屋上には、誰も居なかった。
 僕はいつもの場所——転落防止用の柵の隙間からプールが見える所に座った。この場所が一番居心地が良い。日当たりの関係かもしれないと思う。まだ掃除をされていないプールは綺麗とは言えないけれど、別に見ようと思わなければ目に入ることも無い。本を読んで入れば、そんなこと気にならなくなるから良いんだ。
 僕はランチトートからランチョンマットを取り出して、それをコンクリートの上に敷いた。それからその上に、長方形の弁当箱を乗せる。蓋を開ければ、今朝詰めた白米とおかずが、よれることなくそのままの状態を保っていた。
「いただきます」
 読書の前に、まずは腹ごしらえだ。僕は取り出した箸を手に小さく呟いて、冷凍食品のハンバーグを食べようとした。その時。
 がちゃ、と屋上のドアが開いた。僕は一瞬だけ動きを止めてそちらを見る。まぁ、珍しいことじゃない。たまに、屋上にやって来る生徒は居るから。
 僕は止めていた手を動かし、ハンバーグに箸を進めた。冷凍で電子レンジを使ってチンするだけのやつだけど、十分に美味しい。ケチャップをつけたら、もっと美味しくなるかもしれない。今度は持って来ようかな。
 次は唐揚げ……と思っていたら、僕の目の前に影が出来た。僕は顔を上げる。気が付かなかったけど、僕の目の前には人が立っていたのだ。
「っ……!」
 僕はその人を見た。髪はなんと金色だ。僕を見つめる瞳はオレンジに近い明るい色で、細いというわけでは無いが、切れ長だった。
「あの、すいませんけど……」
 金髪を指でいじりながらその人が言う。
「ちょっと、うるさくしても良いですか?」
「え?」
 僕が首を傾げると、その人は自分の背中に背負っているものを指差した。それは——ギターを入れる黒いケースだった。
「ああ……」
 僕は納得する。たぶん、軽音部の人だ。だから、昼休みに屋上で練習をするために来たに違いない。僕はその人の目を見て頷いた。
「どうぞ。大丈夫です」
「……ありがとう、ございます」
「いえいえ」
 僕がそう言うと、その人は軽く頭を下げてから、僕と少し距離を取ってコンクリートの上に胡座をかいた。そして、背中に背負っていたケースからギターを取り出した。それはエレキギターではなく、アコースティックギターだった。
「あれ……?」
 思わず大きな声を出してしまった。
 だって……なんとなく、エレキギターのイメージだったから。
 僕の声が聞こえたのか、その人が振り向いて僕を見る。
「ん……?」
「あ、いえ……えっと」
 あなたはエレキギターのイメージですね、なんて失礼なことは言えない。僕は必死に言葉を探した。
「あ、えっと、ギターって、格好良いなと思って」
「え? 格好良い?」
 僕の言葉に、その人はきょとんとした表情を見せた。僕は続ける。
「中学の時に、授業で触ったことがあるんですけど、その時は音がぜんぜん出なくて。実技テストが散々な結果だったんです。懐かしいなぁ……」
「中学か。そういえば授業でやったかもしれません」
「僕は弾けないから、すごいですね!」
「いや、別に……」
 また金髪をいじりながら、その人が言う。
「触ってみます?」
「え!?」
 いや、それは駄目だ。
 きっと、高いし、大切なものに決まっている。万が一、弦が切れでもしたら、弁償するお金を僕は持ち合わせていない。
「……僕は、演奏を聴くだけで満足です!」
「そう、ですか」
「……」
「……」
 沈黙。
 まいったな。僕、初対面の人と喋るの苦手なんだよね……。
 困っていると、その人が「えっと……」と口を開いた。
「タメで良いですか?」
「え? タメ?」
「タメ口。学年、一緒ですよね……ネクタイの色が同じだし」
「あ……」
 僕の学校は、男子はネクタイ、女子はリボンの色で学年が分かるようになっている。見ると、その人のネクタイは緑色。つまり、僕と同じ学年だ。別に敬語で堅苦しくする必要も無い。僕は頷いた。
「じゃあ、タメで」
「ん。ま、俺はダブってるから君より一個上だけど」
「え!?」
 じゃあ、タメ口は失礼なんじゃないか!?
 動揺する僕が面白かったのか、その人はぷっと吹き出す。
「良いよ。学年は同じだし普通で」
「普通……」
「俺、長谷。そっちは?」
「あ、えっと、加瀬」
「よろしく、加瀬」
 自然に自己紹介が出来た。会話をリードしてくれた長谷のおかげだ。僕はほっと胸を撫で下ろした。
「ごめん、弁当食ってたんだな。邪魔はしないから」
「あ、うん。長谷はもう食べたの?」
「いや、パン持って来るの忘れた。ついでに財布も家だから、購買にも行けない状態」
 苦笑しながら長谷が言う。それは辛い状況じゃないか? 何か、胃に入れた方が……。
 僕は弁当箱を指差して長谷に言った。
「これ、半分食べる?」
「え?」
「冷凍食品が嫌いじゃなければ、おかずだけでも」
 長谷は驚いたように目を見開いた。
「いや、悪いし平気。朝も抜いてるけど、ご覧の通り元気だし」
「いや、朝も食べてないなら余計に駄目だよ! 唐揚げ、あげる!」
「うーん……でも加瀬のが減るじゃん」
「僕は平気。今日は体育の授業も無いから」
「なるほど、省エネモードで平気?」
「平気」
 僕がそう答えると、長谷はどこか可笑しそうに笑って、口を「あーん」と開けた。食べさせろってことか。僕はつまんでいた唐揚げを、その口に放り込んでやった。すると、長谷はわざとらしく感動の声を上げる。
「めっちゃ美味い! 加瀬ってば料理上手だな!」
「ありがとう、冷凍だけどね」
「いやいや、感謝していますとも」
 じろり、と長谷が僕の弁当箱を覗き込んでいる。何か、気になるものでもあるのだろうか。
「ね、これも食べてみたい」
「え……」
 長谷が指差したのは、手作りの卵焼きだった。冷凍食品の味は保証出来るが、手作りのものを他人に食べてもらう自信は……無い。
「それ、冷凍じゃ無いから駄目」
「なんで?」
「きっと、口に合わないよ」
「そんなこと無い。美味そうじゃん」
 お願い、と見つめられて、僕は……。
「じゃあ、どうぞ」
 もうどうにでもなれ、と僕は卵焼きを長谷の口に入れた。長谷はそれをゆっくりと噛み締める。味は、どうかな。口に合うかな。どきどきと、僕の心臓がうるさく鳴った。
「……加瀬ってさ、もしかして俺のオカンだったりする?」
「……は?」
「だって、これ、めっちゃ懐かしい味がする!」
 突拍子も無いことを言われて、今度は僕が目を丸くした。
「オカンって……」
「いや、俺の家に本物のオカンは居るけど、こんなに美味い卵焼きは作ってくれないなぁ……」
「そ、そうなんだ?」
「ドンピシャに美味い! ね、また作って来てよ!」
 真っ直ぐな褒め言葉に、僕はどう反応して良いのか分からず、混乱したまま「良いよ」と頷いてしまった。
 長谷は喜んだ様子で手を叩く。
「加瀬の愛妻弁当楽しみ!」
「ば、馬鹿! 愛妻ってなんだよ!」
「へへっ」
 そんなやり取りをしていると、チャイムが屋上に響き渡った。予鈴だ。まずい、あと十分で昼休みが終わる!
「あ、それじゃ、俺は先に戻るわ!」
「え……」
「また明日な!」
 そう言い残して、長谷はギターをてきぱきとケースに仕舞って屋上から姿を消した。残された僕は、ぽかんと閉まったドアを見る。
「……とりあえず、これ食べなきゃ!」
 僕は急いで弁当を口に運んだ。なんだったんだ、長谷という男は……。
 今日の昼休みは、読書が出来なかった。
 ついでに、長谷のギターも聴けなかった。
 また明日、ということは……明日も彼はここに来るつもりなのだろうか。
「……変な奴」
 僕は卵焼きを口に運ぶ。
 それは別に感動するほど美味しくも無いし不味くも無い。いつもの味だ。
 ——ね、また作って来てよ!
「……っ!」
 長谷の言葉を思い出すと、何故だがくすぐったい気持ちになる。
 きっと、作ったものを褒められたのが初めてだからだ、と思った。
「……明日も、作ってやるよ」
 そう呟いた言葉は、春の柔らかな風に乗って空気の中に溶けて消えた。