万引きをしないために、スリルを偽装恋愛で補う。

考えてみれば、いや、考えてみなくても、日月先生にメリットなどなかった。

本当には触れ合わないこと。それだけを決め事として、塾のない放課後、校舎の中や近隣の公園で恋愛ごっこを行った。

見つかったら、非難される。いつ、どこで、誰に見られてしまうか分からない。正と不正の境界線を綱渡りするような偽りの逢瀬からは、万引きにも劣らないスリルが得られた。ばれないで済むたびに満たされていたけれど、さらなるスリルが欲しくて、段々と自分の行為がヒートアップしていくのを自覚していた。いつか、取り返しがつかないことになるだろうと思った。

そしてその時は、思いのほかはやく訪れた。

だけど事態は思っていたところには落ち着かず、私は今、徹底的な糾弾を受けるかわりに、クラスメイトの傷ついたあとを見つめていた。

「俺は、俺が傷つくことを、もう、許したくないです」

針生君が、泣きながら言う。

しばらくすると、彼と私と針生君がいた薄暗い廊下に、蛍光灯の明かりがついた。

暗くなりすぎると勝手につく仕様になっているからついただけで、他人が来る気配は依然として全くなかった。

針生君は、安堵と苦しみが混じった表情でずっと泣いていたけれど、自分の中で何か覚悟でも決めたのか、うん、うん、と二度頷いて、折り曲げていた制服の袖をもとに戻した。それから、顔をあげて、私と彼の方に目を向けた。

「動画は、絶対に消すから。安心して」

優しい人から、傷ついていく。他人を傷つけられない人から、舐められていく。我慢できる人は、我慢できない人よりも我慢を強いられる。ここはそういう世界だった。でも、そういう標準を自分の標準にする必要はない。勝手にしろ。もっと勝手に生きればいい。そういうことを、彼は私にも針生君にも言っていた。

もう一度、ありがとう、と、ごめんなさい、を針生君に伝える。

「淋代さんも、先生も、また明日」

そう言って、針生君は私と彼に背を向けた。私は、その背中が角に消えていくまで見つめていた。

針生君が去って、彼と二人きりになると、少しの不安が自分の中に戻ってきた。

これでよかったのだという気持ちも、ここからまたはじめるのだという気持ちも、本当だったけれど、救いのようなスリルを失ってしまったこともまた事実だった。

蛍光灯の明かりがあるとはいえ、あんまりに廊下が暗いから、外の光が入る窓がある大廊下まで移動する。彼もついてきれくれて、並んで窓の外を眺めた。

夕焼けがまさに終わろうとしていた。

大廊下には、他の生徒の姿もあった。でもやましいことなんて何もないのだから、どうだってよかった。

「また、私は万引きをしてしまうかもしれません」

彼にだけ聞こえる声量で伝える。

夕方と夜の境目に不安定に浮いてしまっている気がして、心許なさを覚える。彼が、浅く頷くのを視界のはしでとらえた。

私はいつだって大丈夫ではないのに、彼に自分の秘密を打ち明けたあの日から、大丈夫じゃなくても大丈夫なのだと、そういう安心感だけは自分の手のひらの中にあるのだった。

「こんなことがあったからもうしないでおこうって、思っていられる自信はないです。今だって家の部屋はたくさんあいているし、ほとんど誰も帰ってこない。私はいつもひとりで、正しい自分の幻にしがみつくのをやめられない。前とは、変わったわけではないから。自分を自分の力で制御できる気は、当たり前だけど、今もしないです」
「自分であれ他人であれ、完全にコントロールできるものなんてこの世にはありませんから。また、他のスリルを探せばいいですよ。それに、補填する以外にも、方法はあるはずです。また、考えてみる。それだけのことです」
「私、先生とはなれるまでに、克服できるんでしょうか」

依存じみた言い方になる。恋愛感情なんかの何倍も淀んでいる。でも、かまわない。淫行やわいせつ行為でなければいい。恋愛でなければいい。他人の用意した標準を逆手に取っている。それでいいのだと、彼が私に教えたのだ。自分のゲームの上で生きるために。

「そのあとも、協力はできますよ。卒業したって、君は生徒ですから」
「……先生、何だか、教師よりも教師みたいですね」
「みたいではなく、教師です」
「そうですね。でも、今更ではあるけれど、私はずっと、先生が好きで教師をしている風には思えなかったから」

彼と話をしていると安心する。その理由を、変なタイミングで、唐突に悟る。

不在の臭いが自分よりも濃いからだ。

正当化したいだけかもしれない。だけど思う。今、先生にも、私がいて、針生君もいて本当によかったと。

「淋代さん」

名前を呼ばれて、彼に目をやる。

彼は他人を気持ちよくするための表情を浮かべる大人ではない。耳ざわりのいい言葉で夢や希望を語らない。でも、だからこそ、私は彼を信じることができると思った。

「君の万引きを目撃して、見て見ぬふりをしなかった。あの時、僕はね、はじめて職務を全うしたと感じました」

もう夜になる間際の夕焼けが、彼の目にうつっている。

「君が、僕を教師にしたのだと思います」

彼はそう言って、今この時を慎重に切り取るみたいに、ゆっくりと瞬きをした。

いつもとさして変わらない乏しい表情を浮かべている。だけど、それはどこか清々しい横顔だった。