「1話だけ大賞」続編 タイムスリップ自転車旅行 第2話 福井県・東尋坊 / 祖母?の自殺を阻止せよ!

第二話

 斉藤さんと別れ、自転車を漕ぎ出した途端に、僕はもう嫌気がさした。
 敦賀から、今日の見学地の東尋坊までは約85キロ、そこから宿泊予定地の芦原温泉駅まで行くと、一日の走行距離は約100キロになった。お正月に東京から箱根の芦ノ湖まで走る箱根駅伝と同じくらいの距離だ。
 僕の家は駅からも歩いて5分程度の所にあったので、普段から僕は自転車に乗ることすら稀だった。それも、お気楽な姿勢で乗れるママチャリでしかなかった。変速ギアなどついておらず、ペダルも軽かった。
 しかし、祖父の自転車は長期の旅行も可能なサイクリング車だ。体を前傾させるだけでも、僕には苦痛に思えた。小まめなギアチェンジも必要だ。長距離をそれなりのスピードを出して走らなければならないので、当然ペダルも重くなる。しかも、自転車には荷物が満載されていて、道も都心のように平たんではない。僕は祖父の自転車は、僕が知っている自転車とは別のもののように思えてきた。
 敦賀の市街地を抜けてしばらくして、日本海の海岸線沿いの道に入った。アップダウンが多く、僕はあっという間に閉口した。こんな苦行に自ら進んで身を投じた祖父の気持ちがまるで理解できなかった。
 嫌々自転車を漕ぐのは苦痛以外の何物でもなかった。初めて見る日本海も、その美しさを感じる余裕はまるでなかった。
 僕を苦しめたのは険しい道だけではなかった。温暖化が進んだ令和に比べればいくらかましだとは言っても、真夏の日差しは容赦なく僕をいじめた。地獄の業火に焼かれるとはこういうことかと思った。
 それでも僕は、ただ漕ぎ続けるしかなかった。

 お昼時になった頃、小さな集落に差し掛かった。体も疲れていたし、お腹も空いていた。どこか食事のできる所はないかと思っていたら、都合よく食堂が見つかった。僕は店の前に自転車を止めて店内に入った。
 空いた席に座り、店内に張られたお品書きの短冊に目を走らせた。蕎麦などの和食が中心だが、ラーメンからカレーライスまで揃っている。いかにも古い映画で見たような昭和の田舎の食堂という気がした。
 その中に一つ、気になる食べ物を見つけた。「他人丼」だ。聞いたことのない名前の食べ物だった。興味が湧いたので、僕は店員のオバサンに尋ねた。
「あの、他人丼って、どういうものなんですか」
「親子丼はご飯の上に鶏肉の卵とじが乗っているでしょう。他人丼は豚肉の卵とじが乗っているの。豚と卵は親子じゃないから他人丼ってわけ」
 オバサンはニコニコとして僕の質問に答えてくれた。僕はその未知の食べ物を試してみることにした。
「じゃあ、その、他人丼をください」
「はい、じゃあ少しお待ちください」
 オバサンはそう言うと、厨房の方に注文を伝えに行った。

 初めて食べる他人丼はかなり美味しい気がした。説明を聞いた時に味の想像はついたが、やはり未知の食べ物は新鮮だった。夏の日差しの中を何十キロも自転車を漕いできた身にとっては、他人丼は正に心と体の両方を満たすご馳走だった。
 しかし、それも束の間。昼食が済むと、また耐えがたい苦行が始まった。

 陽が西に傾き始めた頃、僕は私鉄の駅を通り過ぎた。そこから今日の見学予定地である東尋坊はそれほど遠くないはずだった。
「東尋坊」、それは、どこかで聞いたことがある地名だと思ったが、どんな所だったか思い出すことはできなかった。別にどんな所でも良かった。正直、僕は東尋坊には興味がなかった。しかし、祖父が見学地として予定していた以上、飛ばしてしまう訳にはいかなった。僕は自分に降りかかった運命をただ呪った。
 そうしてようやく僕は東尋坊の入口にたどり着いた。敦賀を出てから約85キロを走った末のことだった。
「やっと着いたか」 
 その言葉は歓喜のつぶやきというよりはむしろ邪悪な呪文のように響いた。僕は自転車を入口に止めて東尋坊の方に歩き出した。

 東尋坊は、細長い四角柱を隙間なく無数に並べてできた二つの崖の間が、入り江になっている場所というのが、僕の言葉で言い表せる限界だった。父方の祖母が古いビデオを引っ張り出しては見ていたサスペンスドラマの数々で、犯人たちが告白を始める場所として申し合わせたように出てくる崖のイメージとピッタリだった。
 観光地によくあるような掲示板を見たところ、「東尋坊」という悪徳僧が仲間の僧に崖の上から突き落とされて絶命したのが東尋坊という地名の由来だというのだから、中々に物騒な場所だ。
 
 僕はすっかり疲れてしまい、崖の近くのベンチに腰を降ろし、ぼんやりと海を見ていた。夕陽が水平線に近づいていた。
 ギラギラと光る夕陽が、今日、生まれて初めて見た日本海に沈んでゆく様は、さすがに感慨深いものがあった。とはいえ、何もそれを、汗水たらして自転車で見に来る必要があるとは思えなかった。歩いて登らなければたどり着けない富士山の頂上とは違い、東尋坊は電車やバスを乗り継いでくれば来られる場所なのだから。
 夕陽が沈んだ後も、僕はなんとなくその場所に留まっていた。それは、ただ疲れていて、すぐに動き出すことができなかっただけで、他には理由などなかった。
 しかし、そうは思わない人がいた。その人が、僕の背中から声を掛けてきた。
「お兄ちゃん、ちょっといいかな?」
 振り向くと、そこには優しそうなお爺さんが立っていた。
「お兄ちゃん、辛いことがあるのかもしれないけど、命を粗末にしちゃいけないよ。どうだい、君の悩みをオジサンに話してみては?」
 そう言われて僕は呆気にとられた。お陰で反応が少し遅れた。
「いえ、僕には悩みなんてありませんけど」
 この旅こそ悩みではあったが、それは、そのお爺さんに話してどうなるものでもなかった。
「そうかい、だったら、どうしてさっきから、そこに座ったままなんだい?」
「ああ、僕は自転車で旅をしているんですけど、敦賀からここまで自転車で来て、疲れていたから休んでいたところなんです」
「ほう、敦賀から自転車で。すごいな、で、これからどこまで行くんだ?」
「今日は芦原温泉駅までで、明日以降は金沢から高山を通って安曇野まで行く予定です」
「ほう、凄いな。大した根性だ。どうやら、私の見当違いだったようじゃな。じゃあ、交通事故にだけは気を付けてね」
 そういうとお爺さんは、僕を置いて去って行ってしまった。
 どうして、あのお爺さんは変な声掛けをしてきたんだろう。そんなことを考えながら、僕は辺りを見回した。するとあちこちに『早まる』、『考え直せ』、等と書かれた看板が立っているのが目についた。
 そして、僕はようやく思い出した。東尋坊は自殺の名所として有名な場所だったことを。つまり、さっきのお爺さんは僕が自殺をするのを引き留めようとしたのだ。たぶん、そういうボランティア活動か何かをしているのだろう。ならば、いつまでもこここに座っているのは良くないかもしれないと思ったが、疲れもあってすぐに立ち上がる気にもなれなかった。

 そのまま、しばらくベンチに座ったままでいると、不意に僕の隣に同年代の少女が腰を降ろした。ショートカットの可愛らしい少女だった。少女は何の前置きもなく突然、僕に誘いをかけてきた。
「ねえ、一人で行くのも寂しいから、良かったら一緒に行かない?」
「行くって、どこへ?」
「あの世に決まってるじゃない。あなただって、そのためにここに来たんでしょう」
 あまりのことに僕はひどく驚いた。どうやら少女は、先ほどのお爺さんと同じように僕を自殺志願者と勘違いしたようだった。
 それと同時に、僕は朝の斉藤さんの言葉を思い出した。「旅で人と出会う機会は、そうそうあるものじゃない」という話だ。ならば、今、僕の隣に座っている自殺志願者の少女は僕の祖母かもしれないということだ。そしてそれは、少女に自殺を思いとどまらせなければ、僕は消滅してしまうかもしれないということを意味していた。僕は冷や汗が出た。自殺志願者の説得、余りにもクリアが難しいゲームだと思った。
 しかし、まだ、少女が僕の祖母と決まったわけではなかった。確かめる必要があると思った。
「あの、君、名前は?」
「もうすぐ死ぬ人間の名前なんて聞いて何の意味があるの?」
 僕に同行を求めた人間にしてはつれない言い方だった。そして、少女の返事は僕を混乱させた。少女が僕の祖母であろうとなかろうと、僕は「死にたい」という人間を簡単に放置できるほどの人でなしではなかった。
 とはいえ、祖父の旅を計画通り実行しなければならない自分としては、少女が自殺しないように、ずっと少女に寄り添うこともできなかった。
 少女が僕の祖母ではないとはっきりすれば、少女の命よりも自分の命を優先することもできたが、それが分からない今、その選択肢はなかった。僕は完全に袋小路に陥った。
 混乱している僕に業を煮やしたのか、少女は僕を急かせた。
「ねえ、私の名前なんてどうでもいいでしょう。早く行こうよ」
「ちょっと待ってよ。僕は死ぬつもりなんてないよ」
「嘘でしょう。じゃあ、なんでこんな所にいつまでもぽつんと一人でいたのよ」
「いや、ちょっと疲れていたから休んでいただけだよ」
 それは本当だった。
「紛らわしことしないでよ」 
 僕は八つ当たりをされて少々頭にきた。
「君が勝手に誤解をしただけじゃないか。僕を責めるなんて見当違いだよ」
「何よ、いったい」
 言われて少女は怒りの方向を見失った。僕は、すかさず説得に入った。
「ねえ、君、死ぬなんて止めた方が良いんじゃないかな」
 そうだ、止めてくれなければ、僕が消滅してしまうかもしれないじゃないかとは言えなかった。
「この期に及んでお説教は止めてよ」
 そう言われても引き下がる訳にはいかなかった。とは言え、僕にはどうやって説得するか、まるで考えがなかった。だから最初に出てきた言葉はえらく馬鹿馬鹿しく響いた。
「こんな所から飛び降りたら、多分痛いと思うよ」
「何よ、それ、あなた馬鹿じゃない」
 死のうという人間にしては熱の籠った反応だと思った。何を言われようが、思い止まってもらうためには、話し続けなければならないと思ったが、次に出てきた言葉もろくなものではなかった。
「それにさあ、水に浸かった死体って、ガスが溜まってブクブクに膨れ上がって、それは醜くなるだよ。たぶん、魚にもつつかれるし。君みたいに奇麗な子がそんなになるのはもったいないと思うけどな」
「あなた、私をからかってるの?」
「まさか、大真面目だよ」
 僕の言葉に嘘は無かった。真面目に決まっている。何しろ僕の生存が掛かっているかも知れないのだから。
 さて、これからどうやって説得しようかと考えた時、先ほどのお爺さんのことを思いだした。お爺さんは「悩みがあるなら聞く」と言っていた。おのお爺さんは説得のプロだ。そうだ、あのお爺さんの真似をしてみようと思った。そう思ったらすぐに言葉が出てきた。
「ねえ、君、どうして死にたいと思ったの。何か悩みがあったんでしょう。良かったら僕に聞かせてくれないかな」
 少女は少し迷ったような表情を見せてから話し始めた。
「生きていても仕方がないからよ。人生に意味なんて無いもの」
「そう思ったきっかけは何だったの?」
「この春、高校受験に失敗したのよ。今の学校じゃあ、勉強なんてしたって何の意味もないわ」
 少女はひどく自分を恥じているようだった。
「なるほどね。でも、良い高校に行ったからって、意味のある人生が歩めるという訳ではないと思うよ。僕自身がそうだからね」
「どういうこと?」
「僕は東京の高校生で、一応、第一志望の学校に通っているんだけど・・・」
 言いかけた僕の言葉は少女の怒りによって遮られた。
「あなた、私を馬鹿にしているの?それとも自慢したいわけ?」
 僕は慌てて少女の言葉を否定した。
「とんでもない。自慢なんてできないよ。何しろ僕は、もう一月も学校に行っていないんだから」
「どうして行ってないの?」
「君と同じさ。一生懸命勉強しても、何の意味もないように思えたのさ」
「だったら私と一緒に死んでくれてもいいんじゃないの?」
 少女は、ようやく僕も同類だと思い始めたようだった。
「うん、でもそうはいかないかな。人生に意味なんて無いかもしれないけど、死にたいとは思っていないからね」
「つまりダラダラと生き長らえているって訳ね」
「恥ずかしながらその通りだね」
 真面目に勉強する意味を見失って引きこもりをしている僕が、少女に生きる意味を見出させよというのが土台無理な話だった。少女に翻意を促すことなどできそうにない気がした。そんなことを思っていたら少女に尋ねられた。
「ねえ、東京の高校生が死にたいわけでもないのに、一人でこんな場所で黄昏ているのはどういう訳?」
「さっき言っただろう。疲れたから休んでいただけだって。僕は自転車で旅をしているんだよ。これから長野県の安曇野まで行く計画なんだ」
「あら、随分と意欲的じゃない。さっき言ったことは嘘だったの?」
「違うよ。死にたくないから嫌々やっているだけさ」
「どうして、自転車で旅をしないと死んじゃうの?」
「まあ、それはちょっと込み入った事情があってね」
「ああ、そう。言いたくないなら言わなくてもいいわ。たいして興味もないし」
「ありがとう」
 変なタイミングで礼を言っている自分が馬鹿に思えた。「興味がない」と言ったくせに少女は問いを投げかけてきた。
「それで旅をしていて何か良いことはあったの?」
「何もないかな。苦しいばかりで、どうしてこんなバカなことをしなければならないんだろうと思ったよ」
「だったら、そんな馬鹿なことは止めて、私に付き合ってくれても良いんじゃない?」
「うん、そうしてあげたい気もするけどね」
 そう言った直後にまずいと思った。少女に同調してどうするんだ。何かとにかく、生きることに希望が持てるような話をしなければと思った。しかし、とっさに思いついたのは、やはり的外れのようなネタでしかなかった。でも、とりあえず僕はそれを口にした。
「ああ、でもちょっとだけ、変わったことがあったよ。今日、生まれて初めて他人丼という料理を食べたんだ。随分と色々な勉強をしてきたけれど、そんな食べ物が存在するなんて昨日までは全く知らなかった訳で、なんだか新鮮な驚きだったよ」
「それで、その他人丼ってどんなものなの?」
「教えたら面白みがないじゃないか。自分で探してみたらどうだい」
「あなた、そんな下らないことを理由にして私に自殺をやめさせようとしている訳?」
「まあ、他人丼は単なる一例さ。僕はつい昨日まで、自分が自転車で旅をして、他人丼という未知の食べ物に出会うなんて想像もしていなかった訳さ。つまり、明日何があるかなんて誰にも分かりはしないのさ」
「あら、そう。でも、あなた、昨日は考えもしなかったひどい目に今日あっているんでしょう。ということは、私も、明日は今日よりも辛いことが待っているかも知れないってことよね」
「そうかもしれないね」
 僕は自分の話が逆効果だったと嘆いたが、後の祭りだった。さて、この後、どうしたものかと考えていたら逆に少女から質問をされた。
「ねえ、あなた、第一志望の学校に通っているって言ってたけど、それって底辺校なの?」
「そうだよ。どうして」
「私を説得しようという気持ちは分かるけど、逆の落ち込むような話をしているじゃない。だから、バカなんじゃないかって思ったのよ?」
「どうかな、僕の学校にも『自殺志願者の説得』なんて授業はないからね。上手くいかなくても仕方がないんじゃないかな。これでも僕はベストを尽くしているつもりなんだけどな。君には死んでほしくないからね」
「見ず知らずの私が、死のうが生きようがあなたには関係のないことじゃない」
 関係あるかもしれないとは言えなかったが、僕は言葉を繋いだ。
「関係あろうとなかろうと、『死ね』という人間を放っておくわけにもいかないだろう」
「いいから、放っておいてよ。暗くなったら自転車を漕いでゆくのも大変なんじゃないの」
 少女の言う通りだった。とはいえ、やはり、僕は少女を放置して行く訳にはいかなかった。しかし、人生経験の少ない十六歳の少年には、自殺志願者を説得する言葉の持ち合わせなどなかった。結果として僕は、黙ったまま少女の隣に腰を降ろしているだけになった。
 そんな僕にとうとう少女は怒りをぶつけてきた。
「ねえ、私に付き合う気がないなら、さっさと消えてよ」
「そういう訳にもいかないよ」
 言ったきり、後には繋ぐ言葉はまるで浮かんでこなかった。そして、僕は、また黙って少女の隣に座り続けた。すると少女は更にきつい言葉を投げつけてきた。
「まったく、男の癖に優柔不断ね。私に付き合うか見捨てるか、さっさと決めなさいよ」
「無理を言うなよ。どっちもできないよ」
 本音だった。
「本当に情けない男ね」
 少女は吐き捨てるように言った。そうまで言われても、僕は、やはり少女の隣に座っていることしかできなかった。
 いよいよ辺りが暗くなり始めた頃、不意に少女が口を開いた。
「しょうがないわね。とりあえず、今日は死ぬのは止めるわ」
「良かった。思い止まってくれたんだね」
 僕がそう言うと、少女は、また怒りを露わにした。
「そうじゃないわよ。あなたが余りにも情けないから可哀そうになっただけよ。それに、死ぬ気もないあなたを、勘違いで巻き込んだのは私の責任だしね」
 少女は一度言葉を切ると、僕の意向を確かめに入った。
「私がここにいたら、あなたはここから離れられないんでしょう」
「そうだね」
「だから、私が先にここから消えれば、あなたはここから立ち去れるよね。その後のことは気にしなければいいのよ。明日、私が死んだってあなたには分かりはしないんだから」
 そう聞いて、少女が本気でそう言っていたのか、翻意したことを素直に認められなかったのか、僕には分からなかった。動けずにいる僕を横目に少女は立ち上がった。
「じゃあね、私が先に消えるけど、跡をつけたりしないでね」
 言い置いて歩き出した後、少女はふと足を止めた。
「ところで、他人丼ってどんな食べ物なの?」
「君の名前を聞かせてくれたら教えてあげるよ」
 少女が祖母であるかどうか確かめるチャンスだと思った。しかし、それは、さらりと少女にかわされた。
「あなたに名前を教えるくらいなら自分で調べるわよ」
 そう聞いた時、僕は、たぶん、少女はもう自殺はしないだろうと思った。そして、同時に、僕に名前も連絡先も教えないままどこかに去って行こうとしている少女は、僕の祖母ではないのだろうと思った。
 少女が視界から消えるのを待って僕は自転車を置いた場所に引き返した。

 東尋坊を出ると、すぐにすっかり夜になってしまった。暗い道を、僕はひたすらに今日の宿泊地である芦原温泉駅に向かった。暗い道を走りながら、僕は少し不安になってしまった。道に迷って人里離れた山の中にでも迷い込んだりしないかと思った。
 しかし、それは杞憂に終わった。一時間もしないうちに、僕は芦原温泉駅のすぐ手前にたどり着いた。シャワーでも浴びたい気分だったが、駅で野宿をするのだから、叶わぬ望みだと思った。
 しかし、神は完全に僕を見捨てた訳ではなかった。信じられないことだったが、駅のすぐ近くに銭湯があったのだ。地獄の仏とはこのことかと思った。利用しない手はなかった。
 だが、自転車に荷物をつけたままで銭湯に入るのは不安だった。荷物を盗まれてしまったら、それは僕の消滅に繋がりかねなかった。仕方なく、僕は全ての荷物を自転車から取り外して銭湯に持ち込んだ。
 しかし、苦労して銭湯に荷物を持ち込んだ僕は絶句した。脱衣場のロッカーにはなんと鍵が付いていなかったのだ。ありえないと思った。令和の時代に、銭湯のロッカーに鍵がついていなかったら、そこは泥棒天国だ。
 ところが、僕以外の客は、ロッカーに鍵が付いていないことなど、まるで気にしていないようだった。僕は、まるで異世界に迷い込んだような気分になった。
 結局のところ、僕は荷物、特に財布が盗まれるのではないかという不安をぬぐい切れず、折角の風呂だというのに、のんびりと湯につかっていることができなかった。お陰で所謂カラスの行水になってしまった。

 銭湯の前で、自転車に荷物をつけていると、つくづく惨めな気分になってきた。どうして僕は、こんなバカなことをしているのだろうか。そんな思いばかりが頭の中で渦を巻いていた。
 それでも、やはり腹は減るものだった。何か旨いものを食べたい気分だったが、1978年の貨幣価値も分からない僕は、様子が分かるまでは節約に努めなければならなかった。そんなところに、たまたま、まだ開いていたパン屋が目についたので、僕はそこでパンを買って、それらを夕食にすることにした。

 銭湯から芦原温泉まではすぐだった。僕はさっき自転車に取り付けたばかりの荷物を再び外しながら我が身の不幸を呪った。とりあえず、今日の目的地にたどり着いたものの、僕はゆっくりと体を休めることも許されていなかった。
 取り外した荷物を抱えて僕は駅の階段を上った。芦原温泉駅は、夜中も夜行列車が通るため一晩中開いているようで少しほっとした。真っ暗闇の中に一人取り残されるのはやはり不安だった。
 僕が待合室に入り、ベンチに座って一息ついた頃に、駅員が通りかかった。駅員は僕が野宿目的なのを察したようで少し嫌な顔をしたが、追い出されることはなかった。
 駅のベンチは、数人が横並びで座れるフラットな形状で、その上に寝袋を敷いて寝るのにはちょうど良かった。令和の駅のベンチが、一人用の椅子が連結した構造になっているのは、酔っ払いが寝たりしないようにするためだったのかと思った。今日まで、そんなことに思いを巡らしたことなどなく、他人丼と同様に、なんとなく新鮮な発見をしたような気がした。
 寝るにはまだ早い時間だったが、他にすることもないので、僕は眠くなるのをただ待つしかなかった。スマホさえあればいくらでも時間が潰せるのにと思ったが、無い物ねだりをしても仕方がなかった。
 十時を過ぎると、さすがに退屈にも耐えがたくなってきたので、僕は寝ることにした。ベンチの上に寝袋を敷き、空気枕に息を吹き込んで膨らませた。靴を脱ぎ、寝袋に潜り込んで横になったものの、すぐには眠りには就けなかった。夏用の薄い寝袋はクッションの役は果たしてくれなかったし、枕も慣れたものではない。硬く狭苦しいベンチの上で寝るというのは至難の業だった。
 暗闇に一人ぼっちにならないのが良い半面、待合室に煌煌と点く明かりは眠りの妨げになったし、時おり、僕を汚いものでも見るような眼で見る駅の利用客の視線も気になった。
 どうして僕がこんな目に合わなければならないのだろう、改めて思った。今日一日を振り返ってみるととんでもないことの連続だった。
 生まれて初めて母方の祖父に会って嫌味を言われた。1978年にタイムスリップして祖父の体に憑依した。未知の食べ物に出会った。約100キロを自転車で走った。自殺志願者の少女に出会った。鍵付きのロッカーの無い銭湯に驚愕した。挙句の果てに駅で野宿だ。
 明日、目が覚めたら、自宅の布団の中にいた、そんなシナリオを夢みながら僕は眠りに就いた。

第2話 終

第3・4話 予告
第3話 
芦原温泉駅を後にした隆史は、金沢へ・・・
第4話 
金沢から白川郷方面に向かった隆史は、美少女の住む寺に泊まり、恐怖の一夜を過ごすことに・・・


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