丘陵地帯の廃墟が目の前に広がっている。
都心から十五キロの距離ではあるが、あたりに人家はない。
かつて郊外のオアシスとして人が集まり、交通の便の悪さが逆に、政治家やセレブの御忍びの場所として人気を博し、それが集客に寄与した(人に知られては御忍びもへったくれもないはずだが)時期もあった。
アーティストが野外ステージで唄い、踊り、ファンが黄色い歓声をあげていた。
ファミリー客の幸せそうな笑顔がそこかしこに溢れていた。
だが、今は鬱蒼と茂った竹林が廃墟と化したそれを包み込んでいる。
繁殖力の強い竹が手入れをされないまま放置された竹林は周囲の広葉樹を浸食し、林ではなく竹藪と化している。ブナや、ナラなどの広葉樹が枯れ、山が保水力を失いつつある。土砂崩れが何度か起きているのだろう。鉄筋コンクリートでできた建物が何区画にもわたって崩落している。
割れたガラスが周囲に散乱し、床や壁に嵌め込まれた化粧レンガが無秩序に散乱していた。
「こんなところで……」
同行した北川茂が呟いた。
「入ろうか」
倒れた鉄柵を乗り越えて、静寂に支配された敷地内に足を踏み入れる。北川が恐る恐るついてくる。
垂直に伸びた竹が日差しを遮り、昼だというのにあたりは薄暗い。
廃業したスーパーの看板が煤まみれになっている。書かれていた店名を読み取ることは難しい。ただ、独特なデザインがそれとわかる手がかりとなった。
廃墟の内部はさらに暗かった。
用意したマグライトを出そうとしたら背後の北川が悲鳴を上げた。
「ひっ!」
「どうした!」
北川の悲鳴の高さにあわせて私の声も甲高くなった。
「人の姿が!」
怯えた叫びが無人のはずの館内に響き渡る。
指さされた先に二つの人影が見えた。
腰が引けたが、手にしたマグライトを人影に向けて照射した。
強烈な光が暗闇を走り、そして反射された。
「ガラスだよ」
ガラスが鏡の役割をはたして私と北川の姿を写しだしたのだ。
「茂、ここはまだとば口だぜ。お目当ての場所は、この先だ」
企画を持ち込んできた本人がすでにびびりまくっている。これまで何度もいわくつきの心霊スポットに行っているが、これほど怖がる北川は見たことがなかった。
「カワさん、ここ、かなりヤバイよ」
オカルト・怪異を扱うフリーライターである、私、河村茂樹に、ある事件のルポ作成を持ちかけてきたのが、オカルト雑誌の担当編集者、北川だった。過去に何度もコンビを組んで記事を雑誌に掲載している。私と北川の上梓した心霊本はそこそこ売れていた。
本人に『見える』力があるせいか、北川には本当にヤバイ場所を探知する能力がある。
「それでも前に行くのが、俺たちだろ」
自らを鼓舞するために、北川の背を叩いた。
マグライトの強力な明かりだけが、頼りだ。
やがて、目的地である廃墟の深奥部にたどり着いた。
「ここで?」
「ああ、ここで六人がキャンプをしたんだ」
そして、彼らは帰ってこなかった。
私はスマホのカメラで周囲を撮った。北川の出版社は零細プロダクションなのでカメラマンをつけてくれないのだ。最近のスマホカメラは優秀だから雑誌に掲載する写真ぐらいはそれで充分にまかなえた。
「カワさん、何か映ってる?」
画像を確認するが気になるものは何も映っていない。だが、私はこの廃墟を包んでいる何かの気配に気がついており、そのために怖気づいていた。
「いや、茂は何か見えないのか」
北川の霊視能力に期待を寄せる。
「いや、今のところ何も。ただ、絶対ここはヤバイって」
「何が?」
「ここは死んではいるけど、生きてもいる。なぜかそういう気がするんだ。霊とか、そういうものではない何かが」
北川の感覚は私のそれと一致していた。
何かが棲んでいる。
私の第六感がそう囁いていた。
「夜明かしはせずに、陽があるうちにここを出ようか」
事件のあった夜を再現するために二人で夜をすごすためのキャンプ準備もしてきたが、私は計画を変える提案をした。
私の言葉に一も二もなく北川は激しく頷いた。
突然、突風が上空に吹きわたり、竹藪がざわざわと生き物のようにざわめいた。
《ザーッ》
海鳴りのような葉擦れの音がする。
まるで何か警告を発しているかのように、あるいは何かの意思を伝えるかのように風が強まった。
《カツン! カツン! カツン!》
海鳴りの音のほかに乾いた音も降ってくる。風にあおられた竹同士が上空でぶつかりう音だ。
「カワさん、早くここを離れたほうがいいよ」
北川が私の手をつかんでやってきた方角に向かおうとした。
「あれ?」
私たちが入って来た廃墟の中の通り道が竹藪によって塞がれている。
茶色い皮を被った筍が地中から飛び出していた。
「さっきまで、あんなの生えていたっけか」
私の呟きに呼応するように茶色い筍が次々と現れる。
みるみるうちにそれが成長していく
目の前の一本の幹が赤黒く輝きだした。
「カワさん! これはヤバイって!」
北川の悲鳴が竹藪の中に響き渡った。
「走れ!」
私は自分たちがやってきたと思われる方角に突進した。
その複合商業施設は昭和の高度経済成長時代、一九六九年に建設された。
建設用地は鬼哭境と呼ばれる丘陵地帯で、それまでは人煙も稀な竹林の里として知られていた。
当時、鬼哭境へ通じる交通手段はなかった。
丘陵の南、五キロの地点に終着駅がある北天鉄道を延伸させたのは、佐々木リゾート開発の総帥、オーナー社長である佐々木良治だった。
「この里に人を集めて、グループの顔にしてみせる」
周囲の反対を押し切って佐々木は会社の総力をあげて鬼哭狭開発に着手した。
時あたかも五年前の東京オリンピックの開催や、経済成長に伴う宴会やコンベンションの需要増をうけ、都心のホテルを買収して傘下に収めていたグループの収益は増大の一途をたどっていた。
地下一階、地上十五階建て、延べ床面積は九万平方メートルを誇るその施設は佐々木の発案により「鬼哭狭マカブラ」と命名された。
マカブラとはフランス語で《macabre》と表記する。
『不気味な』とか『死を想起させる』言葉だったので、周囲は皆、反対したが佐々木は自らの意思を貫いた。
地階から六階までは菱形をした三つの区画が中央で合わさるように設計され、各区画の辺縁部は広いバルコニーになっていて、上にいくほど蓮の花のように外に向かってそっくりかえって見える。三つの菱が合わさる中央部に十五階建ての方形のタワーが聳えており、七階から十五階までがホテルになっていた。
建設当時、周辺に人工の造作物は存在せず、郊外の丘陵上に聳える建物は「マカブラタワー」と呼ばれた。
六階以下には映画館やプール、ボーリング場、アーケードゲーム施設、野外ステージが併設され、約百店舗の飲食、衣料品、雑貨、スーパーなどがテナントとして入居した。さらに後背地に佐々木の趣味でもあるオカルト的なアトラクション施設も設けられ、「マカブラ」という名称と相まって施設への集客を伸ばす一因ともなった。このアトラクション施設は「マカブラゾーン」と呼ばれた。当初は建設計画になかった区画だが、竹林を伐採しているうちに佐々木がある着想を得て追加工事となった。
「マカブラゾーン」の建設中に何度か事故があり、作業員が数名亡くなった事実も話題性を提供した。
ゾーンへの入場に人数制限と時間制限を設け、一日十組以下の招待制とし、場内での体験は口外しないことという制約も希少性を高め、人気を博した。もちろん人の口に戸は立てられないから、施設内に何があるのかという憶測は幾つもあったが、施設側がそれを認めることはなかった。
佐々木が「マカブラゾーン」だけは収益性を度外視していることに、関係者は皆、首をひねった。
佐々木は徹底した利益優先主義者だったからだ。
人件費を限りなく切り詰め、数少ない社員には重労働を強いた。
ワンマン体制の社内では佐々木の取り巻きは皆、太鼓持ちだったため、現場における社員からの苦情や現状の改善案は彼らに握りつぶされ、佐々木のもとに届くことはなかった。たとえ届いていたとしても佐々木がそれを取り上げることはなかっただろうが。
社員のモラルは極めて低かった。
また、設備投資を徹底的に節約したため、安全面への配慮が著しく欠けた施設になってもいた。
だが、当時の建築基準法、消防法では「マカブラ」は適格との判定を受けている。
後に多くの死者を出すことになった百貨店火災、ホテル火災をうけてスプリンクラーや防火扉などの設置義務、不燃材による内装施工などが義務付けられたが、佐々木は消防署からの再三の改善要求を無視し続けることになる。
手抜き工事で完成した「マカブラ」だったが、佐々木はオカルト趣味のほかに美術品とビンテージワインの収集家としても知られており、「マカブラ」の一画に作られた美術館とワインカーブには惜しみなく金を使ったと言われている。ただし、佐々木の眼がねにかなった美術品は美術愛好家たちからはまったく評価されることのない、独特の色彩に彩られた抽象画ばかりだった。それらはどちらかといえば禍々しい印象を見る人に与えた。
「マカブラ」の完成記念セレモニーでテープカットをした佐々木は「これで山野辺の牙城を揺るがすことができる」と周囲に漏らしていたという。
佐々木のライバルは、鬼哭境の西方、九キロに広がる高級住宅地、住井田を開発した山野辺晃率いる山野辺グループだった。
山野辺は当時、都心の外縁にある山系の入口、鄙でしかなかった住井田と都心を結ぶ自動車専用道を財を投じて作り上げた。もちろん、そのためには中央政界や当時の運輸省、建設省に通じる太いパイプを最大限、利用したことは間違いない。
人はこの新道を「山野辺の道」と呼んだ。
これにより住井田は高級住宅地として発展する
東の佐々木、西の山野辺の開発競争は当時の人々の耳目を集めた。
山野辺グループは、二〇二五年現在、日本全国に三十の高級リゾートホテルを建設し、十五のレジャー施設、百以上の温泉旅館を運営している。
施設はそれぞれ個性的かつ高級感あふれるラグジュアリーなイメージが定着し、いっとき、世界的感染症の影響により収益が落ち込みはしたが、現在ではインバウンドの復活もあって、感染症流行以前の隆盛を取り戻している。
一方の佐々木リゾート開発は現在していない。
二〇〇〇年に廃業したのだ。
一九九〇年十二月二十四日に発生した「鬼哭狭マカブラホテル」の火災が原因だった。
防火設備が貧弱で従業員への教育も不徹底だったため、発災時の対応が不十分で、宿泊客のタバコの火の不始末から発生したと言われる火災は、スプリンクラーの未設置もあり、初期消火に失敗し、またたくまにホテル全体に広がり、次いで隣接する商業施設へも延焼した。
出火時間は十二月二十四日午前二時十三分とされている(当時の裁判記録)。
火災発生時、偶然、「マカブラ」に滞在していた佐々木は消防への通報や消化活動よりも、美術品やビンテージワンインの搬出を優先するよう従業員に命じていたと言われている。これにより、初動の対応が遅れ、かつ館内放送機器の故障により宿泊客への通知が徹底できず、被害を広げることになったとはマスコミの報道だ。
火は瞬く間に「マカブラ」全館を呑み込み、猛火と有害な黒煙が鬼哭狭の夜を不気味に彩った。
火災による死亡者は百三十二人、負傷者は九十三人にのぼり、一九七二年五月十三日の大阪、千日デパート火災による死者百十八人、負傷者八十一人を大きく超え、戦後のビル火災としては最大の惨事となった。遺体の一部が単なる焼死体とは思えない損壊状況だったが、今にいたるも原因は究明されていない。
火災後、佐々木は業務上過失致死傷罪で実刑判決をうけ、五年間刑務所に服役した。遺族への損害賠償や、脱税の事実などが露見し、資産のすべてを失った彼のその後の消息は不明である。
佐々木リゾート開発のメインバンクは貸付金回収のため跡地を競売にかけたが、買い手はつかず、メインバンクが出資する関連不動産が落札して保有することになった。しかし、二〇二五年現在も跡地は廃墟のまま放置されている。
「鬼哭狭マカブラ火災」は時とともに人々の記憶から薄れ、忘れ去られていった。
廃墟は手つかずのまま放置され、北天鉄道も「鬼哭狭駅」を廃止し、営業路線を「マカブラ」建設以前の終着駅までの状態に戻していた。
だが、二〇二〇年になって、再び「マカブラ」の名が人口に膾炙するようになる。
K大学、廃墟巡りサークルのメンバー六人が鬼哭狭内で行方不明となり、山中で六人全員の遺体が発見されるという事件が発端だった。
K大学は神道の学科を持つ特殊な大学だった。
神職課程を修了し、神社本庁の定める資格を取得して神職となる学生も多かった。
廃墟巡りサークルのリーダー、寺田康之もその一人だった。
神職を目指していたが、実家が神社というわけではなく、指導教授の勧めにしたがって進路を決めたと周囲に語っていたという。
廃墟巡りサークルに参加したのも指導教授の勧めということだったが、神社に勤めることになれば、当直で深夜に境内の見回りをしなければならない。怯える気持ちが芽生えるかもしれないから廃墟巡りで心胆を鍛えておくというのが、もうひとつの動機だったという。
二〇二〇年九月十九日土曜日に、寺田以下、久間田進、高橋洋一、田中豊、吉川陽愛、江口瞳の、男子四名、女子二名のパーティーが鬼哭狭に入山した。
十九日の土曜日を含めれば、四連休となるのを利用したのだろう。
二十一日には帰宅する計画だったが、何の連絡もない娘のことを心配した江口瞳の親から警察に連絡が入り、二十二日の連休最終日になっても全員が帰宅してこなかったことから、翌二十三日から本格的な捜索が開始された。
探検先が鬼哭狭だということはメンバーの数人が親に伝えていたことから、「マカブラ遺跡」――当時そのように呼ばれていた――に向かったであろうことは容易に推察された。
捜索隊は「マカブラゾーン」跡地で三つのテントを発見し、テント内と周囲に六名の遺体を発見することになる。
遺体はかなり損傷していて、捜索隊の中には嘔吐をする者もあったという。
廃墟巡りサークルの遭難した六人、寺田康之、久間田進、高橋洋一、田中豊、吉川陽愛、江口瞳の死体の損壊具合は目もあてられないほどだったという。手足がもぎ取られていたり、目玉がなくなっていたり、はらわたが裂けていたり、ひとつとしてまともな状態の遺体はなかったと当時のマスコミは伝えている。
不思議なことに、欠落した遺体の一部は現場のどこにも見当たらなかった。
野生動物に食われたのではないかという憶測が飛んだが、鬼哭狭には猿や猪以上に大きな野生動物はいない。猿や猪に襲われたにしては遺体の損壊が大きすぎると法医学者は指摘している。
警察犬を動員して臭跡を追わせようとした警察の試みは犬たちが異様に怯えて現場に近づこうとせず、逆にその場から逃げ出したがったために奏功しなかった。
この事件のルポ作成を持ちかけてきたのが、オカルト雑誌の編集者北川茂だ。
依頼を受けることにした私、河村茂樹は基礎的な調査を開始し、記述のとおり「鬼哭狭マカブラ遺跡」における開業から廃業までの推移とK大学廃墟巡りメンバー遭難事件のあらましを整理した。
「カワさん、何から手をつける?」
打ち合わせのカフェで北川が取材方針を確認してきた。
「サークルには他にメンバーがいたのかな」
「えーと」
北川が取材用のノートをめくる。
「メンバーは死んだ六人だけだね。あとはサークルの顧問だけ」
K大学廃墟巡りサークルの顧問は、K大学教授「釋那木燦」だった。サークルリーダーの寺田を大学やサークルに誘ったのが釋那木だった。
彼は神道文化学部の教授ではなかった。専攻は古代史・考古学である。
「教授に話を聞いてみようか」
「その前に事件現場の取材が先だろう」
「そうだね」
そして我々は、「マカブラ遺跡」の現地取材に赴くことになったのだ。
遺跡に行く前、北川に私は、「マカブラ遺跡」について、もう少し深く掘ってみないかと言った。
二人して、八方手を尽くした結果、当時「マカブラ」の建設に携わった作業員の所在をつきとめ、取材の依頼をし、応諾をうけて話を聞くことになった。
以下はその男、杉田一彦からの聞き取りメモである。
「佐々木社長はとにかくワンマンでした。おまけにことあるごとに現場に口出しするんですよ。やりにくいったらありゃしなかったです」
「『マカブラ』は突貫工事だったそうですね」
「嫌な名前でした。誰も気にいっちゃいませんでしたよ。社長だけが『マカブラ』、『マカブラ』と口を開けばあの不気味な名を繰り返していましたね。嬉しそうにね。『俺が考えたんだ。どうだ。いい名前だろう』って。誰もそんなこと思っちゃあいませんでしたが、愛想笑いを浮かべながら『すばらしい名前です』なんてご追従してました。あんなことになったのも名前のせいだって、あとで皆が言ってました。ええ、とにかく作業工程は徹底的に切り詰められていましたし、徹夜の突貫作業なんてめずらしくもありませんでした」
「作業中に事故があったとお聞きしましたが」
「どこからそんな話を聞きました? おかしいな。そんなことは……ええ、ええ、そうですね。もう時効ってやつですかね。しょうがねえなあ。かん口令って奴ですか? 決して口外するなと社長に釘さされていたんですよ。でもまあ、社長も服役して娑婆に出てきてからの行方も知れないし、しゃべってもいいか」
柳はマカブラタワーを中心とした外縁の三つの菱型建物の建造がほぼ出来上がりかけた頃、背後の斜面で土砂崩れが発生したことを口にした。
「おかしいんですよ。あそこは竹林でね、地下茎がびっしりと張り巡らされていて、おいそれと土砂崩れなんておきそうもない所だったんですがね。まあ、土砂崩れっていうより大きな陥没って感じでした」
そのあたりにはどこか立ち入りがたい雰囲気があって、工事関係者も近づかないようにしていたという。
「なにかね、陥没した場所から変な臭いがしていたんですよ。何かが腐ったような臭いっていうんですかね。とにかく異臭が吹き出してきたんです」
おまけにその場所に生えていた竹は異様に成長が早かったともいう。
「陥没して気がついたんですが竹の根が腐っているように見えました。ぐずぐずに腐った根腐れのような土地に、なぜか次々と筍が顔を出すんですよ。しかもそいつが翌日には人の背丈ほどに成長していて、いくら竹の成長が早いったって異常でした。竹って緑色でしょ、でも成長する前の竹って茶色い皮を身にまとって何とも言えない不気味な雰囲気なんですよ。それがもう、びっしりとあたり一面に生えていて、気持ち悪いったらありゃしない」
作業員はそこで本題に入った。
「陥没した地面の底に変なものが顔を出していたんです」
「変なもの? なんですそれは」
「何とも表現しようがないんだよなあ、おまけにあたりはものすごい悪臭が漂っていてね。あまり近づきたくはない感じでした」
「化石みたいなものですか、あるいは遺跡とか」
「ああ、化石ね、うーん、よく恐竜の化石とか見ますよね、ああいうんじゃないんだなあ。もっとジュクジュクした湿り気の残っている何か。あえていえばイソギンチャクの半生化石みたいな感じかなあ。ぶつぶつと無数の穴があいていてそれがいまにも動き出しそうな気配だったんです」
それでね、と言葉を切って彼は言った。
「それが顔を出している穴の奥で竹の根っことつながっているように見えたんです。そこら中に竹の根が張り巡らされていて、なんかそこだけ、植物というよりも何か精密なICチップみたいに見えたんですよ。とにかく自然の産物には見えませんでした」
「それを、どうしました」
「埋めちゃいましたよ。社長の命令で。ほら、マンション建設なんかしていると遺跡が出てきちゃって、工事を中断して学術調査が入ったりするじゃないですか。その間、開発はストップしちゃうから運転資金が焦げ付いたりするでしょ。社長はそれを嫌がったんじゃないかなあ」
「じゃあ、埋め戻して何もなかったことにしたんですか」
「ええ。おかげであの嫌な臭いは消えましたがね。でも、それだけじゃありません。社長が急に思いついたように『マカブラゾーン』をその上に建てることにしたんです」
作業中に事故が多発したのはそのとき以降だという。
「土壌が弱くて、陥没が何度も発生しました。作業員がそのたびに空いた穴の中に落ちてね、竹の穂先に体を貫かれた奴もいたなあ。助け出されても使いものにならないほど体中の生気を抜かれたみたいになっちゃって、せん妄状態っていうんですか。精神異常になった奴もいたし、病院で死んだ奴もいました。でも工事のせいではなくて、心身症のせいだってことにしてました」
マカブラゾーンには廃屋のようなエリアを作りましてね。ええ、もちろん社長の発案です。あの人、気味の悪い絵を集めたりしていて、そっちのほうのアイデアは豊富だったんですよ。どういう展示かって? 根太まで腐ったような百姓家を建てたんです。ぐにゃぐにゃに腐った畳を用意して、筍がそれを貫いているんですよ。幽霊屋敷みたいな趣向ですかね。けっこうリアルで気持ち悪いんだ。首だけのキューピー人形の目のところを筍が貫いていていたりしてね」
「人気はあったんですか。その施設」
「それがね、けっこう人が入ったそうです。百姓家の中に入って部屋を抜けると裏口から外に出られるようになっていてね。お客さんは途中のどこでひっかえしてきてもいいんだけど、裏庭の奥にはさらに鬱蒼とした竹林があって、竹林をかき分けていくと、それがあるんです。それを見つけて、見事裏口のゴールから出て来られたら賞品が進呈されてました」
「それ?」私の問いに彼は表情を硬くして答えた。
「竹ですよ、節の途中から赤黒い光を放つ嫌な竹」
「なんですか、それは」
「なんてーのかなあ。お伽話にあるでしょ。竹がらみの話」
「もしかして竹取物語ですか。かぐや姫が竹から生まれたっていう」
「そう、それ、それ」
髪が白くなって、額から頭頂部へ大きく後退した頭がはげしく振られた。
「でもね、あんな優しい話じゃないんだ。なにしろ腐りかけた竹の中から手が伸びてくるんですよ。ありゃあ、手なのかなあ、竹の枝が変な形で飛び出してきたように見えてね、それもまた腐りかけのようなんだから。その裂け目から真っ赤な眼が睨みつけてくるんですって」
「気持ち悪いアトラクションですね」
「入場制限がかけられていて、一組ずつしか入れなかったんだけど、あそこまで行った客は少ないって話を聞いたよ」
男の言葉遣いがだんだん横柄になってきた。話疲れたのかもしれない。
「誰から聞きました」
「マカブラゾーンの施設担当者」
「お知り合いだったんですね」
「ああ」
「今でもおつきあいは続いていますか」
「いいや、マカブラのことにはあまりふれたくないんでね。連絡はとっていないけど、昔の連絡先なら見つかるかもしれないな」
こうして私と北川はマカブラゾーンの施設担当者、柳力を取材することになった。
「マカブラゾーンのことを聞きたいって?」
私たちに会うことをしぶり続けた柳は最初から警戒の色を顕わにした。それでも話し込んでいるうちに固いガードもすこしずつ下がりだした。
「とにかく、あそこには近づきたくない変な雰囲気があったんだ。何かが待ち受けているような感じ?」
とりつきたがっている何かがそこにいるような感じだと柳は言った。そしてとんでもないことを言いだした。
「マカブラ火災の火元がホテル客室だって言われているけど、あれは偽装だよ」
「え?」
私は鞄に隠したヴォイスレコーダーがきちんと柳の言葉を拾ってくれていることを願った。取材は完全にオフレコ、メモを取ることも許されていなかったのだ。
「佐々木がね、そのように指示したんだ」
柳はかつての雇い主を呼び捨てにして、嫌悪感をあらわにした。
「金でね、なんでも片付ける奴だったから」
「あなたはそのことを」
「同じ穴のムジナだよ! 俺も金で良心を売り渡した卑劣漢って奴さ」
私の言葉を強い口調で遮って柳は吐き捨てた。
「どういう経緯でそのようなことになったのです」
「出火元はマカブラゾーンだ。間違いない」
私の問いには答えず、柳は納得しづらい自説を主張した。
「火種は何だったのですか」
「わからない。ゾーン全体が一度、大きく陥没して、そこから得体のしれない光が漏れたかと思うと、竹林や百姓家が燃えだしたんだって、現場にいた奴は言っていた」
そのとき、耳を塞ぎたくなるような叫び声のようなものが聞こえたという。同時に何者かに呼ばれているような気もしたと。
「そいつは、その妙な気配から逃げるようにして俺のところにやってきた。仲間が何人か陥没した穴に吸い込まれたってことも言っていた。話を聞いた俺は、その日、来園していた佐々木に危急を告げに行ったんだ」
マカブラゾーンの隣の、佐々木ご自慢の絵が飾られた美術館に奴はいた。まるで、俺を待っていたかのように一枚の絵の前で佇んでいたんだ。それまで眺めていた絵からゆっくりと顔をそらして俺を見た佐々木の顔は忘れることができねえ。何かにとり憑かれたような狂気を滲ませた顔で「どうした」って聞きやがった。
「社長、マカブラゾーンから出火がありまして、火が燃え広がりつつあります」と言った俺に奴は「そうか、とうとうきたか」と言いやがった。消化の指示なんかこれぽっちもありゃしねえ。それどころかあいつの太鼓持ちの社員の名をあげてそいつを呼んでこいって」
柳は客室に火をつけに行ったのがその男だと告げた。「なにしろ、その場で見ていたからね。佐々木が奴に指示するのを。断るかと思いきや、そいつは呆けたような顔でホテルに向かったのさ」
そして、彼はホテル火災の中で命を失っている。
「しかし、佐々木社長はあの火事で何の利益を享受できたんです。服役までして、破産してるじゃないですか」
「そんなことは俺にはわからねえ。俺があいつに雇われていたように、あいつも何か、逆らえない奴に雇われてたんじゃねえか」
柳は気味の悪いことを口にした。
「あいつは、オカルトに関心を持っていた。『マカブラゾーン』を作る時も、その道の専門家から助言をもらっていたのを俺は知っている」
施工に携わっていた関係でその専門家から渡された資料に目を通したこともあるという。
「そもそもは、『マカブラ』の裏で陥没が起きたときに現れた妙なものについて、その専門家に相談をしたのがきっかけだったと思うよ」
「専門家の名前を憶えていますか」
「えーとね、珍しい名前だったからな。ちょっと待て。たぶん思い出せると思う」
天井を見上げる柳の目が遠くを見ていた。
「花のような名前だと思ったんだ」
ぽんと手を打って柳は言った。
「そうだ、たしかシャクナゲとかシャクナギとかいったっけか」
K大学教授「釋那木燦」の研究対象は古代史や遺跡発掘だと聞いていたが、同時に平安時代の一時期について、きわめて特異な研究者としても知られていることを私は知った。そして学界からは異端の男とみられており、彼は研究成果を発表する場を与えられていなかった。
私と北川は、彼の研究室を訪れ、五年前、彼が顧問をしていたサークルメンバーの身にふりかかった凶事についての弔意を表した。
背中が曲がり、顔の右半分が垂れ下がり、左右の均衡が著しく崩れた面相の釋那木の右頬には瘤のようなものがあり、まばらに生えた白い髪と髭がそこからも生えており、見るものに生理的な嫌悪感を与えずにはいられなかった。
喉がつかえるのか、四六時中えづきを繰り返す釋那木は私たちの弔意には何の反応も示さなかった。
研究室にはグロテスクな抽象画が何枚もかけられていた。
「あれから三十年以上がたっているな」
聞き取りにくいしゃがれ声が釋那木の、右に垂れ下がった口から漏れた。
いや、サークルメンバーの遭難事件は五年前のことですが、と言いかけた私は、釋那木がマカブラ火災のことを言っているのだと気がついた。
「もう少し役に立つかと思っておったのに、まったく、失望させられたわ」
ゆがんだ口から唾を飛ばしながら教授は呪詛の声をあげた。
いったい誰に期待をかけていたのだ、と気になったがとりあえず、聞くべきことから聞き出すことにする。
「釋那木先生、廃墟巡りサークルの遭難事件に関しておうかがいしたいのです」
顔の筋肉が複雑なうねりを見せて教授は私をねめあげた。
「サークル活動に関して、先生は学生たちに指導されたりすることはあったのでしょうか」
「寺田をな」
「は?」
「寺田を使っておったのよ」
サークルリーダーの名前があがった。
「使う? いったい何を、どのように指導されていたのです」
「補充が必要になったのだ」
「補充? いったいなにを補充する必要が生じたんです? もしかして、寺田君に『マカブラ遺跡』に行くよう指示したのは教授なのですか」
たれさがった重たいまぶたの下の眼が私を睨むが、返事はなかった。
「おまえたちはマカブラ遺跡の現地調査に行ったな」
「ええ、ええ、はい、もうそれで充分だと思っています」
私と北川は顔を見合わせた。あのときの不快な印象が今でも消えずに残っている。だが、事細かく覚えているわけではなかった。なぜか記憶のどこに霞がかかったように茫漠とした部分があった。あれ以来、誰かに見られているような感覚がつきまとって離れないのだ。
「どこまで調べがついている?」
「マカブラゾーンと呼ばれるようになった施設は、本来の開発計画にはなかったそうですね。マカブラの落成前に崩落事故があったとか。そのとき、佐々木リゾート開発の佐々木社長が先生に接触をはかったお聞きしました。先生は佐々木社長とご面識があったのですね」
それを口にしたことを私は瞬間的に後悔した。教授の顔色が蒼白になったからだ。落ちくぼんだ眼窩の奥から私を睨みつける目には狂気の色が透けて見えた。
「そのことを誰かにしゃべったか」
私は小刻みに首を振ることしかできなかった。
「賢明な判断だ」
学生の論文を評価するような口調で教授は重々しく言った。
「誰からその話を聞いた?」
「教えるわけにはいきません」
彼は私の顔をじっと見つめた。そこには無表情という言葉では表現しつくせないほど、虚無に蝕まれたような底なしに暗い顔があった。
「そうか、だが私に隠しごとはできんぞ」
釋那木は引き出しからノートを取り出して広げた。紙面は黄ばんでおり、かなり時代がかった感じがした。それは一覧表のようだった。人名が書かれているのは遠目にもわかった。
釋那木は指でノートの表面をなぞり、二回、手の動きをとめた。
「ふむ、ふむ、そうか。杉田一彦と柳力か」
私は驚愕した。
横にいた北川が唾を呑み込む音が聞こえる。
「杉田一彦と柳力の現住所を教えてくれ」
マカブラ建設の作業員とマカブラゾーンの施設担当者の名を口にして、それが当然の権利であるかのように不気味な教授は彼らの現住所の開示を要求した。
私はぞっとした。
目の前の怪異な姿の教授に決して彼らの情報を伝えてはならないと確信した。
「お二人とはオフレコと個人情報の秘匿を約束しておりまして」
言ってしまってから失敗に気がついた。
情報源を認めてしまったようなものではないか。だが、そのとき釋那木の異様な雰囲気に私は冷静な判断力を失っていたのだ。
「いいから、教えたまえ」
釋那木の声がまるで催眠術師の言葉のように私の頭に霞を生じさせる。
釋那木は右手を差し出してほらほらというように催促のジェスチャーをした。
「釋那木先生、そんなに簡単に取材先の情報を開示するわけにはいかないんです」
あやうく彼らの個人情報を口にしかけた私は、理性をとりもどすべく、話柄を無理やりそらした。それにはかなりの精神力を必要とした。
「釋那木先生は平安時代の一時期について幾つかの論文を発表されていますね」
学界に発表の場を得られず、彼の研究成果は自費出版となっている。それを私は見つけたのだ。
自分の要求を聞き入れられず、不機嫌になっていた彼の表情が強張った。
「先生の履歴に目を通してきました」
「どこまで知っているのだ。私のことを」
「先生は貞観年間に強い関心を持たれておられますよね」
貞観年間とは西暦八五九年から八七七年までの平安時代初期の十八年間だ。
大災害が連続して発生した、日本の歴史上、特異な期間と言っていい。
年代順に列挙すると以下のとおりだ。
貞観三年 天空から光球が福岡の直方に落下する。
貞観四年 近畿地方で疫病が流行。
貞観五年 富山、新潟で地震発生。
貞観六年 富士山が大噴火、青木が原樹海ができあがる。
貞観九年 阿蘇山が噴火
貞観十年 岡山、京都で地震発生。
貞観十一年 東北地方で貞観地震、大津波が発生。
貞観十三年 鳥海山が噴火。
貞観十六年 開聞岳が噴火。
「そんなことまで調べていたのか」
釋那木教授の顔が強張った。そして底なしの深さを感じさせる黒い目を私に向けた。
不意に周囲の情景がぼやけた。
平衡感覚を失い、私は目の前の机のへりに手をかけようとしたが、その手は空をきった。
教授室の陰気な薄暗さがいきなり、白い輝きに充ちた空間に変わった。
いつの間にか、私たちはファミリーレストランに移動していた。
まるで映像の早送りをしたかのような場面変換だった。
え? いつ? 移動した? そんな記憶はもちろんない。
私は北川の姿を隣に探した。
だが、北川はいなかった。ここにいるのは私と釋那木の二人だけだった。
頼んだ覚えのないコーヒーが白い湯気を立ち昇らせている。
「『竹取物語』を知っているか」
不意に変わった話題に、私は精神的につんのめって情けない声を出した。
「え、ええ、あ、はい」
「あれはいつ頃創作されたものだと思っている」
「いや、なんとなく平安時代だとは思っていますが」
「そうだ。あれは貞観年間に作られたものだ。ある事実に基づいてな。ただし、ずいぶん形を変えているがね」
学界から異端児と呼ばれるゆえんか、釋那木は根拠を明らかにせず、見てきたような話をはじめた。
「どういうことでしょうか」
「かぐや姫はな異星からの漂流者だったのだ」
何を言いだすんだ、この人は。私は目を丸くした。
「貞観三年に福岡の直方に隕石が落ちた。これは目撃記録のある隕石としては世界最古のものだと言われている」
だが、と釋那木は私を睨みながら仮説を口にした。いや、私にとっては仮説にすぎない(それもかなり眉唾ものの)が、彼にとっては確固とした史実なのだろう。
「福岡に落ちたのは飛来した物体の破片にすぎなかった」
「破片?」
「そうだ。実際に飛来してきたものはもっと大きかったし、隕石などではなかった」
断定的に教授は言った。
「それは枳殻狭に飛来した。いや、正確には不時着したのだ。それ以外にも日本海側や富士、阿蘇、東北、鹿児島にも堕ちた」
皆、空に帰ろうとしたようだが、どうやら失敗し、命を落としたようだと釋那木は続けた。エネルギーを補充しようとして地殻に手を出したり、ウイルスを培養したりしたようだ。だが、結局、鬼哭狭に身を潜めたものだけが何とか生きながらえることができた。
教授の話はあまりにも荒唐無稽だった。
「当時、あの山は枳殻狭と呼ばれていた。カラタチの原生林に覆われていたのだ」
カラタチの別名が枳殻であることは知っていた。
見てきたようにいう釋那木の言葉に私は引き込まれた。
現在の鬼哭狭には伝承が残されている。それは竹取物語の原型といっていいものだ。ただし、かなりグロテスクな話になるがね」
「どうして、教授はそれをお知りになったんですか」
眉に唾をして私は訊ねた。
「記憶を共有したのだ」
教授は不気味な笑いを漏らした。邪悪なものの存在を看取して私はそれ以上の追求を躊躇ったが、なんとか口にしたのは「いつ?」という質問だった。
教授の口角がさらに吊り上がった。私は思わず目をそらしてしまった。
実際、いつの間にか、目の前にいるK大学の教授が人ならざるもののように私には感じられてきたのだ。それは、とっくの昔にこの世からいなくなったものが、かりそめの姿として釋那木という男の体を身にまとっているかのような、不快で戦慄すべき想像を私にかきたてさせた。
「行こうか」
釋那木は私の返事を待たずに立ち上がった。誘われるように私は席を立った。そして明るい、健康的な、居心地のいいファミリーレストランを後にした。
私と釋那木はマカブラゾーン跡地にいた。
さっきと同じだ。
いつのまに、どのような手段でここまで移動したのか。私には記憶がない。
帰りたい。このまま別れの言葉を口にして家に帰りたい。だが、心の底に沸き起こった恐怖心はそんなことでは今、進行しているこの世のものとも思えない異界への誘いから逃れることなどできはしないということを私に告げている。
陽が沈み、夏の終わりだというのに、寒気が遺跡を包んでいた。
「地球上の時間の尺度でははかりしれない長い時を生きるものがいるのだよ」
釋那木が語りだした。
「それがやってきたのは貞観三年、辛巳弥生 の頃だった。ちょうど東大寺の大仏の修造が終わった頃だ。我はそれが鎮護国家の要なれど、寺内の自治力の低下が著しく、衆生を救う力が失われつつあるので無駄なことだと思っていた」
釋那木の顔のゆがみが大きくなった。
「俺は、唐から持ち込まれた仏教などよりも、古来からの神道こそが、人の世に安寧をもたらすものでないかと考えていたのさ」
教授の人格に別の人格が宿ったような口ぶりだった。一人称もめまぐるしく変わる。
「翌、卯月、枳殻の里に大いなる日輪が降りてきた。里のカラタチの樹、皆、一様に倒れ伏してしまった。我は父、少納言直道の命を受け枳殻の里に赴いたのだ。我が名は藤原高階。我は里の小山に穴が開き、穴の底に異形のものを見た。そのとき、すでに陽が翳り始めていたゆえ、翌日、穴の底に降りることにしたのだ」
何を言っているのだろうか。私は釋那木の話に合いの手をうつことさえできなかった。
「そして、私は見たのだ。あれを、そしてそれは我の体にとりつき、俺を支配し、僕として使うことにした」
「教授?」
釋那木に何かが憑依しているのか。
釋那木のいびつな顔が私に向けられた。目が大きく見開かれ、口をあけて私を見据える。背中の毛が総毛だった。
「それは生き物でもあり、地球でいう飛翔体でもあった。この地球に落下し、再び宇宙空間に戻る日が来るまで体力を温存することにしたのだ」
「それが鬼哭狭に潜んでいるというのですか」
「生命体はあちこちに神経鞘を伸ばし、近寄ってきた生物を取り込み、その知識や生体を自分のものにした。だが、落下地点がよくなかった。飛翔能力を失ったそれは微々たる栄養源で生きながらえるのが精いっぱいの日々を過ごした。それは地中で時を待った。そして長い年月が流れた」
釋那木は陥没しているマカブラゾーンの廃墟に手を伸ばした。
穴の底が暗赤色に輝きだした。
「池田に仲間を連れて遺跡でキャンプをさせたのは、我の養分とするためだ。佐々木が鬼哭狭に商業施設を建設しはじめたのは千載一遇のチャンスだった。わしが埋もれている場所を奴が掘り起こしてくれることを期待した。だが、建設は私が身を沈める土中の一歩手前で終わりそうだった」
だから、力を振り絞って土中から土地を盛り上げ、そして崩落させたのだ、と釋那木は言う。
それにより、現場作業員が自分の姿の一部を目にし、佐々木が釋那木に相談に来るきっかけとなったという。それ以前に、釋那木はオカルトに興味を持つ佐々木を篭絡すべく、数々の話題を提供し、自分の存在をアピールしていたという。
「マカブラゾーンを利用して栄養補給をしようとした我は佐々木を取り込むことにした。佐々木はわし、藤原高階と融合し、釋那木の意識下で生きることになった。佐々木となった俺はマカブラを燃やした。そのときまでにゾーンに来る客の何割かを我の体とつながる竹の穂先で貫き、養分として取り込み、力を蓄えていたのだ。だがそれでも足りなかった。だから燃やして、多くの命から養分を取り込んだ」
釋那木のゆがんだ顔がぐずりとさらに崩壊した。
まるで顔の表面が溶けたようになり、どろりと垂れ下がった皮膚の下から新しい顔が浮かび上がった。
「あ、あなたは」
その顔を資料で見知っていた私はあとじさった。
釋那木だった男が、佐々木良治になっていた。
「我は佐々木であり、釋那木でもある」
そして、寺田康之、久間田進、高橋洋一、田中豊、吉川陽愛、江口瞳でもある、と次々と新しい顔を浮かび上がらせた。
「ひっ!」
最後に浮かび上がった顔は北川のものだった。
「いつの間に?」
時間と空間の観念が我とおまえたちでは違うのだ。我は、この忌まわしい星から立ち去るまで生き続ける。おまえを使って杉田と柳をおびき寄せ、ほら、吸収したではないか。
釋那木の顔が現れ、崩落した地面をのぞき込むと、竹の地下茎にからめとられた杉田と柳の死体が見えた。
いつのまにか私の体が消えていた。
私の意識が釋那木の、藤原高階の、北川の、佐々木良治の、寺田の、そしてマカブラの地下に潜んでいた生命体によってとり殺され、養分を吸い取られた見ず知らずの多くの人々の意識と融合した。
そして大事なことを思い出したのだ。
私と北川はマカブラ遺跡を視察に行ったとき、すでにこの化け物によって殺され、取り込まれていたことを。
(了)
都心から十五キロの距離ではあるが、あたりに人家はない。
かつて郊外のオアシスとして人が集まり、交通の便の悪さが逆に、政治家やセレブの御忍びの場所として人気を博し、それが集客に寄与した(人に知られては御忍びもへったくれもないはずだが)時期もあった。
アーティストが野外ステージで唄い、踊り、ファンが黄色い歓声をあげていた。
ファミリー客の幸せそうな笑顔がそこかしこに溢れていた。
だが、今は鬱蒼と茂った竹林が廃墟と化したそれを包み込んでいる。
繁殖力の強い竹が手入れをされないまま放置された竹林は周囲の広葉樹を浸食し、林ではなく竹藪と化している。ブナや、ナラなどの広葉樹が枯れ、山が保水力を失いつつある。土砂崩れが何度か起きているのだろう。鉄筋コンクリートでできた建物が何区画にもわたって崩落している。
割れたガラスが周囲に散乱し、床や壁に嵌め込まれた化粧レンガが無秩序に散乱していた。
「こんなところで……」
同行した北川茂が呟いた。
「入ろうか」
倒れた鉄柵を乗り越えて、静寂に支配された敷地内に足を踏み入れる。北川が恐る恐るついてくる。
垂直に伸びた竹が日差しを遮り、昼だというのにあたりは薄暗い。
廃業したスーパーの看板が煤まみれになっている。書かれていた店名を読み取ることは難しい。ただ、独特なデザインがそれとわかる手がかりとなった。
廃墟の内部はさらに暗かった。
用意したマグライトを出そうとしたら背後の北川が悲鳴を上げた。
「ひっ!」
「どうした!」
北川の悲鳴の高さにあわせて私の声も甲高くなった。
「人の姿が!」
怯えた叫びが無人のはずの館内に響き渡る。
指さされた先に二つの人影が見えた。
腰が引けたが、手にしたマグライトを人影に向けて照射した。
強烈な光が暗闇を走り、そして反射された。
「ガラスだよ」
ガラスが鏡の役割をはたして私と北川の姿を写しだしたのだ。
「茂、ここはまだとば口だぜ。お目当ての場所は、この先だ」
企画を持ち込んできた本人がすでにびびりまくっている。これまで何度もいわくつきの心霊スポットに行っているが、これほど怖がる北川は見たことがなかった。
「カワさん、ここ、かなりヤバイよ」
オカルト・怪異を扱うフリーライターである、私、河村茂樹に、ある事件のルポ作成を持ちかけてきたのが、オカルト雑誌の担当編集者、北川だった。過去に何度もコンビを組んで記事を雑誌に掲載している。私と北川の上梓した心霊本はそこそこ売れていた。
本人に『見える』力があるせいか、北川には本当にヤバイ場所を探知する能力がある。
「それでも前に行くのが、俺たちだろ」
自らを鼓舞するために、北川の背を叩いた。
マグライトの強力な明かりだけが、頼りだ。
やがて、目的地である廃墟の深奥部にたどり着いた。
「ここで?」
「ああ、ここで六人がキャンプをしたんだ」
そして、彼らは帰ってこなかった。
私はスマホのカメラで周囲を撮った。北川の出版社は零細プロダクションなのでカメラマンをつけてくれないのだ。最近のスマホカメラは優秀だから雑誌に掲載する写真ぐらいはそれで充分にまかなえた。
「カワさん、何か映ってる?」
画像を確認するが気になるものは何も映っていない。だが、私はこの廃墟を包んでいる何かの気配に気がついており、そのために怖気づいていた。
「いや、茂は何か見えないのか」
北川の霊視能力に期待を寄せる。
「いや、今のところ何も。ただ、絶対ここはヤバイって」
「何が?」
「ここは死んではいるけど、生きてもいる。なぜかそういう気がするんだ。霊とか、そういうものではない何かが」
北川の感覚は私のそれと一致していた。
何かが棲んでいる。
私の第六感がそう囁いていた。
「夜明かしはせずに、陽があるうちにここを出ようか」
事件のあった夜を再現するために二人で夜をすごすためのキャンプ準備もしてきたが、私は計画を変える提案をした。
私の言葉に一も二もなく北川は激しく頷いた。
突然、突風が上空に吹きわたり、竹藪がざわざわと生き物のようにざわめいた。
《ザーッ》
海鳴りのような葉擦れの音がする。
まるで何か警告を発しているかのように、あるいは何かの意思を伝えるかのように風が強まった。
《カツン! カツン! カツン!》
海鳴りの音のほかに乾いた音も降ってくる。風にあおられた竹同士が上空でぶつかりう音だ。
「カワさん、早くここを離れたほうがいいよ」
北川が私の手をつかんでやってきた方角に向かおうとした。
「あれ?」
私たちが入って来た廃墟の中の通り道が竹藪によって塞がれている。
茶色い皮を被った筍が地中から飛び出していた。
「さっきまで、あんなの生えていたっけか」
私の呟きに呼応するように茶色い筍が次々と現れる。
みるみるうちにそれが成長していく
目の前の一本の幹が赤黒く輝きだした。
「カワさん! これはヤバイって!」
北川の悲鳴が竹藪の中に響き渡った。
「走れ!」
私は自分たちがやってきたと思われる方角に突進した。
その複合商業施設は昭和の高度経済成長時代、一九六九年に建設された。
建設用地は鬼哭境と呼ばれる丘陵地帯で、それまでは人煙も稀な竹林の里として知られていた。
当時、鬼哭境へ通じる交通手段はなかった。
丘陵の南、五キロの地点に終着駅がある北天鉄道を延伸させたのは、佐々木リゾート開発の総帥、オーナー社長である佐々木良治だった。
「この里に人を集めて、グループの顔にしてみせる」
周囲の反対を押し切って佐々木は会社の総力をあげて鬼哭狭開発に着手した。
時あたかも五年前の東京オリンピックの開催や、経済成長に伴う宴会やコンベンションの需要増をうけ、都心のホテルを買収して傘下に収めていたグループの収益は増大の一途をたどっていた。
地下一階、地上十五階建て、延べ床面積は九万平方メートルを誇るその施設は佐々木の発案により「鬼哭狭マカブラ」と命名された。
マカブラとはフランス語で《macabre》と表記する。
『不気味な』とか『死を想起させる』言葉だったので、周囲は皆、反対したが佐々木は自らの意思を貫いた。
地階から六階までは菱形をした三つの区画が中央で合わさるように設計され、各区画の辺縁部は広いバルコニーになっていて、上にいくほど蓮の花のように外に向かってそっくりかえって見える。三つの菱が合わさる中央部に十五階建ての方形のタワーが聳えており、七階から十五階までがホテルになっていた。
建設当時、周辺に人工の造作物は存在せず、郊外の丘陵上に聳える建物は「マカブラタワー」と呼ばれた。
六階以下には映画館やプール、ボーリング場、アーケードゲーム施設、野外ステージが併設され、約百店舗の飲食、衣料品、雑貨、スーパーなどがテナントとして入居した。さらに後背地に佐々木の趣味でもあるオカルト的なアトラクション施設も設けられ、「マカブラ」という名称と相まって施設への集客を伸ばす一因ともなった。このアトラクション施設は「マカブラゾーン」と呼ばれた。当初は建設計画になかった区画だが、竹林を伐採しているうちに佐々木がある着想を得て追加工事となった。
「マカブラゾーン」の建設中に何度か事故があり、作業員が数名亡くなった事実も話題性を提供した。
ゾーンへの入場に人数制限と時間制限を設け、一日十組以下の招待制とし、場内での体験は口外しないことという制約も希少性を高め、人気を博した。もちろん人の口に戸は立てられないから、施設内に何があるのかという憶測は幾つもあったが、施設側がそれを認めることはなかった。
佐々木が「マカブラゾーン」だけは収益性を度外視していることに、関係者は皆、首をひねった。
佐々木は徹底した利益優先主義者だったからだ。
人件費を限りなく切り詰め、数少ない社員には重労働を強いた。
ワンマン体制の社内では佐々木の取り巻きは皆、太鼓持ちだったため、現場における社員からの苦情や現状の改善案は彼らに握りつぶされ、佐々木のもとに届くことはなかった。たとえ届いていたとしても佐々木がそれを取り上げることはなかっただろうが。
社員のモラルは極めて低かった。
また、設備投資を徹底的に節約したため、安全面への配慮が著しく欠けた施設になってもいた。
だが、当時の建築基準法、消防法では「マカブラ」は適格との判定を受けている。
後に多くの死者を出すことになった百貨店火災、ホテル火災をうけてスプリンクラーや防火扉などの設置義務、不燃材による内装施工などが義務付けられたが、佐々木は消防署からの再三の改善要求を無視し続けることになる。
手抜き工事で完成した「マカブラ」だったが、佐々木はオカルト趣味のほかに美術品とビンテージワインの収集家としても知られており、「マカブラ」の一画に作られた美術館とワインカーブには惜しみなく金を使ったと言われている。ただし、佐々木の眼がねにかなった美術品は美術愛好家たちからはまったく評価されることのない、独特の色彩に彩られた抽象画ばかりだった。それらはどちらかといえば禍々しい印象を見る人に与えた。
「マカブラ」の完成記念セレモニーでテープカットをした佐々木は「これで山野辺の牙城を揺るがすことができる」と周囲に漏らしていたという。
佐々木のライバルは、鬼哭境の西方、九キロに広がる高級住宅地、住井田を開発した山野辺晃率いる山野辺グループだった。
山野辺は当時、都心の外縁にある山系の入口、鄙でしかなかった住井田と都心を結ぶ自動車専用道を財を投じて作り上げた。もちろん、そのためには中央政界や当時の運輸省、建設省に通じる太いパイプを最大限、利用したことは間違いない。
人はこの新道を「山野辺の道」と呼んだ。
これにより住井田は高級住宅地として発展する
東の佐々木、西の山野辺の開発競争は当時の人々の耳目を集めた。
山野辺グループは、二〇二五年現在、日本全国に三十の高級リゾートホテルを建設し、十五のレジャー施設、百以上の温泉旅館を運営している。
施設はそれぞれ個性的かつ高級感あふれるラグジュアリーなイメージが定着し、いっとき、世界的感染症の影響により収益が落ち込みはしたが、現在ではインバウンドの復活もあって、感染症流行以前の隆盛を取り戻している。
一方の佐々木リゾート開発は現在していない。
二〇〇〇年に廃業したのだ。
一九九〇年十二月二十四日に発生した「鬼哭狭マカブラホテル」の火災が原因だった。
防火設備が貧弱で従業員への教育も不徹底だったため、発災時の対応が不十分で、宿泊客のタバコの火の不始末から発生したと言われる火災は、スプリンクラーの未設置もあり、初期消火に失敗し、またたくまにホテル全体に広がり、次いで隣接する商業施設へも延焼した。
出火時間は十二月二十四日午前二時十三分とされている(当時の裁判記録)。
火災発生時、偶然、「マカブラ」に滞在していた佐々木は消防への通報や消化活動よりも、美術品やビンテージワンインの搬出を優先するよう従業員に命じていたと言われている。これにより、初動の対応が遅れ、かつ館内放送機器の故障により宿泊客への通知が徹底できず、被害を広げることになったとはマスコミの報道だ。
火は瞬く間に「マカブラ」全館を呑み込み、猛火と有害な黒煙が鬼哭狭の夜を不気味に彩った。
火災による死亡者は百三十二人、負傷者は九十三人にのぼり、一九七二年五月十三日の大阪、千日デパート火災による死者百十八人、負傷者八十一人を大きく超え、戦後のビル火災としては最大の惨事となった。遺体の一部が単なる焼死体とは思えない損壊状況だったが、今にいたるも原因は究明されていない。
火災後、佐々木は業務上過失致死傷罪で実刑判決をうけ、五年間刑務所に服役した。遺族への損害賠償や、脱税の事実などが露見し、資産のすべてを失った彼のその後の消息は不明である。
佐々木リゾート開発のメインバンクは貸付金回収のため跡地を競売にかけたが、買い手はつかず、メインバンクが出資する関連不動産が落札して保有することになった。しかし、二〇二五年現在も跡地は廃墟のまま放置されている。
「鬼哭狭マカブラ火災」は時とともに人々の記憶から薄れ、忘れ去られていった。
廃墟は手つかずのまま放置され、北天鉄道も「鬼哭狭駅」を廃止し、営業路線を「マカブラ」建設以前の終着駅までの状態に戻していた。
だが、二〇二〇年になって、再び「マカブラ」の名が人口に膾炙するようになる。
K大学、廃墟巡りサークルのメンバー六人が鬼哭狭内で行方不明となり、山中で六人全員の遺体が発見されるという事件が発端だった。
K大学は神道の学科を持つ特殊な大学だった。
神職課程を修了し、神社本庁の定める資格を取得して神職となる学生も多かった。
廃墟巡りサークルのリーダー、寺田康之もその一人だった。
神職を目指していたが、実家が神社というわけではなく、指導教授の勧めにしたがって進路を決めたと周囲に語っていたという。
廃墟巡りサークルに参加したのも指導教授の勧めということだったが、神社に勤めることになれば、当直で深夜に境内の見回りをしなければならない。怯える気持ちが芽生えるかもしれないから廃墟巡りで心胆を鍛えておくというのが、もうひとつの動機だったという。
二〇二〇年九月十九日土曜日に、寺田以下、久間田進、高橋洋一、田中豊、吉川陽愛、江口瞳の、男子四名、女子二名のパーティーが鬼哭狭に入山した。
十九日の土曜日を含めれば、四連休となるのを利用したのだろう。
二十一日には帰宅する計画だったが、何の連絡もない娘のことを心配した江口瞳の親から警察に連絡が入り、二十二日の連休最終日になっても全員が帰宅してこなかったことから、翌二十三日から本格的な捜索が開始された。
探検先が鬼哭狭だということはメンバーの数人が親に伝えていたことから、「マカブラ遺跡」――当時そのように呼ばれていた――に向かったであろうことは容易に推察された。
捜索隊は「マカブラゾーン」跡地で三つのテントを発見し、テント内と周囲に六名の遺体を発見することになる。
遺体はかなり損傷していて、捜索隊の中には嘔吐をする者もあったという。
廃墟巡りサークルの遭難した六人、寺田康之、久間田進、高橋洋一、田中豊、吉川陽愛、江口瞳の死体の損壊具合は目もあてられないほどだったという。手足がもぎ取られていたり、目玉がなくなっていたり、はらわたが裂けていたり、ひとつとしてまともな状態の遺体はなかったと当時のマスコミは伝えている。
不思議なことに、欠落した遺体の一部は現場のどこにも見当たらなかった。
野生動物に食われたのではないかという憶測が飛んだが、鬼哭狭には猿や猪以上に大きな野生動物はいない。猿や猪に襲われたにしては遺体の損壊が大きすぎると法医学者は指摘している。
警察犬を動員して臭跡を追わせようとした警察の試みは犬たちが異様に怯えて現場に近づこうとせず、逆にその場から逃げ出したがったために奏功しなかった。
この事件のルポ作成を持ちかけてきたのが、オカルト雑誌の編集者北川茂だ。
依頼を受けることにした私、河村茂樹は基礎的な調査を開始し、記述のとおり「鬼哭狭マカブラ遺跡」における開業から廃業までの推移とK大学廃墟巡りメンバー遭難事件のあらましを整理した。
「カワさん、何から手をつける?」
打ち合わせのカフェで北川が取材方針を確認してきた。
「サークルには他にメンバーがいたのかな」
「えーと」
北川が取材用のノートをめくる。
「メンバーは死んだ六人だけだね。あとはサークルの顧問だけ」
K大学廃墟巡りサークルの顧問は、K大学教授「釋那木燦」だった。サークルリーダーの寺田を大学やサークルに誘ったのが釋那木だった。
彼は神道文化学部の教授ではなかった。専攻は古代史・考古学である。
「教授に話を聞いてみようか」
「その前に事件現場の取材が先だろう」
「そうだね」
そして我々は、「マカブラ遺跡」の現地取材に赴くことになったのだ。
遺跡に行く前、北川に私は、「マカブラ遺跡」について、もう少し深く掘ってみないかと言った。
二人して、八方手を尽くした結果、当時「マカブラ」の建設に携わった作業員の所在をつきとめ、取材の依頼をし、応諾をうけて話を聞くことになった。
以下はその男、杉田一彦からの聞き取りメモである。
「佐々木社長はとにかくワンマンでした。おまけにことあるごとに現場に口出しするんですよ。やりにくいったらありゃしなかったです」
「『マカブラ』は突貫工事だったそうですね」
「嫌な名前でした。誰も気にいっちゃいませんでしたよ。社長だけが『マカブラ』、『マカブラ』と口を開けばあの不気味な名を繰り返していましたね。嬉しそうにね。『俺が考えたんだ。どうだ。いい名前だろう』って。誰もそんなこと思っちゃあいませんでしたが、愛想笑いを浮かべながら『すばらしい名前です』なんてご追従してました。あんなことになったのも名前のせいだって、あとで皆が言ってました。ええ、とにかく作業工程は徹底的に切り詰められていましたし、徹夜の突貫作業なんてめずらしくもありませんでした」
「作業中に事故があったとお聞きしましたが」
「どこからそんな話を聞きました? おかしいな。そんなことは……ええ、ええ、そうですね。もう時効ってやつですかね。しょうがねえなあ。かん口令って奴ですか? 決して口外するなと社長に釘さされていたんですよ。でもまあ、社長も服役して娑婆に出てきてからの行方も知れないし、しゃべってもいいか」
柳はマカブラタワーを中心とした外縁の三つの菱型建物の建造がほぼ出来上がりかけた頃、背後の斜面で土砂崩れが発生したことを口にした。
「おかしいんですよ。あそこは竹林でね、地下茎がびっしりと張り巡らされていて、おいそれと土砂崩れなんておきそうもない所だったんですがね。まあ、土砂崩れっていうより大きな陥没って感じでした」
そのあたりにはどこか立ち入りがたい雰囲気があって、工事関係者も近づかないようにしていたという。
「なにかね、陥没した場所から変な臭いがしていたんですよ。何かが腐ったような臭いっていうんですかね。とにかく異臭が吹き出してきたんです」
おまけにその場所に生えていた竹は異様に成長が早かったともいう。
「陥没して気がついたんですが竹の根が腐っているように見えました。ぐずぐずに腐った根腐れのような土地に、なぜか次々と筍が顔を出すんですよ。しかもそいつが翌日には人の背丈ほどに成長していて、いくら竹の成長が早いったって異常でした。竹って緑色でしょ、でも成長する前の竹って茶色い皮を身にまとって何とも言えない不気味な雰囲気なんですよ。それがもう、びっしりとあたり一面に生えていて、気持ち悪いったらありゃしない」
作業員はそこで本題に入った。
「陥没した地面の底に変なものが顔を出していたんです」
「変なもの? なんですそれは」
「何とも表現しようがないんだよなあ、おまけにあたりはものすごい悪臭が漂っていてね。あまり近づきたくはない感じでした」
「化石みたいなものですか、あるいは遺跡とか」
「ああ、化石ね、うーん、よく恐竜の化石とか見ますよね、ああいうんじゃないんだなあ。もっとジュクジュクした湿り気の残っている何か。あえていえばイソギンチャクの半生化石みたいな感じかなあ。ぶつぶつと無数の穴があいていてそれがいまにも動き出しそうな気配だったんです」
それでね、と言葉を切って彼は言った。
「それが顔を出している穴の奥で竹の根っことつながっているように見えたんです。そこら中に竹の根が張り巡らされていて、なんかそこだけ、植物というよりも何か精密なICチップみたいに見えたんですよ。とにかく自然の産物には見えませんでした」
「それを、どうしました」
「埋めちゃいましたよ。社長の命令で。ほら、マンション建設なんかしていると遺跡が出てきちゃって、工事を中断して学術調査が入ったりするじゃないですか。その間、開発はストップしちゃうから運転資金が焦げ付いたりするでしょ。社長はそれを嫌がったんじゃないかなあ」
「じゃあ、埋め戻して何もなかったことにしたんですか」
「ええ。おかげであの嫌な臭いは消えましたがね。でも、それだけじゃありません。社長が急に思いついたように『マカブラゾーン』をその上に建てることにしたんです」
作業中に事故が多発したのはそのとき以降だという。
「土壌が弱くて、陥没が何度も発生しました。作業員がそのたびに空いた穴の中に落ちてね、竹の穂先に体を貫かれた奴もいたなあ。助け出されても使いものにならないほど体中の生気を抜かれたみたいになっちゃって、せん妄状態っていうんですか。精神異常になった奴もいたし、病院で死んだ奴もいました。でも工事のせいではなくて、心身症のせいだってことにしてました」
マカブラゾーンには廃屋のようなエリアを作りましてね。ええ、もちろん社長の発案です。あの人、気味の悪い絵を集めたりしていて、そっちのほうのアイデアは豊富だったんですよ。どういう展示かって? 根太まで腐ったような百姓家を建てたんです。ぐにゃぐにゃに腐った畳を用意して、筍がそれを貫いているんですよ。幽霊屋敷みたいな趣向ですかね。けっこうリアルで気持ち悪いんだ。首だけのキューピー人形の目のところを筍が貫いていていたりしてね」
「人気はあったんですか。その施設」
「それがね、けっこう人が入ったそうです。百姓家の中に入って部屋を抜けると裏口から外に出られるようになっていてね。お客さんは途中のどこでひっかえしてきてもいいんだけど、裏庭の奥にはさらに鬱蒼とした竹林があって、竹林をかき分けていくと、それがあるんです。それを見つけて、見事裏口のゴールから出て来られたら賞品が進呈されてました」
「それ?」私の問いに彼は表情を硬くして答えた。
「竹ですよ、節の途中から赤黒い光を放つ嫌な竹」
「なんですか、それは」
「なんてーのかなあ。お伽話にあるでしょ。竹がらみの話」
「もしかして竹取物語ですか。かぐや姫が竹から生まれたっていう」
「そう、それ、それ」
髪が白くなって、額から頭頂部へ大きく後退した頭がはげしく振られた。
「でもね、あんな優しい話じゃないんだ。なにしろ腐りかけた竹の中から手が伸びてくるんですよ。ありゃあ、手なのかなあ、竹の枝が変な形で飛び出してきたように見えてね、それもまた腐りかけのようなんだから。その裂け目から真っ赤な眼が睨みつけてくるんですって」
「気持ち悪いアトラクションですね」
「入場制限がかけられていて、一組ずつしか入れなかったんだけど、あそこまで行った客は少ないって話を聞いたよ」
男の言葉遣いがだんだん横柄になってきた。話疲れたのかもしれない。
「誰から聞きました」
「マカブラゾーンの施設担当者」
「お知り合いだったんですね」
「ああ」
「今でもおつきあいは続いていますか」
「いいや、マカブラのことにはあまりふれたくないんでね。連絡はとっていないけど、昔の連絡先なら見つかるかもしれないな」
こうして私と北川はマカブラゾーンの施設担当者、柳力を取材することになった。
「マカブラゾーンのことを聞きたいって?」
私たちに会うことをしぶり続けた柳は最初から警戒の色を顕わにした。それでも話し込んでいるうちに固いガードもすこしずつ下がりだした。
「とにかく、あそこには近づきたくない変な雰囲気があったんだ。何かが待ち受けているような感じ?」
とりつきたがっている何かがそこにいるような感じだと柳は言った。そしてとんでもないことを言いだした。
「マカブラ火災の火元がホテル客室だって言われているけど、あれは偽装だよ」
「え?」
私は鞄に隠したヴォイスレコーダーがきちんと柳の言葉を拾ってくれていることを願った。取材は完全にオフレコ、メモを取ることも許されていなかったのだ。
「佐々木がね、そのように指示したんだ」
柳はかつての雇い主を呼び捨てにして、嫌悪感をあらわにした。
「金でね、なんでも片付ける奴だったから」
「あなたはそのことを」
「同じ穴のムジナだよ! 俺も金で良心を売り渡した卑劣漢って奴さ」
私の言葉を強い口調で遮って柳は吐き捨てた。
「どういう経緯でそのようなことになったのです」
「出火元はマカブラゾーンだ。間違いない」
私の問いには答えず、柳は納得しづらい自説を主張した。
「火種は何だったのですか」
「わからない。ゾーン全体が一度、大きく陥没して、そこから得体のしれない光が漏れたかと思うと、竹林や百姓家が燃えだしたんだって、現場にいた奴は言っていた」
そのとき、耳を塞ぎたくなるような叫び声のようなものが聞こえたという。同時に何者かに呼ばれているような気もしたと。
「そいつは、その妙な気配から逃げるようにして俺のところにやってきた。仲間が何人か陥没した穴に吸い込まれたってことも言っていた。話を聞いた俺は、その日、来園していた佐々木に危急を告げに行ったんだ」
マカブラゾーンの隣の、佐々木ご自慢の絵が飾られた美術館に奴はいた。まるで、俺を待っていたかのように一枚の絵の前で佇んでいたんだ。それまで眺めていた絵からゆっくりと顔をそらして俺を見た佐々木の顔は忘れることができねえ。何かにとり憑かれたような狂気を滲ませた顔で「どうした」って聞きやがった。
「社長、マカブラゾーンから出火がありまして、火が燃え広がりつつあります」と言った俺に奴は「そうか、とうとうきたか」と言いやがった。消化の指示なんかこれぽっちもありゃしねえ。それどころかあいつの太鼓持ちの社員の名をあげてそいつを呼んでこいって」
柳は客室に火をつけに行ったのがその男だと告げた。「なにしろ、その場で見ていたからね。佐々木が奴に指示するのを。断るかと思いきや、そいつは呆けたような顔でホテルに向かったのさ」
そして、彼はホテル火災の中で命を失っている。
「しかし、佐々木社長はあの火事で何の利益を享受できたんです。服役までして、破産してるじゃないですか」
「そんなことは俺にはわからねえ。俺があいつに雇われていたように、あいつも何か、逆らえない奴に雇われてたんじゃねえか」
柳は気味の悪いことを口にした。
「あいつは、オカルトに関心を持っていた。『マカブラゾーン』を作る時も、その道の専門家から助言をもらっていたのを俺は知っている」
施工に携わっていた関係でその専門家から渡された資料に目を通したこともあるという。
「そもそもは、『マカブラ』の裏で陥没が起きたときに現れた妙なものについて、その専門家に相談をしたのがきっかけだったと思うよ」
「専門家の名前を憶えていますか」
「えーとね、珍しい名前だったからな。ちょっと待て。たぶん思い出せると思う」
天井を見上げる柳の目が遠くを見ていた。
「花のような名前だと思ったんだ」
ぽんと手を打って柳は言った。
「そうだ、たしかシャクナゲとかシャクナギとかいったっけか」
K大学教授「釋那木燦」の研究対象は古代史や遺跡発掘だと聞いていたが、同時に平安時代の一時期について、きわめて特異な研究者としても知られていることを私は知った。そして学界からは異端の男とみられており、彼は研究成果を発表する場を与えられていなかった。
私と北川は、彼の研究室を訪れ、五年前、彼が顧問をしていたサークルメンバーの身にふりかかった凶事についての弔意を表した。
背中が曲がり、顔の右半分が垂れ下がり、左右の均衡が著しく崩れた面相の釋那木の右頬には瘤のようなものがあり、まばらに生えた白い髪と髭がそこからも生えており、見るものに生理的な嫌悪感を与えずにはいられなかった。
喉がつかえるのか、四六時中えづきを繰り返す釋那木は私たちの弔意には何の反応も示さなかった。
研究室にはグロテスクな抽象画が何枚もかけられていた。
「あれから三十年以上がたっているな」
聞き取りにくいしゃがれ声が釋那木の、右に垂れ下がった口から漏れた。
いや、サークルメンバーの遭難事件は五年前のことですが、と言いかけた私は、釋那木がマカブラ火災のことを言っているのだと気がついた。
「もう少し役に立つかと思っておったのに、まったく、失望させられたわ」
ゆがんだ口から唾を飛ばしながら教授は呪詛の声をあげた。
いったい誰に期待をかけていたのだ、と気になったがとりあえず、聞くべきことから聞き出すことにする。
「釋那木先生、廃墟巡りサークルの遭難事件に関しておうかがいしたいのです」
顔の筋肉が複雑なうねりを見せて教授は私をねめあげた。
「サークル活動に関して、先生は学生たちに指導されたりすることはあったのでしょうか」
「寺田をな」
「は?」
「寺田を使っておったのよ」
サークルリーダーの名前があがった。
「使う? いったい何を、どのように指導されていたのです」
「補充が必要になったのだ」
「補充? いったいなにを補充する必要が生じたんです? もしかして、寺田君に『マカブラ遺跡』に行くよう指示したのは教授なのですか」
たれさがった重たいまぶたの下の眼が私を睨むが、返事はなかった。
「おまえたちはマカブラ遺跡の現地調査に行ったな」
「ええ、ええ、はい、もうそれで充分だと思っています」
私と北川は顔を見合わせた。あのときの不快な印象が今でも消えずに残っている。だが、事細かく覚えているわけではなかった。なぜか記憶のどこに霞がかかったように茫漠とした部分があった。あれ以来、誰かに見られているような感覚がつきまとって離れないのだ。
「どこまで調べがついている?」
「マカブラゾーンと呼ばれるようになった施設は、本来の開発計画にはなかったそうですね。マカブラの落成前に崩落事故があったとか。そのとき、佐々木リゾート開発の佐々木社長が先生に接触をはかったお聞きしました。先生は佐々木社長とご面識があったのですね」
それを口にしたことを私は瞬間的に後悔した。教授の顔色が蒼白になったからだ。落ちくぼんだ眼窩の奥から私を睨みつける目には狂気の色が透けて見えた。
「そのことを誰かにしゃべったか」
私は小刻みに首を振ることしかできなかった。
「賢明な判断だ」
学生の論文を評価するような口調で教授は重々しく言った。
「誰からその話を聞いた?」
「教えるわけにはいきません」
彼は私の顔をじっと見つめた。そこには無表情という言葉では表現しつくせないほど、虚無に蝕まれたような底なしに暗い顔があった。
「そうか、だが私に隠しごとはできんぞ」
釋那木は引き出しからノートを取り出して広げた。紙面は黄ばんでおり、かなり時代がかった感じがした。それは一覧表のようだった。人名が書かれているのは遠目にもわかった。
釋那木は指でノートの表面をなぞり、二回、手の動きをとめた。
「ふむ、ふむ、そうか。杉田一彦と柳力か」
私は驚愕した。
横にいた北川が唾を呑み込む音が聞こえる。
「杉田一彦と柳力の現住所を教えてくれ」
マカブラ建設の作業員とマカブラゾーンの施設担当者の名を口にして、それが当然の権利であるかのように不気味な教授は彼らの現住所の開示を要求した。
私はぞっとした。
目の前の怪異な姿の教授に決して彼らの情報を伝えてはならないと確信した。
「お二人とはオフレコと個人情報の秘匿を約束しておりまして」
言ってしまってから失敗に気がついた。
情報源を認めてしまったようなものではないか。だが、そのとき釋那木の異様な雰囲気に私は冷静な判断力を失っていたのだ。
「いいから、教えたまえ」
釋那木の声がまるで催眠術師の言葉のように私の頭に霞を生じさせる。
釋那木は右手を差し出してほらほらというように催促のジェスチャーをした。
「釋那木先生、そんなに簡単に取材先の情報を開示するわけにはいかないんです」
あやうく彼らの個人情報を口にしかけた私は、理性をとりもどすべく、話柄を無理やりそらした。それにはかなりの精神力を必要とした。
「釋那木先生は平安時代の一時期について幾つかの論文を発表されていますね」
学界に発表の場を得られず、彼の研究成果は自費出版となっている。それを私は見つけたのだ。
自分の要求を聞き入れられず、不機嫌になっていた彼の表情が強張った。
「先生の履歴に目を通してきました」
「どこまで知っているのだ。私のことを」
「先生は貞観年間に強い関心を持たれておられますよね」
貞観年間とは西暦八五九年から八七七年までの平安時代初期の十八年間だ。
大災害が連続して発生した、日本の歴史上、特異な期間と言っていい。
年代順に列挙すると以下のとおりだ。
貞観三年 天空から光球が福岡の直方に落下する。
貞観四年 近畿地方で疫病が流行。
貞観五年 富山、新潟で地震発生。
貞観六年 富士山が大噴火、青木が原樹海ができあがる。
貞観九年 阿蘇山が噴火
貞観十年 岡山、京都で地震発生。
貞観十一年 東北地方で貞観地震、大津波が発生。
貞観十三年 鳥海山が噴火。
貞観十六年 開聞岳が噴火。
「そんなことまで調べていたのか」
釋那木教授の顔が強張った。そして底なしの深さを感じさせる黒い目を私に向けた。
不意に周囲の情景がぼやけた。
平衡感覚を失い、私は目の前の机のへりに手をかけようとしたが、その手は空をきった。
教授室の陰気な薄暗さがいきなり、白い輝きに充ちた空間に変わった。
いつの間にか、私たちはファミリーレストランに移動していた。
まるで映像の早送りをしたかのような場面変換だった。
え? いつ? 移動した? そんな記憶はもちろんない。
私は北川の姿を隣に探した。
だが、北川はいなかった。ここにいるのは私と釋那木の二人だけだった。
頼んだ覚えのないコーヒーが白い湯気を立ち昇らせている。
「『竹取物語』を知っているか」
不意に変わった話題に、私は精神的につんのめって情けない声を出した。
「え、ええ、あ、はい」
「あれはいつ頃創作されたものだと思っている」
「いや、なんとなく平安時代だとは思っていますが」
「そうだ。あれは貞観年間に作られたものだ。ある事実に基づいてな。ただし、ずいぶん形を変えているがね」
学界から異端児と呼ばれるゆえんか、釋那木は根拠を明らかにせず、見てきたような話をはじめた。
「どういうことでしょうか」
「かぐや姫はな異星からの漂流者だったのだ」
何を言いだすんだ、この人は。私は目を丸くした。
「貞観三年に福岡の直方に隕石が落ちた。これは目撃記録のある隕石としては世界最古のものだと言われている」
だが、と釋那木は私を睨みながら仮説を口にした。いや、私にとっては仮説にすぎない(それもかなり眉唾ものの)が、彼にとっては確固とした史実なのだろう。
「福岡に落ちたのは飛来した物体の破片にすぎなかった」
「破片?」
「そうだ。実際に飛来してきたものはもっと大きかったし、隕石などではなかった」
断定的に教授は言った。
「それは枳殻狭に飛来した。いや、正確には不時着したのだ。それ以外にも日本海側や富士、阿蘇、東北、鹿児島にも堕ちた」
皆、空に帰ろうとしたようだが、どうやら失敗し、命を落としたようだと釋那木は続けた。エネルギーを補充しようとして地殻に手を出したり、ウイルスを培養したりしたようだ。だが、結局、鬼哭狭に身を潜めたものだけが何とか生きながらえることができた。
教授の話はあまりにも荒唐無稽だった。
「当時、あの山は枳殻狭と呼ばれていた。カラタチの原生林に覆われていたのだ」
カラタチの別名が枳殻であることは知っていた。
見てきたようにいう釋那木の言葉に私は引き込まれた。
現在の鬼哭狭には伝承が残されている。それは竹取物語の原型といっていいものだ。ただし、かなりグロテスクな話になるがね」
「どうして、教授はそれをお知りになったんですか」
眉に唾をして私は訊ねた。
「記憶を共有したのだ」
教授は不気味な笑いを漏らした。邪悪なものの存在を看取して私はそれ以上の追求を躊躇ったが、なんとか口にしたのは「いつ?」という質問だった。
教授の口角がさらに吊り上がった。私は思わず目をそらしてしまった。
実際、いつの間にか、目の前にいるK大学の教授が人ならざるもののように私には感じられてきたのだ。それは、とっくの昔にこの世からいなくなったものが、かりそめの姿として釋那木という男の体を身にまとっているかのような、不快で戦慄すべき想像を私にかきたてさせた。
「行こうか」
釋那木は私の返事を待たずに立ち上がった。誘われるように私は席を立った。そして明るい、健康的な、居心地のいいファミリーレストランを後にした。
私と釋那木はマカブラゾーン跡地にいた。
さっきと同じだ。
いつのまに、どのような手段でここまで移動したのか。私には記憶がない。
帰りたい。このまま別れの言葉を口にして家に帰りたい。だが、心の底に沸き起こった恐怖心はそんなことでは今、進行しているこの世のものとも思えない異界への誘いから逃れることなどできはしないということを私に告げている。
陽が沈み、夏の終わりだというのに、寒気が遺跡を包んでいた。
「地球上の時間の尺度でははかりしれない長い時を生きるものがいるのだよ」
釋那木が語りだした。
「それがやってきたのは貞観三年、辛巳弥生 の頃だった。ちょうど東大寺の大仏の修造が終わった頃だ。我はそれが鎮護国家の要なれど、寺内の自治力の低下が著しく、衆生を救う力が失われつつあるので無駄なことだと思っていた」
釋那木の顔のゆがみが大きくなった。
「俺は、唐から持ち込まれた仏教などよりも、古来からの神道こそが、人の世に安寧をもたらすものでないかと考えていたのさ」
教授の人格に別の人格が宿ったような口ぶりだった。一人称もめまぐるしく変わる。
「翌、卯月、枳殻の里に大いなる日輪が降りてきた。里のカラタチの樹、皆、一様に倒れ伏してしまった。我は父、少納言直道の命を受け枳殻の里に赴いたのだ。我が名は藤原高階。我は里の小山に穴が開き、穴の底に異形のものを見た。そのとき、すでに陽が翳り始めていたゆえ、翌日、穴の底に降りることにしたのだ」
何を言っているのだろうか。私は釋那木の話に合いの手をうつことさえできなかった。
「そして、私は見たのだ。あれを、そしてそれは我の体にとりつき、俺を支配し、僕として使うことにした」
「教授?」
釋那木に何かが憑依しているのか。
釋那木のいびつな顔が私に向けられた。目が大きく見開かれ、口をあけて私を見据える。背中の毛が総毛だった。
「それは生き物でもあり、地球でいう飛翔体でもあった。この地球に落下し、再び宇宙空間に戻る日が来るまで体力を温存することにしたのだ」
「それが鬼哭狭に潜んでいるというのですか」
「生命体はあちこちに神経鞘を伸ばし、近寄ってきた生物を取り込み、その知識や生体を自分のものにした。だが、落下地点がよくなかった。飛翔能力を失ったそれは微々たる栄養源で生きながらえるのが精いっぱいの日々を過ごした。それは地中で時を待った。そして長い年月が流れた」
釋那木は陥没しているマカブラゾーンの廃墟に手を伸ばした。
穴の底が暗赤色に輝きだした。
「池田に仲間を連れて遺跡でキャンプをさせたのは、我の養分とするためだ。佐々木が鬼哭狭に商業施設を建設しはじめたのは千載一遇のチャンスだった。わしが埋もれている場所を奴が掘り起こしてくれることを期待した。だが、建設は私が身を沈める土中の一歩手前で終わりそうだった」
だから、力を振り絞って土中から土地を盛り上げ、そして崩落させたのだ、と釋那木は言う。
それにより、現場作業員が自分の姿の一部を目にし、佐々木が釋那木に相談に来るきっかけとなったという。それ以前に、釋那木はオカルトに興味を持つ佐々木を篭絡すべく、数々の話題を提供し、自分の存在をアピールしていたという。
「マカブラゾーンを利用して栄養補給をしようとした我は佐々木を取り込むことにした。佐々木はわし、藤原高階と融合し、釋那木の意識下で生きることになった。佐々木となった俺はマカブラを燃やした。そのときまでにゾーンに来る客の何割かを我の体とつながる竹の穂先で貫き、養分として取り込み、力を蓄えていたのだ。だがそれでも足りなかった。だから燃やして、多くの命から養分を取り込んだ」
釋那木のゆがんだ顔がぐずりとさらに崩壊した。
まるで顔の表面が溶けたようになり、どろりと垂れ下がった皮膚の下から新しい顔が浮かび上がった。
「あ、あなたは」
その顔を資料で見知っていた私はあとじさった。
釋那木だった男が、佐々木良治になっていた。
「我は佐々木であり、釋那木でもある」
そして、寺田康之、久間田進、高橋洋一、田中豊、吉川陽愛、江口瞳でもある、と次々と新しい顔を浮かび上がらせた。
「ひっ!」
最後に浮かび上がった顔は北川のものだった。
「いつの間に?」
時間と空間の観念が我とおまえたちでは違うのだ。我は、この忌まわしい星から立ち去るまで生き続ける。おまえを使って杉田と柳をおびき寄せ、ほら、吸収したではないか。
釋那木の顔が現れ、崩落した地面をのぞき込むと、竹の地下茎にからめとられた杉田と柳の死体が見えた。
いつのまにか私の体が消えていた。
私の意識が釋那木の、藤原高階の、北川の、佐々木良治の、寺田の、そしてマカブラの地下に潜んでいた生命体によってとり殺され、養分を吸い取られた見ず知らずの多くの人々の意識と融合した。
そして大事なことを思い出したのだ。
私と北川はマカブラ遺跡を視察に行ったとき、すでにこの化け物によって殺され、取り込まれていたことを。
(了)