はっきりと言う。うちのクラスは終わっている。
教育に力を入れ、毎年難関大学に多数の合格者を輩出している私立塔上学園高校。私が在籍する1年A組はいわゆる特進クラスで、成績優秀な生徒が名を連ねている。それだけ聞くと、輝かしい優等生集団な印象かもしれないけど、うちのクラスは大きな問題を抱えている。
そうでなければ、受験を見据えた体制の一環として、担任教師が持ち上がりで三年間一つのクラスを受け持つことが基本のこの学校で、1年A組の担任だけが、たった半年間で二人も交代になるはずがない。
一人目、入学して最初に担任になった山神律子先生は六月に担任を降り、急遽系列校に異動。そのまま副担任の塩見肇先生が担任に繰り上がったけど、夏休み明けには休職してしまった。
塩見先生が休職されてから一ヶ月。学年主任の先生が一時的に1年A組の担任を兼任されていたけど、新しい担任の先生が決まったそうで、今日からこの教室にやってくる。どうやら学園に在籍している教師ではなく、新規に採用された教師らしい。裏を返せば、既存の教師は誰も1年A組を担任しないということになる。山神先生、塩見先生がどうなったのかを知っていれば、誰も1年A組を担当したがらないのは当然だ。それを新しく着任する教師に任せるのだから、よっぽど優秀な人材か、新顔を生贄に捧げたかの二択だろう。いや、きっと後者だ。新しい教師を投入して、学校側は様子を見る気に違いない。
一部の過激な生徒が、担任教師を追い詰める地獄のようなクラス。当該生徒たちは成績は優秀だし、表面上は問題児にはまったく見えないが、気に入らない教師を内輪で徹底的に追い詰める。おまけに主犯格の親が、学校に多額の寄付をしている有力者なのだから性質が悪い。
他の教師や経営陣は生徒や親の顔色を伺うばかりで根本的な問題解決には乗り出さず、対応は全て担任に丸投げしている。それはサンドバックになれと言っているのと同義だ。今回やってくる新任の教師だけではない。思えば1年A組の担任教師はずっと学校側の捧げる生贄だったのかもしれない。
特進クラスだけあって全員が成績優秀で、学業に目立った遅れは確認されていない。ただただ、担任の首だけが挿げ替えられていく。ある意味では最悪の学級崩壊かもしれない。
私は教師いじめには加担していないけど、ずっと傍観を決め込んでいた私も同罪なのだろう。こんなことはもう止めた方がいいと、言葉は何度も喉元まで出かかったけど、結局は全て飲み込んできた。嬉々として教師を追い込むような連中に意見したら、次は確実に私が標的になる。
基本的には、卒業まで同じクラスのまま進級していくのだし、目立つことは得策ではない。我ながら勉強は得意な方だと自負しているし、物事にあまり動じるようなタイプでもない。このまま静かにやり過ごせば、受験もそつなくこなせる自信はある。だからこそ新しい教師がやってきても、私は積極的に助けてあげることはたぶんしない。出来るのはせいぜい、同情を寄せることだけだ。
朝のホームルームの時間となり、ベテランの学年主任、黒木伊和雄先生に連れられ、新しい担任が教室に姿を現した。二十代後半ぐらいの男性で、長身でスタイルが良い。ダークブラウンのスーツをきっちりと着こなしていた。髪は爽やかな短髪で、その分、表情が生き生きとしていてよく映えている。純真無垢な少年のように晴れやかな笑みを浮かべているのがとても印象的だった。
これまでにこのクラスで何が起きてきたのか、何も知らないはずはないと思うけど、自分は大丈夫だと状況を楽観視しているのか、あるいは経緯を知ればこそ、関係構築のために第一印象を良くしようと努めているのか。いずれにせよ、あの笑顔はいつまで持つだろうか。正直、不安しか感じなかった。
学年主任の黒木先生から、「新しく担任となるショウキリンタロウ先生です」と紹介があり、紹介を受けたショウキ先生は自己紹介をするため、黒板に自分の名前を板書していく。その名前を見て、私は思わず目を丸くした。
「今日から1年A組の担任となった、笑喜麟太郎です。笑って喜ぶと書いて笑喜です。よろしくお願いします」
名を体現するような満面の笑みで、笑喜先生は声を張った。本人的には自己紹介の定番の掴みなのかもしれない。普通のクラスだったなら、歓迎ムードの拍手が巻き起こったかもしれない。だけど、クラス内の雰囲気は冷ややかだ。
私は正直居た堪れなくなった。明るくて、笑顔の素敵な爽やかな教師。一般的には人気を集めそうなその属性はきっと、彼らにとっては格好の標的だ。
「あまりヘラヘラしないでもらえますかね。俺らは難関大学を目指す特進クラスですよ。担任教師がその様子じゃ、この先不安なんですけど?」
早速始まった。口火を切ったのは、窓際の前から二番目の席に座る男子生徒、藤木戸要だ。教師いじめの中心人物で、パーマをかけた髪が印象的。鋭い眼光、座高からも分かる長身で威圧感は抜群だ。親の前や学校外では礼儀正しい好青年で通っているらしいけど、一種の内弁慶というやつだろうか。学校内、とりわけクラス内では藤木戸は暴君と化す。進学クラス内で三番目の成績を誇り、効率的な自主学習のノウハウも持ち合わせているが、それが悪い方に作用し、自分の方が優等であると、最初から教師という存在をどこか見下していた。
父親は有名企業の社長であり、多額の寄付によって塔上学園への影響力は絶大だ。だからこそ自分が強く注意されることはないと分かっており、それをいいことに、気に入らない教師は徹底的に追い詰める。狡猾で残忍な奴だ。きっとこの状態は、藤木戸が教師いじめに飽きるまで続くのだろう。正直、2人も教師を追い詰めたことで、藤木戸も流石に飽きただろうと期待していた部分もあったけど、この攻撃的な口ぶりを見るに藤木戸は早速、笑喜先生をロックオンしている。何が楽しいのだろう。
「それでは私はこれで。後は頼みましたよ、笑喜先生」
巻き込まれたくないのだろう。黒木先生はそそくさと教室を後にしてしまった。学年主任がそれでいいのかと呆れると同時に、戦場に1人残された笑喜先生には同情する。
「君は藤木戸要くんですね。早速話しかけてくれて嬉しいよ」
藤木戸の言葉に悪棘を感じていないはずはないだろうけど、笑喜先生は悪意を向けられたその笑顔を一切崩さず、藤木戸へと向けた。鈍感なのかそれとも。
「名前をしっかり覚えてくるなんて、笑顔の裏ではしっかりと警戒済みか? 傷つくな~」
「藤木戸くんだけではなく、全員の名前を覚えていますよ。仲良くなりたいからこその歩み寄りですよ。卒業までの残り2年半を共に歩むのですから」
「ここは進学クラスだぜ。仲良しこよしなんて生ぬるいこと言って、先が思いやられるよ」
「心配してくれてありがとうございます。藤木戸くんは優しいですね」
まったく動じず、やはり笑顔のまま、笑喜先生はさも当然のように言ってのけた。担任がこれまでに2人辞めている経緯を知らないはずはない。それにも関わらずに卒業まで勤め上げることを宣言し、藤木戸に対しても笑顔で距離を詰める。それは自信の表れ。藤木戸を筆頭とした過激な生徒への宣戦布告とも取れる。藤木戸はきっと、新たな担任が初日から萎縮する様を想像していたに違いない。それがあまりにも爽やかに返されてしまったことで一瞬、呆気に取られたような顔をしていた。不遜の申し子だった藤木戸のあんな顔は初めて見た。
私は新しい担任を生贄だとばかり思っていたけど、どうやら犠牲として消費されるだけのつもりはなさそうだ。過度な期待はしないけど、もしかしたら何かが変わるかもしれない。
「それでは顔合わせも兼ねて出席を取りますので、名前を呼ばれたら返事をしてください」
藤木戸たち一部の生徒は返事をしなかったけど、大半の生徒は教師に悪意は抱いていないので、出席取りはスムーズに進行していく。
「近宮雫さん」
「はい」
名前を呼ばれたので、私は立ち上がって一礼した。
ホームルームの後。1限目は早速、笑喜先生の担当である数学の授業が始まった。藤木戸たちは少しでも隙を見せたらすかさず攻撃し、自らの優位性を知らしめるつもりでいたみたいだけど、笑喜先生は相変わらず笑顔を浮かべたまま、テンポ良く、それでいて分かりやすく、質の高い授業を展開した。付け入る隙がなく、無難に授業を受けるしかなかった藤木戸のふて腐れたような顔が全てを物語っている。笑喜先生は急遽採用されたいわば即戦力。教師としての能力が高いのは当然といえば当然だ。少なくとも授業関係で弱みを見せることはないと思う。後は担任としてのクラス運営がどうなるか。
「……くそっ! 完璧な授業しやがって」
昼休みに入ると、1限目の授業を思い出して、藤木戸が悪態をついていた。完璧な授業の何が悪いのか理解に苦しむけど、藤木戸をもってしても頭ごなしに非難することが出来ないくらい、授業の質が高かったということだ。ある意味で最大限の賛辞なのかもしれない。いずれにせよ、藤木戸にとっては面白くない状況だ。攻撃はよりヒートアップしていくかもしれない。
「雫。ご飯食べにいこうよ」
「そうだね」
クラスメイトの本匠優里亜と一緒に学食に向かうことにした。ご機嫌斜めな藤木戸を眺めていても、お腹は膨れない。むしろ胸焼けだ。
「新しい先生、笑顔で感じいいよね。かっこよくてスタイルもいいし」
優里亜と2人で、学食で日替わりランチを注文し、テーブルを囲む。今日のメインディッシュは、やっぱり笑喜先生だった。
「注目するところそこ? 笑顔は確かに印象的だったけど」
「大事なことだよ。毎日の目の保養になる」
「率直な意見をありがとう。優里亜のそういうところ、嫌いじゃないよ」
これぐらいの図太さがないと、コロコロと担任が代わる1年A組の生徒なんてやっていられないのかもしれない。笑喜先生に華があるのは事実だし。
「珍しい経歴だったよね」
「確かに。うちの卒業生ってわけでもないみたいだし」
笑喜先生はホームルームで簡単に自身のプロフィールも語っていた。笑喜先生は現在29歳。塔上学園の教員には学園の卒業生も多いけど、笑喜先生は塔上学園の卒業生ではないらしい。また、今年の春までは2年間、別の高校で教鞭を執っていたけど、大学卒業後は教員とはならず、4年ほど会社員として生活していたと語っていた。その時どんな仕事をしていたかについては、時間の都合で触れなかったけど、教師としての経験はまだ3年目。経験不足で不安だと、藤木戸は早速批判材料にしていたけれど、直後に1限目の授業に移行し、完璧な授業で藤木戸を苛立たせた次第だ。もしかしたら会社員時代に、何かしらの修羅場をくぐり抜けてきていればこその強メンタルなのかもしれない。
「授業も分かりやすいし、藤木戸の嫌味も笑顔でかわせる。今までの教師とはどこか違う気がしない?」
今朝までは生贄に捧げられる新担任に同情していたけど、今は少しだけ期待している自分がいた。もちろん、授業の質とメンタリティーだけで乗り切れるような問題ではないけれども。
「確かに只者ではなさそうだけど、それでもまた担任が交代するのは時間の問題じゃない? どんなに本人が折れなくても、藤木戸には親の影響力という最大の武器がある。他の教師や経営陣がその顔色を伺っている時点で、笑喜先生は圧倒的に不利でしょう」
「確かに、いつだって藤木戸は担任に銃を突きつけてる」
「そうそう。そして藤木戸は笑顔の人間に対して容赦なく引き金を引くタイプ」
そう言って優里亜は右手で銃の形を作って私の眉間に照準を合わせたけど、優里亜が冗談めかしてバンッと言った瞬間、私は素早く頭を動かして回避した。
「その動きは何?」
「銃口を向けられた相手が、笑顔のまま銃弾を回避してきたら怖くない?」
「強キャラ感半端ないね。雫は笑喜先生に、それだけの可能性を感じてるんだ」
「そう見える?」
「少なくとも私は、雫が学校でそんな楽しそうな顔をしているのは初めて見たよ」
どうやら友人に一目で見抜かれる程度には表情に出てしまっていたらしい。優里亜の言う通り今の状況は少し楽しい。笑喜先生はもしかしたら、この五カ月間感じてきた閉塞感を解き放ってくれるかもしれない。
「とはいえ、銃弾を回避したところで根本的な問題は解決しないんじゃない? 藤木戸と和解でもしない限り、当たるまで撃ちまくるでしょうあいつは」
「藤木戸と和解か。二人が笑顔で握手を交わすとか?」
自分で言っておきながら苦笑してしまった。笑喜先生はともかく、藤木戸が笑顔で教師と握手を交わす姿はまるで想像がつかない。
※※※
「それでは、本日のホームルームを終了します。私のことを受け入れてくださりありがとうございました。大変光栄に思います。明日からもよろしくお願いしますね」
皮肉なのか本心なのか。相変わらず笑顔の笑喜先生の真意は読みづらい。ただ一つ確かなことは、前者であれ校舎であれ、無条件に苛立つ人間が一人いるということだ。
「その発言、ちょっと傲慢じゃないですか? 俺ら別に教師のご機嫌取りで学生やってるわけじゃないんですよ」
ホームルームも終わったし、さっさと帰りたいのだけど、藤木戸は笑喜先生にダル絡みする気満々のようだ。授業中に攻撃できなかった分を取り戻そうしているのだろうけど、私を含む他の生徒からしたら迷惑な話だ。
「藤木戸くんの言う通りですね。確かにこれは教師の傲りだったかもしれません。課題を与えてくれる藤木戸くんは生徒の鏡ですね」
笑喜先生もよく口が回る。抜群の切れ味で即座に切り返した。藤木戸は短気だけど、皮肉に気づかない馬鹿ではない。目に見えて眉間に皺が寄っていた。
「おい、俺のことをあまり馬鹿に」
「チャイムが鳴りました。それでは皆さんまた明日。気をつけて帰るんですよ」
チャイムと同時に笑喜先生がポンと手を打ち鳴らし、教室を後にする生徒たちで廊下が賑やかになる。意外と人の目を気にしがちな藤木戸は大勢が廊下にいる状況で声を荒げるわけにもいかず、完全に反論の機会を逸してしまった。その流れで笑喜先生も教室を出て行ったので、それに続くように、1年A組の生徒も塾や帰宅のため、続々と教室を後にしていく。教室に残る理由もないので、私もその流れに乗った。
「……あの野郎。俺をコケにしやがって」
去り際に、藤木戸の忌々し気な呟きが耳に入ってきた。笑喜先生の担任初日はひとまず無事に? 終わったけど、禍根を残したことは間違いない。明日からどうなることやら。
それにしても今日一日、笑喜先生は一度も笑顔が崩さなかったな。感情云々を抜きに、シンプルに表情筋が疲れないのだろうか?
※※※
私は塾通いはしていないけど、放課後は決まって図書館に行って自習室で勉強するようにしている。基本的にのんびり屋だと自覚しているので、家には誘惑が多すぎる。学校にも自習室はあるけど、日々の閉塞感のせいかあまり長居したいとは思えない。勉強自体は嫌いじゃないし、公共機関である図書館での自習が私にはベストだった。毎日必ずではないけど、学校終わりは最寄りの図書館で、閉館する19時まで勉強をしてから家に帰るのが、私の放課後の定番だ。
図書館での自習を終えた後、欲しい本があったので今日は、近くの繁華街にある書店に寄っていくことにした。まだ19時代なので、繁華街には学生の姿も多い。
書店の新刊コーナーで、目当ての小説を探していると。
「おや。近宮さん」
横から、最近どこかで聞いたような声が聞こえた。視線を向けると、笑顔の笑喜先生が立っていた。学校外でもネクタイもしっかりと締めており、スーツの着こなしに綻びはない。
「笑喜先生。今帰りですか?」
「はい。帰りに買い物でもしていこうと思ったら偶然、近宮さんを見かけましてね」
「学校の外でもずっとその笑顔なの? 私は別に気にしないし、無理して笑わなくてもいいのに」
「無理するも何も、これが私の素ですよ」
「もしかして、私のこと警戒してる?」
笑喜先生はこうして学校外まで一度たりとも笑顔を絶やしていない。それだけなら聞こえは良いけど、同時にそれは仮面を一度も外していないということでもある。目に見えて攻撃的な藤木戸は別格として、私もまた、何もしない傍観者としてこれまで教師いじめを見て見ぬふりをしてきた立場にある。信用ならない人間だと思われていても仕方がない。
「警戒だなんて滅相もない。私は可能な限り笑顔で生徒に接したいだけですよ。険しい顔の近寄りがたい教師よりは絶対にいいでしょう?」
「まあ、それは一理あるけども」
笑顔がフィルターになって、やはり笑喜先生の真意は読みづらい。確かに険しい顔よりはマシだけど、常に笑顔なのもそれはそれで怖い。本来は柔和なはずの表情も、固定かされてしまったら途端に、無機物めいた不気味さを帯びてしまう。それはやはり仮面と同義だから。
「お買い物ですか?」
「新刊のミステリーを一冊」
「陽炎橋焔シリーズですか。名探偵陽炎橋焔の推理が光る名作ですね」
私が手に取った「歪都市の殺人」の表紙を見ただけど、笑喜先生はそれが「陽炎橋焔シリーズ」だと言い当てた。名探偵陽炎橋焔が活躍する、戌亥辰巳著の人気ミステリー。その最新作である「歪都市の殺人」はシリーズ第三作目にあたる。
「もしかして、先生もシリーズのファン?」
「全て読んでいますよ。陽炎橋焔シリーズを含め、探偵が登場するミステリー全般が好きでして」
「探偵もののミステリーは私も大好物だよ。趣味が合うね」
「良い笑顔が見れて安心しました。教室では真一文字に口を結んでいましたから」
指摘されて途端に顔が熱くなる。自覚はなかったけど今の私、そんなに分かりやすかっただろうか。
「べ、別に。ただ真面目に授業を受けていただけですよ」
恥ずかしさを誤魔化すために、急いで会計に向かう。すっかり調子を狂わされてしまった。
「そのうち、ミステリーについて語り合いたいものですね」
私の買い物が終わると、笑喜先生と並んで書店を出た。何? この状況。
「先生のミステリー遍歴は気になるし、語り合うのはやぶさかじゃないけど、そんな余裕あるの?」
「と言いますと?」
「とぼけないでください。新しく担任になった笑喜先生が、過去の1年A組の問題を知らないはずないし、藤木戸の攻撃性は今日一日だけでも十分味わったでしょう」
「確かに熱烈な歓迎は受けましたね。それだけ私に関心を向けてくれているということですから、ありがたいことですよ」
「皮肉でも、あれをありがたいなんて言うなんて、先生もいい性格してるね。熱烈な歓迎でも、温かいのと苛烈なのとでは雲泥の差でしょう」
「近宮さんもなかなか言いますね。確かに温かみのある歓迎ではありませんでした。あれは焦げ付くような強火です」
「それは認めるんだ」
「私が気にしているかどうかは別として、客観的事実は存在しますからね。それはそれとして、最初から温かい歓迎が待ってると期待するのも、それはそれで教師の己惚れなのかもしれません。初対面の教師など赤の他人ですから、すぐには信用できないというのは、ある意味自然なことです」
この物言い。笑喜先生はやっぱり、状況を全て把握した上で担任に臨んでいるらしい。それでもなお、笑顔を武器に正面から藤木戸と相対している。まるでノーガード戦法だ。
「藤木戸は笑顔に絆されるような奴じゃないよ。この先大丈夫なの?」
「心配ありませんよ。そう遠からず、この問題は解決すると思います」
「今日一日を終えて、その自信はどこからやってくるの?」
「自信ではなく確信です。藤木戸くんはきっと、物わかりの良い生徒さんでしょうから」
笑喜先生は満面の笑顔でそう言ってのけた。藤木戸は確かに勉強は出来るけど、人の話を素直に聞くようなタイプでないことは今日一日だけでも明らかだ。それなのに笑喜先生はまったく不安を感じていない。まさか本気で、笑顔で藤木戸の心でも開こうというのだろうか。
「私はあちらの方角なのでここで。気をつけて帰るんですよ」
話し込んでいる間に繁華街の出口まで到着していた。どうやら先生の向かう方向は真逆らしい。
「ミステリーについて語り合うまでは、辞めちゃ駄目だからね」
「心配ご無用です。言ったでしょう。卒業までクラスと共に歩むと」
「そういえはそうだったね」
何の根拠もない言葉だけど、あまりにも自信満々に言う姿がたくましい。本気で期待してもいいのかな。
「ばいばい先生。また明日」
「はい。また明日学校で」
先生に手を振って、私は帰路についた。担任の教師にまた明日なんて言ったのは、ずいぶんと久しぶりなような気がした。
※※※
翌日。早速自体は動いた。もちろん、笑喜先生にとって悪い方向にだ。
登校するなり、職員室の近くに多数の生徒たちが集まっているのが見えたけど、私はそこまで野次馬根性旺盛ではないので、その時点ではあまり気にしていなかった。何が起きていたのかは、後から教室に到着した優里亜から事情を聞かされて初めて知った。
「職員会議があって、笑喜先生が注意を受けたらしいよ。保護者からクレームが来たとか何とかで」
間違いなく、手を回したのは藤木戸だろう。教室に藤木戸の姿は見えない。そういえば職員室の野次馬の中に、見覚えのある目つきがいた気もするので、成り行きを特等席から見守っていたのかもしれない。学園に多額の寄付をしている有力者、藤木戸の親からの意見を、学園側は無視できない。藤木戸は親の前では良い子で有名なので、一方的な被害者を演じて、親にクレームを入れさせたに違いない。学校側も事情は把握している(問題を解決しようとする気概はないけど)から、藤木戸の顔も立てつつ、赴任して二日目の担任教師に重い処分を与えるわけにもいかないから、口頭での注意処分に落ち着いたというところだろうか。いずれにせよ、理不尽なクレームで注意を受けた笑喜先生は災難だ。担任二日目でのこの仕打ちは流石に堪えると思う。学園側も大して守ってくれないということでもあるし。先生は今日、どんな表情で教室に姿を現すのだろう。
「皆さん、おはようございます。今日も爽やかな朝ですね」
朝のホームルームの時間になった。私の心配をよそに、笑喜先生はセリフを体現するかのような爽やかな笑顔で教室に姿を現した。少なくとも表面上は、直前までの災難を感じさせない。
「先生。職員会議で怒られたって聞きましたよ。何やらかしたんですか?」
燃やした張本人であろう藤木戸が嫌味な笑みを浮かべて切り込む。昨日は攻撃が不発に終わったからといってまさか二日目で親の力を借りるとは思っていなかった。今更藤木戸にプライドなんて期待していないけど、流石にそれはダサくない?
「皆さんご存じの通り、職員室でお叱りを受けてしまいました。いい歳をしてお恥ずかしい。保護者の方から、1年A組の担任は愛想が良いだけでクラス運営に具体性が無いというご意見を頂きまして。担任として大いに反省です」
笑顔のまま、笑喜先生は一度俯いた。流石に落ち込んだ表情の一つでも見せるだろうと期待しているのか、藤木戸は分かりやすく前のめりになっていた。
「それにしても驚きました。一度も会ったことがないのに、保護者の方からここまで具体的なご意見が届くとは。まるで誰かから聞いた意見を、精査もせずにそのまま伝えているかのようだ」
顔を上げても、笑喜先生は笑顔のままだった。声色も変わってはいないけど、普段よりも饒舌だ。空気の変化は誰もが感じ取っていた。
「おい。何が言いたいんだよ?」
すかさず藤木戸が苛立ちを露わにする。すでに周知の事実とはいえ、このタイミングでのそれは自白に等しいだろうに。
「私は率直な意見を述べたまでですが。それとも何か心当たりでも?」
笑顔とは裏腹に、笑喜先生の切れ味は鋭い。ノーガードでの殴り合いが始まっている。
「反省の色は無しってか? いい度胸してるじゃねえか」
「お褒めに預かり光栄です。教師には時に度胸も必要ですから」
「いい加減――」
「間もなく一限目が始まりますね。これにてホームルームを終了します」
チャイムがリミットを知らせる。思えば昨日もそうだったけど、笑喜先生は時間も計算して会話をしているらしい。だからいつだってチャイムは笑喜先生の味方をする。舌戦では完全に笑喜先生が圧勝している。恐らく笑喜先生には職員会議の注意処分なんてノーダメージなのだろうし、痛い目を見たのはプライドを傷つけられた藤木戸だけだ。
ただし、この場の舌戦の勝敗が今後にとってプラスに働くとは思えない。藤木戸はきっとさらにヒートアップするだろう。昨日笑喜先生は藤木戸は物分かりのいい生徒だと言っていたけど、この状況でどうしたらそう思えるのだろう?
※※※
今日は図書館が蔵書点検でお休みなので、普段はあまり使わない学校の自習室を使うことにした。一時間くらいは勉強していたけど、いつもと違う環境で、いまいち勉強に集中出来ず、今日はもう帰ることにした。
「おや、近宮さん。今からお帰りですか?」
「先生こそ、今から帰るの?」
「はい。今日は大切な用事がありまして、早めに上がらせてもらいました」
生徒玄関で靴を履き替えていると、通りがかった笑喜先生が声をかけてきた。先生も今日は帰り支度を済ませ、手には鞄が握られている。うちの学校は部活動のほとんどを、卒業生を中心とした外部の顧問に依頼しているので、教師は部活の顧問の負担が少ない。笑喜先生も担当している部活動はないので、早い時間の帰宅も十分あり得る。
「あの様子だと、次は先生の進退に関わるような行動を起こしてくるかもしれないよ。明日からどうするつもり?」
「前にも言った通り、藤木戸くんは物わかりの良い生徒さんです。もしかしたら明日にでも、この問題は解決しているかもしれませんよ」
藤木戸は完全に教師追放モードに入っている。ここまでこじれてしまった状況が明日には解決しているだなんて、理想を越えて、もはや現実逃避にさえ思える。
「それは流石に、楽観視が過ぎるんじゃない?」
私の指摘に対して、笑喜先生は微笑むばかりで、返事をしてはくれなかった。
「それでは、用事があるので私はこれで。気をつけて帰るんですよ」
そう言って笑喜先生の背中は、職員玄関の方へと消えていった。
「何か考えはあるんだろうけど、流石に生徒の私には話してくれないか」
上履きから外履きへと靴を履き替える。笑喜先生の立場からしたら、私が藤木戸と繋がっていないとも限らない。手の内を明かしてくれるはずもなかった。信用と言っても、昨日学校帰りに少し話しただけだし。
「これからどうしようかな」
図書館は休みだし、たまには遊んで帰るのも悪くないかもしれない。
玄関前でどこに行くか考えていると、正門から出て行く笑喜先生の姿が見えた。昨日も繁華街で会ったし、車ではなく公共交通機関で通勤しているようだ。
『もしかしたら明日にでも、この問題は解決しているかもしれませんよ』
不意に、直前の笑喜先生とのやり取りが頭をよぎった。先生は明日と、妙に具体的な時期を口にした。そして大切な用事があると言って、今日は早く学校を出た。もしかしたらこれから、問題解決のために何か行動をするつもりなのでは? そんな可能性を想像した。
気がつけば私は、気づかないように距離を置いて、笑喜先生の背中を追いかけていた。もしもプライベートな用事だったら、知らない振りをして立ち去ろう。
いけないことだと思いながらも、尾行を楽しんでいる自分がいた。流石に探偵小説の読み過ぎかもしれない。
※※※
二十分ほど尾行を続けていると笑喜先生は、日が暮れて、人気の少なくなった公園へと入っていった。学校から距離があるため、関係者に目撃される可能性は低そうだ。まあ、私みたいに学校から尾行してきた例外はいるけども。
笑喜先生は公園の中央の、外灯の下のベンチに腰を下ろした。私は気づかないように、先生の背中側の、少し離れた位置にあるベンチに座り、成り行きを見守ることにした。もしかしたら誰かと待ち合わせでもしているのだろうか? 笑喜先生はプライベートの話をしたことはないけど、左手に指輪はしていなかったし、おそらくは独身だと思う。もしかしたら恋人とデートの約束でもしているのかもしれない。もしそうなら私の好奇心は完全な空回りだ。デートの邪魔をしては申し訳ないし、それらしいお相手が来た時は潔く退散するとしよう。
そうして五分ほど待機していると、思いがけない人物が公園に姿を現し、笑喜先生の元へ駆け寄ってきた。
「……どうしてお前が俺のアカウントを知ってるんだよ?」
笑喜先生の待ち合わせの相手は、教室内でバチバチの藤木戸だった。ただ、今の藤木戸からは朝のような威勢は失われ、言葉遣いはともかくとして、感情的にはならず、慎重に先生に伺いを立てている。眉間に皺の寄った表情といい、相当警戒している様子だ。
「本名は使わず、顔も晒していなくとも、投稿した写真や文章から個人を特定することは可能です。投稿しても本当に大丈夫か。今後はネットに上げる前に、一呼吸置いた方がいいかもしれませんね」
自宅や親の連絡先ならともかく、笑喜先生が藤木戸個人の連絡先を知っているとは思えない。やり取りから察するに、藤木戸が本名や顔を出さずに運用していたSNSのアカウントを特定し、DMを使ってコンタクトを取ったといったところだろうか。藤木戸に同情はしないけど、警戒するのは理解出来る。個人を特定するスキルもさることながら、それを実行に移すという行動力が何よりも恐ろしい。笑喜先生は今この瞬間も笑っている。
それにしても、藤木戸はどうして笑喜先生の呼び出しに応じたのだろう? 警戒しながらも、待ち合わせ場所に笑喜先生がいること自体には驚いていなかった。先生は始めから、名乗った上で藤木戸を呼び出したのだと思う。だけど、朝にあれだけやり合っておいて、藤木戸が素直に呼び出しに応じるだろうか? むしろ、先生に呼び出された事実さえも攻撃の材料に使いそうなぐらいなのに。藤木戸にも何か、呼び出しにに応じざるを得ない理由があったのだろうか? とにかく成り行きを見守ってみよう。
「……重大な秘密って何だよ」
「そう怯えないでください。君には一切非のないことですから」
そう言って、笑喜先生は懐から何かを取り出し、藤木戸へと見せた。恐らく写真だと思う。辺りは暗くなってきたし、位置的に藤木戸の表情は分からなかったけど、見せられた写真に顔を近づけ、凝視していることだけは分かった。藤木戸にとって決して無視出来ない内容であることは間違いない。
「君のお父様、元基氏が若い女性と一緒にホテルから出てきた瞬間を捉えた写真です。以前からパパ活に熱中していたようですね」
驚愕の事実に思わず声が漏れそうになったけど、寸前で何とか飲み込んだ。藤木戸の父親といえば有名企業の社長で、学園に多額の寄付をしている有力者。そんな人物の女性スキャンダルの証拠写真となれば、とんでもない爆弾だ。しかもそれを息子である藤木戸要に見せつけるとは。
「親父……何でこんなことを」
藤木戸は本気でショックを受けている様子だ。親の権力を振りかざすような奴だけど、家族の悪口や不満を言っているところは一度も見たことはない。藤木戸にとっては良い家族、良い父親だったのだろう。その像が音を立てて崩れていく。今だけは流石に藤木戸に同情した。
「コンプライアンスに厳しい昨今、経営者の女性スキャンダルは致命傷になりかねない。聡明な君なら、事の重大性は理解出来ますよね?」
笑喜先生は穏やかにそう言った。日常会話の延長上のように、穏やかに、爽やかな笑顔で、ためらいなく。
「俺を脅すつもりか?」
「否定はしません。ただ、私の感覚で言わせてもらうなら、これは抑止力です。先に攻撃を受けたのはこちらですから、相手が進攻を躊躇うような武器をこちらも持たなければいけない」
確かに、先に仕掛けてきたのは藤木戸の方だし、反撃を受けたことは自業自得かもしれないけど、それはそれとして、担任になったばかりの笑喜先生が、こんなにも素早く抑止力を用意出来るとは思えない。もしかしたら笑喜先生は全てを見越し、着任前からすでに行動を開始していたのかもしれない。
「……俺に何を要求するつもりだ?」
藤木戸の声には覇気がなく、怯えなのか、むしろ声が震えていた。藤木戸は傲慢だけど、上記判断が出来ないほど愚かではない。今主導権を握っているのは笑喜先生の方だと理解している。
「要求だなんて、そう身構えないでください。この写真を表に出すつもりもありません。ただ、これからも平穏な学園生活が送れましたら幸いです」
オブラートに包んではいるけど、要はこれ以上、ふざけた真似はするなということだ。普通の学生生活を送ればいいだけ。確かに要求という程のものではない。だけど笑顔も相まって、今の笑喜先生の姿はむしろ、脅しているよりも恐ろしい。
「……その約束、忘れるなよ」
悔しそうに声を震わせながら、藤木戸は笑喜先生から写真を受け取った。写真の元データは笑喜先生が持っているだろうし、その一枚に大きな意味はないのかもしれない。だけど今の藤木戸にとってそれは、他言無用を約束する契約書のようなものだ。
「気をつけて帰るんですよ。また明日学校で」
ベンチから立ち上がり、逃げるように去って行く藤木戸の背中に、笑喜先生は優しい言葉をかけた。
「藤木戸くんは行きましたし、出てきても大丈夫ですよ。近宮さん」
突然名前を呼ばれてビクリと体が震えたけど、どこかでこうなるような予感はあった。有名企業の社長の女性スキャンダルを激写出来るような笑喜先生だ。素人の尾行ぐらいお見通しらしい。名前まで呼ばれた以上、猫の鳴き真似でごまかすというわけにもいかないだろう。私は大人しく、笑喜先生の前に姿を現すことにした。投降する犯人のように両手を上げてしまったのはご愛敬。
「いつから気づいていたんですか?」
「最初からです。学校からずっとつけていましたね」
最初からとは流石にお恥ずかしい。探偵小説を読んでいるだけで、尾行のプロフェッショナルになれるわけではない。今更ながら当たり前のことだ。
「ここで見聞きしたことは、他言無用でお願いしますよ。秘密とは当事者間のみで共有されているからこそ意味のあるもの。知るものが増えれば価値は激減する」
「言われなくてもさっきのあれは、何も見なかったし聞かなったことにしておくよ。有名企業の社長のスキャンダルなんて、一介の女子高生が持っててもどうにもならないし」
「やはり近宮さんは聡明ですね。言葉に出すことは大切ですから念のため釘は刺しましたが、元々心配はしていませんでしたよ」
笑喜先生の言葉を聞いて私は確信した。どうやら全て先生の掌の上らしい。
「元々か。現場を私に見られることも含めて計画の内だったわけだ」
思えば玄関での先生の言葉は意味深だった。ただ、「今から帰る」と言えばいいものを、「大切な用事」があると言ったり、藤木戸との問題が「明日には解決」していると、妙に時期が具体的だったり。私が興味を持つように誘導していた節がある。尾行だって最初から気づいていたのならいつだって撒けたはずなのにそうしなかった。私に見られる前提。あるいは見られても問題はないと考えていたのだろう。
「生徒にも一人ぐらい、私のこういう一面を知る人間がいても悪くないかなと思いまして。あわよくば程度に考えていましたが、こうして近宮さんはこの場に現れた」
「あわよくばに引っかかったのは癪だけど、尾行なんて後ろめたい行動を取ったのは私自身の選択だし、あまり強くは言い返せないな」
巻き込まれるような選択をしたのはあくまでも私だ。癪に触っただけで、別に笑喜先生に怒りは感じていない。
「こういう一面か。藤木戸の横暴に対して抑止力を見せつけたのは流石に驚いたけど、それを私に見せてどうするつもりだったの? 協力者にでもなれってこと?」
「協力者というよりは、生徒目線のアドバイザーといった方が適切でしょうか。藤木戸くんの件だけではない。塔上学園ではこれからもきっと何かしら問題は起きていくのでしょう。その時は私なりの方法で解決していく所存ですが、時には教師目線では気づけない問題やヒントが存在するかもしれない。近宮さんには生徒お目線での意見を求めたいのです」
笑喜先生の言いたいことは理解出来る。藤木戸は確かに問題のある生徒だったけど、何よりも問題なのは、それがまかり通ってしまう環境が塔上学園には存在しているということだ。再び何かが起きる可能性は確かに否定できない。生徒には生徒のコミュニティというものが存在するし、確かに笑喜先生からしたら生徒側の目線は貴重だろう。
「どうして私に?」
「現状に閉塞感を覚えているような印象でしたし、私の立場も案じてくれた。こうして尾行してくる行動力もあるし、理解力も非常に高い。理想的な人材だと感じました。そして何よりも」
「何よりも?」
最後かつ、強調するぐらいだ。よっぽど重要な理由に違いない。
「探偵小説好きだからですかね。個人的には同じ趣味の方は信用できます」
「何それ。悪い気はしないけど」
どんな大そうな理由が飛び出すかと思えば、決め手が趣味の一致とは。自然と笑いがこみ上げていた。確かに私も仲間を探す時、最後に何か一つ決め手がほしいと思ったら、趣味が同じ人を選ぶかもしれない。
「学校の居心地が良いに越したことはないし、私でよければ力になるよ。笑喜先生のやり方には正直驚いたけど、あれぐらいでないと藤木戸は止められなかったと思うし」
「心強いです。改めてよろしくお願いします。近宮雫さん」
「こ、こちらこそ」
笑喜先生が笑顔で、丁寧に頭を下げてきたので私もそれに返した。正直、先生の手法は褒められたものではないと思う。だけど1年A組ではこれまでに二人の教師が担任を降り、藤木戸は増長する一方だった。綺麗ごとだけで解決出来る段階は、とっくに過ぎていたのだと思う。ベストな選択だったのかは私には分からない。だけど確実にこれから、クラスの空気は変わるはずだ。
「そういえば先生、プロもびっくりな情報収集能力だったけど、どこであんな技術を?」
「プロもびっくりというか、元プロですよ。教職に就く前は調査会社に勤めていました」
「つまり笑喜先生は、元探偵ってこと?」
「有り体に言えばそうなりますね。フィクションなどに登場する難事件を解決するような名探偵ではなく、現実的な方の探偵ですが」
正直に言おう、藤木戸の件が霞む程の今日一番の衝撃だった。そういえば確かに、会社員をしていた時期があるとは言っていたけど。全て笑喜先生の掌の上だったとはいえ、私は愚かにも元探偵の後をつけていたことになる。とんだ笑い話だ。
「もちろん、このことも秘密ですよ?」
笑顔に圧を感じるのは、元探偵だと知ったバイアスだろうか。もちろん誰かに言おうなんて微塵も思ってはいけないけど。先生の目的はあくまでも平穏な学園生活が続くこと。悪意はないし、想像するだけ無意味だけど、敵に回したくない相手だなと、素直にそう思った。
※※※
「それでは出席を取ります」
笑喜先生と藤木戸が公園で接触してから一週間が経った。あの日の朝の物々しい雰囲気が嘘だったかのように、この一週間は穏やかな日常が流れている。
「藤木戸要くん」
「はい」
藤木戸は出席に素直に返事をしている。すっかり牙を抜かれてしまった印象だ。あの日以来、藤木戸は笑喜先生に対する一切の攻撃を止め、藤木戸の親からクレームが入ることも無くなっていた。藤木戸と一緒に教師いじめをしていた一部の生徒は困惑気味だったけど、急先鋒だった藤木戸に動きがない中、自分たちで何かをする度胸はないようで、教師いじめの空気自体が止んでいる。入学以来、最も平和な時間が流れていると言っても過言ではないだろう。
笑喜先生の言うように、藤木戸は物分かりのよい生徒だったというこのようだ。父親のスキャンダルが出回れば、その威光が失われる。そうなれば今度は自分が晒しものになってしまうと危惧しているのだろう。「将を射んとする者はまず馬を射よ」とはよく言ったものだ。
笑喜先生の要求は普通の学生生活を送ることだけ。それで話が丸く収まるのならば、藤木戸にとってもありがたい話ということだ。もちろんこれは、笑喜先生と藤木戸が秘密を共有しているからこそ成り立つ話だ。そこに私が介入するとややこしくなるから、あの日見聞きしたものは決して口外するつもりはない。
「今日も一日、よろしくお願いします」
朝のホームルームを、笑喜先生は笑顔で締めくくった。
1年A組の担任。笑喜先生は笑顔がとても素敵な先生です。
その笑顔の下に何が隠されているのかは、私も含めてまだ誰も知りません。
了
教育に力を入れ、毎年難関大学に多数の合格者を輩出している私立塔上学園高校。私が在籍する1年A組はいわゆる特進クラスで、成績優秀な生徒が名を連ねている。それだけ聞くと、輝かしい優等生集団な印象かもしれないけど、うちのクラスは大きな問題を抱えている。
そうでなければ、受験を見据えた体制の一環として、担任教師が持ち上がりで三年間一つのクラスを受け持つことが基本のこの学校で、1年A組の担任だけが、たった半年間で二人も交代になるはずがない。
一人目、入学して最初に担任になった山神律子先生は六月に担任を降り、急遽系列校に異動。そのまま副担任の塩見肇先生が担任に繰り上がったけど、夏休み明けには休職してしまった。
塩見先生が休職されてから一ヶ月。学年主任の先生が一時的に1年A組の担任を兼任されていたけど、新しい担任の先生が決まったそうで、今日からこの教室にやってくる。どうやら学園に在籍している教師ではなく、新規に採用された教師らしい。裏を返せば、既存の教師は誰も1年A組を担任しないということになる。山神先生、塩見先生がどうなったのかを知っていれば、誰も1年A組を担当したがらないのは当然だ。それを新しく着任する教師に任せるのだから、よっぽど優秀な人材か、新顔を生贄に捧げたかの二択だろう。いや、きっと後者だ。新しい教師を投入して、学校側は様子を見る気に違いない。
一部の過激な生徒が、担任教師を追い詰める地獄のようなクラス。当該生徒たちは成績は優秀だし、表面上は問題児にはまったく見えないが、気に入らない教師を内輪で徹底的に追い詰める。おまけに主犯格の親が、学校に多額の寄付をしている有力者なのだから性質が悪い。
他の教師や経営陣は生徒や親の顔色を伺うばかりで根本的な問題解決には乗り出さず、対応は全て担任に丸投げしている。それはサンドバックになれと言っているのと同義だ。今回やってくる新任の教師だけではない。思えば1年A組の担任教師はずっと学校側の捧げる生贄だったのかもしれない。
特進クラスだけあって全員が成績優秀で、学業に目立った遅れは確認されていない。ただただ、担任の首だけが挿げ替えられていく。ある意味では最悪の学級崩壊かもしれない。
私は教師いじめには加担していないけど、ずっと傍観を決め込んでいた私も同罪なのだろう。こんなことはもう止めた方がいいと、言葉は何度も喉元まで出かかったけど、結局は全て飲み込んできた。嬉々として教師を追い込むような連中に意見したら、次は確実に私が標的になる。
基本的には、卒業まで同じクラスのまま進級していくのだし、目立つことは得策ではない。我ながら勉強は得意な方だと自負しているし、物事にあまり動じるようなタイプでもない。このまま静かにやり過ごせば、受験もそつなくこなせる自信はある。だからこそ新しい教師がやってきても、私は積極的に助けてあげることはたぶんしない。出来るのはせいぜい、同情を寄せることだけだ。
朝のホームルームの時間となり、ベテランの学年主任、黒木伊和雄先生に連れられ、新しい担任が教室に姿を現した。二十代後半ぐらいの男性で、長身でスタイルが良い。ダークブラウンのスーツをきっちりと着こなしていた。髪は爽やかな短髪で、その分、表情が生き生きとしていてよく映えている。純真無垢な少年のように晴れやかな笑みを浮かべているのがとても印象的だった。
これまでにこのクラスで何が起きてきたのか、何も知らないはずはないと思うけど、自分は大丈夫だと状況を楽観視しているのか、あるいは経緯を知ればこそ、関係構築のために第一印象を良くしようと努めているのか。いずれにせよ、あの笑顔はいつまで持つだろうか。正直、不安しか感じなかった。
学年主任の黒木先生から、「新しく担任となるショウキリンタロウ先生です」と紹介があり、紹介を受けたショウキ先生は自己紹介をするため、黒板に自分の名前を板書していく。その名前を見て、私は思わず目を丸くした。
「今日から1年A組の担任となった、笑喜麟太郎です。笑って喜ぶと書いて笑喜です。よろしくお願いします」
名を体現するような満面の笑みで、笑喜先生は声を張った。本人的には自己紹介の定番の掴みなのかもしれない。普通のクラスだったなら、歓迎ムードの拍手が巻き起こったかもしれない。だけど、クラス内の雰囲気は冷ややかだ。
私は正直居た堪れなくなった。明るくて、笑顔の素敵な爽やかな教師。一般的には人気を集めそうなその属性はきっと、彼らにとっては格好の標的だ。
「あまりヘラヘラしないでもらえますかね。俺らは難関大学を目指す特進クラスですよ。担任教師がその様子じゃ、この先不安なんですけど?」
早速始まった。口火を切ったのは、窓際の前から二番目の席に座る男子生徒、藤木戸要だ。教師いじめの中心人物で、パーマをかけた髪が印象的。鋭い眼光、座高からも分かる長身で威圧感は抜群だ。親の前や学校外では礼儀正しい好青年で通っているらしいけど、一種の内弁慶というやつだろうか。学校内、とりわけクラス内では藤木戸は暴君と化す。進学クラス内で三番目の成績を誇り、効率的な自主学習のノウハウも持ち合わせているが、それが悪い方に作用し、自分の方が優等であると、最初から教師という存在をどこか見下していた。
父親は有名企業の社長であり、多額の寄付によって塔上学園への影響力は絶大だ。だからこそ自分が強く注意されることはないと分かっており、それをいいことに、気に入らない教師は徹底的に追い詰める。狡猾で残忍な奴だ。きっとこの状態は、藤木戸が教師いじめに飽きるまで続くのだろう。正直、2人も教師を追い詰めたことで、藤木戸も流石に飽きただろうと期待していた部分もあったけど、この攻撃的な口ぶりを見るに藤木戸は早速、笑喜先生をロックオンしている。何が楽しいのだろう。
「それでは私はこれで。後は頼みましたよ、笑喜先生」
巻き込まれたくないのだろう。黒木先生はそそくさと教室を後にしてしまった。学年主任がそれでいいのかと呆れると同時に、戦場に1人残された笑喜先生には同情する。
「君は藤木戸要くんですね。早速話しかけてくれて嬉しいよ」
藤木戸の言葉に悪棘を感じていないはずはないだろうけど、笑喜先生は悪意を向けられたその笑顔を一切崩さず、藤木戸へと向けた。鈍感なのかそれとも。
「名前をしっかり覚えてくるなんて、笑顔の裏ではしっかりと警戒済みか? 傷つくな~」
「藤木戸くんだけではなく、全員の名前を覚えていますよ。仲良くなりたいからこその歩み寄りですよ。卒業までの残り2年半を共に歩むのですから」
「ここは進学クラスだぜ。仲良しこよしなんて生ぬるいこと言って、先が思いやられるよ」
「心配してくれてありがとうございます。藤木戸くんは優しいですね」
まったく動じず、やはり笑顔のまま、笑喜先生はさも当然のように言ってのけた。担任がこれまでに2人辞めている経緯を知らないはずはない。それにも関わらずに卒業まで勤め上げることを宣言し、藤木戸に対しても笑顔で距離を詰める。それは自信の表れ。藤木戸を筆頭とした過激な生徒への宣戦布告とも取れる。藤木戸はきっと、新たな担任が初日から萎縮する様を想像していたに違いない。それがあまりにも爽やかに返されてしまったことで一瞬、呆気に取られたような顔をしていた。不遜の申し子だった藤木戸のあんな顔は初めて見た。
私は新しい担任を生贄だとばかり思っていたけど、どうやら犠牲として消費されるだけのつもりはなさそうだ。過度な期待はしないけど、もしかしたら何かが変わるかもしれない。
「それでは顔合わせも兼ねて出席を取りますので、名前を呼ばれたら返事をしてください」
藤木戸たち一部の生徒は返事をしなかったけど、大半の生徒は教師に悪意は抱いていないので、出席取りはスムーズに進行していく。
「近宮雫さん」
「はい」
名前を呼ばれたので、私は立ち上がって一礼した。
ホームルームの後。1限目は早速、笑喜先生の担当である数学の授業が始まった。藤木戸たちは少しでも隙を見せたらすかさず攻撃し、自らの優位性を知らしめるつもりでいたみたいだけど、笑喜先生は相変わらず笑顔を浮かべたまま、テンポ良く、それでいて分かりやすく、質の高い授業を展開した。付け入る隙がなく、無難に授業を受けるしかなかった藤木戸のふて腐れたような顔が全てを物語っている。笑喜先生は急遽採用されたいわば即戦力。教師としての能力が高いのは当然といえば当然だ。少なくとも授業関係で弱みを見せることはないと思う。後は担任としてのクラス運営がどうなるか。
「……くそっ! 完璧な授業しやがって」
昼休みに入ると、1限目の授業を思い出して、藤木戸が悪態をついていた。完璧な授業の何が悪いのか理解に苦しむけど、藤木戸をもってしても頭ごなしに非難することが出来ないくらい、授業の質が高かったということだ。ある意味で最大限の賛辞なのかもしれない。いずれにせよ、藤木戸にとっては面白くない状況だ。攻撃はよりヒートアップしていくかもしれない。
「雫。ご飯食べにいこうよ」
「そうだね」
クラスメイトの本匠優里亜と一緒に学食に向かうことにした。ご機嫌斜めな藤木戸を眺めていても、お腹は膨れない。むしろ胸焼けだ。
「新しい先生、笑顔で感じいいよね。かっこよくてスタイルもいいし」
優里亜と2人で、学食で日替わりランチを注文し、テーブルを囲む。今日のメインディッシュは、やっぱり笑喜先生だった。
「注目するところそこ? 笑顔は確かに印象的だったけど」
「大事なことだよ。毎日の目の保養になる」
「率直な意見をありがとう。優里亜のそういうところ、嫌いじゃないよ」
これぐらいの図太さがないと、コロコロと担任が代わる1年A組の生徒なんてやっていられないのかもしれない。笑喜先生に華があるのは事実だし。
「珍しい経歴だったよね」
「確かに。うちの卒業生ってわけでもないみたいだし」
笑喜先生はホームルームで簡単に自身のプロフィールも語っていた。笑喜先生は現在29歳。塔上学園の教員には学園の卒業生も多いけど、笑喜先生は塔上学園の卒業生ではないらしい。また、今年の春までは2年間、別の高校で教鞭を執っていたけど、大学卒業後は教員とはならず、4年ほど会社員として生活していたと語っていた。その時どんな仕事をしていたかについては、時間の都合で触れなかったけど、教師としての経験はまだ3年目。経験不足で不安だと、藤木戸は早速批判材料にしていたけれど、直後に1限目の授業に移行し、完璧な授業で藤木戸を苛立たせた次第だ。もしかしたら会社員時代に、何かしらの修羅場をくぐり抜けてきていればこその強メンタルなのかもしれない。
「授業も分かりやすいし、藤木戸の嫌味も笑顔でかわせる。今までの教師とはどこか違う気がしない?」
今朝までは生贄に捧げられる新担任に同情していたけど、今は少しだけ期待している自分がいた。もちろん、授業の質とメンタリティーだけで乗り切れるような問題ではないけれども。
「確かに只者ではなさそうだけど、それでもまた担任が交代するのは時間の問題じゃない? どんなに本人が折れなくても、藤木戸には親の影響力という最大の武器がある。他の教師や経営陣がその顔色を伺っている時点で、笑喜先生は圧倒的に不利でしょう」
「確かに、いつだって藤木戸は担任に銃を突きつけてる」
「そうそう。そして藤木戸は笑顔の人間に対して容赦なく引き金を引くタイプ」
そう言って優里亜は右手で銃の形を作って私の眉間に照準を合わせたけど、優里亜が冗談めかしてバンッと言った瞬間、私は素早く頭を動かして回避した。
「その動きは何?」
「銃口を向けられた相手が、笑顔のまま銃弾を回避してきたら怖くない?」
「強キャラ感半端ないね。雫は笑喜先生に、それだけの可能性を感じてるんだ」
「そう見える?」
「少なくとも私は、雫が学校でそんな楽しそうな顔をしているのは初めて見たよ」
どうやら友人に一目で見抜かれる程度には表情に出てしまっていたらしい。優里亜の言う通り今の状況は少し楽しい。笑喜先生はもしかしたら、この五カ月間感じてきた閉塞感を解き放ってくれるかもしれない。
「とはいえ、銃弾を回避したところで根本的な問題は解決しないんじゃない? 藤木戸と和解でもしない限り、当たるまで撃ちまくるでしょうあいつは」
「藤木戸と和解か。二人が笑顔で握手を交わすとか?」
自分で言っておきながら苦笑してしまった。笑喜先生はともかく、藤木戸が笑顔で教師と握手を交わす姿はまるで想像がつかない。
※※※
「それでは、本日のホームルームを終了します。私のことを受け入れてくださりありがとうございました。大変光栄に思います。明日からもよろしくお願いしますね」
皮肉なのか本心なのか。相変わらず笑顔の笑喜先生の真意は読みづらい。ただ一つ確かなことは、前者であれ校舎であれ、無条件に苛立つ人間が一人いるということだ。
「その発言、ちょっと傲慢じゃないですか? 俺ら別に教師のご機嫌取りで学生やってるわけじゃないんですよ」
ホームルームも終わったし、さっさと帰りたいのだけど、藤木戸は笑喜先生にダル絡みする気満々のようだ。授業中に攻撃できなかった分を取り戻そうしているのだろうけど、私を含む他の生徒からしたら迷惑な話だ。
「藤木戸くんの言う通りですね。確かにこれは教師の傲りだったかもしれません。課題を与えてくれる藤木戸くんは生徒の鏡ですね」
笑喜先生もよく口が回る。抜群の切れ味で即座に切り返した。藤木戸は短気だけど、皮肉に気づかない馬鹿ではない。目に見えて眉間に皺が寄っていた。
「おい、俺のことをあまり馬鹿に」
「チャイムが鳴りました。それでは皆さんまた明日。気をつけて帰るんですよ」
チャイムと同時に笑喜先生がポンと手を打ち鳴らし、教室を後にする生徒たちで廊下が賑やかになる。意外と人の目を気にしがちな藤木戸は大勢が廊下にいる状況で声を荒げるわけにもいかず、完全に反論の機会を逸してしまった。その流れで笑喜先生も教室を出て行ったので、それに続くように、1年A組の生徒も塾や帰宅のため、続々と教室を後にしていく。教室に残る理由もないので、私もその流れに乗った。
「……あの野郎。俺をコケにしやがって」
去り際に、藤木戸の忌々し気な呟きが耳に入ってきた。笑喜先生の担任初日はひとまず無事に? 終わったけど、禍根を残したことは間違いない。明日からどうなることやら。
それにしても今日一日、笑喜先生は一度も笑顔が崩さなかったな。感情云々を抜きに、シンプルに表情筋が疲れないのだろうか?
※※※
私は塾通いはしていないけど、放課後は決まって図書館に行って自習室で勉強するようにしている。基本的にのんびり屋だと自覚しているので、家には誘惑が多すぎる。学校にも自習室はあるけど、日々の閉塞感のせいかあまり長居したいとは思えない。勉強自体は嫌いじゃないし、公共機関である図書館での自習が私にはベストだった。毎日必ずではないけど、学校終わりは最寄りの図書館で、閉館する19時まで勉強をしてから家に帰るのが、私の放課後の定番だ。
図書館での自習を終えた後、欲しい本があったので今日は、近くの繁華街にある書店に寄っていくことにした。まだ19時代なので、繁華街には学生の姿も多い。
書店の新刊コーナーで、目当ての小説を探していると。
「おや。近宮さん」
横から、最近どこかで聞いたような声が聞こえた。視線を向けると、笑顔の笑喜先生が立っていた。学校外でもネクタイもしっかりと締めており、スーツの着こなしに綻びはない。
「笑喜先生。今帰りですか?」
「はい。帰りに買い物でもしていこうと思ったら偶然、近宮さんを見かけましてね」
「学校の外でもずっとその笑顔なの? 私は別に気にしないし、無理して笑わなくてもいいのに」
「無理するも何も、これが私の素ですよ」
「もしかして、私のこと警戒してる?」
笑喜先生はこうして学校外まで一度たりとも笑顔を絶やしていない。それだけなら聞こえは良いけど、同時にそれは仮面を一度も外していないということでもある。目に見えて攻撃的な藤木戸は別格として、私もまた、何もしない傍観者としてこれまで教師いじめを見て見ぬふりをしてきた立場にある。信用ならない人間だと思われていても仕方がない。
「警戒だなんて滅相もない。私は可能な限り笑顔で生徒に接したいだけですよ。険しい顔の近寄りがたい教師よりは絶対にいいでしょう?」
「まあ、それは一理あるけども」
笑顔がフィルターになって、やはり笑喜先生の真意は読みづらい。確かに険しい顔よりはマシだけど、常に笑顔なのもそれはそれで怖い。本来は柔和なはずの表情も、固定かされてしまったら途端に、無機物めいた不気味さを帯びてしまう。それはやはり仮面と同義だから。
「お買い物ですか?」
「新刊のミステリーを一冊」
「陽炎橋焔シリーズですか。名探偵陽炎橋焔の推理が光る名作ですね」
私が手に取った「歪都市の殺人」の表紙を見ただけど、笑喜先生はそれが「陽炎橋焔シリーズ」だと言い当てた。名探偵陽炎橋焔が活躍する、戌亥辰巳著の人気ミステリー。その最新作である「歪都市の殺人」はシリーズ第三作目にあたる。
「もしかして、先生もシリーズのファン?」
「全て読んでいますよ。陽炎橋焔シリーズを含め、探偵が登場するミステリー全般が好きでして」
「探偵もののミステリーは私も大好物だよ。趣味が合うね」
「良い笑顔が見れて安心しました。教室では真一文字に口を結んでいましたから」
指摘されて途端に顔が熱くなる。自覚はなかったけど今の私、そんなに分かりやすかっただろうか。
「べ、別に。ただ真面目に授業を受けていただけですよ」
恥ずかしさを誤魔化すために、急いで会計に向かう。すっかり調子を狂わされてしまった。
「そのうち、ミステリーについて語り合いたいものですね」
私の買い物が終わると、笑喜先生と並んで書店を出た。何? この状況。
「先生のミステリー遍歴は気になるし、語り合うのはやぶさかじゃないけど、そんな余裕あるの?」
「と言いますと?」
「とぼけないでください。新しく担任になった笑喜先生が、過去の1年A組の問題を知らないはずないし、藤木戸の攻撃性は今日一日だけでも十分味わったでしょう」
「確かに熱烈な歓迎は受けましたね。それだけ私に関心を向けてくれているということですから、ありがたいことですよ」
「皮肉でも、あれをありがたいなんて言うなんて、先生もいい性格してるね。熱烈な歓迎でも、温かいのと苛烈なのとでは雲泥の差でしょう」
「近宮さんもなかなか言いますね。確かに温かみのある歓迎ではありませんでした。あれは焦げ付くような強火です」
「それは認めるんだ」
「私が気にしているかどうかは別として、客観的事実は存在しますからね。それはそれとして、最初から温かい歓迎が待ってると期待するのも、それはそれで教師の己惚れなのかもしれません。初対面の教師など赤の他人ですから、すぐには信用できないというのは、ある意味自然なことです」
この物言い。笑喜先生はやっぱり、状況を全て把握した上で担任に臨んでいるらしい。それでもなお、笑顔を武器に正面から藤木戸と相対している。まるでノーガード戦法だ。
「藤木戸は笑顔に絆されるような奴じゃないよ。この先大丈夫なの?」
「心配ありませんよ。そう遠からず、この問題は解決すると思います」
「今日一日を終えて、その自信はどこからやってくるの?」
「自信ではなく確信です。藤木戸くんはきっと、物わかりの良い生徒さんでしょうから」
笑喜先生は満面の笑顔でそう言ってのけた。藤木戸は確かに勉強は出来るけど、人の話を素直に聞くようなタイプでないことは今日一日だけでも明らかだ。それなのに笑喜先生はまったく不安を感じていない。まさか本気で、笑顔で藤木戸の心でも開こうというのだろうか。
「私はあちらの方角なのでここで。気をつけて帰るんですよ」
話し込んでいる間に繁華街の出口まで到着していた。どうやら先生の向かう方向は真逆らしい。
「ミステリーについて語り合うまでは、辞めちゃ駄目だからね」
「心配ご無用です。言ったでしょう。卒業までクラスと共に歩むと」
「そういえはそうだったね」
何の根拠もない言葉だけど、あまりにも自信満々に言う姿がたくましい。本気で期待してもいいのかな。
「ばいばい先生。また明日」
「はい。また明日学校で」
先生に手を振って、私は帰路についた。担任の教師にまた明日なんて言ったのは、ずいぶんと久しぶりなような気がした。
※※※
翌日。早速自体は動いた。もちろん、笑喜先生にとって悪い方向にだ。
登校するなり、職員室の近くに多数の生徒たちが集まっているのが見えたけど、私はそこまで野次馬根性旺盛ではないので、その時点ではあまり気にしていなかった。何が起きていたのかは、後から教室に到着した優里亜から事情を聞かされて初めて知った。
「職員会議があって、笑喜先生が注意を受けたらしいよ。保護者からクレームが来たとか何とかで」
間違いなく、手を回したのは藤木戸だろう。教室に藤木戸の姿は見えない。そういえば職員室の野次馬の中に、見覚えのある目つきがいた気もするので、成り行きを特等席から見守っていたのかもしれない。学園に多額の寄付をしている有力者、藤木戸の親からの意見を、学園側は無視できない。藤木戸は親の前では良い子で有名なので、一方的な被害者を演じて、親にクレームを入れさせたに違いない。学校側も事情は把握している(問題を解決しようとする気概はないけど)から、藤木戸の顔も立てつつ、赴任して二日目の担任教師に重い処分を与えるわけにもいかないから、口頭での注意処分に落ち着いたというところだろうか。いずれにせよ、理不尽なクレームで注意を受けた笑喜先生は災難だ。担任二日目でのこの仕打ちは流石に堪えると思う。学園側も大して守ってくれないということでもあるし。先生は今日、どんな表情で教室に姿を現すのだろう。
「皆さん、おはようございます。今日も爽やかな朝ですね」
朝のホームルームの時間になった。私の心配をよそに、笑喜先生はセリフを体現するかのような爽やかな笑顔で教室に姿を現した。少なくとも表面上は、直前までの災難を感じさせない。
「先生。職員会議で怒られたって聞きましたよ。何やらかしたんですか?」
燃やした張本人であろう藤木戸が嫌味な笑みを浮かべて切り込む。昨日は攻撃が不発に終わったからといってまさか二日目で親の力を借りるとは思っていなかった。今更藤木戸にプライドなんて期待していないけど、流石にそれはダサくない?
「皆さんご存じの通り、職員室でお叱りを受けてしまいました。いい歳をしてお恥ずかしい。保護者の方から、1年A組の担任は愛想が良いだけでクラス運営に具体性が無いというご意見を頂きまして。担任として大いに反省です」
笑顔のまま、笑喜先生は一度俯いた。流石に落ち込んだ表情の一つでも見せるだろうと期待しているのか、藤木戸は分かりやすく前のめりになっていた。
「それにしても驚きました。一度も会ったことがないのに、保護者の方からここまで具体的なご意見が届くとは。まるで誰かから聞いた意見を、精査もせずにそのまま伝えているかのようだ」
顔を上げても、笑喜先生は笑顔のままだった。声色も変わってはいないけど、普段よりも饒舌だ。空気の変化は誰もが感じ取っていた。
「おい。何が言いたいんだよ?」
すかさず藤木戸が苛立ちを露わにする。すでに周知の事実とはいえ、このタイミングでのそれは自白に等しいだろうに。
「私は率直な意見を述べたまでですが。それとも何か心当たりでも?」
笑顔とは裏腹に、笑喜先生の切れ味は鋭い。ノーガードでの殴り合いが始まっている。
「反省の色は無しってか? いい度胸してるじゃねえか」
「お褒めに預かり光栄です。教師には時に度胸も必要ですから」
「いい加減――」
「間もなく一限目が始まりますね。これにてホームルームを終了します」
チャイムがリミットを知らせる。思えば昨日もそうだったけど、笑喜先生は時間も計算して会話をしているらしい。だからいつだってチャイムは笑喜先生の味方をする。舌戦では完全に笑喜先生が圧勝している。恐らく笑喜先生には職員会議の注意処分なんてノーダメージなのだろうし、痛い目を見たのはプライドを傷つけられた藤木戸だけだ。
ただし、この場の舌戦の勝敗が今後にとってプラスに働くとは思えない。藤木戸はきっとさらにヒートアップするだろう。昨日笑喜先生は藤木戸は物分かりのいい生徒だと言っていたけど、この状況でどうしたらそう思えるのだろう?
※※※
今日は図書館が蔵書点検でお休みなので、普段はあまり使わない学校の自習室を使うことにした。一時間くらいは勉強していたけど、いつもと違う環境で、いまいち勉強に集中出来ず、今日はもう帰ることにした。
「おや、近宮さん。今からお帰りですか?」
「先生こそ、今から帰るの?」
「はい。今日は大切な用事がありまして、早めに上がらせてもらいました」
生徒玄関で靴を履き替えていると、通りがかった笑喜先生が声をかけてきた。先生も今日は帰り支度を済ませ、手には鞄が握られている。うちの学校は部活動のほとんどを、卒業生を中心とした外部の顧問に依頼しているので、教師は部活の顧問の負担が少ない。笑喜先生も担当している部活動はないので、早い時間の帰宅も十分あり得る。
「あの様子だと、次は先生の進退に関わるような行動を起こしてくるかもしれないよ。明日からどうするつもり?」
「前にも言った通り、藤木戸くんは物わかりの良い生徒さんです。もしかしたら明日にでも、この問題は解決しているかもしれませんよ」
藤木戸は完全に教師追放モードに入っている。ここまでこじれてしまった状況が明日には解決しているだなんて、理想を越えて、もはや現実逃避にさえ思える。
「それは流石に、楽観視が過ぎるんじゃない?」
私の指摘に対して、笑喜先生は微笑むばかりで、返事をしてはくれなかった。
「それでは、用事があるので私はこれで。気をつけて帰るんですよ」
そう言って笑喜先生の背中は、職員玄関の方へと消えていった。
「何か考えはあるんだろうけど、流石に生徒の私には話してくれないか」
上履きから外履きへと靴を履き替える。笑喜先生の立場からしたら、私が藤木戸と繋がっていないとも限らない。手の内を明かしてくれるはずもなかった。信用と言っても、昨日学校帰りに少し話しただけだし。
「これからどうしようかな」
図書館は休みだし、たまには遊んで帰るのも悪くないかもしれない。
玄関前でどこに行くか考えていると、正門から出て行く笑喜先生の姿が見えた。昨日も繁華街で会ったし、車ではなく公共交通機関で通勤しているようだ。
『もしかしたら明日にでも、この問題は解決しているかもしれませんよ』
不意に、直前の笑喜先生とのやり取りが頭をよぎった。先生は明日と、妙に具体的な時期を口にした。そして大切な用事があると言って、今日は早く学校を出た。もしかしたらこれから、問題解決のために何か行動をするつもりなのでは? そんな可能性を想像した。
気がつけば私は、気づかないように距離を置いて、笑喜先生の背中を追いかけていた。もしもプライベートな用事だったら、知らない振りをして立ち去ろう。
いけないことだと思いながらも、尾行を楽しんでいる自分がいた。流石に探偵小説の読み過ぎかもしれない。
※※※
二十分ほど尾行を続けていると笑喜先生は、日が暮れて、人気の少なくなった公園へと入っていった。学校から距離があるため、関係者に目撃される可能性は低そうだ。まあ、私みたいに学校から尾行してきた例外はいるけども。
笑喜先生は公園の中央の、外灯の下のベンチに腰を下ろした。私は気づかないように、先生の背中側の、少し離れた位置にあるベンチに座り、成り行きを見守ることにした。もしかしたら誰かと待ち合わせでもしているのだろうか? 笑喜先生はプライベートの話をしたことはないけど、左手に指輪はしていなかったし、おそらくは独身だと思う。もしかしたら恋人とデートの約束でもしているのかもしれない。もしそうなら私の好奇心は完全な空回りだ。デートの邪魔をしては申し訳ないし、それらしいお相手が来た時は潔く退散するとしよう。
そうして五分ほど待機していると、思いがけない人物が公園に姿を現し、笑喜先生の元へ駆け寄ってきた。
「……どうしてお前が俺のアカウントを知ってるんだよ?」
笑喜先生の待ち合わせの相手は、教室内でバチバチの藤木戸だった。ただ、今の藤木戸からは朝のような威勢は失われ、言葉遣いはともかくとして、感情的にはならず、慎重に先生に伺いを立てている。眉間に皺の寄った表情といい、相当警戒している様子だ。
「本名は使わず、顔も晒していなくとも、投稿した写真や文章から個人を特定することは可能です。投稿しても本当に大丈夫か。今後はネットに上げる前に、一呼吸置いた方がいいかもしれませんね」
自宅や親の連絡先ならともかく、笑喜先生が藤木戸個人の連絡先を知っているとは思えない。やり取りから察するに、藤木戸が本名や顔を出さずに運用していたSNSのアカウントを特定し、DMを使ってコンタクトを取ったといったところだろうか。藤木戸に同情はしないけど、警戒するのは理解出来る。個人を特定するスキルもさることながら、それを実行に移すという行動力が何よりも恐ろしい。笑喜先生は今この瞬間も笑っている。
それにしても、藤木戸はどうして笑喜先生の呼び出しに応じたのだろう? 警戒しながらも、待ち合わせ場所に笑喜先生がいること自体には驚いていなかった。先生は始めから、名乗った上で藤木戸を呼び出したのだと思う。だけど、朝にあれだけやり合っておいて、藤木戸が素直に呼び出しに応じるだろうか? むしろ、先生に呼び出された事実さえも攻撃の材料に使いそうなぐらいなのに。藤木戸にも何か、呼び出しにに応じざるを得ない理由があったのだろうか? とにかく成り行きを見守ってみよう。
「……重大な秘密って何だよ」
「そう怯えないでください。君には一切非のないことですから」
そう言って、笑喜先生は懐から何かを取り出し、藤木戸へと見せた。恐らく写真だと思う。辺りは暗くなってきたし、位置的に藤木戸の表情は分からなかったけど、見せられた写真に顔を近づけ、凝視していることだけは分かった。藤木戸にとって決して無視出来ない内容であることは間違いない。
「君のお父様、元基氏が若い女性と一緒にホテルから出てきた瞬間を捉えた写真です。以前からパパ活に熱中していたようですね」
驚愕の事実に思わず声が漏れそうになったけど、寸前で何とか飲み込んだ。藤木戸の父親といえば有名企業の社長で、学園に多額の寄付をしている有力者。そんな人物の女性スキャンダルの証拠写真となれば、とんでもない爆弾だ。しかもそれを息子である藤木戸要に見せつけるとは。
「親父……何でこんなことを」
藤木戸は本気でショックを受けている様子だ。親の権力を振りかざすような奴だけど、家族の悪口や不満を言っているところは一度も見たことはない。藤木戸にとっては良い家族、良い父親だったのだろう。その像が音を立てて崩れていく。今だけは流石に藤木戸に同情した。
「コンプライアンスに厳しい昨今、経営者の女性スキャンダルは致命傷になりかねない。聡明な君なら、事の重大性は理解出来ますよね?」
笑喜先生は穏やかにそう言った。日常会話の延長上のように、穏やかに、爽やかな笑顔で、ためらいなく。
「俺を脅すつもりか?」
「否定はしません。ただ、私の感覚で言わせてもらうなら、これは抑止力です。先に攻撃を受けたのはこちらですから、相手が進攻を躊躇うような武器をこちらも持たなければいけない」
確かに、先に仕掛けてきたのは藤木戸の方だし、反撃を受けたことは自業自得かもしれないけど、それはそれとして、担任になったばかりの笑喜先生が、こんなにも素早く抑止力を用意出来るとは思えない。もしかしたら笑喜先生は全てを見越し、着任前からすでに行動を開始していたのかもしれない。
「……俺に何を要求するつもりだ?」
藤木戸の声には覇気がなく、怯えなのか、むしろ声が震えていた。藤木戸は傲慢だけど、上記判断が出来ないほど愚かではない。今主導権を握っているのは笑喜先生の方だと理解している。
「要求だなんて、そう身構えないでください。この写真を表に出すつもりもありません。ただ、これからも平穏な学園生活が送れましたら幸いです」
オブラートに包んではいるけど、要はこれ以上、ふざけた真似はするなということだ。普通の学生生活を送ればいいだけ。確かに要求という程のものではない。だけど笑顔も相まって、今の笑喜先生の姿はむしろ、脅しているよりも恐ろしい。
「……その約束、忘れるなよ」
悔しそうに声を震わせながら、藤木戸は笑喜先生から写真を受け取った。写真の元データは笑喜先生が持っているだろうし、その一枚に大きな意味はないのかもしれない。だけど今の藤木戸にとってそれは、他言無用を約束する契約書のようなものだ。
「気をつけて帰るんですよ。また明日学校で」
ベンチから立ち上がり、逃げるように去って行く藤木戸の背中に、笑喜先生は優しい言葉をかけた。
「藤木戸くんは行きましたし、出てきても大丈夫ですよ。近宮さん」
突然名前を呼ばれてビクリと体が震えたけど、どこかでこうなるような予感はあった。有名企業の社長の女性スキャンダルを激写出来るような笑喜先生だ。素人の尾行ぐらいお見通しらしい。名前まで呼ばれた以上、猫の鳴き真似でごまかすというわけにもいかないだろう。私は大人しく、笑喜先生の前に姿を現すことにした。投降する犯人のように両手を上げてしまったのはご愛敬。
「いつから気づいていたんですか?」
「最初からです。学校からずっとつけていましたね」
最初からとは流石にお恥ずかしい。探偵小説を読んでいるだけで、尾行のプロフェッショナルになれるわけではない。今更ながら当たり前のことだ。
「ここで見聞きしたことは、他言無用でお願いしますよ。秘密とは当事者間のみで共有されているからこそ意味のあるもの。知るものが増えれば価値は激減する」
「言われなくてもさっきのあれは、何も見なかったし聞かなったことにしておくよ。有名企業の社長のスキャンダルなんて、一介の女子高生が持っててもどうにもならないし」
「やはり近宮さんは聡明ですね。言葉に出すことは大切ですから念のため釘は刺しましたが、元々心配はしていませんでしたよ」
笑喜先生の言葉を聞いて私は確信した。どうやら全て先生の掌の上らしい。
「元々か。現場を私に見られることも含めて計画の内だったわけだ」
思えば玄関での先生の言葉は意味深だった。ただ、「今から帰る」と言えばいいものを、「大切な用事」があると言ったり、藤木戸との問題が「明日には解決」していると、妙に時期が具体的だったり。私が興味を持つように誘導していた節がある。尾行だって最初から気づいていたのならいつだって撒けたはずなのにそうしなかった。私に見られる前提。あるいは見られても問題はないと考えていたのだろう。
「生徒にも一人ぐらい、私のこういう一面を知る人間がいても悪くないかなと思いまして。あわよくば程度に考えていましたが、こうして近宮さんはこの場に現れた」
「あわよくばに引っかかったのは癪だけど、尾行なんて後ろめたい行動を取ったのは私自身の選択だし、あまり強くは言い返せないな」
巻き込まれるような選択をしたのはあくまでも私だ。癪に触っただけで、別に笑喜先生に怒りは感じていない。
「こういう一面か。藤木戸の横暴に対して抑止力を見せつけたのは流石に驚いたけど、それを私に見せてどうするつもりだったの? 協力者にでもなれってこと?」
「協力者というよりは、生徒目線のアドバイザーといった方が適切でしょうか。藤木戸くんの件だけではない。塔上学園ではこれからもきっと何かしら問題は起きていくのでしょう。その時は私なりの方法で解決していく所存ですが、時には教師目線では気づけない問題やヒントが存在するかもしれない。近宮さんには生徒お目線での意見を求めたいのです」
笑喜先生の言いたいことは理解出来る。藤木戸は確かに問題のある生徒だったけど、何よりも問題なのは、それがまかり通ってしまう環境が塔上学園には存在しているということだ。再び何かが起きる可能性は確かに否定できない。生徒には生徒のコミュニティというものが存在するし、確かに笑喜先生からしたら生徒側の目線は貴重だろう。
「どうして私に?」
「現状に閉塞感を覚えているような印象でしたし、私の立場も案じてくれた。こうして尾行してくる行動力もあるし、理解力も非常に高い。理想的な人材だと感じました。そして何よりも」
「何よりも?」
最後かつ、強調するぐらいだ。よっぽど重要な理由に違いない。
「探偵小説好きだからですかね。個人的には同じ趣味の方は信用できます」
「何それ。悪い気はしないけど」
どんな大そうな理由が飛び出すかと思えば、決め手が趣味の一致とは。自然と笑いがこみ上げていた。確かに私も仲間を探す時、最後に何か一つ決め手がほしいと思ったら、趣味が同じ人を選ぶかもしれない。
「学校の居心地が良いに越したことはないし、私でよければ力になるよ。笑喜先生のやり方には正直驚いたけど、あれぐらいでないと藤木戸は止められなかったと思うし」
「心強いです。改めてよろしくお願いします。近宮雫さん」
「こ、こちらこそ」
笑喜先生が笑顔で、丁寧に頭を下げてきたので私もそれに返した。正直、先生の手法は褒められたものではないと思う。だけど1年A組ではこれまでに二人の教師が担任を降り、藤木戸は増長する一方だった。綺麗ごとだけで解決出来る段階は、とっくに過ぎていたのだと思う。ベストな選択だったのかは私には分からない。だけど確実にこれから、クラスの空気は変わるはずだ。
「そういえば先生、プロもびっくりな情報収集能力だったけど、どこであんな技術を?」
「プロもびっくりというか、元プロですよ。教職に就く前は調査会社に勤めていました」
「つまり笑喜先生は、元探偵ってこと?」
「有り体に言えばそうなりますね。フィクションなどに登場する難事件を解決するような名探偵ではなく、現実的な方の探偵ですが」
正直に言おう、藤木戸の件が霞む程の今日一番の衝撃だった。そういえば確かに、会社員をしていた時期があるとは言っていたけど。全て笑喜先生の掌の上だったとはいえ、私は愚かにも元探偵の後をつけていたことになる。とんだ笑い話だ。
「もちろん、このことも秘密ですよ?」
笑顔に圧を感じるのは、元探偵だと知ったバイアスだろうか。もちろん誰かに言おうなんて微塵も思ってはいけないけど。先生の目的はあくまでも平穏な学園生活が続くこと。悪意はないし、想像するだけ無意味だけど、敵に回したくない相手だなと、素直にそう思った。
※※※
「それでは出席を取ります」
笑喜先生と藤木戸が公園で接触してから一週間が経った。あの日の朝の物々しい雰囲気が嘘だったかのように、この一週間は穏やかな日常が流れている。
「藤木戸要くん」
「はい」
藤木戸は出席に素直に返事をしている。すっかり牙を抜かれてしまった印象だ。あの日以来、藤木戸は笑喜先生に対する一切の攻撃を止め、藤木戸の親からクレームが入ることも無くなっていた。藤木戸と一緒に教師いじめをしていた一部の生徒は困惑気味だったけど、急先鋒だった藤木戸に動きがない中、自分たちで何かをする度胸はないようで、教師いじめの空気自体が止んでいる。入学以来、最も平和な時間が流れていると言っても過言ではないだろう。
笑喜先生の言うように、藤木戸は物分かりのよい生徒だったというこのようだ。父親のスキャンダルが出回れば、その威光が失われる。そうなれば今度は自分が晒しものになってしまうと危惧しているのだろう。「将を射んとする者はまず馬を射よ」とはよく言ったものだ。
笑喜先生の要求は普通の学生生活を送ることだけ。それで話が丸く収まるのならば、藤木戸にとってもありがたい話ということだ。もちろんこれは、笑喜先生と藤木戸が秘密を共有しているからこそ成り立つ話だ。そこに私が介入するとややこしくなるから、あの日見聞きしたものは決して口外するつもりはない。
「今日も一日、よろしくお願いします」
朝のホームルームを、笑喜先生は笑顔で締めくくった。
1年A組の担任。笑喜先生は笑顔がとても素敵な先生です。
その笑顔の下に何が隠されているのかは、私も含めてまだ誰も知りません。
了