「八重沼、今から体育なん?」
 ほてほてと廊下を歩いていると、後ろから声がかかった。振り返ると自販機コーナーに二宮くんが立っている。
 俺は周りを見渡して、二宮くんの言う「八重沼」が俺のことで間違いないと確信してから、彼の方へ数歩近付いた。
「うん。今から体育館でバレー。なんでわかったの?」
 どうして廊下を歩いているだけで俺が体育に向かっているとわかったのだろうか。不思議に思って問いかけると、彼は自販機から取り出した紙パックジュースを片手に「はは」と笑った。
「や、だって八重沼ジャージ着てんじゃん」
「あ」
 言われてみればそうだ。俺は少し恥ずかしくなって、誤魔化すように「へへ」と笑った。
「八重沼ってすごい繊細そうな見た目してるのに、意外と抜けてるよな」
 自分の見た目が繊細かどうかはわからないが、「抜けている」のはそうかもしれない。
「抜けたくないんだけど、油断するとスコンと抜けちゃうんだよ」
 困った、と腕を組んで唸ると、二宮くんがますます楽しそうに笑った。
「ヌカち〜、授業始まっちゃうよ」
 ……と、白石さん含む女子グループが、通り過ぎざまに俺に声をかけてくれた。そういえば休み時間は十分しかないのだ。急いで向かわなければならない。
「うん、ありがとう。……二宮くん、またね」
 前半は白石さんたちに。後半は二宮くんに向けて伝えて、俺は体育館へと歩き出す。
「八重沼」
 すると、二宮くんがまた俺の名前を呼んだ。「ん?」と振り返ると同時に何かが飛んできて、俺は反射的にそれをキャッチする。それ、は紙パックのジュースだった。
「それ、体育の後飲みなよ」
 な、と笑う二宮くんが寄越したそれはひんやりと冷えていて、初めて会話をした時の彼の手のひらを思い出させてくれた。
 俺はジュースと二宮くんの顔とを二、三度見比べてから「うん」と頷いた。
「ありがとう。後でいただきます」
 頭を下げて礼の気持ちを伝えると、二宮くんは「律儀ぃ」と笑って、そしてもうひとつジュースを(おそらく自分の分を)買ってから、背を向けた。
 ちょうど彼が階段の向こうに消えたあたりで、後ろからまた「ヌカち」と名前を呼ばれた。
「白石さん」
 と、数人の女子が「早く〜」と呼んでくれている。俺は手に持っていた汗拭き用のタオルにジュースを包んで、彼女たちの元へ向かう。
「ねー、ヌカちって三組の二宮くんと仲良いの?」
「うん?」
 また「三組の二宮くん」だ。まさかその言葉が白石さんから出てくると思わず、俺は目を瞬かせてしまった。……と、白石さんの隣を歩く花宮(はなみや)さんが「ねぇねぇ」と小さな声で問うてきた。
「二宮くんって他校に彼女いるってほんと?」
「え、私三年の先輩って聞いたけど」
「うそ〜。どっちもありそう」
 きゃっきゃと盛り上がる彼女たちはどうやら俺を待っていたというより、二宮くんの話が聞きたかったようだ。
「なんで二宮くんの彼女が気になるの?」
 どうして二宮くんの恋人の話を尋ねてくるのかわからなくて、ちょうど近くにいた花宮さんの顔を覗き込みながら聞いてみる。じ、と見つめてみると、花宮さんは何故か頬を赤くして「えー、えっとぉ」と言葉を濁す。
「そりゃあれだけかっこいいからさ、彼女いるか気になるじゃん? 二宮くん、優しいし、爽やかだし、なによりかっこいいし、人気だもん」
「別にワンチャン狙ってるってわけじゃないけどさ」
「アイドルに彼女いるかいないか知りたい的な感覚かも」
 口ごもってしまった花宮さんの代わりに周りの女子が教えてくれる。
 俺は「うん」といつも通りの返事をした。わかるようなわからないような、なんともいえない気持ちで。
「ヌカちにはわかんないかもしれないけど。ま、ヌカちだしね」
 ぽろ、と溢すように誰かがそう言った。そこに悪意がないのはわかったし、実際その通りだったので反論する必要もない。けど、なんだか胸の中がしょっぱい。漬けすぎたきゅうりのようにしょっぱい。
(ヌカちだし、か)
「てか、三年の先輩といえば絵里(えり)さんがさぁ」
「あー知ってる。杉本(すぎもと)先輩と別れたんでしょ?」
 白石さんたちは俺の微妙な反応に気付いた様子はなく、話の話題は二宮くんから三年の先輩へと移っていった。
(そういえば二宮くんは)
 俺は意識を逸らすように二宮くんのことを考えた。
 側では女の子たちがまだ恋の話に花を咲かせていたが、その声も段々と耳に入らなくなってくる。
(俺のこと、一回も「ヌカち」って呼ばないなぁ)
 俺がみんなにヌカちと呼ばれるのを知っても、そう呼ばれているのを見かけても、二宮くんは俺のことを「八重沼」と呼ぶ。
 彼のハスキーな声を思い出して、俺の心は少しだけ明るくなった。



 不思議な縁で知り合った二宮くんだが、彼は本当に俺と友達になる気があったらしい。
 初めて話したあの日。連絡先を交換した二宮くんは、それ以来頻繁に俺にメッセージを寄越してくれるようになった。
『何してんの?』
『四限の古典めっちゃ眠い』
『体育のサッカーでゴール決めちゃった』
『でっかい虹出てたよ』
 なんて、時には写真まで送ってくれる。二宮くんにもらった虹の写真は今、俺のスマートフォンのホーム画面とメッセージアプリのアイコンに設定されている。

 スマートフォンの画面の中でピカピカと輝く虹を見つめてから、俺は戸棚の中から糠床を取り出す。
 ぱか、と蓋を開けると表面が薄ら白く、酵母菌が出てきているのが見えた。こうなると乳酸菌たちも元気になっている証拠だ。
「よしよし」
 手を突っ込み、底から上までくるんと入れ替えるように天地返しの要領でかき混ぜる。
 もうすぐ夏になるので、そろそろ冷蔵庫に入れようかな。そんなことを考えながら、用意していたきゅうりを糠床に漬ける。
「糠床はいい調子かい?」
 台所のテーブルに腰掛けて梅のヘタを取っていたばあちゃんが問うてきた。俺は「うん」と頷いて、汚れていない方の手で蓋を閉める。
 ばあちゃんは嬉しそうに「そう」と微笑んだ。染めていない白い髪をきゅっとひとつにまとめたばあちゃんは、小柄ながら姿勢もよくいつだってシャキッとしている。俺の肩くらいまでの身長だが、存在感は俺の倍以上ある。なんというか、生命力に溢れているのだ。近所の人にも「伊東(いとう)さん(ばあちゃんの名字である)は年中無休でお元気ねぇ」と言われるほどだ。俺はそんなばあちゃんが誇らしくて、大好きだ。
「明日にはいい具合に漬かってると思う」
「そうかい。それにしても上手くなったねぇ、糠床かき回す手つきも立派なものじゃないか」
 目尻に皺をキュッと寄せながら笑うばあちゃんに、俺は照れ笑いを返す。
「そう? 糠床の師匠であるばあちゃんに褒められると嬉しいな」
 そう、ばあちゃんは俺の糠床の師匠だ。
 糠の作り方から菌の発酵のさせ方、かき混ぜ方、美味しい漬け時間。その何もかもをばあちゃんは丁寧に教えてくれた。小学校の頃から教わっており、かれこれ十年ほどになる。
 俺は今、ばあちゃんと二人で暮らしている。
 父さんと母さんは東南アジアのとある国に住んでいる。父さんの仕事の都合だ。ちょうど高校に進学するタイミングだったし、母さんに「奏が海外でやっていけるわけないじゃないの」と断言されたので、ばあちゃんの家にお世話になることになった。
 幼い頃からこの家で過ごすことが多かったのでまったく苦ではなかったし、正直……少しだけホッとした。多分母さんの言う通り、俺は海外でやっていけるような性格ではないからだ。
「ヘタ取り、手伝うね」
 手を洗って、ばあちゃんの向かいに座る。ボウルの中に入った梅をひとつ手に取って、ばあちゃんにならって爪楊枝でヘタを取る。
 黒いヘタと梅の実の隙間部分に爪楊枝を当てて、くるんと回すように力を込めるとポロリとヘタが取れた。ヘタを取った梅干しは焼酎をまぶして殺菌してから塩漬けにするのだ。その後一ヶ月ほど経ってから、天気のいい日に天日干しすることになる。俺は毎夏こうやって、ばあちゃんと梅干しを作っている。
「最近、良いことでもあったのかい?」
「え?」
「えらく表情が明るいじゃないか」
 梅に視線を落としたまま、ばあちゃんが穏やかにそう言ってくれた。自分がどんな顔をしているかなんてわからないからなんとも言えないが、明るくなった理由はすぐにわかる。
「うん。最近ね……友達ができたんだ」
 俺がそう言うと、ばあちゃんは「そうかい、そりゃあよかったなぁ」とやはり穏やかに言ってくれた。派手に喜ぶでも、どんな子かと聞くでもなく、ただ「よかったな」と言ってくれるばあちゃんが好きだ。
 俺は「うん」と頷いてから、手元の梅を見下ろした。薄く赤みがかった黄色い完熟梅は、ほんのり甘酸っぱい香りがする。その爽やかな香りは、何故だか二宮くんの笑顔を思い出させた。
(梅干しができたら、食べてみて欲しいなぁ)
 ばあちゃんの作る梅干しは容赦なく酸っぱくて、食べると顔がくしゃくしゃになる。けどすっきりと元気が出るし、おにぎりの具にしたら最高だ。
(でも……)
 しかし、それが叶わないことくらい、ちゃんと理解している。
 俺にとって糠漬けや梅干しを作ることは当たり前のことだけど、クラスメイトや二宮くんにとっては違う。糠漬けを作るなんて、珍しくて、面白くて、おかしいこと。だから俺はみんなに「ヌカち」と呼ばれるのだ。糠床をかき混ぜる変な男、ヌカち。
 別にそれが嫌なわけではないけれど、せっかく俺を「八重沼」と呼んでくれる二宮くんにまで「ヌカち」と呼ばれるようになったら……なんとなくショックを受けてしまうような気がした。
(なんでだろ)
 別にヌカちというあだ名が嫌なわけじゃない。でも、二宮くんにはそう呼ばれたくない。
 それがなんでなのかわからず、俺は内心「はて」と首を傾げた。