あの日以降、東條くんと顔を合わす度に、にこやかな笑みと共に名前を呼ばれるようになった。彼にとっては何気ないことなのかもしれない。
でも私は男の人にそんなことされる機会滅多になくて、どうしても反応してしまう。その反応を面白がって、彼は私の名前をわざと呼んでいる気がしてならない。こっちは平然を装うので精一杯だっていうのに。
一番大変だったのは莉弥と一緒にいたときだ。「あの人のこともう落としたの?」なんて聞かれてしまって、返事に困った。
大きなため息をひとつ零す。最近は体育の授業で体育祭に向けた競技の練習が増えてきて、学校全体がそわそわしている気がする。もう疲れているというのに、これから体育祭実行委員会の二回目の会議もある。
それはつまり東條くんに会わないといけないということだ。
唯一の救いは、会議が放課後に行われること。前とは違って時間に急かされることがないから、ありがたい。
会議が行われる教室に着いたのはいいものの、早く来すぎたせいでまだ誰もいなかった。
仕方なく前と同じ席に座って、時間が過ぎるのを待つことにした。
机に腕を乗せ、ぼんやりと窓の外を眺める。夕方の光が教室に射し込み、机に長い陰を落とした。誰もいない教室にぽつんといると、余計な事を考えてしまいそうで落ち着かない。
早く誰か来てくれないかな。そう思ったとき、教室のドアが静かに開かれた。
「あれ、先輩早いね」
聞きなれた声に振り向くと、そこにはやっぱり東條くんがいた。今は周りに人がいないからか、タメ口だ。でも今さらそんなところを指摘する気が起きるわけもなかった。
「そういうあんたもね」
「暇だったんで」
「そっか」
視線を合わすのも面倒くさくて、また顔を窓の方へ向ける。東條くんは私の向かい側の席に座ると、肘をついた。
「それで、どんなお題考えたの?」
「……お題?」
不意の問いに思わず固まってしまう。そういえば前の会議のあと、他のペアと役割を決めたんだった。
「その反応、やってないんだ?」
「今から……やろうと思って」
「ふーん」
苦しい言い訳を並べる。目線を泳がせ誤魔化そうとするが、東條くんは意地の悪い笑みを浮かべるだけだった。
「まあ、別にいいよ。代わりに考えて来てあげたから」
「えっ、ほんとに?」
驚いて顔をあげる。まさか考えてきてくれるとは思っていなかった。
「疑うんなら見せてあげるよ。ほら」
彼はポケットから取り出したメモ帳を私に差し出した。そこには確かにお題が書き並べられている。
『担任の先生』『身長180cm以上の人』
『彼氏にしたい人』
「彼氏にしたい人ってアウトじゃない?」
「こういうお題があった方が盛り上がるよ。それに先輩が僕の名前呼んでるとこ、結構絵になると思わない?」
口角を上げて微笑む東條くんの頭をメモ帳で軽く叩く。
「馬鹿言わないで。そんなことするわけないでしょ」
そんなことを言いながら気づけば、顔に熱が集まってきている。それを東條くんに悟られないようにメモ帳を勢いよく押し付けると、彼は薄く笑った。
「照れてんの?」
「照れてない!」
反射的に大きな声を出してしまう。しまったと思ったときにはもう手遅れだ。彼はこの状況を心底楽しんでるような表情をしている。
別に東條くんが好きで顔を赤らめているわけじゃない。ただ、男慣れしていなくてそうなってしまうだけだ。
それなのにこれじゃまるで私が彼の意識してるみたいじゃないか。
「ほんと最悪」
「まあまあ、落ち着いてよ」
「誰のせいだと思ってんの」
その後も私たちが軽い口論を繰り広げていると、他の実行委員が続々と教室に入ってきた。席はあっという間に埋めつくされ、会議が始まった。
それから二時間くらいの話し合いが終わったあと、私たちは借り物競争の担当者でまた集まることにした。
二人は前回の会議が終わったその日に買い出しに行ってくれたらしく、目の前には大量の画用紙が置かれている。
「考えてくれたお題どんどん書いていきましょ!」
「教えてくれたら私たちも手伝いますから」
そう言う彼女たちに甘えて、四人でお題を書いていくことにした。と言っても私はまだ何も考えられていないので、今から即興で考えなければいけない。
頭に浮かんだものをとりあえず片っ端から書いていく。共同作業をしているうちに彼女たちは二人とも私と同じ二年生であることがわかった。
画用紙が埋まり始めたころ、ふと彼女たちが顔を見合わせた。
「ねえ、せっかくだし」
「楽しい話でもしない? 例えば……恋バナとか」
その言葉に書く手がビクリと止まる。
「いいですね、面白そう」
隣にいる東條くんもなぜかノリノリだ。その反応に彼女たちは嬉しそうに目を輝かせる。
一度恋バナを始めた女の子の口は止まることを知らない。ついには東條くんに恋愛相談までし始めた。彼はその一つ一つに丁寧に答えている。
このままいけば私は話さなくて済むかもしれない。そう思った矢先のことだ。東條くんが「そういえば」と声をあげた。
「奈緒先輩は今まで二十人に告白されたことがあるみたいですよ」
全員の視線が私に集まる。嫌な汗が背筋を伝った気がした。
「えっ! そうなの!? 詳しく気を聞かせて」
「奈緒ちゃんってモテるんだね」
案の定、二人は私に興味津々だ。恐る恐る東條くんの方を見ると、彼はニコニコと笑っているだけで助けてくれる気配はない。
「うん、まあね。モテる方かな」
その嘘を口にした途端、喉の奥に何かが引っかかる感じがした。こんなこともう慣れっこのはずなのに。私の嘘を疑うことなく彼女たちは「すごい!」と賞賛の言葉を口にする。
横目で東條くんを見ると、やっぱり彼は笑みを浮かべていた。だけどその目はどこか冷たくて、思わず目を逸らした。
「じゃあさ、初恋はいつ?」
「タイプの人とか教えてほしいな」
話はどんどんと続いていく。私はそれに適当に答えたり、流したりしてその場を凌いだ。ただ東條くんがまた余計なことを言い出さないかだけが気がかりだった。
「君は? えっと東條くんだよね? 初恋はいつなの?」
話の標的が私から彼に移って少しだけ肩の力が抜けた。これで私への質問は終わるかもしれない。
「僕ですか?」
「そうそう、気になる!」
期待に満ちた彼女たちの視線を受けてどう答えるのかと思っていると、東條くんは人差し指を口元に当てて、さらっと言葉を放った。
「……内緒です」
何が内緒だ。何人もの女の子とお金で付き合ってるくせに。そう心の中で悪態をついた。
そんな返事で彼女たちが納得するわけない。次の言葉を聞くまで、私は本気でそう思っていた。
「ミステリアスで結構好きかも」
「なんでもかんでも答えないのってなんかいいよね」
その瞬間、画用紙の上に置いていた自分の指がピクリと跳ねた。
信じられなかった。答えになっていないその答えを受け入れられている事実が。
そのまま会話は進み、気づけば恋バナから別のお題に移っていた。それからしばらくした後、彼女たちは用事があると言って先に帰って行った。
いつもとは違う空気の沈黙に居心地が悪くなる。でも私にはどうしても聞かないといけないことがあった。
「なんであんなこと言ったの?」
「あんなことって?」
わかっているくせに首を傾げる東條くんを軽く睨む。すると、さっきとは打って変わって真剣な表情になった。思わず息を呑む。
こんな表情の彼は今まで見たことがない。
「――先輩、もう嘘つくのやめなよ」
長い前髪から覗く瞳が、私を掴んで離さない。
「……意味わかんない」
咄嗟に目線を逸らす。それでも彼は続きの言葉を放った。
「最後に傷つくのは先輩だよ」
「あんただって嘘ついてるでしょ。さっきだって二人の話、適当に誤魔化して……」
私の言葉に東條くんは首を横に振った。
「僕と先輩とではやり方が違う。僕は自分にも他人にも嘘はついてない。ただ隠してるだけ。それに先輩は――」
それ以上、聞きたくなかった。今まで嘘をつき続けてきた私の心を本当に見透かされてる気がして、彼の言葉を無意識に遮った。
「うるさい! あんたみたいな人に言われたくない!」
そう言い放ったあと、私は教室を飛び出した。
違う。こんなこと言いたかったわけじゃないのに。理由はわからないけど、東條くんが私を想って言ってくれたのはわかる。
でも怖かった。今までつくりあげてきた自分を壊されるのが。
涙で頬が濡れる。拭っても拭っても、また溢れてくる。ついには嗚咽まで漏れてきた。
校舎の廊下を駆ける。どこへ行くかなんて決めてない。ただ、この胸のざわめきから逃れたかった。
気づけば、校門まで来ていた。涙で滲んだ視界の先には、憎たらしいほど綺麗な月が浮かんでいる。
そよ風が私の涙を撫でる。少しは落ち着くかと思ったが、まだ心の中はぐちゃぐちゃだ。
「もう帰ろ……」
独り言をボソッと呟き、帰路につく。莉弥からの連絡通知がスマホに何件かきていたのが見えたけど、今はどうしても開く気になれなかった。
でも私は男の人にそんなことされる機会滅多になくて、どうしても反応してしまう。その反応を面白がって、彼は私の名前をわざと呼んでいる気がしてならない。こっちは平然を装うので精一杯だっていうのに。
一番大変だったのは莉弥と一緒にいたときだ。「あの人のこともう落としたの?」なんて聞かれてしまって、返事に困った。
大きなため息をひとつ零す。最近は体育の授業で体育祭に向けた競技の練習が増えてきて、学校全体がそわそわしている気がする。もう疲れているというのに、これから体育祭実行委員会の二回目の会議もある。
それはつまり東條くんに会わないといけないということだ。
唯一の救いは、会議が放課後に行われること。前とは違って時間に急かされることがないから、ありがたい。
会議が行われる教室に着いたのはいいものの、早く来すぎたせいでまだ誰もいなかった。
仕方なく前と同じ席に座って、時間が過ぎるのを待つことにした。
机に腕を乗せ、ぼんやりと窓の外を眺める。夕方の光が教室に射し込み、机に長い陰を落とした。誰もいない教室にぽつんといると、余計な事を考えてしまいそうで落ち着かない。
早く誰か来てくれないかな。そう思ったとき、教室のドアが静かに開かれた。
「あれ、先輩早いね」
聞きなれた声に振り向くと、そこにはやっぱり東條くんがいた。今は周りに人がいないからか、タメ口だ。でも今さらそんなところを指摘する気が起きるわけもなかった。
「そういうあんたもね」
「暇だったんで」
「そっか」
視線を合わすのも面倒くさくて、また顔を窓の方へ向ける。東條くんは私の向かい側の席に座ると、肘をついた。
「それで、どんなお題考えたの?」
「……お題?」
不意の問いに思わず固まってしまう。そういえば前の会議のあと、他のペアと役割を決めたんだった。
「その反応、やってないんだ?」
「今から……やろうと思って」
「ふーん」
苦しい言い訳を並べる。目線を泳がせ誤魔化そうとするが、東條くんは意地の悪い笑みを浮かべるだけだった。
「まあ、別にいいよ。代わりに考えて来てあげたから」
「えっ、ほんとに?」
驚いて顔をあげる。まさか考えてきてくれるとは思っていなかった。
「疑うんなら見せてあげるよ。ほら」
彼はポケットから取り出したメモ帳を私に差し出した。そこには確かにお題が書き並べられている。
『担任の先生』『身長180cm以上の人』
『彼氏にしたい人』
「彼氏にしたい人ってアウトじゃない?」
「こういうお題があった方が盛り上がるよ。それに先輩が僕の名前呼んでるとこ、結構絵になると思わない?」
口角を上げて微笑む東條くんの頭をメモ帳で軽く叩く。
「馬鹿言わないで。そんなことするわけないでしょ」
そんなことを言いながら気づけば、顔に熱が集まってきている。それを東條くんに悟られないようにメモ帳を勢いよく押し付けると、彼は薄く笑った。
「照れてんの?」
「照れてない!」
反射的に大きな声を出してしまう。しまったと思ったときにはもう手遅れだ。彼はこの状況を心底楽しんでるような表情をしている。
別に東條くんが好きで顔を赤らめているわけじゃない。ただ、男慣れしていなくてそうなってしまうだけだ。
それなのにこれじゃまるで私が彼の意識してるみたいじゃないか。
「ほんと最悪」
「まあまあ、落ち着いてよ」
「誰のせいだと思ってんの」
その後も私たちが軽い口論を繰り広げていると、他の実行委員が続々と教室に入ってきた。席はあっという間に埋めつくされ、会議が始まった。
それから二時間くらいの話し合いが終わったあと、私たちは借り物競争の担当者でまた集まることにした。
二人は前回の会議が終わったその日に買い出しに行ってくれたらしく、目の前には大量の画用紙が置かれている。
「考えてくれたお題どんどん書いていきましょ!」
「教えてくれたら私たちも手伝いますから」
そう言う彼女たちに甘えて、四人でお題を書いていくことにした。と言っても私はまだ何も考えられていないので、今から即興で考えなければいけない。
頭に浮かんだものをとりあえず片っ端から書いていく。共同作業をしているうちに彼女たちは二人とも私と同じ二年生であることがわかった。
画用紙が埋まり始めたころ、ふと彼女たちが顔を見合わせた。
「ねえ、せっかくだし」
「楽しい話でもしない? 例えば……恋バナとか」
その言葉に書く手がビクリと止まる。
「いいですね、面白そう」
隣にいる東條くんもなぜかノリノリだ。その反応に彼女たちは嬉しそうに目を輝かせる。
一度恋バナを始めた女の子の口は止まることを知らない。ついには東條くんに恋愛相談までし始めた。彼はその一つ一つに丁寧に答えている。
このままいけば私は話さなくて済むかもしれない。そう思った矢先のことだ。東條くんが「そういえば」と声をあげた。
「奈緒先輩は今まで二十人に告白されたことがあるみたいですよ」
全員の視線が私に集まる。嫌な汗が背筋を伝った気がした。
「えっ! そうなの!? 詳しく気を聞かせて」
「奈緒ちゃんってモテるんだね」
案の定、二人は私に興味津々だ。恐る恐る東條くんの方を見ると、彼はニコニコと笑っているだけで助けてくれる気配はない。
「うん、まあね。モテる方かな」
その嘘を口にした途端、喉の奥に何かが引っかかる感じがした。こんなこともう慣れっこのはずなのに。私の嘘を疑うことなく彼女たちは「すごい!」と賞賛の言葉を口にする。
横目で東條くんを見ると、やっぱり彼は笑みを浮かべていた。だけどその目はどこか冷たくて、思わず目を逸らした。
「じゃあさ、初恋はいつ?」
「タイプの人とか教えてほしいな」
話はどんどんと続いていく。私はそれに適当に答えたり、流したりしてその場を凌いだ。ただ東條くんがまた余計なことを言い出さないかだけが気がかりだった。
「君は? えっと東條くんだよね? 初恋はいつなの?」
話の標的が私から彼に移って少しだけ肩の力が抜けた。これで私への質問は終わるかもしれない。
「僕ですか?」
「そうそう、気になる!」
期待に満ちた彼女たちの視線を受けてどう答えるのかと思っていると、東條くんは人差し指を口元に当てて、さらっと言葉を放った。
「……内緒です」
何が内緒だ。何人もの女の子とお金で付き合ってるくせに。そう心の中で悪態をついた。
そんな返事で彼女たちが納得するわけない。次の言葉を聞くまで、私は本気でそう思っていた。
「ミステリアスで結構好きかも」
「なんでもかんでも答えないのってなんかいいよね」
その瞬間、画用紙の上に置いていた自分の指がピクリと跳ねた。
信じられなかった。答えになっていないその答えを受け入れられている事実が。
そのまま会話は進み、気づけば恋バナから別のお題に移っていた。それからしばらくした後、彼女たちは用事があると言って先に帰って行った。
いつもとは違う空気の沈黙に居心地が悪くなる。でも私にはどうしても聞かないといけないことがあった。
「なんであんなこと言ったの?」
「あんなことって?」
わかっているくせに首を傾げる東條くんを軽く睨む。すると、さっきとは打って変わって真剣な表情になった。思わず息を呑む。
こんな表情の彼は今まで見たことがない。
「――先輩、もう嘘つくのやめなよ」
長い前髪から覗く瞳が、私を掴んで離さない。
「……意味わかんない」
咄嗟に目線を逸らす。それでも彼は続きの言葉を放った。
「最後に傷つくのは先輩だよ」
「あんただって嘘ついてるでしょ。さっきだって二人の話、適当に誤魔化して……」
私の言葉に東條くんは首を横に振った。
「僕と先輩とではやり方が違う。僕は自分にも他人にも嘘はついてない。ただ隠してるだけ。それに先輩は――」
それ以上、聞きたくなかった。今まで嘘をつき続けてきた私の心を本当に見透かされてる気がして、彼の言葉を無意識に遮った。
「うるさい! あんたみたいな人に言われたくない!」
そう言い放ったあと、私は教室を飛び出した。
違う。こんなこと言いたかったわけじゃないのに。理由はわからないけど、東條くんが私を想って言ってくれたのはわかる。
でも怖かった。今までつくりあげてきた自分を壊されるのが。
涙で頬が濡れる。拭っても拭っても、また溢れてくる。ついには嗚咽まで漏れてきた。
校舎の廊下を駆ける。どこへ行くかなんて決めてない。ただ、この胸のざわめきから逃れたかった。
気づけば、校門まで来ていた。涙で滲んだ視界の先には、憎たらしいほど綺麗な月が浮かんでいる。
そよ風が私の涙を撫でる。少しは落ち着くかと思ったが、まだ心の中はぐちゃぐちゃだ。
「もう帰ろ……」
独り言をボソッと呟き、帰路につく。莉弥からの連絡通知がスマホに何件かきていたのが見えたけど、今はどうしても開く気になれなかった。



