだった。
「ああ、久雄君、今、お味噌汁の用意をするから座っていて」
 僕に気づいて娘が声を掛けてきた。
「ありがとう」
 礼を言って僕は席に着いた。

「どうぞ」
 娘が程なく味噌汁をテーブルに置いてくれた。
「いただきます」
 僕は手を合わせると、用意された朝食に手をつけた。僕が食べ始めると、娘はまた台所に戻り、鼻歌交じりで洗い物の続きを始めた。

 僕が食べ終わる頃合いを見計らって、娘は二人分のお茶を入れてきた。そして僕の前に座ると湯飲み茶わんを僕の方に差し出した。
「お茶どうぞ」
「ありがとう」
 一口飲むと、ありふれたお茶の味が妙に僕の心を和ませた。そして僕はようやく、娘にまだ礼を言っていなかったこと、更には名前さえ聞いていなかったことに気がついた。
「ああ、あの、ありがとうございました。お陰で命拾いしました」
「いいえ、私は何もしていないわ。久雄さんを救ったのはお父さんだから」
「そんなことはないよ。君が気づいてくれなければ、僕は死んでいたんだから」
 もし、命の恩人のこの娘が「愛子」ならば、正に運命の出会いだと思った。だから僕は尋ねた。
「ああ、ところで、僕はまだ命の恩人のお名前も聞いてなかったね。名前を教えてくれませんか」
「私の名前は清香です」
「清香さんか。良い名前だね」
 そうは言ったものの、僕の失望を清香は見逃さなかった。清香の顔に苦い笑みが浮かんだ。
 少しきまずい思いがして、僕は話を別の方向に振った。
「ああ、ご両親にもお礼をいなくちゃ。ご両親は今、どこにいるのかな?」
「出かけたわ。父は、あやかしの封印を強化しに行っているの。本体は、まだしっかりと封印されているけれど、封印の力が弱まったのか、念を飛ばすことができるようになったみたい。昨夜ここに来たのはあやかしの念、まあ分身みたいなものね。あのあやかしは、ずっと昔にご先祖様が封印したの。そして封印が解けて再びあのあやかしが出てこないように閉じ込めておくのが、私たち一族の使命であり、宿命なの」
「じゃあ、ご挨拶に行くよ」
「ダメ。あなたをあそこに近づけるなと父に言われているの。だから、このままこの寺から出て行って」
 清香の言葉には既に怒気が滲み始めていた。
「でも、それじゃあ、あんまり・・・」
 言いかけた言葉を清香に遮られた。
「支度が出来たらすぐに出て行って、こっちも迷惑だから」
 清香は乱暴にテーブルの上の食器を片付け始めた。
 あやかしの危険性は分かるとしても、名前を聞いてから清香の態度が一変したことに僕は驚いていた。しかし、僕はただ、清香の言葉に従うしかなかった。

 玄関の前で出発の支度をしていると、戸を開けて清香が姿を現した。
「久雄君、さっきはきつい言い方をしてごめんなさい。でも分かってね。あなたはこの町と関わらない方がいいの。ここであったことは早く忘れた方がいいわ。私もあなたのことは早く忘れたいの」
「僕ってそんなに嫌な奴だったのかな?」
「違うわ。あなたのせいじゃない。私が勝手な思い込みをしていただけなの」
「思い込みって?」
「私ね、小さい時から、いつか自分には『運命の出会い』があるって感じていたの。そして、昨日の朝、目覚めた時、昨日がその日だって分かったの」
「そうだったんだ」
「でもね、私の『運命の出会い』は、私が想像していたものとは形が違っていたの。あなたに出会って、あなたを助けることが私の『運命』だったの」
 清香がどんな『運命の出会い』を期待していたのかは鈍感な僕でさえ想像がついた。
「期待に応えられなくてごめんね。でも清香さんの『運命の出会い』は、きっとこれから訪れるんだよ」
 気まずい雰囲気を和らげようとした僕の言葉は空振りになった。
「いいえ、あなたが私の『運命の人』だったのよ」
 祖父にも、僕にも、清香との間に未来がないことは分かっていたのに、僕は気休めを言おうとした。
「そうか、じゃあ、もしかしたら僕たちはこれから・・・」
 しかし、僕の言葉はまた清香に阻まれた。
「止めてよ。あなたは誰かを探して旅をしてきたんでしょう。分かったのよ、初めてあなたを見た時に」
 僕の正体に気づかれたのかと思った。気になったので尋ねた。
「どうして、そう思うの」
「なんとなく分かるの。なんとなくだけど」
 清香は僕の正体を見破ったわけではなかったが、僕に死相が浮かんでいるのに気づいたように、僕の気持ちがうっすらと読めたようだった。あるいはそれは清香の血筋に起因するものかもしれないと思った。 
「そして、あなたが探していたのは私じゃなかったんでしょう」
 清香はそう言って目を伏せた。清香がそれに気づいたのは、たぶん名前を聞いた時だと僕は思った。
 俯いていた清香が顔を上げた時、僕は清香の目に何か決意のような物が浮かんでいることに気づいた。
「私、これでやっと覚悟ができたわ」
「覚悟って?」
「使命に従って生きる覚悟よ。私はこの寺の一人娘でしょう。だから、私は、いつかお坊さんと結婚して、この寺を守ってゆく、それが私の宿命なのよ」
 令和の女子高生にはできない覚悟だと思った。

 それからしばらくして、出発の準備が整った。
「じゃあ、出発するよ」
 僕の準備を見守っていた清香にそう言った。
「気を付けてね」
「うん、ああ、ご両親と、駅員さんにもよろしく伝えて」
「ええ、分かったわ。ああ、ちょっと待ってて」
 そういうと清香は一度家の中に入り、すぐに戻ってきた。
「はい、これお弁当。これを食べ終えたら、この町とも縁が切れるから、この町のことなんか全て忘れて」
「そんなにすぐに忘れられるとは思えないな」
 言いながら僕は弁当の包みをフロントバッグに収めた。
「そうね、でも忘れる努力をして。私もそうするから」
 清香は僕の方を見ずに呟いた。
 余りにも異様な状況で出会ったので、僕は清香のことをあまり考える余裕のないまま別れの時を迎えてしまった。もし、僕と清香がごく普通に出会っていたとしたら、僕は清香に恋ていたのだろうか、なぜかそんなことを考えた。
「でも、僕はこの町で起こったことや、この町で会った人たちのことを忘れられるとは思わないな」
「いいえ、あなたはいつか全部忘れるわ。なんとなくそんな気がするの」
「そうかな、僕にはそうは思えないけど」
「まあ、いいわ、さあ、もう出発して、今日もたくさん走らなきゃならないんでしょ」
「ああ、そうだね」
「私、見送らないから、振り向かないで行ってね」
「ああ、そうするよ」
「じゃあ、さよなら」
「さよなら」
 言い終えて僕は自転車にまたがった。漕ぎ出すと、そのまま門に向かった。僕は言われた通り振り向かなかったが、僕を見送る清香の視線を感じたような気がした。僕は門を出ると白川郷に向けてハンドルを切った。

 お昼時、僕はバス停のベンチに腰を降ろし、弁当の包みを開いた。おにぎりが三つ入っていた。どことなくほろ苦い味がした。
 これを食べ終えたら僕は清香のことを忘れて努力をすると約束した。清香は、いつか僕はあの町のことを全て忘れる時が来ると言った。
 昨夜のことがトラウマになって終生悪夢にうなされることになったとしても、僕は、僕を助けてくれた駅員さんや、住職、そして清香のことを忘れたいとは思わなかった。



予告 
次回は 「第5話 白川郷/祖母?の誘惑」をお届けします。


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