「綺麗なマンションだな。純平んちぽい」
純平の家はいかにも富裕層が住んでいそうなマンションだった。外観やエントランスロビーからして豪華に見える。
「ぽい、ってなんですか」
「おれは詳しくないけど、持ち物とか全部ブランドだって生物部のヤツも言ってたから、このマンションが家だって言われて納得してる」
「別に、俺が買った物でもないですし、家はただの箱ですよ。先輩の家はお母さんに妹さん、弟さんたちがワイワイ楽しそうにしてましたね。俺はあんなふうに人の温度が感じられる家がいいいな」
純平が羨ましそうに言う。謙遜している様子じゃなく、本当に羨ましそうに。それも『人の温度』なんて、変わったことを言う。
どうしてだろうと疑問符を頭に浮かべていると、純平はエレベーターのボタンを押しながらつけ加えた。
「うちは家に俺と犬しかいないんですよ」
「どういうことだ?」
「両親がもともと海外出張の多い共働きなんですけど、俺が受験に合格して以降はほぼ不在で」
だからおれが泊まる了承も、挨拶も手土産も不要だと言ったのだと話す。一応メッセージで訊ねたら、予想どおり『問題を起こさなければいい』と返ってきたそうだ。
「じゃあ食事とかどうしてるんだ」
問いかけたタイミングでエレベーターがロビーに降りてきた。乗り込んでから会話を再開する。
「ハウスキーパーさんが三日に一度入ってくれてます。中一の頃は毎日だったけど、ある程度のことはもう自分でできるしね」
「そうなのか……」
相槌を打ちながらも、おれの頭は少し混乱していた。
純平が小説なんかで読む孤独な主人公のような生活をしているとは露ほども思っていなかったからだ。
愛されて、大切に育てられたのだろう甘えんぼの純平で、だけど柴距離マンでおれ以外には懐かなくて……と、この三年間思っていたのに。
だけどそういえば昨日、純平は『世話放棄に慣れてる』と言っていた。
――ああ、そうか。
混線が解けて、一本の線になった。
反対だ。事実は知り得ないけど、多分純平は親御さんに愛情をかけられていないと思っている。
だから受験の日、おれにとってはごく自然な行動でも、純平には特別な情に感じて強く記憶に残ったのかもしれない。
純平じゃなければ、おれはただの「いい人」で終わっただろう。
エレベーターが最上階に到着した。純平に促されて角にある住居の玄関に入る。
広くて綺麗でも、無機質なほど整理されていてしぃんとしていた。
おれの家の玄関には家族の靴が並び、弟が置き忘れた帽子なんかもある。学校から帰れば必ず誰かが玄関まで出迎えにきてくれる。
――この家には本当に人がいないんだ……。
それでも「お邪魔します」と言い、靴を脱ごうとしたその時だった。少し開いたままのリビングルームのドアがゆっくりと開いて、室内から柴犬がやってきた。
そうだった。純平は柴犬を飼っているのだ。
「ただいま、ソラ」
純平が柴犬……ソラの頭を撫でる。ソラは純平の匂いをクンクン嗅ぎ終えると、チラッとおれを見るもノーリアクションでリビングルームへ戻っていってしまった。
「……柴距離……これがホントの柴距離か」
思わず呟くと、純平がハハッと笑う。
「いろんな子がいますけど、ソラは柴距離感が強いかも。ほとんど俺としか暮らしてないせいかな。基本はご飯の時だけ擦り寄ってくる猫だと思ってください」
なるほど。だけど純平が本当の『独りきり』でないことにホッとした。
リビングに入れば、純平はフカフカのマットの上で寝そべっているソラの腹を優しい顔で撫で、ソラは無表情から一点、蕩けた表情で腹を見せて、体をクネクネさせた。
やっぱり純平には懐いているんだな。これは純平も可愛いだろう。
おれもまた、懐いてくれる純平が可愛くて、他の後輩よりは構っている自覚がある。
そして純平の側面を知った今、もっと構ってやりたくなった。
「純平、この三日間、勉強以外でもやりたいことがあったら言えよ。何でも付き合ってやるからさ」
「ホントですか?」
純平は瞳を輝かせると、ソラを撫でる手を止めて抱きついて……いや、抱きしめてきた。
「やったあ。先輩を独り占めできるの、嬉しいな。なら三日間、ずーっと俺から離れないでね!」
「なんだよそれ。トイレとか風呂とかまでくっついてくんなよな」
やっぱり中身は前の純平のままだな。可愛いやつ。
喜んでくれるのが嬉しくて、ツッコミを入れつつもおれは、純平から離れていくまで抱きしめられてやっていた。
難しいと言っていた割に、純平はそう教えるところもなく課題を進めていく。
「なあ、おれ、必要なくない?」
「そんなことないよ。先輩が隣にいてくれるだけでやる気が出て解けちゃうんだ。一人だとすぐにスマホを触って脱線しちゃう。きてくれてありがとね、先輩。……大好き」
「そ、そうか? ならいいけど」
しまった。『そうか』がちょっと裏返った。
センターテーブルに対面ではなく、角を挟んだ隣同士で座っているので、純平の視線も声も近い。大人びた純平に低い声で囁くように言われる『大好き』は、やっぱり今までと違う響きを持っている気がした。具体的にどう違うのかはいまだにわからないのだけど。
「あ、正午過ぎてますね。昼飯、オムライスでいいですか?」
ポモロードテクニックで勉強をして、タイマーを四度繰り返した時、現時刻を確認した純平に訊ねられた。
「あ、うん。レンジでチンのやつ? ハウスキーパーさんが作ったやつ? 温めるの、やるよ」
立ち上がった純平におれも続いて、純平の部屋からキッチンへ向かう。
「ううん。俺が作ります」
「えっ! できんの?」
両親の不在が多いため、ある程度のことは自分でやると言っていた純平だけど、料理をするイメージがない。
「留学先の二番目のホストさんに教えて貰ったんです。好きな相手に料理で感謝を伝えられるようになりなって言われて。だから帰国したら先輩に作りたいなって思ってました」
「へ、へー」
また声が上ずってしまった。好きな相手に感謝、ね。アレだろうな。忠犬純平だから、恩返しってところだろうな。
「じゃあ一緒にやるよ。おれ、炒めるの自信あるし」
手振りでフライパンを返す仕草をすると、首を振る。
「この三日間は俺が先輩のことを全部したいの。だから隣で見てて。俺のこと、目を逸らさないで見てて」
だから言い方……だけど目をじっと見てお願いされると今でも目を逸らせなくて、おれは純平に視線を置いたまま「わかった」と答えた。
腕が長く逞しくなったからか、純平の調理手技はなかなかのものだ。ツヤツヤのチキンライスに綺麗なプリーツのある卵を焼いて、『ドレス・ド・オムライス』というものを出してくれた。
さらに外国のハーブティーもつけてくれる。ミントとレモンの香りがなかなかいいな、と思った。おしゃれなもの知ってるな、純平は。
「はい、あーん」
俺がお茶に口をつけると、純平が自分のオムライスを一口分スプーンにのせて、俺に向けてくる。
「するか、純平が食べろ」
そこまで世話されたくないよ、と言いながらそのスプーンを一緒に持って純平の口に突っ込んでやった。
クスクス笑っちゃってさ。だけど楽しそうで何より。せっかく帰国した家で、ひとりのご飯って寂しいと思うから。
もちろんおれも楽しくて、今やおれの方が純平よりも小さいのに、純平よりも多く盛られたオムライスとハーブティーを残さずに平らげた。
――暑っ。
額や首に汗が滲んでいるのを感じ、不快感に眉が歪んだ。それでおれは目を閉じているんだと気づき、瞼を開く。
いつの間にかメガネも外していたようで、目を眇めて眼前を見た。
どこだっけここ。ああ、純平の家の純平の部屋か。昼ご飯のあと、リビングから戻ったから。
部屋の照明はついておらず、自然光だけの明るさだったのでそう眩しくはない。
うたた寝をしていたようだけどすぐに明るさに慣れ、メガネがないのでぼやけて見えはするものの、自分がどこにいるのかもすぐにわかった。
──だけど。
なんか、いる。おれの後ろに、なんかいる。
「……っ純平?」
自分の置かれた状況を把握したおれは、ぎょっとして立ち上がろうとした。
だけど純平はおれを抱きすくめてそれを阻む。
純平はベットの上で半座になり、おれを脚の間に挟んでバックハグをしていた。それも、おれの肩に顔を埋めるかのようにして。
それもおれの首に……これって、ソラの首輪だよな? それをつけ、接続した皮のリードをベットの脚に繋げて!
「純平、これ、何やってっ」
「先輩、よく眠ってたね。もう三時前だよ」
純平は片腕を伸ばしておれのメガネを取り、装着してくる。それから笑顔を向けてきた。
ニコッ、じゃない。ニコッじゃ。ていうか、マジでこれ、何やってんだよ!
「ふざけんな、説明しろ。いや、それよりまずはコレを外せ!」
おれが首輪に手をかけて要求するも、純平はスルーして抱き込んでくる。
まずい。よくわからないけど、この状況は絶対にまずい。
「……ひゃっ」
混乱のさなか、変な声が出た。なぜなら純平が、唇を頬に当ててきたうえ、お腹に触れてきたのだ。
「先輩、オムライスをたくさん食べたからお腹がポンポコリンだね。苦しくない?」
「ちょ、純ぺっ」
ポンポコリンなんて子どもみたいな言い方をするけど、純平は手まで成長していた。筋張った大きな手がお腹をくる、くる、と撫でてくる。
「受験の日、こうやって撫でてくれたよね」
おれはぷるぷると頭を振った。
確かに撫でたけど、おれはこんなふうにじっとり這うように撫でたりなんかしていない。
なんていうか、この触り方もおかしいし、頬に当てられた純平の口元から、ちゅ、ちゅ、とキス音みたいな音が聞こえてくるんだけど!
「やめろってば! 何なんだよ純平。こんなことがしたくておれを呼んだわけじゃないだろ。ふざけんな」
おれは純平の腕からなんとか逃れようとするも、逃げようとすればするほど腕と脚に力を込められた。
「ふざけてない。ずっとこうしたかった。先輩を俺だけのものにしたかった」
「――は?」
純平の言葉に耳を疑った。恋愛経験のないおれでもさすがに勘ぐってしまう。そんな言い方、まるでおれを……。
おれは捻れるだけ上半身を捻り、純平の意図を量るために顔を合わせた。
視線と視線が絡む。
ドキリとした。
世の中には「熱視線」という表現があるけど、純平の瞳はまさにそんなふうに濡れて光っている。
目が離せない。熱さに息が詰まって動けなくなる。
「先輩。ひなたせんぱい……」
泣きそうな声で名を呼ばれた。胸を突く切ない響きに、おれの胸は引き攣れる。
「俺、先輩が、好きです」
「じゅ」
純平、と最後まで言い切れなかった。
純平がせっかくつけたおれのメガネをはずし、顔を近づけた。そして、柔らかく温かいものでおれの唇を塞いだのだ。
「んっ、ひゅんぺっ」
最初は何が起こったのかわからなかった。だけど温かく濡れた感触に唇を数度挟まれたことで、純平にキスされているのだとわかった。
「やめ、じゅんぺ、ぁめろっ」
まるで啄まれているようだ。啄みの合間に懸命に息を吸って声を出すものの、純平にがっしりと後頭部を固定され、熱い唾液と吐息を口の中に送られると、頭の中まで熱くなってきて何も考えられなくなる。
前向きで体を捻った状態だから、力を入れて純平の体を押すのも限界がある。
おれは知らず知らずのうちに純平のキスに流されそうになっていた。
だけど次の瞬間。口の中に差し込まれたぬるっとした感触に驚き、おれは反射的に純平の鳩尾に肘鉄を喰らわせた。
「っつ……」
純平がおれから片手を離し、鳩尾を押さえる。反対の腕の力も弱まった。
おれはその隙に純平から離れてベッドから降りるも、首輪とリードのために、ドアの手前までしか逃げられない。
それでも本能のようなものに突き動かされるまま、首輪を外そうと必死に手を動かした。
ここから出ていかないと!
「っ待って、先輩、行かないで」
すぐに呼び止められる。とても苦しげな声だった。
ゴクリと空気を呑み下してから、決意してゆっくりと振り向く。
メガネがないためはっきりとは見えないけど、純平は痛みで苦しいと言うより、叱られた犬のような悲しい表情をしている。
おれは首輪から手を下ろし、リードを床に擦りながら、少しだけベッドに近づいた。
純平は鳩尾をさすりつつ短く息を吐くと、ベッドのへりに座り直して頭を下げてくる。
「こんなことしてごめんなさい」
そのままいつまでも同じ姿勢でいるのは、おれが返事をしないからだろう。
その姿は叱られて「待て」をしている犬にも見えて、逃げようとする気持ちがすうっと引いた。
とはいえ、どうしたらいいのかはわからない。おれは純平に声をかけられないままその場に立ち尽くし、純平もまだ項垂れている。
すると、足元に温かいものが擦り寄ってきた。
「ソラ……」
いつの間にかソラが部屋を訪れていて、「許してやれ」とばかりにおれと純平を交互に見上げてくる。
おれにソラの気持ちがわかるはずもないし、全くの検討違いかもしれない。それでもおれは、純平の心をちゃんと知りたい気持ちが生まれてきて、さらに足を進めて純平の前に立った。
「聞かせろ、こんなことをした理由を」
純平は座っているから、頭がおれの腹の位置にある。
つむじが見えるだけでなんとなく気持ちが落ち着き、おれはそこにそっと手を置いた。途端に純平が腰に手を回して縋りつく。
いったん冷静になってしまえば、意外と肝が据わっているおれはもう驚きはしない。
純平に首輪を外させ、メガネをかけてから、純平の隣に腰掛けた。
***
俺の両親は育児放棄をしたわけじゃない。中学受験に合格するまでは、母親は仕事をセーブして家にいてくれたし、経済的に余裕がある分、充分な生活と多くの金品を与えてくれた。
ソラだってそう。犬が欲しいとねだると、一人っ子だから遊び相手にいいだろうとすぐに飼ってくれた。
ただ祖父母からして「肩書き」に厳しく、両親は俺を有名校に入れて、将来は曽祖父の代から続く会社の後継者に育て上げようと躍起になっていた。
幼い頃は撫でられたり抱き上げられた記憶もある。でも小学校に入れば甘えることは恥、とでもいうように厳しく躾けられ、年々習い事と受験対策の塾にいる時間が多くなったことで、家族で過ごす時間は減っていった。
それでも俺は、いい点を取って親の望みどおりの子になれば微笑んで貰えるのだと、撫でて貰えるのだと、家族で楽しい時間を過ごせるようになるのだと、そう信じて勉強に打ち込んだ。
でも俺は、そこまで優秀じゃなかった。中学受験では親が第一にと望んだ学校に落ちた。第二志望校の今の学校も、特進コースは第一志望校の失敗からプレッシャーがかかり、駄目だった。
そして受験三日目。インターグローバルコースの受験に挑んだものの、十二歳の俺には二度の失敗が大きくのしかかっていた。
父親も母親も口にはしないが俺に失望していたから、ここで受からなければ見捨てられると思っていたのだ。
そして俺は、試験開始前から腹痛を起こした。
もう時間が迫っているのにどうしよう。
陽向先輩に出会ったのは、そんなふうに半べそをかきながらトイレから出た時だった。
陽向先輩は眼差しも声も、腹を撫でてくれる手もすごく温かかった。そしてその温もりは、弱っていた俺の心に深く染みついた。
またあのお兄さんに会いたい。そんなふうに思ってしまうほど。
そうして無事に合格した俺は、祖父母や両親にはそう喜んで貰えなくても、嬉しくて嬉しくて仕方がなかった。
だって、あのお兄さんと毎日会えるようになる。
俺は入学してすぐにお兄さんを探し、挨拶をして「仲のいい後輩」の椅子を手に入れた。
最初は本当に兄のように慕っているだけだった。でもだんだんと、他の生徒が『おかん体質』の先輩から気遣いを受けているのを見かけると嫌な気持ちになって、誰かが先輩に話しかけるだけでも、先輩が俺以外に声をかけるのさえも、嫌だと思うようになってしまった。先輩に関わる生徒、全員が敵に思えるほどに。
陽向先輩、俺だけを見て。俺だけに声をかけて、俺だけに優しくして──
でもそんな気持ちは狂気的だということも、中二が終わる頃には自覚していた。男子校だから女子との関わりがなくて先輩に執着してしまうんだろうか。他の生徒は気づいていないけれど、先輩は髪も肌もツルツルしていて、触れると気持ちいい。とても綺麗な人だと思う。
いや、男の先輩をそんなふうに見ることはおかしい。留学で先輩から離れ、広い世界を見れば気持ちは変わるだろうか。
──逆効果だった。先輩に会えなくなると思うだけで不安になり、俺がいない間に先輩が誰かと付き合ったらどうしようなんて苛ついた。飛行機に乗った瞬間からなんてものじゃない。本当は中三になってからずっと、留学なんてしたくないと思っていた。
それでも飛び立ったオークランドで、二番目のホストファミリーに出会えたことに感謝することになる。
ホストファミリーはゲイの夫夫だった。
知ったクラスメイトは苦笑いを向けてきたけれど、俺は少しの抵抗もなく、仲睦まじい二人と二人の養子に囲まれて、自分のセクシュアリティを自覚した。
そして、俺が陽向先輩に求めているのはこの夫夫の愛の形なのだと気づかせて貰った。
先輩、俺、帰国したら先輩と恋人になりたい。
好きだと言って、好きになって貰って、先輩とずっと一緒にいる約束が欲しい。
先輩と、一生一緒にいたい。
先輩、好きだよ、大好き。日向先輩、俺のものになって……!
それからの俺は、少しでも先輩に好いて貰えるようにと留学中の勉強を頑張ったし、身なりや体作りにも励んだ。
そして……帰国したら先輩に思いを伝えると決意した。
***
「そう、か」
純平の話を聞き終えたおれは、それしか言えなかった。
純平の生い立ちから葛藤、おれへの思いに決意まで。情報量が多すぎて何から答えていいのかわからないのと、やっぱり『愛の形』なんて言われたら心臓がバクバクして破裂しそうで。
相手が男とか女とか関係ない。生まれて初めて強い恋愛感情をぶつけられたのだ。それもちょっと拗らせてるし。
……いいや、純平はちょっとどころかかなり拗らせている。
「あのな、純平。気持ちはわかった。だけど行き過ぎているのはわかるな?」
おれはなるべく冷静に言った。純平は眉尻を情けなく下げて頷く。
「だって、どうしても先輩を独り占めしたくて。それでダメもとで安眠のハーブティーを入れてみたら、先輩が寝ちゃうもんだから」
「はぁ? アレ、そうなのかよ! 純平、そんなことまで……!」
「ごめんなさい! でも本当にダメ元で。現に俺も飲んだけど、全然効いてないし」
そういう問題じゃない! と思うけどここで怒ると話が中断するので、怒りを抑えて続きの釈明を聞くことにする。
「で、用意してたソラのスペアの首輪をつけました。今まで優しくして貰った分、この三日間、俺の部屋で俺が先輩を大切にお世話したかったんです」
用意してたんじゃないか! ダメ元じゃないだろそれ。それで拘束してお世話って……めまいがしそうだ。
「これは犯罪一歩手前だぞ。あと変態」
ぎろりと睨みつけると、純平は顔の前で両手を合わせて謝ってきた。
「ごめんなさい。本当にごめんなさい。もうしません」
大きい手だ。あの手でさっきお腹を撫でられて……頬を包まれて、それからキスされて……うっ、思い出したら駄目だ!
ボッと顔が熱くなるのを感じ、居た堪れなくなる。おれはお尻の位置をずらして、純平との距離を少し空けた。
すると、毛皮のある温かい体がすぐ隣にあった。
「ソラ……いたのか」
純平の話に聞き入っていたせいか、ベッド上で鎮座しているソラに気づいていなかった。
ソラは折っていた四肢をまっすぐに伸ばして立つと、おれの腕にタシッと片方の前足を置いた。
「なんだ? 柴距離解除か?」
首を傾げて顎の下を撫でると、背後で純平が吹き出す。
「これ、俺を頼むって言ってるんじゃないかな。仲良くしてやるから純平と仲良くしろって。ソラは俺の味方だから」
「はあ? まさかそんなわけ」
バカみたいなことを言う純平を見てソラをもう一度見ると、ソラは犬なのに達観した顔をしている。
……そんな、まさか、な……。
「ひなたせんぱい」
「ひぁっ」
ビクッと肩を揺らしてしまったのは、純平が鼻にかけるような甘えた声を出して、懲りずにバックハグをしてきたからだ。
「っだから近いって。今、もうしませんって言った口はどこへ言った。勝手に触るな。あっ」
腕が腰にギュッと巻きついてくる。うなじに唇を当てられた。
抵抗したいけど、ソラが後ろ足を踏ん張り、おれの胸に前足二本を当ててくる。
これ、雁字搦めと言うのでは。いや、わんこ搦めか? どういう拘束だよ!
「だって、ソラが応援してくれてるし、先輩のうなじがきれいなのが悪い」
おれが慌てふためいていると、萎れて反省していた純平はどこへ消えたのか、うなじを舌で舐め上げてくる。
ゾクゾクとしたものが背中を這い上がり、腹が緊張で張った。
なんだ、この感覚、おかしい。
「それに……先輩、怒ったけど、気持ち悪いとは思ってないよね?」
純平は話しながらうなじを吸ってくる。おれの体はだんだんと熱くなり、体の力が抜けてくる。
おかしい、おかしい。
「……な、なに言って……」
だけどそのとおりだ。言われるまで気づかなかったけど、純平にこうされても気持ちが悪いとか、本気で嫌だとは思っていない。
「なんで……」
自分のことなのにわからない。おれはどうしてこんなことをされても純平を突き放せないんだ。
「だって先輩、俺のこと可愛いでしょ?」
純平がそう言いながらきつくうなじを吸った。同時に、ソラが俺の鼻の頭をペロペロと舐めてくる。
――ああ、わかった気がする。
こいつら、柴犬だから。おれにだけ柴距離を解いて、じゃれついてくる柴犬だ。
そこが可愛いんだよ。間違いなく可愛いくて、許してしまうものがある。
だけど、だからってこんなの……。
「今は同情でも、俺はそこにつけ入るよ。だってどうしても先輩が欲しいんだもん。ねえ、好きだよ先輩。絆されてよ」
ようやく唇が離れる。うなじに赤い跡を刻まれたのだとわかった。まるで『俺のものだよ』と純平が他に知らしめるかのように。
そして純平は、甘い甘い声で囁く。
「先輩、いつも教えてくれるでしょう? 先輩の大好きな微生物は、手を加えれば変異を起こせるんだって。だから俺、先輩にたくさん好きを注ぐよ。先輩が俺を突き放さない限り、抱きしめるしキスもするし……ショック療法をしてでも、絶対に俺への同情を本気の好きに変異させるから」
「ぅ……」
それしか声が出ない。
純平の愛情は、微生物の変異処理で使う化学薬品よりもUVよりも、イオンビームよりも強力なのかもしれない。
おれの感情はこの三日間が明けたあと、どう変異しているのか……。
頭の中で今と違う自分を薄く浮かべながら、二匹の犬にじゃれつかれ続けるおれなのだった。
───オカン男子、待てがきかないワンコに絆されて完全陥落するまで、あとX日。