私の祖母は、いわゆる「見える人」だった。幼い頃から、不思議な体験を何度もしていたらしい。何もないところでつまずいた人を見ると、「そこに横たわっている人につまずいたの?」と、周囲を驚かせるようなことを平然と言っていたという。その祖母が、戦後間もない頃、親戚が営む大衆食堂を手伝っていた時の話だ。
当時はまだ貧しく、大衆食堂といっても、今のようないろいろな料理があるわけではなかった。貴重な米や卵を使った料理、シンプルな煮物などが中心だった。若い祖母は、注文を聞いたり、お茶を出したり、厨房が忙しくなると手伝いに駆けつけたりと、忙しく働いていた。
ある日、二人の客が食堂にやってきた。しかし、祖母にはその二人の後ろに、さらに二人の姿が見えたのだ。そのため、祖母は思わず
「4名様、さあ、こちらどうぞ!」
と声をかけた。先に入った二人は、不思議そうに顔を見合わせ、戸惑っている様子だった。
祖母は厨房にいる親戚にこっそり声をかけた。
「お客さん、何人?」
親戚は
「二人だよ!」
と答えた。祖母はもう一度よく見てみた。すると、二人の客の後ろに立っている二人の男性は、明らかに軍服を着た日本兵の姿をしていたのだ。
その日以来、祖母は「見えないもの」を意識するようになった。一人で行動することは避け、誰かと一緒に行動することを心がけるようになったという。祖母は、その日本兵たちが、何らかの未練を抱えてこの世に留まっているのだと感じていたらしい。もしかしたら、戦死した兵士たちで、故郷に帰りたい、あるいは、家族に会いたいという思いが残っているのかもしれない、と祖母は考えていた。
祖母が見たという日本兵の姿は、いつも同じではなかった。時には若い兵士、時には年老いた兵士、時には負傷した兵士など、様々な姿の兵士たちが、祖母の前に現れたという。彼らは、決して祖母に危害を加えることはなかった。ただ、静かにそこに立っているだけだった。しかし、彼らの存在は、祖母にとって大きな負担になっていたことは間違いない。
祖母は、その体験を誰にも話すことはなかった。戦後間もない時代、そんな話をしても、誰も信じてくれないだろうと分かっていたからだ。しかし、時折、私の前で、その話をぽつりぽつりと話すことがあった。それは、まるで、長年抱え込んできた重い秘密を、ようやく打ち明けてくれたかのような、そんな感じだった。
祖母の話には、いつも不思議な空気感が漂っていた。それは、恐怖というよりは、哀愁のような、切ない感情だった。日本兵たちの姿は、祖母にとって、単なる「怖いもの」ではなかったのだ。彼らは、戦争という悲劇の犠牲者であり、今もなお、苦しみの中にいる存在だった。祖母は、彼らを哀れみ、そして、彼らの安らかな眠りを願っていたのだと思う。
祖母は、晩年、その「見える力」が弱まってきて、日本兵の姿を見ることはなくなったという。しかし、戦争の悲劇、そして、その犠牲者たちの魂の安らぎを願う気持ちは、生涯持ち続けていた。
ある日、祖母は私に言った。
「戦争は、本当に恐ろしいものだ。二度と繰り返してはいけない。」
その言葉は、単なる戒めではなく、祖母自身の深い経験と、亡霊たちへの哀悼の念が込められた、重みのある言葉だった。
祖母が亡くなってから、私は時折、あの日本兵たちのことを思い出す。彼らは、今もなお、どこかでさまよっているのだろうか。それとも、祖母が願ったように、安らかな眠りについたのだろうか。私は、彼らの魂の安らぎを、心から願わずにはいられない。
そして、祖母の話から、私は戦争の悲惨さを改めて痛感した。戦争は、人々の命を奪うだけでなく、多くの人の心に深い傷を残す。そして、その傷は、時が経っても、簡単に癒えるものではない。祖母が見た日本兵の亡霊は、戦争の悲劇の象徴であり、私たちに、二度と戦争を起こしてはならないという、強いメッセージを伝えているように感じている。
この物語は、祖母の実体験を基に、ホラー要素を加えて創作したものです。実際には、祖母が見た光景は、もっと曖昧で、言葉で表現できないものだったかもしれません。しかし、この物語を通して、戦争の悲惨さ、そして、亡くなった人々の魂の安らぎを願う祖母の姿を伝えたいと思いました。
古びた箪笥の奥から、埃の匂いと共に、それは現れた。セツ子の形見、小さな布人形。黒髪は艶を失い、白い顔には埃が積もり、まるで長い眠りから覚めたかのような、不気味な静寂を纏っていた。
祖母とセツ子は幼馴染で、姉妹のように仲睦まじかった二人。セツ子の突然死は、祖母にとって計り知れない喪失だった。悲しみに暮れる祖母は、セツ子の家族を訪ね、形見分けを願った。そこで手渡されたのが、この人形だった。
「セツ子が作ったのよ。大事にしてね」
と、セツ子の母は涙ながらに言った。
祖母は人形を大切に家に持ち帰り、箪笥の上に飾った。しかし、家族は皆、人形を気味悪がった。
「不気味だ」
「捨ててしまえ!」
と、囁き合う声が、祖母の耳に突き刺さった。
祖母は、人形を普段誰も出入りしない納戸に置くことにした。薄暗い納戸の隅に置かれた人形は、まるでそこに潜む闇の一部のように見えた。
それから数日後、祖母は恐ろしいことに気が付いた。人形の黒髪が、明らかに伸びていたのだ。数ミリ、いや、数センチも。まるで、生きた髪のように、黒く、艶やかで、不自然なまでに長く伸びていた。
祖母は心臓が凍り付くような恐怖を感じた。納戸に入るのが怖くなり、その扉は閉ざされたままになった。
しかし、恐怖は、祖母を静かに蝕んでいった。夜になると、納戸の方から、かすかなすすり泣くような声が聞こえるようになった。最初は気のせいだと自分に言い聞かせたが、その声は日に日に大きくなり、鮮明になっていった。
ある夜、祖母は眠りから覚めた。耳元で聞こえるすすり泣き。それは、明らかに人間の女性の泣き声だった。恐怖に慄きながら、祖母は声のする方へ、ゆっくりと足を進めた。
納戸の扉の前で、祖母は立ち止まった。冷たい汗が流れ落ち、全身が震えているのがわかった。深呼吸をして、祖母はゆっくりと扉を開けた。
納戸の中は、薄暗い灯りに照らされていた。そして、そこには…
人形は、納戸の隅で、まるで生きているかのように、座っていた。黒髪は、さらに伸びて、床にまで届きそうだった。そして、その白い顔からは、鮮やかな赤い涙が流れ落ち、まるで血の涙のように、床を濡らしていた。
祖母は悲鳴を上げた。それは、恐怖の叫びだった。
翌朝、祖母は、その人形を抱えて、村の古刹を訪れた。老練な宮司は、人形をじっと見つめ、そして、祖母に尋ねた。
「この人形は、そなたのか?」
「はい…亡き友人が作った人形です。形見として…」
祖母は震える声で答えた。
宮司は静かに言った。
「この人形は、自分の家に帰りたがっている。本来の持ち主に返すべきだ。」
祖母の血の気が引いた。人形は、セツ子の魂を宿しているのかもしれない。そう思った祖母は、セツ子の家族に事情を話し、人形を返すことにした。
セツ子の家族は、人形を受け取ると、静かに涙を流した。そして、セツ子の墓前に、人形を供えた。
それからというもの、すすり泣く声は聞こえなくなった。しかし、祖母は、あの血の涙を流す人形の顔を、生涯忘れることはなかった。
納戸の扉は、二度と開かれることはなかった。そして、その中には、永遠に、セツ子の魂が眠っているのかもしれない…と、祖母は静かに祈るように、暮らしていくことになった。
その夜、祖母は夢を見た。セツ子が、笑顔で手を振っている夢を。しかし、その笑顔の奥には、深い悲しみが隠されているように見えた。そして、セツ子は、静かに、こう言った。
「ありがとう…ミズヱ…」
それから何年も経ち、祖母も亡くなった。セツ子の家は、すでに空き家になっていた。しかし、今でも、村の人々の間では、あの血の涙を流す人形の伝説が、語り継がれているという。
かつて、私の祖母の家から程近い場所に、一人暮らしをしていたミヨおばあさんがいました。穏やかで優しい人でしたが、数年前に静かに息を引き取りました。親族は相続を放棄し、ミヨおばあさんが住んでいた家はそのまま放置され、廃屋と化しました。彼らは新しい土地へ移り住み、誰もおばあさんのことを覚えていないかのように、彼女の存在は消え去ったかのようでした。
しかし、祖母は時折、その廃屋の前を通るたびに、奇妙な出来事を経験するようになりました。それは、かすかな、しかし明らかに人の声のような
「うー…。うー……。」
といううめき声です。最初は風の音や動物の鳴き声だろうと片付けていましたが、そのうめき声は、廃屋のすぐ近くでしか聞こえない、明らかに苦しんでいるような声だったのです。
祖母だけでなく、近所の人々も同様の体験をするようになりました。中には、夜中に廃屋の窓から、何かが動いている影を見たという者もいました。その影は、はっきりと人の形をしていたという証言もありました。噂は瞬く間に広がり、廃屋は「ミヨおばあさんの家」として、村の子供たちにとっての肝試しスポットとなりました。
ある日、勇気を出して廃屋に近づいてみた私は、その異様な雰囲気に圧倒されました。朽ち果てた木造の建物は、まるで巨大な牙をむいた獣のように、私を睨みつけているようでした。窓ガラスはほとんど割れており、そこから見える室内は、埃と闇に覆われていました。
「うー…。うー……。」
再び、あのうめき声が聞こえました。今回は、今まで以上に近く、はっきりと私の耳に届きました。恐怖に震えながら、私はゆっくりと廃屋から離れていきました。
その夜、私は奇妙な夢を見ました。夢の中で、私は廃屋の暗闇の中にいました。埃っぽい空気が私の肺を満たし、どこからともなく漂う、生臭いような匂いが私の鼻を突きました。そして、私の目の前に、ミヨおばあさんが現れました。しかし、夢の中の彼女は、生前の穏やかな姿とは全く違っていました。彼女の顔は青ざめ、目は虚ろで、体はまるで糸で吊るされた人形のように、不自然に揺れていました。
「助けて…。」
彼女はかすれた声で、そう呟きました。その声は、日中私が聞いたうめき声と全く同じでした。私は彼女に近づこうとしましたが、彼女の体は次第に透明になり、最後は消え去ってしまいました。
私は目が覚めると、全身汗でびしょ濡れになっていました。夢の内容があまりにもリアルだったため、私は廃屋に再び近づいてみることにしました。しかし、今回は一人で行くのではなく、村の若者数人と一緒に行きました。
私たちは、懐中電灯を手に、廃屋の中に入っていきました。埃っぽい空気と、何とも言えない不気味な静寂に包まれた室内は、予想以上に広大でした。私たちは、部屋の中を注意深く探しましたが、何も見つかりませんでした。
しかし、その時、一人の若者が、古いタンスの引き出しから、一枚の写真を見つけました。それは、若い頃のミヨおばあさんの写真でした。彼女は、写真の中で幸せそうに笑っていました。その笑顔を見て、私は初めて、ミヨおばあさんの魂が、この廃屋に閉じ込められているのではないかと感じました。
もしかしたら、彼女は自分の死を受け入れられず、今もなおこの家で苦しんでいるのかもしれません。彼女は、誰かに助けを求めているのかもしれません。
私たちは、その写真を持ち帰り、ミヨおばあさんの供養をすることにしました。そして、廃屋を解体し、彼女の魂を安らかに眠らせることにしました。
それからというもの、うめき声は聞こえなくなりました。ミヨおばあさんの魂は、ついに安らかな眠りについたのかもしれません。しかし、時折、私はあの廃屋を思い出し、彼女の穏やかな笑顔と、苦しそうなうめき声を同時に思い出します。そして、あの廃屋が、永遠に私の記憶の中に残ることを確信しています。
道端に落ちた封筒。それは、男の人生を根底から覆す、呪われた始まりだった。三十路半ば、職も定まらず、日雇い労働で食いつないでいた男は、空腹と焦燥感に駆られて路地裏を彷徨っていた。そこで見つけたのは、白く擦り切れた封筒。中からは大量の現金と、黒く艶やかな髪の毛が姿を現した。
男は金に目がくらんだ。しかし、その夜から奇妙な出来事が始まる。背筋を凍らせる冷気、かすかな女性の悲鳴、そして、部屋の隅で囁く、かすれた声。それは、封筒に入っていた髪の毛の持ち主、亡くなった娘の霊だった。
男は恐ろしい事実を突きつけられる。この土地には、死者の遺品を拾った者はその死者と「結婚」し、残された家族の面倒を見なければならないという、古くからの風習があったのだ。
男は後悔した。しかし、時すでに遅し。霊は男に憑依し、彼の行動を支配し始めた。
ある日、娘を亡くした老夫婦が男の家に訪ねてきた。彼らは怒りを露わにするどころか、男に深々と頭を下げた。
「娘と結婚したのだから、私たちの面倒を見てください」
と。
男は言葉を失った。現金は使い果たし、逃げ出すこともできない。彼は、霊に操られるまま、亡き娘の両親の面倒を見ることを余儀なくされた。
老夫婦は、娘の死から立ち直れずにいた。男は、彼らのために家事をこなし、畑を耕し、わずかな収入を得るために働きに出た。霊は男の体を蝕み、健康は悪化していったが、男は老夫婦の世話を続けるしかなかった。
男は、老夫婦の悲しみを肌で感じ、娘の面影を老夫婦の顔に見出した。最初は恐怖でしかなかった霊の存在も、次第に、亡き娘の温もりを感じさせるものへと変わっていった。男は、自分が彼女と「結婚」した意味を、少しずつ理解し始めた。
それは、単なる呪いではなく、亡くなった娘の魂が、両親を支えるために男を選んだ、一種の導きだったのかもしれない。男は、霊の囁きを、もはや恐怖ではなく、娘からのメッセージとして受け止めるようになった。
男は、老夫婦と共に生活する中で、少しずつ心を癒されていった。老夫婦も、最初は男を恐れていたが、彼の誠実な態度に心を動かされ、次第に家族のような関係を築いていった。
男は、決して幸せとは言えない人生を送っている。しかし、彼は、自分の選択、そして、亡き娘の霊との「結婚」を通して、何か大切なものを見つけたのだ。それは、金銭では決して得られない、真の繋がりと、贖罪の道だった。
ある日、男は老夫婦と穏やかな時間を過ごしていた。夕陽が差し込む静かな部屋で、男は穏やかな表情で、娘の霊と、そして老夫婦と、静かに暮らしていた。彼の顔には、かつての絶望は影を潜め、静かな安らぎが宿っていた。
廃墟と化した神社の鳥居。朽ち果てた朱色は、まるで血の跡のように、夕闇に滲んでいた。冷たい風が、枯れ枝を擦り合わせる音と共に、不吉な旋律を奏でる。その鳥居の直線上、古びた大衆食堂に隣接する小さな部屋。 薄暗い室内には、湿った土の匂いと、何か古びたものの匂いが混ざり合い、吐き気を催しそうになる。 そこには、若き日の祖母が抱えた、言葉では言い表せない恐怖が、今も深く潜んでいる。
祖母は、活気に満ちた大衆食堂の喧騒とは対照的に、孤独な日々を過ごしていた。親戚の好意とはいえ、間借りの部屋は、まるで監獄のようだった。 窓の外には、廃神社の鳥居が、不気味な影を落としていた。その影は、日中であっても不穏な空気を漂わせ、夜になれば、部屋の隅々にまで忍び寄ってくるようだった。
疲労困憊の祖母は、毎晩のようにその部屋で眠りについた。しかし、眠りは安らぎをもたらすどころか、次第に、耐え難い恐怖へと変わっていった。最初は、かすかな気配、風の音のようなものだった。しかし、それは次第に、明確な存在感を増し、彼女の神経を鋭く刺激するようになった。
それは、まるで、無数の小さな足音、ささやき声、そして冷たい息遣い。 彼女を包み込むように、部屋全体を覆い尽くす、得体の知れない恐怖。 それは、彼女の精神を蝕み、眠りを奪い、彼女を絶望の淵へと突き落とそうとしていた。
そして、忘れられない夜が訪れた。
その日は、特に忙しかった。祖母は、まるで機械のように働き続け、身体中が痛むまで働いた。 それでも、終わらない仕事に追われ、彼女は疲労困憊のまま、部屋に戻った。 布団に倒れ込むように眠りに落ちた瞬間、彼女は意識を失った。
彼女は金縛りに遭ったのだ。
意識ははっきりしているのに、体は全く動かない。 息をすることすら、困難だった。 彼女は、恐怖で身動きが取れず、ただ、闇に目を凝らしていた。 その時、彼女は感じた。 何かが、彼女のすぐそばを通り過ぎていくのを。
それは、一人や二人ではなかった。 無数の何かが、彼女の体をすり抜けるように、部屋の中を駆け巡っていた。 冷たい風が吹きつけ、彼女の肌を凍らせる。 それは、まるで、無数の霊魂が、彼女の周りを渦巻いているかのようだった。
そして、左足のふくらはぎに、鋭い痛みが走った。 何かが、彼女の足を掴んだのだ。 それは、人間の指ではありえない、冷たく、粘り気のある感触だった。 まるで、死者の手のように、冷たく、そして不気味だった。
彼女は、必死に抵抗しようと試みたが、体は全く動かない。 恐怖と絶望が、彼女の心を締め付ける。 しかし、その時、一瞬の隙が生まれた。
金縛りが解けたのだ。
彼女は、本能的に右足を振り上げた。 そして、闇の中に潜む「何か」めがけて、何度も何度も蹴りつけた。 それは、人間の顔ではなかった。 しかし、彼女は、何かがうめき声を上げるのを聞いた気がした。
彼女は、恐怖と怒りに震えながら、闇を蹴り続けた。 気が済むまで、蹴り続けた。 その蹴りの数だけ、彼女の恐怖が、彼女の怒りが、闇の中に響き渡った。
朝になり、彼女は恐る恐る左足のふくらはぎを見た。 そこには、鮮明な、人間の掌のようなアザが、深く、そして不気味に残っていた。 それは、まるで、死者の烙印のようだった。
その日から、祖母は二度と、その部屋に近づくことはなかった。 彼女は、その部屋で、想像を絶する恐怖を体験したのだ。 そして、その恐怖は、彼女の心に、永遠の傷として刻み込まれた。
古ぼけた写真立ての中に、色褪せた笑顔の男がいた。私の祖父。記憶の中に存在しない、遠い存在。彼は私が生まれる約50年前、末期のがんでこの世を去ったという。その死の直前、祖母は不思議な夢を見たという。その夢が、今なお私の心を寒くさせる。
祖父の死期が迫っていた頃、祖母はいつも以上に疲れた様子だった。日中は病院に通い、夜は祖父の看病に追われ、睡眠時間は僅かだった。それでも、彼女は祖父の傍を離れようとはしなかった。彼女の深い愛情と、尽きることのない献身が、その小さな部屋を満たしていた。
そして、祖父の死の前夜。祖母は、いつもと少し違う夢を見たという。それは、生前の祖父の姿そのものだった。病に伏せっていたにもかかわらず、祖父は驚くほど健康そうで、穏やかな笑みを浮かべていた。
夢の中で、祖父は祖母に近づき、静かに語りかけた。
「ありがとうな…。」
それは、短い言葉だった。しかし、その言葉には、深い感謝と、何とも言えない寂しさが込められていたように思えた。祖父は、その言葉を告げると、ゆっくりと消えていった。まるで、薄明かりの中で溶けていく煙のように、痕跡を残さず、消え失せていったのだ。
祖母は、目が覚めた後も、その夢の余韻に浸っていたという。まるで、現実と夢の境目が曖昧になったかのように、祖父の声が耳元で囁いている気がした。そして、その日の夕方、祖父は息を引き取った。
祖母は、その事実を受け止めきれない様子だった。まるで、祖父が夢の中で告げた「ありがとう」という言葉が、現実の別れを予感させていたかのように。
私は、その話を聞いて、背筋が寒くなった。祖父は、生前、祖母に感謝の言葉を伝える機会を逃していたのかもしれない。病に伏せっていた身では、言葉にすることさえままならなかっただろう。だからこそ、彼は夢の中で、祖母に感謝の気持ちを伝えに来たのではないだろうか。
しかし、その夢には、どこか不穏な空気も漂っていた。祖父の笑顔は、確かに優しく穏やかだった。だが、その奥底には、深い闇が潜んでいるようにも感じられた。まるで、生前の苦しみや後悔が、彼の魂に影を落としているかのようだった。
そして、祖父が消えていく様子は、あまりにも不自然だった。まるで、何かが彼を引きずり込んでいるかのように、彼は徐々に透明になり、やがて、完全に消滅してしまったのだ。
その夢は、単なる感謝の言葉ではなかったのかもしれない。それは、祖父からの、最後のメッセージ、あるいは警告だったのではないだろうか。
それからというもの、祖母は、時折、夜中に目を覚ますと、祖父の姿を夢に見るようになったという。それは、いつも同じ夢ではなかった。時には、祖父は笑顔で祖母に語りかけ、時には、怒りや悲しみに満ちた表情で、何かを訴えかけてくることもあったらしい。
祖母は、祖父の魂が、何らかの未練を抱えているのではないかと心配していた。そして、その未練が、彼女を苦しめる原因になっているのではないかと考えていた。
私は、その話を聞くたびに、背筋に冷たいものが走る。祖父の魂は、あの世で安らかに眠っているのだろうか?それとも、何か未解決の問題を抱え、この世に留まっているのだろうか?
約50年前の出来事。私は、その時の状況を全く知らない。しかし、祖母の語る夢の話は、私にとって、想像を絶する恐怖と、深い悲しみを呼び起こすものだった。
祖父の「ありがとう」という言葉。それは、感謝の言葉だったのかもしれない。しかし、同時に、それは、この世に残された者への、警告でもあったのではないだろうか。 あの夢は、単なる夢ではなかった。それは、祖父からの、最後の、そして最も恐ろしいメッセージだったのだ。
雨上がりの神社は、独特の静寂に包まれていた。空気は、杉の香りや土の湿り気を含み、神聖な雰囲気を漂わせていた。しかし、その静寂の裏には、古くからの言い伝えが潜んでいた。
「神社の蜘蛛の巣は壊すな!特に雨上がりに出来た蜘蛛の巣は壊してはいけない」
祖母は、幼い私に何度もそう言い聞かせた。
しかし、子供心に蜘蛛の巣は不快なものだった。粘り気のある糸が、無数に張り巡らされた様は、私にとって恐怖の対象でしかなかった。ある日、神社に参拝した後、傘をさしながら帰路につく途中、雨上がりに作られた巨大な蜘蛛の巣が、私の目の前に現れた。
それは、まるで、巨大な白い幕のように、木々の間を覆い尽くしていた。その複雑で精巧な造形は、確かに畏敬の念を抱かせるものでもあったが、同時に、私の心には不快感が広がった。
祖母からの警告を無視して、私は傘の先で蜘蛛の巣を払い始めた。蜘蛛の巣は、傘に絡みつき、白い糸が私の視界を遮る。不快感と同時に、奇妙な罪悪感のようなものが、私の胸に広がっていった。
蜘蛛の巣を払い終え、視界が開けた時、私は左目に激しい痛みを感じた。まるで、何かが左目に突き刺さったような、鋭い痛みだった。私は、左目を押さえながら、必死に家路を急いだ。
家に着くと、祖母は私の様子を見て、すぐに異変に気づいた。
「あんた、何したの?」
祖母の声は、いつもより厳しく、冷たい。私は、恐怖に震えながら、神社で蜘蛛の巣を壊したことを正直に打ち明けた。
「傘で…神社の蜘蛛の巣を壊しちゃった…」
私の言葉が終わる頃には、左目の痛みは増していた。まるで、何かが私の眼球を食い破ろうとしているかのような、耐え難い痛みだった。
祖母は、私の顔色を見て、事態の深刻さを悟った。彼女は、私を連れて、再び神社へと向かった。
神社の宮司は、年老いた、しかし鋭い眼光を持つ男だった。彼は、私の左目を見て、驚愕の言葉を口にした。
「左目に、蜘蛛が張り付いている…一体、何をしましたか?」
私は、震える声で、神社の蜘蛛の巣を壊したことを説明した。
「傘で…蜘蛛の巣を壊して…」
宮司は、ため息をついた。
「なんということを…。雨上がりの蜘蛛の巣は、特に壊してはいけないのです。蜘蛛は、神様の使い。その蜘蛛を怒らせてしまったのです。」
彼の言葉は、まるで呪いの言葉のように、私の心を深くえぐった。
「蜘蛛の怒りを鎮めなければ、左目は失明してしまうでしょう…」
宮司は、神棚に向かって、真剣な表情で祈祷を始めた。彼の声は、神聖で、そして、どこか恐ろしい響きを持っていた。
「かしこみかしこみ…この子のしたことを許したまえ…怒りを鎮めたまえ…怒りが鎮まらないなら…私の左目を捧げよう…」
宮司の祈りが終わると、不思議なことに、私の左目の痛みは少し和らいだ。しかし、宮司は、私の左目はほとんど見えていないと告げた。
私は、視力が極端に悪くなってしまった。世界は、ぼやけて、何も見えなくなってしまった。
あの日、私は、神様の使いを怒らせてしまったのだ。雨上がりの蜘蛛の巣は、神聖なものであり、決して壊してはいけないものだったのだ。そのことを、私は身をもって知ることになった。
あの神社の、あの巨大な蜘蛛の巣。それは、神聖な空間を守る、神様の使いの営巣だったのだ。 その巣を壊したことで、私は、想像を絶する罰を受けた。 左目の視力は、ほとんど失われた。 それは、私にとって、永遠の罰となった。 そして、その恐怖は、今もなお、私の心に深く刻まれている。 あの神社の、あの蜘蛛の巣は、二度と壊してはならない。 それは、神様の怒りを招く、恐ろしいものなのだ。
あの日見た、巨大な蜘蛛の巣。それは、単なる蜘蛛の巣ではなかった。それは、神聖な空間を守る、神様の使いの営巣であり、その巣を壊したことで、私は、想像を絶する罰を受けたのだ。 失明寸前の左目。 それは、私にとって、永遠の罰となった。 そして、その恐怖は、今もなお、私の心に深く刻まれている。 あの神社の、あの蜘蛛の巣は、二度と壊してはならない。 それは、神様の怒りを招く、恐ろしいものなのだ。 あの日の出来事は、私の人生における、最も恐ろしい記憶として、永遠に残り続けるだろう。
秋の風が冷たい夜、山里の集落に、不思議な行列が現れました。それは狐の嫁入り。無数の狐たちが、提灯を掲げ、笛を吹き鳴らしながら、闇の中をゆっくりと進んでいきます。その幻想的な光景に、人々は畏怖と好奇心を抱きつつ見入っていました。
行列の先頭には、美しく飾り立てられた花嫁狐。純白の毛並みは月の光に照らされ、まるで宝石のように輝いています。しかし、その美しさの裏には、どこか寂しげな表情が感じられました。まるで、自由を奪われた花嫁の悲しみを表現しているかのようでした。傍らにいる新郎狐は、威厳のある姿ながらも、どこかぎこちない様子。花嫁狐への愛情と、一族を背負う重圧が、複雑に絡み合っているようでした。
行列は、村はずれの森へと消えていきました。人々は、その幻想的な光景に見とれながらも、どこか不気味さを感じていました。特に、村の古老である八十路の源爺は、複雑な表情を浮かべていました。狐の嫁入りは、めでたい出来事であると同時に、祟りの前兆ともいわれているからです。源爺の心には、長年この村で生きてきた者としての重みと、自然の神秘に対する畏敬の念が混在していました。過去の経験から、狐の嫁入りは決して軽々しく見てはいけないものだと知っていました。
祖母は、好奇心と恐怖が入り混じった複雑な感情を抱いていました。美しい花嫁狐に目を奪われながらも、源爺の言葉を思い出して、強い不安を感じていました。胸の高鳴りと、背筋を這うような寒さ。少女の心は、相反する感情のせめぎ合いで揺れ動いていました。
その時、行列の中から、一人の男が姿を現しました。それは、村で評判の悪い、借金取りの男、久蔵でした。男は、狐たちに気づかれずに、行列に紛れ込んでいたのです。久蔵は、金に目がくらんで、危険な行為に手を染めていました。しかし、その裏には、借金返済のプレッシャーからくる絶望感と、生きるための必死な思いがありました。
祖母は、その光景を見て、恐怖と驚きで体が震えました。古老の言葉が現実のものとなる瞬間を、目の当たりにしたのです。同時に、久蔵の無謀な行動への怒りや、彼に対する哀れみも感じていました。
数日後、久蔵は、山中で死体となって発見されました。狐の祟りなのか、それとも事故なのか、真相はわかりませんでしたが、村人たちは、狐の嫁入りの恐ろしさを改めて知ることとなりました。特に、祖母は、この出来事をきっかけに、自然の神秘と人間の愚かさ、そして、見えない世界の存在を深く認識することになります。
私の実家は、江戸時代から続く古い家系の家で、曾祖父母が暮らした古い家だ。祖母ではなく、私の父方の伯母、父、叔母、叔父、そしてもう一人の叔父、計五人の叔父叔母たちがこの家で育った。その家は、美しい田園風景の中に佇む、一見普通の家屋だが、その歴史には、拭い去ることのできない暗い影が潜んでいる。その影は、私自身の存在にも、深く関わっている。
曾祖父母の間には三人の子供がいた。しかし、その子供たちは皆、あまりにも残酷な運命を辿った。
最初の子供、長女は生後間もなく、原因不明の高熱に襲われた。最初はただの風邪と思われたが、みるみるうちに熱は上昇し、小さな体は痙攣し始めた。曾祖母は必死に冷まそうとしたが、彼女の腕の中で、赤ちゃんの小さな体は冷たくなっていった。その小さな遺体は、まるで燃え尽きた炭のように黒ずんでおり、曾祖母は、その光景を生涯忘れられなかったという。
二番目の子供、長男は、生後一年ほど経った頃、囲炉裏の火のそばで遊んでいた。冬の寒空の下、囲炉裏の火は家族にとって貴重な暖かさの源だった。しかし、その暖かさが、彼の命を奪うことになった。バランスを崩した彼は、燃え盛る炎の中に真っ逆さまに落ちた。悲鳴も上げる間もなく、彼の小さな体は炎に包まれた。曾祖母と曾祖父は、必死に炎を消そうとしたが、すでに彼の体は、ひどい火傷を負い、見るも無残な姿になっていた。その焼け焦げた皮膚と、絶え間なく続く悲鳴の幻影は、曾祖母の悪夢となり、その後の人生をずっと苦しめたという。
三番目の子供、次男は、大雨の夜に命を落とした。激しい雨は、古くなった家の屋根を容赦なく打ちつけ、あちこちから雨漏りが始まった。心配した次男は、「僕が見てくる!」と、無邪気に外へ飛び出した。しかし、彼は戻ってこなかった。曾祖父母は、必死に彼を探し、ついに屋根裏で見つけたのは、彼の崩れ落ちた、冷たくなった遺体だった。雨漏りの原因を探ろうとした彼は、不運にも屋根から転落し、首の骨を折って即死していた。彼の無残な姿は、曾祖父母の心に深い傷を残した。
三人の子供を失った曾祖父母の悲しみは深く、想像を絶するものであったろう。曾祖父はその後、戦場で命を落とした。残された曾祖母は、深い悲しみに暮れる中、家系の存続を願い、隣村から一人の男を養子に迎えた。その男が、私の祖父である。しかし、私の両親は、その祖父の子供ではない。
祖父と祖母の間には、私の父と叔父叔母たち、五人の子供が生まれた。その子供時代は、曾祖父母の悲劇の影が常に付きまとっていたという。
祖父は、幼い頃から曾祖父母の悲劇を目の当たりにし、その影に怯えながら育った。彼はいつも不安げな表情をし、夜には悪夢にうなされていたという。彼の心には、亡くなった三人の兄姉の亡霊が棲みついていたのかもしれない。
祖父と祖母は、その悲しみを胸に抱えながら、五人の子供たちを育て上げた。しかし、その幸せは長くは続かなかった。祖父は、若くして病に倒れ、この世を去った。ほぼ同時期に、曾祖母も老衰のため亡くなった。
曾祖父母と祖父の死後、実家の周りでは奇妙な出来事が起こるようになった。夜になると、子供の泣き声が聞こえるという噂が村中に広がり、近所の人々は、夜遅くに実家の方角を避けるようになった。
ある日、私は古い蔵を整理していた際に、曾祖父母に関する古い日記を発見した。日記には、曾祖父母の悲しみ、そして三人の子供の死に関する詳細な記述があった。日記によると、子供たちの死は、単なる事故ではなかった可能性があるという記述があった。曾祖母は、子供たちの死後、奇妙な儀式を行っていたらしい。その儀式の内容は、日記からはっきりと読み取ることができなかったが、何か邪悪な力と関係しているようだった。
日記には、曾祖父母が、何らかの超自然的な力に悩まされていたという記述もあった。彼らは、子供たちの死後、頻繁に悪夢にうなされ、精神的に不安定になっていたらしい。日記の最後のページには、曾祖母が、自分の犯した罪を悔い、そして、その罪を償うために、自分の命を絶つことを決意したという記述があった。その後日記は祖父へ、祖父の死後は祖母へ引き継いだが、祖母の死後、そっと棺の中に入れたのだ。
日記を読み終えた後、私は、実家、そして私の家系に、何らかの呪いがかけられているのではないかと考えるようになった。三人の子供の死、そして祖父の早すぎる死、これらはすべて、その呪いの結果ではないだろうか。そして、私自身の存在も、その呪いの連鎖の一部なのかもしれないという恐怖に襲われた。
私は、この呪いを解く方法を探し始めることにした。しかし、その呪いの正体、そしてそれを解く方法は、未だに見つかっていない。実家は、今もなお、その暗い歴史を背負い、静かに佇んでいる。そして、その家には、今もなお、三人の子供の霊が彷徨っているのかもしれない。
この物語は、私の家族の歴史であり、そして、私の運命の一部でもある。私は、この呪われた家系の物語を、いつの日か、完全に解き明かしたいと願っている。しかし、その道のりは、長く険しいものになるだろう。そして、その先に何が待っているのか、私にはまだわからない。
この家は、私の故郷であり、同時に、私にとって最も恐ろしい場所でもあるのだ。この家の歴史は、私自身の歴史と深く関わっている。そして、その歴史は、私の人生に、永遠に影を落とすだろう。