深い森に閉ざされた黒曜村。その村のはずれにそびえ立つ黒曜の古木は、ただの木ではない。それは、幾百年もの間、村に禍々しい呪いを降り注ぎ続けてきた、怨念の塊なのだ。
この呪いの起源は、平安時代へと遡る。黒曜村は、かつて、名を陰陽師・安倍黒耀と称する、謎めいた呪術師が住み着いた地だった。安倍黒耀は、莫大な力を得るため、禁断の儀式を行った。それは、人々の魂を黒曜の古木に繋ぎ止め、その力を吸い取るという、恐ろしい儀式だった。
安倍黒耀は、安倍晴明を彷彿とさせるほどの高い呪術の腕前を持ち、人々からは畏敬の念と恐怖の念を同時に抱かれる存在だった。しかし、その力は、邪悪な目的のために使われた。彼は、莫大な力を得るために、禁断の儀式を繰り返した。
儀式は成功した。黒曜の古木は、安倍黒耀の邪悪な力で、巨大な怨念の器と化した。しかし、安倍黒耀の野望は、そこで終わらなかった。彼は、村人たちの魂を操り、自分自身の永遠の命を手に入れようとした。
しかし、安倍黒耀の企みは、村の娘、キヨによって阻止された。キヨは、安倍黒耀の邪悪な企みを看破し、彼を阻止しようと試みた。激しい闘いの末、キヨは安倍黒耀を倒すことに成功した。しかし、その代償として、彼女は自らの命を落とすこととなった。
安倍黒耀は倒されたが、彼の邪悪な力は、黒曜の古木に宿り続けた。そして、黒曜の古木は、キヨの怨念と、安倍黒耀の邪悪な力が混ざり合い、より強力な呪いへと変貌を遂げた。
呪われた者は、永遠に繰り返す一日を強いられる。それは、安倍黒耀の魂を操る力と、キヨの絶望と後悔が織りなす、恐ろしい悪夢だ。彼らは、安倍黒耀の野望を阻止できなかったキヨの悲しみを、永遠に背負わされるのだ。
この呪いを解くには、キヨの怨念と、安倍黒耀の邪悪な力を、黒曜の古木から断ち切る必要がある。しかし、その方法は、誰も知らない。黒曜の古木は、深淵からの囁きを送り続け、呪われた者たちを永遠の輪廻へと引きずり込む。
黒曜村の古老たちは、この呪いの真実を、ひそかに語り継いでいる。そして、その呪いは、いつの日か、再び誰かを襲うかもしれない。黒曜の古木の黒曜色の影は、村を永遠に覆い続けるのだ。
この村には、古くから伝わる怖い話がある。「歪んだ影」の話だ。夕暮れ時、山裾の集落に影が伸び始める頃、それは現れるという。人々の影ではない、奇妙に歪んだ、まるで生き物のような影が。
私の祖母は、その話をよくしてくれた。祖母は、この村で生まれ育ち、幼い頃から「歪んだ影」の噂を聞いて育ったのだという。
「昔々、この村には、忌み嫌われた男がいたんだ。村はずれの小屋に一人で暮らし、夜な夜な不気味な儀式をしていたとか。ある日、男は姿を消し、小屋は焼けてしまった。それからというもの、夕暮れ時に、男の歪んだ影が村に現れるようになったんだ…」
祖母の話によると、その影は、人の形をしているようで、そうでない。伸び縮みし、形を変え、まるで意志を持っているかのように動くという。そして、影に近づいた者は、皆、行方不明になったという。村人たちは、夕暮れ時には外に出ないように、子供たちには決して一人で外を歩かないようにと、言い伝えてきた。
私が十代の頃、村に新しい家が建った。その家は、村はずれの、かつて忌み嫌われた男が住んでいた小屋の跡地に建てられたものだった。ある日、友達と、その新しい家に忍び込んだ。好奇心と、少しの悪ふざけ心からだった。家の中は、まだ家具も何もない、空っぽの状態だった。薄暗く、静まり返った空間は、どこか不気味で、心臓が少し早くなったのを覚えている。
窓から夕日が差し込み、私たちの影が壁に伸びた。その時だった。壁の隅に、私たちの影とは明らかに違う、奇妙に歪んだ影が伸びていることに気づいた。それは、まるで、生きているかのように、ゆっくりと、しかし確実に動いていた。
その瞬間、全身を凍りつかせるような恐怖が襲ってきた。息が詰まり、口が乾き、手足が震えた。影は、人間の影とは明らかに異なっていた。それは、細長く伸びた指のようなもの、不自然に曲がった腕、そして、まるで何かを覗き込んでいるかのような、不気味な黒色の塊だった。
心臓が胸の中で激しく鼓動し、まるで今にも飛び出してきそうな感覚だった。冷や汗が噴き出し、全身が震え、意識が朦朧としてきた。逃げなければ、と思ったが、足が動かない。恐怖で体が麻痺しているようだった。
友達は、悲鳴を上げた。その声は、私の恐怖をさらに増幅させた。私たちは、一目散に家から逃げ出した。振り返ると、歪んだ影は、私たちを追いかけてくるように、伸びてきていた。その速度は、驚くほど速かった。
その夜、私は悪夢を見た。歪んだ影に追いかけられ、逃げ場のない暗闇の中を永遠にさまよう夢だった。息苦しさ、恐怖、絶望… 夢の中でも、あの不気味な影の動き、形、そして、その冷たい視線を感じていた。
それからというもの、私は夕暮れ時、外に出ることが怖くなった。村はずれの新しい家の方向を見ると、いつも、あの影の気配を感じてしまう。心臓がドキドキし、息が浅くなり、全身に鳥肌が立つ。
最近、村では、また行方不明者が出ているという。村人たちは、噂話をするのをやめた。みんな、恐怖に怯えているのだ。私も、その一人だ。
私は、祖母から聞いた「歪んだ影」の話が、単なる昔話ではないことを確信している。それは、今もこの村に存在し、人々を恐怖に陥れているのだ。そして、私は思う。歪んだ影は、単なる影ではない。それは、忌み嫌われた男の怨念、あるいは、何かもっと恐ろしいものの化身なのかもしれない。
夕暮れが近づき、山裾に影が伸び始める。私は、窓から外を眺める。村は、静かに、そして不気味に沈んでいく。そして、私の心にも、歪んだ影が忍び寄る。その冷たい、不気味な影が、私の心を蝕んでいく。
私は、この村を離れるべきなのかもしれない。しかし、この村には、私の家族、私の故郷がある。私は、この村を、この「歪んだ影」を、どうすればいいのか、わからない。この村の言い伝えは、今も語り継がれ、そして、人々の心に、歪んだ影を落とし続けるだろう。
夏の終わり、お盆の季節。田んぼの稲穂が黄金色に染まり、夕暮れ時は赤とんぼが乱舞する、のどかな山里。そこでは古くから伝わる「村のかくれんぼ」が行われていた。
お盆の祭り、賑やかな太鼓と笛の音も静まり、夜空には満月が輝きはじめた頃、子供たちは集まってくる。年齢もバラバラ、小さなお子さんから中学生くらいの子まで、村の子供たちが皆集まってくるのだ。
「村のかくれんぼ」のルールは簡単だ。日没後、村のあちこちに隠れて、大人たちが子供たちを探す。見つかった子供は、その場でゲームを終了し、一目散に自分の家に帰る。そして、最後まで見つからずに残った子供、つまり「勝ち残り」には、ご褒美が与えられるのだ。
ご褒美の内容は毎年違う。時にはお菓子の詰め合わせ、時にはおもちゃ、時には村の大人たちが手作りしたご馳走など、子供たちにとって魅力的なものばかりだ。
しかし、この「村のかくれんぼ」には、恐ろしい噂があった。
過去、何度か「勝ち残り」が出たことがある。しかし、その子供たちは、その後誰一人として村で姿を見せなかったのだ。まるで、この世から消えたかのように。
最初は単なる噂話として片付けられていた。子供たちは、ご褒美への期待感の方が恐怖心よりも大きかった。しかし、年々「勝ち残り」が出ても、その子が村から消えるという出来事が繰り返されるにつれ、村の子供たちの間にも、少しずつ不安が広がり始めた。
今年の「村のかくれんぼ」も、例年通りに始まった。子供たちは、それぞれが得意な隠れ場所を探し、大人たちは懐中電灯を片手に子供たちを探し回る。
その年の「勝ち残り」は、10歳の少女、よし乃だった。彼女は、誰よりも早く、誰よりも巧みに、大人たちの目を欺き、最後まで見つかることなく、夜が明けるまで隠れ続けた。
ご褒美として、彼女は村の古老から、美しい手彫りの木の人形を贈られた。その人形は、まるで生きているかのように、精巧に作られていた。よし乃はその人形を大事そうに抱きしめ、家に帰っていった。
しかし、翌朝になっても、よし乃は家から出てこなかった。両親が何度呼んでも、返事がない。戸を叩いても、反応がない。
村人たちは、よし乃の家の前に集まり、戸をこじ開けて中に入った。家の中は、物音一つしない。よし乃の姿はどこにもなかった。彼女の部屋には、綺麗に畳まれた布団と、そして、あの美しい木の人形だけが、残されていた。
それからというもの、よし乃は村から完全に消えた。まるで、この世から消え去ったかのように。
村人たちは、恐怖におののいた。よし乃が最後に持っていた木の人形は、まるで呪われたかのように、不気味な光を放っていた。
それから何年も経った今でも、「村のかくれんぼ」は行われている。しかし、子供たちは、以前のような無邪気な笑顔でゲームに参加することはない。彼らの目には、恐怖と不安が混じり合った複雑な表情が浮かんでいる。
そして、毎年、誰かが「勝ち残り」になる。そして、その子供は、村から消えていく。
「村のかくれんぼ」は、もはや子供たちの遊びではなく、村に伝わる恐ろしい儀式と化していた。誰もが、その恐ろしい真実に気づきながらも、誰もが、その呪縛から逃れることができないでいた。満月の夜、村の静寂を破るように、子供たちの泣き声が響き渡る。それは、恐怖の叫びであり、同時に、絶望の叫びでもあった。
誰もが、この恐ろしいゲームの終わりを願っている。しかし、誰も、その方法を知らない。そして、誰も、この呪われた村から逃れることができない。
私の祖母は、いわゆる「見える人」だった。幼い頃から、不思議な体験を何度もしていたらしい。何もないところでつまずいた人を見ると、「そこに横たわっている人につまずいたの?」と、周囲を驚かせるようなことを平然と言っていたという。その祖母が、戦後間もない頃、親戚が営む大衆食堂を手伝っていた時の話だ。
当時はまだ貧しく、大衆食堂といっても、今のようないろいろな料理があるわけではなかった。貴重な米や卵を使った料理、シンプルな煮物などが中心だった。若い祖母は、注文を聞いたり、お茶を出したり、厨房が忙しくなると手伝いに駆けつけたりと、忙しく働いていた。
ある日、二人の客が食堂にやってきた。しかし、祖母にはその二人の後ろに、さらに二人の姿が見えたのだ。そのため、祖母は思わず
「4名様、さあ、こちらどうぞ!」
と声をかけた。先に入った二人は、不思議そうに顔を見合わせ、戸惑っている様子だった。
祖母は厨房にいる親戚にこっそり声をかけた。
「お客さん、何人?」
親戚は
「二人だよ!」
と答えた。祖母はもう一度よく見てみた。すると、二人の客の後ろに立っている二人の男性は、明らかに軍服を着た日本兵の姿をしていたのだ。
その日以来、祖母は「見えないもの」を意識するようになった。一人で行動することは避け、誰かと一緒に行動することを心がけるようになったという。祖母は、その日本兵たちが、何らかの未練を抱えてこの世に留まっているのだと感じていたらしい。もしかしたら、戦死した兵士たちで、故郷に帰りたい、あるいは、家族に会いたいという思いが残っているのかもしれない、と祖母は考えていた。
祖母が見たという日本兵の姿は、いつも同じではなかった。時には若い兵士、時には年老いた兵士、時には負傷した兵士など、様々な姿の兵士たちが、祖母の前に現れたという。彼らは、決して祖母に危害を加えることはなかった。ただ、静かにそこに立っているだけだった。しかし、彼らの存在は、祖母にとって大きな負担になっていたことは間違いない。
祖母は、その体験を誰にも話すことはなかった。戦後間もない時代、そんな話をしても、誰も信じてくれないだろうと分かっていたからだ。しかし、時折、私の前で、その話をぽつりぽつりと話すことがあった。それは、まるで、長年抱え込んできた重い秘密を、ようやく打ち明けてくれたかのような、そんな感じだった。
祖母の話には、いつも不思議な空気感が漂っていた。それは、恐怖というよりは、哀愁のような、切ない感情だった。日本兵たちの姿は、祖母にとって、単なる「怖いもの」ではなかったのだ。彼らは、戦争という悲劇の犠牲者であり、今もなお、苦しみの中にいる存在だった。祖母は、彼らを哀れみ、そして、彼らの安らかな眠りを願っていたのだと思う。
祖母は、晩年、その「見える力」が弱まってきて、日本兵の姿を見ることはなくなったという。しかし、戦争の悲劇、そして、その犠牲者たちの魂の安らぎを願う気持ちは、生涯持ち続けていた。
ある日、祖母は私に言った。
「戦争は、本当に恐ろしいものだ。二度と繰り返してはいけない。」
その言葉は、単なる戒めではなく、祖母自身の深い経験と、亡霊たちへの哀悼の念が込められた、重みのある言葉だった。
祖母が亡くなってから、私は時折、あの日本兵たちのことを思い出す。彼らは、今もなお、どこかでさまよっているのだろうか。それとも、祖母が願ったように、安らかな眠りについたのだろうか。私は、彼らの魂の安らぎを、心から願わずにはいられない。
そして、祖母の話から、私は戦争の悲惨さを改めて痛感した。戦争は、人々の命を奪うだけでなく、多くの人の心に深い傷を残す。そして、その傷は、時が経っても、簡単に癒えるものではない。祖母が見た日本兵の亡霊は、戦争の悲劇の象徴であり、私たちに、二度と戦争を起こしてはならないという、強いメッセージを伝えているように感じている。
この物語は、祖母の実体験を基に、ホラー要素を加えて創作したものです。実際には、祖母が見た光景は、もっと曖昧で、言葉で表現できないものだったかもしれません。しかし、この物語を通して、戦争の悲惨さ、そして、亡くなった人々の魂の安らぎを願う祖母の姿を伝えたいと思いました。
古びた箪笥の奥から、埃の匂いと共に、それは現れた。セツ子の形見、小さな布人形。黒髪は艶を失い、白い顔には埃が積もり、まるで長い眠りから覚めたかのような、不気味な静寂を纏っていた。
祖母とセツ子は幼馴染で、姉妹のように仲睦まじかった二人。セツ子の突然死は、祖母にとって計り知れない喪失だった。悲しみに暮れる祖母は、セツ子の家族を訪ね、形見分けを願った。そこで手渡されたのが、この人形だった。
「セツ子が作ったのよ。大事にしてね」
と、セツ子の母は涙ながらに言った。
祖母は人形を大切に家に持ち帰り、箪笥の上に飾った。しかし、家族は皆、人形を気味悪がった。
「不気味だ」
「捨ててしまえ!」
と、囁き合う声が、祖母の耳に突き刺さった。
祖母は、人形を普段誰も出入りしない納戸に置くことにした。薄暗い納戸の隅に置かれた人形は、まるでそこに潜む闇の一部のように見えた。
それから数日後、祖母は恐ろしいことに気が付いた。人形の黒髪が、明らかに伸びていたのだ。数ミリ、いや、数センチも。まるで、生きた髪のように、黒く、艶やかで、不自然なまでに長く伸びていた。
祖母は心臓が凍り付くような恐怖を感じた。納戸に入るのが怖くなり、その扉は閉ざされたままになった。
しかし、恐怖は、祖母を静かに蝕んでいった。夜になると、納戸の方から、かすかなすすり泣くような声が聞こえるようになった。最初は気のせいだと自分に言い聞かせたが、その声は日に日に大きくなり、鮮明になっていった。
ある夜、祖母は眠りから覚めた。耳元で聞こえるすすり泣き。それは、明らかに人間の女性の泣き声だった。恐怖に慄きながら、祖母は声のする方へ、ゆっくりと足を進めた。
納戸の扉の前で、祖母は立ち止まった。冷たい汗が流れ落ち、全身が震えているのがわかった。深呼吸をして、祖母はゆっくりと扉を開けた。
納戸の中は、薄暗い灯りに照らされていた。そして、そこには…
人形は、納戸の隅で、まるで生きているかのように、座っていた。黒髪は、さらに伸びて、床にまで届きそうだった。そして、その白い顔からは、鮮やかな赤い涙が流れ落ち、まるで血の涙のように、床を濡らしていた。
祖母は悲鳴を上げた。それは、恐怖の叫びだった。
翌朝、祖母は、その人形を抱えて、村の古刹を訪れた。老練な宮司は、人形をじっと見つめ、そして、祖母に尋ねた。
「この人形は、そなたのか?」
「はい…亡き友人が作った人形です。形見として…」
祖母は震える声で答えた。
宮司は静かに言った。
「この人形は、自分の家に帰りたがっている。本来の持ち主に返すべきだ。」
祖母の血の気が引いた。人形は、セツ子の魂を宿しているのかもしれない。そう思った祖母は、セツ子の家族に事情を話し、人形を返すことにした。
セツ子の家族は、人形を受け取ると、静かに涙を流した。そして、セツ子の墓前に、人形を供えた。
それからというもの、すすり泣く声は聞こえなくなった。しかし、祖母は、あの血の涙を流す人形の顔を、生涯忘れることはなかった。
納戸の扉は、二度と開かれることはなかった。そして、その中には、永遠に、セツ子の魂が眠っているのかもしれない…と、祖母は静かに祈るように、暮らしていくことになった。
その夜、祖母は夢を見た。セツ子が、笑顔で手を振っている夢を。しかし、その笑顔の奥には、深い悲しみが隠されているように見えた。そして、セツ子は、静かに、こう言った。
「ありがとう…ミズヱ…」
それから何年も経ち、祖母も亡くなった。セツ子の家は、すでに空き家になっていた。しかし、今でも、村の人々の間では、あの血の涙を流す人形の伝説が、語り継がれているという。
かつて、私の祖母の家から程近い場所に、一人暮らしをしていたミヨおばあさんがいました。穏やかで優しい人でしたが、数年前に静かに息を引き取りました。親族は相続を放棄し、ミヨおばあさんが住んでいた家はそのまま放置され、廃屋と化しました。彼らは新しい土地へ移り住み、誰もおばあさんのことを覚えていないかのように、彼女の存在は消え去ったかのようでした。
しかし、祖母は時折、その廃屋の前を通るたびに、奇妙な出来事を経験するようになりました。それは、かすかな、しかし明らかに人の声のような
「うー…。うー……。」
といううめき声です。最初は風の音や動物の鳴き声だろうと片付けていましたが、そのうめき声は、廃屋のすぐ近くでしか聞こえない、明らかに苦しんでいるような声だったのです。
祖母だけでなく、近所の人々も同様の体験をするようになりました。中には、夜中に廃屋の窓から、何かが動いている影を見たという者もいました。その影は、はっきりと人の形をしていたという証言もありました。噂は瞬く間に広がり、廃屋は「ミヨおばあさんの家」として、村の子供たちにとっての肝試しスポットとなりました。
ある日、勇気を出して廃屋に近づいてみた私は、その異様な雰囲気に圧倒されました。朽ち果てた木造の建物は、まるで巨大な牙をむいた獣のように、私を睨みつけているようでした。窓ガラスはほとんど割れており、そこから見える室内は、埃と闇に覆われていました。
「うー…。うー……。」
再び、あのうめき声が聞こえました。今回は、今まで以上に近く、はっきりと私の耳に届きました。恐怖に震えながら、私はゆっくりと廃屋から離れていきました。
その夜、私は奇妙な夢を見ました。夢の中で、私は廃屋の暗闇の中にいました。埃っぽい空気が私の肺を満たし、どこからともなく漂う、生臭いような匂いが私の鼻を突きました。そして、私の目の前に、ミヨおばあさんが現れました。しかし、夢の中の彼女は、生前の穏やかな姿とは全く違っていました。彼女の顔は青ざめ、目は虚ろで、体はまるで糸で吊るされた人形のように、不自然に揺れていました。
「助けて…。」
彼女はかすれた声で、そう呟きました。その声は、日中私が聞いたうめき声と全く同じでした。私は彼女に近づこうとしましたが、彼女の体は次第に透明になり、最後は消え去ってしまいました。
私は目が覚めると、全身汗でびしょ濡れになっていました。夢の内容があまりにもリアルだったため、私は廃屋に再び近づいてみることにしました。しかし、今回は一人で行くのではなく、村の若者数人と一緒に行きました。
私たちは、懐中電灯を手に、廃屋の中に入っていきました。埃っぽい空気と、何とも言えない不気味な静寂に包まれた室内は、予想以上に広大でした。私たちは、部屋の中を注意深く探しましたが、何も見つかりませんでした。
しかし、その時、一人の若者が、古いタンスの引き出しから、一枚の写真を見つけました。それは、若い頃のミヨおばあさんの写真でした。彼女は、写真の中で幸せそうに笑っていました。その笑顔を見て、私は初めて、ミヨおばあさんの魂が、この廃屋に閉じ込められているのではないかと感じました。
もしかしたら、彼女は自分の死を受け入れられず、今もなおこの家で苦しんでいるのかもしれません。彼女は、誰かに助けを求めているのかもしれません。
私たちは、その写真を持ち帰り、ミヨおばあさんの供養をすることにしました。そして、廃屋を解体し、彼女の魂を安らかに眠らせることにしました。
それからというもの、うめき声は聞こえなくなりました。ミヨおばあさんの魂は、ついに安らかな眠りについたのかもしれません。しかし、時折、私はあの廃屋を思い出し、彼女の穏やかな笑顔と、苦しそうなうめき声を同時に思い出します。そして、あの廃屋が、永遠に私の記憶の中に残ることを確信しています。
道端に落ちた封筒。それは、男の人生を根底から覆す、呪われた始まりだった。三十路半ば、職も定まらず、日雇い労働で食いつないでいた男は、空腹と焦燥感に駆られて路地裏を彷徨っていた。そこで見つけたのは、白く擦り切れた封筒。中からは大量の現金と、黒く艶やかな髪の毛が姿を現した。
男は金に目がくらんだ。しかし、その夜から奇妙な出来事が始まる。背筋を凍らせる冷気、かすかな女性の悲鳴、そして、部屋の隅で囁く、かすれた声。それは、封筒に入っていた髪の毛の持ち主、亡くなった娘の霊だった。
男は恐ろしい事実を突きつけられる。この土地には、死者の遺品を拾った者はその死者と「結婚」し、残された家族の面倒を見なければならないという、古くからの風習があったのだ。
男は後悔した。しかし、時すでに遅し。霊は男に憑依し、彼の行動を支配し始めた。
ある日、娘を亡くした老夫婦が男の家に訪ねてきた。彼らは怒りを露わにするどころか、男に深々と頭を下げた。
「娘と結婚したのだから、私たちの面倒を見てください」
と。
男は言葉を失った。現金は使い果たし、逃げ出すこともできない。彼は、霊に操られるまま、亡き娘の両親の面倒を見ることを余儀なくされた。
老夫婦は、娘の死から立ち直れずにいた。男は、彼らのために家事をこなし、畑を耕し、わずかな収入を得るために働きに出た。霊は男の体を蝕み、健康は悪化していったが、男は老夫婦の世話を続けるしかなかった。
男は、老夫婦の悲しみを肌で感じ、娘の面影を老夫婦の顔に見出した。最初は恐怖でしかなかった霊の存在も、次第に、亡き娘の温もりを感じさせるものへと変わっていった。男は、自分が彼女と「結婚」した意味を、少しずつ理解し始めた。
それは、単なる呪いではなく、亡くなった娘の魂が、両親を支えるために男を選んだ、一種の導きだったのかもしれない。男は、霊の囁きを、もはや恐怖ではなく、娘からのメッセージとして受け止めるようになった。
男は、老夫婦と共に生活する中で、少しずつ心を癒されていった。老夫婦も、最初は男を恐れていたが、彼の誠実な態度に心を動かされ、次第に家族のような関係を築いていった。
男は、決して幸せとは言えない人生を送っている。しかし、彼は、自分の選択、そして、亡き娘の霊との「結婚」を通して、何か大切なものを見つけたのだ。それは、金銭では決して得られない、真の繋がりと、贖罪の道だった。
ある日、男は老夫婦と穏やかな時間を過ごしていた。夕陽が差し込む静かな部屋で、男は穏やかな表情で、娘の霊と、そして老夫婦と、静かに暮らしていた。彼の顔には、かつての絶望は影を潜め、静かな安らぎが宿っていた。
廃墟と化した神社の鳥居。朽ち果てた朱色は、まるで血の跡のように、夕闇に滲んでいた。冷たい風が、枯れ枝を擦り合わせる音と共に、不吉な旋律を奏でる。その鳥居の直線上、古びた大衆食堂に隣接する小さな部屋。 薄暗い室内には、湿った土の匂いと、何か古びたものの匂いが混ざり合い、吐き気を催しそうになる。 そこには、若き日の祖母が抱えた、言葉では言い表せない恐怖が、今も深く潜んでいる。
祖母は、活気に満ちた大衆食堂の喧騒とは対照的に、孤独な日々を過ごしていた。親戚の好意とはいえ、間借りの部屋は、まるで監獄のようだった。 窓の外には、廃神社の鳥居が、不気味な影を落としていた。その影は、日中であっても不穏な空気を漂わせ、夜になれば、部屋の隅々にまで忍び寄ってくるようだった。
疲労困憊の祖母は、毎晩のようにその部屋で眠りについた。しかし、眠りは安らぎをもたらすどころか、次第に、耐え難い恐怖へと変わっていった。最初は、かすかな気配、風の音のようなものだった。しかし、それは次第に、明確な存在感を増し、彼女の神経を鋭く刺激するようになった。
それは、まるで、無数の小さな足音、ささやき声、そして冷たい息遣い。 彼女を包み込むように、部屋全体を覆い尽くす、得体の知れない恐怖。 それは、彼女の精神を蝕み、眠りを奪い、彼女を絶望の淵へと突き落とそうとしていた。
そして、忘れられない夜が訪れた。
その日は、特に忙しかった。祖母は、まるで機械のように働き続け、身体中が痛むまで働いた。 それでも、終わらない仕事に追われ、彼女は疲労困憊のまま、部屋に戻った。 布団に倒れ込むように眠りに落ちた瞬間、彼女は意識を失った。
彼女は金縛りに遭ったのだ。
意識ははっきりしているのに、体は全く動かない。 息をすることすら、困難だった。 彼女は、恐怖で身動きが取れず、ただ、闇に目を凝らしていた。 その時、彼女は感じた。 何かが、彼女のすぐそばを通り過ぎていくのを。
それは、一人や二人ではなかった。 無数の何かが、彼女の体をすり抜けるように、部屋の中を駆け巡っていた。 冷たい風が吹きつけ、彼女の肌を凍らせる。 それは、まるで、無数の霊魂が、彼女の周りを渦巻いているかのようだった。
そして、左足のふくらはぎに、鋭い痛みが走った。 何かが、彼女の足を掴んだのだ。 それは、人間の指ではありえない、冷たく、粘り気のある感触だった。 まるで、死者の手のように、冷たく、そして不気味だった。
彼女は、必死に抵抗しようと試みたが、体は全く動かない。 恐怖と絶望が、彼女の心を締め付ける。 しかし、その時、一瞬の隙が生まれた。
金縛りが解けたのだ。
彼女は、本能的に右足を振り上げた。 そして、闇の中に潜む「何か」めがけて、何度も何度も蹴りつけた。 それは、人間の顔ではなかった。 しかし、彼女は、何かがうめき声を上げるのを聞いた気がした。
彼女は、恐怖と怒りに震えながら、闇を蹴り続けた。 気が済むまで、蹴り続けた。 その蹴りの数だけ、彼女の恐怖が、彼女の怒りが、闇の中に響き渡った。
朝になり、彼女は恐る恐る左足のふくらはぎを見た。 そこには、鮮明な、人間の掌のようなアザが、深く、そして不気味に残っていた。 それは、まるで、死者の烙印のようだった。
その日から、祖母は二度と、その部屋に近づくことはなかった。 彼女は、その部屋で、想像を絶する恐怖を体験したのだ。 そして、その恐怖は、彼女の心に、永遠の傷として刻み込まれた。
古ぼけた写真立ての中に、色褪せた笑顔の男がいた。私の祖父。記憶の中に存在しない、遠い存在。彼は私が生まれる約50年前、末期のがんでこの世を去ったという。その死の直前、祖母は不思議な夢を見たという。その夢が、今なお私の心を寒くさせる。
祖父の死期が迫っていた頃、祖母はいつも以上に疲れた様子だった。日中は病院に通い、夜は祖父の看病に追われ、睡眠時間は僅かだった。それでも、彼女は祖父の傍を離れようとはしなかった。彼女の深い愛情と、尽きることのない献身が、その小さな部屋を満たしていた。
そして、祖父の死の前夜。祖母は、いつもと少し違う夢を見たという。それは、生前の祖父の姿そのものだった。病に伏せっていたにもかかわらず、祖父は驚くほど健康そうで、穏やかな笑みを浮かべていた。
夢の中で、祖父は祖母に近づき、静かに語りかけた。
「ありがとうな…。」
それは、短い言葉だった。しかし、その言葉には、深い感謝と、何とも言えない寂しさが込められていたように思えた。祖父は、その言葉を告げると、ゆっくりと消えていった。まるで、薄明かりの中で溶けていく煙のように、痕跡を残さず、消え失せていったのだ。
祖母は、目が覚めた後も、その夢の余韻に浸っていたという。まるで、現実と夢の境目が曖昧になったかのように、祖父の声が耳元で囁いている気がした。そして、その日の夕方、祖父は息を引き取った。
祖母は、その事実を受け止めきれない様子だった。まるで、祖父が夢の中で告げた「ありがとう」という言葉が、現実の別れを予感させていたかのように。
私は、その話を聞いて、背筋が寒くなった。祖父は、生前、祖母に感謝の言葉を伝える機会を逃していたのかもしれない。病に伏せっていた身では、言葉にすることさえままならなかっただろう。だからこそ、彼は夢の中で、祖母に感謝の気持ちを伝えに来たのではないだろうか。
しかし、その夢には、どこか不穏な空気も漂っていた。祖父の笑顔は、確かに優しく穏やかだった。だが、その奥底には、深い闇が潜んでいるようにも感じられた。まるで、生前の苦しみや後悔が、彼の魂に影を落としているかのようだった。
そして、祖父が消えていく様子は、あまりにも不自然だった。まるで、何かが彼を引きずり込んでいるかのように、彼は徐々に透明になり、やがて、完全に消滅してしまったのだ。
その夢は、単なる感謝の言葉ではなかったのかもしれない。それは、祖父からの、最後のメッセージ、あるいは警告だったのではないだろうか。
それからというもの、祖母は、時折、夜中に目を覚ますと、祖父の姿を夢に見るようになったという。それは、いつも同じ夢ではなかった。時には、祖父は笑顔で祖母に語りかけ、時には、怒りや悲しみに満ちた表情で、何かを訴えかけてくることもあったらしい。
祖母は、祖父の魂が、何らかの未練を抱えているのではないかと心配していた。そして、その未練が、彼女を苦しめる原因になっているのではないかと考えていた。
私は、その話を聞くたびに、背筋に冷たいものが走る。祖父の魂は、あの世で安らかに眠っているのだろうか?それとも、何か未解決の問題を抱え、この世に留まっているのだろうか?
約50年前の出来事。私は、その時の状況を全く知らない。しかし、祖母の語る夢の話は、私にとって、想像を絶する恐怖と、深い悲しみを呼び起こすものだった。
祖父の「ありがとう」という言葉。それは、感謝の言葉だったのかもしれない。しかし、同時に、それは、この世に残された者への、警告でもあったのではないだろうか。 あの夢は、単なる夢ではなかった。それは、祖父からの、最後の、そして最も恐ろしいメッセージだったのだ。