春休みまで四日となった朝のことだった。
おれはいつものように家事を手伝いながら、一学年下の後輩、山下純平からスマートフォンメッセージが届くのを待っていた。
「お兄ちゃん、私のハンカチ知らない?」
「兄ちゃん、ご飯おかわり!」
「陽向にぃに、水筒からお茶がこぼれたぁ」
「ヒナ、あのね、また脱水が回らないのよ。洗濯機見てくれない?」
調理器具を洗う後ろで、妹に上の弟、下の弟と母がいっせいに声をかけてくる。
我が家の専業主婦の母はちょっと抜けたところがある。また、長男のおれは次で高ニになるけど弟妹はまだ幼く、次で小六・小四・小一だ。
だから我が吉岡家の朝はいつもてんてこまい。父親も健在だけど早くに仕事に出るので、俺が大黒柱の役割をしている。……学校では不本意にも『おかん』と呼ばれているおれだけど。
「ハンカチは昨日、そこの棚に置いただろ。お母さん、いつも言うけど洗濯物をほぐしてみて。ほら水筒、拭くから貸して」
弟の米飯のおかわりを出しながら、他の三人に声をかけていく。その時だった。
ピコンピコンピコンピコンと連続で、スマホメッセージの着信音が鳴った。
おれは丸メガネの位置を正し、急いでポケットからスマホを取り出した。
『先輩おはよ!』
『いよいよ来週帰国! 空港到着は予定どおり夕方五時です』
『空港まで迎えにきてとは言わないけど、その日に会いたいよー』
メッセージアプリを開けば、挨拶からおねだりへと続くメッセージが三件に、柴犬がhshsしているスタンプが続いている。
意図せず口元が緩んだ。
いよいよ純平がオークランドから帰国する。
おれと純平が通う中高一貫校は三つのコースで編成されており、純平が在籍しているインターグローバルコースは中学三年生の一年間、海外留学があるのが特徴だ。
ちなみにおれが在籍している特進コースは、名称そのままに国公立大学進学を目指して学業に励むコースだ。ミクロな生き物に可愛さと可能性を感じているおれは、微生物化学の学びを深められる大学への進学を希望している。
おれは擬人化の可愛いミジンコが『おはよう』と言っているスタンプを選んで送信しようとした。そこを下の弟がシャツの袖を引っ張ってくる。
「陽向にぃに、水筒」
「あっ、はいはい」
いったんスマホをポケットにつっこんだ。再び着信音がピコンピコンピコンと鳴っている。
純平の返事の催促だろう。心の中で『ちょっとだけ待ってくれ』と詫びながら零れたお茶を拭き取り、妹にハンカチも渡してから、母に断って自分の部屋に戻った。
途端に騒がしい声が遠くなり、ホッとひと息ついて再度スマホメッセージを見る。
『既読スルーしないでくださいよ』
『週に一度のこの時間しか連絡取れないんだから、すぐに返事くださいよ〜』
思ったとおりだ。泣きそうな柴犬のスタンプもくっついていた。
純平はおれにとても懐いている。
純平がメッセージに使うスタンプに犬を使っているのは、あいつが柴犬を飼っているのが理由だけど、純平自身が柴犬のように、おれに尻尾を振って追いかけてくっついてくる。
おれはよく知らないけど、柴犬というのは誰にでも人懐っこいわけではなく、認めた相手以外にはツン属性の「柴距離」を持つ犬種だそうだ。
純平がまさにそれで、純平があいつの同級生の数人とおれ以外に表情豊かに話す姿をほぼ見たことがない。ひどい時なんて、おれたち二人の会話に参入してくる生徒がいると、生徒から目を逸らして俺の制服の袖を握ってくることもあるほどだ。
そんな柴距離マンで、学年もコースも違う純平がなぜおれに懐いているのかと問われれば──
あれは純平の中学受験の日。
試験十分前に涙目でトイレから出てきた純平を、案内係のおれが見かけて声をかけたのがきっかけだ。本人もそう証言している。
「あの時、緊張しすぎてお腹にきてたのを陽向先輩が気づいて、優しく撫でてくれたよね。それでハンカチで涙を拭いてくれたでしょ。あれで俺、緊張がほぐれて頑張れたんだよ」と。
弟妹がいるおれにとってはごく自然な行為でも、人生初とも言える大勝負の日に情けを受けたらそのように感じるのは頷ける。
そして見事合格を勝ち得た純平は、入学早々おれを探して教室までやってきて、改めてお礼を伝えてくると共に「先輩と仲良くなりたいです!」と言ってきた。
うわ、めちゃくちゃ可愛い! と思った。
ダボダボの制服を着せられたチビちゃんが、長い睫毛で囲まれた目をキラキラさせているんだから。
そして「いいよ」とつむじの見える頭を撫でてやったおれは、その日から純平が唯一懐く人間となったのだった。
おれはいつものように家事を手伝いながら、一学年下の後輩、山下純平からスマートフォンメッセージが届くのを待っていた。
「お兄ちゃん、私のハンカチ知らない?」
「兄ちゃん、ご飯おかわり!」
「陽向にぃに、水筒からお茶がこぼれたぁ」
「ヒナ、あのね、また脱水が回らないのよ。洗濯機見てくれない?」
調理器具を洗う後ろで、妹に上の弟、下の弟と母がいっせいに声をかけてくる。
我が家の専業主婦の母はちょっと抜けたところがある。また、長男のおれは次で高ニになるけど弟妹はまだ幼く、次で小六・小四・小一だ。
だから我が吉岡家の朝はいつもてんてこまい。父親も健在だけど早くに仕事に出るので、俺が大黒柱の役割をしている。……学校では不本意にも『おかん』と呼ばれているおれだけど。
「ハンカチは昨日、そこの棚に置いただろ。お母さん、いつも言うけど洗濯物をほぐしてみて。ほら水筒、拭くから貸して」
弟の米飯のおかわりを出しながら、他の三人に声をかけていく。その時だった。
ピコンピコンピコンピコンと連続で、スマホメッセージの着信音が鳴った。
おれは丸メガネの位置を正し、急いでポケットからスマホを取り出した。
『先輩おはよ!』
『いよいよ来週帰国! 空港到着は予定どおり夕方五時です』
『空港まで迎えにきてとは言わないけど、その日に会いたいよー』
メッセージアプリを開けば、挨拶からおねだりへと続くメッセージが三件に、柴犬がhshsしているスタンプが続いている。
意図せず口元が緩んだ。
いよいよ純平がオークランドから帰国する。
おれと純平が通う中高一貫校は三つのコースで編成されており、純平が在籍しているインターグローバルコースは中学三年生の一年間、海外留学があるのが特徴だ。
ちなみにおれが在籍している特進コースは、名称そのままに国公立大学進学を目指して学業に励むコースだ。ミクロな生き物に可愛さと可能性を感じているおれは、微生物化学の学びを深められる大学への進学を希望している。
おれは擬人化の可愛いミジンコが『おはよう』と言っているスタンプを選んで送信しようとした。そこを下の弟がシャツの袖を引っ張ってくる。
「陽向にぃに、水筒」
「あっ、はいはい」
いったんスマホをポケットにつっこんだ。再び着信音がピコンピコンピコンと鳴っている。
純平の返事の催促だろう。心の中で『ちょっとだけ待ってくれ』と詫びながら零れたお茶を拭き取り、妹にハンカチも渡してから、母に断って自分の部屋に戻った。
途端に騒がしい声が遠くなり、ホッとひと息ついて再度スマホメッセージを見る。
『既読スルーしないでくださいよ』
『週に一度のこの時間しか連絡取れないんだから、すぐに返事くださいよ〜』
思ったとおりだ。泣きそうな柴犬のスタンプもくっついていた。
純平はおれにとても懐いている。
純平がメッセージに使うスタンプに犬を使っているのは、あいつが柴犬を飼っているのが理由だけど、純平自身が柴犬のように、おれに尻尾を振って追いかけてくっついてくる。
おれはよく知らないけど、柴犬というのは誰にでも人懐っこいわけではなく、認めた相手以外にはツン属性の「柴距離」を持つ犬種だそうだ。
純平がまさにそれで、純平があいつの同級生の数人とおれ以外に表情豊かに話す姿をほぼ見たことがない。ひどい時なんて、おれたち二人の会話に参入してくる生徒がいると、生徒から目を逸らして俺の制服の袖を握ってくることもあるほどだ。
そんな柴距離マンで、学年もコースも違う純平がなぜおれに懐いているのかと問われれば──
あれは純平の中学受験の日。
試験十分前に涙目でトイレから出てきた純平を、案内係のおれが見かけて声をかけたのがきっかけだ。本人もそう証言している。
「あの時、緊張しすぎてお腹にきてたのを陽向先輩が気づいて、優しく撫でてくれたよね。それでハンカチで涙を拭いてくれたでしょ。あれで俺、緊張がほぐれて頑張れたんだよ」と。
弟妹がいるおれにとってはごく自然な行為でも、人生初とも言える大勝負の日に情けを受けたらそのように感じるのは頷ける。
そして見事合格を勝ち得た純平は、入学早々おれを探して教室までやってきて、改めてお礼を伝えてくると共に「先輩と仲良くなりたいです!」と言ってきた。
うわ、めちゃくちゃ可愛い! と思った。
ダボダボの制服を着せられたチビちゃんが、長い睫毛で囲まれた目をキラキラさせているんだから。
そして「いいよ」とつむじの見える頭を撫でてやったおれは、その日から純平が唯一懐く人間となったのだった。