どうか、お願いです。
 私に、あの漆黒の闇に生きる異形の者たちに立ち向かう勇気をください。
 
 ◇

「この下手くそ! 髪ひとつまともに結べないの!?」

 バシンと頬を打ちつけられた茅乃(かやの)は、ジンジンと熱くなる痛みに歯を食いしばって耐えた。

「も、申し訳ありません……」

 感情を揺らさぬように注意しながら、畳に手をつき頭を下げる。
 ここで悲鳴でも上げようものなら、従姉妹の撫子(なでしこ)から更に痛めつけられるのは目に見えている。

「あーあ。貴女のせいで楽しい気分が本当に台無しだわ」

 紅をさした撫子の薔薇色の唇が醜く歪む。
 台無しだと残念そうな口振りの割には、実に楽しげだ。
 クルンと上を向いた睫毛、スッとのびた鼻梁。丸みを帯びた卵型の輪郭。
 舶来物の人形のようだと称される彼女の色白の顔も、茅乃を痛ぶる大義名分ができたると醜悪なものに変わる。
 先ほど受けた平手の理由も理不尽なものだった。
 女学校の友人と観劇に出かけるという彼女の髪を結い上げている最中、いきなり「痛い!」と悲鳴が上がった。
 次の瞬間には、撫子の手が茅乃の頬を打っていた。
 どれだけ細心の注意を払っていても、彼女は重箱の隅をつつくように、至らぬ点を挙げ連ねては、茅乃を打ち据える格好の理由を探しだすのだ。
 二週間前は友禅の着物の裾が汚れていると足蹴にされた。
 松竹梅をあしらった金糸銀糸が煌びやかな蘇芳色の着物は、撫子お気に入りの一枚だ。
 取り扱いには万全を期していたはずなのに、不手際を責められ感情に任せて怒鳴られてしまった。
 このときは蹴られた脛には大きな痣ができて、一週間治らなかった。
 その前は、七宝柄のリボンの端がほつれていると言いがかりをつけられ、茶を頭から浴びせられた。
 幸いなことに冷めていたので火傷こそしなかったが、ぐっしょりと濡れた髪と着物を乾かす時間も与えられず夜まで凍える思いをした。

「お父様がなぜ貴女のような『出来損ない』をこの屋敷から追い出さないのか、本当に理解できないわ」

 撫子はそう言うと、鏡台の上においた椿油の瓶を手に取り、目の前でわざと逆さにしてみせた。
 瓶からとろりと油が垂れていき、見るみるうちに畳に大きな染みができていく。

「私が帰るまでに片付けておきなさい」

 撫子は鈴が震えるような声でクスクスと高らかに笑うと、障子を開け放ち、着物の裾を翻しながら板張りの廊下を歩いていった。
 足音が完全にしなくなったのを確認し、茅乃はようやく顔を上げる。

「あ、あの……。か、茅乃さま……」

 今にも泣き出しそうな顔で茅乃を見つめ、か細い声で話しかけてきたのは、屋敷に仕える女中のひとり、麻美(あさみ)だ。
 叩かれた頬をスッと撫で、グッと顎を引き、無理やり笑顔を作り出す。

「平気よ、これぐらい。貴女も誰かに見られないうちに早く行きなさい」

 そう注意すると、麻美は何かを堪えるように唇を噛み締めてから軽く頭を下げ、茅乃の言う通りその場から立ち去った。
 パタパタと走り去っていく彼女の背中を黙って見送る。
 使用人たちは茅乃との会話を禁じられている。
 話をしていたことが、万が一撫子の耳に入ったら麻美まで処罰を受けてしまう。
 辛い思いをするのは自分だけで充分だ。

(このぐらいで済んでよかったわ)

 気に入らないなら他の使用人を指名すればいいのに、撫子はいつも茅乃にばかり用事を言いつける。
 そして、事あるごとに辛く当たるのだ。
 畳の掃除ぐらいで済まされるのは、まだ軽い部類。
 ひどいときには、朝まで納屋に閉じ込められたり、食事を抜かれる場合もある。
 嵐が過ぎ去り、茅乃は畳に溢された椿油を丁寧に拭き取り始めた。
 豊かな椿の香りが鼻の奥をツーンと突き刺していく。
 下を向きながら目地をひとつひとつ拭き上げる度に、惨めな気持ちに襲われる。
 それでも涙は零さない。自分のために流す涙はとうの昔に枯れ果てている。

(お父さま、お母さま……)

 同じ一色家に名を連ねるものとして生まれたはずなのに、撫子と茅乃の扱いは天と地ほどに異なる。
 撫子が我が物顔で何不自由なく暮らす一方、茅乃は使用人たちと同じ小豆色の粗末な木綿の着物を着て屋敷の雑事をこなしている。
 鏡台に映るみすぼらしい姿と目が合い、ため息をつきたくなる。
 ろくに髪も梳かせず、肌からは艶が失われ、水仕事で手も荒れている。
 朝から晩まで労働で酷使された身体はますます痩せ細るばかりだ。
(撫子さんが言う通り私は『出来損ない』だわ……)
 茅乃は情けない己の姿を隠すように、使い終わった鏡台に布をかけたのだった。


 四季が目まぐるしく移り変わる自然豊かな国、東蓉国(とうようこく)
 四方を海に囲まれた穏やかな気候は多くの生命を育んできた一方で、人ならざる異形のものにまでその恩恵を与えた。
 異形の生き物――それらは禍つ者(まがつもの)と呼ばれている。
 彼らはこの地に生きるあらゆる生き物に擬態し、陽があるときは影に潜み、夜の闇が辺りを覆い尽くすと活動を始める。
 あるときは四つ足の獣で地を駆け、あるときは羽を持つ鳥になり空を舞っては、人間に襲いかかりその生き血をすすった。
 しかし、彼らの隆盛は長くは続かなかった。
 禍つ者の脅威に晒され始めると同時に、この地に巫力(ふりょく)と呼ばれる異能を持つ人間が現れ始めたのだ。
 巫力を持つ異能者たち様々な形で禍つ者を退け、ときには討ち祓った。
 こうして、数多の尊敬と畏怖を集めた異能者たちは次第に支配階級へと押し上げられ、持たざる者たちを統治するようになった。
 東蓉国の首都に屋敷を構える一色(いっしき)家は禍つ者を祓う巫具(ふぐ)――巫珠刀(ふじゅとう)を自在に生み出せる【(さや)の乙女】を代々、輩出してきた。
 従姉妹の撫子が生み出す巫珠刀――白梅(はくばい)は真昼の太陽かと見紛うほどの眩い光りを放つ。
 巫珠刀を生み出せるのは一族の中でもほんの数人。
 それ故に、撫子はどんな傲慢な振る舞いもしてもたちまち許されるのだった。

(疲れた……)

 その日の仕事を終えた茅乃は、屋敷の裏手にある自室として与えられた茅葺の粗末な庭師小屋に戻ってきた。
 小屋の中には使い古された布団がひと組。
 その横に置かれたところどころ破れた桑折(こおり)が茅乃の持ち物のすべてだ。
 ひとりになると緊張の糸が解け、肩の力が抜けていくのがわかった。
 立て付けが悪く扉を閉めていても常に隙間風にさらされるが、他人に気を遣わなくてもいいひとり部屋が与えられたのは茅乃にとっては好都合だった。
 茅乃は後ろ手で戸を閉めると、目を瞑り手のひらを上に向け、何もない宙に向かってそっと呟いた。

黒曜(こくよう)

 その名を呼べば、凛と空気が張り詰める。
 次の瞬間、一陣の風が三つ編みにした髪をなびかせる。
 ずしりと重たい感触が手のひらにのしかかってから目を開ければ、そこには刀がひと振り。
 茅乃は鍔を親指で上げ柄を握ると、飾りのない太刀拵の黒い鞘から刀を抜いた。
 鞘と同じく刀身は黒。主の銘はなく、うねりのある波のごとき刃文までもが、墨に浸したかのような独特の艶を持っている。
 本来なら巫力を帯びた刀身は、撫子の白梅のように白く光り輝くはずである。
 しかし、茅乃の生み出す巫珠刀はその真逆。
 五歳のときに黒曜を顕現できるようになってから、いくら力をこめても黒いままだった。
 その上、黒曜には禍つ者を祓う力がまったくなかったのだ。
 ――出来損ないと言われても仕方ない。
 茅乃は才能あふれる従姉妹の撫子と比較され、一族の皆から嘲笑を浴びせられた。
 耐えられたのは優しい両親がいつも守ってくれたからだ。
 そんな茅乃の運命が変わったのは、五年前。
 
『茅乃! 逃げなさい!』
『お父さま!』
『早くお行きなさい!』
『お母さま!』

 当時、茅乃たち親子が住んでいた屋敷が禍つ者に襲撃されたのだ。
 茅乃を逃すため禍つ者に立ち塞がった父と母の命の灯火はあっけなく失われた。
 その日、同時多発的に起こった禍つ者の襲来は未曾有の悲劇をいくつも生み出し、後に『禍天の災』と呼ばれる。
 愛する両親が亡くなり、茅乃は伯父のもとに身を寄せることになった。
 ところが、屋敷にやって来るやいなや持ち物をすべて取り上げられ、この庭師小屋に押し込められたのだ。
 
『鞘の乙女は撫子だけで充分だ! 出来損ないなど、一色家の家格が下がる!』

 一色家の当主である伯父は家名をなによりも重んじていた。出来損ないの鞘の乙女など、存在してはならないのだ。
 それが、たとえ実の姪であっても。
 
『そうよ。鞘の乙女は私だけでいいの』

 一色家に鞘の乙女はふたりもいらない。
 持て囃されるのは自分だけでいいと、伯父同様、撫子も茅乃が同じ鞘の乙女であることに憤りを感じている。
 屋敷内の序列の頂点に君臨する二人から疎んじられた茅乃の扱いはこれまで惨憺たるものだった。
 それでも、まだ追い出されないのは、利用価値があると思われているからだろう。
 出来損ないの黒刃の鞘の乙女でも、なにかに使えるかもしれないと、そのときがやってくるまで飼い殺しにするつもりなのだ。

「私に残されたのは、黒曜とこの身体だけね……」

 茅乃はひとりそっと呟いた。
 もうすぐ両親を失ってから五回目の春がやってくる。
 茅乃は黒曜を元通りに鞘にしまうと、その夜は身体の中に戻すことなく抱きしめながら眠りについた。
 無機質な鉄の塊は温もりを与えてくれるわけではないのに、なぜか心が慰められていく。
 茅乃は今日、十八歳になった。
 東蓉国で十八歳は成人となる晴れの日とされ、盛大に祝うのが普通だ。
 しかし、茅乃には祝ってくれる人は誰もいなかった。

 ◇

「撫子」

 伯父が上機嫌で撫子のもとにやってきたのは、茅乃の誕生日から三日後のことだった。

「なあに、お父さま」

 茅乃に髪を梳かしてもらっていた撫子が甘ったるい猫撫で声で呼びかけに応えれば、だらしなく目尻が下がる。
 伯父にとって撫子は自慢の娘。目に入れても痛くないほどの可愛がりようだ。
 
「いい知らせだ。来週、柳生(やぎゅう)家の皆様が我が屋敷に巫珠刀の見分においでなさる」
「もしかして、詩恩(しおん)様がいらっしゃるの!?」
「ああ、そうだ。きっとお前ならご長男の詩恩様に見初めていただけるさ」
「ああ……。ついにこの日がやって来たのね!」
 
 撫子は感極まったように、うっとりと目を細めた。
 
「詩恩様を射止めるいい機会だ。しっかり着飾りなさい」
 
 伯父は撫子の肩を掴み、何度も念を押した。
 柳生家は東蓉国に存在する四つの侯爵家のひとつである。
 建国当初より、首都の中心部にある芙蓉殿(ふようでん)におられる天守様にお仕えする由緒正しい家柄であり、東蓉国においては絶大な力を奮っている。
 柳生家の男児は皆強い巫力を持ち、禍つ者の掃討を責務とする防衛府(ぼうえいふ)の長官を何度も拝命している。
 巫具の中でも最高位の巫珠刀を生み出す鞘の乙女には、名だたる家柄から縁談の申し入れが殺到するものだ。
 巫珠刀の力は絶大で、防衛府内の権力闘争にも影響を及ぼしかねない。
 巫力も強く家柄も申し分ない柳生家に嫁ぐことは、一色家にとってもこの上ない誉れである。

「どうしよう……。夢のようだわ……。何を着たらいいのかしら」

 伯父が立ち去ったあと、撫子は夢見心地で鏡台の引き出しを開け始めた。
 螺鈿細工の帯留。鈴蘭のブローチ。彫金のバレッタ。
 引き出しの中には和装、洋装を問わず、色とりどりの装飾品が揃っている。
 鞘の乙女である撫子がほしいと言えば、伯父は手を尽くし、なんでも買い与えた。

「あら……。鼈甲の簪がないわ」

 夢から覚めたように撫子の声が低くなり、そばに侍る茅乃をキッと睨みつける。

「先週磨きにだしたばかりで……」

 茅乃は必死で記憶をたぐり寄せた。
 たしか細工の一部が欠けてしまい、懇意にしている宝飾品店に磨き直しを依頼したばかりだ。
 茅乃の話を聞くなり、撫子は烈火のごとく怒り狂った。

「あの簪でなければダメよ! 詩恩様の目に留まるにはあの簪が絶対に必要なの! 今すぐ取りに行ってきなさい!」
「ですが……」

 茅乃はつい口ごもった。
 廊下のガラス戸から空の様子をチラリと窺えば、すでに太陽が傾きかけている。
 じきに日が暮れる。夜道には禍つ者以外にも、ならず者や物盗りが現れる。
 柳生家の来訪が来週ならば、明日取りに行けば充分間に合うはず。
 当然、撫子が茅乃の意見など聞き入れるはずがない。

「いちいち口答えするんじゃないわよ! 早く行きなさい! 簪を持ってくるまで帰ってこないで!」

 茅乃は癇癪とともに廊下に追い立てられた。無情にもピシャリと目の前で障子の戸が閉められる。
 撫子が今と言ったら今なのだ。
 この調子だと簪を持ち帰らないことには、本当に屋敷の中に入れてもらえなさそうだ。
 茅乃は仕方なく簪を取りに行くことにした。
 一色家が贔屓にしている宝飾品店は、屋敷を出て、三十分ほど歩いた大通り沿いにある。

「ごめんください」

 暖簾をくぐると、店主が店の奥から顔を出す。
 茅乃は店主に一色家の使いである旨を伝えた。

「鼈甲の簪?」
「今すぐ引き取りたいのですが……」

 店主は台帳をはらりとめくりながら、うーんと唸った。

「今は職人のところだよ。明後日には磨き終わって店に戻ってくるけれど……」

 明後日と聞いて落胆が大きくなるものの、茅乃はかぶりを振りすぐに思い直した。

「では、工房の場所を教えてください。自分で取りに参ります」

 茅乃はその足で今度は店主から教えられた下町の工房を訪れた。
 折よく、目的の鼈甲の簪はすでに磨き終えられていて、納品を待つばかりになっていた。

「横柄な主人を持ってあんたも大変だねえ」

 事情を説明すると職人は同情交じりのため息をついた。
 茅乃は曖昧に微笑み返した。
 受け取った鼈甲の簪は見事に磨き直されており、艶やかな撫子の栗色の髪に映えるだろう。
 名のある柳生家の長男といえど、撫子に夢中になるに違いない。

(撫子さんが少し羨ましい……)

 茅乃もかつては普通の女性のように、殿方と世帯を持つことに憧れを抱いていた時期があった。
 けれど、出来損ないの鞘の乙女に良縁など望めるはずがない。
 居候の身の上では、夢見ることさえままならない。
 茅乃は万が一にでも傷つけぬよう、簪を大事に袋の中にしまった。
 工房の外に出ると、どこからともなく春風に晒される。
 大通りと下町の間には大きな川があり、石造りの橋がかけられている。
 かつては木造だったが禍天の災の際に焼け落ちてしまい、一年前に建て直しが終わったばかりだ。
 茅乃は風で乱れる髪を左手で押さえながら、いそいそと橋を渡った。
 ――季節は春。
 桜の花びらがどこからともなく舞ってきては、ハラハラと地面に落ちていく。
 橋の上から川面を覗けば、そこには薄桃色の敷物のように花弁が浮いていた。
 ――春は苦手だ。
 永遠に果たされることのなかった約束を思い出すから。

『来週は土手沿いの桜を見に行こう。きっと見頃になっているはずだよ』
『あら、いいわねえ! 茅乃の好きなおはぎもたんと作らなくちゃ!』

 禍天の災に見舞われたあの日、茅乃の大事な一部は永遠に失われてしまった。
 愛された記憶があればあるほど、失われたものの大きさを感じて余計に辛くなるのだと、最近は感じ始めている。
 物思いに耽りぼうっとしていた茅乃は未練を断ち切るように、無理やり前を向いた。

(急がなくては)

 帰りが遅くなると、今度は夕餉の時間に間に合わなくなる。
 決められた時間までに屋敷に帰らなければ、膳が下げられてしまい、朝までなにも食べられない。
 茅乃の焦りに追い討ちをかけるように、刻一刻と日暮れの時間が近づいてくる。
 工房のある下町から一色家までは片道一時間以上歩かねばならない。
 出来る限り急いだが、屋敷まであと半分というところで、とうとう完全に日が暮れてしまう。
 大通りとは異なり、屋敷の周辺にはガス燈のない場所が多い。
 夜道を照らす術を持たない茅乃は不埒な輩と遭遇しないよう、祈りながら家路を急いだ。
 月明かりと周囲の家屋敷から漏れ出る明かりをを頼りにひたすら路地を歩く。
 そのとき、ふと誰かの声が耳を掠める。

(子どもの泣き声?)

 茅乃は一瞬の逡巡の末に、子どもの泣き声がする方にクルリと向きを変えた。
 泣き声の主はすぐに見つかる。
 縦縞の藍染の着物を着た子どもが地面にしゃがみながら、声を押し殺して泣いていた。

「坊や? 迷子かしら?」

 そう声を掛けてやると、怯えたようにビクンと肩が揺れる。
 子どもは恐々と後ろを振り返った。
 顔を覗き込むと、ところどころ泥で汚れていた。どこかで転んだのかもしれない。
 この辺りの家屋敷に住んでいる子どもにしては、着ている着物が粗末すぎる。

「お、俺……母ちゃんと父ちゃんたちがいる家に帰りたい……! なんで俺だけっ!」

 まだ七歳ぐらいだろうか。目尻に涙を溜めて茅乃に訴えるその姿が、両親を失ったばかりの自分と重なる。
 茅乃には彼の気持ちが痛いほどよくわかった。
 おそらく奉公先から逃げ出してきたのだろう。
 幼い子どもが地方から首都に奉公に出されるのは、東蓉国ではよくある話だ。
 飛び出してきたのはいいものの、家に帰る方法もわからず、迷子になったに違いない。
 茅乃は隣にしゃがむと、落ち着くまでその背中を撫でてやった。
 
「ねえ。あなた、名前は?」
「お、央太(おうた)……」
「どこのお屋敷に奉公しているの?」
「大通りで一番大きい呉服店」
「ああ、『美川屋』さんね」

 使用人を何人も雇える大店は数が限られている。美川屋は一色家も贔屓にしている呉服店だ。
  
「送ってあげるから今日はお帰りなさい。きっと家の人も心配しているわ」
「でも……」
「一生懸命お勤めをしていれば、そのうち里帰りも許されるわ」
「本当?」
「ええ、本当よ。さあ立って?」

 美川屋の主人は情に篤く、穏やかな人柄だ。真面目に働いていれば、休みもきちんともらえるだろう。
 央太は茅乃から差し出された手を取り立ち上がると、右腕で目をゴシゴシと擦った。

「ありがと、お姉ちゃん」

 ようやく涙が止まったのか、歯を出して笑う。
 ところが次の瞬間、まんまるの瞳がさらに大きく見開かれていく。

「お、お姉ちゃん! あ、あれ!」

 央太が震える声で茅乃の後方を指さす。
 なにごとかと思い後ろを振り返ると、赤く光る目玉がふたつ宙に浮いていた。

「ひっ!」

 血走った目玉はぐるんと回転し、やがて獲物を見つけたのか、その焦点が茅乃と央太に合わせられる。
 黒い渦を巻きながら、闇より出でたのは四つ足の生き物――全身真っ黒の狼だった。
 普通の狼と明らかに違い、黒いもやを吐き出す大きな口からは、異様に尖った牙が垣間見える。
 ハアハアと生々しい息遣いが、今にも聞こえてきそうだ。
 あまりの禍々しさに背筋に冷たいものが走り、呼吸が速くなる。
 あれが闇夜に生きる異形のもの――禍つ者だ。
 人前に現れる禍つ者の多くは、鼠、鴉、猫、犬などの動物の姿をしている。
 禍つ者にも序列があり血肉を啜れば啜るほど、徐々に身体と知能が大きな獣に変化する。
 狼となるまでに、一体何人が犠牲となったのだろう。

「あ、うっ……」
 
 茅乃の口から漏れるのは言葉にならない喘ぎばかりだ。
 地面に足が縫い付けられたように、その場から動けなくなる。

「お、おねえちゃ……」

 央太にぎゅっと着物の裾を掴まれ、恐ろしさに震えていた茅乃は我に返った。

(守らなくては)

 覚悟を決めた茅乃はありったのけの勇気を振り絞り、一歩前へ進み出る。

「央太、逃げて!」
「で、でも!」

 強い口調で急かすと、央太は再び泣きそうな顔になった。

「私なら平気よ。先に逃げて」

 茅乃が本心を隠し微笑んでみせると、央太は何か言いたげにしていたが、やがて諦めたように頷く。

「わかった」
 
 央太はそう言うと、狼とは逆方向へ素早く駆けていった。
 狼はチラリと頭を央太の方に向け、追いかける素振りを見せる。
 
「こちらよ!」

 追わせてなるものかと、茅乃は落ちていた小石を投げつけて注意を逸らした。
 央太が逃げおおせるまでは、どうにかして狼を引きつけておかなければならない。
 癇に障ったのか、思惑通り狼は茅乃にじりじりと迫ってくる。
 巫珠刀は作り出せても、茅乃は禍つ者との戦闘については素人だ。
 襲われれば、ひとたまりもない。
 狼が低く唸りながら身をかがめる。
 次の瞬間、二十歩ほどあった距離が一気に縮まり、狼が眼前まで迫る。

(ずっと考えていた……)
 
 赤く血走る目玉と目が合い、避けようのない死の匂いが濃厚に香る刹那、茅乃の頭にはどうしようもない後悔ばかりが浮かんでくる。

 なぜ、あのときもっと速く走れなかったのか。
 もっと大きな声で助けを呼べなかったのか。
 どうして、両親を置いて逃げてしまったのか。

 幾度となく繰り返した夢想の結果が、誰かを生かすための死に帰結するのならば本望だ。
 両親が身を挺して守ってくれた命だからと、誰に疎まれようが懸命に生きてきた。けれど、もう後悔はない。
 あの世の橋を渡っても、二人もきっと許してくれるだろう。
 茅乃が緩やかに死を受け入れようとしたそのときだ。

「蹴散らせ。朱里(しゅり)

 どこからともなくつむじ風が巻き起こり、茅乃の喉に噛みつこうとしていた狼が吹き飛ばされる。
 巻き上げられた土や埃が晴れて、ようやく前が見えたときには、茅乃を背後に庇うようにして濃紺の制服に身を包んだ長身の男性が立っていた。
 手袋をした右手に握られた刀は、薄暗い夜の中でも爛々と光り輝いている。

(まさか……巫珠刀?)

 窮地から脱した茅乃は、今度は男性から目が離せないでいた。
 
「怪我はないか?」

 背後を振り返るその姿に、ドキリと心臓が跳ね上がる。
 額の中央で分かれた前髪からのぞく高い巫力を示す金色の瞳。意志の強そうな眉に、薄く色づく唇。白磁の陶器のような滑らかな肌。
 端正な顔立ちは全身が総毛立つほど美しかった。
 
進藤(しんどう)は民間人の保護にあたれ。垂水(たるみ)は私の援護だ。逆側から挟みこめ」
「はっ!」

 茅乃の背後から名前を呼ばれた男性が二人現れ、金眼の男性の指示に短く返事をする。

「油断するなよ。あいつは既に三十人以上、食い殺している」

 言うが早いか、金眼の男性が狼めがけて走り出す。一歩遅れて、もうひとり男性が続く。

(助かった、の……?)

 死の恐怖から解放された安堵で、茅乃はへなへなとその場に崩れ落ちた。
 東蓉国で暮らしていて、濃紺の制服を身に纏う彼らの名前を知らぬ者はいない。
 防衛府直属の国防組織。通称、飛燕隊(ひえんたい)
 彼らは国の治安維持に従事し、禍つ者の討伐を隊務としている。
 入隊には厳しい基準が設けられており、隊員全員が高い巫力の持ち主だという噂だ。

「さあ、いきましょう。ここにいたら巻き込まれてしまう」

 ひとり残った銀縁の眼鏡を掛けた男性に、腕を掴まれ無理やり立たせられる。
 どうやら安全な場所まで誘導してくれるようだ。

「あ、あの! もうひとり子どもが……」
「大丈夫です。彼も保護しています」

 茅乃が胸を撫で下ろしたその直後、鍔迫り合いを続けていた、二人と一匹の方角からガキンと尋常ではない音が聞こえた。
 思わず後ろを振り返る。

「チッ!」
 
 盛大な舌打ちが茅乃の耳にも届く。
 狼の牙を受け止めていた巫珠刀が折れたのだ。
 折れた刀身が宙を舞い地面に突き刺さると、火が消えたように一瞬で輝きが失われる。
 彼は半分残った刀身で狼の攻撃を受け流すものの、苦々しげに眉根を寄せていた。

(折れた刀で無茶だわ!)

 狼の動きは鋭く激しい。折れた刀で反撃がままならないのは、素人の茅乃でもわかる。
 このまま手をこまねいて見ているだけではいけない。

(刀ならここにあるじゃない)
 
 茅乃は意を決して安全地帯へと誘導する眼鏡の男性を振り切り、一目散で彼のもとへ走り出した。
 
「黒曜!」

 走りながら名前を呼ぶと黒曜が目の前に顕現する。
 そのまま右手で黒曜を掴むと彼の足もとを狙って力いっぱい放り投げる。

「どうかお使いください!」

 黒曜は茅乃の意思を汲んだのか、真っ直ぐ飛んでいく。
 一色家では出来損ないと呼ばれた茅乃の巫珠刀でも、折れた刀よりは使えるだろう。
 彼は驚いたように一瞬目を見開いたが、即座に身を翻し黒曜を左手で受け取った。
 振り向きざまに鞘から抜き取り、狼の頭から縦一閃を浴びせかける。
 真っ二つに分かれた狼の身体はゆっくり地面に横たわり、砂浜に打ち寄せる波のようにハラハラと形が崩れ落ちていく。
 そして、跡形もなく消えていった。

「よ、かった……」

 すべてを見届けた茅乃の視界が次第に暗くなっていく。
 
「おい、しっかりしろ!」

 倒れそうになる身体を寸でのところで受け止めてくれたのは、金眼の彼だった。

(綺麗な眼……)

 茅乃は麦の穂にも似た瞳に見守られながら、意識を手放した。

 ◇
 
『茅乃が黒刃の鞘の乙女として生まれたのにはきっと意味がある』
 
 在りし日の父の姿が見える。春の陽光の中、膝の上に幼い茅乃を乗せ微笑んでいる。
 
(お父さま……)
 
 鞘の乙女として生まれた意味などなくていい。両親が生きてさえいてくれれば、それだけでよかったのに。
 父の姿が遠く霞んで見えなくなっていく。

「う……」
 
 目を開くと見覚えのない白い天井が現れる。
 首を左右に動かし、ここはどこかと考えを巡らせていく。
 茅乃は西洋式の寝台にのせられ、薄い綿の布団を被せられていた。
 いつも寝起きしている庭師小屋でないのはたしかだった。
 茅乃は慌てて身体を起こした。
 
「気がついたか?」

 突然低い声がして、部屋の中に他に誰かがいたことを知る。
 茅乃が起きたとわかると、座っていた椅子から腰を上げ、寝台に近づいてくる。
 あのとき茅乃を守ってくれた金色の瞳の軍人だ。

「ここは……?」
「飛燕隊の隊舎にある医務室だ。防衛府直属の病院よりもこちらの方が近かったからな。君は気を失っていたんだ」
「医務室……」

 先ほどの出来事を思い出し、ぶるりと身震いする。
 本当に運が良かった。飛燕隊の到着があと数分、遅かったら茅乃は望み通り両親の元へ旅立っていただろう。
 
「刀を貸してくれて助かった。おかげで禍つ者を討伐できた」
「私は……なにも特別なことはしておりません」
 
 彼に渡したはずの黒曜は寝台に立てかけられていた。茅乃が『戻れ』と念じると、ふっと消えていく。
 茅乃は咄嗟に黒曜を渡しただけで、禍つ者を祓ったのは彼の力に他ならない。
 一色家の人間もそれなりに巫力を持っているが、彼のように巫珠刀に風を纏わせて禍つ者を吹き飛ばすなんて芸当はできない。

(そういえば……)

 黒曜には破魔の力がないはずなのに、禍つ者は真っ二つになり、そのまま霧散してしまった。

(なぜかしら?)

 ぼんやりしていた頭が次第にはっきりしてくると、茅乃はハッと思い出した。

「央太は? どこに?」
「一緒にいた子どもは私の部下が美川屋に送り届けた。安心するといい」
「よかった……」

 胸元に手を当て、そっと息を吐き出す。央太が無事で本当に良かった。
  
「私は飛燕隊、第一部隊隊長。柳生詩恩だ」

 彼は薄い唇を開き、厳かに己の名前を告げた。
 名前を聞いて茅乃は心底驚いた。
 ――撫子の見合い相手ではなかろうか。

「君の名を聞いてもいいか?」
「一色茅乃です」
「一色? 君は一色家の者なのか?」

 一色の名を聞くと、詩恩は驚いたように目を見開いた。
 
(しまった)
 
 柳生家の名前に気を取られたせいか、何も考えずうっかり名前を答えてしまった。
 伯父は茅乃が一色家の人間だと知られるのを一番嫌っているのに。

「一色家に撫子殿以外に鞘の乙女がいるとは知らなかったな。まあ、いい。実は君に折り入って頼みがある」
「私にですか?」

 詩恩は床に片膝をつき、寝台に座る茅乃を仰ぎ見た。
 前髪が揺れ、金色の瞳が露わになる。
 真正面から見据える彼の顔立ちに、心臓が早鐘を打ち始める。
 男性にこんなに熱心に見つめられるなんて初めてだ。居心地が悪くて、そわそわとお尻の辺りが浮きそうになる。
 茅乃は静かに彼の次の言葉を待った。

「黒刃の鞘の乙女よ。私の妻となり、共にこの国の敵と戦ってくれ」
「え……?」

 金色の瞳が戸惑いで揺れる茅乃を真っ直ぐ射抜き、離してくれない。
 柳生詩恩との出会いが、生きる意味を見失っていた茅乃の運命を再び大きく揺り動かす。



作品を評価しよう!

ひとこと感想を投票しよう!

あなたはこの作品を・・・

と評価しました。
すべての感想数:2

この作品の感想を3つまで選択できます。

この作家の他の作品

私たちのクライミングプラン

総文字数/21,052

ヒューマンドラマ6ページ

本棚に入れる
表紙を見る

この作品を見ている人にオススメ

読み込み中…

この作品をシェア