翌々日、二限目の英語の授業が、英語教師の体調不良で急遽、自習に変わった。
英語教師のかわりに教室に来たのは日月で、やつが入ってきてすぐに、クラスの女子が、「なんで、せんせーなの」とタメ口で尋ねる。
日月は誰も使っていない椅子を教卓のところまで持っていきながら、「このクラスの副担任だからですかね。僕、ちょうど授業も入っていませんでしたし」と愛想のかけらもない顔で答えて、すぐに質問したやつから目を逸らした。
この色のない表情のまま。この冷めた眼差しのまま。日月は淋代さんに触れるのだ。悪事を隠したまま、何でもないってふりをして、こいつはのうのうと生きのびている。
どうして、それがお前は許される?
やる側とやられる側。許される側と許されない側。笑う側と笑われる側。搾取する側と搾取される側。自分がどの立場に置かれるかは、自分では決められない。
でも、誰かを優位な場所から引きずり下ろすことは、まれに、できてしまう。
少なくとも、今の俺は、できるはずだった。
日月が強く叱ることは絶対にない。だから、みんな、日月のことは舐めきっていて、自習時間は日月が来たことでただの自由時間に変わった。九十九と草間は授業開始のチャイムが鳴るとすぐに、教室の中央列の前方にある矢野の席に向かったから、俺も自分の椅子だけ持って、急いでそこへ行く。
「針生くると、せめーんだけど」
なぜか矢野は俺にだけ少し嫌な顔をみせたけれど、いつものいじりだと受け取って、ごめんごめんとへらへら笑ってかわす。
なんで俺だけ、とか、そういうことは自分のために思わない方がいい。許される側と許されない側、俺は許されない側にいることがほとんどだけど、最近ようやく、現実を受け止める忍耐力がついてきたと思う。
許されなくてもいいから、ひとりになりたくなかった。
授業が始まって最初の方は、スケボーの話題で三人は盛り上がっていて、俺は全く分からないから適度に相槌を打ちながら、ふへへへと、とにかく笑っていた。
しばらくすると話題が尽きたのか、「つまんねーな」と草間が少し不機嫌な声で言って、椅子の背もたれに背をつけて王様みたいな姿勢で座り直した。俺は内心びくつきながら草間の様子を注視していたけれど、幸運にもその時の草間の眼中には俺はないようだった。
常に自分の退屈をしのげる玩具を探している。それが草間だった。
玩具は使い捨てでも何でもよくて、壊れたら強度の足りない玩具が悪い。草間は、きっとそういう風に考えている。
教室にいるひとりひとりを値踏みするみたいに眺める草間に、俺の胃が、ほとんど条件反射的に少しだけ痛みだす。
それから数秒後、草間は教壇のところに視点を定めたかと思ったら、座って何やらパソコンを見ている日月に、ためらいもなく声をかけた。
この時、どうして、日月が選ばれたのかは分からない。別に理由なんてそんなものはなかったと思う。
「日月せんせー、暇?」
草間の声に、日月がパソコンの画面から顔をあげて俺らの方を見る。
日月が答えるよりも先に、「せんせーに質問あるんだけど、いいっすか? 百の質問コーナー的な」と草間が言った。
「百はやばいって」
「ユーチューブかよ」
矢野と九十九は草間のノリを素早く掴むことができるから、羨ましい。俺は少し出遅れて、確かに、と笑う。
日月は、自分の右腕にはめた腕時計の位置をずらしながら、間をおいて、「何?」と草間に返した。
自分が玩具になろうとしていることに気づいていないのか、気づいていてそれなのか。いつもと違わず、日月は生気のない顔をしている。ただその視線は真っ直ぐ草間に向けられていた。
草間は仰け反るように座ったまま、挑発するように首を傾げて、日月に向かって再び口を開く。
「質問な。教師ってどんくらい給料もらえてるんすか。ふつうに気になってたんだよな。せんせーとか特にだけど、ちょー慎ましく暮らしてる感じあるし」
「給料は言えませんね」
「えー、給料って働くうえで大切なことじゃん。生徒の好奇心、無下にすんの?」
「気になるなら、ご自分で調べてみたらどうですか。僕に答えてもらえないくらいでなくなる好奇心なんて、あってないようなものですよ」
「……そのくらい教えればいーだろ。つーか、せんせーって毎日何が楽しくて生きてるんすか? つまんなさそーだけど。生きてて楽しいっすか?」
矢野が、俺の隣で、「日月が生きてて楽しいわけなくね」と嘲笑交じりに小さく呟く。小声とはいえ、本人にも聞こえるくらいの声量だった。でも、日月はちらりとも矢野に視線を向けない。楽しいってことが何なのか、俺はもうよく分からないけど、うんうんうんと大袈裟に首を振る。
「別に、楽しくはないですね。草間君の場合は毎日が楽しくないとまずいんですか。僕の人生とは違いますね。人間は、楽しくなくても生きられるし、毎日がつまらなくても生きてていいんですよ」
「はは、ウケる。教師がそんなんでいいの? 生徒に夢とか希望とか与えないとちゃんと」
「ワンパターンの夢と希望だけ与えて、何になるんです」
周りにいるクラスメイトも、草間と日月のやり取りを徐々に気にし始めているのが、みんなの視線の動きからうっすら分かった。数学の言葉や副担任としての連絡事項以外を話す日月なんて、今までほとんど目にしたことがなかったからだと思う。俺もそれは同じだった。
日月は、一時的に草間の玩具に選ばれたくせに、全然、玩具らしく振舞おうとはせず、淡々と草間に言葉を返していく。
許されない側にいなければいけないやつが、本来なら俺と同じ側に立っているべきやつが、俺とは違って、草間に会話の主導権を完全に握らせることなくやり過ごそうとしている。俺とは生きてきた年数も違うし当然なのかもしれない。でも俺は、いつもの自分といまの日月の立ち振る舞い方の差に妙に苛立って、どうやってこいつを引きずり降ろしてやろうか、そういうことを考え始める。
「てか、せんせー結婚ってしてんの?」
草間が始めた質問コーナーに、急に、九十九が割って入る。でも草間は特に嫌な顔もせず、「それまじで気になるわー」と加勢した。
「答えません」
「家族は? まさか実家暮らし?」
矢野が、煽るような口調で質問を重ねる。俺だけはまだ参加するタイミングが掴めなくて、ふへへへへと、とりあえず笑う。
「答えません」
「つーか、彼女とかちゃんといます?」
「答えないですって」
「今まで、彼女できたことありますか?」
「どうですかね」
「まさか、童貞?」
「どうなんですかね」
「まじ? 何歳だよせんせー、俺からのアドバイスな。そろそろ経験しといたほうがいいっすよ」
「そうですか」
日月は、草間、九十九、矢野、三人のどの質問にも動じることなく淡々と返事をしていく。
彼女がいるかどうかも、童貞かどうかも、何もやましいことなどないのだという顔で、答えないとだけ吐き捨てて。本当は、お前、隠れてだめなことをしているくせに。納得できなかった。
「まじで、童貞なの?」
草間が割と大きめの声で、もう一度日月に確かめる。
教室には、引いたような顔をして、俺らと日月の方を見ているクラスメイトが何人かいた。そんな中で、淋代さんは、窓際の席で机の上のノートに視線を落としたまま、俺らとは別の世界にいるような感じで勉強を続けている。
自分だって、日月の悪事の片棒を担いでいるくせに、まったく私は当事者ではないという面だった。
その横顔に、無性に腹が立って、俺の中にあった理性が半分ほど吹っ飛ぶ。
引きずり降ろしてやろう。どちらも。そう、強く思った。
息を深く吸いこんで、唾を呑みこむ。心臓が早鐘を打っていた。草間たちが、汚い声で笑っている中で覚悟を決める。次の質問に移ってしまう前に言う必要があった。いまだ、と思うタイミングで、口を開く。
「淋代さんとか、先生のタイプなんじゃないですか」
力んだせいで、予想以上に大きな声になってしまう。
声量を間違えたと、言った瞬間に分かった。でも、引き返すことなんてできなかった。
「淋代さんとか、先生、好きそうじゃん」
もう一度言い直す。草間も九十九も矢野も加勢するつもりはなさそうだった。笑ってもくれなくて、あ、失敗だ、と理解する。でも、もう、どうしたって引き返せない。続けるほかなかった。
日月から淋代さんに視線をずらす。淋代さんは、自分の名前が出たからか、顔をあげてほんの少しだけ動揺しているように見えた。
でも、俺の方を見ようとはしない。
俺に二度も密会を見られているくせに、お前が危機感がないことしていたくせに、馬鹿だろ。心の中で罵りながら、もっと動揺すればいいのにと思った。
淋代さんに視線を固定したまま、「淋代さん、先生の彼女だったりして」とさらに言う。
淋代さんは、俺を見ない。
握りたかった。俺だってその場の主導権を一度くらい握ってみたかった。自分以外のだれかを引きずり降ろしてやりたかった。
だけど、気がついた時には、教室中がしんと静まり返っていた。
どうして、自分だけが、草間たちのようにはいかないのだろう。
「ふへへへへ」
いつものように情けない音で笑ってみる。だけど、誰もそれに続いて笑ってくれはしない。自分ではもう収拾がつかなくて、だから、行けるところまで行こうと自棄になるしかなくて、さらに言葉を続ける。
「先生、童貞も淋代さんで捨てたんじゃないんですか。え、てか、淋代さんのどこに惹かれたんですか。未成年だけど、やばくないっすか。え、え、やばくないっすか。やばいって。え、淋代さんと結婚とかするんですか。そういう感じですか。えっ、えー、やばいって」
俺の声だけが教室に響く。自分の声なのに自分の声ではないみたいに、俺の耳を刺す。
ふへへへへ。ふへへへへ。とにかくだらしない笑みだけはたやしてはならなかった。でももう続ける言葉もなくなって、俺の閉口と共に教室は重い沈黙に包まれる。
みんな俺を宇宙人でも見るような目で見ている。確認しなくても分かっていた。死にたいって、久しぶりに、強く、思う。
「君たちは、さして慮ることなく他人に個人的なことを聞きますけれど」
そんな中で、沈黙を破ったのは、日月のひんやりとした声だった。
「なぜ、自分が手にしているもの、見えているものが、当然、相手も手にしていて、見ているのだと思うのですか。その想像力のなさは、生きてて楽しいってことの代償か?」
いつもと同じ淡々とした口調だった。語気も強くない。だけど、どこか怒っているようにも聞こえた。俺には、話を逸らすことで淋代さんをかばっているようにも思えた。
まだ教室はしんとしている。みんなの視線が俺から日月に移ったのを感じて、俺は少し安堵する。
日月は教卓の上で指を組み、そこに目線を落としたまま、さらに続ける。
「なぜ、誰かに簡単に話すことができる父親、母親、兄弟、姉妹、祖父母、子供、そういう存在が全ての人間に揃っていて、恋愛感情というものが全ての人間にあって、今回の場合はそうだな、全ての人間が異性を好きになるということを前提にして、話をすすめようとするんですか。君たちは、同性婚も認められていないような国で、結婚しているのかどうか、相手の性的指向に考えを及ばせる前に、簡単に聞いてしまえるし聞いてもいいと思える。性交を嫌う人間はいないものとして、童貞を捨てた方がいいとオープンな場で冗談みたいに言えてしまえる。そういうのはね、はっきりいって、よくない甘えです。子供だろうが大人だろうが、そんなことは関係ない。相手が自分と同じ価値観を共有していて、自分と信じているものも同じだとして、乱暴なコミュニケーションを図ろうとする。そういう人間とまともに会話をしてくれるのは、そういう人間か、そういう人間を可哀想だなと見下して甘やかすことができる立派な人間だけですよ」
日月が、一、二、と静かに瞬きをした。それから、視線をあげて、矢野の席、俺たちの方を見た。
でも、俺は日月とは目が合っていないような気がした。空洞を観察するような日月の目が、ほんのわずかに揺れる。
「家族は、僕が大学を卒業してすぐに離散しました。離散って分かりますか。散り散りになって、終わったということです。そういうこともね、ある人にはあるんですよ。生まれた時から、家族がいない人だっている。人にとって家族というものの捉え方はばらばらだし、必要な人も必要ではない人もそれが足かせになっている人だっている。もちろん、家族関係に幸せを感じている人もいるでしょう。恋人は、いません。いたこともないし、これからもできないと思いますよ。性交の経験もないです。結婚するつもりも一切ありません。おおかた聞かれた質問には答えましたけど、これで満足ですか」
日月が口を閉ざす。教室には、最悪な空気が流れていた。
どうしよう。どうすればいいんだ。なんなんだよ。
俺は崖っぷちまで追い込まれているような気持ちになりながら、ただ椅子に座っていた。
誰も何も話さない中で、口火を切ったのは草間だった。
「針生」
草間が俺の名前を呟く。草間の方に顔を向けると、草間は笑うのを必死にこらえている時の顔をしていた。それは、俺が今までもよく見てきた顔だった。
「謝れよ」
「……なんで」
「淋代を巻き込むとか、お前、ありえねーって。冗談になってねえもん。せんせーも、怒ってんじゃん。生徒ではじめてなんじゃね? 日月せんせーまじで怒らしたのとか、謝んないと」
草間の言葉で、今この状況を作り出しているのも悪いのも全部俺だという感じになる。違うじゃん、と思う。だけど、草間に俺は言い返すことなんてできない。
「謝ったほうがいいよ」
草間が、くいっと顎で日月を示して、俺をたしなめるような口調でもう一度言う。俺はそれまで色んなことを考えていたはずなのに、もう何を考えても意味なんてないのだと思って、のっそりと立ち上がる。
「すみませんでした」
日月に謝った。
「淋代にも謝んないと」
草間が言うから、「すみませんでした」、淋代さんにも謝った。
淋代さんは、俺の方なんてもう一切見ていなくて、窓の方に顔を向けていた。
二人に謝り終えて、もう一度椅子に座ったタイミングで、すぐそばから、ぷ、と吹きだす音が聞こえる。九十九だった。肩を痛いくらいの力で抱かれる。俺は俺が本当に骨折でもしたらいいのにと思う。
「まじでさ、いちいち針生ってずれてるんだよな。なんで与ちゃんが出てくるんだよ。空気とか行間とかはちゃんと読まないと」
教室に、少しの騒がしさがじわじわと戻り始める。
俺は、死にたい。俺の肩を抱いたままの九十九が、俺の耳元に顔を近づけてくる。耳から、死んでしまいたいと思った。
「そんな目立ちたいならさ、いつものあれやっちゃっていいよ。一発ギャグ」
一発ギャグ。一発、ギャグ。それは、やっていいじゃなくて、やれってことじゃん。ただの命令じゃん。
「やった、ラッキー」
俺は作り笑顔を必死に浮かべながらわけの分からないことを吐いて、再び立ち上がる。それから、教壇のところまで歩いて行って、「おわびに一発ギャグやらしてください」ってさっきと同じくらい大きな声でみんなに言う。
誰とも目を合わせないまま、いつもと同じつまらない一発ギャグを高速でやって、黙る。そうしたらまた、教室には沈黙が戻ってきた。すべるのは、もう慣れてる。だけど、今回は、いつもよりもクラスメイトの俺を軽蔑する視線がぐさぐさと刺さった。
俺は、縋るように、日月に視線を向けてしまう。
日月はただ真っ直ぐに俺を見ていた。何を考えているのかは全く分からなかった。だけど、俺だけをじーっと見ていた。
次に淋代さんの方をうかがうと、彼女は俺なんてここにはいないみたいに窓の外を眺めていた。
にわかに、俺の中で爆発が起こる。
淋代さんは。というか、みんな。日月だって。みんな、みんな。どうせ、馬鹿にしてるんだろ。生きる価値もない。哀れだって。情けないって。本当にろくでもない人間だって。弱いって。でも俺がそうであるのは俺のせいか? 全部、俺のせい?
爆発で生じた火の粉は、あらゆる感情に一瞬にして燃え移る。そして、瞬く間に、全てが怒りになった。
どいつもこいつも馬鹿にしやがって。死ね。どうして俺だけがいつもいつも自分の思い通りに何も上手くいかない。どうして、俺だけがいつも辱めを受ける。俺だけが軽蔑される。ただひとりになりたくないだけなのに、どうしてもいつも負傷してばかりいる。
日月も、淋代さんも、引きずりおろすことだってできなかった。でも、いい。
だったら、直接、刺してやる。
今の俺にはもう、それしかないように思えた。
放課後、帰ろうとしていた淋代さんを呼び止めて、ひと気のない廊下まで来てもらった。
怒りはまだ俺の中で発生した時と同じ熱さで残っていた。
淋代さんは、英語の自習の時と同じくらいには動揺して見えたけれど、それでも歩く姿勢は良いのだった。
光がほとんど入らない薄暗い廊下で、淋代さんと向かい合う。
淋代さんは、黙ったまま俺が話し始めるのを待っているようだった。
まわりに誰もいないことを確かめてから、自分のスマホを操作して、淋代さんの目前に突き出して、自分が撮影した日月と彼女の動画を見せる。
「淋代さん、日月とデキてるよな。俺、知ってるから」
淋代さんは、俺のスマホの画面を真剣な顔で見つめ、数秒後に唇を噛んだ。その瞬間、怒りの半分が、激しい高揚感に変わり始める。
淋代さんは。こんな証拠みたいなものまで撮られて、どうしようと思っているのだろうか。いまさら? 馬鹿じゃねーの。教室とか公園とか、人目につくようなところで会っていかがわしいことをしているから、こうなったんだろ。気持ち悪いんだよ。なんでもできます、高嶺の花ですって感じでいるくせに、こそこそ気持ち悪い相手と気持ち悪いことをして。
日月に質問をしたあと、一発ギャグをしたあと、みんな俺を軽蔑してたけれど、本当に軽蔑されるべきは、俺なんかじゃないだろ。こいつの方が、キモイだろ。
誰も。誰も。当事者じゃないって顔をして。助けることはしないくせに、迷惑だって顔だけうまくて、優しくしてはくれないのに、傷つけることだけはうまくて。自分には関係ないって外野から、非難だけ視線や目で浴びせることは息をするようにやってみせて。
残ったもう半分の怒り。その矢は、本当は、淋代さんにだけ向けたいものじゃなかった。でも、向ける相手は今淋代さんしかいないから、全部射ってやろうと思った。
「あのさ、淋代さん。淋代さんって賢いんじゃないの。知ってるだろ、生徒と教師が恋愛しちゃだめって。つーか、なんで日月なんだよ。あんな覇気のないやつ。趣味悪いんじゃねーの、まあ別にそこはどうでもいいけどさ。日月、犯罪者だよな。だって淋代さん未成年だもん。ねえ、なんで日月とこんな気持ち悪い関係になったの? 俺、知らなかったわ、淋代さんがこういうことしちゃうやつだって。見損なった、まじで。へへ、これ、俺がばらしたら、淋代さんと日月どうなんのかな」
淋代さんに一歩近づく。
「これみんなに言ったら、どうなると思う?」
淋代さんは、俺が近づいた分だけ後退りながら、追い詰められている人間がする、青ざめた顔をしていた。
その顔には覚えがあって、胃が引き攣るように痛む。でもそれもすぐに消えて、俺のほとんどが高揚感に支配される。
他人との関係の主導権を握るというのは、こんな感じなのかと思った。支配しているような、自分の手のひらの中で踊らせるような、こんな、こんな。
「自習の時に、日月に嘘吐かせたよな。恋人いません。童貞ですって。かばわせて、自分は何も関係ないって顔してたよな。だめだろ。自分がだめなことしてるって分かってんの? 今日の昼間だって、俺、本当のこと言ったはずなのに、怒られて、みんなの前で謝らされたじゃん。あれ、謝り損じゃね? 悪いの淋代さんたちじゃん。淋代さんも、俺に謝って。謝れよ。嘘ついてごめんなさいって。私のせいで一発ギャグさせてごめんなさいって。ちゃんと、謝んないと」
自分が草間になっているような気分だった。今の、俺は、草間で、九十九で、矢野だった。そして、淋代さんは、いつもの俺と同じだった。
淋代さんは、焦燥感が滲んだ青白い顔で俺をじっと見ていたけれど、何を思ったのか、突然その場にしゃがみこんで、土下座の体勢をとった。
「申し訳ありませんでした。日月先生は何も悪くないです。すべて私が悪いです」
頭を床につけて、淋代さんが言う。咄嗟に、俺はまたまわりに人がいないか確認してしまう。
綺麗な土下座だった。そこまでしてほしかったわけではなかったのに、高揚感はさらに膨らんで、公園で二人を盗撮した時と同じように、また股間が硬くなっていく。
ゆっくりと淋代さんが顔をあげて、俺を見上げる。
淋代さんのことを、出会ってからはじめて惨めだと感じていた。いつもの俺を見ているような気分になって、自分まで惨めになる。
怒りながら高揚して、惨めになっている。三つ同時に上手くできるわけもなく、俺はもうわけがわからない。
「二人の動画、俺、ばらまくから」
追い打ちをかけるようにそう言うと、淋代さんは今にも泣き出してしまいそうな顔をした。
そんなに日月との関係がばれるのは嫌か。馬鹿だろ。気持ち悪いんだよ。この様子も撮ってやろうか。俺は今俺ではなく草間たちだから、酷いことだって簡単にできると思った。
スマホを操作して、カメラアプリを操作する。撮影開始のところに触れようとする。だけど、触れる前に後ろから足音が聞こえて、振り返ると、そこには日月がいた。
「お二人は、何をされてるのですか」
戸惑う、でも次の瞬間には、好都合だ、と思い直す。
日月は、俺と淋代さんのところまで静かに歩いてきて、俺と向かい合うように立った。
じっと見られる。顔を。日月が視線を下に滑らせて、俺の腹の下で止める。じっと、見られていた。盛り上がったズボンの部分を。
「僕も、君たちのスタンスで行きましょう」
日月は抑揚のない声でそう呟いて、す、と俺の股間を指さした。
「ひとに土下座させるのが、針生君の性癖ですか。興奮してますね」
指摘された瞬間に、頬がかっと熱くなるのを感じた。でも、ここで負けるわけにはいかなかった。
教師のくせに、と思いながら、怒りの矢を射る先を日月に変える。
「他人のこと言えんの? 俺は、まじで知ってますよ。あんたと淋代さんがデキてること。どうするんすか。あんた、弱み握られてんだよ。これ、他の先生に見せたら、あんたどうなるんだろうね。恋人はいない? 童貞? 嘘吐くなよ。きめーんだよ」
まわりには俺たちのほかには誰もいないけれど、いずれ誰か来るかもしれない。でも、俺は声を抑えようとは思わなかった。誰に聞かれてもかまわない。むしろ、ばれてしまえ。
大人を罵倒するなんて初めてで、さらに興奮する。俺の制服のズボンは不自然に盛り上がったまま、平常時のように戻ろうとしてくれない。でも、かまわない。
「……あんたも俺に謝れよ。謝れ、謝れ!」
「人を脅して詰りながら、謝罪を要求して勃起してるのと、未成年と成人した人間が交際をするのだったら、どちらの方がより悪趣味なんでしょうね。針生君、僕に、謝ってほしい? 淋代さんにも謝ってほしかった? 本当は違うんじゃないですか。君が、謝ってほしい相手は」
「は? 何言ってんだよ」
日月が、俺に一歩近づいて、眉間に皺をよせた。
不快感を露わにする日月を見るのは初めてで、俺は目がはなせなくなってしまう。
怒っている、気がする。俺は、怒ってる。でも、日月も怒っている気がした。それはでも俺に対して、ではないような気もした。
「今日、君、なぜひとりだけ謝ったの」
「……は」
「君だけが悪いわけじゃなかったでしょう。なぜ、草間君たちに抵抗しなかったのですか。なぜ、君は一発ギャグなんていう辱めを簡単に引き受けたんですか」
「……は? うるせーんだよ、淫行教師が」
俺の声が廊下に響く。でも、誰も来る気配はない。
誰でもいいから来てほしい。易々と、助けてほしくなっている。追い詰めたはずなのに、形勢逆転を仕掛けられた気分だった。
俺は確かに、淋代さんと日月に自分の怒りをぶつけている。だけど、確かに、本当にこころの底から謝ってほしい相手は彼らではなかった。いつも、いつもそれは、別なやつらだ。日月はさらにもう一歩、俺に近づく。
「君には君のゲームがあるんだよ。でも、僕には僕のゲームがあって、淋代さんにも淋代さんのゲームがある」
「……ゲームって、何だよ」
「自分の人生のことです。ほかでもない、自分が手綱を握って全うする人生です。自分以外の誰にもその手綱を握らせてはいけない」
いつもの日月とは違う。強い声だった。
日月は、俺と目線を合わせるためか、少し背を曲げて顔を近づけてきた。それで俺の視界は、日月でいっぱいになる。日月の薄い唇が、目前で、ゆっくりと開く。
「僕は、嘘なんて吐いてませんよ。淋代さんと恋愛関係かどうかには、はっきりと否と答えます。教師と生徒だ。君には分からないだろうけど、僕の中には恋愛感情は存在しない。君くらいの年齢の時にはよく聞かれましたよ。クラスメイトや友人に。その後の人生でも節目節目で聞かれる。彼女はいないのか。結婚はしないのか。君が手にしている前提は僕にはないので、十代の頃は、よく打ちのめされて、君みたいに愛想笑いばかり浮かべてました。君のゲームと、僕のゲームは、本当にね、違うんですよ」
「……知らねーってそんなの。誤解される方が悪いだろっ」
「どうして誤解する方は、いつも正しいって顔をしてるんだろうね。でも、そうだな。そういう風に見せる必要があったことは事実です。だから、こちらにも落ち度はあります。僕は君には謝りませんが。君だって、もうこれ以上、誰にも謝らなくていいじゃないですか」
謝らなくていい。これ以上。でも、俺は他人に謝ってほしい。そうだ、謝ってほしかったのだ。
謝ってほしくて苦しかった。酷いことをしていると思ってほしかった。対等に接してほしかった。そういう自分をずっと殺してきた。
他人の弱みを握ったら、理解できると思った。どの側に立つかは自分ではどうしようもないことで、それは神の采配だから、どの立場にいようが誰も悪くない。そう信じることでしか、もう生き延びることができないと思っていた。ずっと、そう信じてやりすごしていた。
「……先生、気づいてただろ。公園で。俺が先生と淋代さんのこと見てたこと」
「はい」
勃起は、いつの間にかおさまっていた。
自分の体内をめぐっていた熱がゆっくりと引いていくのを感じながら、俺は、日月からしゃがみこんだままの淋代さんに目線を落とした。
自らの意思で加害することもできる。そういう自分に安心して、興奮していたのは確かだった。やられるだけじゃなくて、やることもできるんだって分かったら、やられることは大したことではなくなるんじゃないかって思っていたから。
淋代さんをじっと見つめながら、俺は息を吸いこむ。
もう、自暴自棄になってやろう。そういうことを、これまでの日々を諦めるように思った。自分でも知らない、穏やかな自暴自棄だった。
「…………暴行を、受けてます」
薄暗い廊下に、俺の声が小さく響く。
自分の手のひらをぎゅっと握りしめて、もう一度息を吸いこむ。顎が震えて、滑らかに空気が入ってこなかった。
でも、続ける。こんなはずじゃなかったのに、と思いながら、本当はどこかでこの時を待ってたんじゃないか、とも思う。
ずっと待っていた。
「……草間と、九十九と、矢野に、暴行を、受けてます。つねられたり、蹴られたり、するんです。毎日、じゃないけど。見えないところに、痣とか傷ができるまで。針生は、貧弱で、情けないから、男になったほうがいいって、男になる練習だって、放課後の空き教室で。でも、俺は、いつもへらへら笑ってます。……知らない後輩の女の子に告白しろって言われて、好きでも何でもないのに汚い言葉で告白して、その子のこと怖がらせて、その様子を撮影されて、今も時々流されて笑われます。購買のパンも、多い勝ちをするけど、俺ばっかり負けるから、いつもいつも三人のパンを買わされる。俺は、パシリで、暇つぶしの玩具みたいなものだけど、三人にとっては、ただのいじりだから、俺は、三人の友達、だから。もっとひどいことされるのは怖くて、俺は、今の俺から、どうやって抜け出せばいいか分からない。分からない、です。ただ、ひとりになるのは、嫌なんです。ひとりは、怖いから」
言い切って、口を閉ざす。
急に何を言い出すんだと思われたかもしれない。でも俺の中では、二人を脅そうとしたこととしっかり繋がっていて、開き直ってしまえば、繋がっていないことなんて世の中には何もないのだった。
誰かに、聞いてほしかった。言い終えてから気づく。気づいたら、鼻の奥がつんと痛んだ。
「傷、見せて」
日月が呟く。嘘を吐いたと疑われてるのかと一瞬思ったけれど、見上げた先の日月の表情は俺に不信感を抱いているようなものではなかった。
俺の知らない優しい顔をしている。
俺は、制服をまくって、右腕を胸の高さまで持ち上げる。骨みたいな俺の腕は、薄暗い廊下では血が通っていないように見えた。数日前、九十九につねられてできた痣と、草間と矢野に笑いながら布を絞るように握られてできた痕がまだ残っていた。
「針生君」
か細い声が、俺を呼ぶ。淋代さんだった。
俺は日月に自分の腕を晒したまま、「何」と淋代さんに返事をする。
淋代さんは、ゆっくりと立ち上がって、日月の隣に並んだ。もう俺の目には、二人が恋愛をしているようには全く見えなかった。
「私は」
淋代さんの声が震えている。彼女は、今にも泣き出しそうだった。
放課後の教室で日月と二人でいるのを見た日から、彼女が取り乱す姿をたくさん想像した。つい数分前までは、自分と同じ側に突き落とそうと考えていた。
だけど、今、彼女のことを追い詰めて泣かせるようなことをしなくてよかった、動画を撮る前に日月が声をかけてくれてよかったと心の底から思っていた。
俺は、やっぱり他人を傷つけたくない。傷つけたくないし、傷つけられたくない。どの側にいても、どの立場でも。
「私は、私の場合は、万引きがやめられなかったの。お店で、物を盗む自分を止められなかった。私の弱みは、日月先生じゃない。日月先生には、私が万引きをしてしまわないように協力してもらっていたの。私なりに考えて、スリルを他のものに、置き換えてみようと思った。その代替案が、日月先生との偽装恋愛、だった。本当には、日月先生に触れてないよ。一度も。絶対。でも、ばれそうで、ばれない、そういうスリルが私には必要だった」
「万引き?」
淋代さんが頷く。
俺は瞬時にものをたくさん考えるのが苦手だから、すぐには彼女の言い分が理解できなかった。だけど、偽りの逢瀬に危機感が足りないと感じたのは、あえてだったのかとか、彼女は決して俺を騙しこむために取ってつけたような嘘を吐いているわけではないのだろうとか、そういうことははっきりと分かった。
「針生君、考えもしなかったでしょう」
「……それは、だって、ずっと淋代さんは、完璧な人だったし。そんなの考えるわけ、ないよ」
「……そうだよね。私も。……私も、考えたことなかった。気づかなかった」
淋代さんはそう言って、俺の腕に手を伸ばして、草間たちから与えられた痛みの印に、そっと指先で触れてきた。
「痛いよね」
「…………痛いよ」
痛い。今も、痛い。心も体も痛かった。頷いたら、みるみるうちに視界が滲んでいって、まずいと思ったけど、もう無理だった。
「同じクラスなのにね。あなたが、私が万引きすることに気づかなかったのとはわけが違う。ごめんなさい」
「淋代さんは、悪くないよ。何もしてないだろ」
「気づかないことも気づこうとしないことも、十分、罪だよ」
一度溢れたら涙はとまらなくて、恥ずかしかったけれど、今は、泣くのを我慢しないことにした。二人の前にさらした腕が痺れてきて、裾をまくりあげたままそっとおろす。
見えているものが全てではない。見えているものは、世界のほんのわずかだけなのだと、分かり合えていなかったという事実を他者と突きつけ合わないと、気づけない。そういうところでこれからも生きていくんだと思うと途方に暮れてしまうけど、こういう瞬間が死ぬまでにあと数回は訪れるような予感が、不思議とこんな時にもあった。
日月が、お二人ともいいですか、といつもの抑揚のない声で言う。でも、聞こえているものも、聞こえている通りではないのかもしれないって、今の俺は思っていた。
「淋代さんは、引き続き。今からは、針生君の困り事にも協力しますよ」
「……先生、脅してきた生徒に、よくそんな気前がいいこと言えますね」
「さっき、君の生理現象を指摘したでしょう、僕。どんな事情があれ、ああいうのはよくないことですから、おあいこです。それに、君たちは未成年だ。僕は、君たちよりは大人で、一応、教師です。とはいえ、大人も間違えますし、これから、君たちの望むままに協力できるとは、思わないでいてください。それでもね、針生君」
日月はまた背を窮屈そうに屈めて、俺と目線を合わせる。
相変わらず、生気のない表情をしている。でも、俺をきちんと見てくれたのは、日月が初めてのような気がした。
「決して、君を見捨てはしません」
日月の薄暗い瞳に、俺がうつっている。
「針生君、どういうことか分かりますか」
「どういう、こと」
「君は、本当の意味でひとりにはならないということです。僕はね、こんな大人だけど、ひとりが怖いということはよく分かっているつもりです」
日月が俺の腕を指さして、触れても大丈夫ですか、と俺に聞く。俺は、ぼろぼろ泣いたままで頷いた。
そしたら、日月は俺の腕をとって、自分のスーツのポケットから絆創膏を取り出すと、俺の腕にある、草間たちにつけられた中でも一番目立つ痣に、ぺたんと貼った。それはうさぎのイラストが描かれた可愛らしい絆創膏だった。
何だよこれ、と思いながらも、涙は余計に溢れてきて、嗚咽と笑いが混じった息を漏らしてしまう。
「……これ、先生の趣味?」
「そうですね。痛みにはひとさじのユーモア。だけど、強がったり、無理をしたりするのは、違います。針生君、傷は、傷だから。どういう理由でつけられたとしても、どう自分が納得しようとしても。だから、君は、自分がもうこれ以上傷つかないようにしなければならない。傷つけてもいい人間も、傷つけてもいい人間もいません。君は、君が傷つくことをなるべく許さないようにしてください。そのために何ができるか、これから一緒に考えます」
「傷は、傷」
「そう。ここから先はもう、相手のゲームからおりるんです。君は君のゲームを生きる。草間君や九十九君や矢野君のゲームに君が付き合ってあげる必要はないです。他人のゲームを自分に都合よくすりかえてもいい」
「自分の、ゲームを、生きる」
「他人のゲームの駒には、絶対になってやらない。僕が言っていること、分かりますか」
俺は、日月がはってくれた絆創膏をじっと見つめながら、慎重に首を縦に動かす。
「……先生は、本当に、俺をひとりにしないですか」
「しません」
「本当に?」
「約束するよ」
俺は一度、日月を見上げて、日月の瞳にうつっている自分の輪郭を確かめてから、また絆創膏に視線を戻した。
「先生は、嘘は吐かないと思う」
淋代さんが、優しい声で俺に言う。
「淋代さん」
「うん?」
「今日、ごめんね」
「お互い様だよ」
「うん、でもごめん。……あと、日月先生」
「何ですか」
「俺は、俺が傷つくことを、もう、許したくないです」
「はい。許さないでください」
もういいんだと思った。僕とセックスしてくださいなんてひどい言葉を吐いて他人を怖がらせないで済むんだと思った。購買のパンを俺だけが買わなくていいんだと思った。誰も幸せにはならない一発ギャグをしなくていいんだと思った。
ひとりになることが怖くて痛みに耐えなくていい。もう本当は一秒だって耐えられない。俺は、もう耐えない。決心をしたら、少しだけ自分に許されたような気がした。
痣の上に日月が貼ってくれた絆創膏のうさぎたちは、今、俺に微笑みかけている。
スーパーマーケットの自動ドアを通り抜けて外に出た瞬間、ものすごい力で鞄を引っ張られて店の中に連れ戻された。
ああついにばれたんだ、と思いながら相手をうかがうと、私の鞄を乱暴に掴んで店内に導いていたのは、スーパーマーケットの店員ではなくスーツを着た男だった。それも赤の他人ではなく、よく知った人間で、どうしてあなたが、と、ようやく自分の中で動揺が走る。
男は、客の途切れたレジまで私を連れて行くと、そこにいた年老いた女の店員に、すみません、と声をかけた。
それは、いつも耳にしている無機質な声音だった。捕まった相手は予想外であったものの、結局のところ今から自分の罪が明るみに出て私は今日終わるのだろう、そう覚悟して男が私のしたことを店員に告げるのを待つ。
だけど、男の口から出たのは全く違う言葉だった。
「妹が、間違えて会計もせずに商品を外に持ち出してしまったみたいです。申し訳ないです。ほら、出して」
妹。間違えて。出して。言葉はひとつひとつが独立して耳に届き、私の脳は、出して、だけをきちんと処理する。
鞄の中から、棒付きのキャンディーを取り出す。それをおずおずと店員に差し出すと、「あら、間違えちゃったの。大丈夫ですよお」とどこまでも善良な顔つきで彼女は私からそれを受け取った。
間違えても、大丈夫でも、ない。感情というものは遅れてついてくるもので、今日の罪を手放してしまったあとになって、ようやく手がぷるぷると震えだす。
そんな私の隣で男は、「それ、買います」と店員に告げて、98円を支払い、罪を正しい売買に強引に変えた。
「申し訳ないですが、彼女、ちょっとぼんやりしているところがあって。これからも、間違えて持って行ってしまうかもしれないので、少し注意していただけると助かります。本当に申し訳ございませんでした。ほら、君も、謝りなさい」
淡々とした口調で謝罪を促されては、実はそうではなくて、と店員に切りだせるわけもなく、私はゆっくりと頭を下げる。
「ごめんなさい、気を付けます」
「いいのよお、また買いにいらしてくださいね」
最後まで、店員は優しく、あたたかい態度で接してくれた。
この人の子どもだったらこんなことにはきっとなっていない、そういうことを思いながら、また男に引きずられるようにして店の外へ出た。
外気に触れた瞬間、我に返って素早く男から距離をとる。男の目にはあまり光量が含まれておらず、それは昼間見ている時とほとんど同じであるのに、学校の外と中ではどこか違った人間に見えた。
よそゆきの自分像が、私にはしっかりとあった。だけど現場をおさえられた後では、取り繕うのも難しくて、嫌悪感を隠すことなく、男を見上げる。
「あの、日月先生」
悪いことをしていたのは自分なのに、思いの外、強く怒っているような声になってしまい自分でも驚いた。
「何なんですか?」
右手には黒色の鞄を、左手には正当な手続きを経て手に入れた棒付きのキャンディーを持った彼は、乏しい表情のまま、「それはこちらのセリフです」と返してきた。
「私、退学ですか」
「どうでしょうね。退学にはならないんじゃないですか。しかも、間違えて持ち出したことになってますし」
「それは先生が」
「淋代さん、僕はね、今までこの店で二度見逃しました。仏の顔も三度までって言葉はご存じですか」
「……先生が仏ってことですか」
無性に苛立ちながら尋ねると、彼はにこりともせずに、「そういうことになりますかね」と冗談なのか本気なのか全く分からない返事をよこして、私にキャンディーを差し出してきた。
別に欲しくもなかった、身体に悪そうな色をしたキャンディー。盗む価値もない。だから、それは私に選ばれたのだ。奪うように受け取ると、彼は背を屈めて、私と目線を合わせながら薄い唇を震わせた。
「淋代さん、少し話せますか」
◇
はい、とペットボトルの水を渡されて、芝に座ったままそれを受け取った。
話せるかと聞かれて恐る恐る頷くと、彼は、どこかへ行こうとするので、私は一定の距離をあけて彼についていった。
そしてたどり着いたのは、大きな河川の向こうに工業地帯の眩い光が散らばって見える河川敷だった。
彼は人が二人ほど入るくらいの距離をあけて、私の隣に腰をおろした。
河川の向こうを眺める彼の横顔はどこまでも静かで、だから余計に怖くなった。昼の校舎で見る彼は、生きがいもなさそうな態度で、面白くもなんともない数学の授業を行って、生徒に干渉もせず媚びも売らず息をしているような、つまらない大人だった。だから私は、鞄を引っ張られて店に連れ戻されながら、あなたは他人のためにこんなにも力を出すことができるのか、と少し驚いたくらいだった。
「いつからですか。はじめてではないことは、知ってます。少なくとも僕は、今日の分もいれて三回見ましたし、初めて見た時も慣れている印象を受けました」
私を見ないまま、彼が言う。
「家、近くなんですか」
はぐらかすと、彼は浅く頷いて、「そうですね」と答えた。
せせらぎの音が徐々に不安を薄めてくれて、私も河川の向こうの光を見つめながら、「春くらいからです」と伝える。
ここは、静かで穏やかな絞首台なのだと思った。
優等生だと他人からよく言われる。現に、学校ではそういう自分を生きていた。だけど、彼にしてみれば、私はもう、棒付きキャンディーを会計を済ませずに店の外に持ち出した子供なのだからなんだっていいだろう、そう思った。
自棄になりながら、ほっとしてもいて、何だかもうよく分からない気持ちだった。
「理由は、聞いてもいいですか」
責めるような声ではなかった。本当に興味があるのかどうかもいまいち判断がつかなかったけれど、どちらでもいいなと思った。隠すことでもない。それに、彼は私を強くしかりつけたりはしないはずだ。そういう活力がある人には、今も見えなかった。
「はじめは、叱られたくてやってました。だけど、成功してしまって、くせになってるんだと思います。ばれたら叱られると思うと、ぞくぞくするんです。その時だけは、憂鬱が全部消えるから。スリルが、欲しいんです。……でも、あのお店ではもう無理ですね。先生があんなことを店員さんに伝えてしまったから」
ふざけたことを言っている自覚はあった。だけど、なぜ、盗るのか。自分が手にしている理由が丸ごと本当かどうかは自分でも分からないけれど、スリルが欲しくてたまらない。それだけは確かだった。
「万引きは、犯罪ですよ」
どんな言葉が返ってくるのだろうと少し身構えていたのに、当たり前のことを言われて拍子抜けしてしまう。そんなことは十分理解していた。はじめて他人に理由を渡したのに蔑ろにされたように感じて、少し腹が立った。
「先生、大切に思う人とかいるんですか」
「急に、何?」
「いや、いなさそうだなと思って」
当てつけのように嫌みを言う。でも、言ったそばから、いたところで何になるのだと思う自分もいて、「いなくても生きていけると思ってはいます」と付け加えた。
「いません。他人をどう大切にすればいいのか僕にはわかりません。結婚とかそういうことも、ありえないですし」
彼はそう言って、三角座りを崩して、芝の上に手をついた。彼の瞳の中にあった光が動く。その動きをじっと見ていたら奇妙な衝動に襲われて、「万引きなんて手段です。そんなことより私は。どうして自分が生きているのか、分からないんです」、自分の内側をひらいてしまう。
なぜ、ひらいてしまったのか、自分でも理解できなくて、ひらいてから、戸惑う。だけど、中途半端なところで口を噤むのも嫌で、この際、言いたいことは言ってしまおうと思った。
「私の家は、お金には困っていないんです。むしろありすぎるくらいなんです。大きすぎる家に父と母と三人で住んでいるけれど、二人ともほとんど帰ってこないから。余っている部屋が、私、怖くて。なぜ、一緒にいようとはしないのに、産むことにしたんだろうと思います。両親の顔なんて、もう一週間以上見てません。不在の臭いがずっとしてるんです。家は。自分からも、するんです。しつこいくらい、臭う。それを誤魔化すために、小さな悪事を繰り返すようになりました。それがエスカレートして今です。私には保つべき私の像があるから、成績も下げられないし、誰とも問題を起こしてはいけない。優秀でいなければいけない。それは別に難しいことではないです。でも、先生、そんなものは、すべて幻なんです」
はじめて自己開示をする相手が、こんな大人でいいのかとは思った。覇気のない横顔。姿勢だって悪い。でも、だからこそ、遠慮なく押し付けることができたような気もした。
「私、また、万引きすると思いますよ」
言いながら、笑ってしまう。
「まるで他人事みたいに言うんですね」
彼が、私の方に顔を向ける。
目の中の炎。そういうものが全くない大人なのだと思っていた。だけど、ある。あったということを、今、目を合わせて、理解する。彼のは、燃えているのではなく、凍っているのだ。今まで他人から感じたことのない情熱を彼から見出してしまって、少し狼狽えた。
「だって、私なんて両親が勝手に産んだ人間に過ぎないじゃないですか」
「それはどういう理屈ですか」
「……意味なんてないです」
「まあそうだね、他人が勝手に産んだに過ぎない人間しか、この世にはいませんよ。でも、そういう自分だからこそ、自分の人生を生きるべきだとは思いますよ。生まれるという、一番重要な決定権をほかに譲っているのだから、それ以外は、勝手にやればいい。でも、犯罪は悔しくないですか。法を犯すと、自分のゲームが滞る」
「ゲーム?」
「自分が手綱を握って全うする人生のことです。自分以外の誰にもその手綱を握らせてはいけない」
「……ひとまず、私は、どうすればいいんですか」
「そうですね。別のスリルに置き換える、とか、その気になって探せば、方法なんて山ほどありますよ」
「別のスリル? あ、先生と恋愛しているふりとか? ばれたら何かしらの制裁が加えられるはずですし、ちょうどいい気がしますね」
ほとんど冗談だった。彼のポーカーフェイスが少しは歪めばいい。そういう幼稚なことを考えていた。
だけど、彼はしばしの逡巡の後、提案する前と同じ表情で、あっさりと頷いた。
「君がそうしてみようと考えたなら、いいですよ。淋代さん、僕には恋愛感情が存在しない。だから、もしも誰かに疑われても、それはどこまでいっても誤解の範疇をこえませんから。安心です」
普通の感覚を持っている教師ならば、速攻で破棄するべき提案だったはずだ。そもそも、万引きを見つけた時点で、謝罪させて親に連絡して担任に共有して私に何らかの処分を下すというプロセスを用意するべきだったはずだ。
彼は、おかしい。でも、彼がはじめてだった。たとえそれが教育的ではないのだとしても。正しくないのだとしても。私に指導をしようとした教師は。幻ではない私をしっかりと両目にうつしてくれたのは。
その後、彼は、誰もいない家まで一緒に帰ってくれた。私は、キャンディーを舐めながら、いつもよりものんびりと歩いた。会話は何もしなかった。だけど、不思議と心地がよかった。
万引きをしないために、スリルを偽装恋愛で補う。
考えてみれば、いや、考えてみなくても、日月先生にメリットなどなかった。
本当には触れ合わないこと。それだけを決め事として、塾のない放課後、校舎の中や近隣の公園で恋愛ごっこを行った。
見つかったら、非難される。いつ、どこで、誰に見られてしまうか分からない。正と不正の境界線を綱渡りするような偽りの逢瀬からは、万引きにも劣らないスリルが得られた。ばれないで済むたびに満たされていたけれど、さらなるスリルが欲しくて、段々と自分の行為がヒートアップしていくのを自覚していた。いつか、取り返しがつかないことになるだろうと思った。
そしてその時は、思いのほかはやく訪れた。
だけど事態は思っていたところには落ち着かず、私は今、徹底的な糾弾を受けるかわりに、クラスメイトの傷ついたあとを見つめていた。
「俺は、俺が傷つくことを、もう、許したくないです」
針生君が、泣きながら言う。
しばらくすると、彼と私と針生君がいた薄暗い廊下に、蛍光灯の明かりがついた。
暗くなりすぎると勝手につく仕様になっているからついただけで、他人が来る気配は依然として全くなかった。
針生君は、安堵と苦しみが混じった表情でずっと泣いていたけれど、自分の中で何か覚悟でも決めたのか、うん、うん、と二度頷いて、折り曲げていた制服の袖をもとに戻した。それから、顔をあげて、私と彼の方に目を向けた。
「動画は、絶対に消すから。安心して」
優しい人から、傷ついていく。他人を傷つけられない人から、舐められていく。我慢できる人は、我慢できない人よりも我慢を強いられる。ここはそういう世界だった。でも、そういう標準を自分の標準にする必要はない。勝手にしろ。もっと勝手に生きればいい。そういうことを、彼は私にも針生君にも言っていた。
もう一度、ありがとう、と、ごめんなさい、を針生君に伝える。
「淋代さんも、先生も、また明日」
そう言って、針生君は私と彼に背を向けた。私は、その背中が角に消えていくまで見つめていた。
針生君が去って、彼と二人きりになると、少しの不安が自分の中に戻ってきた。
これでよかったのだという気持ちも、ここからまたはじめるのだという気持ちも、本当だったけれど、救いのようなスリルを失ってしまったこともまた事実だった。
蛍光灯の明かりがあるとはいえ、あんまりに廊下が暗いから、外の光が入る窓がある大廊下まで移動する。彼もついてきれくれて、並んで窓の外を眺めた。
夕焼けがまさに終わろうとしていた。
大廊下には、他の生徒の姿もあった。でもやましいことなんて何もないのだから、どうだってよかった。
「また、私は万引きをしてしまうかもしれません」
彼にだけ聞こえる声量で伝える。
夕方と夜の境目に不安定に浮いてしまっている気がして、心許なさを覚える。彼が、浅く頷くのを視界のはしでとらえた。
私はいつだって大丈夫ではないのに、彼に自分の秘密を打ち明けたあの日から、大丈夫じゃなくても大丈夫なのだと、そういう安心感だけは自分の手のひらの中にあるのだった。
「こんなことがあったからもうしないでおこうって、思っていられる自信はないです。今だって家の部屋はたくさんあいているし、ほとんど誰も帰ってこない。私はいつもひとりで、正しい自分の幻にしがみつくのをやめられない。前とは、変わったわけではないから。自分を自分の力で制御できる気は、当たり前だけど、今もしないです」
「自分であれ他人であれ、完全にコントロールできるものなんてこの世にはありませんから。また、他のスリルを探せばいいですよ。それに、補填する以外にも、方法はあるはずです。また、考えてみる。それだけのことです」
「私、先生とはなれるまでに、克服できるんでしょうか」
依存じみた言い方になる。恋愛感情なんかの何倍も淀んでいる。でも、かまわない。淫行やわいせつ行為でなければいい。恋愛でなければいい。他人の用意した標準を逆手に取っている。それでいいのだと、彼が私に教えたのだ。自分のゲームの上で生きるために。
「そのあとも、協力はできますよ。卒業したって、君は生徒ですから」
「……先生、何だか、教師よりも教師みたいですね」
「みたいではなく、教師です」
「そうですね。でも、今更ではあるけれど、私はずっと、先生が好きで教師をしている風には思えなかったから」
彼と話をしていると安心する。その理由を、変なタイミングで、唐突に悟る。
不在の臭いが自分よりも濃いからだ。
正当化したいだけかもしれない。だけど思う。今、先生にも、私がいて、針生君もいて本当によかったと。
「淋代さん」
名前を呼ばれて、彼に目をやる。
彼は他人を気持ちよくするための表情を浮かべる大人ではない。耳ざわりのいい言葉で夢や希望を語らない。でも、だからこそ、私は彼を信じることができると思った。
「君の万引きを目撃して、見て見ぬふりをしなかった。あの時、僕はね、はじめて職務を全うしたと感じました」
もう夜になる間際の夕焼けが、彼の目にうつっている。
「君が、僕を教師にしたのだと思います」
彼はそう言って、今この時を慎重に切り取るみたいに、ゆっくりと瞬きをした。
いつもとさして変わらない乏しい表情を浮かべている。だけど、それはどこか清々しい横顔だった。