「ヌカち、スキンケアってなにしてる?」
「スキン、ケア?」
はてその横文字はなんだったか、と首を捻る。
スキンは肌で、ケアは手入れ。つまり肌の手入れだ。俺は心の中でポンと手を打つ。
「石鹸」
「は? こっちはガチで聞いてるから。冗談とかいらないの」
わかる?と語尾上げめに問われて、俺は「うん」と頷く。もちろん冗談なんて言っていない。……のだが、クラスメイトの白石さんは「ヌカち、絶対わかってないじゃん」と薄くピンクに色付いた唇を尖らせた。
ちなみに「ヌカち」というのは俺のあだ名だ。
本名(っていうのも変だけど)は八重沼奏、たしかに名前の中に「ぬ」と「か」は入っているけどまったく関係ない。ヌカちのヌカは糠漬けのヌカだ。
『八重沼奏です。五月五日生まれです。趣味は糠漬けです』
四月、高校二年生になって最初の自己紹介でそう言って以来、俺のあだ名は「糠漬けのヌカち」になった。それはじわじわとクラス中に浸透して、今では当たり前のようにヌカちと呼ばれている。
「もういいもん。ヌカちは自分の肌ピカの秘訣を教えてくれないんだ、ふーん、ふぅーん」
茶色の、いつもふんわりとウェーブがかった白石さんの前髪がほわりと跳ねる。ツン、とそっぽを向くその顔は十分にピカピカして見えた。
「白石さんの肌は十分綺麗だと思う」
じ、とその肌を見つめながらそう言うと、そっぽを向いていた彼女がバッとこっちを見た。
「やば。ヌカちだから勘違いしないけど、ヌカちがヌカちじゃなかったらそれ本当にやばいセリフだかんね」
ヌカち、が多すぎて内容がよくわからない。俺はよく理解できないまま「うん」と曖昧に頷いた。
白石は「ヌカちってほんとヌカちだよね」と言いながら、自身のグループの女子の元へと帰っていった。なんだったんだろう。
「……ヌカち、お前すごいよ」
と、今度は後ろの席の山本くんが話しかけてきた。野球部(のエースらしい。山本くんが言うには)の山本くんはさっぱりとした短髪で、程よく日に焼けていてとても健康的な肌色をしている。
山本くんは同じ「や」で始まる名字なので、なんとなく親近感が湧いている。俺は友達と思っているけど……山本くんはどうだろう。
「白石さんにあんなん言えるのヌカちだけだよ。あ、あと三組の二宮とか?」
「そうなの?」
自分のことも気になるが、「三組の二宮くん」というのは誰だろう。
俺と並列するように出された名前について確認しようと口を開く前に、山本くんが「あんな美人にさぁ」と話し出してしまった。
「話しかけられたら俺、『あ』とか『え』とかしか言えないよ」
へぇ、と言いながら俺はまばたきをする。どうして美人に話しかけられると「あ」「え」になるんだろう。俺は不思議に思いながら、山本くんの顔をジッと見つめてみた。
山本くんは俺の視線に気が付いたらしく「あ」と声をあげてから、「え」と気まずそうに首を傾げる。そして、手のひらを俺に見せるようにビシッと出してきた。
「ヌカちが男だってわかってても、その顔で見つめられると……困る」
「困る」
山本くんの言葉をそのまま繰り返す。
『人と話す時は、その人の顔を見ないといけんよ』
という祖母の教えを守っていたつもりなのだが、時々こういうことを言われる。
「ごめんね」
困ることをされるのは嫌だろう。俺が素直に謝ると、山本くんは「あ、いやいやいや」と首を振った。
「別に謝ることじゃないんだけど、なんていうか、こう……ヌカちに見つめられるとドキドキするっていうか、勘違いしそうになるっていうか、うーん……あぁ〜」
最終的に、山本くんは腕組みして天を仰いでしまった。俺はやっぱりよくわかっていないまま「なるほど」と頷いた。
俺は母に『ピントがずれてる』『会話が噛み合わない』『ほんと空気読めないよね』なんて言われて育ってきた。多分それは本当のことなのだろう。現にこうやって山本くんを物凄く悩ませている。
俺は中学の頃まで友達らしい友達がいなかった。なんというかみんな俺が話しかけると不自然に離れていくというか……、多分、積極的に話したいタイプではないのだ。
高校に入ってからはそんな風に思われないように気をつけて、わかっていなくても、納得していなくても、「うん」と頷くことが増えた。そのおかげで、白石さんや山本くんにもこうやって気軽に話しかけてもらえているんだ……と思う。
(それは嬉しい、けど……)
わからないまま、本当の気持ちを伝えられないまま話をするのは、なんとなく悲しい気持ちになる。
本当の自分を出しても万人に嫌われたくないなんて贅沢なことは言わないけれど、せめて、せめて一人でも本音で話すことのできる人がいたら……。
(そしたら、学校生活ももっと楽しいのかもしれない)
もう一度山本くんに「ごめんね」と謝ってから、俺は窓の外へ目を向けた。抜けるような空は青く澄んでいて、もうすぐ夏が訪れることを教えてくれる。
(夏は、茗荷を漬物にしよう。山芋や、オクラとかもいいな)
気分が滅入りそうになる時は、自然と漬物のことを考える。そうすると少しだけ元気が湧いてくるのだ。……まぁ、こういうところが、いわゆる「ピントがずれてる」のかもしれない。
そんなことを考えながら、俺はぼんやりと青空を眺めた。青空に浮かんだ白い雲はまるでふっくらと丸い瓜のようで、少しだけテンションが上がった。
*
なんの授業が好きかと聞かれたら答えに困る。
国語や古典は色々な物語の片鱗に触れられるから好きだし、数学はたくさんの数と向き合えるから好きだし、化学や生物は新しい発見がたくさんあって好きだ。唯一、体育だけはちょっと困ることが多いけど……それも含めて好きだ。
つまり俺は、大体どの授業も好きだ。
(選択芸術も、もちろん好き)
しゃりしゃりと墨を磨りながら、俺は内心わくわくと心躍らせる。
半紙に筆を滑らせる瞬間も好きだが、こうやって水に少しずつ墨を溶かしていく時間も好きだ。半紙の手触りも、文鎮の重さも、なんとも言えない墨の香りも。
「墨溶かしてるだけなのにあんな美しいことある?」
「いや、それな」
さわさわと聞こえてくる話し声を聞くのも好きだ。会話の内容まではしっかり聞き取れないが、なんだか自分もそのおしゃべりに参加しているような気持ちになれる。好き、好きだな、好き、と心の中で歌うように好きなところを挙げながら、俺は墨を硯の横に置いて息を吐いた。
選択芸術は、美術、書道、音楽の中からひとつ教科を選ぶタイプの授業だ。週に一回、他のクラスと合同で行われる。
仲のいい(多分、おそらく、きっと)山本くんは音楽を選択して、他に話ができそうなクラスメイトもいないので、俺は授業中大体一人で黙々と作業している。
誰とも話さないで何かをするのは慣れているので、困りはしない。
「なー、筆がカッチカチなんだけど」
「片す時にちゃんと洗ってねぇからだろ」
「そういう二宮は……あら、綺麗にしてんのな」
「二宮って意外と綺麗好きだよな」
「そういうとこまで抜かりなくマメだから女子にモテるんだって」
なるほど〜、俺も真似しよっかな〜と感心したような言葉と笑い声。さわさわ、どころではない元気すぎるおしゃべり、そして「二宮」という名前に聞き覚えがあって、俺はふと視線を持ち上げる。
斜め前の席に固まって座った彼らの真ん中に、黒髪の男子が見えた。横顔しか見えないからなんとも言えないが、鼻は高く頬もシュッとしていて、かっこいい。同じ制服を着ているのに、なんだか一人だけ芸能人のようだ。俺は芸能関係に疎いからちょっと自信がないが……周りの生徒も「モテる」と言っているので、多分間違いない。
(二宮くん、……あ、三組の二宮くん?)
二宮くん、二宮くん、と何度も口の中で転がして、その名前をどこで聞いたか思い出す。山本くんだ。前に山本くんが、「三組の二宮」と言っていた。
「ま、二宮がモテるのはマメさだけじゃなくて、この顔面ありきだから」
な、と肩を寄せられた男子はその黒髪をさらりと揺らして「それはそう」と笑っている。容姿を褒められて、それを否定せずさらりと笑いに持っていく「二宮くん」のその会話の巧さに、俺は目を瞬かせる。
俺も時々「顔が良い」と言われるけど、あんな風に言えたことはない。毎度「うん」とか「いや」とか無難なことを言って、そこで会話終了だ。
(それはそう、か)
今度使ってみるのもいいかもしれない。いや、俺がそんなことを言ったら場を凍らせてしまうだろうか。
むむ、と考え込みながら筆を硯に浸した、その時。
「あぁもうっ、全然柔くなんねぇ!」
筆先を柔らかくするために墨汁に筆を浸していた男子が、それを大きく振り上げた。同時に筆先からピッと墨汁が飛び、後ろにいた俺の……制服の胸元から腹にかけて引っかかる。
「あ」
「うわっ、やべ……っ!」
白いシャツに黒いシミがじわじわと広がっていく。俺は呆然とそれを見下ろした。それから顔を上げて、墨汁を飛ばしてきた男子を見つめた。
彼はこちらを振り返っており、しっかりと目が合う。さてなんと言おうかと悩んだままジッと彼を見つめていると、何故か男子はたじろいだように身を引いた。
「な、なんだよ。悪かったって。そんな睨まなくてもいいじゃん」
別に責めているつもりはなかったので、俺はぱちぱちとまばたきする。そして「いや、そんなつもりは……」と言おうとした時。男子の隣からヌッと腕が伸びてきて、彼の頭が無理矢理に下げられた。
「ぐぇ」
「いいじゃん、じゃなくて。どう考えてもまずは『ごめん』だろ」
潰れたカエルのような声を出す彼の頭を下げさせたのは、「三組の二宮くん」だった。
「え、あ」
「な、それ洗いに行こっか」
二宮くんはサッと素早く立ち上がると、俺の腕を掴んで同じく立ち上がるように促してきた。そして一度その手を放してから、手のひらを上向けて差し出してくる。
「大丈夫? 行ける?」
「あ、うん」
断るのも変な気がして。俺は彼が差し出してくれた手に手を重ねる。
そして、誘われるまま教室を抜け出して廊下の洗い場に向かうことになった。
「先生〜、制服に墨汁ついたから洗ってきまーす」
と教師にそつなく声をかけていくあたり、やはり彼はコミュニケーション能力が高いのだろう。なんてことを考えながら、俺は二宮くんに引きずられるように教室を後にした。
「落ちねぇな〜」
二宮くんは「うーん」と唸りながら白い開襟シャツを宙に掲げる。俺は半歩後ろでそれを見守りながら、首を傾げた。
(なんで、俺のシャツを二宮くんが洗ってくれているんだろう)
洗い場に着いて、二宮くんに「ほら早く脱いで」と促されて、俺はあれよあれよという間にシャツを脱がされた。二宮くんはまったくためらうことなくそれをざぶざふと水道水で洗い出した。
下にシャツを着ているので特段問題はないが、申し訳ない気分になる。だってそのシャツは俺のだし、二宮くんが汚したわけではない。
たびたび「自分でやるよ」なんて申し出ようと試みているのだが、二宮くんがテンポよく「寒くない?」「悪いな」「これ落ちるかな」と話しかけてくれるので「うん」と答えるだけで終わってしまっている。
二宮くんは正面から見ても、やっぱりかっこいい顔をしていた。さらりとした癖のない黒髪、少しつり上がり気味の目、機嫌良さそうに持ち上がった口元、全体的にくっきりとした顔立ち。多分二宮くんのような顔こそ、よく女子が言っている「顔面が強い」というやつだろう。身長も高く、シャツから伸びた腕もなかなかに逞しい。もしかしたらスポーツもやっているのかもしれない。
(俺とは全然違うなぁ)
ほけ、とそんなことを思っていると、二宮くんが腕で顔を擦りながら「あ〜」と声をあげた。
「墨汁って水じゃ落ちないんか」
シャツを洗い場に引っかけて、いよいよ困ったように腰に手を当て首を傾げた。
「俺から買って返すように言って……」
「大丈夫」
おそらく弁償しようとかそんな話になりそうな気がして、俺は二宮くんの言葉を遮った。二宮くんは少し驚いたような顔をして「あー……そう?」と苦笑を漏らした。多分、俺が冷たく言い切ってしまったせいだ。
「いや、大丈夫っていうのは」
俺は焦って言葉を紡ぐ。
「墨汁は歯磨き粉で落ちるから」
「はみ……なに?」
二宮くんが腰に手を当てたまま、きょとんとした顔で問うてくる。俺は聞こえなかったのかともう一度「歯磨き粉」と繰り返す。
「歯磨き粉つけて歯ブラシでごしごし擦ると落ちるんだ。それでも駄目なら住居用洗剤を入れたぬるま湯に浸けて、また同じように歯ブラシで……」
「あー、ちょ、待って待って」
待ってと言われて、俺は言葉を途切らせる。
二宮くんは片手を腰に、片手を額に当てて、何故か肩を震わせていた。
「怒ってたんじゃないの?」
「? 怒ってないよ」
わざとじゃないし……、と続けると、二宮くんは「そっか」と息を吐いてから、ついで「ふっ」と吹き出した。
「すげぇ真顔だから怒ってると思ってた」
「怒ってないよ。真顔……真顔だったかな?」
にこにこはしていないかもしれないが、そんな恐ろしい形相を浮かべていたつもりもなかったのだが。俺は両手を頬に当てて、むにぃ、とつまんでみる。と、二宮くんがますます笑みを深めた。
「その顔でそれするのは反則だろ」
何がどう反則なのかわからないので、俺は頬をつまんだまま困って首を傾げた。
「なぁ。俺、三組の二宮翔馬っていうんだけど、名前聞いてもいい?」
うちの学校は二年進学時に理系と文系が分かれる。一組から五組が文系、六組から十組が理系。校舎も分かれてしまうので、二年次以降両者は極端に関わりが減る。
(やっぱり、この二宮くんが、三組の二宮くんだったんだ)
ちなみに俺は八組だ。つまりそう、文系の二宮くんとはまったく交流がない。
どうりであまり見覚えのない顔だったはずだ。もし同じクラスなり近くのクラスなら、さすがに覚えていただろう。二宮くんはそれほどに存在感がある。なんというか、立っているだけでピカピカと輝いているような、そんな感じだ。
「ん、嫌だった?」
俺がいつまでも返事をしないからだろう、二宮くんが少し困ったように首を傾げる。
「全然。全然嫌じゃない。俺は八組の八重沼奏」
「八重沼。うん、よろしく」
手を差し出されて、俺はちょっと迷ってからその手を掴んだ。先ほどまで水に触れていたからだろう、二宮くんの手はひんやりと冷えていた。
「そういえば二宮くんも名前に数字が入ってるね」
「数字?」
「うん。俺は八重沼で八、二宮くんは二。一緒……あ、でも俺普段はみんなからヌカちって呼ばれてて、あんまり八重沼って呼ばれないけど」
二宮くんとの共通点とそうじゃないところについて思いつくままに話してみる。と、切れ長の目をきょとんと丸くした二宮くんが、一瞬くしゃりと表情を崩してから「わははっ」と笑いだした。それはもう廊下に響き渡るくらい思い切り。
「どうしたの?」
何故笑っているのかわからずその理由を尋ねると、二宮くんはゆるゆると首を振った。
「いや、……なぁ八重沼」
「ん?」
「俺と友達になろうよ」
どういう流れかわからず、俺は一瞬言葉に詰まる。が、「友達になろう」という響きが良すぎて……頭の中でそのフレーズだけがぐるぐると回る。
(友達になろう、友達、友達に……)
小学校の標語のような言葉だが、今の俺にとってこれほど嬉しい言葉はない。
「うん」
俺は握りしめた二宮くんの手をぶんぶんと上下に振って、力強く頷いた。
「俺も、二宮くんと友達になりたい」
「そっか、よかった。じゃあ今から友達な」
冗談のように軽く溢したであろうその言葉が、俺にとってどれほど嬉しい言葉だったかなんて、多分二宮くんはわかっていないだろう。
(初めて言われた)
高校生になって初めて言われたのだ。こうやって面と向かって「友達になろう」と。何がどう作用して俺と友達になりたいと思ったのかわからないが、二宮くんが嘘をついているようには見えない。
俺は嬉しさに緩みそうになる頬に内側から力を入れて、どうにか堪える。
「よろしくお願いします」
二宮くんのひんやりとした手を両手で包み頭を下げる。と、自分の体が目に入りシャツ一枚であったことを思い出す。
「こんな格好でごめんなさい」
もう一度ぺこりと頭を下げて謝ると、二宮くんはさらに笑みを深めた……というか大笑いした。もしかして二宮くんは笑い上戸というやつなのだろうか。
首を傾げながらも、俺は二宮くんとひたすら握手し続けた。
「八重沼、今から体育なん?」
ほてほてと廊下を歩いていると、後ろから声がかかった。振り返ると自販機コーナーに二宮くんが立っている。
俺は周りを見渡して、二宮くんの言う「八重沼」が俺のことで間違いないと確信してから、彼の方へ数歩近付いた。
「うん。今から体育館でバレー。なんでわかったの?」
どうして廊下を歩いているだけで俺が体育に向かっているとわかったのだろうか。不思議に思って問いかけると、彼は自販機から取り出した紙パックジュースを片手に「はは」と笑った。
「や、だって八重沼ジャージ着てんじゃん」
「あ」
言われてみればそうだ。俺は少し恥ずかしくなって、誤魔化すように「へへ」と笑った。
「八重沼ってすごい繊細そうな見た目してるのに、意外と抜けてるよな」
自分の見た目が繊細かどうかはわからないが、「抜けている」のはそうかもしれない。
「抜けたくないんだけど、油断するとスコンと抜けちゃうんだよ」
困った、と腕を組んで唸ると、二宮くんがますます楽しそうに笑った。
「ヌカち〜、授業始まっちゃうよ」
……と、白石さん含む女子グループが、通り過ぎざまに俺に声をかけてくれた。そういえば休み時間は十分しかないのだ。急いで向かわなければならない。
「うん、ありがとう。……二宮くん、またね」
前半は白石さんたちに。後半は二宮くんに向けて伝えて、俺は体育館へと歩き出す。
「八重沼」
すると、二宮くんがまた俺の名前を呼んだ。「ん?」と振り返ると同時に何かが飛んできて、俺は反射的にそれをキャッチする。それ、は紙パックのジュースだった。
「それ、体育の後飲みなよ」
な、と笑う二宮くんが寄越したそれはひんやりと冷えていて、初めて会話をした時の彼の手のひらを思い出させてくれた。
俺はジュースと二宮くんの顔とを二、三度見比べてから「うん」と頷いた。
「ありがとう。後でいただきます」
頭を下げて礼の気持ちを伝えると、二宮くんは「律儀ぃ」と笑って、そしてもうひとつジュースを(おそらく自分の分を)買ってから、背を向けた。
ちょうど彼が階段の向こうに消えたあたりで、後ろからまた「ヌカち」と名前を呼ばれた。
「白石さん」
と、数人の女子が「早く〜」と呼んでくれている。俺は手に持っていた汗拭き用のタオルにジュースを包んで、彼女たちの元へ向かう。
「ねー、ヌカちって三組の二宮くんと仲良いの?」
「うん?」
また「三組の二宮くん」だ。まさかその言葉が白石さんから出てくると思わず、俺は目を瞬かせてしまった。……と、白石さんの隣を歩く花宮さんが「ねぇねぇ」と小さな声で問うてきた。
「二宮くんって他校に彼女いるってほんと?」
「え、私三年の先輩って聞いたけど」
「うそ〜。どっちもありそう」
きゃっきゃと盛り上がる彼女たちはどうやら俺を待っていたというより、二宮くんの話が聞きたかったようだ。
「なんで二宮くんの彼女が気になるの?」
どうして二宮くんの恋人の話を尋ねてくるのかわからなくて、ちょうど近くにいた花宮さんの顔を覗き込みながら聞いてみる。じ、と見つめてみると、花宮さんは何故か頬を赤くして「えー、えっとぉ」と言葉を濁す。
「そりゃあれだけかっこいいからさ、彼女いるか気になるじゃん? 二宮くん、優しいし、爽やかだし、なによりかっこいいし、人気だもん」
「別にワンチャン狙ってるってわけじゃないけどさ」
「アイドルに彼女いるかいないか知りたい的な感覚かも」
口ごもってしまった花宮さんの代わりに周りの女子が教えてくれる。
俺は「うん」といつも通りの返事をした。わかるようなわからないような、なんともいえない気持ちで。
「ヌカちにはわかんないかもしれないけど。ま、ヌカちだしね」
ぽろ、と溢すように誰かがそう言った。そこに悪意がないのはわかったし、実際その通りだったので反論する必要もない。けど、なんだか胸の中がしょっぱい。漬けすぎたきゅうりのようにしょっぱい。
(ヌカちだし、か)
「てか、三年の先輩といえば絵里さんがさぁ」
「あー知ってる。杉本先輩と別れたんでしょ?」
白石さんたちは俺の微妙な反応に気付いた様子はなく、話の話題は二宮くんから三年の先輩へと移っていった。
(そういえば二宮くんは)
俺は意識を逸らすように二宮くんのことを考えた。
側では女の子たちがまだ恋の話に花を咲かせていたが、その声も段々と耳に入らなくなってくる。
(俺のこと、一回も「ヌカち」って呼ばないなぁ)
俺がみんなにヌカちと呼ばれるのを知っても、そう呼ばれているのを見かけても、二宮くんは俺のことを「八重沼」と呼ぶ。
彼のハスキーな声を思い出して、俺の心は少しだけ明るくなった。
*
不思議な縁で知り合った二宮くんだが、彼は本当に俺と友達になる気があったらしい。
初めて話したあの日。連絡先を交換した二宮くんは、それ以来頻繁に俺にメッセージを寄越してくれるようになった。
『何してんの?』
『四限の古典めっちゃ眠い』
『体育のサッカーでゴール決めちゃった』
『でっかい虹出てたよ』
なんて、時には写真まで送ってくれる。二宮くんにもらった虹の写真は今、俺のスマートフォンのホーム画面とメッセージアプリのアイコンに設定されている。
スマートフォンの画面の中でピカピカと輝く虹を見つめてから、俺は戸棚の中から糠床を取り出す。
ぱか、と蓋を開けると表面が薄ら白く、酵母菌が出てきているのが見えた。こうなると乳酸菌たちも元気になっている証拠だ。
「よしよし」
手を突っ込み、底から上までくるんと入れ替えるように天地返しの要領でかき混ぜる。
もうすぐ夏になるので、そろそろ冷蔵庫に入れようかな。そんなことを考えながら、用意していたきゅうりを糠床に漬ける。
「糠床はいい調子かい?」
台所のテーブルに腰掛けて梅のヘタを取っていたばあちゃんが問うてきた。俺は「うん」と頷いて、汚れていない方の手で蓋を閉める。
ばあちゃんは嬉しそうに「そう」と微笑んだ。染めていない白い髪をきゅっとひとつにまとめたばあちゃんは、小柄ながら姿勢もよくいつだってシャキッとしている。俺の肩くらいまでの身長だが、存在感は俺の倍以上ある。なんというか、生命力に溢れているのだ。近所の人にも「伊東さん(ばあちゃんの名字である)は年中無休でお元気ねぇ」と言われるほどだ。俺はそんなばあちゃんが誇らしくて、大好きだ。
「明日にはいい具合に漬かってると思う」
「そうかい。それにしても上手くなったねぇ、糠床かき回す手つきも立派なものじゃないか」
目尻に皺をキュッと寄せながら笑うばあちゃんに、俺は照れ笑いを返す。
「そう? 糠床の師匠であるばあちゃんに褒められると嬉しいな」
そう、ばあちゃんは俺の糠床の師匠だ。
糠の作り方から菌の発酵のさせ方、かき混ぜ方、美味しい漬け時間。その何もかもをばあちゃんは丁寧に教えてくれた。小学校の頃から教わっており、かれこれ十年ほどになる。
俺は今、ばあちゃんと二人で暮らしている。
父さんと母さんは東南アジアのとある国に住んでいる。父さんの仕事の都合だ。ちょうど高校に進学するタイミングだったし、母さんに「奏が海外でやっていけるわけないじゃないの」と断言されたので、ばあちゃんの家にお世話になることになった。
幼い頃からこの家で過ごすことが多かったのでまったく苦ではなかったし、正直……少しだけホッとした。多分母さんの言う通り、俺は海外でやっていけるような性格ではないからだ。
「ヘタ取り、手伝うね」
手を洗って、ばあちゃんの向かいに座る。ボウルの中に入った梅をひとつ手に取って、ばあちゃんにならって爪楊枝でヘタを取る。
黒いヘタと梅の実の隙間部分に爪楊枝を当てて、くるんと回すように力を込めるとポロリとヘタが取れた。ヘタを取った梅干しは焼酎をまぶして殺菌してから塩漬けにするのだ。その後一ヶ月ほど経ってから、天気のいい日に天日干しすることになる。俺は毎夏こうやって、ばあちゃんと梅干しを作っている。
「最近、良いことでもあったのかい?」
「え?」
「えらく表情が明るいじゃないか」
梅に視線を落としたまま、ばあちゃんが穏やかにそう言ってくれた。自分がどんな顔をしているかなんてわからないからなんとも言えないが、明るくなった理由はすぐにわかる。
「うん。最近ね……友達ができたんだ」
俺がそう言うと、ばあちゃんは「そうかい、そりゃあよかったなぁ」とやはり穏やかに言ってくれた。派手に喜ぶでも、どんな子かと聞くでもなく、ただ「よかったな」と言ってくれるばあちゃんが好きだ。
俺は「うん」と頷いてから、手元の梅を見下ろした。薄く赤みがかった黄色い完熟梅は、ほんのり甘酸っぱい香りがする。その爽やかな香りは、何故だか二宮くんの笑顔を思い出させた。
(梅干しができたら、食べてみて欲しいなぁ)
ばあちゃんの作る梅干しは容赦なく酸っぱくて、食べると顔がくしゃくしゃになる。けどすっきりと元気が出るし、おにぎりの具にしたら最高だ。
(でも……)
しかし、それが叶わないことくらい、ちゃんと理解している。
俺にとって糠漬けや梅干しを作ることは当たり前のことだけど、クラスメイトや二宮くんにとっては違う。糠漬けを作るなんて、珍しくて、面白くて、おかしいこと。だから俺はみんなに「ヌカち」と呼ばれるのだ。糠床をかき混ぜる変な男、ヌカち。
別にそれが嫌なわけではないけれど、せっかく俺を「八重沼」と呼んでくれる二宮くんにまで「ヌカち」と呼ばれるようになったら……なんとなくショックを受けてしまうような気がした。
(なんでだろ)
別にヌカちというあだ名が嫌なわけじゃない。でも、二宮くんにはそう呼ばれたくない。
それがなんでなのかわからず、俺は内心「はて」と首を傾げた。
「な。夏休みに入ったらどっか遊びに行かない?」
そんなことを言われたのは、ちょうど期末試験の真っ只中だった。
二宮くんに誘われて、校内の自習室で一緒に勉強していた時だ。
「遊び?」
「そう」
二宮の机の上には、飴やら個包装のチョコやら紙パックジュースが並んでいる。これはみんな「あ、二宮じゃん」「二宮くん勉強中?」なんて話しかけてきた二宮くんの「友達」が彼に渡してきたものだ。二宮くんは慣れた様子で「ありがと」とそのすべてを断ることなくさらりと受け取っていた。
「八重沼もいる?」と聞かれたが、俺はそれを丁重に断った。
「それは二宮くんに食べて欲しくて渡してくれたんだと思うから」
そう言うと二宮くんは少し目を丸くしてから、何故か嬉しそうに「そうだな」と頷いていた。ちなみにその後「なんか、ちょっとした祭壇みたいだね。二宮くん、神様みたい」と言ったら、彼は盛大に吹き出した。近くの席にいた女生徒が一瞬迷惑そうな視線を向けてきたが、二宮くんが「ごめん」と笑顔を向けると、どことなく嬉しそうに首を振っていた。なんでもそつなくこなす二宮くんは、本当に神様みたいだ。
そんなみんなに慕われる神様(仮)な二宮くんに勉強に誘われて、俺は最初「?」と首を傾げてしまった。
「クラスの友達とはしないの?」
素直な気持ちでそう尋ねると、二宮くんはあっさりと肩をすくめた。
「クラスのやつらとやると絶対大人数になるから。途中で遊びに走って勉強しなくなる」
なるほどというかなんというか。これまで友達と一緒に勉強をしたことがなかった俺には未知の世界だ。
二宮くんは基本的に、クラスの友達と行動を共にしている……らしい。結構がっしりとした体付きなので何か部活に入っているのかと思ったが、一年からずっと帰宅部とのことだった。ただ中学まではサッカーのクラブチームに所属していた、と聞いて「やっぱり」と納得した。
ほー、と感心して頷いていると、二宮くんは「八重沼は静かに勉強しそう」と言ってくれた。まぁたしかに勉強中に独り言を言ったりしないけど、と肯定すると、二宮くんはまた笑っていた。理由はよくわからないけど、二宮くんは会話の最中によく笑ってくれる。馬鹿にしたような笑いじゃなく、本当に心の底から「おもしろい」という感じの笑い方だから、嫌な気持ちにならない。
「あとで話そうな」
二宮くんが俺の方に顔を寄せて、こそ、と呟いてくれる。俺は声を出さないまま「うん」と頷いた。
勉強を終えて、夕暮れの帰り道。
バス通学の二宮くんと、電車通学の俺は、本当は一緒に帰る必要なんてない。高校の最寄りのバス停は、学校の目の前にあるからだ。
しかし二宮くんは必ず俺を駅まで送ってくれる。それからわざわざバス停まで歩いて引き返すのだ。
「送ってくれてありがとう。いつもごめんね」
「いや? 俺が八重沼と一緒にいたいからついてってるだけ」
二宮くんはまるで冗談を言うようにおどけてそんなことを言う。俺は笑って返して、そして「あのさ、さっきの」と話を切り出した。
「夏休みになったら遊ぼうってやつ」
「うん。大丈夫そう?」
けろ、と明るい調子で問われて、俺は少しだけ言葉に詰まる。
「大丈夫だけど……」
だけど、俺と遊んでも楽しくないかも。……と口にしようか迷って、黙り込む。
「まじ? よかった。一回学校じゃないとこで遊んでみたかったんだよな」
二宮くんは俺の葛藤に気付いていない様子で、楽しそうに「どこ行こっか」なんて笑っている。思わずつられるように笑ってしまって、俺は「うん」と頷いた。
俺は二宮くんの言うような「おもしろい」奴じゃないと思うけど、こうやって誘ってもらえるのは嬉しい。どこに行こうかなんて考えてもらえるのも嬉しい。なんだか自分が特別な人間になったような気持ちになる。
(そんなわけないのに)
なんて卑屈なことを一瞬考えて、俺はぶるるるっと首を振った。そんなことを考えるなんて、楽しみにしてくれている二宮くんに失礼な気がしたからだ。
「なに突然。風呂上がりの犬の真似?」
俺の挙動不審を見て、二宮くんが笑いを堪えたような震え声で問うてきた。なんだか独特なたとえだが、乗っからせてもらおう。
「うん。そう、犬」
俺がきっぱりと言い切ると、二宮くんはまたも大笑いしてくれた。何がそんなに面白いのかわからないが、二宮くんは本当によく笑う。
「二宮くんって、よく笑うよね」
笑いの沸点が低い、というやつなのだろうか。そう思って問いかけると、二宮くんは「いや」と首を振った。
「普段はこんなに笑わないから」
目尻の涙を拭いながら言うその言葉はかなり信用がないが、俺は「そうなんだ」と頷いておいた。多分、二宮くんには自覚がないのだろう。下手に否定するとショックを受けるかもしれない。
余計なことを言わないようにと、もに、と口元を引き締めておく。と、まだ笑いの残滓を残したような微笑みを浮かべた二宮くんが「ほんとほんと」と溢した。
「八重沼の前だけだよ、こんなの」
その言葉を聞いた瞬間、何故か胸の奥がキュッと引き絞られたような感覚を覚えた。驚いて胸元をパタパタと叩くと、それはあっという間に落ち着いた。一体なんだったのだろう。
「今度はなに?」
二宮くんは、目尻の涙を拭いながら笑っている。どうやらまた「ツボ」に入ったらしい。
「なんだろう……急な息切れ、動悸?」
俺にもよくわからなかったので素直に首を傾げる。
二宮くんは体を折り曲げるように腹を抱えて「なんだそれ」と爆笑した。
*
期末試験も無事に終わり、そわそわと落ち着かない雰囲気の数日があっという間に駆け抜けて、もうすぐ夏休みがやって来る。
長期休みといえば家で過ごしたり図書館に出かけたり散歩したり……というルーティンを繰り返すだけなのだが、高校二年生の夏休みはちょっと違う。なんと友達と遊びに出かけるのだ。
何を着ていったらいいかよくわからなかったので、以前母さんに買ってもらった服の中から「まぁ似合ってるんじゃない?」と言われたものを選ぶことにした。
母さんはよく俺に服を買ってくれた。
「奏が良いのは見てくれだけなんだから。せめて良い服着て着飾りなさいよ」
なんて言って。
そう。俺は特に面白みもない、顔だけ(は、いいらしい。自分ではよくわからないが)の人間だ。友達との遊び方も知らない。知っているのは糠床のより良い保存法とか、梅干しの漬け方とか、美味しいかき氷の作り方とか、墨汁汚れの落とし方とか、そんなことばっかりだ。
(こんな感じで、二宮くんと遊んで楽しめるかな?)
そんな不安が付き纏っていたが、今更この性格をどうこうするなんてできなくて。
そんなことをぐるぐる悩んでいる間にも時は過ぎ日にちが経って、あっという間に修業式がやって来た。