私の実家は、江戸時代から続く古い家系の家で、曾祖父母が暮らした古い家だ。祖母ではなく、私の父方の伯母、父、叔母、叔父、そしてもう一人の叔父、計五人の叔父叔母たちがこの家で育った。その家は、美しい田園風景の中に佇む、一見普通の家屋だが、その歴史には、拭い去ることのできない暗い影が潜んでいる。その影は、私自身の存在にも、深く関わっている。
曾祖父母の間には三人の子供がいた。しかし、その子供たちは皆、あまりにも残酷な運命を辿った。
最初の子供、長女は生後間もなく、原因不明の高熱に襲われた。最初はただの風邪と思われたが、みるみるうちに熱は上昇し、小さな体は痙攣し始めた。曾祖母は必死に冷まそうとしたが、彼女の腕の中で、赤ちゃんの小さな体は冷たくなっていった。その小さな遺体は、まるで燃え尽きた炭のように黒ずんでおり、曾祖母は、その光景を生涯忘れられなかったという。
二番目の子供、長男は、生後一年ほど経った頃、囲炉裏の火のそばで遊んでいた。冬の寒空の下、囲炉裏の火は家族にとって貴重な暖かさの源だった。しかし、その暖かさが、彼の命を奪うことになった。バランスを崩した彼は、燃え盛る炎の中に真っ逆さまに落ちた。悲鳴も上げる間もなく、彼の小さな体は炎に包まれた。曾祖母と曾祖父は、必死に炎を消そうとしたが、すでに彼の体は、ひどい火傷を負い、見るも無残な姿になっていた。その焼け焦げた皮膚と、絶え間なく続く悲鳴の幻影は、曾祖母の悪夢となり、その後の人生をずっと苦しめたという。
三番目の子供、次男は、大雨の夜に命を落とした。激しい雨は、古くなった家の屋根を容赦なく打ちつけ、あちこちから雨漏りが始まった。心配した次男は、「僕が見てくる!」と、無邪気に外へ飛び出した。しかし、彼は戻ってこなかった。曾祖父母は、必死に彼を探し、ついに屋根裏で見つけたのは、彼の崩れ落ちた、冷たくなった遺体だった。雨漏りの原因を探ろうとした彼は、不運にも屋根から転落し、首の骨を折って即死していた。彼の無残な姿は、曾祖父母の心に深い傷を残した。
三人の子供を失った曾祖父母の悲しみは深く、想像を絶するものであったろう。曾祖父はその後、戦場で命を落とした。残された曾祖母は、深い悲しみに暮れる中、家系の存続を願い、隣村から一人の男を養子に迎えた。その男が、私の祖父である。しかし、私の両親は、その祖父の子供ではない。
祖父と祖母の間には、私の父と叔父叔母たち、五人の子供が生まれた。その子供時代は、曾祖父母の悲劇の影が常に付きまとっていたという。
祖父は、幼い頃から曾祖父母の悲劇を目の当たりにし、その影に怯えながら育った。彼はいつも不安げな表情をし、夜には悪夢にうなされていたという。彼の心には、亡くなった三人の兄姉の亡霊が棲みついていたのかもしれない。
祖父と祖母は、その悲しみを胸に抱えながら、五人の子供たちを育て上げた。しかし、その幸せは長くは続かなかった。祖父は、若くして病に倒れ、この世を去った。ほぼ同時期に、曾祖母も老衰のため亡くなった。
曾祖父母と祖父の死後、実家の周りでは奇妙な出来事が起こるようになった。夜になると、子供の泣き声が聞こえるという噂が村中に広がり、近所の人々は、夜遅くに実家の方角を避けるようになった。
ある日、私は古い蔵を整理していた際に、曾祖父母に関する古い日記を発見した。日記には、曾祖父母の悲しみ、そして三人の子供の死に関する詳細な記述があった。日記によると、子供たちの死は、単なる事故ではなかった可能性があるという記述があった。曾祖母は、子供たちの死後、奇妙な儀式を行っていたらしい。その儀式の内容は、日記からはっきりと読み取ることができなかったが、何か邪悪な力と関係しているようだった。
日記には、曾祖父母が、何らかの超自然的な力に悩まされていたという記述もあった。彼らは、子供たちの死後、頻繁に悪夢にうなされ、精神的に不安定になっていたらしい。日記の最後のページには、曾祖母が、自分の犯した罪を悔い、そして、その罪を償うために、自分の命を絶つことを決意したという記述があった。その後日記は祖父へ、祖父の死後は祖母へ引き継いだが、祖母の死後、そっと棺の中に入れたのだ。
日記を読み終えた後、私は、実家、そして私の家系に、何らかの呪いがかけられているのではないかと考えるようになった。三人の子供の死、そして祖父の早すぎる死、これらはすべて、その呪いの結果ではないだろうか。そして、私自身の存在も、その呪いの連鎖の一部なのかもしれないという恐怖に襲われた。
私は、この呪いを解く方法を探し始めることにした。しかし、その呪いの正体、そしてそれを解く方法は、未だに見つかっていない。実家は、今もなお、その暗い歴史を背負い、静かに佇んでいる。そして、その家には、今もなお、三人の子供の霊が彷徨っているのかもしれない。
この物語は、私の家族の歴史であり、そして、私の運命の一部でもある。私は、この呪われた家系の物語を、いつの日か、完全に解き明かしたいと願っている。しかし、その道のりは、長く険しいものになるだろう。そして、その先に何が待っているのか、私にはまだわからない。
この家は、私の故郷であり、同時に、私にとって最も恐ろしい場所でもあるのだ。この家の歴史は、私自身の歴史と深く関わっている。そして、その歴史は、私の人生に、永遠に影を落とすだろう。
深い山あいの霜降村。人里離れたその村には、古くから伝わる忌まわしい物語があった。それは、村八分にされた男、庄助の物語だ。
庄助は、生まれつき奇形の顔立ちをしていた。鋭い眼光、歪んだ口元、そして、異常に長い指。村人たちは、彼を「鬼の子」と呼び、忌み嫌った。子供たちは彼の姿を見るなり泣き叫び、大人たちは彼を避けるようにして生活していた。庄助は、常に村の隅で、孤独な日々を送っていた。
唯一、彼に優しくしてくれたのは、村はずれの古井戸に住むという老婆、おキクだけだった。おキクは、村人たちが恐れる「井戸の守り神」の化身だと噂されていた。彼女は、庄助に、村の言い伝えや、奇妙な儀式のことを教えてくれた。
その一つに、「月蝕の夜」に行われるという、村の鎮魂祭があった。祭壇には、生贄として、村で最も忌み嫌われた者の心臓が捧げられるという。おキクは、庄助にこう囁いた。
「庄助さん…あなたも、その生贄になるかもしれない…」
月蝕の夜が近づくと、村の空気が一変した。普段は静かな村に、不気味な風が吹き荒れ、獣の鳴き声が響き渡った。村人たちの顔には、狂気じみた興奮の色が浮かんでいた。彼らは、庄助を捕らえようと、村中を捜し回った。
庄助は、おキクから教わった、古井戸の奥深くにある隠し通路を使って逃げようとした。しかし、通路は、想像を絶するほど長く、暗く、そして、不気味だった。壁には、無数の血痕がこびりつき、不気味な落書きが刻まれていた。時折、耳元で囁くような声が聞こえ、背筋を凍らせるような冷たい風が吹き付けてきた。
通路を進んでいくと、庄助は、いくつもの遺体と出会った。彼らは、かつて村八分にされた者たちだった。彼らの目は、まるで庄助を見つめているかのように、虚ろに開かれていた。
ようやく通路の出口にたどり着いた庄助は、そこで恐ろしい光景を目撃した。それは、巨大な祭壇だった。祭壇の上には、村人たちが集まり、狂喜乱舞していた。そして、祭壇の中央には、おキクがいた。彼女は、庄助を誘導するように、手を差し伸べていた。
「庄助さん…早く…心臓を捧げなさい…」
おキクの言葉は、庄助の耳に、まるで呪文のように響いた。彼女の顔は、もはや老婆の顔ではなく、異様なまでに美しい、妖艶な女の顔に変わっていた。その目は、鋭く光り輝き、庄助を捉えて離さなかった。
庄助は、恐怖に慄きながら、逃げようとした。しかし、彼の足は、まるで鉛のように重く、動かなかった。村人たちは、彼を取り囲み、狂ったように襲いかかってきた。
庄助は、絶叫しながら、祭壇から突き落とされた。そして、深い闇の中に消えていった。
翌朝、村人たちは、庄助の遺体を見つけられなかった。代わりに、祭壇には、巨大な化け物が祭られていた。
それから数十年、霜降村は廃村となり、深い森に覆われた。人々は、その地の呪いを恐れて近寄らなくなった。しかし、時折、月蝕の夜には、村の方角から、凄まじい悲鳴が聞こえてくると噂された。
ある日、心霊現象研究家の、一条涼介が霜降村を訪れた。彼は、古文書に記された庄助の物語と、村の呪いの噂に興味を持ち、単身で調査に乗り出したのだ。涼介は、村の入り口にある朽ちかけた鳥居の前に立ち、深呼吸をした。冷たい風が吹きつけ、背筋が寒くなった。
村の中は、廃墟と化していた。倒壊した家々、朽ち果てた井戸、そして、いたるところに生い茂る雑草。空気は、重く、澱んでいて、何とも言えない不気味さに満ちていた。涼介は、懐中電灯を手に、慎重に村の中を歩き回った。
彼は、かつて庄助が住んでいたという小屋を発見した。小屋の中は、埃まみれで、蜘蛛の巣が張り巡らされていた。しかし、壁には、奇妙な落書きが残されていた。それは、庄助が描いたものと思われる、歪んだ顔と、呪詛のような言葉だった。
涼介は、小屋の奥で、古い日記を発見した。それは、庄助が書き残したもので、彼の孤独な日々、村人からの迫害、そして、おキクとの出会いなどが克明に記されていた。日記には、月蝕の夜に起こった出来事についても詳細に書かれており、涼介は、その恐ろしい内容に言葉を失った。
日記によると、おキクは、村の鎮魂祭を執り行うための生贄として、庄助を選んでいたのだ。そして、庄助を殺害した後、彼の心臓を祭壇に捧げ、自らもその化け物と一体化したという。
涼介は、日記を読み終えた時、背筋に冷たいものが走った。彼は、日記に書かれていた、おキクの呪いの言葉が、自分の耳元で囁かれているような気がした。そして、小屋の外から、不気味な声が聞こえてきた。
「…涼介…君も…一緒にならないか…」
涼介は、恐怖に慄きながら、小屋から逃げ出した。彼は、村から脱出するべく、必死に走り出した。しかし、彼の足は、まるで重りをつけているかのように、思うように動かなかった。
後ろから、何かが追いかけてくるのがわかった。涼介は、振り返らずに走り続けた。そして、村の入り口の鳥居に到着した時、彼は、後ろから迫り来る影に捕らえられた。
涼介は、闇の中に消えていった。彼の悲鳴は、森の中に消え、二度と聞こえてくることはなかった。
霜降村の呪いは、今もなお、人々の心に深く刻み込まれている。そして、月蝕の夜には、再び、その地から、凄まじい悲鳴が聞こえてくるという…。
春の陽射しが、まだ冷たさを残す山里を照らし始める頃。集落では毎年恒例の野焼きが行われる。枯れ草を焼き払い、新しい芽生えを促す、古くからの伝統行事だ。しかし、この山里には、野焼きにまつわる恐ろしい伝承が語り継がれている。
私の祖母は、その伝承を私に語って聞かせたことがある。それは、今から50年以上前の出来事だという。当時、野焼きの責任者だったのは、村で一番腕が立つと言われていた老いた猟師、庄司だった。庄司は、若い頃から山を知り尽くし、火の扱いにも長けていた。そのため、村人たちは彼を信頼し、毎年野焼きを任せていた。
その年、例年以上に乾燥した春だった。枯れ草は燃えやすく、野焼きは予定よりも早く終わった。庄司は、満足げに火を見つめていた。しかし、その時、突風が吹き始めた。今まで穏やかだった風が、まるで生き物のように、勢いよく山肌を駆け上がっていく。
庄司は、慌てて火の勢いを抑えようとしたが、時すでに遅し。突風は、燃え盛る炎を、あっという間に彼のいる場所へと押し寄せた。炎は、あっという間に庄司を包み込み、彼は悲鳴も上げずに、灰と化したという。
村人たちは、恐怖に慄いた。庄司の死は、村に深い悲しみと、野焼きへの恐怖をもたらした。それ以来、野焼きは、村人にとって単なる行事ではなく、危険と隣り合わせの、恐ろしい儀式となったのだ。
それからというもの、野焼きの日は、村全体が異様な雰囲気に包まれるようになった。子供たちは、外で遊ぶことを許されず、家の中でじっと野焼きが終わるのを待つ。大人たちも、普段とは違う緊張感に包まれ、黙々と自分の仕事に励む。
野焼きの煙が、村を覆う頃になると、村のあちこちから、奇妙な音が聞こえてくるようになる。それは、まるで、庄司の亡霊が、村をさまよっているかのような、不気味な音だ。
ある年、野焼きの最中、私は奇妙な影を目撃した。それは、燃え盛る炎の中に現れた、人影のようなものだった。一瞬のことだったが、その影は、庄司によく似ていた。私は、恐怖のあまり、その場から逃げ出した。
それからというもの、私は野焼きの日に、必ず悪夢を見るようになった。夢の中で、私は、燃え盛る炎に追いかけられ、逃げ惑う。そして、その炎の中から、庄司の顔が現れ、私を睨みつける。私は、恐怖で目を覚まし、心臓が激しく鼓動している。
この悪夢は、私を苦しめるだけでなく、野焼きへの恐怖を、さらに深めている。私は、この山里で生まれ育ち、野焼きの伝統を肌で感じてきた。しかし、庄司の死と、私の悪夢は、野焼きに対する私の考え方を、大きく変えてしまったのだ。
今では、野焼きは、単なる行事ではなく、危険と、そして、恐怖と隣り合わせの、忌まわしい儀式だと感じている。私は、この恐怖を、いつまでも引きずり続けるのだろうか。そして、この山里に、再び悲劇が訪れることはないのだろうか。
夜空には満月が輝き、山里全体を照らしている。しかし、その光も、私の心の闇を払拭することはできない。私の心には、今もなお、燃え盛る炎と、庄司の亡霊が、焼き付いているのだ。
深い山中に、人里離れた廃村があった。その村は、かつては賑やかだったというが、今は朽ち果てた家屋だけが、苔むした石畳に影を落とし、静かに、あるいは不気味に時を刻んでいる。空気は湿り気を帯び、腐葉土と、何か古びた、生臭い、獣のような香りが鼻をつく。吐き気を催しそうになるほどの不快感と、背筋を凍らせるような寒気が同時に襲ってくる。そして、その廃村の奥深く、鬱蒼とした森の中に、ひっそりと佇む祠がある。地元の人々は、その祠を「血染めの祠」と呼び、近づくことさえ恐れていた。その理由は、決して口伝えでは語られない。実際に見た者だけが、その生々しい恐怖を理解するのだ。
その祠に関する情報は断片的で、曖昧なものばかり。かつて、この村で起きた凄惨な事件。村の娘が、何者かに惨殺され、その遺体が祠の近くに捨てられたという。以来、祠からは、夜な夜な、女性の悲鳴と、何かを噛み砕くような、むしゃむしゃとした音が聞こえるようになり、付近の森では、影が蠢き、不自然な風が吹き荒れるようになったという。 動物の鳴き声すら聞こえない、不自然な静寂が、さらに恐怖を倍増させる。 それは、まるで、息を殺して獲物を待つ獣のような、生きた恐怖だった。
大学の探検部員である、勇介、美咲、そして先輩の健太の3人は、この廃村と祠を探検することにした。彼らは、地元の古老から、祠に関する恐ろしい話を聞いていたが、好奇心と冒険心の方が勝っていた。しかし、その軽率な決断が、彼らを、想像を絶する恐怖の淵へと突き落とすことになるなど、知る由もなかった。
廃村への道は、険しく、足元は不安定だった。朽ち果てた家屋は、まるで彼らの侵入を拒むかのように、黒ずんだ木造の骨組みをむき出しにし、不気味な影を落としていた。 時折、聞こえる風の音さえ、人間の息遣いに聞こえ、彼らの背筋を凍らせた。 湿った土の匂いと、腐敗臭、そして、かすかに漂う血の臭いが鼻をつき、吐き気がこみ上げた。 足元には、無数の虫が蠢き、彼らの肌を這う感触が、さらに恐怖を煽った。
祠にたどり着いた時、3人は言葉を失った。祠は、想像をはるかに超える惨状だった。 朽ちかけた木造の建物は、まるで生き物のように、ひび割れ、歪み、崩れ落ちそうだった。 祠の表面には、無数の傷があり、ところどころに、黒く焦げた跡が残されていた。 その焦げ跡からは、まだ焦げ臭さが漂っていた。 そして、祠の周囲の地面は、不自然なほどに赤く染まっていた。 それは、乾いた血痕ではなく、まるで、まだ生々しい、濡れた血のように、鮮やかな赤色だった。 その血の臭いは、想像を絶するほど強烈で、3人の吐き気を誘った。
勇介が、祠に近づこうとした瞬間、冷たい風が吹きつけ、彼の肌を刺すように冷やした。 その風は、まるで、怨念を帯びた刃物のように、彼らを切り裂こうとしていた。 空気は、重く、澱んでおり、呼吸をするのも困難だった。 そして、祠の奥から、かすかな、しかし、明らかに人間の悲鳴のような声が聞こえてきた。 それは、絶望と恐怖に満ちた、魂の叫びであり、同時に、何かを噛み砕くような、むしゃむしゃとした音が混ざり合っていた。 その音は、人間の肉体が、何かによって貪り食われているような、生々しい音だった。
美咲は、恐怖に慄き、勇介の腕にしがみついた。彼女の指先が、冷たく、震えていた。 彼女の瞳孔は開ききり、恐怖で充血していた。 健太は、懐中電灯を祠の奥に向けた。 光が当たった瞬間、3人は、その光景に言葉を失った。 血で染まった古い布きれが、無造作に散乱し、その上に、人間の骨の一部が散らばっていた。 しかし、それは、ただの骨ではなかった。 骨の一部には、まだ肉片が付着しており、その肉片は、異様な色をしていて、腐敗の進行具合から、つい最近のものだと推測された。 その光景は、あまりにも凄惨で、3人は、嘔吐しそうになった。
さらに、彼らは、祠の奥に、鉄製の古びた木箱を発見した。 その木箱は、まるで、何百年もそこに放置されていたかのように、錆びつき、腐食していた。 木箱の表面には、無数の傷があり、ところどころに、血痕のような赤い跡が残されていた。 鍵はかかっていなかった。 勇介が木箱を開けると、中には、人間の指の骨と、血で染まった日記帳が入っていた。 日記帳の紙は、脆く、触れると崩れそうだった。 しかし、その日記には、惨殺された娘の、恐怖に満ちた最期の言葉が、血のように赤いインクで綴られていた。 そのインクは、まるで、まだ生々しい血のように、鮮やかで、粘り気のある液体だった。 それは、想像を絶する残虐な行為の記録であり、同時に、犯人の狂気と、娘の絶望が、鮮やかに描かれていた。
日記を読み終えた時、突然、激しい地震が起きた。祠は激しく揺れ、壁が崩れ落ちた。その崩れた壁の隙間から、何かが飛び出してきた。それは、血まみれの女性の姿だった。彼女は、鋭い眼光で、彼らを見据え、悲痛な叫び声をあげた。
3人は、恐怖に慄きながら、逃げ出した。しかし、その女性は、執拗に彼らを追いかけてきた。森の中は、暗く、彼らの足元は、不安定だった。彼らは、必死に逃げ続けたが、女性の足音は、すぐ後ろに聞こえた。
彼らは、なんとか廃村から脱出したが、その女性の呪いは、彼らの心に深く刻まれた。そして、彼らは、二度と、その「血染めの祠」には近づかなかった。
3人は、大学を卒業後、それぞれの人生を歩んだ。しかし、彼らの心に、その夜の恐怖は、消えることはなかった。勇介は、精神的に不安定になり、治療に通うようになった。美咲は、トラウマから、夜になると眠れなくなった。健太は、事件の真相を解明しようと、独自に調査を始めたが、結局、何も分からなかった。
「血染めの祠」の物語は、今もなお、語り継がれている。そして、その祠には、今もなお、悲しみの声が響き渡っているという。
古井戸の底から這い上がってきたような、そんな冷たさが彼女の身に宿っていた。七十歳を過ぎた、おばあさんと呼ぶには若々しい、いや、若々しいというより、生気に欠けた、乾いた顔をしていた。私の祖母、ミズヱの幼馴染み、トシエさんだ。
彼女は、私の祖母と同じく、この小さな村で生まれ育ち、終戦直後、戦死した夫を悼みながら、一人息子を育て上げた。その息子は、彼女が五十歳になった頃に病で亡くなった。それからというもの、トシエさんは、村はずれの小さな家で、一人静かに暮らしていた。
数日前、トシエさんが倒れたという知らせが届いた。腹痛と高熱、意識もうろうとしているという。祖母は、すぐにトシエさんの家を訪ねたが、すでにトシエさんは救急車で病院に運ばれてしまっていた。
祖母から話を聞き、私も病院に駆けつけた。病室には、点滴を受けながら、苦しそうにうめき声をあげるトシエさんがいた。彼女の顔色は土色で、唇はひび割れ、目は虚ろだった。
「トシエさん…大丈夫ですか?」
祖母の呼びかけに、トシエさんはかすかに目を覚ました。しかし、まともな返事はできなかった。医師の説明によると、トシエさんは、激しい腹痛と高熱に襲われ、意識不明の状態で搬送されてきたという。原因は不明だが、内臓の異常が疑われるとのことだった。
レントゲンとMRI検査が行われた。その結果、医師たちの顔色が一変した。画像には、明らかに胎児らしき影が写っていたのだ。七十歳を超えた女性の腹腔内に、胎児。そんなことはありえない。医師たちは、画像を何度も確認し、他の医師にも意見を求めた。しかし、結果は変わらなかった。そこには、確かに、小さな人間の姿があった。
医師たちは、トシエさんに詳しく話を聞こうとしたが、彼女はほとんど意識がなく、断片的な言葉しか発しなかった。しかし、かろうじて聞き取れた言葉の中に、
「お腹の子…」「戻して…」
という、奇妙な言葉があった。
数日後、トシエさんは息を引き取った。死因は、多臓器不全。医師たちは、胎児の存在について、いまだに説明がつかなかった。
トシエさんの遺言は、シンプルだった。死後、献体を希望する、というものだった。しかし、そこに付け加えられた言葉が、医師たちをさらに驚かせた。
「お腹の赤ちゃんは、ちゃんと私のお腹の中に戻してほしい」
その言葉は、まるで、お腹の中にいる存在が、彼女の一部であるかのように聞こえた。
トシエさんの死後、献体の準備が進められた。しかし、お腹の中の胎児の処理については、医師たちも頭を悩ませた。解剖すれば、胎児を取り出すことは可能だが、トシエさんの遺言を無視することは、できない。
最終的に、胎児は、トシエさんの遺体と共に火葬されることになった。しかし、その火葬の最中、異様な出来事が起こった。火葬場から、凄まじい悲鳴のような声が聞こえてきたのだ。それは、まるで、小さな子供が、絶望的な声で泣いているようだった。
その声は、すぐに消えた。しかし、その場にいた全員が、背筋を凍らせるような恐怖を感じた。
それからというもの、トシエさんの亡霊を見たという噂が、村中に広まった。村人たちは、トシエさんの霊が、お腹の子供を探しているのではないかと、囁き合った。
私は、トシエさんの死後、その小さな家で、奇妙な出来事を経験した。夜中に、小さな赤ちゃんの泣き声が聞こえたのだ。それは、まるで、私のすぐそばで、誰かが泣いているようだった。恐怖に震えながら、私はその場から逃げ出した。
私は、トシエさんのことを考えるたびに、背筋が寒くなる。七十歳を超えた女性の腹腔内にいた胎児。そして、火葬場から聞こえてきた、悲鳴のような泣き声。それは、一体何だったのだろうか?
トシエさんの死は、私にとって、永遠の謎として、私の心に深く刻まれた。そして、その謎は、私を、深い闇へと引きずり込み続ける。 彼女の言葉、
「お腹の赤ちゃんは、ちゃんと私のお腹の中に戻してほしい」
…その言葉が、今も私の耳元で、囁き続けている。 それは、単なる遺言ではなかった。 それは、何かの呪詛、あるいは、警告だったのかもしれない。
ヘッドライトが切り裂く雨の夜。古びた車のワイパーが必死に視界を確保しようとするが、視界の端には常に、何かが蠢いている気配を感じていた。時刻は午前2時を回っていた。ラジオからは、ノイズ混じりの雑音だけが流れ、不気味な静寂を際立たせている。
私は、この田舎道を、一人、車で走っていた。 仕事で遅くなった帰り道だ。 普段なら賑やかな国道も、この時間帯は車がほとんど通らず、静まり返っている。 その静寂が、私の不安を煽る。
最初は、気のせいだろうと思っていた。 しかし、再び視界の端で、白くぼやけた影が、まるで霧のように揺らめいた。 それは、はっきりとした形を持たない、曖昧な白い塊だった。 人間の姿にも見えるような、見えないような、不思議な形をしていた。 その影は、私の車の後を、ゆっくりと、しかし確実に追いかけてくる。
アクセルを踏むと、古びた車のエンジンから、金属の悲鳴のような音が響き渡る。 その音に呼応するかのように、雨は激しさを増し、車窓を叩きつける。 ピチピチ、ピチピチ… まるで、無数の小さな手が、私の車を引っ掻いているかのようだ。 そして、その音の隙間から、何かが囁いているような、かすかな音が聞こえてくる気がした。
恐怖で、心臓が激しく鼓動し始めた。 後続車は、全く見えない。 しかし、あの白い影の存在感は、ますます増していく。 それは、視界の隅に常に存在し、私の視線を感じ取るかのように、時折、その形を変え、大きさを変える。 まるで、私の恐怖を餌にして、その姿を変化させているかのようだ。
雨粒が車窓に張り付き、視界をさらに狭める。 それでも、私は、その白い影を見失わないように、必死に目を凝らした。 その影は、まるで、私の恐怖を吸い取るように、闇からゆっくりと、しかし確実に近づいてくる。 その不気味な存在は、私の背筋に冷たい息を吹きかけてくるようだった。
私は、何度も後方を確認した。 しかし、何も見えない。 後続車は、全く存在しない。 にもかかわらず、あの白い影は、確実に私の後を追いかけている。 それは、まるで、私の車と一体化しているかのように、ぴったりと後をついてくる。 その距離は、まるで、私の息遣いすら聞こえるほど近い。
恐怖で、視界が歪んでいく。 道路の白線が、蛇のようにうねり、周りの景色がゆがんで見える。 私は、必死にハンドルを握りしめ、スピードを上げた。 しかし、その白い影は、一向に離れる気配がない。 むしろ、だんだん近づいてきているようにさえ感じられた。
そして、ついに、その影が、私の車のすぐそばまで迫ってきた。 それは、白い着物をまとった、女性のシルエットだった。 しかし、その顔は、全く見えない。 ただ、真っ白な布が、まるで顔面を覆い隠しているかのようだった。 その布の隙間から、わずかに見えるのは、鋭く光る、黒い瞳孔だけ。 それは、まるで、深い闇の底から覗いている、冷たい、そして、空虚な瞳だった。
その瞳孔は、私の魂を奪うかのように、じっと私を見つめていた。 その視線は、冷たく、そして、恐ろしく、私の全身を凍りつかせた。 私は、恐怖のあまり、ハンドルから手を離しそうになった。
その瞬間、激しいブレーキ音と共に、車は制御不能になり、ガードレールに激突した。 けたたましい金属音と、ガラスが割れる音が、夜の静寂を破った。 そして、私の意識は、闇に沈んでいった。
…ドンッ…
目を覚ました時、私は病院のベッドの上にいた。 医師は、事故の状況を説明してくれたが、私の脳裏には、あの白い影、そして、その冷たい、空虚な瞳だけが焼き付いていた。 多発性骨折と、脳震盪を負ったという。 しかし、身体の痛みよりも、あの白い影の恐怖の方が、はるかに大きかった。
あの夜、私は、この田舎に伝わる、最も恐ろしい物語の一つを、体験したのかもしれない… あの白い着物の女… あの冷たい視線… そして、あの不気味な、ピチピチという音… それらは、今も、私の心に深く刻み込まれている。 そして、私は、二度と、夜間の運転はしないだろう。
私がまだ小学生だった頃、忘れられない出来事があった。それは、真夏の夜のことだった。蒸し暑くて眠れない夜、私は布団の中で目を覚ました。時計を見ると、午前2時を回っていた。
部屋は真っ暗で、窓の外から聞こえる虫の音だけが、不気味に静寂を破っていた。ぼんやりと天井を見上げていると、視界の端で何かが動いたような気がした。目を凝らしてみると、部屋の隅に、青白い光が漂っているのが見えた。
最初は、月の光が窓から差し込んでいるのかと思った。しかし、光は窓の方向とは反対側にあり、しかも、何かが動いているように見えたのだ。じっと見ていると、光が次第に形を現してきた。それは、女性の姿だった。
女性は、白い着物のようなものを着て、床に跪いていた。そして、誰かに向かって、何度も何度も頭を床に打ち付けているのだ。その姿は、まるで深く罪を犯したかのように、必死に謝罪しているようだった。
私は、恐怖と好奇心で体が震えた。一体、何が起きているのだろうか?この女性は、誰に謝っているのだろうか?そして、この青白い光は、一体何なのだろうか?
しばらくの間、私はその光景をじっと見つめていた。女性は、頭を打ち付けるたびに、小さな悲鳴のような声を上げていた。その声は、私の心に深く突き刺さり、恐怖を倍増させた。
やがて、女性は頭を打ち付けるのをやめた。そして、ゆっくりと私の方を向いた。その瞬間、女性の顔は、先ほどまでの悲しげな表情から一変した。鬼のような形相で、私を睨み付けてきたのだ。
その目は、血走っていて、まるで生き物のように光っていた。口元はゆがんでいて、鋭い歯が覗いていた。私は、全身が凍り付いた。この女性は、人間ではないのではないだろうか?
女性の視線は、私を離れなかった。まるで、私の魂を奪おうとするかのように、鋭く突き刺さってきた。私は、恐怖で声を上げることも出来なかった。ただ、じっと女性の顔を見つめ、逃げ出すことも出来ずにいた。
女性は私を睨み付けていた。そして、突然、消え去った。青白い光は、まるで霧のように、ゆっくりと消えていった。
私は、布団の中で震えながら、目を閉じた。何が起きたのか、さっぱり分からなかった。しかし、女性の鬼のような形相は、私の脳裏に焼き付いて離れなかった。
翌日、私は祖母にこの出来事を話そうとした。しかし、言葉が出てこなかった。あまりにも恐ろしい経験だったため、祖母に話せるような状態ではなかったのだ。
それから何年も経ったが、私はあの夜の出来事を忘れることが出来ない。あの女性は、一体何だったのだろうか?今でも、時々、あの青白い光と、女性の鬼のような形相を思い出してしまう。そして、あの夜、私は一体、何を見たのだろうか?と自問自答する。
あの女性は、もしかしたら、私の家の過去に関係している存在なのかもしれない。あるいは、単なる悪夢だったのかもしれない。しかし、あの女性の鬼のような形相は、現実だったと私は信じている。
今でも、真夏の夜になると、あの夜の出来事を思い出してしまう。そして、あの女性が再び現れるのではないかと、恐怖に慄く。あの夜、私は、本当に恐ろしいものを見たのだ。そして、その恐怖は、私の人生に深い影を落とした。
あの夜の出来事以来、私は、暗い場所を歩くのが怖くなった。そして、夜になると、必ず明かりをつけたまま眠るようになった。あの女性の顔は、私の心に深く刻み込まれ、消えることはないだろう。
夕焼けに染まる西の空。沈みゆく太陽は、燃えるような赤色で、まるで血のように空を染めていた。祖母は畑仕事を終え、鍬と熊手を一輪車に載せ、ゆっくりと家路につこうとしていた。その日、空は異様なほどに静まり返っていた。いつもの虫の音さえ聞こえない、不自然な静寂が、祖母の背筋を凍らせた。
西の太陽が地平線に近づき、最後の光を放つその時、北の空に、もう一つの太陽が現れた。それは西の太陽と同じように赤く燃え、同じように巨大だった。二つの太陽は、まるで宇宙の歪みから生まれた双子の怪物のように、空に鎮座していた。
祖母は息を呑んだ。鍬の柄が、手に冷たく感じられた。二つの太陽は、西と北、正反対の方角に位置しながら、同じように燃え上がり、同じように沈んでいく様子を見せていた。それは、まるで、この世の理を嘲笑うかのような、不気味な光景だった。
その日、祖母が目撃したものは、彼女だけのものではなかった。村の多くの人々が、二つの太陽を目撃した。夕暮れの空に浮かぶ二つの太陽は、人々の心に恐怖と畏怖を植えつけた。子供たちは泣き叫び、大人たちは神への祈りをささげた。村全体が、異様な雰囲気に包まれた。
しかし、その光景は、ただ不気味なだけのものではなかった。二つの太陽の間には、奇妙な力が働いていた。それは、時間の流れを歪める力だった。二つの太陽が沈むにつれて、時間の流れが遅くなり、やがて止まった。村の時間は、その場で停止した。
鳥のさえずりも、風の音も、すべてが消え去った。静寂は、より深く、より不気味なものへと変化していった。村の人々は、まるで琥珀の中に閉じ込められた昆虫のように、時間の流れから切り離された。
祖母は、その静寂の中で、何かを感じ取った。それは、深淵からの呼び声のような、冷たい恐怖だった。二つの太陽は、単なる自然現象ではなく、何か恐ろしいものの前兆であることを、祖母は直感的に理解した。
それから数日後、村では奇妙な出来事が起こり始めた。家畜が次々と姿を消し、人々は夜中に奇妙な影を見たと証言した。そして、ついに、村の井戸から、黒い液体が湧き出した。その液体に触れたものは、すべて石化し、動かなくなった。
村は、恐怖と絶望に包まれた。二つの太陽は、村に呪いをかけたのだ。祖母は、その呪いを解く方法を探し求めたが、何も見つからなかった。彼女は、ただ、あの日の二つの太陽、そして、その後に起こった恐ろしい出来事を、心に刻み続けるしかなかった。
それから何年も経った今、祖母は、あの日の二つの太陽を鮮明に覚えている。それは、彼女の人生における、最も恐ろしい、そして、最も忘れられない出来事だった。そして、その記憶は、彼女の子孫へと受け継がれ、村の語り草として語り継がれていくことだろう。二つの太陽の呪いは、村に永遠に刻まれた。その事は日記にも記されていた。
幼い頃から、私は「山の太鼓が聞こえたら、すぐに山を下りなさい」と祖母から言い聞かされていた。山は、村の背後にそびえ立つ、鬱蒼とした深い森に覆われた山。その山には、古くから天狗が住んでいるという伝説があり、太鼓の音が聞こえるのは、雨が降る前触れだとされていた。天狗が、山に暮らす人々への、雨の警告だと。
祖母は、その言い伝えを、まるで生きた歴史のように語ってくれた。村の古老たちが代々語り継いできた、畏怖と敬意が混ざり合った、神聖な物語だった。幼い私は、その話を聞くたびに、山の深い森の中に、大きな太鼓を叩く天狗の姿を想像し、胸がドキドキした。
ある夏の午後、私は友人と二人で、山に登っていた。日差しは強く、汗ばむほどの暑さだった。私たちは、山道を登りながら、雑談をしたり、珍しい花を探したりして、楽しい時間を過ごしていた。
しかし、山の中腹に差し掛かった頃、空気が急に変わった。さっきまでの陽気な雰囲気は消え、静寂が山を覆い始めた。風が吹きつけ、木々がざわめき始めた。そして、遠くから、ぼんやりと、しかし確実に、太鼓の音が聞こえてきた。
最初は、気のせいではないかと思った。しかし、音は次第に大きくなり、私たちの耳に、重く、不気味な響きとして迫ってきた。それは、まるで、巨大な太鼓が、私たちのすぐ近くで叩かれているかのような、生々しい音だった。
「あれ…太鼓の音…」
友人の顔が、青ざめていた。私も、心臓が激しく鼓動し始めた。祖母の言葉が、脳裏に鮮やかに蘇る。太鼓の音…雨の予兆…そして、天狗…
私たちは、恐怖に慄きながら、一目散に山を下り始めた。足元は、ぬかるんでいて滑りやすく、何度も転びそうになった。しかし、太鼓の音は、私たちの背後から、執拗に追いかけてくるように聞こえた。
その音は、単なる太鼓の音ではなかった。それは、私たちの恐怖心を煽る、不気味なリズムだった。まるで、天狗が、私たちを嘲笑うかのように、太鼓を叩き続けているかのようだった。
私たちは、必死に山を下り続けた。しかし、太鼓の音は、一向に小さくなる気配を見せなかった。むしろ、どんどん大きくなり、私たちの耳を震わせるほどになった。
やがて、山から下りきった頃には、空は暗くなり始めていた。そして、私たちが村にたどり着いた直後、激しい雨が降り始めた。まるで、天狗が、太鼓の音で雨を呼び寄せ、私たちを山から追い払ったかのようだった。
その夜、私は、祖母に今日の出来事を話した。祖母は、私の話を静かに聞いて、そして、こう言った。
「天狗は、山を守る神様よ。山に分け入った人間を、雨で試しているのかも知れない。無事に山を下りられたのは、天狗の慈悲だったのよ」
祖母の言葉は、私の恐怖心をいくらか和らげてくれた。しかし、山の太鼓の音は、私の心に、深い影を落としたままだった。
それからというもの、私は、山に近づくことさえ恐れるようになった。あの日の太鼓の音は、単なる雨の予兆ではなかった。それは、天狗からの警告であり、そして、山への畏怖を改めて私に教えてくれた、忘れられない体験だった。
ある日、私は古い村の記録を調べていた。すると、山の太鼓に関する、驚くべき記述を見つけた。それは、天狗の太鼓の音は、単なる雨の予兆ではなく、山に異変が起きた時、あるいは、危険が迫った時に鳴り響く、警告の音だというのだ。
記録には、過去に、山の太鼓が鳴り響いた後、山崩れや、大規模な洪水が発生したという記述もあった。つまり、天狗の太鼓は、単なる迷信ではなく、山に住む人々を守るための、重要な合図だったのだ。
私は、改めて祖母の言葉を思い起こした。祖母は、天狗の太鼓の音を、単なる雨の予兆としてではなく、山からの警告として捉えていた。そして、その警告を無視した者は、必ず災厄に見舞われると、私に教えてくれていたのだ。
山の太鼓の音は、今もなお、私の心に響き続けている。それは、自然の脅威に対する畏敬の念、そして、祖先から受け継がれてきた知恵の大切さを教えてくれる、忘れられない記憶として。