純平の帰国の日、約束どおり空港の到着ロビーで待っていた。
だけど留学コーディネーターの先生を先頭にした生徒の集団が現れても、なかなか純平の姿が見当たらない。
おれはパーカーの襟元から首を伸ばして純平を探す。すると突然、後ろから二本の腕が回ってきて、強い力で抱え込まれてしまった。
「っうわ」
思わず声が出る。
自分よりずいぶん大きく、逞しいと思われる体つきの人間にグイッと引き寄せられたら、誰でも驚くと思う。
「なんだ、誰っ」
特進コース・生物部所属の地味男子のおれにはこんなことをしてくる運動部の後輩はいない。
おれは抱え込まれたまま斜め後方を見上げた。
――誰だ、これ。
俺を拘束しているのは、肩まで伸びた髪をハーフアップにした切れ長の目のイケメン。身長はおれより頭一つ分は高くて百八十はある。
こんなカッコいいやつ、おれの知り合いには──
「あっ……! 純平?」
見違えるほど大人っぽくなっているものの、長い睫毛に囲まれたこの目と形のいい鼻は純平だ。
「せんぱ〜い、ただいま!」
やっぱり。声質がやや低くなってはいるけど、この甘ったれた話し方、懐かしい!
そう思ってよく顔を見ようとすると、純平は俺の体をくるっと回転させて、続いてムギュと抱きしめてきた。
「おい、純ぺ」
「会いたかったぁ。ハグして、先輩」
「いや、もうしてるし」
そうだよ。この体勢はなんか恥ずかしいぞ。
一年前の純平なら「おれに抱きついている」と見えただろうけど、今は「おれを抱きしめている」ようにしか見えないだろう。周囲にいる他の生徒も知らない人も、おれたちを見て笑っている気がする。
だけど……無事に帰ってきてくれて嬉しい。おれは軽く腕を回して、長くなった背中をぽんぽんと叩いた。残念ながら、今後は純平の頭を撫でる機会は減りそうだ。
「お帰り、純平。待ってたぞ」
心からそう伝え、純平から離れようと足を一歩後ろに動かす。すると純平は、逃さないとでも言うように腕の力を強めた。
おれの体は純平の胸の中にすっぽりと収められてしまう。
「っおい!」
「ホントに先輩だ……陽向先輩、大好きだよ」
えっ……なっ、なんだ?
純平は耳に唇を当ててきて、声を穴の中に入れてくるじゃないか。
瞬間で、ゾワゾワッとしたものが背中を駆け上がった。
高校生どころか大学生にも見えそうな容姿になった純平に、低い声で囁かれた「大好き」は、今までと何かが違う。
だけどおれにはそれを具体的に説明することはできなくて。
その後ふんわりと微笑んだ純平にちょっと見惚れたりもして、首から上に熱が集中したようになって逆上せたおれは、気づいたら純平に手を引かれて空港を出ていた。
「そろそろこれ、やめないか」
「やだ」
帰路につく電車の中、繋がれたままの手をほどこうと試みるも、純平は応じない。
いくら一年ぶりだからって、甘え過ぎでは。
「そんなに寂しい思いをしたのか? もしかしてホストファミリーと合わなかったとか?」
「あー、まあ。家に入ってみたら放任っていうか世話放棄って感じで。そういうの慣れてるんでなんとかやってたんですけど、食事代で一ヶ月の小遣いが足りなくなっちゃって。それでコーディネーターの先生が気づいてホストを変えてくれたんで、その後はずっと楽しかったですよ」
「えっ。なんで言わなかったんだよ」
そんなことになっていたとは思わなかった。メッセージで知らせてくれていたら、おれも学校に居る先生に相談してやれていたのに。
「大丈夫なのか? 今は腹は減ってないか? 体が辛いところとかは?」
「いや、だから最初の一ヶ月だけですってば」
俺が前のめりになると、純平はくすくす笑う。
そうなんだけど、気づいてやれなかったことが申し訳なくて……ん? 待てよ。『そういうの慣れてる』って、どういうことだ?
問おうとすると、純平が先に口を開いた。
「でも寂しいのはずっとありました。早く日本に帰りてぇぇって、出発の飛行機の中から思ってましたもん」
純平がおれの目を覗き、握る手に力を込めて訴えてくる。握っていない方の手は、腰のないおれの髪をひと束つまんだ。
近っ! めちゃくちゃ甘えてくる。髪まで触ってくるのは初めてだ。
捨てられた子犬みたいな顔をして……そうか、それほど寂しかったということか。
「純平は甘えんぼだもんな。ご両親と離れるのが不安だったんだな」
純平ももう高一なんだししっかりしろよ、とは言わない。純平はお金持ちの家の一人息子だそうだから、やっぱり溺愛されて育ってきたんだろう。ステイ先での世話放棄が辛かったのはもちろん、出発前からホームシックになるのも仕方がない。
おれは空いている方の手でおれの手を握る純平の手をぽんぽんとして、理解と労りを示した。
「全然違いますけど」
だけど純平は秒で否定してくる。それも不満げに眉根を寄せて。
「違う? じゃあ何? 日本自体が恋しいとか、そういうこと? 食べ物とかそういう意味で」
おれが首を傾げれば、純平は肩をすくめて苦笑いをした。
「わかんないよね。ま、これからわかってもらうんで、よろしくね、先輩」
苦笑いをニッコリ笑顔に変えたかと思うと、純平は手を繋ぎ替えて指を絡めてくる。
「わ、さすがにやめろ」
これは高校生の男同士ではアウトだろ。恋愛中の男女じゃないんだから。
急いで手を引く。それでもやっぱり純平は手をほどこうとしない。
「久しぶりだから、お願い先輩。下に隠しておけば見えないから」
う……すがるように見られると、弱い。
「……駅につくまでな」
結局おねだりに負けて、手を二人の太ももの間に無理やり差し込む。
「ありがと。先輩……大好き」
純平はそう言うと、おれの肩に頭を預けて瞼を閉じた。
寝るんかーい。もしかして眠くて甘えてた?
今までの「大好き」や甘え方と、やっぱりどこか違う気がするけど気のせいだよな……。
絡まった指には落ち着かないものの、純平のつむじが見えたことに何かホッとした俺は、具体的に考えることをやめた。
「ねえ先輩、お願いがあるんですけど」
純平がそう言ってきたのは、乗り換えのために次の電車を待つ時間だった。
「なんだ?」
「インター生ってさ、この春休みに特別課題が出されるでしょ。飛行機の中でめくってみたけどかなり難しそうでさ。解けそうにないから教えてほしくて」
インター生とはインターグローバルコースの生徒の略だ。
インター生だって偏差値は充分高いのだけど、留学しているとどうしても理数系の勉強量が不足する。だから春休み明けの実力テストや全国模試の対策として、帰国したインター生には分厚い課題テキストが配布されるのが恒例だ。
「あ~、同級生のインター生も去年言ってたな」
「っもしかして教えてあげたんですか!」
なんだ? 急に機嫌を悪くして。 あ、そうか、柴距離??
「そうだけど……ちゃんと純平も見てやるから。日にち合わせて図書」
「じゃあ明日! 俺の家で!」
うわ。言葉を被せてきた。やる気満々だな、純平。
「親御さんの許可が出たらな」
「そこは大丈夫です。なので、三日くらい泊まり込みでお願いしたいです。予定はどうですか」
「……えっ?」
泊まり込み? 三日間も? 予定は空いているけど、おれの家はおれがいなくて大丈夫だろうか。春休みだから大丈夫か……いや、それよりもやっぱり。
「それこそ親御さんにちゃんと了承を取れ。初めてお伺いするのに三日も泊まりとか、常識的じゃない」
「先輩、相変わらず『おかん』だね」
「それ言うな。なんなら『おとん』でも言うと思うぞ」
「どっちにしろ保護者っぽい。ね、本当に大丈夫だからお願い。俺の家にきてください」
背を屈め、目を覗いてくる。
ぅう。またすがるように見て……おれはこの目に弱い。
仕方なし。やっぱり可愛いんだよな、純平は。
「わかった、いいよ」
「やった! 先輩、大好き!」
耳と尻尾が見えそうな純平に笑ってしまう。
めちゃくちゃ喜んでるなぁ。ただしここで抱きつくのは禁止。
純平の腕が伸びてきそうなことを察し、右手で制して左手でスマホを操作する。純平の家の位置情報を確認するためだ。
中高一貫校に通っているおれたちは住む地域が同じではない。大まかな居住地は知っていても住所までは知らないのだ。
「住所、教えて」
ところが純平は首を振る。
「いえ、三日間も先輩の身柄を預かるんですから、ご家族に挨拶がてら俺が迎えに行きます」
……言い方よ。逮捕とか拘束じゃないんだからさ。純平、留学の間に日本語が下手になったか? 課題の時に現国も見てやらないと。と思っていると電車がホームに入ってきた。
乗り込んでから、挨拶すべきはやっぱりおれだろうと思い、こっちから出向く旨を伝える。だけどやっぱり純平は首を振った。
「俺も挨拶したいですもん。だから、ね?」
また目を覗かれる。
「わかったよ……」
おれの方は到着してから挨拶をするんだし、いいか、と結局また純平のおねだりに負けて住所を伝え、明日の約束をまとめたのだった。
翌日、約束の十時の十分前。
純平はご丁寧に人気洋菓子店の菓子折を持参して挨拶にやってきた。
柴距離マンだから初めての相手に緊張するんじゃないかと心配していたけど、杞憂だった。
純平は、興味津々で玄関に出てきた妹と弟たちにも目線を合わせて話してくれる。ただ挨拶よりもおれへの賛辞が多いのには正直参った。
「先輩には感謝しています。先輩がいなかったら今の俺はいません」とか、「先輩は本当に優しくて、細やかに他人を気遣うんですよね。そういうところにすごく支えられています」なんてさ。
学校で『おかん』なんて言われているおれだけど、気遣いなんて大層なことはしていない。純平を構っている自覚はあっても、家族の前で言われて気恥ずかしくなる。
「そうなのね。ヒナがそんなふうに思われていて嬉しいな。これからもヒナと仲良くしてあげてね」
母よ、追い打ちをかけないでくれ。純平の前で愛称呼びは恥ずかしい。
おれは口を挟もうとした。だけど純平は笑ったりツッコミを入れてきたりせず、反対に、次の言葉でおれにツッコミを入れさせた。
「はい、こちらこそです。俺、絶対に陽向先輩を大切にしますので、安心してください!」
「なんだよ、大切にって。日本語おかしいだろ」
ぽん、と裏手で腕を叩くと、純平はいやに生真面目な表情でおれの目を見てくる。
「おかしくないですよ。陽向先輩は俺の大切な人だから、合ってます」
「ぅ……それは、どうも」
身長差が逆転して見下ろされる側になってしまったからだろうか。調子が狂ってしまう。
大袈裟なんだよ、と言うのも気後れして、モゴモゴと礼を言った。
だってさ。身長だけでなく、広くなった肩幅とかハーフアップの髪とか、後ろから見たら別人なんだから……。
これはつまらない気持ちとは違う。学校指定の革靴を新しくした時の、親指の爪先や踵が馴染まない、そんな感じ。
だけど姿形は変わっても、純平の中身は変わっていないんだ。しばらくしたら慣れるだろう。
そう自分を納得させながらも、成長期のおれたちのこれからは、突然変異する微生物のように変わっていくのかも、なんてふと思う。
俺たちは来年、いいや、来月、一週間後、どんな俺たちになっているのだろう。
いつまでも純平を可愛がる先輩でありたいと願うおれは、純平の隣でも後ろでもなく、少しだけ前を歩いて駅へ向かった。
「綺麗なマンションだな。純平んちぽい」
純平の家はいかにも富裕層が住んでいそうなマンションだった。外観やエントランスロビーからして豪華に見える。
「ぽい、ってなんですか」
「おれは詳しくないけど、持ち物とか全部ブランドだって生物部のヤツも言ってたから、このマンションが家だって言われて納得してる」
「別に、俺が買った物でもないですし、家はただの箱ですよ。先輩の家はお母さんに妹さん、弟さんたちがワイワイ楽しそうにしてましたね。俺はあんなふうに人の温度が感じられる家がいいいな」
純平が羨ましそうに言う。謙遜している様子じゃなく、本当に羨ましそうに。それも『人の温度』なんて、変わったことを言う。
どうしてだろうと疑問符を頭に浮かべていると、純平はエレベーターのボタンを押しながらつけ加えた。
「うちは家に俺と犬しかいないんですよ」
「どういうことだ?」
「両親がもともと海外出張の多い共働きなんですけど、俺が受験に合格して以降はほぼ不在で」
だからおれが泊まる了承も、挨拶も手土産も不要だと言ったのだと話す。一応メッセージで訊ねたら、予想どおり『問題を起こさなければいい』と返ってきたそうだ。
「じゃあ食事とかどうしてるんだ」
問いかけたタイミングでエレベーターがロビーに降りてきた。乗り込んでから会話を再開する。
「ハウスキーパーさんが三日に一度入ってくれてます。中一の頃は毎日だったけど、ある程度のことはもう自分でできるしね」
「そうなのか……」
相槌を打ちながらも、おれの頭は少し混乱していた。
純平が小説なんかで読む孤独な主人公のような生活をしているとは露ほども思っていなかったからだ。
愛されて、大切に育てられたのだろう甘えんぼの純平で、だけど柴距離マンでおれ以外には懐かなくて……と、この三年間思っていたのに。
だけどそういえば昨日、純平は『世話放棄に慣れてる』と言っていた。
――ああ、そうか。
混線が解けて、一本の線になった。
反対だ。事実は知り得ないけど、多分純平は親御さんに愛情をかけられていないと思っている。
だから受験の日、おれにとってはごく自然な行動でも、純平には特別な情に感じて強く記憶に残ったのかもしれない。
純平じゃなければ、おれはただの「いい人」で終わっただろう。
エレベーターが最上階に到着した。純平に促されて角にある住居の玄関に入る。
広くて綺麗でも、無機質なほど整理されていてしぃんとしていた。
おれの家の玄関には家族の靴が並び、弟が置き忘れた帽子なんかもある。学校から帰れば必ず誰かが玄関まで出迎えにきてくれる。
――この家には本当に人がいないんだ……。
それでも「お邪魔します」と言い、靴を脱ごうとしたその時だった。少し開いたままのリビングルームのドアがゆっくりと開いて、室内から柴犬がやってきた。
そうだった。純平は柴犬を飼っているのだ。
「ただいま、ソラ」
純平が柴犬……ソラの頭を撫でる。ソラは純平の匂いをクンクン嗅ぎ終えると、チラッとおれを見るもノーリアクションでリビングルームへ戻っていってしまった。
「……柴距離……これがホントの柴距離か」
思わず呟くと、純平がハハッと笑う。
「いろんな子がいますけど、ソラは柴距離感が強いかも。ほとんど俺としか暮らしてないせいかな。基本はご飯の時だけ擦り寄ってくる猫だと思ってください」
なるほど。だけど純平が本当の『独りきり』でないことにホッとした。
リビングに入れば、純平はフカフカのマットの上で寝そべっているソラの腹を優しい顔で撫で、ソラは無表情から一点、蕩けた表情で腹を見せて、体をクネクネさせた。
やっぱり純平には懐いているんだな。これは純平も可愛いだろう。
おれもまた、懐いてくれる純平が可愛くて、他の後輩よりは構っている自覚がある。
そして純平の側面を知った今、もっと構ってやりたくなった。
「純平、この三日間、勉強以外でもやりたいことがあったら言えよ。何でも付き合ってやるからさ」
「ホントですか?」
純平は瞳を輝かせると、ソラを撫でる手を止めて抱きついて……いや、抱きしめてきた。
「やったあ。先輩を独り占めできるの、嬉しいな。なら三日間、ずーっと俺から離れないでね!」
「なんだよそれ。トイレとか風呂とかまでくっついてくんなよな」
やっぱり中身は前の純平のままだな。可愛いやつ。
喜んでくれるのが嬉しくて、ツッコミを入れつつもおれは、純平から離れていくまで抱きしめられてやっていた。
難しいと言っていた割に、純平はそう教えるところもなく課題を進めていく。
「なあ、おれ、必要なくない?」
「そんなことないよ。先輩が隣にいてくれるだけでやる気が出て解けちゃうんだ。一人だとすぐにスマホを触って脱線しちゃう。きてくれてありがとね、先輩。……大好き」
「そ、そうか? ならいいけど」
しまった。『そうか』がちょっと裏返った。
センターテーブルに対面ではなく、角を挟んだ隣同士で座っているので、純平の視線も声も近い。大人びた純平に低い声で囁くように言われる『大好き』は、やっぱり今までと違う響きを持っている気がした。具体的にどう違うのかはいまだにわからないのだけど。
「あ、正午過ぎてますね。昼飯、オムライスでいいですか?」
ポモロードテクニックで勉強をして、タイマーを四度繰り返した時、現時刻を確認した純平に訊ねられた。
「あ、うん。レンジでチンのやつ? ハウスキーパーさんが作ったやつ? 温めるの、やるよ」
立ち上がった純平におれも続いて、純平の部屋からキッチンへ向かう。
「ううん。俺が作ります」
「えっ! できんの?」
両親の不在が多いため、ある程度のことは自分でやると言っていた純平だけど、料理をするイメージがない。
「留学先の二番目のホストさんに教えて貰ったんです。好きな相手に料理で感謝を伝えられるようになりなって言われて。だから帰国したら先輩に作りたいなって思ってました」
「へ、へー」
また声が上ずってしまった。好きな相手に感謝、ね。アレだろうな。忠犬純平だから、恩返しってところだろうな。
「じゃあ一緒にやるよ。おれ、炒めるの自信あるし」
手振りでフライパンを返す仕草をすると、首を振る。
「この三日間は俺が先輩のことを全部したいの。だから隣で見てて。俺のこと、目を逸らさないで見てて」
だから言い方……だけど目をじっと見てお願いされると今でも目を逸らせなくて、おれは純平に視線を置いたまま「わかった」と答えた。
腕が長く逞しくなったからか、純平の調理手技はなかなかのものだ。ツヤツヤのチキンライスに綺麗なプリーツのある卵を焼いて、『ドレス・ド・オムライス』というものを出してくれた。
さらに外国のハーブティーもつけてくれる。ミントとレモンの香りがなかなかいいな、と思った。おしゃれなもの知ってるな、純平は。
「はい、あーん」
俺がお茶に口をつけると、純平が自分のオムライスを一口分スプーンにのせて、俺に向けてくる。
「するか、純平が食べろ」
そこまで世話されたくないよ、と言いながらそのスプーンを一緒に持って純平の口に突っ込んでやった。
クスクス笑っちゃってさ。だけど楽しそうで何より。せっかく帰国した家で、ひとりのご飯って寂しいと思うから。
もちろんおれも楽しくて、今やおれの方が純平よりも小さいのに、純平よりも多く盛られたオムライスとハーブティーを残さずに平らげた。
――暑っ。
額や首に汗が滲んでいるのを感じ、不快感に眉が歪んだ。それでおれは目を閉じているんだと気づき、瞼を開く。
いつの間にかメガネも外していたようで、目を眇めて眼前を見た。
どこだっけここ。ああ、純平の家の純平の部屋か。昼ご飯のあと、リビングから戻ったから。
部屋の照明はついておらず、自然光だけの明るさだったのでそう眩しくはない。
うたた寝をしていたようだけどすぐに明るさに慣れ、メガネがないのでぼやけて見えはするものの、自分がどこにいるのかもすぐにわかった。
──だけど。
なんか、いる。おれの後ろに、なんかいる。
「……っ純平?」
自分の置かれた状況を把握したおれは、ぎょっとして立ち上がろうとした。
だけど純平はおれを抱きすくめてそれを阻む。
純平はベットの上で半座になり、おれを脚の間に挟んでバックハグをしていた。それも、おれの肩に顔を埋めるかのようにして。
それもおれの首に……これって、ソラの首輪だよな? それをつけ、接続した皮のリードをベットの脚に繋げて!
「純平、これ、何やってっ」
「先輩、よく眠ってたね。もう三時前だよ」
純平は片腕を伸ばしておれのメガネを取り、装着してくる。それから笑顔を向けてきた。
ニコッ、じゃない。ニコッじゃ。ていうか、マジでこれ、何やってんだよ!
「ふざけんな、説明しろ。いや、それよりまずはコレを外せ!」
おれが首輪に手をかけて要求するも、純平はスルーして抱き込んでくる。
まずい。よくわからないけど、この状況は絶対にまずい。
「……ひゃっ」
混乱のさなか、変な声が出た。なぜなら純平が、唇を頬に当ててきたうえ、お腹に触れてきたのだ。
「先輩、オムライスをたくさん食べたからお腹がポンポコリンだね。苦しくない?」
「ちょ、純ぺっ」
ポンポコリンなんて子どもみたいな言い方をするけど、純平は手まで成長していた。筋張った大きな手がお腹をくる、くる、と撫でてくる。
「受験の日、こうやって撫でてくれたよね」
おれはぷるぷると頭を振った。
確かに撫でたけど、おれはこんなふうにじっとり這うように撫でたりなんかしていない。
なんていうか、この触り方もおかしいし、頬に当てられた純平の口元から、ちゅ、ちゅ、とキス音みたいな音が聞こえてくるんだけど!
「やめろってば! 何なんだよ純平。こんなことがしたくておれを呼んだわけじゃないだろ。ふざけんな」
おれは純平の腕からなんとか逃れようとするも、逃げようとすればするほど腕と脚に力を込められた。
「ふざけてない。ずっとこうしたかった。先輩を俺だけのものにしたかった」
「――は?」
純平の言葉に耳を疑った。恋愛経験のないおれでもさすがに勘ぐってしまう。そんな言い方、まるでおれを……。
おれは捻れるだけ上半身を捻り、純平の意図を量るために顔を合わせた。
視線と視線が絡む。
ドキリとした。
世の中には「熱視線」という表現があるけど、純平の瞳はまさにそんなふうに濡れて光っている。
目が離せない。熱さに息が詰まって動けなくなる。
「先輩。ひなたせんぱい……」
泣きそうな声で名を呼ばれた。胸を突く切ない響きに、おれの胸は引き攣れる。
「俺、先輩が、好きです」
「じゅ」
純平、と最後まで言い切れなかった。
純平がせっかくつけたおれのメガネをはずし、顔を近づけた。そして、柔らかく温かいものでおれの唇を塞いだのだ。
「んっ、ひゅんぺっ」
最初は何が起こったのかわからなかった。だけど温かく濡れた感触に唇を数度挟まれたことで、純平にキスされているのだとわかった。
「やめ、じゅんぺ、ぁめろっ」
まるで啄まれているようだ。啄みの合間に懸命に息を吸って声を出すものの、純平にがっしりと後頭部を固定され、熱い唾液と吐息を口の中に送られると、頭の中まで熱くなってきて何も考えられなくなる。
前向きで体を捻った状態だから、力を入れて純平の体を押すのも限界がある。
おれは知らず知らずのうちに純平のキスに流されそうになっていた。
だけど次の瞬間。口の中に差し込まれたぬるっとした感触に驚き、おれは反射的に純平の鳩尾に肘鉄を喰らわせた。
「っつ……」
純平がおれから片手を離し、鳩尾を押さえる。反対の腕の力も弱まった。
おれはその隙に純平から離れてベッドから降りるも、首輪とリードのために、ドアの手前までしか逃げられない。
それでも本能のようなものに突き動かされるまま、首輪を外そうと必死に手を動かした。
ここから出ていかないと!
「っ待って、先輩、行かないで」
すぐに呼び止められる。とても苦しげな声だった。
ゴクリと空気を呑み下してから、決意してゆっくりと振り向く。
メガネがないためはっきりとは見えないけど、純平は痛みで苦しいと言うより、叱られた犬のような悲しい表情をしている。
おれは首輪から手を下ろし、リードを床に擦りながら、少しだけベッドに近づいた。
純平は鳩尾をさすりつつ短く息を吐くと、ベッドのへりに座り直して頭を下げてくる。
「こんなことしてごめんなさい」
そのままいつまでも同じ姿勢でいるのは、おれが返事をしないからだろう。
その姿は叱られて「待て」をしている犬にも見えて、逃げようとする気持ちがすうっと引いた。
とはいえ、どうしたらいいのかはわからない。おれは純平に声をかけられないままその場に立ち尽くし、純平もまだ項垂れている。
すると、足元に温かいものが擦り寄ってきた。
「ソラ……」
いつの間にかソラが部屋を訪れていて、「許してやれ」とばかりにおれと純平を交互に見上げてくる。
おれにソラの気持ちがわかるはずもないし、全くの検討違いかもしれない。それでもおれは、純平の心をちゃんと知りたい気持ちが生まれてきて、さらに足を進めて純平の前に立った。
「聞かせろ、こんなことをした理由を」
純平は座っているから、頭がおれの腹の位置にある。
つむじが見えるだけでなんとなく気持ちが落ち着き、おれはそこにそっと手を置いた。途端に純平が腰に手を回して縋りつく。
いったん冷静になってしまえば、意外と肝が据わっているおれはもう驚きはしない。
純平に首輪を外させ、メガネをかけてから、純平の隣に腰掛けた。
***
俺の両親は育児放棄をしたわけじゃない。中学受験に合格するまでは、母親は仕事をセーブして家にいてくれたし、経済的に余裕がある分、充分な生活と多くの金品を与えてくれた。
ソラだってそう。犬が欲しいとねだると、一人っ子だから遊び相手にいいだろうとすぐに飼ってくれた。
ただ祖父母からして「肩書き」に厳しく、両親は俺を有名校に入れて、将来は曽祖父の代から続く会社の後継者に育て上げようと躍起になっていた。
幼い頃は撫でられたり抱き上げられた記憶もある。でも小学校に入れば甘えることは恥、とでもいうように厳しく躾けられ、年々習い事と受験対策の塾にいる時間が多くなったことで、家族で過ごす時間は減っていった。
それでも俺は、いい点を取って親の望みどおりの子になれば微笑んで貰えるのだと、撫でて貰えるのだと、家族で楽しい時間を過ごせるようになるのだと、そう信じて勉強に打ち込んだ。
でも俺は、そこまで優秀じゃなかった。中学受験では親が第一にと望んだ学校に落ちた。第二志望校の今の学校も、特進コースは第一志望校の失敗からプレッシャーがかかり、駄目だった。
そして受験三日目。インターグローバルコースの受験に挑んだものの、十二歳の俺には二度の失敗が大きくのしかかっていた。
父親も母親も口にはしないが俺に失望していたから、ここで受からなければ見捨てられると思っていたのだ。
そして俺は、試験開始前から腹痛を起こした。
もう時間が迫っているのにどうしよう。
陽向先輩に出会ったのは、そんなふうに半べそをかきながらトイレから出た時だった。
陽向先輩は眼差しも声も、腹を撫でてくれる手もすごく温かかった。そしてその温もりは、弱っていた俺の心に深く染みついた。
またあのお兄さんに会いたい。そんなふうに思ってしまうほど。
そうして無事に合格した俺は、祖父母や両親にはそう喜んで貰えなくても、嬉しくて嬉しくて仕方がなかった。
だって、あのお兄さんと毎日会えるようになる。
俺は入学してすぐにお兄さんを探し、挨拶をして「仲のいい後輩」の椅子を手に入れた。
最初は本当に兄のように慕っているだけだった。でもだんだんと、他の生徒が『おかん体質』の先輩から気遣いを受けているのを見かけると嫌な気持ちになって、誰かが先輩に話しかけるだけでも、先輩が俺以外に声をかけるのさえも、嫌だと思うようになってしまった。先輩に関わる生徒、全員が敵に思えるほどに。
陽向先輩、俺だけを見て。俺だけに声をかけて、俺だけに優しくして──
でもそんな気持ちは狂気的だということも、中二が終わる頃には自覚していた。男子校だから女子との関わりがなくて先輩に執着してしまうんだろうか。他の生徒は気づいていないけれど、先輩は髪も肌もツルツルしていて、触れると気持ちいい。とても綺麗な人だと思う。
いや、男の先輩をそんなふうに見ることはおかしい。留学で先輩から離れ、広い世界を見れば気持ちは変わるだろうか。
──逆効果だった。先輩に会えなくなると思うだけで不安になり、俺がいない間に先輩が誰かと付き合ったらどうしようなんて苛ついた。飛行機に乗った瞬間からなんてものじゃない。本当は中三になってからずっと、留学なんてしたくないと思っていた。
それでも飛び立ったオークランドで、二番目のホストファミリーに出会えたことに感謝することになる。
ホストファミリーはゲイの夫夫だった。
知ったクラスメイトは苦笑いを向けてきたけれど、俺は少しの抵抗もなく、仲睦まじい二人と二人の養子に囲まれて、自分のセクシュアリティを自覚した。
そして、俺が陽向先輩に求めているのはこの夫夫の愛の形なのだと気づかせて貰った。
先輩、俺、帰国したら先輩と恋人になりたい。
好きだと言って、好きになって貰って、先輩とずっと一緒にいる約束が欲しい。
先輩と、一生一緒にいたい。
先輩、好きだよ、大好き。日向先輩、俺のものになって……!
それからの俺は、少しでも先輩に好いて貰えるようにと留学中の勉強を頑張ったし、身なりや体作りにも励んだ。
そして……帰国したら先輩に思いを伝えると決意した。
***
「そう、か」
純平の話を聞き終えたおれは、それしか言えなかった。
純平の生い立ちから葛藤、おれへの思いに決意まで。情報量が多すぎて何から答えていいのかわからないのと、やっぱり『愛の形』なんて言われたら心臓がバクバクして破裂しそうで。
相手が男とか女とか関係ない。生まれて初めて強い恋愛感情をぶつけられたのだ。それもちょっと拗らせてるし。
……いいや、純平はちょっとどころかかなり拗らせている。
「あのな、純平。気持ちはわかった。だけど行き過ぎているのはわかるな?」
おれはなるべく冷静に言った。純平は眉尻を情けなく下げて頷く。
「だって、どうしても先輩を独り占めしたくて。それでダメもとで安眠のハーブティーを入れてみたら、先輩が寝ちゃうもんだから」
「はぁ? アレ、そうなのかよ! 純平、そんなことまで……!」
「ごめんなさい! でも本当にダメ元で。現に俺も飲んだけど、全然効いてないし」
そういう問題じゃない! と思うけどここで怒ると話が中断するので、怒りを抑えて続きの釈明を聞くことにする。
「で、用意してたソラのスペアの首輪をつけました。今まで優しくして貰った分、この三日間、俺の部屋で俺が先輩を大切にお世話したかったんです」
用意してたんじゃないか! ダメ元じゃないだろそれ。それで拘束してお世話って……めまいがしそうだ。
「これは犯罪一歩手前だぞ。あと変態」
ぎろりと睨みつけると、純平は顔の前で両手を合わせて謝ってきた。
「ごめんなさい。本当にごめんなさい。もうしません」
大きい手だ。あの手でさっきお腹を撫でられて……頬を包まれて、それからキスされて……うっ、思い出したら駄目だ!
ボッと顔が熱くなるのを感じ、居た堪れなくなる。おれはお尻の位置をずらして、純平との距離を少し空けた。
すると、毛皮のある温かい体がすぐ隣にあった。
「ソラ……いたのか」
純平の話に聞き入っていたせいか、ベッド上で鎮座しているソラに気づいていなかった。
ソラは折っていた四肢をまっすぐに伸ばして立つと、おれの腕にタシッと片方の前足を置いた。
「なんだ? 柴距離解除か?」
首を傾げて顎の下を撫でると、背後で純平が吹き出す。
「これ、俺を頼むって言ってるんじゃないかな。仲良くしてやるから純平と仲良くしろって。ソラは俺の味方だから」
「はあ? まさかそんなわけ」
バカみたいなことを言う純平を見てソラをもう一度見ると、ソラは犬なのに達観した顔をしている。
……そんな、まさか、な……。
「ひなたせんぱい」
「ひぁっ」
ビクッと肩を揺らしてしまったのは、純平が鼻にかけるような甘えた声を出して、懲りずにバックハグをしてきたからだ。
「っだから近いって。今、もうしませんって言った口はどこへ言った。勝手に触るな。あっ」
腕が腰にギュッと巻きついてくる。うなじに唇を当てられた。
抵抗したいけど、ソラが後ろ足を踏ん張り、おれの胸に前足二本を当ててくる。
これ、雁字搦めと言うのでは。いや、わんこ搦めか? どういう拘束だよ!
「だって、ソラが応援してくれてるし、先輩のうなじがきれいなのが悪い」
おれが慌てふためいていると、萎れて反省していた純平はどこへ消えたのか、うなじを舌で舐め上げてくる。
ゾクゾクとしたものが背中を這い上がり、腹が緊張で張った。
なんだ、この感覚、おかしい。
「それに……先輩、怒ったけど、気持ち悪いとは思ってないよね?」
純平は話しながらうなじを吸ってくる。おれの体はだんだんと熱くなり、体の力が抜けてくる。
おかしい、おかしい。
「……な、なに言って……」
だけどそのとおりだ。言われるまで気づかなかったけど、純平にこうされても気持ちが悪いとか、本気で嫌だとは思っていない。
「なんで……」
自分のことなのにわからない。おれはどうしてこんなことをされても純平を突き放せないんだ。
「だって先輩、俺のこと可愛いでしょ?」
純平がそう言いながらきつくうなじを吸った。同時に、ソラが俺の鼻の頭をペロペロと舐めてくる。
――ああ、わかった気がする。
こいつら、柴犬だから。おれにだけ柴距離を解いて、じゃれついてくる柴犬だ。
そこが可愛いんだよ。間違いなく可愛いくて、許してしまうものがある。
だけど、だからってこんなの……。
「今は同情でも、俺はそこにつけ入るよ。だってどうしても先輩が欲しいんだもん。ねえ、好きだよ先輩。絆されてよ」
ようやく唇が離れる。うなじに赤い跡を刻まれたのだとわかった。まるで『俺のものだよ』と純平が他に知らしめるかのように。
そして純平は、甘い甘い声で囁く。
「先輩、いつも教えてくれるでしょう? 先輩の大好きな微生物は、手を加えれば変異を起こせるんだって。だから俺、先輩にたくさん好きを注ぐよ。先輩が俺を突き放さない限り、抱きしめるしキスもするし……ショック療法をしてでも、絶対に俺への同情を本気の好きに変異させるから」
「ぅ……」
それしか声が出ない。
純平の愛情は、微生物の変異処理で使う化学薬品よりもUVよりも、イオンビームよりも強力なのかもしれない。
おれの感情はこの三日間が明けたあと、どう変異しているのか……。
頭の中で今と違う自分を薄く浮かべながら、二匹の犬にじゃれつかれ続けるおれなのだった。
───オカン男子、待てがきかないワンコに絆されて完全陥落するまで、あとX日。