昼休みはふたりの世界

 昼休みを告げるチャイムが鳴る。
 窓の外は、ふわふわ晴れ模様。
 僕は机の上のノートを閉じて、こっそり小さく欠伸をした。
「黒板、消しとけよー」
 世界史を担当の先生が、そう日直に声を掛けてから教室を出ていった。すぐに教室内はがやがやと賑やかになる。
「あーあ、ダルい。次って数学じゃん」
 前の席の前田が、僕の方を振り向いて言った。目元が赤い。居眠りでもしていたのだろうか。僕は「そうだね」と相槌を打って、リュックの中からランチトートを引っ張り出した。それと、一冊の文庫本。それを見た前田は「ひえぇ……」と大袈裟に声を出す。
「昼休みに読書とか、すげぇわ」
「そんな大袈裟な……授業で習った物語のやつだよ。続きが気になったから読んでるだけで」
「でもさ、加瀬……俺は数学の教科書でも寝ちまうから、文字だらけのやつを読めるってのは尊敬、いたしますでござる」
「なにそれ……」
 僕は笑いながら荷物を持って席を立った。向かうのは屋上。意外と屋上は空いていて、今日みたいに天気の良い日は読書にもってこいの場所なのだ。
「ご飯、食べてくる」
「行ってらっしゃーい」
 前田に軽く手を振って、僕は教室を出た。この高校に通い始めて、三年生まであっという間だった。足元を見れば、少しくすんだ上履き。これを履くのも、来年までなんだなと思うと、なんだか寂しい気持ちになる。
 あと何回、屋上で昼休みを過ごせるだろうか。大学受験という、恐ろしい波はもうそこまで迫っている。いや、もうそれにのまれているのかもしれない。
 せめて、この本を最後まで読み終わるまでは、穏やかでいたい。そう思いながら、僕は階段を上がり、屋上への扉を開けた。
 
 屋上には、誰も居なかった。
 僕はいつもの場所——転落防止用の柵の隙間からプールが見える所に座った。この場所が一番居心地が良い。日当たりの関係かもしれないと思う。まだ掃除をされていないプールは綺麗とは言えないけれど、別に見ようと思わなければ目に入ることも無い。本を読んで入れば、そんなこと気にならなくなるから良いんだ。
 僕はランチトートからランチョンマットを取り出して、それをコンクリートの上に敷いた。それからその上に、長方形の弁当箱を乗せる。蓋を開ければ、今朝詰めた白米とおかずが、よれることなくそのままの状態を保っていた。
「いただきます」
 読書の前に、まずは腹ごしらえだ。僕は取り出した箸を手に小さく呟いて、冷凍食品のハンバーグを食べようとした。その時。
 がちゃ、と屋上のドアが開いた。僕は一瞬だけ動きを止めてそちらを見る。まぁ、珍しいことじゃない。たまに、屋上にやって来る生徒は居るから。
 僕は止めていた手を動かし、ハンバーグに箸を進めた。冷凍で電子レンジを使ってチンするだけのやつだけど、十分に美味しい。ケチャップをつけたら、もっと美味しくなるかもしれない。今度は持って来ようかな。
 次は唐揚げ……と思っていたら、僕の目の前に影が出来た。僕は顔を上げる。気が付かなかったけど、僕の目の前には人が立っていたのだ。
「っ……!」
 僕はその人を見た。髪はなんと金色だ。僕を見つめる瞳はオレンジに近い明るい色で、細いというわけでは無いが、切れ長だった。
「あの、すいませんけど……」
 金髪を指でいじりながらその人が言う。
「ちょっと、うるさくしても良いですか?」
「え?」
 僕が首を傾げると、その人は自分の背中に背負っているものを指差した。それは——ギターを入れる黒いケースだった。
「ああ……」
 僕は納得する。たぶん、軽音部の人だ。だから、昼休みに屋上で練習をするために来たに違いない。僕はその人の目を見て頷いた。
「どうぞ。大丈夫です」
「……ありがとう、ございます」
「いえいえ」
 僕がそう言うと、その人は軽く頭を下げてから、僕と少し距離を取ってコンクリートの上に胡座をかいた。そして、背中に背負っていたケースからギターを取り出した。それはエレキギターではなく、アコースティックギターだった。
「あれ……?」
 思わず大きな声を出してしまった。
 だって……なんとなく、エレキギターのイメージだったから。
 僕の声が聞こえたのか、その人が振り向いて僕を見る。
「ん……?」
「あ、いえ……えっと」
 あなたはエレキギターのイメージですね、なんて失礼なことは言えない。僕は必死に言葉を探した。
「あ、えっと、ギターって、格好良いなと思って」
「え? 格好良い?」
 僕の言葉に、その人はきょとんとした表情を見せた。僕は続ける。
「中学の時に、授業で触ったことがあるんですけど、その時は音がぜんぜん出なくて。実技テストが散々な結果だったんです。懐かしいなぁ……」
「中学か。そういえば授業でやったかもしれません」
「僕は弾けないから、すごいですね!」
「いや、別に……」
 また金髪をいじりながら、その人が言う。
「触ってみます?」
「え!?」
 いや、それは駄目だ。
 きっと、高いし、大切なものに決まっている。万が一、弦が切れでもしたら、弁償するお金を僕は持ち合わせていない。
「……僕は、演奏を聴くだけで満足です!」
「そう、ですか」
「……」
「……」
 沈黙。
 まいったな。僕、初対面の人と喋るの苦手なんだよね……。
 困っていると、その人が「えっと……」と口を開いた。
「タメで良いですか?」
「え? タメ?」
「タメ口。学年、一緒ですよね……ネクタイの色が同じだし」
「あ……」
 僕の学校は、男子はネクタイ、女子はリボンの色で学年が分かるようになっている。見ると、その人のネクタイは緑色。つまり、僕と同じ学年だ。別に敬語で堅苦しくする必要も無い。僕は頷いた。
「じゃあ、タメで」
「ん。ま、俺はダブってるから君より一個上だけど」
「え!?」
 じゃあ、タメ口は失礼なんじゃないか!?
 動揺する僕が面白かったのか、その人はぷっと吹き出す。
「良いよ。学年は同じだし普通で」
「普通……」
「俺、長谷。そっちは?」
「あ、えっと、加瀬」
「よろしく、加瀬」
 自然に自己紹介が出来た。会話をリードしてくれた長谷のおかげだ。僕はほっと胸を撫で下ろした。
「ごめん、弁当食ってたんだな。邪魔はしないから」
「あ、うん。長谷はもう食べたの?」
「いや、パン持って来るの忘れた。ついでに財布も家だから、購買にも行けない状態」
 苦笑しながら長谷が言う。それは辛い状況じゃないか? 何か、胃に入れた方が……。
 僕は弁当箱を指差して長谷に言った。
「これ、半分食べる?」
「え?」
「冷凍食品が嫌いじゃなければ、おかずだけでも」
 長谷は驚いたように目を見開いた。
「いや、悪いし平気。朝も抜いてるけど、ご覧の通り元気だし」
「いや、朝も食べてないなら余計に駄目だよ! 唐揚げ、あげる!」
「うーん……でも加瀬のが減るじゃん」
「僕は平気。今日は体育の授業も無いから」
「なるほど、省エネモードで平気?」
「平気」
 僕がそう答えると、長谷はどこか可笑しそうに笑って、口を「あーん」と開けた。食べさせろってことか。僕はつまんでいた唐揚げを、その口に放り込んでやった。すると、長谷はわざとらしく感動の声を上げる。
「めっちゃ美味い! 加瀬ってば料理上手だな!」
「ありがとう、冷凍だけどね」
「いやいや、感謝していますとも」
 じろり、と長谷が僕の弁当箱を覗き込んでいる。何か、気になるものでもあるのだろうか。
「ね、これも食べてみたい」
「え……」
 長谷が指差したのは、手作りの卵焼きだった。冷凍食品の味は保証出来るが、手作りのものを他人に食べてもらう自信は……無い。
「それ、冷凍じゃ無いから駄目」
「なんで?」
「きっと、口に合わないよ」
「そんなこと無い。美味そうじゃん」
 お願い、と見つめられて、僕は……。
「じゃあ、どうぞ」
 もうどうにでもなれ、と僕は卵焼きを長谷の口に入れた。長谷はそれをゆっくりと噛み締める。味は、どうかな。口に合うかな。どきどきと、僕の心臓がうるさく鳴った。
「……加瀬ってさ、もしかして俺のオカンだったりする?」
「……は?」
「だって、これ、めっちゃ懐かしい味がする!」
 突拍子も無いことを言われて、今度は僕が目を丸くした。
「オカンって……」
「いや、俺の家に本物のオカンは居るけど、こんなに美味い卵焼きは作ってくれないなぁ……」
「そ、そうなんだ?」
「ドンピシャに美味い! ね、また作って来てよ!」
 真っ直ぐな褒め言葉に、僕はどう反応して良いのか分からず、混乱したまま「良いよ」と頷いてしまった。
 長谷は喜んだ様子で手を叩く。
「加瀬の愛妻弁当楽しみ!」
「ば、馬鹿! 愛妻ってなんだよ!」
「へへっ」
 そんなやり取りをしていると、チャイムが屋上に響き渡った。予鈴だ。まずい、あと十分で昼休みが終わる!
「あ、それじゃ、俺は先に戻るわ!」
「え……」
「また明日な!」
 そう言い残して、長谷はギターをてきぱきとケースに仕舞って屋上から姿を消した。残された僕は、ぽかんと閉まったドアを見る。
「……とりあえず、これ食べなきゃ!」
 僕は急いで弁当を口に運んだ。なんだったんだ、長谷という男は……。
 今日の昼休みは、読書が出来なかった。
 ついでに、長谷のギターも聴けなかった。
 また明日、ということは……明日も彼はここに来るつもりなのだろうか。
「……変な奴」
 僕は卵焼きを口に運ぶ。
 それは別に感動するほど美味しくも無いし不味くも無い。いつもの味だ。
 ——ね、また作って来てよ!
「……っ!」
 長谷の言葉を思い出すと、何故だがくすぐったい気持ちになる。
 きっと、作ったものを褒められたのが初めてだからだ、と思った。
「……明日も、作ってやるよ」
 そう呟いた言葉は、春の柔らかな風に乗って空気の中に溶けて消えた。
「……雨」
 翌日の昼休み、僕は小さく呟いた。
 今朝から生憎の天気で、今日は屋根の無い屋上での食事は出来そうに無い。
 ——卵焼き、作ったのにな。
 卵焼きの他にも、いろいろと用意した。偶然、家にあった使っていない弁当箱に、冷凍食品のおかずと白米をぎゅうぎゅうに詰めて来たのだ。
 長谷は、身長のわりには細かった。きっと普段からご飯を抜いているに違いない。僕は別にあいつの「オカン」では無いが、なんだか、どうしようも無く心配になったのだ。
「なぁ、加瀬。教室で食べるなら一緒に食べないか……って、あれ?」
 カバンからイチゴのパンを取り出しながら前田が廊下の方を見た。そして、固まる。どうしたのだろうか、と僕もそちらを見た。視線の先には——長谷が明るい髪を揺らしながら、こちらに向けて手を振っているのが見えた。
「ね、ねぇ……長谷さんじゃない?」
「誰を待っているのかな?」
 女子たちが、ざわざわと騒ぎ出す。もしかして、長谷って人気があるの……?
「あーあ、イケメンは得だよなぁ」
 前田が息を吐く。
「なんだろ、こっち見てるけど……このクラスの奴で彼女になった女子が居るんかな」
「あの人、人気あるの?」
 首を傾げる僕に、前田は「ああ」と頷いてみせた。
「年上ブームだよ」
「年上ブーム?」
「一個上なんだ、あのイケメンさんは。理由は知らんけど……とにかく、女子高生は年上の男に弱い! 俺らみたいな同い年の奴なんか眼中に無いって感じだな。年上の余裕ってやつを、あの男は持っているに違いない」
「……へぇ」
 知らなかった。だって、長谷とは一度も同じクラスになったことが無いし、部活だって違う。そもそも僕は、身近な人間以外には興味をあまり持たないので、女子たちが「年上ブーム」なんてものにハマっているなんて想像もしていなかった。
「僕、ちょっとご飯食べてくる」
「え? この雨の中で!?」
「場所は変えるけど……約束があるから」
「や、約束!? ま、まさかお前もとうとう彼女が……!?」
「違う、違う」
 僕は苦笑しながら、いつものようにランチトートと文庫本を用意した。
「あの人……長谷が待ってるの、僕だから」
「へぇ……え、ええっ!?」
 裏返った前田の大声が、教室内に響き渡った。

 ***
 
「やほーっ」
「……どうも」
 人懐っこい笑顔で手を振る長谷のもとに向かった僕の背中に、興味あり気な視線が突き刺さるのを感じる。それを気にしないふりをして、僕は長谷にランチトートをずいっと見せた。
「どこで食べる?」
「昨日の場所は?」
「屋上は雨だよ」
「ああ、なら……俺の部室で食べよう」
 そう言って、長谷は僕の手を取って大股で廊下を進んで行く。急に手を繋がれて、僕はびっくりした。
「ちょ、ちょっと……!」
「あはは、迷子になったら駄目だろ?」
 三年間も通っている校舎で迷子になってたまるか!
 僕は手を振り払おうとしたけど、長谷の力が強くて、それは叶わなかった。
 長谷は背が高い。僕より、五センチはデカいと思う。でも、細い。腕相撲をしたら、僕の方が余裕で勝てそうな見た目なのに……どこからこんな力が出せるんだろう。
「はい、到着!」
「……え? あれ?」
 連れて来られたのは、音楽室ではなくって美術室だった。驚く僕をよそに、長谷は慣れた様子でポケットから鍵を取り出して扉を開ける。
「ね、ねぇ……長谷は美術部なの?」
「え? 違うけど?」
「でも、ここ美術室だよね?」
「ああ、そっか」
 長谷はぽんと手を叩く。
「使わせてもらってるんだ。美術部の活動が無い、火曜日と金曜日に」
「そうなんだ……びっくりしたよ」
 納得した僕は、室内を見回す。選択授業で美術を取っていないので、ここに入るのは初めてだった。
「でも、なんで音楽室で活動しないの?」
 僕は石膏の像を指でつつきながら長谷に訊いた。長谷は息を吐きながら答える。
「音楽室は、毎日のように軽音部が使ってるから貸してくれない」
「へぇ……え?」
 おかしい。だって、長谷も軽音部でしょ?
 それなのに、貸してくれないとはどういう意味……?
 ぽかんと長谷を見つめていると、彼は困ったように眉を下げた。
「……俺、軽音部じゃないよ?」
「え……でも、昨日、ギターを持ってたじゃん」
「そう。持ってる。だって、俺はギター部だから」
「へっ?」
 軽音部の存在は知っていたが、ギター部というのがあるのは知らなかった。
「まぁ、とりあえず座ろうぜ」
 石膏の像の近くの席に長谷は座った。僕もそれに続く。何も喋らない像の存在は、ちょっとだけ不気味だった。
「軽音部とギター部って、違うの?」
「違うよ」
 ふふ、と長谷は笑う。
「向こうは、ほとんどの人がバンド組むって感じかな。でも、俺は……こう見えて、人見知りで友達を積極的に作れる性格じゃ無いから、バンドは向いてないかなって。ギター部は個人で好きな曲を演奏するだけだから気が楽なんだ。孤独な俺にピッタリ」
「人見知り? 本当かなぁ」
 ランチトートから弁当箱を取り出しながら僕は言った。昨日の今日で、こんなに自然に会話をしている長谷は、とてもじゃないが人見知りをするような人間には見えない。
 ふたつ目の弁当箱を取り出すと、長谷はそれを見て目を丸くした。
「え? もしかして、それは俺の分だったりするの?」
「あ、うん……」
 ちょっと照れ臭くなって、僕は頬を掻く。
「迷惑じゃなかったら、食べてくれると嬉しいな」
「迷惑だなんて! そんなこと思わない!」
 長谷は僕から弁当箱を両手で丁寧に受け取った。
「開けても、良い?」
「どうぞ」
 僕の言葉に、長谷はどこか緊張気味に弁当箱の蓋を開けた。そして、中身を見て目を分かりやすく目を輝かせる。
「えっ……美味そう。全部、食べても良いのでしょうか?」
「ふふ、どうぞ?」
 用意してきた割り箸を手渡すと、長谷は両手を合わせて「いただきます!」と元気に言った。そして、おかずに箸をつける。一番に彼が選んだのは——。
「ん! やっぱり、卵焼き美味い!」
 嬉しそうに長谷は卵焼きを頬張る。味付けは昨日と同じ。だから、よっぽどそれを気に入ってくれているんだな。なんだか照れ臭い……。
 僕も自分の弁当箱の蓋を開けて、あえて唐揚げを箸でつまんだ。
「長谷は、好きなものは先に食べるタイプなの?」
「ん。正解」
 細い見た目に似合わず、長谷は豪快に弁当を口に運んでいる。食が細いというわけではなさそうだ。やっぱり、痩せすぎなのは毎日の食生活のせい……?
「どうしたん?」
「え?」
「いや、箸が止まってるから」
 そこで僕は、自分の食事が中断してしまっていたことに気が付いた。
 まさか、長谷のことが気になっていたなんて言えない。だから、僕は咄嗟に自分の卵焼きを指差した。
「こ、これ。良かったら食べない? 随分と気に入ってくれてるみたいだし……」
「え!? 良いの? サンキュー!」
 あっという間に、僕の卵焼きは長谷に吸収された。
「そんなに、好き?」
 勢いのある食べっぷりを見て、思わず僕はそう口走っていた。長谷は笑顔で頷く。
「好き。大好き」
「っ……そ、そう……」
 長谷の言葉に、何故だか僕はどきどきしてしまった。
 長谷が好きって言ったのは、卵焼きだ。別に、僕に向かって言ったわけでは無いと分かっているのに……。
「ああ、マジでオカン。マジで愛妻」
「っ……! 母親なのか妻なのか、どっちだよ!」
 照れ隠しに、僕も弁当を食べるスピードを早める。そんな僕の耳元で、長谷はふっと笑いながら囁いた。
「どっちにも、なってよ」
「ん!?」
 いきなりそんなことを言われて、僕は咽かけた。
「ば、馬鹿じゃないの!?」
「ははっ。なんか、加瀬ってさ……」
 長谷は目を細めて僕に言う。
「可愛いね」
 か、可愛い……!?
 僕は教室での、前田の言葉を思い出した。
 ——年上の余裕ってやつを、あの男は持っているに違いない。
 僕、もしかして長谷に遊ばれてる!?
 僕はもう一度「馬鹿じゃないの!?」と言って、残っていた白米を勢い良く口の中に放り込んだ。
「ふふ、マジで可愛い……」
 もう冗談は止せよ、と僕は言おうとした。
 けど、僕に向けられる視線があまりにも柔らかいものだったので、僕は何も言えなくなってしまったのだった。
 
 ぴぴぴ、ぴぴぴ。
 僕は枕元に置いてある目覚まし時計を止めて、のそのそとベッドから出た。時間はちょうど朝の六時。高校までは、自転車で二十分くらいだけど、弁当を作らないといけないから早起きするのが日課になっている。
 着替えてから階段を降りてリビングに入ると、化粧を終えた母がチーズの乗ったトーストを齧っている最中だった。
「おはよう。今日、遅くなるから、夕飯適当に食べておいてね」
「おはよう。分かった」
 挨拶を交わして、僕は顔を洗いに洗面所に向かった。そして、いつも通りの身支度を済ませてから、自分の分の食パンをトースターで焼く。
「そういえば、もうすぐ進路の面談あるでしょう?」
「あ……うん」
 昨夜から保温してある白米を弁当箱に詰めながら、僕は頷いた。
「もうすぐ、日程のアンケートを配るって先生が言ってた」
「そう……早く日を決めてもらいたいわ。仕事の都合もあるし」
 僕の家は母子家庭だ。
 まだ僕が赤ん坊だった頃に離婚をしている母は、僕のことをほぼひとりで育ててくれた。
 これ以上、負担になりたくないから、高校を卒業後は働こうと決めていたけど——。
「大学には行ってね」
「……そのことなんだけど」
「駄目よ。絶対に」
 母はふっと笑う。
「高校だって、交通費のいらない地元を受けてくれたでしょう? あなたは遠慮をしすぎよ」
「それは……」
「キャンパスライフ、きっと楽しめるわ。まだ子供なんだから、変に気を遣わなくて良いのよ? お母さんはこれでも結構、稼いでいるんだから」
「……うん」
「文学部に行きたいんでしょ? 頑張りなさいな」
「ありがとう」
 僕は、まだ白紙の進路希望のプリントのことを思い出した。締切は今週中だ。早く、書かないと。
「あ、もうこんな時間」
 ついているテレビで、星座占いが始まったタイミングで、母が立ち上がった。
「ごめん! これ、片付けてくれる?」
「うん。分かった」
「それじゃ、行ってきます!」
 行ってらっしゃい、と僕は母を見送ってから、弁当を詰める作業を再開した。自分で出来ることは自分でやる。それが、我が家のルールだ。弁当作りは、中学の頃からやっているので慣れている。
 卵焼きを作っていると、チン、とトースターが鳴った。今日はブルーベリーのジャムを塗ろうと思う。卵焼き用のフライパンを揺らしながら、今日も長谷はこれを食べてくれるのかな……なんてことを考えた。
「ほんと、変な奴……」
 僕は昨日の昼休みのことを思い出した。
 何が「可愛い」だ……! そんな言葉、言われても、嬉しくなんて……!
 僕はコンロの火を止めて、出来立ての卵焼きをまな板の上に置いた。
 何故だが分からないけれど、今日のこれはいつもより、甘く出来た気が、する。
 
 ***
 
 家を出て自転車を漕いでいると、駅の近くの自動販売機の前に、ギターのケースを背負った金髪を見つけた。
 挨拶、した方が良いよね……。
 僕は自転車の速度を緩めたのと同時に、金髪が振り返る。手にココアの缶を持っていた長谷は、にこっと笑って僕に言った。
「おはよ、加瀬」
「あ、おはよう……」
 僕は自転車から降りて、長谷の横に立った。長谷は興味有り気に僕の自転車を観察している。
「チャリ通なんだ?」
「うん。地元民だからね」
「電車だと思ってた」
「長谷は電車?」
「そう」
 長谷は深く頷く。
「もしかして、同じホームから出て来るかなって待ってたんだけど、まさかチャリだとは予想外」
「待ってた? 僕を?」
 僕は驚いて長谷を見つめる。
「何か、用事だった?」
「いや……」
 長谷はココアの缶を傾ける。ふわっと甘い香りがした。
「用は無いけど、会えたらラッキーじゃん」
「ラッキー?」
「そう。スーパーラッキー」
 言いながら、長谷は僕の自転車の後ろに跨ろうとした。慌てて僕は止める。
「駄目! ふたり乗りは駄目だよ!」
「真面目か」
「ええ、とても」
 僕の言葉に、長谷はぷっと吹き出した。
「それじゃ、歩きながら、一緒に登校しようぜ」
「ああ、ならオーケー」
 僕は自転車の手すりを握って、ゆっくりと歩き出した。こうやって誰かと登校するのは、考えてみれば初めてのことだ。
「今日一限目って何?」
「えっと……古典かな。確か」
「うわー。一番眠い授業!」
 缶を振りながら長谷が言う。言われてみればそうだ。古典を担当している先生の声は、何故だか眠気を誘うのんびりした声。朝からあの声を聞くと、眠くなるなぁ……。
「長谷のクラスは何なの?」
「うーんと、体育」
「良いなぁ」
「良く無い。持久走とか言ってたから、今からサボりたくて仕方無いわ」
 僕はちらりと長谷を見る。細い。持久走なんかやったら、半分くらいの距離でバテちゃうんじゃないかな。年もいっこ上だし、その……体力とか僕らに比べたら、落ちてそう。
 僕の視線に気が付いたのか、長谷はわざとらしく頬を膨らませた。
「やだ、加瀬君。そんなに、じろじろ私を見るなんて、下心があるに違いないわ!」
「え!? いや、僕は別に……」
「それか、とっても失礼なことを考えていたのね! 間違い無いわ!」
「なに、そのキャラ……」
 僕は息を吐く。昨日行っていた「人見知りをする」ってのは、絶対に嘘だと思った。
「細いから心配してたんだよ」
「え? 細い? 俺が?」
 僕の言葉に、長谷はきょとんとした。
「普通じゃない? 服はエルサイズだし」
「それは身長があるからだよ。ちゃんと朝ごはん食べて来た?」
「朝飯は、これ」
 すっとココアの缶を見せてきた長谷を、僕は心配でたまらない気持ちで見つめた。
「……ダイエットでもしてるの?」
「まさか! 育ち盛りの俺にそんなものは不要!」
「なら、どうして朝食を抜いて来るの?」
「だって、時間の許す限り寝ていたいから」
 僕は腕時計を見た。校門が閉まるまで、まだ三十分もある。ぎりぎり遅刻なんてことにはならない。矛盾している。
 長谷は「ああ」と声を出した。
「今日は、特別に早く家を出たんだ」
「特別? どうして?」
「そんなの決まってる」
 ぱちん、と長谷はウインクしてみせた。
「偶然を装って、加瀬と登校するため!」
「……は?」
 長谷は何を言っているんだろう。
 偶然を装う? なんのために? いや、僕と登校するためか……はい?
「あのさ、長谷……」
「やば、口が滑った!」
 そう言うと、長谷は僕の肩を軽く叩いてから、早足で校門に向かって行ってしまう。
「それじゃ、また昼休みな!」
「え、あ、ちょっと!」
 長谷は透視能力でもあるのだろうか。確かに、弁当箱はふたり分あるけど……。
「……変な奴」
 僕は小さくそう零した。
 あんなに明るい長谷が、僕なんかに構ってくる理由が分からない。
 ——可愛いね。
「っ……!」
 長谷の言葉が頭の中によみがえる。
 もう、何が何だか分からない……!
「ほんと、変な奴!」
 僕は勢い良く自転車に跨って、駐輪場までの道を急いだ。
 昼休み、どんな顔をして長谷に会えば良いのか、さっぱり分からない。
 ぐるぐる考えを巡らせながら、僕は弁当箱の入ったリュックをそっと撫でた。
「加瀬と長谷サンって、超仲良しだったんだな」
「え?」
 教室に着いた途端、僕は前田に声を掛けられて驚いた。前田は、ちょいちょいと僕に耳を貸すよう手招きする。
「今日、一緒に登校してただろ?」
「一緒に登校……」
 まさか「待ち伏せ」みたいなことをされていたなんて言えない。僕は曖昧に頷いて席に着いた。前田もそれに続き、声のボリュームを落として言う。
「気を付けろよ。奴に関わると危険だ」
「危険って……」
 別に僕は長谷にパシリにされたりカツアゲされているわけではない。友達……なんだと思う。なんか変な感じはするけど、お昼友達とでも言うのかな。
「平気だよ。別に長谷は怖い奴じゃないし」
「馬鹿。そうじゃない」
 前田は息を吐く。
「お前は話し掛けやすい雰囲気だから……女子にきっかけ作りに利用されるぞ?」
「きっかけ作り?」
「たとえば……ラブレターを長谷サンに渡してー、とか。手作りのお菓子を渡してー、とか」
「まさか」
 僕は吹き出す。
「そんなの、自分で渡せば良いじゃないか」
「それが出来ない、淡い乙女心ってのがあるんだよ」
「乙女心」
 僕はその言葉を口の中で転がした。良く分からないな。自分が書いたり作ったりしたものなら、堂々と本人に渡せば良いのに。
「なんで前田は乙女心に詳しいのさ?」
「それはお前……俺の人生のバイブルは少女漫画だから」
「少女漫画?」
 意外だった。確か前田は野球部だと言っていた。髪を短く刈った、スポーツをしています、といった見た目の前田が少女漫画を読んでいるなんて驚きだ。
 僕の考えが顔に出ていたのだろう。前田が慌てて「違う、違う!」と大声で言う。
「妹の漫画を借りて読んでるだけ! 自分では、恥ずかしくて買えんよ」
「妹さんが居るんだね」
「そう。モテない俺を心配して、乙女心を知れば良いと漫画を貸してくれるような優しい妹だ。誰にも嫁にやらんぞ」
「あはは……」
 仲良しの兄妹って良いな。なんだか微笑ましい気持ちになる。ひとりっ子の僕は、誰に乙女心を教えてもらえば良いのだろう。たとえば……長谷とか? なんとなく。詳しそうだと思った。モテそうだし。
「……長谷って、人気なんでしょ?」
「うん?」
「あ、いや……」
 僕はもごもごと言葉を紡ぐ。
「前に言ってだでしょ? 年上ブームがどうのこうのって……」
「ああ、モテている! 奴は我々の敵だ!」
「敵って、大袈裟な……」
「てか、お前ら仲良しじゃん? 紹介とかしてもらえないの?」
「紹介?」
「そう。女子の紹介」
 ずきん、と何故だか胸が痛んだ。
 別に、女子を長谷から紹介してなんか欲しくない。それに……長谷の知り合いの女子なんて、知りたくない。
 ——なんだか、もやもやする……。
 どうして、こんな気持ちになるのだろう。分からない。自分の心のことなのに、まったく理解出来ない……。
 ホームルームを告げるチャイムが教室に響き渡る。僕はふう、と息を吐いた。あ、進路のプリント、書かなきゃ……。
 そういえば、長谷は高校を卒業したら、どんな進路を進むのだろう。変なの。出会ってまだ間も無いのに、こんなことが気になるなんて。ああ、変なの……。
「起立!」
 日直の声。
 いつもの朝。
 長谷に会えるのは昼休み……。
 さっき話したばかりなのに、何故だか長谷の声が聞きたくなった。
 早く、昼休みにならないかな。
 ホームルームの内容が頭にまったく入らないまま、朝の時間はのろのろと過ぎていった。
 
 ***
 
 昼休みを告げるチャイムが鳴ったのと同時に、僕はランチトートを片手に教室を飛び出した。
 午前中の授業は散々だった。
 内容が頭に入らず、答えを先生に求められても、ちゃんと反応が出来なかった……もう最悪。でも、きっと長谷に会えば全部解決する。そんな思いを胸に僕は隣の教室を覗く。前田の情報によると、長谷とはなんと教室が隣同士だとのことだ。世界は狭い。
 ——長谷……。
 僕は遠慮がちに窓に近付く。長谷は、すぐに見つかった。目立つ金髪が気怠そうに揺れている。
「なが……」
 僕が声を出そうとした瞬間、長谷の前の席の女子が「長谷君!」と声を掛けたので、僕は思わず口を噤んだ。長い髪の、可愛い子だ。彼女は手に、ピンク色の袋を持っている。
「なーに?」
 のんびりと長谷が答える。すると、女子は震える声で「これ!」と手の中の袋を長谷に差し出した。
 プレゼント……?
 さっき前田は、僕が伝達係になるだろうって言っていたけど、この子はちゃんと自分で渡す勇気があるんだ。すごいなぁ。
「クッキー! 焼いたの! 良かったら食べてくれない? 私、クッキング部で……」
「……あー。ごめんね?」
 立ち上がりながら長谷が言う。
「俺、手作りのものって食べないから……佐野ちゃんの気持ちだけ受け取っても良いかな?」
「あ……そうなんだ。えっと……」
「可愛いクッキーありがとう。ご馳走さま」
 そう言って長谷はこっち——教室の外に向かって歩いてくる。
 ばちん。
 目が合った。
 瞬間、長谷は「加瀬!」と僕に向かって、ぶんぶんと手を振って来た。
 僕は——屋上に向かって走った。とにかく、走った!
「え? 加瀬!?」
 後ろから長谷の声がする。それに構わず、僕はダッシュで屋上に向かう。
 だって、長谷は今、言った。
 ——俺、手作りのものって食べないから。
「……っ!」
 なら、なんで、僕の作った弁当を食べたの!?
 意味が分からない。無理してたってことなのか!? そんな思いしてまで、食べて欲しくない……!
 屋上の扉のノブに手をかけた瞬間、僕は後ろから抱き締められた——長谷に。
 彼はぜえぜえと息を吐きながら、僕の腰に回した手に力を入れる。
「待って! なんで逃げるの!?」
「……逃げてない」
 そう言った僕に、長谷は呆れたように返してくる。
「逃げてるって……俺、なんかした?」
「してない」
「なら、なんで……」
「だって、さっき……」
 僕は震える声で長谷に言った。
「手作りのものは食べないって言ってたから……」
「な……」
「ごめん。気が付かなくて。嫌だったでしょ? もう作らないから。もう、迷惑はかけないから……」
「待って加瀬! 迷惑だんて思って無い!」
「なら、なんでさっきクッキーを受け取らなかったの? おかしいよ……」
「あー……」
 ぎゅう。
 長谷の腕の力が益々強くなる。
「詳しいことは、外で話しても良い?」
「……」
 僕は黙って頷いた。
 ありがとう、と言った長谷の声は、少しだけ震えて聞こえた。
 屋上には、僕ら以外誰も居ない。
 その状況が、今はとても有り難かった。
「加瀬!」
「……」
「かーせー!」
「……聞こえてる」
 僕は転落防止用の柵の方を向いて長谷に答えた。長谷が「もう!」と唸って僕の肩を叩く。僕はゆっくりと彼を見た。長谷は、金髪を指で触りながら僕に言う。
「あのさ……正直に言うと、他人が作ったものは苦手なんだよね」
「そう……」
 僕はコンクリートを見つめる。やっぱり弁当は無理に食べてくれたんだと思うと、なんとも言えない気持ちになる。
 加瀬は、言葉を選ぶようにゆっくりと口を開いた。
「……一番最初に、加瀬が食べろって言った時、正直、ちょっと困った。弁当なんて、手作りの代表じゃん? それを食べるのは戸惑った」
「……そっか。ごめん」
「いや、これには理由があるんだ」
「……理由?」
 首を傾げる僕に、加瀬は言いにくそうに口を開いた。
「あのさ……俺が一年ダブってるのは知ってるだろ?」
「うん」
「それには、手作りのトンカツに原因があるんだ」
「……トンカツ?」
 意味が分からなかった。僕は長谷の目を見た。その目には、少しの翳りが見えた。
「俺、推薦で大学を受ける予定だったんだよね」
「推薦……」
 驚いた。考えてみれば、僕は昨年の長谷のことを何も知らない。
「でさ、当時付き合っていた彼女が居て、その子は俺を応援するつもりで手作りのトンカツを振る舞ってくれたんだ。受験の前日に」
「え……」
 まさか。
 嫌な予感がした。
 僕は長谷に「それって……」と小さく言った。長谷は頷く。
「そう。お察しの通り、加熱不足のせいで食中毒になりました。で、しばらく入院。受験はパア。ついでに期末試験も追試も受けられなくて、留年。このことは先生たちは知ってるけど、生徒は知らない。俺が口止めしたから。格好悪いだろ? 食中毒で何もかも失敗したってのは」
「格好悪くなんて……!」
 僕は思わず長谷の肩を掴んだ。細い。折れそうなくらい、長谷は脆い。
「それじゃ、その彼女とは今も会ったりするの?」
「いや、卒業と同時に音信不通。責任取れって俺が言うと思ってるんだろうな。そんなこと言わないのに。あーあ、冷たいよな」
「長谷……」
 こんな時、どう言葉を掛けたら良いのだろう。僕は必死に言葉を探したけど、相応しい言葉は何も見つけられなかった。
 そんな僕に、長谷は苦笑しながら言う。
「ま、暗い話はここまでで……加瀬、お前の弁当は、何故だか俺を惹きつけたんだよ」
「惹き、つけた?」
「そう」
 長谷は目を細めて笑った。
「なんか、この子の作ったものなら大丈夫って思えた。だから、食べさせてもらった。そしたら、案の定めっちゃ美味かった!」
「っ……」
「俺、加瀬の手作りのものなら平気。もっといっぱい食べたいって思う。だからさ、迷惑だなんて思ってないから……ずっと、俺に食べさせてよ」
「う……」
 どうして、涙が出るんだろう。
 僕は目元を隠すために俯いて長谷に言った。
「……怖いよ。また長谷が傷付くことにでもなったら……」
「そんなことにはならない。絶対。分かる」
 ぎゅう。
 僕を安心させるように、長谷は僕を抱き締めて来た。僕はされるがまま、その体温に身を任せる。男らしい、硬い骨が肩にぶつかった。
「ずっと、俺の胃袋を掴んでいてよ」
「……うん」
「約束な」
 耳元で聞こえる長谷の声がくすぐったい。僕はなんだか恥ずかしくて、長谷の胸に顔を埋めた。
 
 ***
 
「美味い! やっぱ、この味!」
「……甘くない? 今日の卵焼きは失敗かなって思ってたんだけど」
「そんなことない! 最高の一品! 三つ星レストランの味!」
 僕の作った弁当を食べながら、長谷は嬉しそうに笑う。変なの。僕の手作りは平気なんて、変なの……。
 でも、ちっとも嫌じゃない。
 むしろ——嬉しい。
 長谷を独り占めしているみたいで、小さな優越感を得ている。けど……。
「何?」
「え?」
「いや、俺のこと見つめてたから」
「あ……」
 長谷の言葉に、僕は肩をすくめる。
「あのさ……こうやって食事をしてるの、誰にも見られない方が良いよね、って思って」
「え? なんで?」
「だって、長谷は他人の作ったものは食べないってことになってるから……僕の手作り弁当を食べてるのはおかしいよ」
「そんなの、付き合ってるから問題無いじゃん」
「あ、そうか」
 え?
 待って、付き合うって言った……!?
 僕は長谷に訊いた。
「誰と誰が付き合ってるって!?」
「加瀬と俺」
 当然のように長谷は言う。僕は意味が分からず、また訊き返してしまった。
「誰と誰が……っ!」
「え? だって、俺に気があるから弁当を作ってくれてるんでしょ?」
「な……!」
 どう都合良く解釈したらそうなるんだ!?
 僕は「付き合って無い!」と長谷のつむじを指で押しながら言った。
「まだ出会って間も無いのに、付き合うとか無いでしょ!?」
「えー。違うの? 俺のこと嫌い?」
「き、嫌いじゃ無いけど……」
「じゃあ、好き?」
「……」
「俺は好き。好きになっちゃった」
 ぐいぐいくる長谷に、僕はどう返せば分からなくなった。さすが、彼女が居ただけのことはある。すごい行動力だ。
「えっと、味噌汁? 俺に毎日作ってよ」
「何それ。プロポーズのフレーズじゃん」
「そう受け取ってくれても良いよ。俺はこの先、加瀬の作ったものしか食べられない身体になっちゃったから」
 弁当箱をランチョンマットの上に置いて、長谷は僕にずいっと近付いた。急に真面目な顔になるから、僕はどきっとしてしまう。
「……ちゅーして良い?」
「は……?」
「したい。加瀬のこと、好き。俺のものにしたい」
「っ……! 駄目! まだ早い!」
「けちー」
 頬を膨らませる長谷を、僕は呆れて見つめた。そもそも、まだ「付き合って無い」んだから!
 き、キスなんて……駄目!
 僕は食べ終わった弁当箱の蓋を閉めながら、まだ膨れている長谷の頬を指でつつく。
「キスは付き合って三ヶ月の記念日!」
「えー!? 中学生じゃん。そんなの」
「高校生も中学生も、そんなに変わらないよ。たぶん」
「変わるって。俺はキスもその先もしたいのにー」
 とんでもないことを言う長谷を無視して、僕はランチョンマットの上の長谷の弁当箱から、箸で冷凍のハンバーグを取って彼の口元に近付けた。
「ほら、あーん」
「え? 食べさせてくれんの?」
「……一応、付き合ってるんだから。まぁ、このくらいは」
「え!? 付き合うのはオーケーしてくれんの!?」
 長谷の目が輝く。
 僕はあえて目を逸らしながら、小さな声で彼に言った。
「僕も、たぶん長谷のこと、好きだし」
「たぶんってなんだよー」
 ぎゅう。
 飛び付いてくる長谷に押し倒されて、僕は危うくコンクリートで頭をぶつけるところだった。
「こら! 箸を持ってるんだから急に暴れるな!」
「好き! マジで加瀬、大好き!」
 言いながら、長谷は僕の頬にくちづけた。文句を言ってやろうと思ったけど、まぁ、頬だし良いかな……と、僕は苦笑しながら、それを受け入れたのだった。
「……加瀬と長谷サンって、マジのマジで仲良しだったんだな」
「……まぁ、ね」
 前田の呆れたような声。僕は曖昧に笑って原因の金髪を軽く引っ張った。長谷は笑いながら「痛いー」とのんびりと言う。
 教室内の視線のほとんどが、僕らに向けられている。何故なら、長谷が僕を自分の膝の上に乗せているから。どうして、こんな状況になったのか。それは、今日が雨だからだ。雨の昼休みは、屋上でランチタイムを過ごせない。だから、どうしようかと思っていたら、何故だか長谷が僕の教室にやって来たのだ。
「ねぇ、あーんしてよ」
「自分で食べなってば……」
「加瀬のこと、抱っこしてるから手が塞がってる」
「僕を解放すれば解決するじゃん……」
「やだー」
 付き合ってから、長谷は僕限定で甘えん坊になった。
 何かにつけて僕にくっついてくる。別に、嫌じゃないけど、人前でべたべたするのはちょっと恥ずかしい。
「ねぇ、部室は空いてないの? そこで食べようよ」
「うーん。まぁ、そうしようか。それなら、ふたりきりになれるし」
 僕の提案を受け入れた長谷と手を繋いで、僕たちは長谷の部室に向かう。その道中で、長谷が思い出したように口を開いた。
「そういえば、その本もうすぐ読み終わるんだっけ?」
「ああ、うん」
 ランチトートの中には、あと数ページで読み終わる文庫本が入っている。長谷が「構って」と言ってくるので、なかなか読み進められないけど、あとちょっとで結末が分かるんだ。わくわくする。
「そういえば、長谷は僕の前でぜんぜんギターを弾かないよね。今度、聴かせてよ」
「だーめ。秋の文化祭までのお楽しみ」
 長谷はふふっと笑う。
「ステージでさ、演奏するんだ。絶対に見に来てね。チケット、プレゼントするから」
「うん。もちろん」
 気が付けば、長谷と付き合ってから三ヶ月の月日が流れている。
 長谷は、もう一度、大学受験を決意して、今はふたりで猛勉強中。夏休みも、一緒に夏期講習を受けることにしたんだ……それまでに、髪を黒くしろって、長谷は毎日先生に追い回されている。
「なんで長谷って金髪にしてるの?」
「……うーん」
 部室の鍵を開けながら、長谷が答える。
「特に理由は無いけど……ヤケになってたのかも。心が荒れてたし。今はとっても幸せだから、平穏ですけどね」
 言いながら、僕を部室に引っ張って、長谷は僕にずいっと顔を近付ける。
「……加瀬さん」
「は、はい? 何、急に改まって……」
「もう、付き合って三ヶ月です。そろそろ、良いのではないでしょうか?」
「え、あ……」
 キスのことだ。
 僕は急に気が小さくなるのを感じた。
 それに……。
「ふ、ふたりっきりの場所が良い……」
「ここには、俺ら以外誰も居ないぜ?」
「だ、だって……石膏像が見てる!」
 ここは美術室。そこら辺から、石膏の像の視線を感じる。恥ずかしい。
 僕の言葉に、長谷はおかしそうに目を細めた。
「可愛い。加瀬、可愛い……」
「……っ!」
 近付く長谷の顔。
 あ、もう、逃げられない。
 僕は、覚悟を決めて目を瞑った。
「……ん」
「……ふ、う」
 一瞬だけ触れ合ったくちびるが熱くて仕方が無い。僕はきっと赤い顔を見られたく無くて、長谷の胸に飛び付いて、その胸に顔を埋めた。
「……美味い。もう俺、加瀬以外とはちゅー出来ない」
「う……」
 恥ずかしいこと言うな、って言おうとしたけど、僕の腹がぐうと鳴ったので止めておいた。僕たちは笑う。幸せな空気だと思った。
「食べよっか、そろそろ」
「ん。いつもありがとう」
 僕はランチトートから弁当箱をふたつ取り出す。
 誰も入ってこれない、この時間はふたりの世界。
「加瀬、あーんして」
「ふふ。もう……」
 僕は卵焼きを箸でつまむ。
 ねぇ、卒業しても、ずっとずっと一緒に居ようね?
 そんな恥ずかしいことは言えなかったけど、僕は言葉の代わりに卵焼きを長谷の口の中に入れた。
「美味い。大好き」
「……好きなのは卵焼き? それとも僕?」
「そんなの、決まってる」
 見つめ合って、ふふっと笑い合った。
 そして、もう一度、キスをする。今度は自然に出来た。きっとこれから、もっともっと回数を重ねるんだろうな。
「大好きだよ、加瀬」
「……僕も長谷が大好き」
 机の上で指を絡める。
 昼休みが終わるまで、あと数十分。
 このまま時間が止まれば良いのに、なんて、柄にも無いことを僕は思ったのだった。

(了)

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