朝のホームルームが始まる寸前、俺――澤田一成(さわだ かずなり)はどうしても憂鬱になっていた。
高校二年生になったばかりの四月。クラス替えはもちろん、新しく入学してくる一年生や、今年度から赴任してくる先生たちもいる。そんな春の始まりは、多くの生徒にとって「新しい出会い」を意味し、胸を躍らせるような季節だろう。
だけど俺にとっては違う。
目立たずに生きていきたいと思っている人間にとって、「新しい出会い」や「新しい環境」はできれば避けたい代物だからだ。去年のクラスでは、その地味さゆえに自分から動かなくても周囲がそこそこ放っておいてくれた。中学時代からの友人数名とほどほどに距離をとり、クラスの端っこで空気のように過ごす。それが俺の理想の高校生活だった。
ところが、クラスが変わって教室も変わった今年度は、また最初から「人間関係づくり」をしなければならない可能性がある。転入生や新任教師がいれば、そうした人たちと自己紹介をし合う場面だってあるだろう。ああ面倒だ。
しかし、この世に「変化」ほど避けられないものはない。そう頭でわかっていても、足取りは重くなる一方だった。
「……はあ」
思わずため息が漏れた。そんな俺の姿を見ていたらしい同じクラスの女子――中島(なかじま)が、俺の机の横を通りながら「元気ないねー。大丈夫?」なんて言ってくる。
「……ああ、大丈夫」
小さく返事をして、気を使ってくれた彼女に一応笑みを返した。けれど中島は「あ、そう」とだけ返してすぐにどこかへ行ってしまう。ま、そんなもんだ。俺があまり会話を広げないタイプだから仕方ない。
いつもなら、こんな他愛ないやり取りだけで一日が終わってしまっても別にかまわない。ところが、今年は様子が違った。
最初に聞こえてきたのは、一年生の教室での会話かららしい。うちの学校に着任したばかりの新任教師が、なんと「かなりイケメン」で「面白そうな先生」で「しかも若い」というのだ。
「若い」といっても、先生はだいたい二十代後半か三十代くらいが多い。だから「面白そう」とか「イケメン」とかいう情報はまぁ珍しくもない。しかし、その新任教師はさらに「誰かにそっくり」「いや本当にそっくり」とも言われている。
はじめは「芸能人に似てるのかな」とか「先輩にそっくりな人でもいるのかな」くらいの話だった。
だけど、次第に噂の内容が「この学校の生徒にそっくりらしい」という話に変わっていった。そう、それが俺――澤田一成であるとは、この時点では誰も名指ししていなかった。しかし、目立たないとはいえ、同じ学年の生徒はそこそこ俺の顔を知っている。だからこそ「いや、あの地味な澤田に酷似してる教師なんてありえないだろう?」という怪訝な空気も流れていたらしい。
俺自身はそんな噂を耳にしても、「ふーん」としか思わなかった。自分と瓜二つの教師なんて、漫画みたいな設定だ。現実離れしている。
しかし、このあと、その「漫画みたいな設定」が現実として俺を打ちのめすことになる。
始業式当日、体育館に整列し、新任教師の紹介が行われた。名前は本間弘人(ほんま ひろと)。二十七歳。担当教科は英語。
一通り校長先生が挨拶し、新任教師の紹介をする。すると壇上に上がった若い男性が、一礼してマイクを手にした。
「はじめまして。今年度から英語を担当します、本間弘人です。まだまだ新米教師ですが、一緒に楽しく学んでいければと思っています」
そう言って顔を上げた瞬間、俺は心臓が止まるかと思った。
鏡を見ているようだった。
顔の輪郭から、眉の形、まぶたの感じ、目の大きさ、鼻筋、口の形までそっくり。さらに言えば髪型も同じ黒髪の短髪。身長や体格もほぼ同じぐらいで、少し遠くにいるのにまるで自分自身が壇上に立っているような錯覚さえ覚えた。
まさか、こんなことが本当にあるのか。
もちろんまったく同じかと言われれば、髪の分け目や微妙な表情の違いなど、細部の差異はある。けれど全体の印象は「瓜二つ」と言って差し支えないレベルだった。
体育館全体がざわつく。そりゃそうだ。たとえ俺が地味とはいえ、同じ学年に知り合いはいる。あとで「澤田に似てる……っていうか同じじゃない?」と噂になるのは確実だ。しかも、本人の俺が見ても「そっくり」だと感じるのだから、他人はもっとそう思うに違いない。
壇上の本間先生は自己紹介を続けていたが、俺の耳にはもうほとんど入ってこなかった。これからの一年間がいろいろと面倒なことになりそうだという絶望感だけが、じわじわと胸に広がっていった。
始業式後、ホームルームのために教室へ戻ると、早速クラスメイトたちの視線が痛いほどに突き刺さってくる。
「ねえ、聞いた? 新任の英語の先生、澤田にそっくりなんだって」
「いや、今の始業式で見たけど、あれは想像以上だったわ」
「澤田って地味だけど、あんなふうに明るく喋ったらカッコいいのかな?」
などなど、ヒソヒソ話す声が聞こえてくる。俺は苦々しい気持ちで机に突っ伏した。
「澤田、意外とイケメンだったんだな」
からかうように言ってくる男子もいれば、逆に「先生が澤田に似てるんでしょ」と訂正してくれる女子もいる。どっちにしろ恥ずかしくて居心地が悪い。気がつけばもう教室の中心はこの話題一色になっていた。
ああ、やっぱり今年のクラスでも目立ちそうだ。最悪だ。
翌日からはさらに輪をかけて、「澤田と本間先生」の話題が学校中を駆け巡った。どの学年も、新入生も上級生も、昼休みはほぼこのネタで持ちきりだ。
やがて、奇妙なあだ名が生まれる。
俺は「本間先生の“じゃない方”」。
一方の本間先生は「確変モードの澤田」。
要するに、同じ容姿なのに性格が正反対で、明るく社交的な本間先生は「澤田が本気出したらああなるんじゃね?」という発想らしい。あるいは「寝癖直して、オシャレして、スイッチ入れたら、澤田もああなるかもしれない」と茶化されているともいえる。
しかし、当の俺はそんな“確変”など起こる気配もなければ、起こしてほしいとも思わない。むしろこれを機にさらに地味に生きたい。
「澤田も髪型もうちょいセットすれば?」
なんて言われても「いいよ、面倒だし」と返す日々。
一方の本間先生は「じゃない方」なんて言われたら普通は嫌がりそうだけど、どうやら周囲に「なんで“じゃない方”なんて呼ぶの?」と笑いながら問い返して、そこから生徒と打ち解けてしまうコミュ力の高さを発揮していた。
まるで、俺の性格を真逆に反転させたようなコミュニケーション能力。憧れよりもむしろ、見ているこっちが気後れしてしまうレベルだ。
クラス替え後、二年生に配属された本間先生は、俺のいるクラスの副担任となった。ホームルームのときには担任とともに教室へ入ってくる機会があるし、英語の授業も週に数時間は俺のクラスで行われる。
「これからよろしくね、澤田」
最初にそう声をかけられたとき、俺は顔がこわばった。見た目が自分とそっくりの相手に声をかけられる異様さ。しかも相手は教師。どう振る舞えばいいのか、本当にわからなかった。
「……よ、よろしくお願いします」
ひきつった笑みしか返せず、目も合わせられない。
だが、本間先生は気を悪くする様子もなく、「そう固くならずにね」と優しい笑みを浮かべてくれた。それがさらに自分の姿を見ているようで苦痛でもあった。
その後、廊下で偶然すれ違ったときや、職員室前で会ったときなど、何度か挨拶を交わす場面があった。しかしいつも気まずい空気が流れる。
例えば廊下ですれ違いざま、本間先生が「おはよう」と声をかければ、周囲の生徒が一斉にこっちを見る。次の瞬間、一瞬の静寂があって、クスクスと笑い声が起こる。
「やべえ、本間先生と澤田が並んでる!」
「本当にそっくり! やっぱり本人たちも気になってるのかな?」
そんな茶化すような声が聞こえてくると、俺はそそくさと逃げるように通り過ぎるしかなかった。
本間先生も困ったような表情を浮かべてはいるが、その場を明るく取り繕おうとする。けれどクラスメイトやほかの先生の前ではどうしても「奇妙な沈黙」と「好奇の視線」が生まれ、そうこうしているうちに会話が自然消滅してしまうのだ。
こうしてしばらくの間、本間先生と俺は“ぎこちない関係”を持て余していた。お互いのことが気になっているのは確かだ。何しろ、自分とほぼ同じ顔と体格の人間なんてそうそういない。
けれど、無理に踏み込んだら絶対に妙な空気になる。だからちょうどいい距離感を探ろうとしても、その「ちょうど良さ」自体がわからない。教師と生徒という立場の差もあり、簡単に打ち解けられる関係でもない。
そんな中、世間話をしようにも周囲の視線が気になってできない。廊下で立ち話をすれば注目を浴びるし、職員室に行けばほかの先生や生徒たちがちらちら見る。
結局、まともに話せないまま数週間が過ぎていった。
春の新学期も落ち着き始めたころ、本間先生の英語の授業が本格的に始まる。
生徒たちの英語力を測るために、本間先生は「自己紹介シート」を書かせた。英語で自分の趣味や興味、日々の生活について簡単にまとめるプリントだ。
クラスの多くは「好きなアーティスト」とか「休日の過ごし方」など、よくある項目を数行の英語で書いて提出していた。もちろん俺も最低限必要なことだけ書いて出したが、本音を言えばこういうのは本当に面倒くさい。
すると、翌週の授業で、本間先生は一人ひとりのシートを読みながら軽いコメントをする時間を設けた。
「鈴木はフットサルが好きなんだね。俺も学生時代はサッカー部だったから、フットサルはちょっと似てるようで違う面白さがあるよね」
「吉田は海外旅行が夢なんだ。俺も大学生のときイギリスに行って、留学生活を楽しんだよ。機会があれば話聞きにきて」
そんなふうに砕けた口調で、親しみやすく生徒に声をかける。生徒たちも笑って応じるから、授業というよりはちょっとしたトークショーみたいだった。
そして俺の番が来る。
「澤田は……ん?」
本間先生が俺のシートを見て、一瞬眉をひそめる。
「……えっと……“I sometimes like reading books. But I often prefer to do nothing.”……」
読み上げられた英文に、クラスが笑いに包まれる。自分で書いた文章とはいえ、改めて音読されるとなんとも恥ずかしい。
「なるほど、『ときどき本を読むけど、何もしないでぼーっとする方が多い』ってことか。マイペースだね。まあ俺も、大学生の頃はよく家でゴロゴロしてたよ。寮にいたからすぐ友達が集まって賑やかになったけど、基本的には怠け者だし」
と言いながら、本間先生は笑顔を向ける。まるで俺に親近感を抱いているような表情だった。
そのとき、クラスの女子が手を挙げて言った。
「先生と澤田くん、外見はソックリなのに性格は全然違いますよね。先生はアクティブそうだし」
「うーん、そうかな。俺もインドア派なところはあるんだよ? 今はね、学校ではテンション上げてるけど、家に帰ると疲れてすぐゴロゴロしてる」
本間先生がそう答えると、「それってただの普通の人じゃん」とツッコむ声もあり、教室に笑いが広がった。俺はただ、照れくささと気まずさをごまかすために俯いていた。
しかし、そのやりとりの最中、俺はほんの一瞬、本間先生の視線に違和感を覚えた。視線というより、「目の動かし方」かもしれない。
何かを見るときの焦点が合っていないような、どこか探るような――そんな感じだ。
けれど、すぐにその仕草は消えてしまったので、気のせいだろうとそのまま流した。あまりにも一瞬だったし、授業中に細かいことを考えても仕方がない。
俺は英語の課題でわからないことがあって、放課後に職員室を訪れた。いつもなら極力行きたくない場所だが、提出期限が迫っていたのでやむなくの行動だ。
職員室に入ると、運よく本間先生が一人で座っていた。ほかの先生たちは部活指導やミーティングなどで不在が多いらしく、室内はやけに静かだった。
「あ、澤田。どうしたの?」
「あの、課題のここなんですけど……」
恐る恐るプリントを差し出す俺に、本間先生はフレンドリーに対応してくれた。
「ここの熟語は、前置詞が違うだけで意味が変わるからね。例えば……」
わかりやすい解説をしてくれる本間先生を見ていると、確かに生徒から人気が高いのも頷ける。俺は英語が得意ではないが、彼の説明はスッと頭に入ってきた。
「うん、そんな感じで大丈夫だよ。あと、例文を自分なりに作ってみるのもいいかもね。暗記するより、使い方の感覚を掴める」
「ありがとうございます」
そう礼を言って、プリントを受け取った。ふと、こんなときくらいは自分から少し踏み込んでみてもいいのかな、と思った。
「……あの……先生、大学はどこ行ってたんですか?」
恐る恐る聞いてみると、本間先生は「○○大学の外国語学部だよ」と答えてくれた。わりと有名な大学だ。
「そっか……。やっぱ頭いいんですね」
「あはは、まあ努力はしたかな。でも授業さぼったりはよくしてたよ……あ、澤田もこんな話興味ある?」
「いや……そういうわけじゃ……ないんですけど」
「そっか。まあ、何かあったらまたいつでも聞きにおいで」
最後のひと言は普通の教師のセリフと変わらない。でも、俺の中で何かがざわつく。この人をもう少し知りたい気持ちと、関わると面倒なことになる気持ちがせめぎ合う。
そして同時に、「自分にそっくりな人間が、こんな明るく過ごしている」という現実に、奇妙な敗北感のようなものを覚えた。
職員室を出ると、廊下でバッタリ出会った同級生の松井(まつい)に、「うわ、澤田、職員室で本間先生と二人きりだったの?」とニヤつき顔で聞かれた。
「いや、たまたま他の先生がいなくて……」
「何話したんだよー? やっぱ鏡合わせ感ハンパなかった?」
からかい半分で近づいてくる松井に、俺は「別に」とだけ返してその場を離れた。
結局、こうして周りの好奇の視線や茶化しが怖くて、なかなか本間先生と話しづらい。かといって避ければ避けるほど、不自然に思われるし、自分自身がモヤモヤする。
どうしたってギクシャクしてしまう関係。俺はいつまでこんな状態が続くのか、気が重かった。
そんなある日、放課後に図書室へ立ち寄った俺は、意外な場面を目撃した。
本間先生が、他のクラスの生徒にマンツーマンで英語の補習をしていたのだ。図書室の一角に席を取り、生徒のノートを覗き込みながら静かに解説している。
「なるほど、先生ってこういうときは落ち着いてるんだな」
いつもは明るく元気で社交的なイメージの本間先生。だが、生徒のペースに合わせながら丁寧に指導している姿は、とても穏やかで静謐(せいひつ)な雰囲気さえ漂わせていた。
その様子を眺めていたら、思わず近づきづらくなってしまい、俺は本を探すふりをしながら棚の向こうで様子を窺っていた。
そして、しばらくして補習が終わったらしく、生徒が「ありがとうございました!」と元気よく立ち上がる。本間先生は「お疲れさま。頑張ったね」と笑顔を向けていた。
すれ違いざまにその生徒と目が合ったが、相手は「あ、澤田だ」と軽く手を挙げて図書室を出ていった。すると取り残された本間先生と俺の間に、気まずい沈黙が落ちる。
「……澤田も、勉強か何か?」
「い、いえ、なんとなく本でも借りようと……」
「そっか。俺もここの静かな雰囲気は好きだよ」
その言葉に、少し意外な感じがした。明るい性格の人は騒がしい場所が好きなのかと思っていたので、図書室みたいな地味で静かな空間を好むとは考えていなかったのだ。
「……俺も、図書室は好きです」
思わずそう返すと、本間先生は少し嬉しそうに頷いた。
「そうなんだ。今度、おすすめの本があったら教えてよ」
「……はあ」
曖昧に返事をして、本棚の陰に隠れるように背を向けた。なんだか胸が少しだけ温かくなるような気がした反面、恥ずかしさもあった。
その週末、俺は自宅の本棚を眺めながら、ふと「先生におすすめしたい本なんてあるのか」と考えていた。
実は、派手に語るほどではないが俺は小説を読むのが好きだ。それこそファンタジーやSF、ミステリーから青春ものまで、わりと手広く楽しむ。でもあまり人に言ったことはない。地味な自分が、地味な趣味に没頭するのは人に知られなくてもいい。
ところが、本間先生と図書室で交わした何気ないやりとりが妙に頭に残っていて、もしかしたら今度雑談でもする機会があれば、ちょっと話してみようかなという気になっていた。
「俺に似てるのに、あんなに明るく生きてる。……何だろうな、この感じ」
小説の登場人物と自分を重ね合わせるように、本間先生との奇妙な縁を考え始める。もし自分が本間先生のように積極的だったら、もっと気軽に友達や先生と本の話で盛り上がれるんだろうか――なんて、たわいもない想像が膨らんだ。
五月の連休が明けると、学校は一気に体育祭モードに突入する。クラス対抗リレーや球技、応援合戦の準備が始まり、生徒会や実行委員が慌ただしく動き回る。
俺はといえば、競技にはできるだけ参加したくないタイプだ。走るのは遅いし、球技も下手。何より目立ちたくない。だから、クラスで役割分担が決まるときには、すぐに裏方に回るよう手を挙げた。
ところが、俺のクラスの担任と副担任――つまり本間先生も含めて――は「クラスの全員で盛り上がりたい」という方針で、裏方仕事ばかり希望する生徒をなんとか引っ張り出そうとしていた。
「せっかくだから、どれか一つは競技に出たほうが楽しいよ」
そう声をかけてきたのは、本間先生だった。
「い、いや……俺、走るの遅いんで……」
「そこはタイムや順位が重要なんじゃないんだ。みんなでやることに意味があるんだよ。ほら、リレーでも応援でも、何か一つやってみない?」
困ったように笑う先生を前に、俺は返す言葉もない。周りの視線も気になるし、断りづらい雰囲気だった。
「……応援合戦なら、声出さなくても……」
「いや、応援は声出さなきゃダメだろ!」
そこにクラスメイトがツッコみを入れ、一同が笑う。結局、俺はなんとなく応援合戦のパネル作成担当に回ることになった。それでも、当日は一応応援席にいて声を出す必要があるらしい。
パネル作りのために放課後に教室で作業していると、本間先生が様子を見にやってきた。
「おお、いい感じに進んでるね。細かいところまでよく描きこんでるなぁ」
「いや、絵は得意じゃないんですけど……。今は下書き段階なんで」
「でも作業は丁寧だよ。ありがとう。応援にも積極的に参加してくれるって聞いたけど、ちょっとは楽しみになってきた?」
「……まあ、そこそこ」
苦笑いを浮かべる俺を見て、本間先生は「焦らずでいいよ。こういう行事って、終わってみると案外楽しかったりするから」と優しく声をかけてくれた。
「……先生は、体育祭とか好きでした?」
思わず聞いてしまったのは、自分と同じ顔を持つ彼が“明るい体育会系”なのかどうか、気になったからだ。
「俺? んー……そうだね、高校の頃はめちゃくちゃ張り切ってたよ。リレー選手とか応援団長とかやったりしてね。あ、もちろん裏方の作業も大変なのは知ってるよ。だからね、澤田たちが頑張って作ってくれるものに感謝してる」
なるほどやはり正反対だ。だけど彼の言葉からは「裏方の努力を認めてる」感じが伝わってきて、少し救われた気がした。
ところが、何気ない会話の最中に、またあの「目の動かし方」が気になった。ほんの一瞬だったけど、パネルの色を指定する紙を見せたとき、本間先生が少し戸惑うように目を細めたのだ。
パネル作りにはカラフルな絵の具やマジックを使う。赤や青、黄などの原色を組み合わせ、そこにグラデーションやハイライトを入れていく。
ある日、色の配分をどうするか悩んでいた俺は、隣で作業しているクラスメイトに意見を求めた。
「ここ、やっぱり赤ベースにしたほうが映えるよな?」
すると、その会話に入ってきた本間先生が、こう言った。
「赤ベース……んー、赤? ここ、オレンジじゃないの?」
クラスメイトと俺は顔を見合わせる。
「え? 先生、これ明るめの赤ですよ」
「え、あ、そうか。ごめん、照明の加減かな」
そう言って誤魔化すように笑うが、そのとき俺は強い違和感を覚えた。
確かにオレンジ寄りの赤ではあるけど、誰がどう見ても“赤”に近い色だ。少なくとも見間違えるほどの差ではない。
「……先生、色とか苦手なんですか?」
何気なくそう聞いた俺に、本間先生は一瞬だけ言葉を詰まらせた。
「……いや、まあ、絵心はそんなにないからね……」
再び曖昧に笑う先生。クラスメイトたちは「先生、意外と絵下手なの?」なんて茶化しを入れてケラケラ笑っていたが、俺はどうしても気になって仕方がなかった。
その日の帰り道、どうしても本間先生の「色に対する反応」が引っかかり、スマホで「色覚異常」や「色盲」「色弱」といったワードを検索してみた。
“赤と緑の区別がつきにくい”とか、“特定の色の判別が苦手”といった症状があるらしい。もちろん個人差が大きく、軽度なものは日常生活にほとんど支障がないとも書かれていた。
「まさか……先生が色覚異常?」
正直、まだ確証なんてない。だけど、もしそうだったとしたらどうなる? 教員試験を通っているし、免許を取得しているのなら、生活に大きな支障が出るようなレベルではないのかもしれない。
俺自身、色覚異常ではない。もちろん赤緑を混同したりもしない。だからこそ、先生が“オレンジを赤と認識できない”ように見えたことが印象的だった。
これが、俺と先生の大きな違いだとしたら……?
ただ、何の根拠もない推測で騒ぎ立てるのは失礼だろうし、先生自身が隠しているのかもしれない。俺には何も言えない。
いよいよ迎えた体育祭当日。グラウンドにはテントが立ち並び、色とりどりのクラス旗や応援パネルが飾られている。俺たちのクラスも、作り上げたパネルを所定の場所に設置し、皆でワイワイ写真を撮ったりしていた。
「澤田、ほら、もうちょい笑って!」
クラスメイトからカメラを向けられて、仕方なく苦笑いする俺。そのとき、視界の隅に本間先生の姿が映った。先生は他のクラスの応援席で何かを手伝っているらしい。相変わらず忙しそうだ。
自分と同じ顔の先生が、同じ空間で汗を流していると思うと、不思議な気持ちになる。
午前中はリレーや障害物競走などの定番競技が行われ、昼休みをはさんで午後は応援合戦がメインイベントとなる。
各クラスがそれぞれ工夫を凝らし、ダンスやパフォーマンスを披露する中、俺たちのクラスも歌あり、掛け声ありで盛り上げる。俺は端っこのほうで手拍子をする程度だが、それでも意外と楽しいと思えてきた。
観客席からは担任や副担任である本間先生が声援を送ってくれる。いつもは気まずさが先行するが、こういう全体行事のときばかりは、それすら気にする余裕がない。
だが、そんな中でアクシデントが起こる。
他のクラスが応援合戦の最中、何やら音響トラブルがあったらしく、音楽が急に止まってしまったのだ。慌てて実行委員たちが対応に追われるが、なかなか原因がわからない。
「申し訳ありません。ちょっと機材トラブルが……!」
会場がザワザワしている中、本間先生が実行委員たちと一緒にスタッフルームへ駆け込んでいくのが見えた。俺たちはその様子を見ながら、ただ待つしかない。
やがて十分ほど経過しても、なかなか復旧しない。するとアナウンスが入る。
「えー、皆さんにお知らせします。ただいま音響機材に不具合が発生しており、応援合戦を一時中断いたします。修理を試みていますが、復旧の目途が立たない場合は……」
場内には溜め息や不満の声が広がる。せっかく準備してきた出し物が台無しになるかもしれない。気温も高いから、集中力が切れてしまう生徒もいるだろう。
そんな中、突然マイクを持った本間先生が戻ってきて、アナウンスブースに立った。
「えー、皆さんお疲れさまです。本間です。音響のトラブルで待たせてしまって申し訳ありません。実行委員や先生方が頑張ってくれてますが、もう少し時間がかかりそうです。
そこで、この空き時間をどうにか楽しいものにできないかと思いまして……」
本間先生は苦笑いしながら、何かを思いついたのか、続ける。
「ここで、急遽“声援合戦”なんてどうでしょう? 要はBGMは使わずに、応援歌や掛け声だけで盛り上げる。もちろん自由参加でかまいません。ちょっとアカペラ的な感じになるかもしれませんが、どうでしょうか?」
一瞬、会場は戸惑ったように静まった。しかし、次の瞬間、どこかのクラスの男子が「いいじゃん、それ!」と大声で応じ、それに続くように拍手や歓声が起こった。
「じゃあ、思い思いの応援歌をやっちゃってください! 恥ずかしがらずに、自由に声を出していきましょう!」
本間先生の弾けるような笑顔に引き込まれるように、生徒たちが次々に声を上げ始める。応援リーダーたちは瞬時に切り替え、チアリーディングの要領でコールを牽引していく。
気づけば、グラウンドは生徒たちの声援やリズムだけで大きな一体感を生み出していた。
そんな様子を端っこから眺めながら、俺は改めて思う。
「あの先生は、本当にスゴい」
見た目は俺とほぼ同じ。しかし、その行動力や判断力は桁違いだ。トラブルに遭遇しても、瞬時に場を盛り上げる発想とコミュニケーション力がある。正反対すぎて、いっそ清々しいほどだ。
一方、俺はといえば、声を出すのも億劫で、輪の外から見ているだけ。
「俺とは、やっぱり全然違う存在なんだよな……」
そう思った瞬間、ふと脳裏に「そういえば、あの先生には“違うところ”があるのかもしれない」という考えがよぎる。色覚の問題。確信はないが、それがもし本当なら、見た目こそそっくりでも決定的な違いを抱えていることになる。
あの人は“自分にないもの”をいっぱい持っている。だけど、もしかしたら“自分にはわからない苦労”があるのかもしれない。
体育祭が終わった日の夕方、クラスの有志で打ち上げをやろうという話が持ち上がった。といっても未成年なので、学校近くのファミレスで食事するだけのちょっとした会合だ。
俺は最初乗り気ではなかったが、結局みんなに引っ張られて参加することになった。
テーブルを囲んで、思い出話を笑いながら語り合うクラスメイトたち。リレーでこけた話や、応援合戦のハプニングなど、話題には事欠かない。
すると、誰かがふと思いついて言う。
「ねえ、本間先生も誘ったら来るかな?」
「え、先生がファミレスなんて来る?」
「副担任だし、どうだろう」
さっそく女子の一人が連絡網を使って本間先生に連絡を取った。しばらくしてスマホに返事が入り、「場所と時間によるけど、顔出せるかも」とのこと。
結局、俺たちはファミレスに入り、ドリンクバーを頼んでおしゃべりしながら待っていると、本当に本間先生がやって来た。
「おー、みんなお疲れ! 今日は頑張ったね」
そう言って本間先生は笑顔で席に着いた。生徒に混じってファミレスにいると、教師というよりちょっと年上の兄貴分みたいな雰囲気だ。
普段は教師として生徒を指導する立場だが、こうして私服姿でいる先生を見ると、やっぱり一般的な二十代の青年であることを再認識させられる。俺と雰囲気こそ違うものの、顔つきや体格はやはり似ている。
「いやー、今日は疲れたでしょ。みんな無事に怪我なく終わってよかったよ」
「先生は昼休みに音響トラブルも大変だったみたいで。けど『声援合戦』は面白かったですね!」
「うん、俺もアドリブで思いついただけなんだけど、予想以上に盛り上がって安心したよ」
そんな会話が続いて、やがて話題は「先生の高校時代」の話へ移った。
「先生は、高校のときはどんな生徒だったんですか?」
女子が興味津々に尋ねると、本間先生は苦笑い。
「いやー、俺はね、バリバリのサッカー部で、放課後も朝練もずっとサッカー漬けだったよ。部活ばっかりで、勉強は後回しになってたかも」
「やっぱり陽キャじゃん!」
みんなが笑う中、俺はふと疑問を口にしてみた。
「……先生、体育祭とか盛り上がるイベントは好きですよね。けど、普段は疲れたりしませんか? 今日とかも、ずっと動き回ってて……」
すると本間先生は少し意外そうな顔をしてから、笑顔を返す。
「そりゃ、疲れるよ。めちゃくちゃ疲れる。帰ったら速攻寝たいって思うし、休みの日はダラダラしてるよ。そんなもんだよ、誰だって」
その答えは、どこにでもいる普通の人間らしい答えだった。俺は拍子抜けしたような気持ちになりつつも、少し安心した。
ドリンクバーでジュースを取りに行った帰り、ふと他のクラスメイトたちが本間先生に「先生、洋服とかどうやって選んでるの?」と聞いているのが聞こえた。
「先生の私服ってどんなの? 今日の服おしゃれですね」
確かに、先生の私服はシンプルな黒とグレーのコーディネートでまとめられていて、派手さはないが落ち着いた感じ。
「おしゃれ……なのかな? 自分ではあんまりわからないんだよ。俺、色のセンスがなくてさ。黒とかグレーなら失敗しないかなと思って、そればっかり着てる」
そこで先生がさりげなく口にした言葉が、俺の耳にひっかかった。
「実は色があんまりわからないから、買い物も大変なんだよね……」
周りのクラスメイトは「え、そうなんですか?」と首を傾げるだけで深くは突っ込まなかったが、俺は確信に近いものを感じた。やっぱり、本間先生は色覚に何かしらの問題を抱えている。
打ち上げのあと、クラスメイトたちの間で「先生は無類のモノトーン好き」という軽い噂が流れた。「だから授業中のファッション談義にあまり乗ってこないんだ」とか、「派手な原色より落ち着いた色合いを着てるから大人っぽく見えるんだろう」なんていう評価で、深刻な意味には捉えられていないらしい。
しかし俺は、先生の様子や言動から、「単なる好み」という範囲を越えた“何か”を確信し始めていた。自分と外見がそっくりなのに、この一点だけが決定的に違う――それが色覚の問題なのではないか、と。
でも、だからといって、どうやって先生に問いただせばいい? それを言うのはセンシティブなことだし、先生が気にしているなら触れられたくないかもしれない。俺だって自分が言われたら嫌だろう。
ますますモヤモヤが募るばかりだった。
六月に入り、梅雨の季節が近づいてきたころ、俺は放課後に英語の補習を受けるために職員室を訪れた。テスト前で成績がやばそうだったし、地味に追い込まれていたのだ。
職員室にはちょうど本間先生しかおらず、静かな空気が漂っていた。
「先生、すみません。模試の対策で質問があるんですけど……」
「お、いいよ。どうした?」
隣の席に座り、参考書を広げる。先生は少し離れた位置から覗き込みながら、要点をわかりやすく教えてくれた。
「……なるほど、そういうことか。ありがとうございます。ほんと、助かります」
「うん、何となく理解できた?」
「はい。あとは単語を覚えればなんとかなりそうです」
俺がほっと息をついたとき、ふと先生は静かに言った。
「……澤田、最近ちょっと様子が変わった気がするけど、何かあった?」
「え?」
思いがけない言葉に、ドキリとする。
「別に悪い意味じゃなくて、前よりも何か考え込んでるような、そんな雰囲気を感じるんだ。俺の勘違いかもしれないけど……」
まさか色覚のことを考えているなんて言えない。
「いや、別に……。テスト前で焦ってるだけです」
曖昧に笑って誤魔化すと、先生は少し困ったように口を噤んだ。そして、小さく息をついてから言葉を続ける。
「……俺もいろいろ考えてるよ。似てるんだよな、俺たち。顔や体格がこんなに似てるのに、性格はまるで違う。でも、実は似た部分もあるかも……とかね」
「…………」
俺も返す言葉が見つからず、ただ黙り込んだ。先生からすると、自分にそっくりな生徒がいること自体が不思議なんだろう。何を考えているか、怖いような興味があるような――そんな気持ちなのかもしれない。
「……先生、色って、好きですか?」
思い切って、ほんの少しだけ踏み込んだ質問をしてみた。
「色? どういう意味?」
「例えば、服とか……」
俺が言葉を濁した瞬間、先生ははっとしたように口を結ぶ。そして、少し俯いてから、困ったように笑った。
「あー……そうだな。派手な色はあんまり好きじゃないかな。なんか似合わない気がして……」
それ以上は何も言わなかったが、俺はその表情に確かな「秘密」を感じた。
梅雨の真っ只中、連日じめじめとした雨が続く。部活をしている生徒たちは体育館や校舎内での練習が増え、不満そうだ。
そんなある日の放課後、俺は運悪く傘を忘れてしまった。下校しようにも、外は土砂降り。靴箱に置き傘もない。仕方なく雨宿りできる場所を探して校内をうろついていると、屋上へ続く階段に鍵が開いているのを見つけた。普段は施錠されていることが多いのだが、たまたま誰かが開けていたらしい。
興味半分で屋上へ出てみると、そこには屋根付きの小さなスペースがあり、校舎の一部が庇(ひさし)になって雨が当たらない場所があった。
「ここで雨がおさまるのを待とう……」
そう思って風のない場所を見つけ、スマホをいじりながら時間をつぶしていると、ガチャリというドアの音が聞こえる。
「え? こんなところに誰が?」
びっくりして振り返ると、やって来たのは本間先生だった。
「……澤田? こんなところで何してるんだ?」
「あ、先生……。あの、傘を忘れて……」
先生もどうやら屋上に用事があったわけではなく、見回りか何かの途中らしい。俺の姿を見つけて怪訝そうに目を細める。
「屋上は本来立ち入り禁止なんだけど、鍵が空いてたのか……。大丈夫か、雨宿り?」
「はい、雨が止むまで待とうと思って」
すると先生は、ポケットから折りたたみ傘を取り出して言った。
「よかったら、これ使って下に戻るか? 俺は学校にもう一本置き傘があるし」
「え、いいんですか?」
正直に言えば、ここで先生と二人きりになるのも妙に気まずい。しかし、傘がない限り帰ることもできない。
「ありがとうございます。でも、先生は……」
「俺は大丈夫。じゃあ、ここで鍵を閉める前に一緒に降りよう……と思ったけど、まだ雨、止まないな。もう少しここで様子を見ようか」
そう言って、先生は俺の隣に腰を下ろした。傍から見れば、並んだ二人はまるで兄弟に見えるんじゃないかと思うほど、外見が瓜二つだ。
しばらく沈黙が流れる中、雨音だけが響く。こんな状況は滅多にない。俺は緊張しながらも、何か話さなければという思いで口を開いた。
「……あの、先生は、なんで教師になったんですか?」
「どうした、急に?」
「いや、なんとなく……」
その問いに、本間先生は小さく笑う。
「うーん……俺は英語が好きだったし、大学のときの留学で出会った先生がすごく面白くてね。異文化交流とか、自分の国のことを英語で伝えたりするのが面白かったんだ。それで、教師になればそういうことを広められるかなと思ったんだよ」
「……そうなんですね」
「まあ、実際には受験英語とかいろいろあって、理想通りじゃない部分も多いけど。毎日生徒たちと過ごして、少しでも『英語って面白いかも』って思ってもらえたら嬉しいかな」
先生の目は、まっすぐ雨空を見つめている。俺はその横顔を盗み見ながら、やっぱり自分とそっくりだと改めて感じた。同じパーツが並んでいるのに、中身は違う。でも、何か惹かれるものがある。
気づけば俺は、ずっと気になっていたことを口走っていた。
「……先生、色が……苦手なんですよね?」
その言葉を聞いた瞬間、先生の顔がさっと曇る。俺は後悔した。失礼かもしれないのに、どうしても気になってしまって。
「……そうだな。まあ、確かにちょっとね……」
先生は言葉を選ぶように、ゆっくりと話し始める。
「俺は生まれつき色覚に少し問題があってね。特に赤と緑系統の色の区別が苦手なんだ。日常生活で大きく不便というほどじゃないけど、時々困ることはある。たとえば信号機は位置で判断できるから平気だけど、ファッションとか、美術とか、そういう場面では難しいときがあるな」
やはりそうだった。俺は心臓がドクドクして、どう返事すればいいかわからない。
「でも、別に隠してるわけじゃないんだ。生徒たちにはわざわざ言う機会がないだけでね。だから、今回みたいに話すのは初めてかもしれないな」
そう言って、先生は淡々とした表情を見せる。それは、自分のコンプレックスを肯定しているかのような、諦観のような、穏やかな表情だった。
「……じゃあ、先生は、赤とか緑とかがあんまり区別つかないんですか?」
「全然わからないわけじゃないよ。濃淡や明度である程度はわかる。ただ、例えば赤とオレンジの中間色なんかはどっちかわからなくなる。グラデーションがかかってると、もう判断が難しいんだ」
そういう先生の瞳を見つめていると、不思議と「同じ顔をしてるのに、ここまで違うんだな」と妙に納得してしまう。
俺と先生は外見が瓜二つ。でも、先生は赤と緑の区別が苦手。性格も真逆。これが俺たちの“根本的な違い”なんだ――そう理解することで、逆に自分の中のモヤモヤが少し晴れた気がした。
「……うん。やっぱりそうだったんですね」
俺が小さく呟くと、先生は苦笑して言う。
「もしかして気づいてた? まあ、澤田は観察力があるからな」
「観察力なんて……ただ、先生が色の話題で時々戸惑ってるように見えたんで……」
「そっか……。でも、気にしなくていいよ。澤田だって誰にも言われたくないことはあるだろうし、俺もあんまり大っぴらに言うつもりはない。けど、隠してるわけでもない。そういうスタンスなんだ」
その言葉に、俺ははじめて気づく。自分と先生は「同じようで違う」。その違いがあるからこそ、お互いにしかわからない部分もあるのではないだろうか。
屋上で本間先生の秘密を知ったあと、俺はなぜか自分自身の在り方について考え始めた。
先生にとって色覚はコンプレックスの一部かもしれない。だけど、それを受け入れて自分なりに工夫して生きている。教師になり、生徒を指導して、アクティブに動き回る。
一方で、俺には外見的な障害はない。見た目だけなら先生とそっくり。同じ顔なのに、俺は目立つことを避け、なるべく地味に過ごそうとしている。
「じゃあ、俺のコンプレックスはなんだろう?」
そう考えてみると、どうやら俺は「自分の存在が人前にさらされること」を極端に恐れている気がする。成績が悪いわけでもなく、特別に何かが苦手というわけでもないのに、ただ“目立つのが嫌だ”という理由で色々な機会を逃してきた。
「あの先生みたいに、自分を許容して生きられたら、もっと違う未来があるのかな……」
六月末、模試の結果が返ってきた。英語の点数は前回より少し上がり、本間先生の補習が功を奏したらしい。俺は「やればできるんだな」とほんの少しだけ自信を持つ。
そうして職員室へ行き、本間先生に報告した。
「先生、英語、少しだけ上がりました」
「おっ、良かったじゃん! やればできるんだよ、澤田は」
嬉しそうに笑う先生を見ていると、俺もつられて小さく笑みがこぼれる。
「……先生のおかげです。ありがとうございました」
「いやいや、澤田自身が頑張ったんだよ。自分をほめてあげな」
その後、ふとした拍子に自分の前髪を鏡で見て、「少し伸びたな」と思った。普段はぼさっと垂らしているだけだったが、気まぐれで美容院へ行き、少しだけ整えてもらうことにした。
「今回はどうします?」と美容師に聞かれ、「あまり派手にしたくないけど、なんか少しだけ印象変えたいんです」と伝えると、程よく短くして前髪を上げるスタイルにしてくれた。
帰宅後に鏡を見てみると、なんだか「本間先生に似てきたな」と思ってしまう。元々そっくりなのだから、髪型を合わせたら本当に瓜二つになるのかもしれない。
「でも、先生と一緒にされるのは嫌……じゃないな」
それは不思議な感情だった。以前なら絶対に避けたかった“先生に似ている”という評価。だけど今は、ほんの少しだけ肯定的に捉え始めている自分がいる。
七月に入り、期末テストが終わると、学校は一気に夏休みムードへ向かう。部活や補習、夏季講習などでそこそこ忙しいとはいえ、クラスの空気はどこか浮ついていた。
そんな中、俺はある日、校内で思わぬ場面に遭遇した。別のクラスの女子が泣きそうな顔で本間先生に詰め寄っている。
「……違うって言ってるだろう!」
先生が少し声を荒らげ、女子は「ひどい……先生、最低……」と唇を噛んで走り去る。近くには誰もおらず、俺だけが廊下の影からそれを目撃していた。
「……先生、どうしたんだろう」
普段の本間先生からは想像できない怒りの表情だった。
結局、その女子は何か誤解をしたらしい。先生が彼女の悩みを軽くあしらったと感じたのだろうか。それとも、何かきつい言葉を受け取ったのか。
いずれにしても、それは教師と生徒の間の微妙な境界線の問題なのかもしれない。俺も詳細を知らないし、口を挟む立場でもない。
しかし、その日、職員室へ行くと本間先生の机は空だった。ほかの先生に聞くと、少し早退したらしい。
「珍しいな……」
心配ではあるが、俺が首を突っ込むことでもない。そう考えて、その日は何もできずに帰宅した。
夜になって、スマホをチェックしていると、知らない番号から着信があった。念のため出てみると、なんと本間先生だった。
「あ、澤田? 急にごめん。学校の名簿を見て電話してみた」
「え、先生……? どうしたんですか?」
声のトーンが普段とは違う。少し沈んだようにも聞こえる。
「ちょっと話したいことがあって……今、大丈夫か?」
「ええ、まあ……」
まさか先生が生徒にこんなふうに個人的に連絡してくるとは思わなかった。けれど、どこか必死な雰囲気が伝わってきて、俺は自然と真面目な声になる。
「ごめんね、こんな電話。実は今日、ちょっと生徒とのトラブルがあってさ……」
やはり昼間のあの件だろう。先生は暗い声で続ける。
「正直、教師としてどう対処するのがベストだったのかわからなくて……。澤田、あの子と仲いい?」
「いえ……全然知らない子です」
「そっか……。なんか俺が思ってたこととうまく伝わらなくて、あの子を傷つけたみたいだ。あの子にとっては大事な悩みだったんだろうに……俺は十分に聞き出さずに『そんなに気にすることない』みたいに言っちゃったんだ」
先生の声は苦しげだ。いつもの明るいキャラが嘘のように沈んでいる。
「……そうなんですね」
「俺って、生徒にとって話しやすい存在でいたいと思ってたけど、単に『悩みを軽視する先生』になってるかもしれない。根本的に、相手の気持ちがわかってないんじゃないかって思うと……」
この言葉を聞いて、俺はハッとした。
先生は色覚だけじゃなく、人の心の微妙な部分も掴みきれないことを気にしているのかもしれない。
「そんなこと……先生はいつもみんなの話を真剣に聞いてるじゃないですか」
「そうかな……」
「……俺、思うんですけど、先生も完璧じゃないってことですよ」
言葉を選びながら続ける。先生に“救われる”立場が多かった俺だが、今夜ばかりは俺が先生を励ましてあげられないかと思った。
「先生は、俺たち生徒の前ではいつも明るく振る舞ってるけど、やっぱり悩みや失敗だってあるんじゃないですか。むしろ、そういう姿を知ったら、生徒はもっと先生に親近感が湧くかもしれない……」
「…………」
しばし沈黙が続いたあと、先生はふっと息を吐いた。
「……ありがとう、澤田。なんか、自分が生徒に慰められてるのも変な感じだけど、少し気持ちが楽になったよ」
それきり電話は切れたけど、俺の胸には不思議な充実感が残った。
夏休みに入り、部活組は合宿などで忙しいが、俺のように帰宅部の生徒はゆるやかな時間を過ごしている。とはいえ、成績が芳しくない科目がある生徒は補習を受ける必要があり、学校に通わざるを得ない。
俺は英語と数学の補習を受けることになった。英語はもちろん本間先生の担当だ。
補習といっても出席者は数名だけで、人数が少ない分、密度の濃い授業が行われる。正直、わかりやすいし、参加してよかったと思える内容だった。
電話事件以来、本間先生とはなんとなく気まずさが減った。先生もどこか吹っ切れたようで、以前よりも自然体で生徒に接しているように見える。
補習後、教室から出たところで、本間先生は俺を呼び止めた。
「おーい、澤田! 今日ちょっと時間ある?」
「え、あ、はい」
「よかったら、職員室に来てくれないか? ちょっと話したいことがある」
職員室にはほとんど人がいなかった。夏休み中だし、顧問の仕事や外出している先生も多いらしい。
本間先生の机の近くに椅子を持って来て、俺は腰掛ける。先生は少し小声で切り出した。
「……この間、電話で話した件、あの女子とはちゃんと話し合って誤解は解けた。俺が彼女の気持ちを軽くみてたわけじゃないってことも、伝えられたよ」
「そうなんですね。よかったです」
「うん。澤田が言ってくれたことも参考になった。ありがとう」
そう言ってから、先生は一呼吸置いて続ける。
「それでね、今度もしよかったら、澤田はどう生きたいのかって話を聞かせてほしいんだ」
「……俺が、どう生きたいか?」
突然の問いに面食らう。
「うん。もし嫌ならいいんだけど、俺は澤田が何を考えてるのか気になる。だって、自分にそっくりな外見を持つ、いわば運命的な存在じゃないか」
先生は冗談めかして笑うが、その表情はどこか真剣だ。
「似てるのは見た目だけなんだけど……それでも、やっぱり不思議だよ。だから、澤田がどんな人生を望んでるのか、聞いてみたくなった」
俺は答えに詰まる。自分がどう生きたいのか……考えたこともなかった。とにかく目立たずに平穏に過ごせればいい、そう思ってきただけだ。
「……正直、あんまり考えたことないです。夢とか、目標とか……」
「そっか」
先生は意外にも否定的な反応をしない。むしろ「それでいいと思うよ」と言わんばかりの優しい目をしている。
「ただね、俺は澤田にはもっと可能性があるんじゃないかと思う。外見のことだけじゃなくて、澤田には周りをよく観察する視点があるし、いろいろ気遣いもできるし。そういう部分を、もっと自由に活かしてもいいんじゃないかって、勝手に思ってるんだ」
俺はただ黙り込むしかなかった。その言葉を受け止めるには時間が必要だ。
夏休み半ばのある日、近隣の大きな花火大会が開催されるという話題がクラスメイトのグループチャットで盛り上がっていた。友達同士で行く奴もいれば、カップルで行く奴もいる。
俺はそういう行事に縁がないタイプだ。花火は好きだが、人混みが苦手で、行きたいと強く思うこともない。
ところが、クラスメイトの何人かが「一緒に行こうよ」と誘ってくれた。去年までは断っていたが、今年は少しだけ気が変わった。
「もしかしたら、何か新鮮な体験があるかもしれない……」
そう思って、重い腰を上げる。
そして迎えた花火大会当日。夕暮れ時の河川敷はすでに大勢の人で賑わっていた。俺はクラスメイト数名と合流し、適当な場所にレジャーシートを敷いて花火の打ち上げを待つ。
そんなとき、意外な人物が現れた。浴衣姿の女性と一緒に歩く私服姿の本間先生だ。
「先生……?」
思わず声をかけそうになるが、先生はまだこっちに気づいていない。しかも、隣にいる女性が先生の彼女なのかどうかもわからない。俺は慌てて隠れるように座り込む。
「どうした、澤田?」
「い、いや、なんでもない」
周りには先生を知るクラスメイトもいるが、まだ先生の姿に気づいていないようだ。俺はなんだか落ち着かず、視線だけを追っていた。
すると先生は女性と言葉を交わしたあと、笑顔で手を振りながら別の方向へ歩いていった。どうやら友人同士で来ていたらしく、偶然その女性とすれ違っただけかもしれない。
「先生も花火大会に来るんだ……」
外見がそっくりな二人が、同じ花火大会の会場にいる。こんな偶然があるのかと妙にドキドキする。
やがて花火が打ち上がり始め、夜空に大輪の火の花が咲く。ドーンという音とともに鮮やかな色彩が広がり、人々の歓声が巻き起こる。
「ああ、綺麗だな……」
そう思いつつも、俺はどこか心ここにあらずだった。理由は自分でもよくわからないが、もしかしたら「先生も同じ花火を見ている」と意識してしまうからかもしれない。
ふと、赤い花火が夜空を彩った瞬間、先生の言葉が頭をよぎる。「赤と緑の区別が苦手」と言っていたあの言葉。先生にはこの花火はどう映っているのだろうか。
「同じようで、きっと違う色の世界……」
そう思うと、不思議な切なさに胸が締め付けられた。
夏休みも終盤に差しかかった頃、学校から一通の案内状が届いた。登校日や補講のスケジュールが書かれた紙の中に、「大学オープンキャンパス見学会」の案内があったのだ。
成績優秀な生徒や興味のある生徒を対象に、バスをチャーターして某有名大学のキャンパスを見学に行くという企画らしい。
「へえ、オープンキャンパス……」
正直、俺には縁のない話だと思っていた。大学進学も具体的に考えているわけではないし、ましてや有名大学なんて関係ないと思っていた。
しかし、後日学校に行くと、本間先生が「澤田にもぜひ参加してほしい」と言ってくる。
「まだ進路を考えるのは早いと思ってるかもしれないけど、見学だけでもしてみたらどうだ? 刺激になると思うよ」
「でも、俺には……」
「見に行くだけならお金もかからないし、何か発見があるかもしれない。俺もその大学の近くに住んでたから、案内くらいはできるしさ」
先生の言葉に、断る理由も見つからない。夏休み最後のイベントとして参加してみるのも悪くないかもしれない。
そうして迎えた当日、俺を含めた十数名の生徒と数名の先生たちがバスに乗って大学へ向かった。
広大なキャンパスに足を踏み入れると、高校とはまるで空気が違う。学生たちが自由に歩き回り、サークルの勧誘やカフェテリアでの談笑など、未来の自分の姿を想像させるような光景が広がる。
「すごいな……」
俺がぼんやりとつぶやくと、隣で歩いていた本間先生が笑う。
「でかいよね、ここのキャンパス。俺も最初に来たときは迷ったよ。まあ、大学によって雰囲気は違うけど、一度見ておくのはいいことだよ」
学部ごとの説明会や資料をもらいながら回っているうちに、ふと英語系の学部ブースが目に入る。そこでは留学プログラムのパンフレットが並んでいた。
「海外……か。俺には縁遠いな」
そう思いながらパンフレットを手に取って眺めていると、先生が隣で言う。
「俺は大学時代、イギリスに留学したんだ。最初はわからないことだらけだったけど、やっぱり価値観が広がったよ。もし興味があるなら、将来そういう道もあるんじゃないか?」
「……俺が留学……?」
イメージが湧かない。でも、不思議と嫌な気はしない。「自分には無理だ」とはまだ断言できない何かがある。
大学のカフェテリアで休憩しているとき、他の生徒たちは「なんか難しそうだね」「都会っておしゃれだな」とか、それぞれの感想を語り合っていた。
俺はパンフレットをじっと眺めながら、ちらりと本間先生を見る。先生は少し離れたテーブルで他の先生方と談笑している。
「……俺も、先生みたいになれるのかな」
顔だけじゃなくて、内面も少しずつ変われるのかもしれない。先生は“自分の違い”を受け入れて生きているのだから、俺も“地味だ”とか“目立ちたくない”といった思い込みを、もう少し緩めることができるかもしれない。
そう考えると、なんだか胸が少しだけ軽くなった気がした。
八月末、夏休みが終わり、二学期が始まる。クラスメイトとの再会もほどほどに、すぐに授業と部活、文化祭準備などで学校は活気を取り戻した。
俺はと言えば、あまり大きく変わったわけではない。相変わらず目立たないし、クラスの中心にいるタイプではない。
けれど、自分の中で少しだけ思考が変化したことを感じていた。
「自分から何かに手を伸ばしてみるのも、悪くないかもしれない」
そういう気持ちが芽生え始めたのだ。
二学期といえば文化祭。クラスの出し物や展示、ステージ発表の準備でまたしても忙しくなる。
今年はクラスで「お化け屋敷」をやることになった。飾り付けや音響、演出など役割分担をして、放課後は皆でワイワイ作業する。
俺はメインの役者じゃなくて、照明やBGMの係を担当した。暗幕を貼ったり、音源を編集したり、やることはたくさんある。意外とこういう作業は嫌いじゃないので、集中して取り組んだ。
「澤田、なんか手際いいねー。助かるわ」
同じ係になった松井がそう言って感謝してくれると、ちょっと嬉しくなる。
本間先生は文化祭の実行委員会の顧問の一人らしく、放課後の準備風景を見て回っていた。俺たちのクラスにも時々やって来て、「手伝えることある?」と声をかけてくる。
「あ、本間先生、ちょうどいいや。このスモークマシンの配線がわからなくて……」
松井が機材の使い方を聞くと、先生は取扱説明書を読みながら「ここをこう繋げばいいんだね」とテキパキ対応する。
「澤田、どう? 順調?」
「ええ、まあ。あ、先生、色々ありがとうございました。オープンキャンパス、行ってよかったかもしれません」
「ああ、あれか。何か得るものはあったかな?」
「……なんとなく、自分にも可能性があるんだって思えた気がします」
静かにそう返すと、先生は満足そうに頷いた。その姿を見ていると、この人が“自分に似ているもう一人の自分”なんだと思えてくる。もしかしたら、自分の行く未来を先取りしている姿なのかもしれない――そんな不思議な感慨が湧いてきた。
秋の晴れた空の下、文化祭が開幕。校内は一般公開され、保護者や地域の人たちも多数来場する。お化け屋敷にも長蛇の列ができ、俺たちは順番に案内や演出を行ってバタバタ忙しい。
さらに、ステージ発表や軽音楽部のライブ、模擬店などイベントが目白押し。廊下や中庭は大勢の人で賑わっている。
そんな中、俺は仕事の合間に空き教室へ行き、少し休もうと思った。人混みはやっぱり疲れるし、気持ちに整理をつけたかったのだ。
誰もいない教室で窓際に立っていると、背後から聞き慣れた声がした。
「ここにいたんだ。大丈夫か、疲れた?」
振り向くと、本間先生がドアのところに立っている。
「うん、ちょっと休憩してます。人混みはやっぱり慣れなくて」
「そっか。俺もだよ。人が多いとテンション上がるけど、あとでガクッと来るんだよね」
そう言って、先生は笑う。
「……先生、ほんとに似てますね。そこだけは」
俺が苦笑交じりに言うと、先生は目を丸くしてから、くしゃっとした笑顔を見せる。
「似てるところがあって嬉しいよ。でも、澤田は俺と同じにならなくていいんだ。澤田は澤田のままで、ちゃんと輝けると思うし」
その言葉に、俺はハッとする。確かに俺は「先生みたいに変わりたい」と思っていた。けれど本間先生は、「お前はそのままでいい」と言っている。
「……でも、俺、ずっと目立たないままで、本当にいいのかなって」
心の奥底にあった不安を口にすると、先生は穏やかな目でこちらを見る。
「目立つことが全てじゃない。俺だって、色覚のことなんてできれば気にしたくなかった。けど、受け入れてからは、それも含めて自分なんだと思えるようになったんだ。澤田も、自分の地味さとか、恥ずかしがりなとことか、そういうの全部含めて“自分”として認められたら、案外楽かもしれないよ」
「……認める、か」
「好きなことを見つけて、少しずつ踏み出す。それでいいんじゃないかな」
先生の言葉は、まるで自分に言い聞かせるような、同時に俺を励ますような響きがあった。
こんなにも似ているのに、決定的に違う二人。俺たちはそれぞれ、自分のアイデンティティを模索している。先生は色覚の違いを抱えつつ、それを受け止めて生きている。
俺は俺で、地味である自分を卑下するのではなく、「それでもいい」と思えるようになりたい。
文化祭の喧騒の中、二人きりの教室で交わした会話は、俺にとって特別なものになった。
文化祭が終わり、季節は冬へと向かう。二学期の行事もひと段落し、あとは期末テストを乗り切れば冬休みが待っている。
俺は以前よりも少しだけクラスメイトとの距離を縮め、雑談などにも参加するようになった。相変わらず地味だけど、自分なりに少しずつ“外の世界”と関わる努力をしている。
本間先生は相変わらず社交的で人気者。だけど、時折「色の見分け」に苦戦している様子を見せることがある。周りの生徒も「ああ、先生はそういうものなんだ」と自然に受け止め、手助けする場面も増えた。
期末テスト直前の夜、再び先生から電話がかかってきた。
「澤田、勉強進んでるか?」
「まあまあ……先生、テスト前日に生徒に電話とか、珍しいですね」
「はは、ちょっと気になってね。英語の範囲、わからないとこあるなら聞こうかと思って」
普段はしないくせに、何だか気を使ってくれているのが伝わる。俺は思わず微笑んでしまう。
「大丈夫ですよ、たぶん。先生のおかげで英語はなんとかなる気がします」
「そっか。なら安心した。それじゃ、また明日のテスト頑張れよ」
「はい、ありがとうございます」
電話を切ったあと、画面に映る自分の笑顔を見て、昔の自分とは違う感覚を覚えた。人と関わることが、少し楽しくなってきている。
冬休みが終わり、三学期はあっという間に過ぎる。二年生の最後のテストや行事が終わるころ、俺の胸にははっきりとした意志が芽生えつつあった。
「大学を目指そう」
具体的にどこへ行きたいかはまだ迷っている。でも、先生のように留学をしてみたい気持ちもある。自分の世界を広げるために、もっと外へ出てみたい――そんな欲求が自分の中に生まれていることに気づいたのだ。
そして、三学期最後の日、俺は放課後の職員室で本間先生に言った。
「先生、俺、大学行こうと思います」
「おお、それはいいことだ。具体的に志望校は?」
「まだ決めかねてるんですけど……英語とか、海外とか、そういうのに興味が出てきました。だから、今後は勉強頑張ろうと思います」
そう言うと、先生は満面の笑みを浮かべて手を差し出してきた。
「いいぞ! 応援するよ。わからないことがあったら何でも聞いてくれ」
先生の手を握り返すと、まるで鏡を見ているような、不思議な感覚があった。
俺たちは同じ顔をしている。それでも、俺は先生とは違う道を歩むだろう。
だが、“同じように笑う”ことはできる。そのことが、何よりも嬉しかった。
高校二年生になったばかりの四月。クラス替えはもちろん、新しく入学してくる一年生や、今年度から赴任してくる先生たちもいる。そんな春の始まりは、多くの生徒にとって「新しい出会い」を意味し、胸を躍らせるような季節だろう。
だけど俺にとっては違う。
目立たずに生きていきたいと思っている人間にとって、「新しい出会い」や「新しい環境」はできれば避けたい代物だからだ。去年のクラスでは、その地味さゆえに自分から動かなくても周囲がそこそこ放っておいてくれた。中学時代からの友人数名とほどほどに距離をとり、クラスの端っこで空気のように過ごす。それが俺の理想の高校生活だった。
ところが、クラスが変わって教室も変わった今年度は、また最初から「人間関係づくり」をしなければならない可能性がある。転入生や新任教師がいれば、そうした人たちと自己紹介をし合う場面だってあるだろう。ああ面倒だ。
しかし、この世に「変化」ほど避けられないものはない。そう頭でわかっていても、足取りは重くなる一方だった。
「……はあ」
思わずため息が漏れた。そんな俺の姿を見ていたらしい同じクラスの女子――中島(なかじま)が、俺の机の横を通りながら「元気ないねー。大丈夫?」なんて言ってくる。
「……ああ、大丈夫」
小さく返事をして、気を使ってくれた彼女に一応笑みを返した。けれど中島は「あ、そう」とだけ返してすぐにどこかへ行ってしまう。ま、そんなもんだ。俺があまり会話を広げないタイプだから仕方ない。
いつもなら、こんな他愛ないやり取りだけで一日が終わってしまっても別にかまわない。ところが、今年は様子が違った。
最初に聞こえてきたのは、一年生の教室での会話かららしい。うちの学校に着任したばかりの新任教師が、なんと「かなりイケメン」で「面白そうな先生」で「しかも若い」というのだ。
「若い」といっても、先生はだいたい二十代後半か三十代くらいが多い。だから「面白そう」とか「イケメン」とかいう情報はまぁ珍しくもない。しかし、その新任教師はさらに「誰かにそっくり」「いや本当にそっくり」とも言われている。
はじめは「芸能人に似てるのかな」とか「先輩にそっくりな人でもいるのかな」くらいの話だった。
だけど、次第に噂の内容が「この学校の生徒にそっくりらしい」という話に変わっていった。そう、それが俺――澤田一成であるとは、この時点では誰も名指ししていなかった。しかし、目立たないとはいえ、同じ学年の生徒はそこそこ俺の顔を知っている。だからこそ「いや、あの地味な澤田に酷似してる教師なんてありえないだろう?」という怪訝な空気も流れていたらしい。
俺自身はそんな噂を耳にしても、「ふーん」としか思わなかった。自分と瓜二つの教師なんて、漫画みたいな設定だ。現実離れしている。
しかし、このあと、その「漫画みたいな設定」が現実として俺を打ちのめすことになる。
始業式当日、体育館に整列し、新任教師の紹介が行われた。名前は本間弘人(ほんま ひろと)。二十七歳。担当教科は英語。
一通り校長先生が挨拶し、新任教師の紹介をする。すると壇上に上がった若い男性が、一礼してマイクを手にした。
「はじめまして。今年度から英語を担当します、本間弘人です。まだまだ新米教師ですが、一緒に楽しく学んでいければと思っています」
そう言って顔を上げた瞬間、俺は心臓が止まるかと思った。
鏡を見ているようだった。
顔の輪郭から、眉の形、まぶたの感じ、目の大きさ、鼻筋、口の形までそっくり。さらに言えば髪型も同じ黒髪の短髪。身長や体格もほぼ同じぐらいで、少し遠くにいるのにまるで自分自身が壇上に立っているような錯覚さえ覚えた。
まさか、こんなことが本当にあるのか。
もちろんまったく同じかと言われれば、髪の分け目や微妙な表情の違いなど、細部の差異はある。けれど全体の印象は「瓜二つ」と言って差し支えないレベルだった。
体育館全体がざわつく。そりゃそうだ。たとえ俺が地味とはいえ、同じ学年に知り合いはいる。あとで「澤田に似てる……っていうか同じじゃない?」と噂になるのは確実だ。しかも、本人の俺が見ても「そっくり」だと感じるのだから、他人はもっとそう思うに違いない。
壇上の本間先生は自己紹介を続けていたが、俺の耳にはもうほとんど入ってこなかった。これからの一年間がいろいろと面倒なことになりそうだという絶望感だけが、じわじわと胸に広がっていった。
始業式後、ホームルームのために教室へ戻ると、早速クラスメイトたちの視線が痛いほどに突き刺さってくる。
「ねえ、聞いた? 新任の英語の先生、澤田にそっくりなんだって」
「いや、今の始業式で見たけど、あれは想像以上だったわ」
「澤田って地味だけど、あんなふうに明るく喋ったらカッコいいのかな?」
などなど、ヒソヒソ話す声が聞こえてくる。俺は苦々しい気持ちで机に突っ伏した。
「澤田、意外とイケメンだったんだな」
からかうように言ってくる男子もいれば、逆に「先生が澤田に似てるんでしょ」と訂正してくれる女子もいる。どっちにしろ恥ずかしくて居心地が悪い。気がつけばもう教室の中心はこの話題一色になっていた。
ああ、やっぱり今年のクラスでも目立ちそうだ。最悪だ。
翌日からはさらに輪をかけて、「澤田と本間先生」の話題が学校中を駆け巡った。どの学年も、新入生も上級生も、昼休みはほぼこのネタで持ちきりだ。
やがて、奇妙なあだ名が生まれる。
俺は「本間先生の“じゃない方”」。
一方の本間先生は「確変モードの澤田」。
要するに、同じ容姿なのに性格が正反対で、明るく社交的な本間先生は「澤田が本気出したらああなるんじゃね?」という発想らしい。あるいは「寝癖直して、オシャレして、スイッチ入れたら、澤田もああなるかもしれない」と茶化されているともいえる。
しかし、当の俺はそんな“確変”など起こる気配もなければ、起こしてほしいとも思わない。むしろこれを機にさらに地味に生きたい。
「澤田も髪型もうちょいセットすれば?」
なんて言われても「いいよ、面倒だし」と返す日々。
一方の本間先生は「じゃない方」なんて言われたら普通は嫌がりそうだけど、どうやら周囲に「なんで“じゃない方”なんて呼ぶの?」と笑いながら問い返して、そこから生徒と打ち解けてしまうコミュ力の高さを発揮していた。
まるで、俺の性格を真逆に反転させたようなコミュニケーション能力。憧れよりもむしろ、見ているこっちが気後れしてしまうレベルだ。
クラス替え後、二年生に配属された本間先生は、俺のいるクラスの副担任となった。ホームルームのときには担任とともに教室へ入ってくる機会があるし、英語の授業も週に数時間は俺のクラスで行われる。
「これからよろしくね、澤田」
最初にそう声をかけられたとき、俺は顔がこわばった。見た目が自分とそっくりの相手に声をかけられる異様さ。しかも相手は教師。どう振る舞えばいいのか、本当にわからなかった。
「……よ、よろしくお願いします」
ひきつった笑みしか返せず、目も合わせられない。
だが、本間先生は気を悪くする様子もなく、「そう固くならずにね」と優しい笑みを浮かべてくれた。それがさらに自分の姿を見ているようで苦痛でもあった。
その後、廊下で偶然すれ違ったときや、職員室前で会ったときなど、何度か挨拶を交わす場面があった。しかしいつも気まずい空気が流れる。
例えば廊下ですれ違いざま、本間先生が「おはよう」と声をかければ、周囲の生徒が一斉にこっちを見る。次の瞬間、一瞬の静寂があって、クスクスと笑い声が起こる。
「やべえ、本間先生と澤田が並んでる!」
「本当にそっくり! やっぱり本人たちも気になってるのかな?」
そんな茶化すような声が聞こえてくると、俺はそそくさと逃げるように通り過ぎるしかなかった。
本間先生も困ったような表情を浮かべてはいるが、その場を明るく取り繕おうとする。けれどクラスメイトやほかの先生の前ではどうしても「奇妙な沈黙」と「好奇の視線」が生まれ、そうこうしているうちに会話が自然消滅してしまうのだ。
こうしてしばらくの間、本間先生と俺は“ぎこちない関係”を持て余していた。お互いのことが気になっているのは確かだ。何しろ、自分とほぼ同じ顔と体格の人間なんてそうそういない。
けれど、無理に踏み込んだら絶対に妙な空気になる。だからちょうどいい距離感を探ろうとしても、その「ちょうど良さ」自体がわからない。教師と生徒という立場の差もあり、簡単に打ち解けられる関係でもない。
そんな中、世間話をしようにも周囲の視線が気になってできない。廊下で立ち話をすれば注目を浴びるし、職員室に行けばほかの先生や生徒たちがちらちら見る。
結局、まともに話せないまま数週間が過ぎていった。
春の新学期も落ち着き始めたころ、本間先生の英語の授業が本格的に始まる。
生徒たちの英語力を測るために、本間先生は「自己紹介シート」を書かせた。英語で自分の趣味や興味、日々の生活について簡単にまとめるプリントだ。
クラスの多くは「好きなアーティスト」とか「休日の過ごし方」など、よくある項目を数行の英語で書いて提出していた。もちろん俺も最低限必要なことだけ書いて出したが、本音を言えばこういうのは本当に面倒くさい。
すると、翌週の授業で、本間先生は一人ひとりのシートを読みながら軽いコメントをする時間を設けた。
「鈴木はフットサルが好きなんだね。俺も学生時代はサッカー部だったから、フットサルはちょっと似てるようで違う面白さがあるよね」
「吉田は海外旅行が夢なんだ。俺も大学生のときイギリスに行って、留学生活を楽しんだよ。機会があれば話聞きにきて」
そんなふうに砕けた口調で、親しみやすく生徒に声をかける。生徒たちも笑って応じるから、授業というよりはちょっとしたトークショーみたいだった。
そして俺の番が来る。
「澤田は……ん?」
本間先生が俺のシートを見て、一瞬眉をひそめる。
「……えっと……“I sometimes like reading books. But I often prefer to do nothing.”……」
読み上げられた英文に、クラスが笑いに包まれる。自分で書いた文章とはいえ、改めて音読されるとなんとも恥ずかしい。
「なるほど、『ときどき本を読むけど、何もしないでぼーっとする方が多い』ってことか。マイペースだね。まあ俺も、大学生の頃はよく家でゴロゴロしてたよ。寮にいたからすぐ友達が集まって賑やかになったけど、基本的には怠け者だし」
と言いながら、本間先生は笑顔を向ける。まるで俺に親近感を抱いているような表情だった。
そのとき、クラスの女子が手を挙げて言った。
「先生と澤田くん、外見はソックリなのに性格は全然違いますよね。先生はアクティブそうだし」
「うーん、そうかな。俺もインドア派なところはあるんだよ? 今はね、学校ではテンション上げてるけど、家に帰ると疲れてすぐゴロゴロしてる」
本間先生がそう答えると、「それってただの普通の人じゃん」とツッコむ声もあり、教室に笑いが広がった。俺はただ、照れくささと気まずさをごまかすために俯いていた。
しかし、そのやりとりの最中、俺はほんの一瞬、本間先生の視線に違和感を覚えた。視線というより、「目の動かし方」かもしれない。
何かを見るときの焦点が合っていないような、どこか探るような――そんな感じだ。
けれど、すぐにその仕草は消えてしまったので、気のせいだろうとそのまま流した。あまりにも一瞬だったし、授業中に細かいことを考えても仕方がない。
俺は英語の課題でわからないことがあって、放課後に職員室を訪れた。いつもなら極力行きたくない場所だが、提出期限が迫っていたのでやむなくの行動だ。
職員室に入ると、運よく本間先生が一人で座っていた。ほかの先生たちは部活指導やミーティングなどで不在が多いらしく、室内はやけに静かだった。
「あ、澤田。どうしたの?」
「あの、課題のここなんですけど……」
恐る恐るプリントを差し出す俺に、本間先生はフレンドリーに対応してくれた。
「ここの熟語は、前置詞が違うだけで意味が変わるからね。例えば……」
わかりやすい解説をしてくれる本間先生を見ていると、確かに生徒から人気が高いのも頷ける。俺は英語が得意ではないが、彼の説明はスッと頭に入ってきた。
「うん、そんな感じで大丈夫だよ。あと、例文を自分なりに作ってみるのもいいかもね。暗記するより、使い方の感覚を掴める」
「ありがとうございます」
そう礼を言って、プリントを受け取った。ふと、こんなときくらいは自分から少し踏み込んでみてもいいのかな、と思った。
「……あの……先生、大学はどこ行ってたんですか?」
恐る恐る聞いてみると、本間先生は「○○大学の外国語学部だよ」と答えてくれた。わりと有名な大学だ。
「そっか……。やっぱ頭いいんですね」
「あはは、まあ努力はしたかな。でも授業さぼったりはよくしてたよ……あ、澤田もこんな話興味ある?」
「いや……そういうわけじゃ……ないんですけど」
「そっか。まあ、何かあったらまたいつでも聞きにおいで」
最後のひと言は普通の教師のセリフと変わらない。でも、俺の中で何かがざわつく。この人をもう少し知りたい気持ちと、関わると面倒なことになる気持ちがせめぎ合う。
そして同時に、「自分にそっくりな人間が、こんな明るく過ごしている」という現実に、奇妙な敗北感のようなものを覚えた。
職員室を出ると、廊下でバッタリ出会った同級生の松井(まつい)に、「うわ、澤田、職員室で本間先生と二人きりだったの?」とニヤつき顔で聞かれた。
「いや、たまたま他の先生がいなくて……」
「何話したんだよー? やっぱ鏡合わせ感ハンパなかった?」
からかい半分で近づいてくる松井に、俺は「別に」とだけ返してその場を離れた。
結局、こうして周りの好奇の視線や茶化しが怖くて、なかなか本間先生と話しづらい。かといって避ければ避けるほど、不自然に思われるし、自分自身がモヤモヤする。
どうしたってギクシャクしてしまう関係。俺はいつまでこんな状態が続くのか、気が重かった。
そんなある日、放課後に図書室へ立ち寄った俺は、意外な場面を目撃した。
本間先生が、他のクラスの生徒にマンツーマンで英語の補習をしていたのだ。図書室の一角に席を取り、生徒のノートを覗き込みながら静かに解説している。
「なるほど、先生ってこういうときは落ち着いてるんだな」
いつもは明るく元気で社交的なイメージの本間先生。だが、生徒のペースに合わせながら丁寧に指導している姿は、とても穏やかで静謐(せいひつ)な雰囲気さえ漂わせていた。
その様子を眺めていたら、思わず近づきづらくなってしまい、俺は本を探すふりをしながら棚の向こうで様子を窺っていた。
そして、しばらくして補習が終わったらしく、生徒が「ありがとうございました!」と元気よく立ち上がる。本間先生は「お疲れさま。頑張ったね」と笑顔を向けていた。
すれ違いざまにその生徒と目が合ったが、相手は「あ、澤田だ」と軽く手を挙げて図書室を出ていった。すると取り残された本間先生と俺の間に、気まずい沈黙が落ちる。
「……澤田も、勉強か何か?」
「い、いえ、なんとなく本でも借りようと……」
「そっか。俺もここの静かな雰囲気は好きだよ」
その言葉に、少し意外な感じがした。明るい性格の人は騒がしい場所が好きなのかと思っていたので、図書室みたいな地味で静かな空間を好むとは考えていなかったのだ。
「……俺も、図書室は好きです」
思わずそう返すと、本間先生は少し嬉しそうに頷いた。
「そうなんだ。今度、おすすめの本があったら教えてよ」
「……はあ」
曖昧に返事をして、本棚の陰に隠れるように背を向けた。なんだか胸が少しだけ温かくなるような気がした反面、恥ずかしさもあった。
その週末、俺は自宅の本棚を眺めながら、ふと「先生におすすめしたい本なんてあるのか」と考えていた。
実は、派手に語るほどではないが俺は小説を読むのが好きだ。それこそファンタジーやSF、ミステリーから青春ものまで、わりと手広く楽しむ。でもあまり人に言ったことはない。地味な自分が、地味な趣味に没頭するのは人に知られなくてもいい。
ところが、本間先生と図書室で交わした何気ないやりとりが妙に頭に残っていて、もしかしたら今度雑談でもする機会があれば、ちょっと話してみようかなという気になっていた。
「俺に似てるのに、あんなに明るく生きてる。……何だろうな、この感じ」
小説の登場人物と自分を重ね合わせるように、本間先生との奇妙な縁を考え始める。もし自分が本間先生のように積極的だったら、もっと気軽に友達や先生と本の話で盛り上がれるんだろうか――なんて、たわいもない想像が膨らんだ。
五月の連休が明けると、学校は一気に体育祭モードに突入する。クラス対抗リレーや球技、応援合戦の準備が始まり、生徒会や実行委員が慌ただしく動き回る。
俺はといえば、競技にはできるだけ参加したくないタイプだ。走るのは遅いし、球技も下手。何より目立ちたくない。だから、クラスで役割分担が決まるときには、すぐに裏方に回るよう手を挙げた。
ところが、俺のクラスの担任と副担任――つまり本間先生も含めて――は「クラスの全員で盛り上がりたい」という方針で、裏方仕事ばかり希望する生徒をなんとか引っ張り出そうとしていた。
「せっかくだから、どれか一つは競技に出たほうが楽しいよ」
そう声をかけてきたのは、本間先生だった。
「い、いや……俺、走るの遅いんで……」
「そこはタイムや順位が重要なんじゃないんだ。みんなでやることに意味があるんだよ。ほら、リレーでも応援でも、何か一つやってみない?」
困ったように笑う先生を前に、俺は返す言葉もない。周りの視線も気になるし、断りづらい雰囲気だった。
「……応援合戦なら、声出さなくても……」
「いや、応援は声出さなきゃダメだろ!」
そこにクラスメイトがツッコみを入れ、一同が笑う。結局、俺はなんとなく応援合戦のパネル作成担当に回ることになった。それでも、当日は一応応援席にいて声を出す必要があるらしい。
パネル作りのために放課後に教室で作業していると、本間先生が様子を見にやってきた。
「おお、いい感じに進んでるね。細かいところまでよく描きこんでるなぁ」
「いや、絵は得意じゃないんですけど……。今は下書き段階なんで」
「でも作業は丁寧だよ。ありがとう。応援にも積極的に参加してくれるって聞いたけど、ちょっとは楽しみになってきた?」
「……まあ、そこそこ」
苦笑いを浮かべる俺を見て、本間先生は「焦らずでいいよ。こういう行事って、終わってみると案外楽しかったりするから」と優しく声をかけてくれた。
「……先生は、体育祭とか好きでした?」
思わず聞いてしまったのは、自分と同じ顔を持つ彼が“明るい体育会系”なのかどうか、気になったからだ。
「俺? んー……そうだね、高校の頃はめちゃくちゃ張り切ってたよ。リレー選手とか応援団長とかやったりしてね。あ、もちろん裏方の作業も大変なのは知ってるよ。だからね、澤田たちが頑張って作ってくれるものに感謝してる」
なるほどやはり正反対だ。だけど彼の言葉からは「裏方の努力を認めてる」感じが伝わってきて、少し救われた気がした。
ところが、何気ない会話の最中に、またあの「目の動かし方」が気になった。ほんの一瞬だったけど、パネルの色を指定する紙を見せたとき、本間先生が少し戸惑うように目を細めたのだ。
パネル作りにはカラフルな絵の具やマジックを使う。赤や青、黄などの原色を組み合わせ、そこにグラデーションやハイライトを入れていく。
ある日、色の配分をどうするか悩んでいた俺は、隣で作業しているクラスメイトに意見を求めた。
「ここ、やっぱり赤ベースにしたほうが映えるよな?」
すると、その会話に入ってきた本間先生が、こう言った。
「赤ベース……んー、赤? ここ、オレンジじゃないの?」
クラスメイトと俺は顔を見合わせる。
「え? 先生、これ明るめの赤ですよ」
「え、あ、そうか。ごめん、照明の加減かな」
そう言って誤魔化すように笑うが、そのとき俺は強い違和感を覚えた。
確かにオレンジ寄りの赤ではあるけど、誰がどう見ても“赤”に近い色だ。少なくとも見間違えるほどの差ではない。
「……先生、色とか苦手なんですか?」
何気なくそう聞いた俺に、本間先生は一瞬だけ言葉を詰まらせた。
「……いや、まあ、絵心はそんなにないからね……」
再び曖昧に笑う先生。クラスメイトたちは「先生、意外と絵下手なの?」なんて茶化しを入れてケラケラ笑っていたが、俺はどうしても気になって仕方がなかった。
その日の帰り道、どうしても本間先生の「色に対する反応」が引っかかり、スマホで「色覚異常」や「色盲」「色弱」といったワードを検索してみた。
“赤と緑の区別がつきにくい”とか、“特定の色の判別が苦手”といった症状があるらしい。もちろん個人差が大きく、軽度なものは日常生活にほとんど支障がないとも書かれていた。
「まさか……先生が色覚異常?」
正直、まだ確証なんてない。だけど、もしそうだったとしたらどうなる? 教員試験を通っているし、免許を取得しているのなら、生活に大きな支障が出るようなレベルではないのかもしれない。
俺自身、色覚異常ではない。もちろん赤緑を混同したりもしない。だからこそ、先生が“オレンジを赤と認識できない”ように見えたことが印象的だった。
これが、俺と先生の大きな違いだとしたら……?
ただ、何の根拠もない推測で騒ぎ立てるのは失礼だろうし、先生自身が隠しているのかもしれない。俺には何も言えない。
いよいよ迎えた体育祭当日。グラウンドにはテントが立ち並び、色とりどりのクラス旗や応援パネルが飾られている。俺たちのクラスも、作り上げたパネルを所定の場所に設置し、皆でワイワイ写真を撮ったりしていた。
「澤田、ほら、もうちょい笑って!」
クラスメイトからカメラを向けられて、仕方なく苦笑いする俺。そのとき、視界の隅に本間先生の姿が映った。先生は他のクラスの応援席で何かを手伝っているらしい。相変わらず忙しそうだ。
自分と同じ顔の先生が、同じ空間で汗を流していると思うと、不思議な気持ちになる。
午前中はリレーや障害物競走などの定番競技が行われ、昼休みをはさんで午後は応援合戦がメインイベントとなる。
各クラスがそれぞれ工夫を凝らし、ダンスやパフォーマンスを披露する中、俺たちのクラスも歌あり、掛け声ありで盛り上げる。俺は端っこのほうで手拍子をする程度だが、それでも意外と楽しいと思えてきた。
観客席からは担任や副担任である本間先生が声援を送ってくれる。いつもは気まずさが先行するが、こういう全体行事のときばかりは、それすら気にする余裕がない。
だが、そんな中でアクシデントが起こる。
他のクラスが応援合戦の最中、何やら音響トラブルがあったらしく、音楽が急に止まってしまったのだ。慌てて実行委員たちが対応に追われるが、なかなか原因がわからない。
「申し訳ありません。ちょっと機材トラブルが……!」
会場がザワザワしている中、本間先生が実行委員たちと一緒にスタッフルームへ駆け込んでいくのが見えた。俺たちはその様子を見ながら、ただ待つしかない。
やがて十分ほど経過しても、なかなか復旧しない。するとアナウンスが入る。
「えー、皆さんにお知らせします。ただいま音響機材に不具合が発生しており、応援合戦を一時中断いたします。修理を試みていますが、復旧の目途が立たない場合は……」
場内には溜め息や不満の声が広がる。せっかく準備してきた出し物が台無しになるかもしれない。気温も高いから、集中力が切れてしまう生徒もいるだろう。
そんな中、突然マイクを持った本間先生が戻ってきて、アナウンスブースに立った。
「えー、皆さんお疲れさまです。本間です。音響のトラブルで待たせてしまって申し訳ありません。実行委員や先生方が頑張ってくれてますが、もう少し時間がかかりそうです。
そこで、この空き時間をどうにか楽しいものにできないかと思いまして……」
本間先生は苦笑いしながら、何かを思いついたのか、続ける。
「ここで、急遽“声援合戦”なんてどうでしょう? 要はBGMは使わずに、応援歌や掛け声だけで盛り上げる。もちろん自由参加でかまいません。ちょっとアカペラ的な感じになるかもしれませんが、どうでしょうか?」
一瞬、会場は戸惑ったように静まった。しかし、次の瞬間、どこかのクラスの男子が「いいじゃん、それ!」と大声で応じ、それに続くように拍手や歓声が起こった。
「じゃあ、思い思いの応援歌をやっちゃってください! 恥ずかしがらずに、自由に声を出していきましょう!」
本間先生の弾けるような笑顔に引き込まれるように、生徒たちが次々に声を上げ始める。応援リーダーたちは瞬時に切り替え、チアリーディングの要領でコールを牽引していく。
気づけば、グラウンドは生徒たちの声援やリズムだけで大きな一体感を生み出していた。
そんな様子を端っこから眺めながら、俺は改めて思う。
「あの先生は、本当にスゴい」
見た目は俺とほぼ同じ。しかし、その行動力や判断力は桁違いだ。トラブルに遭遇しても、瞬時に場を盛り上げる発想とコミュニケーション力がある。正反対すぎて、いっそ清々しいほどだ。
一方、俺はといえば、声を出すのも億劫で、輪の外から見ているだけ。
「俺とは、やっぱり全然違う存在なんだよな……」
そう思った瞬間、ふと脳裏に「そういえば、あの先生には“違うところ”があるのかもしれない」という考えがよぎる。色覚の問題。確信はないが、それがもし本当なら、見た目こそそっくりでも決定的な違いを抱えていることになる。
あの人は“自分にないもの”をいっぱい持っている。だけど、もしかしたら“自分にはわからない苦労”があるのかもしれない。
体育祭が終わった日の夕方、クラスの有志で打ち上げをやろうという話が持ち上がった。といっても未成年なので、学校近くのファミレスで食事するだけのちょっとした会合だ。
俺は最初乗り気ではなかったが、結局みんなに引っ張られて参加することになった。
テーブルを囲んで、思い出話を笑いながら語り合うクラスメイトたち。リレーでこけた話や、応援合戦のハプニングなど、話題には事欠かない。
すると、誰かがふと思いついて言う。
「ねえ、本間先生も誘ったら来るかな?」
「え、先生がファミレスなんて来る?」
「副担任だし、どうだろう」
さっそく女子の一人が連絡網を使って本間先生に連絡を取った。しばらくしてスマホに返事が入り、「場所と時間によるけど、顔出せるかも」とのこと。
結局、俺たちはファミレスに入り、ドリンクバーを頼んでおしゃべりしながら待っていると、本当に本間先生がやって来た。
「おー、みんなお疲れ! 今日は頑張ったね」
そう言って本間先生は笑顔で席に着いた。生徒に混じってファミレスにいると、教師というよりちょっと年上の兄貴分みたいな雰囲気だ。
普段は教師として生徒を指導する立場だが、こうして私服姿でいる先生を見ると、やっぱり一般的な二十代の青年であることを再認識させられる。俺と雰囲気こそ違うものの、顔つきや体格はやはり似ている。
「いやー、今日は疲れたでしょ。みんな無事に怪我なく終わってよかったよ」
「先生は昼休みに音響トラブルも大変だったみたいで。けど『声援合戦』は面白かったですね!」
「うん、俺もアドリブで思いついただけなんだけど、予想以上に盛り上がって安心したよ」
そんな会話が続いて、やがて話題は「先生の高校時代」の話へ移った。
「先生は、高校のときはどんな生徒だったんですか?」
女子が興味津々に尋ねると、本間先生は苦笑い。
「いやー、俺はね、バリバリのサッカー部で、放課後も朝練もずっとサッカー漬けだったよ。部活ばっかりで、勉強は後回しになってたかも」
「やっぱり陽キャじゃん!」
みんなが笑う中、俺はふと疑問を口にしてみた。
「……先生、体育祭とか盛り上がるイベントは好きですよね。けど、普段は疲れたりしませんか? 今日とかも、ずっと動き回ってて……」
すると本間先生は少し意外そうな顔をしてから、笑顔を返す。
「そりゃ、疲れるよ。めちゃくちゃ疲れる。帰ったら速攻寝たいって思うし、休みの日はダラダラしてるよ。そんなもんだよ、誰だって」
その答えは、どこにでもいる普通の人間らしい答えだった。俺は拍子抜けしたような気持ちになりつつも、少し安心した。
ドリンクバーでジュースを取りに行った帰り、ふと他のクラスメイトたちが本間先生に「先生、洋服とかどうやって選んでるの?」と聞いているのが聞こえた。
「先生の私服ってどんなの? 今日の服おしゃれですね」
確かに、先生の私服はシンプルな黒とグレーのコーディネートでまとめられていて、派手さはないが落ち着いた感じ。
「おしゃれ……なのかな? 自分ではあんまりわからないんだよ。俺、色のセンスがなくてさ。黒とかグレーなら失敗しないかなと思って、そればっかり着てる」
そこで先生がさりげなく口にした言葉が、俺の耳にひっかかった。
「実は色があんまりわからないから、買い物も大変なんだよね……」
周りのクラスメイトは「え、そうなんですか?」と首を傾げるだけで深くは突っ込まなかったが、俺は確信に近いものを感じた。やっぱり、本間先生は色覚に何かしらの問題を抱えている。
打ち上げのあと、クラスメイトたちの間で「先生は無類のモノトーン好き」という軽い噂が流れた。「だから授業中のファッション談義にあまり乗ってこないんだ」とか、「派手な原色より落ち着いた色合いを着てるから大人っぽく見えるんだろう」なんていう評価で、深刻な意味には捉えられていないらしい。
しかし俺は、先生の様子や言動から、「単なる好み」という範囲を越えた“何か”を確信し始めていた。自分と外見がそっくりなのに、この一点だけが決定的に違う――それが色覚の問題なのではないか、と。
でも、だからといって、どうやって先生に問いただせばいい? それを言うのはセンシティブなことだし、先生が気にしているなら触れられたくないかもしれない。俺だって自分が言われたら嫌だろう。
ますますモヤモヤが募るばかりだった。
六月に入り、梅雨の季節が近づいてきたころ、俺は放課後に英語の補習を受けるために職員室を訪れた。テスト前で成績がやばそうだったし、地味に追い込まれていたのだ。
職員室にはちょうど本間先生しかおらず、静かな空気が漂っていた。
「先生、すみません。模試の対策で質問があるんですけど……」
「お、いいよ。どうした?」
隣の席に座り、参考書を広げる。先生は少し離れた位置から覗き込みながら、要点をわかりやすく教えてくれた。
「……なるほど、そういうことか。ありがとうございます。ほんと、助かります」
「うん、何となく理解できた?」
「はい。あとは単語を覚えればなんとかなりそうです」
俺がほっと息をついたとき、ふと先生は静かに言った。
「……澤田、最近ちょっと様子が変わった気がするけど、何かあった?」
「え?」
思いがけない言葉に、ドキリとする。
「別に悪い意味じゃなくて、前よりも何か考え込んでるような、そんな雰囲気を感じるんだ。俺の勘違いかもしれないけど……」
まさか色覚のことを考えているなんて言えない。
「いや、別に……。テスト前で焦ってるだけです」
曖昧に笑って誤魔化すと、先生は少し困ったように口を噤んだ。そして、小さく息をついてから言葉を続ける。
「……俺もいろいろ考えてるよ。似てるんだよな、俺たち。顔や体格がこんなに似てるのに、性格はまるで違う。でも、実は似た部分もあるかも……とかね」
「…………」
俺も返す言葉が見つからず、ただ黙り込んだ。先生からすると、自分にそっくりな生徒がいること自体が不思議なんだろう。何を考えているか、怖いような興味があるような――そんな気持ちなのかもしれない。
「……先生、色って、好きですか?」
思い切って、ほんの少しだけ踏み込んだ質問をしてみた。
「色? どういう意味?」
「例えば、服とか……」
俺が言葉を濁した瞬間、先生ははっとしたように口を結ぶ。そして、少し俯いてから、困ったように笑った。
「あー……そうだな。派手な色はあんまり好きじゃないかな。なんか似合わない気がして……」
それ以上は何も言わなかったが、俺はその表情に確かな「秘密」を感じた。
梅雨の真っ只中、連日じめじめとした雨が続く。部活をしている生徒たちは体育館や校舎内での練習が増え、不満そうだ。
そんなある日の放課後、俺は運悪く傘を忘れてしまった。下校しようにも、外は土砂降り。靴箱に置き傘もない。仕方なく雨宿りできる場所を探して校内をうろついていると、屋上へ続く階段に鍵が開いているのを見つけた。普段は施錠されていることが多いのだが、たまたま誰かが開けていたらしい。
興味半分で屋上へ出てみると、そこには屋根付きの小さなスペースがあり、校舎の一部が庇(ひさし)になって雨が当たらない場所があった。
「ここで雨がおさまるのを待とう……」
そう思って風のない場所を見つけ、スマホをいじりながら時間をつぶしていると、ガチャリというドアの音が聞こえる。
「え? こんなところに誰が?」
びっくりして振り返ると、やって来たのは本間先生だった。
「……澤田? こんなところで何してるんだ?」
「あ、先生……。あの、傘を忘れて……」
先生もどうやら屋上に用事があったわけではなく、見回りか何かの途中らしい。俺の姿を見つけて怪訝そうに目を細める。
「屋上は本来立ち入り禁止なんだけど、鍵が空いてたのか……。大丈夫か、雨宿り?」
「はい、雨が止むまで待とうと思って」
すると先生は、ポケットから折りたたみ傘を取り出して言った。
「よかったら、これ使って下に戻るか? 俺は学校にもう一本置き傘があるし」
「え、いいんですか?」
正直に言えば、ここで先生と二人きりになるのも妙に気まずい。しかし、傘がない限り帰ることもできない。
「ありがとうございます。でも、先生は……」
「俺は大丈夫。じゃあ、ここで鍵を閉める前に一緒に降りよう……と思ったけど、まだ雨、止まないな。もう少しここで様子を見ようか」
そう言って、先生は俺の隣に腰を下ろした。傍から見れば、並んだ二人はまるで兄弟に見えるんじゃないかと思うほど、外見が瓜二つだ。
しばらく沈黙が流れる中、雨音だけが響く。こんな状況は滅多にない。俺は緊張しながらも、何か話さなければという思いで口を開いた。
「……あの、先生は、なんで教師になったんですか?」
「どうした、急に?」
「いや、なんとなく……」
その問いに、本間先生は小さく笑う。
「うーん……俺は英語が好きだったし、大学のときの留学で出会った先生がすごく面白くてね。異文化交流とか、自分の国のことを英語で伝えたりするのが面白かったんだ。それで、教師になればそういうことを広められるかなと思ったんだよ」
「……そうなんですね」
「まあ、実際には受験英語とかいろいろあって、理想通りじゃない部分も多いけど。毎日生徒たちと過ごして、少しでも『英語って面白いかも』って思ってもらえたら嬉しいかな」
先生の目は、まっすぐ雨空を見つめている。俺はその横顔を盗み見ながら、やっぱり自分とそっくりだと改めて感じた。同じパーツが並んでいるのに、中身は違う。でも、何か惹かれるものがある。
気づけば俺は、ずっと気になっていたことを口走っていた。
「……先生、色が……苦手なんですよね?」
その言葉を聞いた瞬間、先生の顔がさっと曇る。俺は後悔した。失礼かもしれないのに、どうしても気になってしまって。
「……そうだな。まあ、確かにちょっとね……」
先生は言葉を選ぶように、ゆっくりと話し始める。
「俺は生まれつき色覚に少し問題があってね。特に赤と緑系統の色の区別が苦手なんだ。日常生活で大きく不便というほどじゃないけど、時々困ることはある。たとえば信号機は位置で判断できるから平気だけど、ファッションとか、美術とか、そういう場面では難しいときがあるな」
やはりそうだった。俺は心臓がドクドクして、どう返事すればいいかわからない。
「でも、別に隠してるわけじゃないんだ。生徒たちにはわざわざ言う機会がないだけでね。だから、今回みたいに話すのは初めてかもしれないな」
そう言って、先生は淡々とした表情を見せる。それは、自分のコンプレックスを肯定しているかのような、諦観のような、穏やかな表情だった。
「……じゃあ、先生は、赤とか緑とかがあんまり区別つかないんですか?」
「全然わからないわけじゃないよ。濃淡や明度である程度はわかる。ただ、例えば赤とオレンジの中間色なんかはどっちかわからなくなる。グラデーションがかかってると、もう判断が難しいんだ」
そういう先生の瞳を見つめていると、不思議と「同じ顔をしてるのに、ここまで違うんだな」と妙に納得してしまう。
俺と先生は外見が瓜二つ。でも、先生は赤と緑の区別が苦手。性格も真逆。これが俺たちの“根本的な違い”なんだ――そう理解することで、逆に自分の中のモヤモヤが少し晴れた気がした。
「……うん。やっぱりそうだったんですね」
俺が小さく呟くと、先生は苦笑して言う。
「もしかして気づいてた? まあ、澤田は観察力があるからな」
「観察力なんて……ただ、先生が色の話題で時々戸惑ってるように見えたんで……」
「そっか……。でも、気にしなくていいよ。澤田だって誰にも言われたくないことはあるだろうし、俺もあんまり大っぴらに言うつもりはない。けど、隠してるわけでもない。そういうスタンスなんだ」
その言葉に、俺ははじめて気づく。自分と先生は「同じようで違う」。その違いがあるからこそ、お互いにしかわからない部分もあるのではないだろうか。
屋上で本間先生の秘密を知ったあと、俺はなぜか自分自身の在り方について考え始めた。
先生にとって色覚はコンプレックスの一部かもしれない。だけど、それを受け入れて自分なりに工夫して生きている。教師になり、生徒を指導して、アクティブに動き回る。
一方で、俺には外見的な障害はない。見た目だけなら先生とそっくり。同じ顔なのに、俺は目立つことを避け、なるべく地味に過ごそうとしている。
「じゃあ、俺のコンプレックスはなんだろう?」
そう考えてみると、どうやら俺は「自分の存在が人前にさらされること」を極端に恐れている気がする。成績が悪いわけでもなく、特別に何かが苦手というわけでもないのに、ただ“目立つのが嫌だ”という理由で色々な機会を逃してきた。
「あの先生みたいに、自分を許容して生きられたら、もっと違う未来があるのかな……」
六月末、模試の結果が返ってきた。英語の点数は前回より少し上がり、本間先生の補習が功を奏したらしい。俺は「やればできるんだな」とほんの少しだけ自信を持つ。
そうして職員室へ行き、本間先生に報告した。
「先生、英語、少しだけ上がりました」
「おっ、良かったじゃん! やればできるんだよ、澤田は」
嬉しそうに笑う先生を見ていると、俺もつられて小さく笑みがこぼれる。
「……先生のおかげです。ありがとうございました」
「いやいや、澤田自身が頑張ったんだよ。自分をほめてあげな」
その後、ふとした拍子に自分の前髪を鏡で見て、「少し伸びたな」と思った。普段はぼさっと垂らしているだけだったが、気まぐれで美容院へ行き、少しだけ整えてもらうことにした。
「今回はどうします?」と美容師に聞かれ、「あまり派手にしたくないけど、なんか少しだけ印象変えたいんです」と伝えると、程よく短くして前髪を上げるスタイルにしてくれた。
帰宅後に鏡を見てみると、なんだか「本間先生に似てきたな」と思ってしまう。元々そっくりなのだから、髪型を合わせたら本当に瓜二つになるのかもしれない。
「でも、先生と一緒にされるのは嫌……じゃないな」
それは不思議な感情だった。以前なら絶対に避けたかった“先生に似ている”という評価。だけど今は、ほんの少しだけ肯定的に捉え始めている自分がいる。
七月に入り、期末テストが終わると、学校は一気に夏休みムードへ向かう。部活や補習、夏季講習などでそこそこ忙しいとはいえ、クラスの空気はどこか浮ついていた。
そんな中、俺はある日、校内で思わぬ場面に遭遇した。別のクラスの女子が泣きそうな顔で本間先生に詰め寄っている。
「……違うって言ってるだろう!」
先生が少し声を荒らげ、女子は「ひどい……先生、最低……」と唇を噛んで走り去る。近くには誰もおらず、俺だけが廊下の影からそれを目撃していた。
「……先生、どうしたんだろう」
普段の本間先生からは想像できない怒りの表情だった。
結局、その女子は何か誤解をしたらしい。先生が彼女の悩みを軽くあしらったと感じたのだろうか。それとも、何かきつい言葉を受け取ったのか。
いずれにしても、それは教師と生徒の間の微妙な境界線の問題なのかもしれない。俺も詳細を知らないし、口を挟む立場でもない。
しかし、その日、職員室へ行くと本間先生の机は空だった。ほかの先生に聞くと、少し早退したらしい。
「珍しいな……」
心配ではあるが、俺が首を突っ込むことでもない。そう考えて、その日は何もできずに帰宅した。
夜になって、スマホをチェックしていると、知らない番号から着信があった。念のため出てみると、なんと本間先生だった。
「あ、澤田? 急にごめん。学校の名簿を見て電話してみた」
「え、先生……? どうしたんですか?」
声のトーンが普段とは違う。少し沈んだようにも聞こえる。
「ちょっと話したいことがあって……今、大丈夫か?」
「ええ、まあ……」
まさか先生が生徒にこんなふうに個人的に連絡してくるとは思わなかった。けれど、どこか必死な雰囲気が伝わってきて、俺は自然と真面目な声になる。
「ごめんね、こんな電話。実は今日、ちょっと生徒とのトラブルがあってさ……」
やはり昼間のあの件だろう。先生は暗い声で続ける。
「正直、教師としてどう対処するのがベストだったのかわからなくて……。澤田、あの子と仲いい?」
「いえ……全然知らない子です」
「そっか……。なんか俺が思ってたこととうまく伝わらなくて、あの子を傷つけたみたいだ。あの子にとっては大事な悩みだったんだろうに……俺は十分に聞き出さずに『そんなに気にすることない』みたいに言っちゃったんだ」
先生の声は苦しげだ。いつもの明るいキャラが嘘のように沈んでいる。
「……そうなんですね」
「俺って、生徒にとって話しやすい存在でいたいと思ってたけど、単に『悩みを軽視する先生』になってるかもしれない。根本的に、相手の気持ちがわかってないんじゃないかって思うと……」
この言葉を聞いて、俺はハッとした。
先生は色覚だけじゃなく、人の心の微妙な部分も掴みきれないことを気にしているのかもしれない。
「そんなこと……先生はいつもみんなの話を真剣に聞いてるじゃないですか」
「そうかな……」
「……俺、思うんですけど、先生も完璧じゃないってことですよ」
言葉を選びながら続ける。先生に“救われる”立場が多かった俺だが、今夜ばかりは俺が先生を励ましてあげられないかと思った。
「先生は、俺たち生徒の前ではいつも明るく振る舞ってるけど、やっぱり悩みや失敗だってあるんじゃないですか。むしろ、そういう姿を知ったら、生徒はもっと先生に親近感が湧くかもしれない……」
「…………」
しばし沈黙が続いたあと、先生はふっと息を吐いた。
「……ありがとう、澤田。なんか、自分が生徒に慰められてるのも変な感じだけど、少し気持ちが楽になったよ」
それきり電話は切れたけど、俺の胸には不思議な充実感が残った。
夏休みに入り、部活組は合宿などで忙しいが、俺のように帰宅部の生徒はゆるやかな時間を過ごしている。とはいえ、成績が芳しくない科目がある生徒は補習を受ける必要があり、学校に通わざるを得ない。
俺は英語と数学の補習を受けることになった。英語はもちろん本間先生の担当だ。
補習といっても出席者は数名だけで、人数が少ない分、密度の濃い授業が行われる。正直、わかりやすいし、参加してよかったと思える内容だった。
電話事件以来、本間先生とはなんとなく気まずさが減った。先生もどこか吹っ切れたようで、以前よりも自然体で生徒に接しているように見える。
補習後、教室から出たところで、本間先生は俺を呼び止めた。
「おーい、澤田! 今日ちょっと時間ある?」
「え、あ、はい」
「よかったら、職員室に来てくれないか? ちょっと話したいことがある」
職員室にはほとんど人がいなかった。夏休み中だし、顧問の仕事や外出している先生も多いらしい。
本間先生の机の近くに椅子を持って来て、俺は腰掛ける。先生は少し小声で切り出した。
「……この間、電話で話した件、あの女子とはちゃんと話し合って誤解は解けた。俺が彼女の気持ちを軽くみてたわけじゃないってことも、伝えられたよ」
「そうなんですね。よかったです」
「うん。澤田が言ってくれたことも参考になった。ありがとう」
そう言ってから、先生は一呼吸置いて続ける。
「それでね、今度もしよかったら、澤田はどう生きたいのかって話を聞かせてほしいんだ」
「……俺が、どう生きたいか?」
突然の問いに面食らう。
「うん。もし嫌ならいいんだけど、俺は澤田が何を考えてるのか気になる。だって、自分にそっくりな外見を持つ、いわば運命的な存在じゃないか」
先生は冗談めかして笑うが、その表情はどこか真剣だ。
「似てるのは見た目だけなんだけど……それでも、やっぱり不思議だよ。だから、澤田がどんな人生を望んでるのか、聞いてみたくなった」
俺は答えに詰まる。自分がどう生きたいのか……考えたこともなかった。とにかく目立たずに平穏に過ごせればいい、そう思ってきただけだ。
「……正直、あんまり考えたことないです。夢とか、目標とか……」
「そっか」
先生は意外にも否定的な反応をしない。むしろ「それでいいと思うよ」と言わんばかりの優しい目をしている。
「ただね、俺は澤田にはもっと可能性があるんじゃないかと思う。外見のことだけじゃなくて、澤田には周りをよく観察する視点があるし、いろいろ気遣いもできるし。そういう部分を、もっと自由に活かしてもいいんじゃないかって、勝手に思ってるんだ」
俺はただ黙り込むしかなかった。その言葉を受け止めるには時間が必要だ。
夏休み半ばのある日、近隣の大きな花火大会が開催されるという話題がクラスメイトのグループチャットで盛り上がっていた。友達同士で行く奴もいれば、カップルで行く奴もいる。
俺はそういう行事に縁がないタイプだ。花火は好きだが、人混みが苦手で、行きたいと強く思うこともない。
ところが、クラスメイトの何人かが「一緒に行こうよ」と誘ってくれた。去年までは断っていたが、今年は少しだけ気が変わった。
「もしかしたら、何か新鮮な体験があるかもしれない……」
そう思って、重い腰を上げる。
そして迎えた花火大会当日。夕暮れ時の河川敷はすでに大勢の人で賑わっていた。俺はクラスメイト数名と合流し、適当な場所にレジャーシートを敷いて花火の打ち上げを待つ。
そんなとき、意外な人物が現れた。浴衣姿の女性と一緒に歩く私服姿の本間先生だ。
「先生……?」
思わず声をかけそうになるが、先生はまだこっちに気づいていない。しかも、隣にいる女性が先生の彼女なのかどうかもわからない。俺は慌てて隠れるように座り込む。
「どうした、澤田?」
「い、いや、なんでもない」
周りには先生を知るクラスメイトもいるが、まだ先生の姿に気づいていないようだ。俺はなんだか落ち着かず、視線だけを追っていた。
すると先生は女性と言葉を交わしたあと、笑顔で手を振りながら別の方向へ歩いていった。どうやら友人同士で来ていたらしく、偶然その女性とすれ違っただけかもしれない。
「先生も花火大会に来るんだ……」
外見がそっくりな二人が、同じ花火大会の会場にいる。こんな偶然があるのかと妙にドキドキする。
やがて花火が打ち上がり始め、夜空に大輪の火の花が咲く。ドーンという音とともに鮮やかな色彩が広がり、人々の歓声が巻き起こる。
「ああ、綺麗だな……」
そう思いつつも、俺はどこか心ここにあらずだった。理由は自分でもよくわからないが、もしかしたら「先生も同じ花火を見ている」と意識してしまうからかもしれない。
ふと、赤い花火が夜空を彩った瞬間、先生の言葉が頭をよぎる。「赤と緑の区別が苦手」と言っていたあの言葉。先生にはこの花火はどう映っているのだろうか。
「同じようで、きっと違う色の世界……」
そう思うと、不思議な切なさに胸が締め付けられた。
夏休みも終盤に差しかかった頃、学校から一通の案内状が届いた。登校日や補講のスケジュールが書かれた紙の中に、「大学オープンキャンパス見学会」の案内があったのだ。
成績優秀な生徒や興味のある生徒を対象に、バスをチャーターして某有名大学のキャンパスを見学に行くという企画らしい。
「へえ、オープンキャンパス……」
正直、俺には縁のない話だと思っていた。大学進学も具体的に考えているわけではないし、ましてや有名大学なんて関係ないと思っていた。
しかし、後日学校に行くと、本間先生が「澤田にもぜひ参加してほしい」と言ってくる。
「まだ進路を考えるのは早いと思ってるかもしれないけど、見学だけでもしてみたらどうだ? 刺激になると思うよ」
「でも、俺には……」
「見に行くだけならお金もかからないし、何か発見があるかもしれない。俺もその大学の近くに住んでたから、案内くらいはできるしさ」
先生の言葉に、断る理由も見つからない。夏休み最後のイベントとして参加してみるのも悪くないかもしれない。
そうして迎えた当日、俺を含めた十数名の生徒と数名の先生たちがバスに乗って大学へ向かった。
広大なキャンパスに足を踏み入れると、高校とはまるで空気が違う。学生たちが自由に歩き回り、サークルの勧誘やカフェテリアでの談笑など、未来の自分の姿を想像させるような光景が広がる。
「すごいな……」
俺がぼんやりとつぶやくと、隣で歩いていた本間先生が笑う。
「でかいよね、ここのキャンパス。俺も最初に来たときは迷ったよ。まあ、大学によって雰囲気は違うけど、一度見ておくのはいいことだよ」
学部ごとの説明会や資料をもらいながら回っているうちに、ふと英語系の学部ブースが目に入る。そこでは留学プログラムのパンフレットが並んでいた。
「海外……か。俺には縁遠いな」
そう思いながらパンフレットを手に取って眺めていると、先生が隣で言う。
「俺は大学時代、イギリスに留学したんだ。最初はわからないことだらけだったけど、やっぱり価値観が広がったよ。もし興味があるなら、将来そういう道もあるんじゃないか?」
「……俺が留学……?」
イメージが湧かない。でも、不思議と嫌な気はしない。「自分には無理だ」とはまだ断言できない何かがある。
大学のカフェテリアで休憩しているとき、他の生徒たちは「なんか難しそうだね」「都会っておしゃれだな」とか、それぞれの感想を語り合っていた。
俺はパンフレットをじっと眺めながら、ちらりと本間先生を見る。先生は少し離れたテーブルで他の先生方と談笑している。
「……俺も、先生みたいになれるのかな」
顔だけじゃなくて、内面も少しずつ変われるのかもしれない。先生は“自分の違い”を受け入れて生きているのだから、俺も“地味だ”とか“目立ちたくない”といった思い込みを、もう少し緩めることができるかもしれない。
そう考えると、なんだか胸が少しだけ軽くなった気がした。
八月末、夏休みが終わり、二学期が始まる。クラスメイトとの再会もほどほどに、すぐに授業と部活、文化祭準備などで学校は活気を取り戻した。
俺はと言えば、あまり大きく変わったわけではない。相変わらず目立たないし、クラスの中心にいるタイプではない。
けれど、自分の中で少しだけ思考が変化したことを感じていた。
「自分から何かに手を伸ばしてみるのも、悪くないかもしれない」
そういう気持ちが芽生え始めたのだ。
二学期といえば文化祭。クラスの出し物や展示、ステージ発表の準備でまたしても忙しくなる。
今年はクラスで「お化け屋敷」をやることになった。飾り付けや音響、演出など役割分担をして、放課後は皆でワイワイ作業する。
俺はメインの役者じゃなくて、照明やBGMの係を担当した。暗幕を貼ったり、音源を編集したり、やることはたくさんある。意外とこういう作業は嫌いじゃないので、集中して取り組んだ。
「澤田、なんか手際いいねー。助かるわ」
同じ係になった松井がそう言って感謝してくれると、ちょっと嬉しくなる。
本間先生は文化祭の実行委員会の顧問の一人らしく、放課後の準備風景を見て回っていた。俺たちのクラスにも時々やって来て、「手伝えることある?」と声をかけてくる。
「あ、本間先生、ちょうどいいや。このスモークマシンの配線がわからなくて……」
松井が機材の使い方を聞くと、先生は取扱説明書を読みながら「ここをこう繋げばいいんだね」とテキパキ対応する。
「澤田、どう? 順調?」
「ええ、まあ。あ、先生、色々ありがとうございました。オープンキャンパス、行ってよかったかもしれません」
「ああ、あれか。何か得るものはあったかな?」
「……なんとなく、自分にも可能性があるんだって思えた気がします」
静かにそう返すと、先生は満足そうに頷いた。その姿を見ていると、この人が“自分に似ているもう一人の自分”なんだと思えてくる。もしかしたら、自分の行く未来を先取りしている姿なのかもしれない――そんな不思議な感慨が湧いてきた。
秋の晴れた空の下、文化祭が開幕。校内は一般公開され、保護者や地域の人たちも多数来場する。お化け屋敷にも長蛇の列ができ、俺たちは順番に案内や演出を行ってバタバタ忙しい。
さらに、ステージ発表や軽音楽部のライブ、模擬店などイベントが目白押し。廊下や中庭は大勢の人で賑わっている。
そんな中、俺は仕事の合間に空き教室へ行き、少し休もうと思った。人混みはやっぱり疲れるし、気持ちに整理をつけたかったのだ。
誰もいない教室で窓際に立っていると、背後から聞き慣れた声がした。
「ここにいたんだ。大丈夫か、疲れた?」
振り向くと、本間先生がドアのところに立っている。
「うん、ちょっと休憩してます。人混みはやっぱり慣れなくて」
「そっか。俺もだよ。人が多いとテンション上がるけど、あとでガクッと来るんだよね」
そう言って、先生は笑う。
「……先生、ほんとに似てますね。そこだけは」
俺が苦笑交じりに言うと、先生は目を丸くしてから、くしゃっとした笑顔を見せる。
「似てるところがあって嬉しいよ。でも、澤田は俺と同じにならなくていいんだ。澤田は澤田のままで、ちゃんと輝けると思うし」
その言葉に、俺はハッとする。確かに俺は「先生みたいに変わりたい」と思っていた。けれど本間先生は、「お前はそのままでいい」と言っている。
「……でも、俺、ずっと目立たないままで、本当にいいのかなって」
心の奥底にあった不安を口にすると、先生は穏やかな目でこちらを見る。
「目立つことが全てじゃない。俺だって、色覚のことなんてできれば気にしたくなかった。けど、受け入れてからは、それも含めて自分なんだと思えるようになったんだ。澤田も、自分の地味さとか、恥ずかしがりなとことか、そういうの全部含めて“自分”として認められたら、案外楽かもしれないよ」
「……認める、か」
「好きなことを見つけて、少しずつ踏み出す。それでいいんじゃないかな」
先生の言葉は、まるで自分に言い聞かせるような、同時に俺を励ますような響きがあった。
こんなにも似ているのに、決定的に違う二人。俺たちはそれぞれ、自分のアイデンティティを模索している。先生は色覚の違いを抱えつつ、それを受け止めて生きている。
俺は俺で、地味である自分を卑下するのではなく、「それでもいい」と思えるようになりたい。
文化祭の喧騒の中、二人きりの教室で交わした会話は、俺にとって特別なものになった。
文化祭が終わり、季節は冬へと向かう。二学期の行事もひと段落し、あとは期末テストを乗り切れば冬休みが待っている。
俺は以前よりも少しだけクラスメイトとの距離を縮め、雑談などにも参加するようになった。相変わらず地味だけど、自分なりに少しずつ“外の世界”と関わる努力をしている。
本間先生は相変わらず社交的で人気者。だけど、時折「色の見分け」に苦戦している様子を見せることがある。周りの生徒も「ああ、先生はそういうものなんだ」と自然に受け止め、手助けする場面も増えた。
期末テスト直前の夜、再び先生から電話がかかってきた。
「澤田、勉強進んでるか?」
「まあまあ……先生、テスト前日に生徒に電話とか、珍しいですね」
「はは、ちょっと気になってね。英語の範囲、わからないとこあるなら聞こうかと思って」
普段はしないくせに、何だか気を使ってくれているのが伝わる。俺は思わず微笑んでしまう。
「大丈夫ですよ、たぶん。先生のおかげで英語はなんとかなる気がします」
「そっか。なら安心した。それじゃ、また明日のテスト頑張れよ」
「はい、ありがとうございます」
電話を切ったあと、画面に映る自分の笑顔を見て、昔の自分とは違う感覚を覚えた。人と関わることが、少し楽しくなってきている。
冬休みが終わり、三学期はあっという間に過ぎる。二年生の最後のテストや行事が終わるころ、俺の胸にははっきりとした意志が芽生えつつあった。
「大学を目指そう」
具体的にどこへ行きたいかはまだ迷っている。でも、先生のように留学をしてみたい気持ちもある。自分の世界を広げるために、もっと外へ出てみたい――そんな欲求が自分の中に生まれていることに気づいたのだ。
そして、三学期最後の日、俺は放課後の職員室で本間先生に言った。
「先生、俺、大学行こうと思います」
「おお、それはいいことだ。具体的に志望校は?」
「まだ決めかねてるんですけど……英語とか、海外とか、そういうのに興味が出てきました。だから、今後は勉強頑張ろうと思います」
そう言うと、先生は満面の笑みを浮かべて手を差し出してきた。
「いいぞ! 応援するよ。わからないことがあったら何でも聞いてくれ」
先生の手を握り返すと、まるで鏡を見ているような、不思議な感覚があった。
俺たちは同じ顔をしている。それでも、俺は先生とは違う道を歩むだろう。
だが、“同じように笑う”ことはできる。そのことが、何よりも嬉しかった。