「お前を傷付けようとするやつは全員殺す」
 圧倒的な劣勢。周囲をすべてあやかしに囲まれてなお、彼は強気だ。
「お前は俺だけ見ていればいい。そうすれば怖くないだろう?」
 空凪暁(そらなぎ あかつき)の傲慢な微笑に、一颯優羽(いぶき ゆう)は言葉を失くした。
 なんという自信過剰だろう。
 だが、彼はそれに見合うだけの軍功を挙げている。剣の技量は天陽国(てんようこく)最強と誉れ高い。
 彼は優しい垂れ目はそのままに全身から闘気を発して優羽を背にかばい、サーベルをすらりと抜いて構える。
 軍服の背が頼もしくて、優羽は両手を祈りの形にぎゅっと握る。
「ご武運を」
「任せろ」
 言って、彼は眼前のあやかしの群れへ突っ込んでいった。

***

 朝は誰にでも平等にやってくる。
 いや、公平に、なのか。
 どちらでもいいや、と思いながら優羽はのそのそと寝床から這い出した。
 うすっぺらい布団で眠っても疲れなどまったくとれない。
 変な夢を見たせいだろうか。
 白い光の中、男性が自分に「待っていて。必ず迎えに行くよ」と優しく語りかけてくれていた。
 だけどしょせんは夢だ。自分の心の奥底にある願望が見せたのだろう。眠る間は幸せでも、目が覚めてしまえばひたすらに儚い。
 ずっと夜なら働かずに済むのだろうか。
 優羽はうらめしく朝日を眺める。
 だけど、仮に太陽の女神(にょしん)にずっと地の下で眠っていてくださいとお願いしたとする。それがかなったとして、そしたら夜でも働かされるだけだろう。だったら明るい時間がある方がマシだ。
 ここ天陽国は太陽の女神を最高神としている国で、皇王が治めている。
 皇王の下には貴族階級があり、その下に平民と続く。
 住まうのは人だけではない。和平を結んだあやかしもまた、天陽国の住人となっている。
 あやかしは扱いとしては外国人とかわらない。
 しばらく前までは争っていたためか毛嫌いする人もいないではないが、結局はたいていの場合、人と同じく善人と悪人もいる。
 法を犯したあやかしを捕まえるのは警察ではなく軍の中でも異能を持つ者の仕事だった。
 あやかしと戦うためには通常の人間では歯が立たず、異能を持った人間が対処することになるからだ。
 異能を持つものたちは貴族に封じられ、概して裕福であるが、国への奉仕が暗黙の了解となっていた。男性は国家公務員や軍属となって国に仕え、女性は同じく異能を持つ者との婚姻が推奨されている。
「にゃー」
 布団から白猫が出て来て優羽に頭をこすりつける。
「こがねも起きちゃったの? まだ寝てていいよ」
 だがこがねは布団にもどらずに優羽に体をこすりつける。
 数年前にふらっと現れたオスの白い子猫はすぐに優羽になついた。金色の目にちなんで『こがね』と名付け、ひそかに飼っている。すでに大人になったこがねは人間の言葉がわかるのではと思うほど聞き分けがいい。
 その頭を撫でてから、優羽は土間に降りた。
 (かめ)の水を柄杓(ひしゃく)ですくって顔を洗い、水面に映る自分をそっと確認する。生まれたときには能力があったせいか、十八歳になった今でも瞳は緑のままだ。眉間を中心として顔全体に大きく刻まれた痣のような赤いバツの『印』もまたそのままだった。安堵と少しの落胆を抱えて手ぬぐいで丁寧に顔を拭うと、長い前髪がだらりと目の下まで垂れた。少しでも傷を隠したくて伸ばしたのだが、顔の半分は隠れても傷は大きくて隠しきれていない。
 彼女の住まいは本宅から離れた粗末な小屋だった。
 伯爵の一颯家、その長女である彼女は、本来ならこんな小屋で寝起きして下働きと同様に働くことなどないはずだった。ここで寝起きしているのは自分だけで、家族は豪勢な本宅で暮らしている。
 女中ですら本宅の隅に部屋をもらえているというのに、この待遇には理由があった。受け入れがたい理由だが、仕方がないとあきらめている。
 寝巻から継ぎはぎだらけの着物に着替えて本邸に向かうと、こがねも一緒についてきた。
 本邸の勝手口に周って台所に入ると、すでにキヨが働いていた。
 彼女は老齢だが健勝で、女中の中では最高齢だ。こがねのこともキヨだけは知っている。
「おはよう、キヨさん」
 土間のかまどで煮炊きをしていた彼女は、優羽に気が付いて振り返った。
「おはようございます、お嬢様。おむすびを作っておきましたから召し上がってくださいませ。こがねちゃんは……自分でとっているようだからいいわね」
 こがねはなぜか人から出されたものを食べない。どこかで自分で狩っているのだろう。
「ありがとう」
 優羽はお礼を言っておむすびを受け取った。
 自分をお嬢様と呼んで丁寧に接してくれるのはキヨだけだ。ほかの女中たちは怖がって優羽に近づかない。
 優羽は台所の上がり框に腰掛けておむすびをいただいた。
「今日はなにやら特別なお客様がいらっしゃるとか。本邸には近づかない方がよろしいかと思います」
 キヨの言葉に優羽の心が重くなる。
 そんな日に本邸に近づけばあとから母と妹から激しく罵られるに決まっている。だからキヨは警告してくれたのだ。
「教えてくれてありがとう、洗濯に行ってくるから、こがねは家に戻ってね」
「にゃー」
 こがねは返事をするように鳴くと、ふらりとどこかへ歩き去った。
 おむすびの載っていた皿を洗って籠に置き、外へ出る。
 優羽は家族の目に触れないよう、常に外の仕事を与えられていた。
 まずは洗濯。
 家族の洗濯を自分ひとりが担っている。
 今は春、冬ほどの寒さや水の冷たさがないのが救いだった。
 冬から春は手にあかぎれがたくさんできる。水を触るだけで痛みが走り、せっかく洗った物を血で汚してしまう危険があるから注意が必要だった。
 洗い場のポンプ式の井戸をぎこぎこと動かして桶に水を出し、石鹸と洗濯板を使い、綿の着物やシーツなどをごしごしと洗う。
 洗い終えるとぎゅっとしぼって干場へと持って行く。
 それだけで重労働であり、まだ寒さの残る春の朝だというのに汗をかいた。反面、手は凍りそうなほどにかじかんでいる。
 痛む腰を伸ばしてから(のり)をつけて板に張り付け、その後、竹竿に袖を通して皺をしっかり伸ばして干す。
 父、母、妹。三人分を干して、ほっと息をつく。
 日はすでに高く、温かくなりそうな晴天だった。洗濯物はよく乾くだろう。
「まだ洗濯なんてしてたの、愚図」
 声に振り返ると、妹の柚李(ゆずり)がいた。
 赤地に牡丹の花が咲く振袖を着ていた。生成り色の帯には金糸がたっぷりと使われて華やかだ。香袋をつけているのか、いい香りが漂っている。
 柚李は緑を帯びた茶色の目に侮蔑を浮かべ、蔑みを優羽に投げかける。
 優羽はどう答えていいかわからず、黙ってうつむいた。下手なことを言うと機嫌を損ねてしまう。だが、黙っていても結局は機嫌を損ねてしまう。早くなにか言わないと、と思うのに言葉が出てこない。
「無視するなんて、いい根性してるじゃないの」
 つかつかと近寄り、柚李は優羽の肩をどんと突き飛ばす。
 よろめいた優羽は物干しにぶつかりそうになり、なんとか耐えた。
 せっかく洗濯を終えたのだ、ぶつかって倒して汚したりなんかしたくない。
「さすが、私を殺そうとしただけのことはあるわね」
 柚李は優羽をにらみつける。
「そんなことしてません」
 優羽は即座に否定するが、柚李は鼻で笑う。
「そんな嘘が通るわけないじゃない」
「嘘じゃありません……」
 力なく優羽は言う。
 実際のできごとを柚李だって知っているのに、彼女は事実を捻じ曲げて被害者になっている。
 柚李はいつもそうだった。勝手に対抗し、無茶をする。失敗すると優羽のせいにされるから、優羽はいつも両親から怒られていた。
 異能が弱い柚李は、それゆえに不憫がられてかわいがられていた。見た目もよく甘え上手だった彼女は両親に溺愛された。
 対する優羽は強い風の異能を持っていたが、それゆえに放置された。もう充分恵まれている、これ以上は必要ないだろうと言わんばかりに。
 そもそも柚李が生まれたとき「これからはお姉ちゃんなんだから、しっかりしてね」と母から言われた。柚李の能力が弱いとわかったとき、それは加速した。
 だからもう甘えちゃいけないのだと思い、我慢をし続けた。言いつけをまもり、良い子であろうとした。
 その結果、かわいげのない子になってしまったらしい。
 気が付いたときには甘え方がわからなくなっていて、両親との距離は開く一方だった。
 両親と柚李が仲良く話をしている輪の中にどうやって入ればいいのかもわからなくて、ずっと柚李をうらやましく見ているだけだった。
 一方の柚李は異能の力の弱さでコンプレックスと感じているらしい。母は、「女の子は弱いくらいがいいのよ」と慰めているのだが、柚李は納得いっていないようで、力を持つ優羽をねたみ、両親の見えないところで優羽をいたぶる。
 衣食住は恵まれているが、心はまったく満たされない。同情してくれたキヨの優しさだけが優羽の心の救いだった。
 ある日、大事なお客様があるということで優羽と柚李は庭で遊んでいるようにと外に出された。どこかの偉い人の親子が来ているという。
 柚李は活発で、部屋で本を読んでいたい優羽は困った。
 だけどふたりで遊んでいなさいという親の言いつけがあったし、柚李をほうっておくとなにをするかわからないので一緒に手鞠で遊ぶ。
 柚李より上手に毬をつくと不機嫌になるので、わざと失敗したりして柚李の機嫌をとった。
 だが、平穏な時間はそう長くは続かなかった。
「手毬は飽きた」
 そう言って見やった松の木を見て柚李は叫ぶ。
「あの木に登る!」
「危ないよ。怒られちゃうよ」
「私なら平気。お姉ちゃんと違うんだから!」
 うねるように伸びる松はのぼりやすそうに見えたのだろう。優羽が止めるのも聞かず、むしろ優羽が止めるからなおさら登ろうと思ったのかもしれない。
 柚李はどんどん木に登ってしまう。
 誰かを呼びに行こうか、だけど目を離した隙に落ちたらどうしよう。
 はらはらと見守っていたときだった。
 バランスを崩して柚李は木から落ちた。
「きゃああ!」
 悲鳴を上げて落ちる柚李に、優羽はとっさに手を伸ばした。
 手から発せられた風は柚李を包み、ふわりと着地させる。
 ほっとしたのもつかの間、柚李はぎゃあああ! と泣き始めた。
「落ち着いて、大丈夫だから」
 優羽は慌てて慰めるものの、柚李は泣きやまない。
 泣き声に気付いた母が現れ、履物も履かずに柚李に駆け寄る。
「どうしたの!?」
「お姉ちゃんが命令するから木に登ったら、風の力で私を木から落としたの!」
「まあ!」
 母は驚き、次いで優羽を睨みつける。
「違います! そんなことしてません!」
 慌てて否定する。が、母は優羽をにらみつける。
「そんな嘘をついて!」
「嘘じゃないです」
「黙りなさい! 実の妹を殺そうとするなんて!」
 母に頬をはたかれて、優羽はショックで涙を零した。
 いつも親の言うことを聞いて良い子にしてきたつもりだった。柚李のようにわがままで困らせたりしないし、遊んだあとは玩具をきちんと片付けた。勉強だって頑張った。
 なのに、どうしてこういうときに信じてもらえないのだろう。どうして叩かれてしまうのだろう。
 悲しみとも怒りともつかないものが渦巻いて、胸の中はただ荒れた。
「違うのに……嘘じゃないのに」
 体の奥からなにかの力が湧いてくる。抑えようもなく優羽の外に溢れ、暴風となった。
「やめなさい! 今すぐ風を止めて!」
 叫び声に、優羽は我に返った。
 だが、風は止まらない。さながら小型の台風だ。
 優羽は焦った。
 いつも、どうやってたっけ。
 イメージするだけでコントロールできていたそれは、なぜかその日に限って制御できない。
「どうして、止まって、やめて」
 両手を突き出してみるが、風はやまない。
 むしろ勢力を増して嵐の範囲を広げていく。
「お願い、止まって!」
 優羽は必死に手を振り回すが、空を掴むばかりだ。
「これはどうしたことだ!」
 いつの間にか父が来ていて、隣には見知らぬ父子がいた。
「お父様、私、お姉さまに殺されそうになったの!」
 柚李が叫んで父にすがりつく。
「違います!」
 慌てて否定するが、父は険しい顔で自分を見て来る。
「とにかく風を収めろ」
「できないんです、助けて、お父様!」
 優羽は必死に助けを求めるが、父は一歩も近付こうとしない。
 それどころか、優羽が一歩を進めると母と柚李をかばいつつ父も後退する。
 そんな……。
 優羽はショックを受けて座り込んだ。
 父が自分から母と妹をかばっている。まるで自分が敵であるかのように。
「力が暴走したのか。お前ならどうにかできるだろう」
 見知らぬ父子の父が言い、男の子が頷く。
 男の子は風など吹いていないかのように歩いてくる。優羽は思わずあとずさった。
「落ち着いて、深呼吸して」
 少年に言われ、優羽は深呼吸をする。
「手を出して」
 言われておずおずと両手を差し出すと、彼は両手でがっしりと彼女の手を取った。
 すうっと力が吸われる感覚があり、吹き荒れる風が徐々に収まっていく。
 やがて風は完全に収束し、優羽はほっと息をついた。
 と同時にぐらりと視界が揺れて、立っていられなくなる。
「やり過ぎた、やばい」
 彼の言葉が聞こえたのを最後に、優羽の意識は途切れた。
 気が付くと別室に隔離されていた。
 風の力は自身から削り取られたようになくなっていた。今までのように念じても手を振っても風がまったく出ない。
 それでも異能の封印をされた。怖かったが、父の言いつけには逆らえない。封印の儀式では焼けるような痛みとともに顔に大きな赤いバツを顔に刻まれた。
 まるで自分の存在にバツを付けられたかのようで、つらかった。
 己が罪を知れとでもいうように柚李になんども鏡を見せ付けられ、優羽はそのたびに心に傷を負った。
 対外的には事故となっているのだが、どこからともなく出た『妹殺し』の話題はまたたく間に広がった。
 妹を害そうとする姉など家の恥と言われ、家族からは女中以下の扱いをされた。
 強い異能を持っていたことなどなかったかのように、娘であったことを忘れられたかのように虐げられた。
 美しく育った妹は十六歳、悲劇を乗り越えた娘としてもてはやされ、数々の縁談が舞い込んでいるという。
 だが自分にはひとつとして来ない。当然だ、妹殺しの醜聞が貴族間に出回っているのだから。
「今日は空凪家のご長男がいらっしゃるのよ。無能と言われながらも数々の軍功を挙げたとか。あんたとは違うわねえ」
 柚李の言葉で、優羽の意識は思い出から戻った。
 名門である空凪家の長男の噂は優羽も聞いたことがあった。
 強い異能を持つ家系だが、彼は力をまったく持たずに生まれた。
 それでも軍に入隊し、その剣技で敵対する数々のあやかしを打ち負かしたという。
「今日は私に結婚を申し込みにいらっしゃるの。空凪家の御子息なのはいいけど、無能だし、どうしようかしらねえ」
 見下しの言葉を吐く柚李の笑顔は陰湿さがこもっていて、優羽は顔をしかめた。
 彼を持ち上げたのは、自分がそれほどの家から婚約の申し出があったのだと優羽に自慢するためにすぎない。実際には能力がないことを見下している。
「見目麗しい美丈夫という噂だけど、あんたには縁がないわねえ」
 優羽は黙ってうなだれた。
 縁談はおろか、片想いの恋すらしたことがない。あの事件以降は家から出してもらえず、行動範囲は家の敷地内に限られていたから、年頃の男性と出会うことなど一切ない。
 一生この家で奴隷のようにすごすのだとあきらめていた。
「封印の醜い傷、みっともなく伸ばした前髪。着物だってそんなすりきれたぼろ布、誰もあんたなんか欲しくないわ」
 優羽はぐっと歯を食いしばって暴言に耐える。
「見苦しいからあんたは表に出てこないでよね」
 柚李は右手を振った。それだけで風が舞って砂を巻き上げ、干した洗濯物に降り注ぐ。
「そんな!」
 優羽の悲鳴のような声に、柚李のくすくす笑いが重なった。
「お仕事を作って上げたのよ。親切な私に感謝してよね」
 優羽はがくりと膝をつく。
 するり、と白い影が寄って来て優羽を見上げた。
 こがねだ。
 心配そうな瞳に、優羽の心がほっとほどける。
「大丈夫よ」
 思わず声をかけていた。
「なによ、この猫」
 嫌悪のこもった声に、優羽はハッとする。内緒で飼っていたなんて知られたら、こがねがどんな目に遭うかわからない。
 こがねは柚李を見ると、うー、と唸り声を上げた。目がらんらんと輝き、全身から敵意を発している。
「迷い込んだのでしょう、すぐに出て行くと思います」
「汚い野良猫!」
 柚李が手を向けるので、優羽はとっさにこがねを抱き込んでうずくまる。
 風の塊がばあっと優羽の髪を巻きあげる。力の弱い柚李では、風で攻撃しようにもこれが限界なのだ。
「なによ、もう!」
 柚李が苛立った声をあげる。昔から、彼女は思ったとおりの力の制御ができないと癇癪を起す。
「あんたなんか!」
 柚李が手を振り上げたときだった。
「柚李、なにをしているの。お客様がお見えよ」
 母の声がして、柚李は振り返る。
 優羽もまた顔を上げた。
 母屋の廊下には着飾った母と見たことのない若い男性が立っている。
 優羽はすくんでしまった。
 遠目に見ても佇まいが尋常ではなく、ただならぬ『圧』に背筋が震える。
「はい、ただいま参ります」
 柚李はにこやかに笑顔を見せ、楚々と歩いて行く。
 なにも感じないのだろうか、柚李も母も。
 優羽は彼女らが立ち去るまでうずくまり、足音すら聞こえなくなってからようやく体を起こした。
「にゃあ」
 心配そうな鳴き声に、優羽は笑みをこぼす。
「さっきは怒ってくれたの? ありがとう。でも出てきちゃだめよ」
「にゃあ……」
 こがねはただ鳴いて、体を優羽にこすりつけた。

 優羽が井戸の前で洗濯物を洗い直していたときだった。
「お嬢様!」
 キヨが慌てたように優羽を呼びに来て、彼女は首をかしげた。
「すぐに来てください!」
「だけど洗濯物が」
 早く洗い直さないと、乾かなくなってしまうかもしれない。そしたらまた柚李や母から罵倒を受けることになる。
「そんなことよりお早く!」
 キヨは優羽の手を取り、急ぎ足で歩いて行く。
「待って、そんなに急いだら危ないわ」
 老齢のキヨを気遣い、優羽は言う。
「旦那様がお呼びなんですよ、急いでくださいまし」
「お父様が?」
 あの事件以来、父が自分を呼ぶことなどなかった。いったいなんの用だろう。
「洗濯は私がやっておきますので、ご安心くださいませ」
 部屋の前までいくと、キヨは勇気づけるように優羽の手をぎゅっと握ってから歩き去った。
 これでは洗濯をキヨにさせてしまうことになる。早く父の用事をすませてキヨを追いかけよう。
 優羽は縁側から障子に閉ざされた座敷の前で膝をつき、どきどきする胸を落ち着かせるために深呼吸をする。
「ただいま参りました、優羽です」
「入れ」
 父の声がしたので、優羽は障子を開ける。
 中の座敷には大きな座卓があり、晴れ着を着た母と柚李が正座をしていた。
 ふたりにぎりっとにらまれ、優羽は怯んだ。
 中央には羽織袴の父がおり、上座には見知らぬ洋装の青年が座っていた。二十をいくつか過ぎたころ合いだろうか。さきほどのような圧は感じられなかった。
 青い硬質な瞳にひきつけられ、優羽は思わず彼を見つめた。空よりも青く海ほど濃密ではない透き通った青だ。
 斜めに分けられた黒髪は華やか。空とも海とも違う青い目はやや垂れていて、右目の下の涙ぼくろが妙になまめかしい。すっきりした顔立ちだが精悍さも感じられるのは軍人だからだろうか。
 にこっと笑みを向けられ、優羽はパッと顔を伏せた。彼は顔のこの傷をどう思うだろう。醜いだとか見苦しいとか、きっとそういう感想にしかならないだろう。
「なにをしている」
 父に厳しい声をかけられ、優羽は慌てて部屋に入った。柚李たちの隣に座るのははばかられ、その後ろに正座をして両手をついて彼に頭を下げた。
「こちらは空凪家の御長男の(あかつき)様だ。お前を娶りたいとおっしゃっている」
 優羽は思わず父を見た。父は苦虫をかみつぶしたような顔をしている。
 聞き違いだろうか。
 暁の顔を見ると、彼はまたにこっと笑った。
「あの……柚李との縁談なのでは……」
 うつむきがちにおそるおそる、父にたずねる。
「違いますよ。私は最初からあなたとの縁を望んでおります」
 答えたのは暁だった。
「そんなの、ありえない。私を殺そうとした人となんて!」
 柚李は泣きそうな声で母にすがりつく。
「そうよね、普通は柚李との縁談だと思うわよね」
 母が柚李に加勢し、振り返って優羽をにらむ。
 優羽は悲しく首をたれた。
 実の母から向けられる憎悪は槍のように優羽の胸を突く。
「私はご息女との縁を取り持ってほしいとお願いしましたが、妹御であるとは一言も申しておりません」
「だけど、普通は……」
 抗弁する柚李は、暁にぎろりとにらまれて怯えたように黙った。
 侮蔑を隠しもせず彼は言う。
「知っていますよ、あなたがたが優羽殿を虐待していることは」
「虐待なんてしてません!」
 母が言うと、柚李が言葉を重ねる。
「そうよ、暴力なんて一度も……私なんて、殺されかけても反撃もしなかったわ!」
「反撃するだけの能力がなかっただけでしょう」
 暁は冷徹にせせら笑い、柚李は顔をひきつらせた。
「怒りに任せて使う異能はそよ風程度。その手で殴ったほうがまだ威力があるようだ」
「そんなことしてないわ!」
「よくもまあ、いけしゃあしゃあと」
 柚李の反論に、暁はあきれたように息をついた。
「そもそも暴力だけが虐待じゃない。家族であるにも関わらず粗末な小屋に追いやって使用人以下の扱い、それがどれだけ彼女を傷付けたことか。血をわけた姉妹でありながらこんな着物でこき使われ、贅沢する妹を見せつけられ、どれだけ彼女が苦しんだことか」
 彼は立ち上がり、大股に歩いてきて優羽の前に跪く。
「もっと早く迎えに来たかった。遅くなったこと、申しわけない」
「え……?」
 優羽は驚いて言葉を失くす。もっと早くに来たかったなんて。会ったこともない人なのに。
 そうして今朝の夢を思い出す。
 迎えに行くよ、と夢の中の彼は言ってくれた。まさか正夢だったのか。
 だが、なんとなく夢と彼の印象が合わない気がする。
「彼女は今日から我が家に来てもらいます。いいですね」
 有無を言わせぬ口調に、父はまた渋面を作った。
「躾のなっていない娘を嫁がせるなど……」
「使用人が減るのが困りますか?」
 底意地の悪い暁の笑顔に、父は軽く首を振った。
「どうぞお連れ下さい」
「礼を言います。さあ行きましょう」
 彼は立ち上がり、優羽に手を差し伸べる。
 優羽はその手をとっていいのかわからず、困惑して彼を見る。
「抱き上げてお連れした方がよろしいか?」
「だ、大丈夫です!」
 優羽は慌てて彼の手をとり、立ち上がった。
「参りましょう、我が花嫁」
 柚李に向けたものとは打って変わって優しい声音に、優羽はただ戸惑った。

 とるものもとりあえず、優羽は暁に連れられて自動車に乗せられた。そもそも荷物などろくにないのだが。
 自動車なんて乗るのは初めてだ。思ったよりやわらかい革張りの座席にどきどきしながら、彼の隣に座る。
 勢いに流されて来てしまったが、これでよかったのだろうか。だが、そもそも縁談なんて父の意見が絶対で、父が応と言った時点で選択権などない。
 キヨに挨拶できなかった心残りを胸に、優羽はうつむく。こがねのことも気にかかったが、暁にそれらを告げることができなかった。あの仔はきっとキヨがめんどうを見てくれるだろう。
 自動車はエンジン音を響かせながら出発した。
「荷物はそれだけか」
 粗末な風呂敷包みを見て聞かれ、優羽は頷く。
 暁は顔をしかめた。
「着るものもろくにないのだろうな」
 優羽は返事ができなかったが、それこそが雄弁に事態を語っていた。
一颯(いぶき)家の長女とは思えない扱いだな。おい、舶来屋へ寄ってくれ」
 暁が運転手に声をかけると、
「かしこまりました」
 返事はすぐに返って来た。
 舶来屋ってなんだろうと思った優羽は、立派な店に到着して驚いた。
 モルタルで出来た建物は瀟洒(しょうしゃ)で、『名洋館』と店名の書かれた大きな額が入口の上部を飾っている。
 彼と一緒に中に入ると磨かれた大理石の床があり、この綺麗さを維持するのは大変そう、と思ってしまった。
「空凪様、いらっしゃいませ」
 洋装の男性が慇懃に頭を下げ、暁は鷹揚に頷いて応えた。
 優羽はきょろきょろと店内を見回す。
 壁に沿って大きな棚があり、舶来品が所狭しと並んでいる。流麗な金の装飾を施されたゴブレット、花のレリーフのような飾りのついた皿などの洋食器。黒いボディをきらめかせる万年筆に銀の持ち手のついたガラスペン、ブルーガラスのインクボトルなどなど。
 舶来の品が多いから舶来屋と呼ばれているのか、と優羽は納得した。
 中央にはテーブルがあり、そこにも舶来の品が並んでいた。
 特に目を引いたのは、卓上の洋灯だった。スズランに似た湾曲を見せる茎の先に、これまたスズランのような丸みを帯びた花の傘をもった照明がある。
「西洋ではアールヌーボーが流行っているそうだ。これもその品らしい」
 優羽の視線を追った暁が説明する。
「あーるぬーぼー?」
「天陽国の文化があちらに影響して優美な絵や家具、洋灯などが作られている。それをこちらが輸入しているというわけだ」
 優羽は目を丸くした。
 海を渡ってきた品が目の前にあるというのが信じられなかった。
「気に入ったなら買うぞ」
 言われて、優羽は慌てて首を振った。
 その様子にふっと笑みをこぼし、暁は店員に声をかける。
「彼女の着物を買いに来た」
「たくさんご用意してございます」
 店員は手を差し伸ばして奥を示した。
 暁は頷いて歩き始める。
 が、優羽がついてきていないことに気が付いて振り返る。
 優羽はテーブルの上にあった象牙のかんざしに見入っていた。触ってはいけないと思っているのか、腰をぐっと曲げて不自然な体勢だった。
「なにをしている。行くぞ」
「はい!」
 優羽は返事をして、慌てて追いかけた。

 結局、暁は優羽のために十枚以上の着物、それと同じだけの帯を購入した。西洋のドレスもまたたくさん買い込んでいた。この店は舶来物をたくさんおいてあるが、奥の部屋にはドレスとともに仕立て上がりの着物や帯がたくさん用意されていた。
 買ったうちの一枚の大振袖にすぐに着替えさせられた上、髪を西洋下げ巻に結われて化粧もされた。初めての化粧は落ち着かなくて、だけど顔の大きな封印の傷がおしろいで薄くなったことに少しうれしくなった。紅をひいてもらうと今どきの娘になれたようで心が浮つく。
 着物は華やかな薄桃色、今まで着たことがない色だった。生地の上で白や赤、黄色と花々が咲き乱れ、あでやかな帯はふくら結びに結ばれている。
 店員は前髪を切ろうとしたが、優羽はそれだけは勘弁してほしいと抵抗した。
 醜い傷が露わになるなってしまっては暁に嫌悪を与えてしまう。優しい彼にそんな気持ちを向けられたくなかった。
 着替えた彼女を見た彼は満足そうに笑み、代金を店員に払った。
 買った物を店員に運ばせて車に積み込み、ふたりは車に乗り込んで出発する。
 優羽は暁の行動が理解できず、後部座席に固まったように座った。
「どうした、嫌だったか?」
「驚いております。どうして私のためにこのようなことをなさるのか」
「嫁に着物を買うのに理由などいるか? あの店は仕立て上がりがたくさんおいてあってね。今度改めて着物を仕立てよう。結婚したら振袖は着られないから、いまのうちにたくさん着て見せてくれ」
 暁は垂れ目を細め、口角を上げる。
 優しく笑みの形をとったそれらに、ますます優羽は困惑する。
 自分に向けられる笑みはいつも侮蔑や嘲りを含んだものであり、このような慈愛を向けられるのは、嬉しいよりも戸惑いが強くなる。
「私……本当に嫁にしていただけるのですか?」
「疑い深いな。俺が信用できないのか」
「そういうわけでは……」
 会ったばかりの人を信用できるわけがない。だがそうも言えずに優羽は曖昧に首を振った。
「仕方あるまいな。お前は覚えていないようだ。だが、俺はお前を知っている。それで十分だ」
 優羽は戸惑いを深くした。知っているならなお、嫁になど求めないはずだ。
「私が妹殺しと言われていることも……ご存じですか」
 絞り出した言葉に、彼はふっと笑う。
「お前は殺していない。それが真実だ」
 優羽は驚いて彼を見た。
 彼の笑みは途絶えず、瞳には優しさだけが浮かんでいる。
「妹を救おうとした。そうだな?」
 優羽はがくがくと頷いた。
 知らず、涙があふれて頬を伝う。
 彼がなぜそれを知っているのか、わからない。だが初めて理解者が現れた。胸が痛いほど熱くなり、雫となって瞳からこぼれていく。
「泣くな、と言いたいところだが我慢も良くないだろう。好きなだけ泣くがいい」
「すみません」
 ぼろぼろとこぼれるものを抑えきれず、優羽は謝罪する。
「謝るな」
 優しく頭を抱き寄せられ、優羽はさらに涙をあふれさせた。
 彼は優羽が落ち着くまで、そうして頭を撫でてくれた。

 優羽が落ち着くのを見計らい、彼は手を離した。
 すでに馴染んだぬくもりが離れたのがさみしく、そんな自分が恥ずかしくて優羽はしがみつく涙を拭うふりをして彼から顔をそらした。
「お前、これを気に入っていただろう」
 声とともに差し出されたものに、優羽は驚いた。
 白い象牙のかんざしだった。花びらのような先端には桜の花々が立体的に透かし彫りに刻まれている。
 思わず顔を向けると、彼は笑みに顔をほころばせていた。
「そんな……いただけません」
「夫からの贈り物を拒むのか?」
 むっとした口調で言われ、優羽は慌てて首を横に振る。
「俺が挿してやろう」
 返事を待たず、彼は優羽の頭を抱くようにしてかんざしを挿す。
「黒髪に映えてきれいだ」
 耳元で囁かれ、かーっと頬が熱くなる。
「……ありがとうございます」
 うつむいて言うと、顎先をくいっとあげられ、無理矢理に彼のほうを向けさせられた。
「下を向くな。お前は俺だけ見ておればいい」
 答えられず、優羽はただ頬を染める。
 傷を見られたくなくて常にはうつむきがちだった。傷を見せるな、と言われたことはあっても下を向くなと言われたことなどない。
「だが、ほかの男を見たときには」
 言葉が途切れ、優羽は彼の青い瞳を見つめて続きを待つ。
「殺してしまうかもしれない」
 彼の垂れた目が鋭く光り、優羽の背筋は氷水を浴びせられたように凍えた。

 彼の家として連れていかれたのはとても大きな洋館だった。
 下足のままに入れと言われても戸惑ってしまう。
 そーっと足を踏み入れると、それだけで暁に笑われて恥ずかしかった。
 応接の間に連れられ、洋卓(テーブル)につかされる。
 ビロードの張られた椅子の座面はふわふわしていて、なんだか落ち着かなかった。
 部屋は西洋から輸入されたらしき家具が溢れていて、どこもかしこもキラキラして見えた。
 黒い洋服に白いエプロンをつけた女中がきらびやかなワゴンを押して来た。暁は女中に手で合図して交代し、紅茶を淹れる。
 足つきのティーカップは水色の地色に白い花と金彩が施され、セットの皿も同様に華やかだ。お茶を淹れたポットもミルクポットもクッキーの載った皿も、スプーンまで揃いの色柄で、見るだけでため息が漏れた。
「紅茶は飲んだことあるか? ミルクは入れるか? 砂糖は?」
「えっと、じゃあミルクだけ……」
 答えると、彼はミルクポットからミルクをカップに注ぎ、かき混ぜてから優羽の前に置いた。
 こんなことまでしてくれるなんて、と優羽は戸惑う。男性はどっしりとかまえてこういうことはしないものだと思っていた。
 彼は自分の分も淹れると彼女の向かいに座る。
「どうぞ。お前の口に合えばいいが」
「いただきます」
 カップの持ち手に指を通して持つと、くすりと彼が笑った。
「それはこうやって持つんだ」
 彼は自身のカップの持ち手を、親指、人差し指、中指でつまむようにして持ち上げる。
 優羽は慌ててカップをおろしてそのようにしてみるが、ぐらぐらして不安定だった。
「……いきなりは無理か。慣れるまでは好きなように持てばいい」
 彼がそう言うので、優羽はほっとして両手でカップを持った。
 一口飲むと、今までに味わったことのない風味が口に広がった。どこか爽快な感じがする。
「おいしい」
「そうか、良かった」
 彼は垂れた目を楽し気に細め、自身はストレートで紅茶を飲んだ。
「今日は客室で過ごしてもらうが、お前の部屋をすぐに用意させる。洋室がいいか和室がいいか」
 聞かれたことが予想外すぎて、優羽はぽかんとした。
「どうした?」
「私の部屋なんて、いただけるのですか?」
 実家で暮らしていた小屋もある意味で自分の部屋ではあるのだが、おそらくそういうことではないのだろう。
「当然だ。で、洋室か和室か?」
 問われて、優羽は首をかしげる。
 どう答えても自分には分不相応な気がしてならない。
「決められないのなら、俺が決めてやる」
「そうなさっていただけるとありがたいです」
 正直、状況を把握しきれていないし正解がわからない。自分の意志がないとあきれられるのだとしても彼にお膳立てをしてもらったほうがいいような気がした。
 さきほどは殺すという物騒な単語を言われたが、そんなことがなかったかのように彼は優しげだ。
 聞き違いだったのだろうか。
 だが、どんな言葉をそう聞き違えるというのだろう。
 彼を見ると、青い瞳が自分を見ていて、優羽は慌てて目をそらした。
 そういえば、能力がないならば、彼はどうして色のある目をしているのだろう。普通、能力のない人は黒か茶の目をしているものなのに。
 こんこんこん、とドアがノックされ、控えていた女中が対応に出た。振り返り、暁に告げる。
束鎖解理(つかさ かいり)様がお見えです」
「入ってもらえ」
 暁の了承でひとりの若い男性が入ってきた。洋装で整えられた身なりは立派で、さわやかな見目をしている。年は暁と同じくらいのように見えた。紫の瞳をしているから、なんらかの異能を持っているのだろう。
「暁、こんな急に呼び出して、なんの用だ?」
「ああ、よく来てくれた。妻の封印を解いてほしい」
 暁の言葉に優羽は目を見開いて暁と入室してきた男性を交互に見た。
 男性は目があうとにこっと笑い、優羽は慌てて目を逸らす。
「彼女が迎えに行ったという女性か。美しい方だな」
 優羽は恥ずかしくて顔をうつむけた。醜い封印の傷がある自分を、前髪で傷とともに顔の半分を隠した自分を美しいと言うなんて、社交辞令にもほどがある。
「あまり見るな」
 不満そうに暁が言い、男性は笑う。
「さっそく嫉妬かよ。お嬢様……いえ、奥様、この男は嫉妬深い。覚悟なさいませ」
「黙れ、殺すぞ」
 威嚇する言葉に、男性はくすくすと笑いをこぼす。
 優羽は硬直してしまった。
 妻とか奥様とか呼ばれたのも驚きだが、嫉妬という言葉に一番驚いた。それではまるで暁が自分を好きみたいだ。
「優羽、こいつは見なくていいからな。俺だけ見てろ」
 名前を呼び捨てにされ、優羽は戸惑う。お客様がいるのに暁だけ見ていろと言われたことにも戸惑う。
「改めてごあいさつを。初めまして奥様。私は彼の友人かつ軍の同期で、束鎖解理と申します。物騒な旦那様に頼まれて封印を解きに参りました」
「そんな……」
 優羽は顔に手を当てて身構えた。
「封印があると不自由だろう? なにより顔にバツがあるなど無粋極まりない」
「本当に、若い娘の顔に印をつけるなど。封印するにしてもほかにやりようがあったでしょうに。こんな位置では髪で隠すこともできない」
 暁の言葉に、解理が顔をしかめて賛同する。
「醜い姿で申し訳ございません。ですがこのほうがいいのです。一目でわかりますから、きっと周囲の方も安心できたことでしょう」
 それは自分に対しても同じだった。
 風を操る異能はおそらく尽きている。だが、封印を解いたことで異能が再生したり、なにかの拍子にまた暴走してしまったらと思うと怖くて仕方がない。
「美醜の話をしているのではない」
 暁のあきれたようなため息に、優羽は身を縮めた。
「封印を見せられる俺が嫌なんだ。こいつは封印解除能力がずばぬけている。それ以外はできないが」
「一言余計だよ」
 解理は苦笑する。
「封印を解く場面なんてそんなになくってさあ。仕方ないから郵便物の封を開けるときに使ってるんだよね。あとは、蓋が開かない瓶を持って来られたときに開けると喜ばれる」
 軽い口調に、優羽は思わずくすっと笑った。
「お前が彼女を笑わせるなど不快だ。さっさとやれ」
「はいはい、彼女のおでこに触るけど殺さないでよね。奥様、ちょっと触るよ」
 言って、彼は優羽に近付いてくる。右手を伸ばして額に触れられると、ひんやりとなめらかな感触がした。
「あとで消毒してやる」
 暁の声がぼそっと聞こえた。解理は無視して手に神経を集中させる。
「……うん、単純な封印だね。これなら簡単に解ける」
 言われた直後、額が熱くなった。
 しばらくして解理は手を離し、女中に目配せをする。
 女中は心得たように手鏡を優羽の前に構える。
 顔にあったバツが消えていて、優羽は驚いて彼を見上げる。
「やっぱり別嬪さんだなあ。封印は消したよ。これで異能を使えるはずだ」
 優羽は両頬に手を当てた。まさか触れるだけで封印を解くとは思わなかった。
「そんな……そんな怖ろしいこと」
 優羽は震える。椅子に座っていられなくなり、床に崩れ落ちた。
「危ない!」
 慌てて解理が支え、床に座らせる。
「優羽!?」
 暁が驚いて席を立ち、優羽の傍に跪く。
「封印を……封印をしてください!」
 優羽は両手で顔を押さえて暁に叫ぶ。
「力が暴走したら人を傷つけてしまいます。どうか、お願いします。どうか……!」
 優羽はそのまま床に(ぬか)ずいて暁に懇願する。
 暁は苦い顔をしてその姿を眺めていた。
「どうするんだ、暁」
「……再封印しよう」
 答える暁に、解理は眉を上げた。
「優羽、立って。一緒に来てくれ」
 優羽はがくがくと頷き、差し出された彼の手をとって立ち上がる。
 そうして解理を応接の間に残し、二階の彼の私室へと連れていかれた。
 彼の私室には大きなデスクがあり、壁の本棚にはたくさんの本がぎっしりと並べられていた。
 窓から差し込む日は白いカーテン越しにやらわかく降り注いでいる。
 部屋の片隅にあるソファに座らされ、優羽は待った。
 暁はデスクの引き出しから金で装飾された白い陶器の小箱を取り出し、それを優羽に見せる。
 ぱか、と開いて見せられたその中を見て、優羽は首をかしげた。赤いビロードの土台に小さな輪っかが入っている。
「これはお前の能力を封印する指輪だ」
「指輪……西洋の装飾品ですね」
「これを封印の証とする。はずすなよ」
 ケースから指輪を手に取り、彼は優羽の左手をとる。
 それだけでドキッとしたのだが、彼の手で左手の薬指に嵌められた。
 優羽は手を顔の位置まで上げてまじまじと眺める。
 彼の瞳のような青い石がはまっており、輝きがきらきらとこぼれる。銀の土台には左右に唐草のような植物の模様が彫られていた。
「それは蒼玉(サファイア)という宝石だ。サイズはちょうどいいようだな」
「あなた様の瞳のように美しゅうございます。こんな素敵な封印を、ありがとうございます」
 封印であるというのに、心が浮き立つ。
 人を傷付けずにすむ安心だけでもうれしいと言うのに、これでは手を見るたびに見惚れてしまいそうだ。
 嵌めるだけですむ封印というのも初めてだった。痛くもないし、苦しくもない。
「それを見るたび、俺を思い出せ。いいな?」
「はい」
 優羽は素直に頷き、暁はうれしそうに目を細めた。
「あいつが触ったお前の額を消毒したい。いいか?」
 問われて、優羽は頷く。意外に潔癖な人なのだな、と思いながら。
 暁は優羽の頭を抱き寄せた。
 え、と思う間に前髪を払われた額に彼の唇がやわらかく触れる。
 硬直する優羽の額に、彼はなんども口づける。
 こんなの消毒じゃないと思うのに、優羽は何も言えない。
「封印がなくなった姿をあいつが最初に見たのかと思うと殺したくなる」
 とんでもない発言に、優羽は目をまんまるにして暁を見る。
「その上、解理に抱きしめられていたな」
 優羽は首をかしげる。
 抱きしめられた覚えはないが、椅子からずり落ちたときに支えてくれたことだろうか。
「……あいつが友人でなかったら殺している。もう二度とほかの男に触らせるな」
「はい」
 そんな予定などないから優羽は素直に頷く。暁は満足そうにぎゅっと優羽を抱きしめる。
 男性に抱きしめられるなど初めてで、優羽はどきどきした。物騒な言葉が続くことにもどきどきするが、彼なりの冗談だったりするのだろうか。
「あいつと話をしただけでも許しがたい……お前の唇も消毒する」
 優羽は答えられなかった。
 さきほどの行動から鑑みるに、おそらくは口づけをするということになる。
 顎をくいっと持ち上げられると、青い瞳が自分をまっすぐに見つめていた。
「こういうときは目を閉じるものだ」
 言われて、優羽はぎゅうっと目を閉じた。あまりにぎゅっとしすぎて眉間に皺ができている。
「なんと色気のない」
 くすくすと笑われ、眉間を撫でられる。そっと目を開けると、暁の垂れた目が笑みにいっそう垂れていて、優羽の胸がきゅんとしめつけられた。
「不慣れなのもかわいいな」
 彼が顔を近付けて来る。
 優羽はどきどきしながらまぶたを下ろし、彼を待った。
 そのときだった。
 こんこんこん、とドアがノックされ、ふたりはぴたっと動きを止める。
「あかつきぃ、ちょっと話があるんだけどさあ」
 扉越しに届いたのは解理の声だ。
「無粋極まりない!」
 腹を立てた暁の様子に、優羽はほっとするとともにくすりと笑った。
 結局、唇への『消毒』はそのまま中断された。

 優羽を女中に任せて応接の間に戻し、暁は解理を部屋に入れる。
「なんの用だ」
 不機嫌にどかっとソファにすわる暁に、解理はくすくすと笑う。
「邪魔したようで悪い。だけど、気になって仕方なくて、我慢できずに来ちゃった」
「だから、それはなんだ」
「彼女、あやかしにまとわりつかれている気配がする」
「そんなことか」
 暁ははあっと息をついた。
「気付いてたんだ?」
「当たり前だ。あやかしなんぞ俺が斬り捨てるから問題ない」
「なあんだ。焦って損した。あやかしが密偵を放っているっていう噂もあったし、関係してるかも、とか考えてたのに」
 解理は肩をすくめた。
「で、力は再封印したの?」
「してない」
 あっさり答える彼に、解理は眉を上げる。
「いいの?」
「問題ないだろう。彼女の力は毎日俺が吸い上げることにする」
「ふうん」
 解理はにやにや笑って暁を見た。かまわず、暁は続ける。
「それ以前に、彼女自身が強く力を封印しているようだ。彼女が自分を許すことができなければ力を使うことはできないだろう」
「あれか、妹を殺そうとしたってやつが原因?」
「冤罪だ」
「お前から聞いて知ってるけど、本人の心には強い枷になってるだろ?」
「それはこれから(ほど)いていく。お前の封印解除はこういうことには役に立たないからな」
「なんかこう……傷付くなあ」
 解理は大袈裟に胸を押さえた。
「お前の傷など知らん。用がそれだけなら行くぞ」
「はいはい、愛しい奥さんとの大事な初日だもんね。俺は帰ってあげるからごゆっくり。今度、お祝いを送るから」
 そう言って立ち上がり、解理は暁とともに部屋を出て行った。

***

 宝が盗まれた。
 白い影は咆哮を上げる。
 仲間を呼ぶ叫びだった。だが、それは人の耳には決して聞こえない。彼らあやかしだけに通じる叫びだ。
 あれは自分が先に目をつけていた。
 人間ごときが盗んで良いものではない。
 白い影は怒りをたぎらせ、宝を――優羽を取り戻すべく、人に聞こえぬ雄たけびを上げ続けた。

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