いつか追いつくまで

 夏休みの図書室当番は、思っていた以上に退屈だった。三日前の夜から馨と一緒という事に浮かれて、熟睡できない日々となったのだが、今思えばさっさと寝てしまえば良かったと、直哉には後悔しかない。というのも、時間ぴったりに図書室に来たのは直哉だけで、馨は昼過ぎに欠伸をしながら現れたのだ。
「馨さん、遅いですよ」
 馨が机にスクール鞄を置く横で、直哉が言った。
「直哉、本当にごめん。昨日寝付き悪くてさぁ。俺、今日が相当楽しみだったみたい」
 馨はいつも通りに笑って見せたが、直哉には嘘っぽく見え、眉を寄せる。きっと受験生として遅くまで机に向かっているのだろう。後輩の手前、はっきりと言わないあたりが馨らしい。だけどここまで連絡無しは格好付ける所ではない。バイト先に突然現れた日以来だったせいで、自分だけ舞い上がっていた事もあるが、それ以前に何か遭ったのかと心配で堪らなかった。しかし、目の前の先輩は肝心な事は口にするのが苦手なようで、はぐらかすことを当然とし、いつも変に距離を取られている気がしてならない。そんな直哉の心を知らない馨は、返却ワゴンに重ねられた本が数冊しかないのを見ると「もしかして殆ど終わってる?」と尋ねた。
「……次からは連絡ぐらいくださいよ」
 溜息混じりに直哉が言うと、馨は眉をハの字に寄せた。
「あはは、うん。次からはそうする。一人で大変だった?」
 そう聞かれて直哉は首を横に振った。本の返却に来たのは午前中に数人。貸し出しも片手で数えられる程度。コンビニバイトよりも遥かに楽だった。
「そっか。それじゃあ、これは俺が片付けるから。直哉は休憩してて」
「いいですよ。俺もやります」
「だーめ」
 そう言うと馨は直哉の顔にぐっと自分の顔を近付けた。
「ちゃんと鏡見た?目の下のクマ、酷いんですけど?」
「えっ」
 直哉は思わず目の下を抑えた。
「夏休みだからって毎日夜更かしかぁ?何してるんですかねぇ、まったく」
 ニヤニヤと笑いながら馨はカウンターの中に入って行く。正直な理由を言うのも恥ずかしいが、変な想像をされているのも我慢ならない。直哉は半ばむきになって、馨が持ち上げた返却本を半分掻っ攫っていった。


 お盆明けの当番には、流石の馨も時間厳守でやってきた。本当はベッドからも、クーラーの効いた涼しい部屋から出るのも大変だったとぼやいていたが、今日は今年一番の夏日と天気予報で聞き、昼過ぎに出掛けるのはもっと大変になるだろうと、朝からしんどい身体を引きずって来たと言った。しかし、そう頑張って来たというのに利用者は現れず、午前中は掃き掃除をして終わり、午後はそれぞれ持って来た夏休みの課題に取り組んだ。向かい合わせに座り、黙って問題集に取り掛かる。直哉が取り出したのは一番苦手な数学の問題集。早めに手を付けてはいたものの、応用問題で躓いてから開く気がなくなってかなりのページ数が残っていた。
「分からないところ、あれば教えるよ」
「え?」
 馨の意外な申し出に驚いて、直哉は勢いよく顔を上げた。
「俺、その辺得意だから」
 馨は顔を上げず、問題集を黙々と進めながら静かにそう答えた。
「……あ、ありがとうございます」
 直哉は一瞬躊躇して返事をした。目の前には既に手も足も出ない問題があるが、なんとなく今は彼の手を止めてはいけないと思って踏み止まる。去年の自分も受験生だったが、ここまで集中して勉強へ取り組む事はできなかった。邪魔をしては悪いと思い、直哉は解答を開いて解説へと目を向けた。


 夏休み最後の当番の日は、意外にも利用者が多かった。というのも、夏休み終了二週間前からは文化祭の準備が始まり、登校する生徒が多いからだった。温暖化の現在、全ての教室が冷暖房完備となったが、図書室はどの教室よりも冷房が効いているためミーティングを行う者たちがこぞってやってくる。それも殆ど上級生達で、普段の図書室では考えられないほど賑やかだ。司書の星野も毎年この時期はこうなのよ、と半ば諦め気味に言った。
「馨さんのクラスって文化祭は何するんですか?」
 賑やかな図書室をカウンターの椅子に座り、ミーティングの様子を眺めながら直哉が言った。いつものように向き合って課題を進められないため、カウンターに問題集を広げている。利用者は大勢いるが、カウンターに本を借りに来る者は殆どいなかった。
「俺のところは劇。赤ずきんと白雪姫混ぜたやつとか言ってた」
「へぇ。何役ですか?」
 馨の事だから、きっと王子役だろうと直哉は予想を立てていたが、馨は「裏方」とあっさり答えた。
「勿体無い……」
「何が?」
 思わず口にした直哉の呟きを馨が拾う。
「裏方って力仕事が多いでしょう?馨さん、ちゃんと出来るんですか?」
 直哉は問い詰められる前に話題を差し込む。すると、心外だとばかりに馨が唇をへの字に曲げた。
「一応その辺の女の子よりは力ありますけど?」
「その割には俺に返却本どさどさ持たせますよね」
「後輩への洗礼は先輩がしてあげないと意味がないからね」
 ふふん、と鼻を鳴らして馨が得意気に言う。
「それにね、図書委員って文化祭当日にも仕事があるんだよ」
「え、そうなんですか」
 馨は頷くと、直哉を手招いて司書室へ移動した。そこには以前当番の際には見かけなかった大きな段ボール箱が三つほど積み上げられていた。
「なんですか、これ」
「古本だよ。文化祭で毎年古本市を開いてるんだ」
「へぇ……」
「特に大学の赤本とか毎年増えていくものはこうやって少しずつ減らしているんだよ。本棚は増やせられないからね。お盆明けから星野先生が少しずつリストアップした本を移動させてたんだ」
 積み上げられた箱のすぐ横に畳まれたままの段ボールがあるのを見ると、まだ箱は増えることが分かった。確かに赤本は毎年購入していくと一校分だけでもかなりの量になってしまう。馨の話だと、直近三年分は残し、毎年入れ替えを行なっているようだった。
「で、この古書を売る店番が俺たち図書委員ってわけ。劇の本番と当番が被ったりしたら面倒だし、こっちの準備もあるから抜け出しやすい裏方を選んだの」
 馨はもっともらしい理由を並べて言ったが、それでも直哉の中では勿体無い、という気持ちが強かった。
「直哉のとこは何やるの?」
「お好み焼き屋です」
「超ド定番だ」
 馨にクスクスと笑われ、直哉はむすっとした顔を見せる。
「直哉は調理班?あ、接客?」
 コンビニバイトだし、と付け加える馨に直哉は首を振った。
「調理班です。当番は午前中で終わりますけど」
「誰かとまわる約束は?」
「えっ。いや……ない、ですけど……」
 驚いて声が尻切れになっていく。思わず見開いた目で馨を見ると「ふふふ」と小さく微笑んだ。
「なら都合は付くね。当日はこっちの当番たくさん入れてよ。俺も来るから」
「……はぁ」
 直哉は怠そうに答えた。期待をした自分を恨む。上げて落とすとはこの事で、一緒に校内を周れると思いきや、そうではない事にがっくりと肩を落とした。あわよくば、と思って時間に余裕が出来るように二時間シフト制の調理班に立候補したというのに。
「でもその調理当番終わったすぐに古本市当番は入れないように」
「え。なんでですか」
 あわよくばがないのなら、少しでも一緒に居られるよう当番をすぐに詰め込もうと考えていたのに、馨からノーが出た。
「だって、直哉が焼いたやつ一緒に食べたいもん」
「……は」
 予想外の答えに直哉は一瞬言葉を失った。ハッとして目の前の馨にもう一度目を向けると、「約束ね」と念を押された。
「…………はい」
 有無を言わせぬ物言いに、直哉は呆けた顔で返事をした。


「直哉、今日ってこの後バイト?」
 夏休み最後の当番が終わって、図書室の扉に『閉館』と書かれた札を引っ掛けながら馨が尋ねた。
「そうですけど」
「それ、何時に終わる?」
 馨は図書室の鍵をしまうため、司書室のドアを開けた。キーボックスは入ってすぐの壁にあるためドアは直哉が支える。
「だいぶ遅いですよ?」
「でも日付けは越えないでしょ」
「まぁ、高校生なので越えませんね」
「じゃあさ」
 馨がキーボックスを閉め、司書室から出てくると少しだけ屈んで直哉の顔を覗き込んだ。
「花火、しない?」
「花火?」
「うん。シフト終わる頃に俺が直哉のコンビニに買いに行くからさ」
 馨がにこりと微笑む。思わず喉が鳴り、直哉は顔を背けた。
「……どこでやるんです?」
 直哉は馨の方を見ないようにして言った。コンビニの近所もそうだが、今時花火を許可している公園や空き地なんてそうそう見ない。どこにもやれるような場所はない、と直哉が言いかけたが、そこへ被せるように馨が言った。
「俺ん家で良いじゃん?」
「…………は」
 直哉の背中をひやりと冷たい風が撫でた。
「手持ち花火なら狭い庭でもいけるでしょ」
「い、いや何を急に」
「あ、バイト行く前に泊まる準備しときなよ。そのまま行くんだから」
「と、泊まり?」
 慌てふためる直哉をよそに、馨はどんどん一人で話を進めながら廊下の先を歩いていく。
「あ、寝巻きは俺のを貸してあげる。荷物少なめのが良いよね。あー、直哉ガタイ良いから入るかなぁ……ま、大丈夫か」
「いや、あの……。急に泊まりとか、馨さんの両親だって困るんじゃ」
「親?あぁ、気にしなくて良いよ。俺は受験生だからって、勝手に旅行にいっちゃったし」
「りょ、旅行……」
 直哉は身体中に熱が籠っていくのを感じ、奥歯を噛み締め頭を振った。
 尚の事気になってダメだろ!
 そう強く言えれば良かったが、馨の押しは強い上に一人で話を進めていく。
「そういう訳だから……直哉?」
「は、はいっ」
「顔、赤いよ?」
 誰のせいだ、誰の。
 そう言い返そうにも、馨には自分が何を想像したかなんて言い出せず「夏ですから」と、曖昧な返事を返した。



 バイトが終わる五分前、約束通り馨は直哉のバイト先に現れた。服装はTシャツに短パン。ビーサンを履き、今まで見た中で一番ラフな格好をしている。出入口近くの棚に引っ掛けられていた手持ち花火と、サンドイッチを直哉の立つレジに持ってくると「ライターは家にあったんだ」と鼻歌混じりに言った。
 馨のレジを終えると、タイミングよく夜勤の学生が二人出勤してきたので、直哉は二人に挨拶してそのまま退勤させてもらった。
「お疲れ」
 従業員出入口から出ると、馨が直哉に先程買ったサンドイッチを手渡した。
「ありがとうございます」
 小腹が空いていたので有り難く頂戴し、袋から取り出して早々に齧り付く。本当はパンより米派だが、もしかしたらこれは馨の好みなのかもしれないと思い、直哉はいつも以上にゆっくりと味わって食べた。


 馨の家はコンビニから歩いて数分の所にあった。三角屋根とブルーグレーの外壁がおしゃれな二階建ての一軒家で、北欧モダンな門からは、小さな庭が覗いていた。
「バケツ、もう出しておいた」
 門を開き、直哉を中へ招き入れる。馨はベランダのウッドデッキに買ってきた花火を並べて置くと、ライターを短パンのポケットから取り出した。
「今年最後の花火大会の開幕だね。さて、何からやる?」
「じゃあ、これ」
 直哉は適当に一本手に取った。馨も同じ物を一本持つと、順に火を着ける。
「わっ」
 赤と緑の花火が勢いよく飛び出して、馨がケラケラと笑った。
「もう一本持っちゃお。直哉、火着けて!」
「はいはい」
 楽しそうにはしゃぐ年上に従い、直哉は言われるがまま火を着けた。



「ねぇ。夏休み終わったらさ、三年生は当番免除って知ってた?」
 バケツに差し込まれる花火の本数が増えてきた頃、馨が直哉に尋ねた。
「……いえ。でも、受験生は忙しくなりますから」
 仕方ないと、直哉は静かに答える。何となくそうだろうと思っていたため、さほど驚きはしない。部活に引退があるのだから、当番免除もあり得なくはない話だ。
「直哉はさ、どう思う?」
 馨はまだほんの少し残っている花火を手に持って、左右に揺らした。
「どうって……。受験生は大変だ、とかですかね」
 当たり障りのない答えを返すと、馨はムッとして唇をへの字に曲げる。
「……本当にそれだけ?」
「……何が言いたいんですか」
「……ううん。別に」
 馨は手に持った花火をじっと見ながら小さな声で答えた。
 沈黙が流れる。夜に鳴く蝉と、時期の早い虫の声がさっきよりもはっきりと耳に入った。
「馨さん」
「ん?」
 声を掛けた直哉は、返事と共に自分の方へ向いた馨の顔を見てゴクリと喉を鳴らす。
「大学、行くんですよね?」
 躊躇いがちに出したその問いに、今度は心臓もドクンと動いた。
「まぁ、そうだね」
「ここから近いところですか?」
「うん、通えるとこ。一人暮らしも憧れるけど、俺一人で生活出来る気がしないし」
 ヘラりと笑って馨が言った。確かにテキパキと家事をこなす彼を想像するのは難しいと、直哉がくすりと笑う。
「志望は晴朗大の商学部。就職率良さげだし、ほら、商社の営業とかカッコよくない?」
「あー……」
 スーツの営業スタイルに身を包んだ馨を想像すると、思っていた以上にしっくりと腑に落ちる。同時に同僚の女性陣から向けられる熱い視線まで想像でき、直哉は馨に聞こえないよう鼻で笑った。
「変な壺もちゃんと売って来そうですもんね」
「なんだよ変な壺って……。あっ、そうだ、線香花火やろ!先に落ちた方が明日の朝ごはん担当!」
「え、今生活能力ないって言うの聞いたばかりなんですけど」
「じゃあ直哉が作ってくれるの?」
「……勝負です」
「なんだよ、ケチ。ま、負けなきゃ良い話か」
 馨は得意気にそう言って直哉に線香花火を手渡すと、勝手に「よーい、どんっ」と火を着けてゲームを開始した。
「勝手に始めないでくださいよ」
「良いんだよ、言い出しっぺがルールなんだから」
「なんですかそれ」
「あ、ほら。喋ると花火落ちちゃうよ」
 そう言われ、直哉は仕方なく口を噤む。じっと手元で小さく光出す線香花火を見つめた。
 当番がなくなり、そして受験が終われば馨は卒業してしまう。まだ知り合ったばかりで、沢山の時間を彼と過ごしたいと願うのに。まだ時間は残されているが、想いを伝えてもいない相手を、自分の我儘に付き合わせても良いのだろうか。
 パチパチと花火が激しく音を立てる。隣で馨が小さく「おぉっ」と声を漏らすのが聞こえ、直哉はくすりと笑った。同時に馨と直哉視線がぶつかる。馨の頬は花火越しに赤く染まって見え、そこに目を奪われたかと思ったその時だった。
「あっ」
 馨の声で直哉は自分の線香花火へと視線を戻した。
「あ……」
 小さな火の玉がぽたんと地面に落ち、静かに消える。勝負に負けたのは直哉だった。
「あーあ」
「やった、俺の勝ち」
 馨がケラケラと笑ってまだパチパチと激しく音を立てる手元に視線を戻した。
「何食べたいんですか」
 負けたからには文句は言えず、直哉が膨れっ面のまま花火をバケツに突っ込んだ。
「直哉の好きなものがいい」
「……なら、ハムとチーズのトーストですね。飲み物はコーヒー」
「俺のコーヒーには砂糖一つと牛乳入れてね」
「はいはい」
 あからさまに面倒だという顔をする直哉に馨が悪戯っぽく笑うと、線香花火がぽたんと落ちた。
「あーあ、終わっちゃった」
 ほんの少し遅れで馨の花火が終わり、残念そうにバケツへ花火を入れにいく。
「やっぱこれ、なんか寂しいよね」
「え?」
「線香花火」
「あ、あぁ……。そうですね」
 直哉は寂しいと言って良いのか分からず、小さな声でまごまごと答えた。


 夏休み明けの定期考査が終わり、指定校推薦を勝ち取った馨は、また木曜日の図書室に顔を出すようになった。当番免除を免罪符に休んでいたのはほんの数週間で、夏休み中に今後どうやって馨に会おうかと頭を抱えた直哉は拍子抜けだった。
 しかし、その当番の時間は文化祭が近付くに連れ、短くなっていった。放課後はどのクラスも殆どが準備に忙しなく動くようになり、部活動の開始時刻もいつもより遅くからと学校全体がシフトチェンジを始めた。直哉のクラスは屋台模擬店のため、大して準備する物はなかったが、一部の女子生徒が呼び込み用のポスターや看板を作ると張り切っていた。
「へぇ。やる気満々だね」
「模擬店部門は優勝狙うって言ってましたね」
 返却された本を二人で戻しながら、文化祭準備の話をする。だいぶ先だと感じていた文化祭も、気が付けばあと二週間後と迫っていた。図書委員会で行う古本市の準備に関しては、殆ど夏休みに出品する本を出し切っていて、作業としては値札を付けたり簡単な看板を作るぐらいだった。その細かい作業は、夏休み明け最初の委員会で二年の女子生徒達が担当する事になったため、直哉達は当日の店番をするだけとなっていた。ただ例外もある。既に馨同様に進路が決定している馨と同じクラスの女子と、文化祭で発表する曲の練習があると言って今日も堂々と部活へ勤しむ芽衣のこの二人に関しては、二年生の手伝いに必ず顔を出すよう星野から直々に言われていた。
「あ、そうだ」
 馨が最後の一冊を一番上の棚に戻してから直哉に向き直る。
「約束、覚えてる?」
「え、約束?」
 そう言われても咄嗟にその約束が浮かばず、直哉が狼狽えた。
「忘れたの?直哉のお好み焼き、食べるって言ったやつ」
 そういえばそんな話をされた事を思い出し、直哉が「あー」と声を漏らす。
「俺の分、紅生姜たっぷり入れてね」
「それ、紅生姜の味しかしなくなりますよ」
「どうせソースかけたらソースの味じゃん」
 なら、お好み焼きじゃなくても良いのではと思ったが、直哉はすぐそこまで出かけた言葉を飲み込んで「はいはい」と適当に返事をした。



「遅い。もうお腹ぺこぺこ」
 膨れっ面の馨が腰を両手に当て、文句を言う。人気の少ない屋上入口前で待ち合わせをした直哉と馨だったが、約束の時間よりも十分ほど遅れて汗だくの直哉がやってきた。
「すみません、昼時舐めてました。抜けるに抜けられなくて……」
 手に持っていたビニール袋を馨に手渡しながら直哉が謝った。直哉の当番が終わる頃、どっと人が並び始め、列形成に時間を取られてしまったのだ。
「お疲れ様。もう温くなっちゃったけどこれは差し入れ」
 額の汗を拭う直哉に、馨がペットボトルのウーロン茶を手渡した。
「どうも」
 直哉はもらったボトルを早速開けると、半分ほど一気に飲み込んだ。馨は階段を椅子代わりに腰掛け、もらったビニール袋の中からお好み焼きのパックを二つ取り出すと、一つを自分の膝に置き、もう一方を直哉に手渡す。
「これ、直哉が焼いたやつ?」
「そうですよ。紅生姜多めに入れたら、クラスの連中にぐちぐち言われて大変だったんですから」
「ふふふ、さーんきゅ」
 パックを開けると、鰹節とソースの香りの中に紅生姜の酸っぱい香りが辺りに広がった。直哉の言う通り、馨のお好み焼きはもう一方のお好み焼きよりも紅生姜の量が多く、見た目も赤い。そんな直哉のサービスに、馨の口角が自然と上がった。
「いただきます」
 普段見ているような眉目秀麗さはどこかへ吹っ飛び、馨は嬉しそうに大きな口でお好み焼きを頬張った。
「うーまっ」
「それ、優勝できそうですか?」
「んー、どうだろう。直哉が作ったやつしか知らないし」
「なんですか、それ」
「だってそうじゃん?他の子が作ったのは知らないもん」
「少なくともそれよりは紅生姜は少ないですね」
「じゃあダメだな。俺の判断基準は紅生姜の量だし」
 聞いた俺が悪かったです、と直哉は小さくぼやいたが、自分が作ったものしか知らない、というその言葉を黙って反芻した。
「ねぇ、かき氷も食べたくない?」
「そんな次から次へと……腹壊しますよ」
「良いじゃん。こういう時しか食べないんだからさ」
 ヘラりと笑って馨は薄い唇に付いたソースを指で拭い、その指先を舐めた。そのほんの些細な仕草に、直哉はゴクリと生唾を飲み込んだ。
「……ついてますよ」
「え?」
「ソース」
 直哉が自分の右頬を指さして「ここ」と言った。頬張った際に付いたソースが馨の右の口角付近についていた。
「え、どこ?」
 ソースを拭おうと頬を触るが、うまく取れない馨は眉をハの字に寄せる。すると、ワイシャツの上に羽織っていたカーディガンの袖で拭こうとしたので、咄嗟に直哉が止めた。
「ちょっ……!染みになるでしょ。ここですよ、ここ」
「んぐっ」
 直哉はスラックスのポケットからハンカチを取り出すと、ぐりぐりと無理矢理馨についたソースを拭き取った。
「ちょ、直哉、加減してっ」
「動くからです」
 ハンカチを離し、まだ小言を挟む直哉をジト目で馨が見上げた。いつも以上に近い距離で目が合い、直哉の心臓がどくんと跳ねる。握っていたハンカチが手汗でしっとりと滲んでいくのを感じた。
「……ねぇ」
 目が合ったまま馨が口を開く。
「なん……でしょう……?」
 ゆっくりと顔を離しながら直哉が返事をする。さっきより手汗がどっと増えた。咄嗟とはいえ、やり過ぎたかもしれない。なんだかんだで付き合うが、相手は二つ上の先輩だ。生意気だという理由で、二度と近付けなくなる可能性もある。
 いや、生意気は今更かもしれないけど……。
 加えて二人きりでのこの状況だ。思っていた以上に刺激が強い。怒らせても怒らせていなくても、直哉の心臓は今にも飛び出しそうだった。
「かき氷の前にお化け屋敷、行かない?」
「…………へ?」
 予想外の提案に、直哉から気の抜けた声が出た。
「二年生のやつ。すごい人気ってさっきここ来る前に聞いたんだよね」
「いや……だからって今……」
「なに、直哉怖いの?」
「い、行きますよ、行きます!そういうの俺、全ッ然平気なのでっ」
 そう言ってカーディガンの袖を捲り、直哉は座り直した。
「でもこれ、食ってからですけど!」
「そうだね」
 残っていたもうひとパックの蓋を開け、不貞腐れ気味に直哉が割り箸を割った。
「あ、気をつけろよ。生焼けのところあったから」
「えっ!」
「あはは、嘘だよ」
「ったく……」
 大きなため息を直哉が吐く。
 揶揄うならもう少しマシな事言って欲しいんだけど……。
 直哉は横目で馨を見ながら冷めたお好み焼きに齧り付いた。
「そう言えば、良いんですか?俺といて」
「なんで?当日当番は搬入と撤収ぐらいだし、殆ど暇だよ」
 馨が首を傾げて答えたが、直哉が気にしたのはそこではない。
「そうじゃなくて。文化祭、回る人とか……」
 それは昨晩からずっと考えていたことだった。高校最後の文化祭だ。恋人が居ないとしても、仲の良い友人の一人や二人居るはずだろう。たまに廊下ですれ違う際に見かけると、だいたい誰かと一緒に居たのは確かだ。
「文化祭ってさ、当日より当日までが楽しいんだよね。特に俺みたいな裏方は」
 ふふふ、と笑って馨は続ける。
「だから、直哉とが良いって思ったんだよね。ほら、今日で直哉と一緒の文化祭は最初で最後だし」
 馨が珍しくニッと歯を見せて笑う。その笑顔に思わず見惚れて、直哉は反応に遅れてしまった。
「……あ、あの、それって」
 特別扱い。勝手にそう思って良いのだろうか。最初で最後なんて寂しいと思うはずなのに、嬉しくて、下っ腹の辺りがふわふわと浮いているようなくすぐったさが込み上げる。
「それにさ、お化け屋敷なんて直哉以外連れて行けないしね」
「えっ……」
「やっぱり、こういうのはビビるやついないと面白くないだろ」
「だから、別にビビってなんか」
「ふふふ、どうだか」
 くすくすと笑って馨は立ち上がる。直哉はジト目で馨を見上げながら残りのお好み焼きを口の中に放り込んだ。
「大きな声、出した方が負けね」
「良いですよ。負けたらどうします?」
「んー、そうだなぁ」
 馨は後ろポケットに丸めて差し込んでいたパンフレットを取り出すと、パラパラと捲った。
「あ、これなんてどう?」
 馨は実行委員会の紹介ページを指差した。そこには美術部と一緒に校門のアーチと昇降口に設置した顔出しパネルの制作を行ったとの記載があった。
「このパネルで写真撮るの。勝った方のスマホで」
 直哉はパンフレットを見て絶句した。弄月高校の月から着想したのだろう、月面の上で制服を着た生徒が踊っているイラストだった。彼らのバックにはUFOに乗った宇宙人の絵まで描かれている。顔が出せるようになっているのは、生徒の顔の部分と宇宙人の顔の部分だった。描かれた生徒のポーズはバレリーナのような動きをしている。言っちゃ悪いが、進んで写真を撮りに行きたいと思えるパネルではなかった。
「……絶対無理。てかこれ誰向けに描いたんだよ」
「あ、そんなこと言って。作った人に申し訳ないだろ」
「なら馨さんがどうぞ」
「俺はこのパネルで直哉の写真撮りたい」
「……なんで俺が負ける前提なんですか」
「ふふふ、楽しみ」
「……絶対負かす」




「あーあ、残念」
「残念、じゃないですよ、まったく……。絶対、流出したら怒りますからね!」
「大丈夫、俺しか使わないから」
「使うって……何に使う気ですか」
「そんなの秘密に決まってんじゃん」
「今日は冷えるね」
 図書室の扉を施錠しながら馨が言った。最終下校時刻の十分前。空はすっかり暗くなり、一番星は既にどこにいるのか分からなくなっていた。今日で年内の当番は最後で、直哉は名残惜しそうに「閉館」と書かれた掛札を見つめる。つまり、年内に学校で馨に会えるのはもう残りわずかとなったのだ。
「冬も本格化って言ってましたからね」
 今朝の天気予報を思い出し、直哉が続ける。しかし、その格好で冷えるとはよく言ったものだと直哉は馨を前に目を細めた。着膨れとも言って良いほどに分厚いダッフルコートを制服の上から着込み、首元には深緑色の毛糸のマフラーを巻いている。坂道で転べば、そのまま一気に下へと転がり落ちていきそうな膨れ方だ。
「暑くないんですか、それ」
「え、話聞いてた?」
 怪訝そうな顔でもこもこの馨が直哉を見る。秋の文化祭が終わった頃、身長が伸びた直哉はそんな怪訝な顔を同じ目線で見つめ返すと、やれやれと溜息が返ってきた。
「大人は低体温なんだよ。お子ちゃまとは違うの」
「俺がお子ちゃまって言いたいんですか?」
「じゃなきゃ、そんなペラペラな薄着で今日を乗り越えられるわけがないね」
 馨が薄着といった直哉のダウンコートは、軽量を重視された作りがウリの物。機能としては従来品と同様に温かく、上着としては申し分ない。寧ろ動きやすく、重宝出来る代物と思っていた。それをペラペラだと言われ、直哉の眉が無意識に中央へ寄る。
「俺にはこれが丁度良いんです」
 馨にこの上着の機能を説明したところで理解されそうにないと思い、直哉は無理矢理会話を終わらせる。
「ふーん」
 案の定、馨は司書室のキーボックスに図書室の鍵を戻しながら興味なさげに答えた。こんなくだらないやり取りも今年は今日で最後だと思うと、今の会話で良かったのかと直哉は自問する。来週には終業式があり、冬休みはもう目前だ。夏休みとは変わって、冬休みは図書室も始業式が終わるまで開館はしないらしい。先週までそうとは知らず、いつも通りに木曜日を避けてシフトを提出した直哉は、冬休み中の木曜日をどう過ごすかがここ最近の悩みだった。
「ね、来週からどうする?」
「はい?」
 突然の質問に驚き、直哉は間抜けな声を出した。今のこの瞬間まで、今年で馨と何かを共にするのは最後だとばかり思っていたのだ。
「年内にやり残した事とかあるなら付き合うけど?」
「……どういうことですか?」
 遠回しに木曜日の予定を聞かれているのは分かるのだが、どうしてこうも回りくどいのだろうか。
「俺が聞いているんだけど?」
 質問を濁されている直哉の気はお構いなしに馨が言った。
「そうですねぇ」
 はっきりと聞かれた方が予定も立てやすいのに……。
 腕を組み、仕方なく考え込みながら直哉は昇降口へと足を進めた。後ろを着膨れした馨が一生懸命ついて来る。その姿が廊下の窓に映ったのが目に入り、直哉は馨に見られないよう隠れて笑った。
「例えば、どこか行きたいところとかさ。ほら何かあるでしょ?」
「ウーン……」
 直哉は小さな唸り声を漏らした。言わないだけで馨と行きたい場所は山ほど浮かぶ。駅前のイルミネーションや、新作の映画。少し遠出してクリスマスマーケットや、ショッピングなど。浮かぶ事には浮かぶのだが、先輩後輩で、しかも男二人で行くのはどうなのだろうか。自分は馨とならば気にしないと思えても、馨がそうとは限らない。というかそもそも、馨がそんな場所に興味があるようにも思えない。以前映画の話をした時も、基本的に自分のペースで見たいから、映画館には滅多に行かないと話していたのを思い出す。
 てか、誘ったら流石に俺の気持ちバレるよな……。もしかしたら他に誰か行く相手がいるのかもしれないし……。ていうか、バレるってなんだよ、バレるって。
 本人から答えを聞いてもいないのに、顔も知らない誰かとイルミネーションを見上げて並ぶ馨を想像し、胸の奥がチクリと痛む。
「おーい」
 これ以上は考えても何も出てこないと思い、直哉は首を横に振った。
「そんな急に言われても……。逆に馨さんはないんですか?」
「俺?」
 馨も腕を組みながらウーン、と唸る。
 自分だって大してやりたい事なんてないじゃん……。
 しかし、直哉はハッとした。突飛な事を言い出すのはいつもの事だが、馨自身、毎度後先は殆ど考えていた事は一度もない。アルバイトもなく、受験も終わって自由の身であるが故の適当発言が主だが、高校生として最後の冬休みも目前に控えた今、後輩を使って行ける場所だと思えばどんなに遠くても行きたいと言い出しそうで、直哉は聞き返したことを少しだけ悔やんだ。しかし、直哉の心配とは裏腹に、口を開いた馨は「ないな」と、軽く言い放っただけだった。
「ないのかよ……」
 身構えて損した、と直哉は力を抜く。だが、すぐさま馨は「あっ」と声を上げた。
「あったんですか」
 直哉は嫌味を含めた聞き方をしたが、馨は気にも止めず嬉々とした顔を直哉へ向けた。
「初詣!」
「……え、今更?」
 せめてもういくつか寝てくれと、直哉が答えるとケラケラと馨は笑う。
「まさか。ちゃんと年越し直前に家を出て、神社で待ち合わせするんだよ」
「あれ、年内に行きたい所って話じゃありませんでした?」
 ていうか、そもそも木曜日の話じゃなかったのかと直哉が聞き返す。
「細かいなぁ」
 そんな小さな事はどうでも良いと言って、コートからスマホを取り出すと、馨はスケジュールアプリに『初詣』と入力をした。
「気をつけてくださいよ、元旦の初詣はどこも混んでますから」
「何言ってんの、一緒に行くだろ?」
「……俺の予定無視ですか」
 こうなれば何を言っても無駄だと、直哉は溜息を吐く。仕方なしにスケジュールアプリを開いて同じように初詣の予定を入れた。アルバイトもどうせ高校生のうちは深夜帯の出勤はできない。毎年見ている大晦日お馴染みのテレビ特番をぼうっと見るよりも、馨と過ごした方が自分にとっては有意義だろう。それに、おそらく馨と一緒に過ごす最初で最後の初詣だ。来年の今頃こそ、こんな会話をしている事は一切想像がつかない。大学一年生と高校生二年生。片方が進学しただけだというのに、こんなに縮んだ距離も一気に離れてしまう気がした。途端に直哉の胸がジン、と熱を帯びて痛む。同時に嫌な冷たい風が身体をキュッと強張らせた。
「やっぱ寒いんだ?」
「え?」
「今、ぶるって震えたでしょ」
「は……いや、これは」
「強がりやめろって。だから言ったじゃん、そんなペラペラな上着じゃ風邪引くって。まったく、仕方ないなぁ……」
 馨は首に巻いていたマフラーを取ると、器用に直哉の首に引っ掛ける。
「これじゃ馨さんが寒いんじゃ……」
 これだけ着込んでおきながら、まだマフラーを付けていたのだ。外に出たら凍えてしまうのではないかと心配になる。
「大丈夫、暑いぐらいだから」
「それ、さっきと言ってる事違いますよ」
 直哉の突っ込みをスルーして、馨はマフラーを巻く。顔が近いことに直哉の心臓の音が跳ね上がったが、それよりも馨からする甘い香りが気になった。誘われるように鼻をよせると、馨が身体をゆっくり離した。
「……どした?」
「あ、えと……香水ってつけてましたっけ?」
「ん?つけてないけど」
 馨が首を傾げると、直哉は確認しようともう一度顔を近付けた。しかし、馨がそれをかわすように先を歩き出す。
「ほら、もっと寒くなる前に帰るぞ」
「……はい」
 その時、本当に着膨れし過ぎて暑かったのだろうか、直哉には馨の耳が少しだけ赤いのが見えた気がした。



「帰りてぇ……」
 直哉の口から切実な声が漏れる。それを隣りで聞いていた花田は苦笑いを返した。
「ごめんね、恥ずかしかった?」
「恥ずかしいって言うより、拷問ですね……」
「嘘、俺パワハラで訴えられる……?」
「流石にそこまではしませんよ」
 直哉が溜息を吐いた。珍しく文句を直接店長へぶつけたのは、出勤前に渡された今日限定の制服のせいである。所々が白くてもこもことした真っ赤な服に、真っ赤な帽子。黒いベルトに白い付け髭。そう、どこからどう見てもサンタクロースの衣装だ。クリスマスイヴと明日のクリスマスはこの衣装を着て運営すると、花田が張り切っていた。それを察した数名の先輩達は「予定があるので」といつもなら出勤している曜日であろうがシフトを入れず、ほぼ年内にバイトを始めた新人達で固められたシフトに直哉も入れ込まれていた。逃げ道は出勤した時点でなくなり、ニコニコと楽しそうに押し付けられた衣装を渋々着用し、あろうことか外売りのケーキ販売員として立たされている。何も聞かされていない直哉には、はっきり言って最悪なクリスマスプレゼントだった。
「店長は俺がこの近所に住んでいるって知っていましたよね……?」
「もちろん。履歴書見て雇っているし?」
「じゃあせめて店内にしてくださいよ」
「ダメだよ、女の子は冷えたら大変だもん」
 花田は首を横に振った。店内でレジや品出しを行なっているのは直哉より一学年上の女子高生。彼女も本日出勤するまでサンタコスプレをするとは夢にも思っていなかった者の一人だった。
「……せめてじゃんけんですよ。公平さに欠けます」
「まあまあ。今日はほら、特別手当出すからさ。朔間くんは売上げ次第で少しおまけしてあげるし」
 ね?ほら、笑顔笑顔!と笑顔を押し付けられ、直哉は不機嫌な顔で「ケーキ販売中」と書かれた看板をゆっくりと左右に振る。十二月の外は想像以上に寒い。衣装の内側に花田から渡されたカイロを三枚も貼ったが最後まで持つのか不安だった。
 外売りさせるならサンタ服ももっと良いやつ用意してくれよ……馨さんじゃないが、こんなにペラペラじゃ風邪ひいてもおかしくはないっつーの。
 直哉のイライラが全面に出てきて、接客業にあるまじき貧乏ゆすりまで無意識に出てきている。年内最後の図書当番の後に、馨から「行きたいところはないか」と尋ねられ、クリスマスのイルミネーションを想像してからは、この日にアルバイトのシフトを入れた事を物凄く後悔していた。はっきりとした関係ではないが、誘うぐらいは許される関係だと自負している。本当なら今頃は馨とどこかへ出掛けていたのかもしれないと思うと、余計に直哉の苛立ちは増長され、隣りに立つ花田は、その様子をハラハラと気まずそうに伺っている。その時だった。
「わぁ、まさか。え、直哉?」
 その声で直哉の貧乏ゆすりがピタリと止まる。目だけで横を向くと、今一番会いたくない人が、たった今駐車場に入ってきた車から出てきたのだ。馨は嬉々として直哉の方へと駆け寄った。直哉は黙って顔を背けるが、花田に「朔間くん、知り合い?」と言われて目線だけで「何も聞くな」と訴える。
「馨、仕事の邪魔しちゃ悪いだろ」
「邪魔なんてしてないよ。ケーキ買いに来たんだから」
 車の運転席から出てきた高身長の男性が馨を嗜めた。手に持っていたコートを馨に羽織らせ「ケーキどれにする?」と屈んで馨に尋ねている。即席のショーケースにはショートケーキとチョコレートケーキの二種類のホールケーキが並んでいる。大きさも二種類ずつと少ないが、住宅街のコンビニにしてはある方だった。
「そうだなぁ……大きいのは余りそうだし」
「食べ切れそうなの選べよ」
「はーい」
 …………誰だ、この人。
 目の前で仲睦まじい姿を見せられた直哉の眉が中心に寄る。その目元がサンタ帽のおかげではっきりと見えないのが幸いだった。
「これにしよ。良いよね?」
 馨が振り向いて男性に言うと、男性は財布を取り出して直哉に「これお願いします」とチョコレートケーキの大きな方を指さして言った。
「……はい」
 一瞬間が空き、直哉がショーケースから既に箱に入ったケーキを取り出した。男性は千円札を三枚財布から取り出すと、ショーケースの上に置いていたカルトンに載せる。花田がビニール袋にケーキの箱を入れている際、直哉は会計を行った。
「ねぇ、写真撮っても良い?」
「ダメです、嫌です」
「えー、いいじゃん。俺も写るからさ!」
「何言ってんですか、余計ダメです」
「ケチだなぁ……」
「ケチで結構」
 直哉がそう答えると、馨はいつものように揶揄い半分で笑う。
「なにムキになってるのさ」
「なってませんよ、馨さんが邪魔するからでしょう」
 この状況で邪魔はどっちか知らねぇけど。
 直哉は黙って馨の後ろでスマホをいじる男性へ視線を向けた。
「直哉、今日はいつもの時間までバイト?」
「……そうですけど」 
「その後って予定は?」
「馨さんと違ってありませんよ」
「え?」
「こちら、ケーキです」
 馨と直哉の会話を遮るように、花田がケーキの入ったビニール袋を馨の方へ差し出した。
「ありがとうございます」
 半ば押し付けるように馨へ渡そうとすると、横からその袋を男性に取られた。
「どうも」
 男性は小さな会釈をし、さっさと車へと戻って行く。
「もぅっ、待ってよ。あ、直哉、あのさ」
 馨が何か言おうとしたが、タイミング悪く直ぐ後ろで「パパ、ケーキあった!」と親子がやってきた。保育園のお迎え帰りなのか、子どものコートの下からスモックが見える。
「いらっしゃいませ」
 直哉は馨から視線を親子へと向けた。
「……ごめん、邪魔した。じゃ、また連絡する」
 馨はそう言うと、潔く車へと乗り込んだ。
 だから、邪魔はどっちだっつーの……。
 苛立ちと胸を締め付ける痛みが同時に込み上げる。ぎゅっと握られたまま潰されてしまいそうな圧迫感に吐き気さえ覚えた。
 クリスマスイヴに会えたらと、思っていた矢先にこれだ。そりゃ、あの如月馨だ、相手が居ないわけがない。所詮俺は都合の良い後輩で、時間潰しの相手なのだろう。
 ……マジであの人、誰だよ……。
 聞いて良いのか悪いのかも分からず、不機嫌な態度を取るだけとった子どもは自分。あの長身男性の馨へのスマートな対応も、思い返すだけで直哉を追い込んでいく。じわじわと上り詰める苦しさと痛み。無邪気に笑う馨の顔が脳裏にチラついた。
 ダサすぎかよ、俺……。
 ゆっくりと発進を始めるその車を、視線だけで見送りながら、直哉は薄い白髭の下で小さく舌打ちをした。



 退勤後、直哉が従業員出入口から出ると、少し離れたところから「直哉!」と聞き覚えのある声に呼び止められた。コンビニ付近のガードレールに腰掛けていたその声の主は、馨だった。
「よっ」
 お疲れ様、と言いながら直哉のもとへ駆け寄って来る。手にはビニール袋が下げられており、しっかりと手袋を着けていた。相変わらずの着込み具合だったが、まだ直哉がマフラーを借りたままだったためその首元は寒そうだ。
「……何してるんですか」
「何って、待ってた」
「誰を」
「そこのペラペラダウンの人」
 馨は言いながら直哉の胸に軽く拳を当てた。
「さっきは忙しそうで全然喋れなかったし」
「それは馨さんも、でしょう?」
 嫌な言い方だと自分でも分かっていながらつい口に出ていた。
「……すみません」
 直ぐに謝ったが、罪悪感がどすんと下っ腹のあたりに突き刺さる。真冬の夜は冷えるのに、握り拳は汗でいっぱいだった。
「さっきも思ったんだけど、何か勘違いしてるだろ?」
「勘違い?」
「そう」
 勘違いも何も、あれだけ仲良さそうに車で来店したのを目の当たりにしたのだ、他にどう思えと言うのだろう。直哉が怪訝そうに首を傾げると、馨はケラケラと笑った。
「さっき一緒にいたのは従兄弟の彰良くん。今日、母さんが叔母さん達呼んでクリスマスパーティーしてて、叔母さんをうちまで送ったついでにケーキ買い出しに俺と行かされたって訳。しかも彰良くん、ケーキ買って俺のこと送り返したら彼女と約束あるからってすぐ帰っちゃったよ」
 薄情者だよね、と馨は言う。
「従兄弟……」
「そ、ただのイトコ」
 直哉の頭と胸の中に渦巻いていたもやもやがすうっと晴れていく。ただの従兄弟と馨の口から聞けたことが嬉しく、握っていた拳が緩んでいった。
「で、もう一度聞くけど」
「……なんですか」
「この後、クリスマスしようよ。俺、ちゃんとプレゼント持ってきたから」
 そう言ってコートのポケットから小さな袋を取り出して直哉にそれを見せつけた。
「……そういうことは前もって言ってくださいよ。俺、プレゼントなんて用意してないです」
「サンタさんなのに?」
「サンタさんじゃねぇよ」
 さっきまでの格好を揶揄われ、直哉は急に不貞腐れ始める。感情が忙しい。馨に会ってからは常にそう思うようになっていた。
「……一応聞きますけど、欲しいものあるんですか?」
 一応、の部分を強調して直哉が尋ねた。すると、馨は「ある!」と嬉しそうに答えた。
「なんでも言うこと聞く券!」
「却下」
 碌なものじゃない、直哉は溜息と共に即座に首を横に振った。
「えー。これならすぐ用意できると思うんだけど。なんなら今でも」
「何に使う気ですか」
「なんでも、だから何にしようか?」
 くすくすと笑い、馨は「考えとくわ」と言った。それによってその「なんでも言うこと聞く券」を用意することが確定となり、直哉は口をへの字に曲げた。
「それじゃ、直哉からのプレゼントは後日……ってわけで。今から唐揚げと菓子パンのロールケーキで乾杯しよう。コーラでいいよね?」
 手に持っていたビニール袋の中身が分かり、直哉は苦笑いをする。
「寒がりなくせにコーラって……」
「これは冬のアイスが美味い的なアレだろ?」
「絶対違う」
 直哉がくつくつと笑い、いつもの調子に戻ったのを確認した馨は、ペットボトルのコーラを手渡した。
「あ。プレゼント、先に渡しておくね」
「なんですか、これ」
「シャーペン」
「……小学生かよ」




 直哉は大きな欠伸をし、従業員更衣室のロッカーを閉めた。時刻は十七時。馨との初詣まであと数時間。更衣室を出て事務室に移動しながらまた大きな欠伸が込み上げる。
 俺、今日起きてられるのか……?
 今朝は大掃除だなんだといって、早朝から直哉の母は張り切っていた。冬休みだからといって部屋に篭ることは許されず、ベッドの布団は勢いよく剥がされた。窓を全開にし、フローリングの隙間という隙間を雑巾で拭かされ、風呂掃除をさせられた。本当は今晩のために準備を色々としたかったのだが、家の手伝いで忙しく動き回ったせいで仮眠をとることすら出来ず仕舞いだった。
 神社の列で眠ったりしたら、馨さんになんて言われるか……。
 きっと、俺の新生活が順風満帆になるよう祈って欲しかったなぁ、まっ、直哉はどうでも良いんだろうけどさ?とか、今年一年神様に何されても知らないぞ、とか。
「脳内再生余裕すぎだろ……」
 想像しただけで耳が痛い。直哉はシフトが終わった後、ブラックコーヒーを飲みながら一度帰宅する事に決めた。



 欠伸三昧のシフトはてんやわんやで終了した。出勤直後は大して忙しくなかったが、日が落ちてからはいつも以上に来店する客が多かった。ホットスナックとホットのペットボトルの減りが早いので、これから年越しイベントへ向かう人達だというのが直ぐに分かる。補充要員に一人をレジから店内に出しただけで、長蛇の列が出来てしまった。二十時過ぎ頃に一度ピークを終えたのだが、また直哉の退勤直前に人が増え出した。今度は初詣に向かう人達で、眠気覚ましとカイロ代わりのコーヒーが次々に売れていく。レジで渡していたホット用の紙コップが無くなりそうになり、直哉は一度レジを止めると裏の事務室にいた花田に声をかけた。
「店長、俺この後予定あるので、マシンの豆と紙コップ補充したらあがって良いですか?」
「あぁ、もちろん。てかもうそんな時間かぁ、今年も終わっちゃうねぇ」
 直哉と入れ替わるため、事務室の椅子に引っ掛けていた制服を羽織り、花田は直哉に尋ねた。
「この後予定あるってことは……もしかして初詣?」
「あ、はい」
 直哉は事務室に置いてある段ボール箱からコーヒーマシン用の紙コップを三袋分取り出した。
「良いねぇ。あ、外は冷えるからこれ一つ持っていきな」
 花田はそういうと、直哉の持っている紙コップの袋から一つ取り出すと事務室のテーブルに置いた。
「僕からのお年玉。来年もよろしくどうぞ」
 ひらひらと手を振り、花田はレジへと向かう。直哉は紙コップをありがたく頂戴すると、今年最後の補充をするため、もう一度レジ中へ戻っていった。



 花田に貰ったコーヒーを飲みながら一度帰宅した直哉は、風呂に入って身だしなみを整えると、再び出かける準備をした。その様子を遠目で見ていた母親は何か聞きたげにそわそわしており、隣に座って歌合戦を見ていた父親に嗜められた。ショルダーバッグにスマホと財布を入れ、馨にペラペラと言われたダウンを着込む。
 あ、そうだ。
 ふと思いついて、直哉は玄関のた引き出しからカイロを二つ取り出し、ダウンのポケットに忍ばせた。
 きっとこれだけじゃ寒いだの、足りないだの色々言われるだろうけど……。無いよりはマシだな。
 苦笑いを浮かべ、忘れないうちに借りっぱなしのマフラーを綺麗に畳んでバッグに詰め込む。その横にはクリスマスにねだられた紙切れを入れ込んだ。こんなもので良いのだろうかと、何度も思い悩んだが、他の物を渡したところで彼の望みは変わらない気がした。



「まったく、遅いなぁ」
「遅いって……まだ待ち合わせの二十分前ですけど」
 予定より早めに家を出た直哉だったが、待ち合わせ場所である駅前に着くと、既に馨が立っていた。どうやら五分前に着いたらしい。後数分遅かったら鬼電するところだったと言う。理不尽すぎると、直哉が溜息を吐いた。
「デートは三十分前行動だよ、知らないの?」
 膨れっ面のまま馨が言った。デートという単語に直哉の眉がぴくりと動く。
「……デートなんですか、これ」
「さぁね」
 ふふんと鼻を鳴らし、馨はICカードに料金チャージをしに行く。その鼻と頬がほんのり赤く染まって見え、直哉はそれ以上問い詰めるのをやめた。



 人でごった返す改札を抜け電車に乗り込むと、二人は二つ隣の駅で降りた。
「やっぱ凄いな……」
「ま、円福寺だもんな」
 馨がさも当然だと言った円福寺は、最寄り駅が二つある大きな神社だった。両駅の中間に在り、どちらから来ても歩いて十分足らずで着く。そのため毎年の年末年始は大変混み合う神社だった。当初の予定では神社前で待ち合わせだったが、この人混みを見て二人は駅前集合に変更して良かったと苦笑いをした。
 二人は駅を出ると、道なりに円福寺へ向かって歩いた。周りにいる人がどっと同じ方向へ流れていく。歩くというよりは殆ど流れに身を任せている状態だった。
 円福寺が近付くと、参拝者の列が鳥居前の石階段の下まで伸びているのが見え、直哉と馨はその列に滑り込んだ。駅からここまで人混みの中を歩いたせいか、大して寒さを感じてはいなかったが、足を止めた途端に指先や顔に当たる冷気に身体が思わず反応する。直哉が馨へ視線を移すと、両手に息を吹きかけているところだった。
「そうだ」
 直哉はショルダーバッグから深緑色のマフラーを取り出した。
「あ。延滞料金」
「レンタル代とか聞いてませんよ。代わりにこれで」
 スッと差し出された馨の手のひらにノートの端を切って作った『なんでも言う事を聞く券』を置き、直哉はマフラーを馨の首にかけた。
「クリスマスプレゼントと延滞金は別なんだけどなぁ」
「よく言いますよ、くれたシャーペン新品じゃなかったくせに」
「あはは、バレちゃった」
 ケタケタと笑い、馨はマフラーを巻いた。
「でも、こんなに寒いなんて思ってなかった」
 深夜でなくてもこの時期の夜はかなり冷える。マフラー無しで家を出させて申し訳なかったと直哉は「すぐ返せなくてすみません」と謝った。
「俺が熱出したらさ、桃缶持ってお見舞いきてよ」
「なんで熱出すこと前提なんですか」
「ふふふ」
 くすくすと笑う馨を横目に、直哉は小さく溜息を吐く。真っ黒な空に白い息が昇るのを見送っていると、隣で馨が小さなくしゃみをした。
「桃缶決定かも……」
「じゃあ、これも」
 直哉はダウンのポケットからカイロを一つ取り、馨に手渡した。電車を降りた際に封を切ったので、丁度温かくなってきた頃合いだ。
「良いよ。これじゃ、ペラペラダウンの直哉が寒いじゃん」
 マフラーも無いのに、と珍しく遠慮する馨に直哉は思わず笑みが溢れる。
「俺、こっちにもカイロ入れてるので」
 直哉はもう片方のポケットを軽く叩いた。それをじっと見つめていた馨は、貰ったカイロをコートのポケットにしまうと「えいっ」と、直哉のもう一方のポケットに手を突っ込んだ。
「あ、ぬくい」
「ちょっ、馨さんっ」
 直哉は体温が急激に上がるのを感じた。ポケットの中でカイロを握っているのは馨だというのに、身体の熱が一気に込み上げてくる。
「……直哉、背伸びた?」
「今、それ聞きます?」
 そう返しながら直哉も言われて気がついた。いつの間にか馨より少し目線が上になっている。
「縮め」
「なんつーこと言うんですか」
 言い返す直哉にポケットの中でカイロを触りながら馨が小さくパンチする。すると、周囲から「お、開けた」という声と共に前方からはぱちぱちという音が疎に聞こえ始めた。
「え……?」
 前後で並ぶ人たちがスマホの画面を見たり、前列の方に倣って手を叩いていた。
「直哉」
 いつの間にかポケットから手を抜いていた馨が直哉の顔を覗き込んだ。
「明けましておめでとう」
「……あ、明けましておめで」
 続きを言う前に直哉の腹の虫が大きく鳴いた。周囲の話し声で大して目立つ音ではなかったが、そばにいた馨の耳にはしっかりと届いたらしい。
「あはは、なにそれ」
「失礼しました。おめでとうございます」
 格好の付かない挨拶に直哉が不貞腐れた。
「食べて来なかったんだ?」
「……時間なくて」
「二十分も前に来たくせに」
 馨に笑われ、直哉は唇を突き出して黙り込む。母親からは屋台は高いから少しでも良いから食べていけと言われたが、家を出たい気持ちが前のめりになり、ほんの一口つまんだだけだった。もう少しきちんと腹に納めるべきだったと後悔しても、もう遅い。加えて少しずつ動き始めた列の前方からは屋台からの芳ばしい香りが漂ってきていた。
「はい、これ」
「え」
 前方に視線を奪われていた直哉に、馨がコンビニのおにぎりを一つ差し出した。
「お腹空くと思ったんだよね。どっちかが屋台に買いに行くのもありかなぁって思ったけど、それで逸れたら嫌だしさ」
 そう言って肩から下げていたショルダーバッグを開け、馨はコンビニの袋を直哉へ見せた。
「準備良いですね」
「まぁね」
「そしたら俺、あそこでお茶買ってきますよ」
 二人の並ぶ場所から少し前に自販機が見える。直ぐに戻れそうな距離だった。
 いただきます、と言って直哉はおにぎりの封を切った。
「お茶、どーも」
 直哉に手渡されたホットのペットボトルをじっと見つめて馨が言った。
「おにぎりのお礼です」
「延滞金残ってるけど?」
「まだ言うんですか」
「仕方ないからチャラにしてあげる」
 くすくすと笑いながら馨はペットボトルを開けないままコートのポケットに入れる。
「あれ、飲まないんですか?」
 ホットのお茶を飲みながら直哉が尋ねた。
「後で飲む。俺、猫舌だから」
 少しだけ恥ずかしそうに答える馨を見て、直哉はゴクリと音を立ててお茶を飲み込んだ。


 石階段を上がり、二人が本殿の前にやっと着いたのは年明けから一時間後だった。賽銭を投げて参拝を済ますと、後列を避けるように列から出た。
「待って」
 直哉より数秒ほど手を合わせる時間が長かった馨は、逸れないよう咄嗟に直哉の上着の裾を掴んでいた。
「早過ぎ」
「そんなにお願いする事ありました?」
 文句を言う馨に直哉が尋ねた。
「そうだね、直哉の身長が縮みますようにって」
「訂正してください。今ならまだ神様にも聞こえる距離です」
「冗談だっつーの」
 ムキになる直哉にケラケラと笑って見せると、馨は屋台の方へと歩き出す。
「で、本当は何を?」
「直哉は?」
「言いません」
「じゃ俺も言わない」
 そう言うと、コートのポケットから冷めて温くなったペットボトルを取り出した。馨の視線はもう屋台の食べ物へ向けられている。
「何か食べたいのありますか?」
「直哉の奢り?」
「延滞金まだなので」
「あはは、チャラになってなかった!」
 笑いながら馨は立ち並ぶ屋台を眺めた。どれにしよう、お好み焼きは文化祭で食べたし、たこ焼きは同じようなものだし、あれはお好み焼きより熱くて食べれる気がしない。口に出して悩む馨の後ろ姿を直哉はゆっくりと追いかけた。
「決まりました?」
 すると、馨は首を振って悩み中と言った。
「あ、甘酒無料配布だそうですよ」
 向かいの屋台を指差して直哉がつぶやくと、馨がくすりと笑った。
「飽きないねぇ、まったく」
「……はい?」
「楽しいって言ったの。ね、来年もまた一緒に来れると思う?」
 馨の問いに直哉は黙り込む。周りの喧騒が一瞬ぴたりと止んだ気がした。
「……あの券使えば良いんじゃないですか?」
「……あはは、そうきたか」
 小さく笑って馨が答えた。直哉は心臓の音が馨へ聞こえないよう少しだけ歩幅を狭める。馨の質問の意図を想像し、心臓が高鳴った。深夜の冬空は震えるほど寒いというのに耳まで熱が上った。
「あの……」
 直哉が口を開きかけると同時に、くるりと馨が振り返り「よし、決めた」と言って、ベビーカステラの屋台を指差した。
「あれにする」
「……今年最初がそれですか」
「だって他のやつ全部熱そうじゃん」
 本当はお雑煮が食べたいけど、と言って苦笑いをする。直哉は呆れ気味に小さく溜息を吐くと、ベビーカステラの屋台へと向かっていった。
 冬休みが終わり、三学期になった。三年生は受験へ向けての追い込みが始まり、毎週月曜の登校日以外に学校へ来る者は殆どいなくなる。いよいよ卒業式までのカウントダウンが始まった。この時期にはもう三年生は委員会も引退となり、当番もなくなるはずだったが、相変わらず、馨は直哉の居る木曜日に必ず図書室へ顔を出しに来た。最初のうちは「直哉がサボってないか見にきた」と理由を振り翳し、カウンターの椅子に座って直哉と芽衣が図書室内を掃除する様子を眺めていた。踏ん反りかえって偉そうにするものの、暫くするとそれに飽きて、窓辺の本棚に座り、窓を背もたれにして読書をしていた。そもそも、この当番が大して忙しくないのは分かっていたはず。直哉も芽衣も、顔を出してはすぐ飽きてしまう馨に呆れていた。


「今日はいつもより来るのが早かったんですね」
 ある時、掃除を終え、返却本を棚へ戻しに来たついでに直哉が馨に声をかけた。この日も登校日ではなかったが、馨は図書室にやって来ていた。いつもと違って昼過ぎから図書室に入りびったっていると、直哉は司書の星野から聞いていた。昼休みに顔を出し、鞄を置いて暫く出て行ったが、戻って来るなり窓辺の本棚に腰掛けて読書をし始めたという。
 何をしていたんだろう……。
 受験を終え、進路を決めた馨が木曜日にやってくるとしても、基本的に放課後からだ。わざわざ時間を合わせてやって来る程、自分達一年生だけに当番を任せるのは心配なのだろうか。当初はそう考えていたが、ただの暇潰しだと、少し前に本人から聞かされていた。図書室にどうしても読みたい本があったのだろうか。卒業間近の三年生には、もう貸出しが出来ない。だが、ここまで通って来るのだから、星野に言えば特別に貸出してもらえる可能性もあるはずだ。
「……まぁ、家にいても暇だから」
 馨はにこりと笑って答えた。一瞬間があったように思えたが、直哉はそのまま受け応える。
「それ、教室では言わない方が良いですよ……」
 まだ受験終わってない人もいるんだから、と直哉が付け加えた。
「そういえば、芽衣ちゃんは?」
「……暇だからって部活に行きました」
 直哉は眉を寄せて答えた。三年生が引退してからは、流石に直哉一人に仕事を押し付けるのは悪いと思ったのだろう、芽衣は最初だけ顔を出し、掃除が終わると部活へ行くようになった。
「相変わらずだねぇ。彼女も暇を持て余していたのか」
「勘弁してくださいよ。あいつ、今年に入って……いや、そもそもこの当番、最後までいた事ないですよ」
「あはは、確かに。まあ良いじゃん。どうせここも暇なんでしょ」
「まぁ……そうですけど」
 半ば諦め気味に直哉は言った。冬休みが明けてから図書室の利用者は大幅に減った。貸出し業務なんて十冊あれば多い方だ。三年生が利用をしなくなり始めたこともあり、自習に来る人も殆どいない。今も図書室に居るのは直哉と馨の二人だけだった。
「受験が早く終わるのも考えものだね」
「なんですか、急に」
「だって、全然遊び相手捕まらないんだもん。家にいても暇だし、直哉は毎日学校だし」
「当たり前でしょう。俺は一年ですよ」
「自分だって高校受験終わったら暇を弄んだくせに」
「だからって……」
 直哉は馨の言動に呆れながら少し前の自分を思い出す。怪我をして腐った時期はとっくに過ぎ去っていたし、リハビリもほぼ終わりに近かった。やる事と言ったら受験で手を出していなかったゲームや漫画に時間を費やすぐらい。卒業式を終えてからは、コンビニのアルバイトに勤しみ始めていたが。
「まぁ、この時期に一人暮らしの準備とか色々やったりするもんね。ギリギリまで合否分からない人とかは、物件探しや引越しの荷造りが大変らしいよ」
 だからしょうがないんだよねぇ、と呑気なことを言い、馨は伸びをした。
「馨さんは……一人暮らししないんですか?」
 直哉は恐る恐る尋ねた。ここ最近、一番気になっていた事だ。馨が進学を決めた晴朗大学は、馨の家から電車で一時間半はかかる場所に在る。一人暮らしを検討するには十分な距離だった。
「しないよ。前にも話したでしょ?俺、何も出来ないもん」
 馨は自信満々に答えた。そういえば花火をした際に一人では生活出来る気がしないと言っていたのを思い出す。
「でも、毎日直哉が家事手伝いしに来てくれるなら考えても良いよ」
「冗談やめてください」
「冗談じゃないよ。こっちにはとってもすごい券があるんだから」
 ふふんと鼻を鳴らし、馨は得意気に言った。直哉の脳裏に、ノートの切れ端で作った『なんでも言う事を聞く券』が浮かび上がった。
「あれは一度しか使えません」
「え、そんな事書いてあったかなぁ」
 とぼける馨に直哉は黙り込む。注意書きや期間なんて書き記した記憶はない。しまったと苦い顔をした直哉を見て、馨は吹き出す。
「安心してよ。まだ使わないから」
「……じゃあ、いつ使うんですか」
「内緒」
 馨はくすりと笑う。そのしたり顔が妙に鼻に付いて仕方なかったが、直哉はそれ以上話を掘り下げるのをやめた。
「それで?今日は何をしに来てたんですか」
 直哉は再び尋ねた。それに対して馨は眉を寄せると、一拍おいて口を開いた。
「……別に、いつも通りだよ。直哉達がちゃんと仕事出来るかの確認。あと……」
 馨が一瞬言い淀んだ。
「……ちょっと、忘れ物とか?」
「忘れ物、とか?」
 その言い方が妙に引っ掛かり、思わず復唱した。
 何かを誤魔化した……?
「えっと、うん、教室に……。ほら、誰もいない日の方が良いじゃん?俺みたいに受験終わった組は、後半戦を控えている人達から煙たがられるし……」
「え、でも登校日でもないんだから、何時に来ても同じですよね?」
 直哉の問いに馨は突然押し黙った。
 あぁ、これは。
 きっと、自分には触れて欲しくない何かだ……。
「……えっと」
 三年生のこの時期に、忘れ物という理由はいささか無理がある。多分本人もそれは感じていたのだろう。馨の表情が優れないように見えた。
「すみません、あの……なんでも、ないです」
「……そう」
 気不味い空気が二人の間に流れる。卒業前の相手と、ましてや馨相手にこんな空気を作るつもりは毛頭なかった。ただ、いつも以上に誤魔化し方が大雑把に見えて、詰め寄った言い方をしてしまった。
 どうしよう……。
「……これ、戻してきます」
 自分で作ってしまった空気に居た堪れず、直哉が返却本を戻しに行こうと踵を返した。
「直哉」
 心臓が一瞬凍りつく。冷たい空気が肺を通り過ぎて下っ腹で渦を巻いた。名前を呼ばれ振り返ると、馨の表情は相変わらず困った顔をしていた。
「ごめんね」
「……何がですか?」
 謝るなら俺の方じゃないのか……?
 困惑したまま、馨の顔をまじまじと見つめる。馨は小さく笑うと、本棚から飛び降りて手に持っていた文庫本を直哉の返却本の上に重ねた。
「ねぇ。帰り、ラーメン食べに行こう?バイトないでしょ?」
「…………は?」
 直哉は思わず間抜けな声を出した。さっきまでの変にピリついた空気が一瞬で消え去っている。
「あの……マジで意味分かりません」
「……あ、猫舌のくせにラーメンかよ的な?」
「いや、そうじゃなくて……。あぁ、もう良いです!」
 呆れ気味に返事をすると、馨はくすりと小さく笑った。
「ごめんな」
「……別に。なんかもう、本当にどうでも良いです」
「どうでも良くしないでよ」
「その我儘、大学でも通ると思っていたら大間違いですよ」
「……分かってるから」
 本当かよ、と溜息混じりに小さく独りごちると、直哉は本を本棚へ返しに行った。
 

 馨さんは一体、何を教室に忘れて来たのだろうか。
 授業中、窓から見えた曇った空を眺めながら直哉は考えた。木曜日の夜からずっとその事ばかりが気に掛かり、とうとうバイトでもミスをした。考え事をしながらレジに立ち、商品を二重打ちしていたのだ。幸い、金額がおかしい事に直ぐに気がついてクレームには発展しなかったが、花田には「金銭対応はどんな時でも慎重にね」と、やんわり注意を受けてしまった。結局、その日は気持ちが上手く切り替えられず、レジ対応は別の人に頼んで品出しと掃除をするよう言われた。
 こんなに引っ張るなんて、思ってもいなかった。考える度に直哉は溜息を吐く。この授業中にも何度吐いただろうか。ふと見上げた黒板の上に掛けられた時計は、もう授業が終わる十分前を指していた。数名の腹の虫が遠くで鳴る。購買部へスタートダッシュを試みる者が物音を立てないように机の上を片付け出した。そわそわと動き出す周りに感化され、直哉の腹の虫も小さく唸る。今朝は母親の仕事の都合で弁当は自分で詰めた。用意されていたおかずのほかに、冷凍庫に眠っていた鶏の唐揚げを二つほど無理矢理入れて来ていた。
 あの人の事だ、忘れた頃にケロッと話をしてくれるはず。気長に待とう。
 頭の中はもう弁当へシフトした。そう思い込んだのだが、ものの数分でまた「何だったのだろう」と繰り返し馨の忘れ物について考え始めていた。



「朔間くん、ごめん。今週、当番頭から行けそうにないの」
「……今更?」
「あー……うん、本当に。諸々、ごめん」
 罰の悪そうな顔をして芽衣が謝る。直哉の言い分は百も承知だと顔に書いてあった。
「今週から卒業式の演奏と、定期演奏会の練習が始まるの。もう三年生いないから休めなくて……」 
 苦笑いで芽衣が言う。毎年、卒業式の校歌や卒業生の最後の合唱曲の演奏は吹奏楽部が担当すると直哉の耳にも入っていたが、彼女の当番サボりは今に始まったものではない。
「休めない、はいつもだろ。来年は図書委員にならないようにしておくんだな」
「何よその言い方。仕方ないじゃない、今年は運が悪かったの」
 直哉が棘のある言い方になるのは彼女自身も分かっていた事だが、実際言われれば腹が立つ。
「あーあ、朔間くん、如月先輩いなくなってからずっと嫌味ばっかり。先輩は理解あったのになぁ」
 そう、彼女が今までずっと部活に専念出来ていたのは三年生の理解の賜物だ。主に馨が「暇だし良いよ」とさっさと追い払ってしまう。ついでに自分と同じクラスの女子生徒も帰してしまうため、基本的に木曜日は馨と直哉の二人体制だった。当初は困惑したが、だんだんと馨と二人でいることが当たり前になっていき、途中からは二人きりになれる時間として直哉も楽しみにしていた。だが、それは馨が現役だったからである。
「あの人は甘いんだよ。それにもう三年がいないのは部活だけじゃないんだぞ」
 学年が変わっていない今、木曜日の当番は直哉と芽衣だけだ。一人欠ければその分仕事量も増え、時間もかかる。それに、馨が毎週顔を出すからと言って、必ずしも手伝うとは限らなかった。
「それはそうなんだけど……あ、噂をすれば」
 芽衣が窓から中庭を眺めて言った。つられて直哉も中庭へ視線を移した。そこには馨と見知らぬ女子生徒が一人、旧校舎の裏へ向かうのが見えた。
「どこに行ったんだろう」
 直哉が首を傾げた。
 あの先は図書室のある旧校舎だ。彼ら三年生がこの時期に行くとすれば、それこそ自習や読書を理由に図書室だと考えられる。しかし、馨と一緒に居た女子生徒は、わざわざ中庭から旧校舎の裏へと向かって歩いていた。
「音楽室とか?ほら、卒業式の合唱練習かも」
 確かに、今日は月曜日で、三年生の登校日だ。だが、合唱練習のために音楽室へ行くとしても、わざわざ中庭など通らない。渡り廊下を渡って、三階へ上がるのが通常の導線だ。不思議に思って直哉は、旧校舎の音楽室の窓を見上げた。カーテンは開いているが、窓は閉め切っている。
「合唱練……?」
「これからするんじゃない?」
「誰かいるようには見えないし、そもそも全員入りきらないよな」
「えぇ。確かに。練習なら体育館だろうし……」
 芽衣が頷いた。
 だとしたら……。
 その瞬間、直哉の全身にぞわりと鳥肌が立った。飲み込む唾が重く、鼻から吸い込む息が苦しい。無意識に眉が眉間に寄った。嫌な焦燥感が駆け巡り、呼吸が上手く整わない。
「もしかして…………告白!」
 芽衣が目を輝かせた。
「旧校舎裏なんて今の時間誰もいないし!きっとそうだよ!」
「きっとって……。校舎裏の倉庫から何か運んでくるよう頼まれているだけかもだし」
「倉庫?そんなのあっちにあった?」
 直哉は芽衣のその声にハッとする。旧校舎裏には倉庫はない。あるのは屋外プールぐらいで、今の季節は水泳部が陸上トレーニングの際に更衣室を使うぐらいだ。
 ぞわりと、また鳥肌が立った。ただ、倉庫の有無を確認しただけなのに耳まで熱が上っていく。
「告白はきっと女子からね……」
「え、なんで」
 さっきまで普通に聞こえていた芽衣の声が、籠って聞こえ始める。
「うっそ、朔間くんあれだけ先輩と一緒にいて知らないの?如月先輩ってめちゃくちゃ人気あるんだから。それにほら、明日は……」
 好奇心に溢れた芽衣の声は、いつの間にか遠くで聞こえ、最後の方が上手く聞き取れなくなった。途端に心臓がざわつき始め、直哉は思わずワイシャツの第二ボタンを左手で握り潰した。


 明朝、学校最寄りの駅に降りると、直哉は大きな欠伸をした。昨晩は殆ど眠れなかった。試しに数えた羊は三百を超えたが、おかげで馨の事を深く考えずに夜を明かすことができた。いつだか馨にペラペラダウンと言われた上着のポケットに手を突っ込んで歩く。二月の朝は吐く息が白く、耳に当たる風は冷たくて痛い。初詣の日も寒く、今日と同じ気温だったような気がした。二人で出掛けるのが嬉しくて、天気予報を入念に確認していたからよく覚えている。
 違うのは、横に馨さんがいないという事だけだ。
 直哉にとって、馨が隣にいるのは当たり前なことだった。高校生活が始まってから今まで殆ど変わらなかった日常だ。それがもう直ぐ終わろうとしているのだと、昨日やっと気がついた。
 あんな事で気がつくなんて……。
 昨日、芽衣と見かけた馨と女子生徒を思い出して溜め息を吐く。その後、「あれはやっぱり告白だったって!もちろん、あの女の先輩からみたい」と、芽衣からメッセージが送られてきた。続けて送られてきた告白の結果には、馨が彼女を振ったと書いてあり、内心ホッとした。安堵した直哉は、その勢いで「一緒に帰りませんか」と馨に連絡を入れた。しかし、「今日は予定があるからごめん」と珍しく馨に断られてしまった。いつもなら二つ返事で承諾をしてくれるというに、あまりにもあっさりとしていて腹が立つ。
 人の予定はお構いなしのくせに……。
 何で今更。どうしてこの人は……。と、馨に対する文句は羊と同じ数は呟いた。幸い、今日は三年生の登校は無いはずだ。いつも通りに馨が顔を出すとして、木曜日まであと三日はある。
 一旦、落ち着こう。
 直哉はゆっくりと息を吐いた。
 俺があの人に伝えられる気持ちは、卒業を祝う事だけなのだから……。



「また告白みたいよ」
 次の日、教室に入るなり、挨拶もそこそこに芽衣が直哉へ言った。
「……その話ならメッセ読んだ」
「それは昨日の話でしょ。やっぱ如月先輩ってモテるのね」
 芽衣が眉をハの字に寄せ、やれやれと言ったような口振りをした。
「……え、また?」
 ようやく彼女の言っている意味がわかった。直哉はリュックから乱暴にペンケースを取り出し、芽衣に詰め寄る。
「だからそう言ったじゃない」
 芽衣が分かりやすく大袈裟な溜息を吐いた。
「昨日のは三年の人みたいだけど、今日は二年の図書委員。桐島さんだって。さっき、吹部の先輩が教えてくれたの」
 得意気に芽衣が言った。直哉の記憶に二年の桐島ははっきりと残っていないが、名前には聞き覚えがあった。昨日同様に、全身にぞわりと鳥肌が立つ。
「でも、今日登校日じゃ……」
「あんたね……今日何の日か分かってる?」
「え?」
 何の日、と言われてもピンと来ない。
「バレンタインでしょ。昨日言ったじゃない」
「は……」
 そう言われ、彼女とのやり取りを思い出す。あの時聞き逃したのはバレンタインという単語だったようだ。
「え、じゃあ、昨日のも……」
「昨日は三年生、今日は一、二年からの呼び出しでしょうね」
 だからか……。
 直哉は昨日、馨に断られた事を思い出した。登校日中にチョコレートを渡そうと行動を起こす女生徒がいてもなんらおかしくはない。実際に旧校舎裏へ向かう姿も目にしているのだ。昨日はきっと、そんな女の子達からから告白を受けていたのだろう。
 そんで、捌き切れないからって後輩は今日に回したってか……?
 思わず直哉から舌打ちが漏れる。同時にこの前の「忘れ物」の話を思い出して苛立ちが増した。
 忘れ物って……。
 それが咄嗟に出た言い訳なのは分かっていた。馨の性格的に、他人の事を誰彼構わずべらべら喋る事はないのは分かるのだが、別に隠す事なんてなかったのではないか。納得がいかない。彼の他人への優しさが気に食わない訳じゃないのに、それを理由に一枚壁を隔てられた事に腹が立った。
「おーい」
 黙り込む直哉の顔を芽衣が覗き込む。
「顔、険しいけど?」
 芽衣が自分の眉間を擦りながら言った。
「……なに」
「何って……だから、今日が何の日か分かってるんでしょ?」
 まったくもう、と言いながら芽衣は直哉に小さなピンク色の箱を手渡した。
「はい、チョコレート。木曜日は本当に、ごめん。ていうか、来週も休む気がする……。でも、来月の卒業式までだから……!」
 申し訳なさそうに芽衣が言った。卒業式は三月一日で、もう再来週に迫っていた。
「いいよ。時間がないのはお互い様だし」
 直哉は溜息を吐きながら答えた。芽衣は直哉の返答に不思議そうな顔をしたが「あとそれ」と、すぐに切り替えてチョコレートを指差した。
「ちゃんとお返ししてよね」
「……義理ってお返し要らないんじゃないのか?」
「私は!いるのっ!」
 ムキになる芽衣に、直哉はふっと頬を緩ませる。少しだけ全身にかかっていた力が緩んだ気がした。



「火曜日、来てたんですね」
 返却本を片し終えた直哉が、箒を片手に馨に言った。いつもの窓辺で読書をしていた馨は、眉をぴくりと動かして本から視線を直哉へ向けた。
「なに、もしかして直哉って俺のストーカー?」
「人聞きが悪いですよ」
 否定せずに惚けられ、直哉の方が怪訝な顔に変わっていく。
「ごめんて。声かけてくれれば良かったのに。メッセージくれた?」
「いいえ」
 直哉は首を横に振った。メッセージなど送ったところで、どうせはぐらかしただろう。あの日はバレンタイン。芽衣の話では馨に好意を寄せている下級生は沢山いるらしい。彼女の吹奏楽部にも数人、チョコレートを渡しにいくのだと張り切っている子がいたようだった。
「少しずつ荷物を持ち帰ってるんだよ、卒業式に大荷物とか嫌だし」
 馨はにこりと笑って答えた。その清々しさにまた苛立ちが増す。直哉は出しかけた舌打ちを堪えた。
「ま、いざとなったら直哉に手伝ってもらえば良いかなぁって思ったんだけど」
「……いやですよ。自分でどうにかしてください」
 どういうつもりで言っているんだ、この人は……。
「えー。けちー」
 苛立つ直哉を他所に、馨はいつも通りケラケラと笑った。
「馨さんが全部に責任持つって決めて持ち帰ったんでしょ」
「え?」
 あ、しまった…………。
 直哉は言わんとしていた嫌味を、つい溢してしまった。慌てて口に手を持っていくが、はっきりと馨の耳に聞こえている。
「……もしかして、なんで来てたか知ってたの?」
 馨が直哉の顔を覗き込む。直哉は咄嗟に顔を背けた。心臓が強く脈を打ち、同時に背中が粟立った。
「……直哉?」
「…………馨さんは随分とモテるらしいので……」
 物凄くか細い声で直哉が渋々と答える姿を見て、馨は勢いよく吹き出した。
「あはは、何それ!」
「べ、別に、なんでもないですけど!でも、ああいう特別な日のプレゼントって、本気の人もいる訳で」
「うん。知ってる」
 馨がまたにこりと微笑む。
「知ってるし、分かってる。だから、ちゃんと直接断って、受け取ってない」
「……えっ…………は?」
 今、なんて……?
 余程の顔をしていたのか、直哉の顔を見るなり馨はクツクツと喉を鳴らし、笑いを堪えている。
「あ、クラスの女の子達がスーパーの徳用チョコを配っていたのは一つ貰ったけどね。流石にゼロはカッコつかないかなぁって」
「はあ……」
 拍子抜けした直哉は気の抜けた声で返事をする。まだ状況がよく理解できていない。だが、ずっと胸のところでつっかえていた物が消え、嫌な鳥肌がすうっと引っ込んでいくのが分かった。
「なに、俺が誰かの彼氏になると思った?」
 くすくすと笑いながら馨は冗談を言ったが、直哉にとっては図星以外の何物でもない。直哉は返事をする代わりにゴクンと強い音を立てて唾を飲み込んだ。すると、馨はくすりと笑ってわしゃわしゃと直哉の頭を撫で回した。
「ちょ、なんですか!」
「あはは。直哉、身長伸びたなぁって」
 撫でる手を避けると、上目遣いな馨と目が合った。数ヶ月前までは目線が同じはずだった。
「俺のこと思ってくれる人がいるのは心の底から嬉しいよ。人に好かれるって凄いことだし、恋人が居たらなあとか、俺だって考えることもある。だけど、そんな『居たらなぁ』程度の気持ちのまま本気の気持ちを受け取っちゃうのは相手に対してフェアじゃないでしょ」
 馨は静かに直哉の頭から手を離す。
「それに……俺、忘れ物あるから」
「忘れ物……」
 また、言った。
 直哉の眉がぴくんと動く。
どうしてこの人は、いちいち訳の分からない言い方をしたがるのだろうか。
晴れ始めた胸の中に、また霧がかかったような気がした。
「……持ち帰るんですよね、それ」
 一歩後ろに下がり、直哉は箒を持ち直した。
「うん、たぶんね」
 これ以上、何を聞いてもはぐらかされる。そう思った直哉は、その『忘れ物』が何なのかを確認しないまま掃除の続きを始めた。
「あ、直哉」
「はい?」
 直哉は振り返らずに返事をした。
「俺、来週は来ない。次に学校に来るのは来週の登校日と卒業式。それで最後だよ」
「……わかりました」
 今日が図書室で会える最後の日なのか。
 呑気なことが頭に浮かぶ。唐突すぎて何の実感も湧かない。卒業式は暦上の、学校行事という形だけで、馨が卒業して学校から居なくなってしまうことが信じられなかった。直哉の頭に浮かぶのは、いつも横で微笑む馨の姿だった。来年もその次の年も、そのまた次の年も。気がついたら横にいて、気がついたら振り回されて、一緒にいる。そんな風に思っていた。本人の口から「卒業式」という単語を聞くまでは。
「卒業、しなければ良いのに……」
 思わずぽろりと溢れた欲。直哉の小さな声は静かな図書室に響き渡った。
「ん、どうした?」
 その声に直哉の心臓がばくんと跳ねた。
「いえ……。なんでもないです」
「そっか」
 ほっと胸を撫で下ろし、再び箒を持ち直す。心臓は今にも飛び出す勢いで脈を打っていた。




「ね、直哉は俺にチョコレートないの?」
「……ないですよ」
「なぁんだ。じゃあさ、今から食べに行こうよ。俺、奢ってあげる」
「うわ、珍しい。槍でも降るんですかね」
「降らねぇし。ちなみに駅前のファミレスでやってる、期間限定特大チョコレートパフェだから」
「……遠慮します」
「ダメ。食べ終わるまで帰さない」
 一年は長いようで短い。気が付けばあっと言う間に春が来ていた。通学路の途中で、梅の蕾が膨らむのを横目に直哉は思った。去年の今頃は、幼い頃からの友人達と離れ難い半面、新しい環境へ足を踏み入れることに緊張していた覚えがある。怪我をして、部活のできなくなった自分は学校生活で何を楽しみに生きていくのか。馴染めるものは何かあるのか。とりあえず試しに始めたアルバイトは、店長が親しみやすかったし、他のアルバイト達も気さくな人達が多くてすぐに馴染むことが出来た。入学式を終えて一週間たった頃には、勉強は適度に頑張って、暇な時はアルバイトをし、普通にクラスに馴染んで、何事もなくただゆったりと三年間を過ごせば良いと考えていた。
 だがそれも、図書委員会の活動が始まってから変わった。ただゆったりと学校生活を送ることが出来なくなった。それは、如月馨という二つ上の先輩が、どうしようもなく気になる存在になってしまったからだった。

 初めて委員会で見た時は、モテそうな人だとそう思うだけで、大して気に留めていなかった。しかし、同じ曜日の当番初日に見た寝顔が、あまりにも綺麗で衝撃的だったのだと思うと、今では自分の気持ちに納得がいく。窓辺で居眠りをしている彼は、陽の光を背負って色素の薄いサラサラの髪と長いまつ毛を金色に光らせていた。あれを忘れろと言う方が無理だと今でははっきりと言えるだろう。それに加えて、あの日から自分の生活に馨は入りっぱなしだ。当番の日は勿論のこと、放課後も、アルバイト中も、夏休みも冬休みも。入学してから今の今まで、思い出の中心はいつも馨だった。それが卒業式を迎えた途端にパタンと終わりはおかしな話だ。しかし、先週の木曜日に、もう図書室には来ないと言われた。次に来るのは卒業式だとも。急に全部が閉じていく気がして、あれから上の空な事が続いた。来年もそのまた来年も、その次の年も、その次も。馨は自分の横にいるものだと勝手に思っていた。知らず知らずのうちに、一緒にいるだけでそう思っていた。自分の知らない誰かと一緒にいるだけで騒つく心臓、時々返事に困る言動や行動、猫舌な癖にラーメンを食べに行きたがるところや、人の予定などお構いなしにぐいぐい来るところ。腹が立つくせに全部、愛おしくて、憎らしくて今更手放すことなど考えられない。
 どこかでずっと分かっていた。たぶん、きっと、去年の春先から。
 俺は……馨さんが好きなのだ、と。
 直哉の中で出た答えは、呆気なく腑に落ちた。はっきりと言葉にして自覚した途端から、ずんと胸の奥が重たく感じる。
 来週の卒業式……俺、ちゃんと送り出せるのだろうか……。


 図書室の施錠をして司書室に鍵をしまった直哉は、旧校舎の階段で部活動終わりの芽衣に出会った。
「あれ。一人?」
「あぁ」
 芽衣はわざとらしくキョロキョロと視線を動かして、「如月先輩いないの?」と見れば分かることを直哉に尋ねた。
「……先週で来るのは最後だと」
「へぇ。珍しい」
 芽衣から見てもそう思うのか、と直哉は小さく息を吐く。
「ねぇ、先輩に何渡すの?」
「え?」
「送別品。あげないの?あれだけお世話になっておいて」
「お世話って……」
 どっちがだよ。
 そう言いかけたが、直哉はぐっと堪えた。
「考えてなかった」
「薄情ねぇ」
 うるせぇな……。
 直哉は芽衣に聞こえないぐらいの小さな舌打ちをする。別のことで頭が回らなかったのだ。何も知らない他人に口を出されては面白くはない。
「プレゼントとまでは言わないけど、お礼ぐらい言ったら?」
「そーだな……」
 苛立ちを飲み込むように深呼吸すると、直哉は芽衣に振り返る。
「そっちは?」
「え?」
「吹部の先輩に何贈るんだ?」
「花とか、ハンカチ……とか?」
「なるほど」
「あくまでも私達の話よ。他にもあるでしょ、手紙とか色々」
 色々ねぇ……。
 贈る言葉よりも、内に秘めた想いの方が強い。そう思うのだが、今それを彼にぶつけるべきなのかはまだ答えが出ていなかった。
「手紙はなぁ……」
「例えばでしょ、例えば。気持ちさえ籠っていれば何だって良いの」
 直哉は無意識に、ブレザーの胸ポケットを触った。そこには馨からクリスマスに貰ったシャーペンが挿さっていた。これこそ、気持ちが籠ったプレゼントなのだろうか疑問である。あの日馨は、勘違いした直哉の誤解を解くためにわざわざアルバイトが終わる時間にやって来て、使い古したシャーペンを渡してきた。あの時は即急でこれしか無かったのかもしれない。だがこれは彼自身が使っていた物。他に替えの効かない物だ。これを貰った時は、確かに内心穏やかとは言えなかったが、今になっては大事な物になっていた。そして、馨はあの時『何でも言うことを聞く券』を直哉にねだったのを思い出した。
 多分、馨さんはその辺で買った物でも喜んでくれるだろう。だが、他と替えの効かない物が一番反応が良いはずだ。
「……面倒くせぇな」
 直哉は思わず声に出して溜息を吐く。
「ちょっと、気持ちまでなくす気?」
「うるさいな、そうは言ってないだろ」
「ちゃんとしなさいよ」
「はいはい」
 芽衣に適当な返事をし、直哉は階段を降りていく。
 卒業式まであと数日。あの人に何を贈ろうか……。



 卒業式の朝は雲一つない良い天気だった。卒業式は午後からで、在校生が午前中に登校し、準備を行う。一年生は三年生の教室掃除を、二年生は体育館の設営と体育館回りの清掃を任され、学校全体が既にお祭り状態だった。
 直哉の担当した教室は、あいにく馨の教室ではなかったが、美化委員から渡された雑巾で床拭き班に参加した。掃除中も度々掛け時計を見上げては、卒業式開始の十三時に近付くたびに奥歯を噛み締め、欠伸を堪える。昨晩は殆ど眠ることが出来なかった。直哉がベッドに入った直後、図ったように馨からメッセージが届いたのだ。
『明日、卒業式後に図書室に集合』
 有無を言わせないメッセージが馨らしい。しかし、おかげで直哉は寝不足だった。自分の気持ちをぶつけるならこの時がチャンスだ。だが、伝えるべきか否か迷っていた。もし、振られてしまったら。そもそも同性の自分に好きだと言われたら困るのではないだろうか。迷惑になるのではないだろうか。言わないで後悔するよりは、言ってしまった方がいっそ楽なのは分かっている。しかしそれは自分の一方的な考え方ではないだろうか……。一つ考えると後から後から色んな不安が浮かんでくる。羊を数えるよりもぽんぽんと出てくる不安の数に、明け方まで眠ることが出来なかったのだった。


 卒業式はつつがなく始まった。体育館の後方に左右に作られた在校生席は一年と二年で分かれており、その間を卒業生が通って入場した。啜り泣きと入場の音楽が体育館に響く中、卒業生達も複雑な顔つきで歩いている。
 馨さん……。
 直哉は普段伸ばさない背筋を、ぎりぎりまで伸ばした。制服と制服の交差する隙間から、どうにか馨を探そうと必死だった。結局、直哉の席からは殆ど見えなかったのだが、それでも馨の後ろ姿はばっちりと捉えた。相変わらず目立つ容姿で、彼が通った後は体育館に小さな騒めきが起きていた。普段一緒に居ることが多かったくせに、こんなに彼に憧れる人がいたとは考えたことがなかった。最近まで本当に気が付いておらず、目の当たりにして実感する。それと同時に、自分が馨について自分から知ろうとしなかった事を今になって悔やんだ。遠くに行ってしまう時になって惜しむなんて、子どもみたいで情けない。こんな中途半端なまま、自分勝手に好きだなんだと悩んで良かったのかとまた、堂々巡りを脳内で展開する。
 いや、もう気にするなって思う方が無理だ。
 こんな些細な事を悩むほど、馨の事で頭の中は一杯なのだ。前方はもう卒業生の後頭部しか見えない。入場が終わり、全員に起立の号令がかけられた。芽衣のいる吹奏楽部が校歌の伴奏を開始する。あの中に想い人がいて、その人はもう間も無くこの学校から卒業する。どうして自分は同い年ではないのだろうか。どうしようもない事に苛立って仕方ない。伸ばした背筋をまた曲げると、直哉は卒業生から視線を逸らす。
 こんなにも退屈で苦しい卒業式は、初めてだった。


 卒業式が終わると、三年生は最後のホームルームをするために教室に向かった。在校生はその三年生の出待ちをする者と帰宅する者で分かれたが、直哉は司書の星野から掃除をすることを条件に鍵を借りて図書室を開けた。鞄をカウンターに置くと、窓を開けて空気を入れ替える。冷たい風が図書室に入り込み、中の湿った空気が逃げていった。まだホームルームは終わらないと踏み、直哉は掃除用具を司書室から運び出すと、一人で掃き掃除を開始した。
 そういえば、最初の掃除は馨さんと二人だったんだっけな。
 芽衣は部活で、馨と同じクラスの女子生徒も休みで当番には来られなかったあの日。掃除用具の場所から、カウンター業務の手順などを馨から教わった。どこか強引なところがあったが、寧ろ引っ張ってくれるのが有難いぐらいで、ついていく方は楽だった。中学の部活で後輩を面倒見ていたばかりだったせいか、久々に学校で先輩と過ごす時間は楽しかった。
 これが週一ではなく、ほぼ毎日になるとは思っていなかったけども……。
 思わず苦笑いが溢れる。図書室全体履き終わると、塵を取った。一人でやるならここまでで良いだろう。直哉は時計に目を向けた。最後の長いホームルームは終わった頃だろうか。ふと、窓の外から騒ぐ声が聞こえてきた。三年生が昇降口に降りてきたのを迎える後輩達の声だった。直哉はいつも馨が座っていた窓辺の本棚に腰を下ろすと、その様子をぼんやりと眺めた。
「なーに見てるの?」
 直哉の背後で凛とした声がし、振り返るとそこには馨が立っていた。
「……もっと音立てて入ってきてくださいよ。心臓に悪い」
「図書室では静かにするのがマナーなので」
 馨はくすくすと笑うと、直哉の横に腰掛けた。鞄は直哉と同じようにカウンターに置いてきたようだ。
「卒業式、寝てたでしょ」
「起きてましたよ」
「うそ。欠伸してたもん」
「……見てたんですか」
「ふふふ」
 笑って誤魔化す馨を見て、適当にカマをかけられたのだと気がつく。直哉は外で先輩達を囲む在校生を見ながら溜息を吐いた。
「幸せ逃げるぞ」
 ……幸せより先にアンタがいなくなる。そうポロッと言えてしまえたらどんなに楽だろうか。
 直哉は咄嗟に浮かんだ悪態を、喉元から外へは飛び出させないよう必死に飲み込んだ。
「……あの、馨さん」
「ん?」
「送別品なんですけど」
「え、なになに?何かくれるの?」
 馨が目を輝かせた。しかし、直哉はゆっくりと首を横に振る。
「あはは、正直だなぁ。いいよ、物が欲しいって駄々を捏ねるど子どもじゃないし」
「っていうか、そもそも馨さんって普通の物じゃ満足しないじゃないですか。だから何も浮かばなくって……」
「なにそれ。俺ってそんなに偏屈?」
 気付いていないのか、と返事の変わりに直哉はジト目を馨へ向けた。
「クリスマス、何が欲しいって言ったか覚えています?」
「あー、あはは。確かに」
 馨は思い出してケラケラと笑う。直哉はまだ使われていないあの券の所在が気になって仕方なかった。
「じゃあさ、また偏屈なこと言って良い?」
「……限度によりますけど」
 馨はニヤリと笑った。
「それ、ちょーだい」
「……え、これですか?」
「うん。それ。それが良い」
「……何に使うんですか。使い道何もないでしょう?」
「別に。ただ持っていたいだけ」
「それ、どういう意味です?」
「さぁ?どういう意味だろうね」
何を言っても笑い返すだけの馨に根負けした直哉は、本棚から腰を上げると馨の前に立った。嬉しそうな顔で直哉の顔を見上げる馨と目が合う。その瞳がまた窓から差し込む陽によって眩しく見えた。ゴクリと唾を飲み込んで、直哉は自分のネクタイを緩めると、その下に見えるワイシャツの第二ボタンを摘み取った。
「……どうぞ」
 小さなボタンを手のひらに乗せ、馨に差し出す。今になって自分がやったことが恥ずかしくなり、直哉は下を向いたまま視線を逸らした。
「ふふ、どーも」
 手汗が滲む手のひらから、ボタンを貰うと馨はくすくすと笑った。
「ワイシャツ、お母さんに怒られない?」
「……そーいうの言わないでもらえますか」
「ふふっ。あ、じゃあ俺はこれね」
 今度は馨がネクタイを緩めた。第二ボタンまで開いていたワイシャツからチラリと肌が見え、直哉は視線だけ気不味そうに逸らす。
「はい、どうぞ」
 そうして直哉が手渡されたのは、馨が付けていた制服のネクタイだった。
「洗濯の替えにでもしなよ」
「……はあ」
 気の抜けた返事が図書室に響く。手にした馨のネクタイは、まだほんのり温かくて直哉の心臓が妙に騒がしくなった。
「あの……馨さん、俺」
「あ、そうだ。直哉、来月の三日って空いてる?」
 直哉に被せて馨が尋ねた。
「え、三日?まぁ、まだ春休みなので……」
「じゃあ、決まり。入学式後、迎えに来て」
「……は?」
「入学祝いしてくれないの?」
「いや、そんな訳ない……ですけど」
 考えていなかった訳ではないが、このタイミングに驚いて直哉は口をぽかんと開けたまま馨の顔を見つめている。
「じゃあ、決まりな」
 くすくすと笑いながら馨は言った。直哉は頭を掻きながら、スマホを取り出して勝手だなんだと呟きながら、忘れないうちにスケジュールを入れる。
「なぁ、ネクタイを贈る意味って知ってる?」
「いえ、知らないですけど……」
「……ふぅん、そっか」
 直哉がスマホから顔を上げると、眉をハの字にして馨が笑う。
 ネクタイを贈る意味、か。
 後で調べようと、直哉は頭の隅にメモを残す。それよりも今は自分の胸の奥がざわついて仕方ない。
「あの、馨さん」
 今だと思い、直哉が口を開くと馨は「あーダメダメ」と片手を振り、また直哉の話を遮った。
「今日ここに直哉のボタンが欲しくて呼び出したのは俺。直哉からの話は、そっちから約束取り付けてからじゃないと聞いてあげない」
「……はぁ、何言って」
 すると、馨はムッとした顔を直哉へ向けた。
「俺だってな、お前から呼び出してくれた方がドキドキすんの」
「……は…………え?」
 直哉の心臓がばくんと大きく鳴った。目の前でほんのりと頬を染める馨にも、その音が聞こえてしまう程に大きな音だった。
 今のって、絶対このまま流して良いやつじゃないだろ……。でも俺はそれをどう捉えたら?だけどこれって、そういうことで……。
 窓から流れ込む冷たい空気さえ、気にならないほど身体中が火照り出す。ごくりと喉を鳴らし、直哉はじっと馨を見つめ直した。目が合って、顔を逸らされる。馨の耳が赤く染まっているのが見え、堪らず息を呑んだ。耳の奥で響く心音がだんだんと大きくなり、さっきまではっきり聞こえていた外の声も全く聞こえなくなっていく。
 何か言わなきゃ……。言わないと、この人はまた……。
 だが、さっきの馨の言葉が頭の中でリフレインして、直哉は押し黙る。歯切れの悪い自分に苛立ちが込み上げて、握った拳に力が入った。
 あぁ、クソ……!絶対チャンスなのに……!
 先に先手を打たれてしまった手前、肝心なことは言い出せない。
「じゃあ……俺、友達待たせてるから。また連絡する」
 馨は下を向いたまま本棚から降りると、カウンターに放り投げた鞄を取りに向かう。シトラスの香りがふわりと直哉の鼻をくすぐった。
「あのっ、馨さん」
 直哉は咄嗟に手を出し、馨の手を掴んだ。名前を呼ばれて馨の肩がぴくんと揺れる。少し前までその肩を下から見上げていた気がする。その肩も今では直哉の視線の下にあって、掴んだその手を強く引けば、馨を抱きしめるのだって簡単に出来そうだった。しかし、呼び止めたところでその続きの言葉は一向に出てこない。強引にでも伝えたい想いがあって手を伸ばしたのに、結局直哉の声は掠れるだけだった。
「……クッソ……」
 空いた方の手を握りしめ、その拳を膝に叩きつける。悔しさが沸々と込み上げるのに、苦しさはまったくなかった。
「……あのさぁ。一つ、ずっと言い忘れてた事があるんだけど」
 先に口を開いたのは馨だった。直哉の口の中はカラカラに渇き、飲み込む唾もなくなっていて返事すら出来ない。
「……その胸ポケのペン、俺の合格ペンだから。大事にしろよ」
「……それ今、言います?」
 やっと振り絞って出たのはいつもと同じ悪態だったが、同時に咽せて咳き込んだ。
「直哉が何も言わないから、わざわざ気遣ってやったのに」
 大丈夫?と馨が心配そうに顔を覗き込むと、直哉は首を軽く縦に振った。
「……俺からの話は、別日に聞くんでしょ」
 というか、何も言えなくしたのはそっちのくせに。噛み付いてやりたいと思ったが、直哉もここは馨を立ててやることにした。
「うん。だから、また……ね?」
「……はい」
 直哉はゆっくり力を抜いて、馨の手を離した。
「馨さん、卒業おめでとうございます」
「うん。ありがと」
 窓の外から再び風が入り込む。入学式の以降の約束は自分から取り付けることを誓って、直哉は溜息を吐きながら力無く笑った。
 卒業式を終えてニ週間が経った。祝日を挟み、少し早めの終業式を終えて、直哉達在校生は春休みに入った。卒業式後、馨をどう呼び出そうか悩み、結局何も行動に移すことが出来ないままアルバイトに明け暮れていた。呼び出してもどう切り出して良いのかが全く検討つかなかったのだ。ただ、そのままにしているのも息苦しく、会えない日々を過ごすだけも辛い。痺れを切らしてメッセージを打つものの、送信は出来ないでいた。
「はぁ……」
 バイトのレジ対応が終わり、客を見送った直後は溜息を吐いた。今日こそは、と思っていながらメッセージの送信は出来ないままだ。このままではあっという間に入学式になってしまう。一度も顔を見ずにその日を迎えたくはないし、何より卒業式から気不味くて、会っていなかった。
 ただ誘うだけ、誘うだけだ。昼食だって良いし、服や学用品の買い物だって良い。あの人の好きなラーメン屋でも。そういえば、駅前のファミレスでいちごフェアが始まっていた。期間限定のスイーツには敏感だったし、これぐらいなら……。
 以前は適当な約束をして遊んでいたはずだ。だが、思い返せば自分から馨を誘った事は殆どない。というか、一度も無い気がした。そうなると一層こちらから声を掛けなければと思ってしまう。
 ふと、卒業式に見せた彼の顔を思い浮かべる。赤面している馨は珍しく、彼のあんな表情を見たのは衝撃的で、思い出すだけで心臓が高鳴った。
 決めた。とりあえずいちごフェアだな。
 何にせよ、とにかくこのままでは馨に会うことなく春休みをバイトで潰しかねない。
 シフトが終わったらメッセージ送って、それから……。
「もしもーし」
「え?」
 振り向くと、すぐ真横に同じアルバイトの綾瀬郁人が立っていた。甘ったるい香水が直哉の鼻を掠め、思わず眉を寄せる。大学三年の彼は授業の関係で去年は殆ど深夜帯シフトに入っていたのだが、就職活動を視野に入れ、最近では昼から夕方の時間帯のシフトにも入るようになった。しかし、その風貌は就職活動からかなりかけ離れている。金色に染めた肩まで伸びた長い髪は、ポニーテールや三つ編みにする事もあって、後ろ姿は女性に間違えられるほど。そして、軟骨まで連なって開いた耳のピアスホールとピアスの数は、特に目を引いた。
「朔間ちゃん、もう上がりだってー」
 加えてこのゆったりとした口調は面接で一発アウト間違いない。
「あ……はい、すみません」
 香水を避けるように直哉が顔を背けて言った。
「その百面相面白いねぇ、飲み会でウケそう」
「百面相なんか……」
 歯切れの悪い返事を返すと、郁人はニヤリと笑う。耳にいくつもぶら下がっているピアスの揺れる音が聞こえた。
「冗談だよ。溜息まで吐いちゃってさぁ。なんか悩みでもあるの?お兄さんが聞いてあげようかぁ?」
 そんな所から見られていたのか、と直哉は口をへの字に曲げて首を振る。
「大丈夫です。ていうか綾瀬さん、その香水どうにかしてください」
 接客業でしょ、と直哉が小さく付け加えると郁人はフフンと鼻を鳴らして笑った。
「だって店長が誕生日にくれたんだもん。使って良いってことでしょ」
 ったく、また店長かよ。
 直哉の眉間に再び皺が寄る。郁人は店長とプライベートでもよく連むらしく、シフトが被るとそんな話を一方的に聞かされていた。
「……都合良すぎっすよ、それ」
「えー。そーかなぁ」
 そうだろ。と頭の中で呟いて、直哉は郁人に引き継ぎを済ませると、事務室へ引っ込んだ。話題に出た店長の花田は、新しいシフトの作成中だったため、直哉は軽く挨拶をして着替えを済ませると、コンビニを後にした。


 家に帰って自室に篭ると、直哉は早速馨に連絡を入れた。最後に連絡してから随分と日が経っている。すぐには既読にならず、直哉はスマホをベッドに放って寝転がった。ふうっと、ゆっくり息を吐く。天井を見上げて、今頃馨は何をしているのだろうかと考えた時だった。直哉のスマホが鳴ったのだ。手を伸ばし、拳一つ分の距離にあるスマホを取る。何の気なしに確認すると、その着信画面には如月馨の名が表示されていて、思わず直哉は飛び起きた。瞬きをし、画面を見直す。表示された名前を再度馨のものだと確認し、通話ボタンを押すと、ゆっくりと息を吐いてから直哉は口を開いた。
「……どーも」
「あ、やっと出た。久しぶり。元気?」
「まぁ、一応」
 直哉はぼそりと返事をした。以前はもう少しテンポの良い会話が出来ていたはずだった。それもこれも全部自分の気持ちを理解したからであり、妙な歯痒さが残る。
「俺も気になっていたんだよね」
「え?」
 どきりとして直哉の背筋がしゃんとなる。すると、馨のくすくすと笑う声が直哉の耳を掠めた。
「いちごフェア。あのパフェ、SNSで話題になってたもん」
「あぁ……そうっすね」
 直哉の肩がゆっくりと落ちる。ファミレスのいちごフェアに誘ったのだから、返答は予想がついたはずだ。勝手に期待した自分が情けなくなり、直哉はまたベッドに倒れ込む。
「でも、まさかファミレスに誘われるとは」
 再び馨がくつくつと声を抑えて笑う。吹き出しそうなのを堪えている姿が直哉の脳裏に浮かび、複雑な気持ちになった。
「……近くて良いじゃないですか」
 センスが無いのは承知の上だと、直哉は不貞腐れた口調で言い返す。
「それに馨さん、いちご好きでしょ」
「うん。好き」
 ドクン、とまた直哉の胸が高鳴った。会話の流れ的におかしくはない返答だが、直哉の耳には別の意図を想像させ、身体中が一瞬にして熱を帯びる。
「えっと……それで日程なんですけど」
 上擦りかけた声を何とか誤魔化して、直哉は続けた。しかし、直ぐに馨が「あぁ、それなんだけど」と口話挟んだ。
「入学式前にオリエンテーションがいくつかあってね。まだ時間が作れそうにないんだ。だから、入学式後に連れてってほしいんだけど……ダメ?」
 直哉は一瞬黙り込む。そして、返事より先にわざと大きな溜息を吐いた。
「その聞き方のどこに拒否権が?」
「ふふふ。ないね」
「相変わらず狡いですね」
「悔しい?」
「まさか」
 鼻で笑い、直哉が答える。
「楽しみが増えただけなので」
「お前も大概だよ」
 また馨のくすくす笑いが耳に響く。電話口なのにそれがとても擽ったくて、心地良い。久々に聞いた馨の声にそんな思いを抱いた直哉は、入学式まで会えないという現実が堪らなく悔しくなった。



 晴朗大学の入学式は、都内のホールで行われた。直哉は中に入ることが出来ないため、ホールの外で待ち合わせをしていた。終了予定時刻の十分前に到着した直哉は、直ぐ近くの公園のベンチに腰掛けた。そして、手に持って来た紙袋の中を覗き込む。電車内でも何度も確認したそれは、馨に用意した入学祝いだった。中身はパスケース。最初に浮かんだのはシンプルに花だったが、そもそも後輩で同性からのプレゼントに花はハードルが高い。かといってアクセサリーは流石にやり過ぎな気がして、手が出せなかった。だが、何も持たずに入学式終わりに会うなんて考えられず、アルバイトの休憩中にスマホでそれとなく調べていたのを郁人に覗かれたのが決定打になった。彼女にプレゼントかと尋ねられ、面倒な方向へ話が飛びそうだったため、事情を話した。するとパスケースを提案されたのだ。実際、郁人が大学入学祝いで貰ったプレゼントにあったらしい。高校生の直哉でも金額的に手が出せるし、何より日頃から使えて、学生証を仕舞うのに便利だと言われ、それに決めたのだ。
 まあ、まずちゃんと渡せるかが問題だけど……。
 何と言って渡そうか、そんな事を考えていると「直哉!」と自分の名を呼ぶ声がし、勢いよく顔を上げた。公園の入り口付近に目を向けると、スーツ姿の馨が手を振りながら小走りでこちらへ向かっていた。
「ごめん、待った?」
「全然。今来た所です」
 直哉は小さな見栄を張った。
「そっか」
 くすりと笑い、馨は直哉の横に腰掛ける。
「あ、ちょっと。スーツ汚れますよ」
「良いの。どうせ当分使わないから。明日にでもクリーニングに出しちゃうし」
 だとしても、せめて砂埃ぐらい払ってから座って欲しいと、直哉は呆れ顔で馨の伸びを見る。見慣れた高校の制服から一変したその姿は、まだ幼さが残っていてホッとした。制服を着ていた頃の方が大人びて見えていた気がして、直哉の頬が自然と緩む。
「ね、早く行こ。俺、お腹ぺこぺこ。学長の話って校長先生より長くってさぁ。いつお腹が鳴るかって、もう気が気じゃなかったよ」
 胸ポケットからスマホを取り出すと、馨は以前直哉が行こうと誘ったファミレスのアプリを開いた。
「あの、本当に良いんですか?」
「んー、何が?」
「だって今日、入学式ですよ?もっと良いとことか……」
 今更何を、と思いながら直哉は言った。昨晩思い悩んで、ホール近辺の飲食店を調べてはいた。ただ、高校二年になる直哉には殆どが敷居が高く、連れて行くのには覚悟がいる。それでもアルバイトで貯めたお金はこういう時に使うべきだと思い、いつもより懐は厚めにしていた。
 だが、馨は「何言ってんの」と口をへの字に曲げた。
「もっと良いとこ行くなら、無理しないで行けるようになってからだろ。俺は直哉と行きたいだけだから、別にどこだって良いし。それに、直哉が俺と行こうと思って誘ってくれた場所なら、俺はそこが良い」
 言い始めてだんだんと恥ずかしくなっていったのか、馨の顔が後半は下を向いて聞き取りにくくなり、直哉がその声を拾おうと顔を近付けると「っていうか、俺あそこのいちごパフェめちゃくちゃ楽しみにしてたの!」と、大きな声で誤魔化した。
「……わかりました。なら、早めに行きましょう。俺も腹減ったんで」
「うん」
 同時に腰を上げる。直哉は手に持った紙袋を車道側に持ち、馨の視界から遠ざけて駅へ向かった。



「ねぇ、それなぁに?」
「えっ……」
 約束していたファミレスで昼食を食べ、デザートを追加注文した後、馨が頬杖をつきながら直哉の横に置いてある紙袋を指差して言った。
「来る前に買い物行ったんだ?」
「あ、いや、そうじゃなくて……」
 ずっと渡すタイミングを見計らっていた直哉は、なんと答えて良いか分からず目を泳がせる。しかし、目の前でニコニコと微笑む馨に根負けして、テーブルの上に紙袋を置くと、そのまま馨に差し出した。
「これ、俺に?」
 馨が尋ねると、直哉は首をゆっくり縦に振った。
「なんだろ。入学祝い?」
 馨は嬉しそうに笑いながら紙袋の中を覗く。直哉は頭の中でパスケースで良かったのだろうかと、また今更なことを考え始めていた。
「お、パスケースだ。丁度用意しようと思っていたんだよね。ありがと」
 中身を見た馨の声のトーンが一段階上がった気がし、直哉もホッとした。同時に意中の相手にプレゼントを渡すだけでこんなにも神経をすり減らすものかと、小さな溜息を吐く。
「でも、もう少し色気のある物でもよかったのに」
「へ?」
 思わず直哉の声が裏返る。
「ほら、ネクタイと張り合おうとは思わなかったの?」
 やっぱり、アクセサリーとかのが良かったってことか?
 直哉の頭上に疑問符が見えたのか、馨はテーブルに身を乗り出した。
「意味、調べたんでしょう?」
 そう言ってニヤリと笑う馨の悪戯な顔。
 意味は調べた。確か……。
 その意味を思い出すと同時に、直哉は自分の顔が熱くなるのを感じる。
「ふふふ。冗談だよ」
 何も言い返せない直哉は、隠しきれていない赤くなった顔を伏せながら「コーヒー、持って来ます」と悔しそうに呟くとドリンクバーへ逃げ込んだ。
 ったく、人の気も知らないであの人は……!
 直哉は苛立ちながらカップをコーヒーマシンに置いた。
 そりゃ、ネクタイに対抗したい気持ちは無かった訳じゃない。だが、馨さんが本気で俺に対して気持ちがあるのか分からないこの状況でそれをするのはリスクも大きな気がして……。あぁ、もう、本ッ当にイライラする……!
 どの道、どちらに転んでも揶揄われた訳だ。深く考えるだけ無駄だと分かっているのに、いちいち勘に触る。溜飲の下がらぬまま二人分のコーヒーカップを手にして席へ戻ると、直哉の足が止まった。
 その視線の先に、パスケースを嬉しそうに眺める馨が見えたのだ。お礼はすんなりと言えるくせに、内心を伝えるのは超が付くほど下手だとつくづく思う。
 本当に……あの人は……。
 ふぅ、と小さく息を吐き、直哉は馨の待つ席へと足を急がせた。
「あれ。まだ顔赤いよ?」
 パスケースをしまいながら馨がまた直哉を揶揄った。
「……今日は少し暑いだけです」
「えぇ、そうかなぁ」
「そうです」
 馨の前にコーヒーを押しやると、直哉は一口コーヒーを飲んだ。下手な誤魔化しがかえって不自然に見え、カップをテーブルに置くと二人して黙り込む。なんとなく気不味くて、直哉はもう一度コーヒーに口を付け、スマホを取り出した。猫舌の彼はまだそれを口に付けようとはしない。今まで馨との時間にスマホを弄るなど殆どしてきていなかった直哉は、何の画面を見ていれば良いのか分からずホーム画面を付けては決してを繰り返した。
「なぁ、直哉」
「……なんですか」
 直哉はスマホをテーブルに伏せ置いた。顔を上げると、目の前の馨は真剣な顔をしていた。そんな表情で改めて名前を呼ばれれば、両肩までビクンと跳ねる。しかし、ほんの数秒足らずでその顔はいつものように破顔した。
「んー、やっぱりなんでもない」
「いや、途中でやめられると気になるんですけど」
「そんなに気にしなくても……あっ」
 すると、タイミングを見計らったかのように、二人の前にいちごの乗った大きなパフェが届けられた。
「とりあえず、今日はパスケースとコレで十分だし」
「はあ」
「直哉の奢りだろ?」
「……まぁ、そのつもりでしたけど」
 面白くない。そんな顔を見せる直哉を他所に、馨は嬉しそうに期間限定特大いちごパフェに取り掛かった。



 春休みがおわり、新学期が始まった。馨は相変わらず忙しそうで、またメッセージの返事が遅くなった。一方直哉は今年も図書委員会に所属し、また毎週木曜日を担当日にした。その方がアルバイトの調整も楽だった。おかげで進級しても生活リズムはさほど変わりはしなかったが、体育祭の準備が早々に始まって、馨とはまた会えない日々が続いた。
 芽衣とはクラスも離れ、委員会も別になったが、つい先日渡しそびれたホワイトデーのお返しを手渡した。直哉が廊下から芽衣を呼び出して渡したのが悪かったのか、いつも以上に不機嫌になった挙句、「こういうの、困るの!」と怒られた。去年同じクラスだった芽衣のクラスメイトによれば、あの後他の女子生徒から色々と質問攻めにあっていたらしい。
 しかし、そんな話は俺には関係ない。今俺が気にするべきは馨さんが言いかけたことだ。あれはたぶん、いや絶対卒業式のことだ。俺の言いたい事は俺が誘った時に言えと、本人が言ったのだから間違いない。
 だけど、あの時はタイミングが……。
「はぁ……」
 直哉は大きな溜息を吐く。あの時言うべきだったのかと、ここ数日モヤモヤと頭を悩ませていた。
 いや、だとしても絶対あそこじゃないだろ……。
 レジ内でぼうっとしていた直哉は、額に手を乗せた。土曜日の午前中に入るシフトは、午後に近付くに連れて忙しくなるが、今日は違った。出入り口の自動ドアが開く気配がない。おかげで悩み事にも精が出た。
 例え求められていたとしても、自分の心の準備が出来ていない。卒業式に腕まで掴んで言い出そうとしたくせにと、笑われてもこればかりは仕方ないだろう。
 直哉は項垂れて、小さな呻き声を漏らした。すると、丁度後ろの事務室から出てきた店長の花田が「大丈夫?」と、体調を心配して顔を覗き込んできた。
「あー。すみません……大丈夫です」
「あと十分ちょっとで綾瀬くんが来るから。来たらすぐ上がって良いからね。春休み中は本当に助かったし」
 もう学校も授業始まったでしょ、と花田は眉を寄せて申し訳なさそうに言う。無理をさせてしまったのではないかと心配そうなその表情に、直哉は苦笑いを返した。
 とりあえず、バイト終わったらまたどっかで会えないか聞いて……。
 自動ドアが開き、花田の「いらっしゃいませ」という明るい声が聞こえた。慌てて顔を上げて続けて声を出そうと、直哉が自動ドアの方へ顔を向けた。
「えっ……」
 思わず直哉の目が大きく見開いた。
「お疲れ〜」
 金色の髪を一つに束ねた郁人が、呑気な声で店に入って来た。従業員は裏口から入る決まりだが、そんなことは直哉にとってたった今から至極どうでも良くなった。その郁人の横に立っていたのが、馨だったからだ。
「ふふ、驚いた?」
 目を見張ったまま呆然と立っている直哉に馨が声をかけ、レジの方へと歩いてくる。
「えっと、なんで……?」
「あはは、朔間ちゃん超びっくりしてる。馨の言う通りだったね」
 郁人が馨の肩に腕を回し、にこりと笑う。その距離感に直哉の眉がピクリと動いた。
「郁人さんは俺達の先輩なんだよ」
「は、俺達の?」
「そうそう。俺ね、弄月高校の卒業生。そんでもって、図書委員だったんだー。今日サークル勧誘してたらさ、中庭で偶然馨のこと見つけちゃって!それで途中まで一緒に帰ろってなって、朔間ちゃんの話になったんだよ」
 ねーっ。と、郁人は馨に笑顔を向けた。郁人の話には驚いたが、その狭すぎる世間に苛立って、直哉の表情は徐々に仏頂面に変わっていく。
「ね、朔間ちゃんも運命的だと思わないー?」
 にっこりと笑って郁人が首を傾げる。長い金髪が揺れ、一層鬱陶しい。
「楽しそうですけど、もう直ぐ出勤時間ですよ」
 視線は馨の肩に触る郁人の腕を捉えたまま、直哉が静かに言った。距離感の近い郁人の行動には何の意味もないと自分に言い聞かせる。
「あ、朔間ちゃんジェラシー?」
 ニヤリと笑ったその顔に、図星の直哉は小さな舌打ちをした。
 前言撤回……。
 面白がって笑う郁人に、直哉は目を細めた。言い返そうとしたが、馨に「まだバイト中だろ」と釘を刺され、その場はなんとか気持ちを抑えた。
「あはは、ごめんね。揶揄いすぎた」
 馨に諌められた直哉に悪びれもなさそうに謝ると、郁人は馨から手を離し、スマホを取り出して時刻を確認した。
「あ、やっべぇ」
「いや、遅すぎ」
 黙って直哉の横から様子を伺っていた花田が溜息を吐きながら「今ここに居ようがタイムカードを切った時刻が絶対だからねー」と郁人を急かした。
「店長いけず〜」
 郁人は文字通り唇を尖らせ、小走りで裏口へ回って行く。
「ねぇ、終わるの待ってても良い?話があるんだ」
「あ、はい。もうあがるので」
 直哉が事務室へ戻ろうとすると、ふふ、と馨が嬉しそうに微笑んだ。
「まぁ、大した話じゃないんだけど、直哉には言っておきたくて」



「お待たせしました」
 退勤して郁人と入れ替わりで出て来た直哉は、ブレザーを片手に持ち、ワイシャツにネクタイの姿で現れた。そのネクタイをほんの数秒見つめると、馨はハッとして「お疲れ様」と直哉に微笑んだ。
「退勤間際に妬かせてごめんね」
「別に、妬いてないです」
 直哉は馨に仏頂面のまま答えた。ロッカールームで郁人とすれ違った時に無言でニヤリと笑われたのも腹立たしく、眉間に寄った皺が全く元に戻らない。
「怒っているってことは、やっぱ妬いてるんだ?」
「そんな訳ないでしょう」
 そう答える口とは裏腹に、直哉の顔は赤くなる。夜の暗がりでもはっきりと分かるほどの赤面に、馨は小さく吹き出した。
「こんな夜遅くに、わざわざ揶揄いに来たんですか?」
「別に遅くないでしょ、高校生が働ける時間帯なんだから」
「そうですけどっ」
 つーか揶揄いにきたのは否定しないのかよ。こっちは心配で言っただけなのに……!
 頬を膨らませる直哉に、馨は眉をハの字に寄せた。
「良いじゃん、ほら途中まで一緒だし」
「途中まででしょ。いつも家までは送らせないくせに」
「そりゃ、俺のが年上だからね。久しぶりなんだから怒らないの」
 こういう時ばっか、年上振りやがって……。
 直哉は喉元まで出かけた悪態を飲み込む。その様子を見た馨は笑いながら「今度勉強見てあげるから。ほら、体育祭終わったらすぐ中間でしょ?」と直哉を宥める。その時、入学祝いに直哉が贈ったブルーのパスケースが馨の鞄からぶら下がっているのが目に入った。思わず緩みかける口元を片手で覆う。
「……それで、話ってなんですか?」
 口元を隠したのを不思議に思った馨が顔を覗き込んできたため、直哉は慌てて話題を振った。
「俺、サークル入ろうって思って」
「へぇ。出来そうなスポーツでも見つけたんですか」
 馨の趣味が読書以外に浮かばない直哉が聞き返す。すると、ふふんと鼻を鳴らして得意気に馨は答えた。
「俺が入るのはラーメン同好会だよ」
「……サークルじゃねぇじゃん」
「ま、同じようなものでしょ」
 呆れ気味に直哉が「そーですか」と答える。正直、サークルと同好会の違いなんてどうでも良い。確かに猫舌のくせにラーメンを食べたがるほど好物なのは知っていたが、同好会に入るほどとは思っていなかった。
「通りすがりに説明聞いてさ、好きなラーメン屋通ったり、開拓したりも楽しそうだなぁって思ったんだ。文化祭では自分達で考案したラーメン作って売るんだって。面白そうじゃない?」
「えぇ……」
「ちょっと。もっと興味持ってよ」
「いや……だって馨さんがラーメン作るって……本気ですか?」
 直哉は去年の夏に馨の家に泊まりに行ったことを思い出しながら言った。線香花火勝負で、負けた直哉が朝食を作ることになったのだが、やっぱり手伝うと言って目の前で包丁を握った馨はどう見たっていつ指を切ってもおかしくない持ち方をしていた。
「大丈夫だって。ラーメン作りから料理を学ぶんだから。作れるようになったら、一番に直哉に食べさせてあげるし」
「馨さんは皿洗いだけにしてもらってください」
 心配なので、と直哉が付け加えて言うと馨はムッとした顔で答える。
「郁人さんだって、料理下手だけど簡単なラーメンならスープから作れるようになったって言ってたもん」
「……え」
 馨の口から郁人の名が聞こえ、直哉は次に控えていた軽口を飲み込んだ。
「……綾瀬さんも居るんですか?」
「うん。だって俺のこと勧誘したのあの人だし」
 馨が楽しそうに答える。
 なるほど、通りで。そりゃ、サークル勧誘日に一緒に帰宅して、バイト先にまで連れて……。
「いや、だからってバイト先まで来る必要はないでしょ」
「なにさ、直哉は俺に会いたくなかったってわけ?」
「なっ……!そんな事言ってないです」
 慌てて否定したが、久々に会えたと思えば郁人に肩は抱かれているし、馨の口からは郁人の話が出てくるばかりで内心面白くはない。人の気も知らないで、と馨を睨むが、馨も馨で直哉にジト目を向ける。
「ふーん。で、直哉」
 馨が立ち止まる。
「はい?」
 直哉は苛立ちが隠しきれないまま、不貞腐れた返事を返した。子供っぽくて情けないと思うが、そんなにすぐには態度を改められない。
「ラーメン同好会の活動始まったら、会えなくなる日増えるけど良いの?」
 直哉の足もピタリと止まる。
「え……。良いの、って……」
 街頭の明かりに照らされた馨の表情は、少しだけ寂しそうに見え、直哉はごくりと唾を飲む。
「そりゃ、会えないのは……つまらないですけど」
「つまらないだけ?」
 馨が直哉の顔をじっと見つめる。いつもより険しい表情に、直哉は目を逸らした。
「俺は真面目に聞いているんですけど?」
「……今日は質問ばっかりですね」
「良いから、答えてよ」
 そう言われた直哉は数秒ほど黙り込むと、ゆっくり口を開いた。
「馨さんのやりたい事が優先でしょ。環境が変わったんですから。別に俺といなきゃいけないって訳じゃないし……」
 そもそもそんな約束もしていなければ、想いだってまだ伝えていない。縛る理由も縛られる理由もない。だったら好きにしたって構わないだろうと直哉は思っていた。
 しかし、その答えに痺れを切らした馨は溜息を吐いた。
「嘘。言いたいこと、はぐらかしてる。直哉にしては真面目すぎるし」
「そんなこと」
「そんなこと、ある」
 きっぱりと言い切る馨の圧に負け、直哉は言い返す言葉が見つからず、黙り込む。真面目に答えて何が悪かったのだと、直哉も眉間に眉を寄せた。
「お前が連絡くれないから、俺の方が退屈すぎて死にそうだったのに……」
「え……」
 タイミングが悪く、二人の横を自動車が通りすぎた。エンジン音に邪魔された馨の声は、直哉の耳にはっきりと届かずに消えた。
「あの、馨さん、今なんて」
「なんでもないよ」
 馨が食い気味に言うと、直哉は小さく溜息を吐いて黙り込む。何となく馨の顔が寂しそうに見えて、直哉の胸がチクリと疼いた。
「……あの、さ」
「はい」
 急にかしこまった馨は、ゆっくり深呼吸をすると顔を逸らしたまま口を開いた。
「……もっと連絡してきて良いんですけど。大学生って、割と暇なんだから。直哉なんてバイトしかしてないくせに」
「はい?」
 また何を言い出すのかと思えば……。
 直哉は胸の奥がじわりと熱く熱を帯びるのを感じた。
「……馨さんって、大学に勉強しに行ったんですよね?」
「うるさいな」
 いつの間にか顔を赤く染めた馨が小さな声で反論した。
「……わかりました、早めに連絡します。俺も、二年になってから英語がやばそうなので」
「数学も、だろ」
「全教科かも」
「ったく、仕方ないなぁ」
 ふわりと柔らかくなる馨の表情に、直哉は思わず見惚れた。わざとヤキモチを妬かせるようなことをし、もっと連絡を寄越せとわざわざ直接言いに来る目の前の先輩が愛おしくて堪らない。素直になれないのは自分もそうだが、この人以上に不器用すぎる人はいるのだろうかと、不安と心配と嬉しさが交差して、直哉の頬はまた自然と緩む。そして同時に直哉の中である決心がついた。
「馨さん」
「ん?」
「俺、卒業式の時に馨さんの忘れ物拾ったんですよ」
 そう言った直哉の手は、馨の頬に向かって伸びていた。しかし、その手が頬に触れる前に、馨のスマホから着信音が流れた。 
「わっ、ごめん」
 直哉は咄嗟に伸ばした腕を引っ込めた。
「で、出てくださいっ」
 慌ててジェスチャーを交えて伝えると、馨に背を向けて深呼吸をする。心臓が脳まで昇る勢いでばくばくと音を鳴らしていた。
「……同好会の先輩からだった。えっと、ごめん……何だっけ?」
 通話を終えた馨がスマホをしまいながら言った。既に同好会の先輩と連絡を交換していることに驚いたが、水を刺された後にもう一度手を伸ばそうとは出来ず、直哉は首を振った。
「……もう良いです」
「そっ……か、ごめんね」
「いえ……でもっ」
 そのまま終わらせるのはあまりにも悔しくて、直哉は口をへの字に曲げて言った。
「馨さんのラーメンは、まず俺が食べるまで世に出さないって約束だけしてください」
「……あれ、そんな話だっけ」
「馨さんがラーメン同好会に入ったら会える日減るとか泣くからでしょ。せめて会えない時に美味しく作る練習ぐらい……」
「いや泣いてないっ!」
「あははっ」
 直ぐそこまで出かけた気持ちをもう一度仕舞い込み、直哉は馨の家の方へ先に歩き出した。


「こら。遅くなるから送るな」
「近いんだから送らせてください」
「俺のが大人だから言うこと聞けし」
「じゃあ、あの券使って言うこと聞かせれば良いんじゃないですか」
「あれはまだ使わないのっ」
「なら大人しく送られて下さい」

















 草木の青々とした香りが通学路に広がり、蝉の声が遠くから聞こえるようになった。期末テストを終えた教室は妙に浮き足立ち、友人同士で夏休みのスケジュールを確認する声が飛び交っている。そんな中、ホームルームでは文化祭の出し物についての話し合いが行われた。直哉は窓際から二列目の一番後ろの席から、黒板に書き出された出し物案を順に眺めていた。候補案は模擬店にお化け屋敷、劇や脱出ゲームといった、お決まりとも言えるラインナップ。クラス代表が多数決を取ったところ、模擬店と劇が同列票だった。昨年模擬店をしたクラスが多い学年ということもあり、勝手が分かるため比較的に臨みやすいが、去年とは違うことをやりたいと言い出す者の意見もある。再び多数決になりそうなところを遠目に、直哉は昨年の文化祭を思い出していた。直哉の作ったお好み焼きを美味しいと言って頬張った馨の嬉しそうな顔。お化け屋敷で勝負をし、負けた直哉が顔出しパネルで写真を撮った事。
 あの写真、やめろって言ったのに数ヶ月はスマホのロック画面にしてたよな……。
 数ヶ月後には別の写真に変わったのを確認したが、思い出しただけなのに背中が一瞬ゾクリとする。自分のクラスが諦めたとはいえ、今年もお化け屋敷に関してはどこかのクラスがやりそうな出し物だ。
 また、馨さんが行こうって言い出したら……あ。
 直哉は黒板から視線を手元に戻す。音を立てずに椅子を引いて、スラックスのポケットからスマホを取り出すと、ロック画面を表示した。
 そう言えば俺は変えてなかったな……。
 去年、夏休みの図書室当番表決めの際に、当番の日をスケジュールアプリへ入れ込むのを面倒くさがってホワイトボードの写真を撮り、それをロック画面に設定したままだった。ホワイトボードには、馨が書いた「如月」と「朔間」の文字が隣り合わせで並んでいる。この時、初めて馨が丸っこい字を書くのだと知った。
 流石に変えないと、今年の日付とごっちゃになってわからなくなりそうだ。
 夏休みは目前で、これから図書委員会の当番決めもあれば文化祭の準備で顔を出す日も決まっていく。このロック画面は自分の混乱防止に変更した方が良いと、直哉はスマホのデータフォルダを開いた。
 何に変更するかな……。
 写真をスクロールしていくと、美味しそうにラーメンを頬張る馨の写真が出てきた。湯気の間から見える顔は、頬がリスのように膨らんでいる。直哉の手がその写真で止まり、小さな笑みを溢した。
 まだ、良いか……。
 設定したい写真は直ぐに見つかるが、恥ずかしいという感情とは別の独占欲が働いて、直哉の手を止めた。不意に誰かに見られる可能性を考えると仕方ないだろう。そう言い聞かせた直哉は、スマホの画面を閉じると、出し物決めの多数決で劇に一票入れた。



「それで、王子役にはならなかったんだ?」
「自分だってやらなかったくせに」
「直哉に見せるのには刺激が強いと思ってね」
「どんな刺激だっつーの。良いんですよ、俺は裏方で」
 直哉は悪態を吐くと、目の前のグラスに入っていたレモネードを一気に飲み干し、目の前に広げたテキストに向き直った。
 お互いが夏休みに入ったタイミングで、直哉と馨は最近馨がアルバイトを始めた近所の喫茶店で落ち合う約束をした。今回誘ったのは直哉からで、口実は夏休みの課題だ。実際、進級してから授業内容は難しくなり、数学と英語はしがみついてなんとかこなしている。ホームルームでは、この長期休み明けのテストから内申に響き始めると脅され、馨に助けを求めたのだ。
「直哉、ここ間違えてる。さっきの応用だからもう一度考えてみ?」
「げ……」
「これ分からないと裏方でもすごーく頑張らないといけなくなるよ」
 馨はくすくすと笑って静かに嫌味を言う。
「分かりましたよ……ったく」
 ぶつくさと文句を言いながら、直哉は再度その問題に取り掛かる。チラリと目だけで向かいに座る馨を見上げると「頑張れ」と小さな声で呟いて、読みかけの文庫本に視線を落とした。その姿に、直哉は図書室で初めて出会った馨を思い出してどきりとする。
「ん?まだ分かんないの?」
 目が合って更に心臓が跳ねた。この声にも、目にも、笑った顔にも慣れたはずなのに、心臓の反応はいつだって冷静を保てない。
「今からやるんです」
「じゃあ、また分からなかったら言ってね」
 馨はまた、くすりと笑って文庫本に視線を落とす。伏せたまつ毛は相変わらず長くて綺麗だと感じ、直哉はもう一度レモネードを一口飲むと、奥歯を噛み締めながらテキストに向き直った。


「今日は助かりました」
 その後、直哉は何度か馨に間違いを指摘され、解き方や考え方を教えてもらったが、この後シフトが入っている馨に合わせて勉強会はお開きになった。
「ううん。バイトまで暇だったし、それに最近会えてなかったから嬉しかったよ」
 嬉しかったって……。
 さらりと恥ずかしいことを言われた直哉は、頬が緩みそうになり眉間に力を入れる。
「なに、その顔。変顔?」
「……違います」
 ふいっと顔を逸らした直哉に、馨はまた微笑んだ。
「あ、そうだ。文化祭さ、郁人さんと行ってもいい?」
「……は?」
「ダメ?」
 ダメって……。
「それ、俺がダメって言ったら来ないんですか?」
「ふふふ。それはどうかなぁ」
「……どうせ来るんだな。勝手にどうぞ」
 不貞腐れ気味に直哉が答える。正直、郁人とは何もないと分かっているが気分は良くない。だが、それを止める権利は自分にはなく、腹の底で苛立ちが渦を巻いた。
「じゃあ、勝手にしよーっと」
 馨は嬉しそうに微笑むと「それじゃあね」と言って、もう一度店内へ戻っていった。直哉はその後ろ姿を、静かに見送るしか出来なかった。



 八月に入り、直哉は文化祭の準備で学校へ登校する日が増えた。劇の出演を避けるために裏方を選んだが、実際は準備の方が大変で、まだ配役を貰った方がマシなのでは、と弱音を吐きかける始末。それに加えてこの夏の暑さだ。教室棟の冷房は効いていても、外でやらなければいけない作業は苦行のようだった。

 その日、直哉は技術室で加工したベニヤ板を中庭の木陰へ移動させ、ペンキ塗りの作業をしていた。熱中症の危険もあるため、小まめに校舎へ入り、身体を冷やして水分を摂りながら作業を行っていた。いくら体調のためとはいえ、時間がかかって仕方ない。次からは陽が少し落ち始めてからやろうと汗だくになりながら、クラスメイト達と言い合っていた。
 ペンキ作業がひと段落つき、板が乾くのを待っていた時だった。裏方の大道具班みんなで旧校舎に入り、人通りのない涼しい廊下に座り込んでると、通りすがりの芽衣に声をかけられた。
「こんな暑いのに外で作業?」
「……なんだ、神崎かよ」
「なんだってことはないでしょ」
 怪訝そうな顔で芽衣が言う。その手には自販機で買ったばかりのペットボトルを持っていた。
「そっちも休憩か?」
「うん。飲み物いくつあっても足りないわ。室内でも動くと暑いし」
 芽衣は片手で顔を仰ぎながら答えると、その場でペットボトルの封を切って喉を潤した。
「ねぇ、そう言えばなんだけど」
 芽衣はその場にしゃがみ込み、直哉の横に座った。
「最近、如月先輩と会ってる?」
 芽衣は声のトーンを落として尋ねる。
「……まあ、時々会ってる。それがどうした?」
 そう答えたが、ここ最近は誘っても馨のアルバイトや同好会の活動で予定が合わず、メッセージのやり取りが主だった。濁したような直哉の返答に、芽衣の表情が曇りだす。
「……あの、これはあくまでも噂なんだけど」
「噂?」
 直哉が聞き返すと、芽衣は躊躇いがちに口を開いた。
「如月先輩、男の人と付き合ってるって噂が流れてて……」
「……は?」
「いや、だからこれは噂なんだけどっ」
 直哉の表情を見て、芽衣が再度前置きを言い直す。
「……派手な髪の、悪そうな男の人に肩抱かれて歩いてるのを見たって言う人が何人もいてね?それに、どこなのかははっきりしないんだけど、男の人とホテル街から出てきたって話も……」
 言いながら直哉の顔を見た芽衣の声は、だんだんと尻窄みになっていく。直哉の真一文字に結ばれた唇の端がピクリと震え、眉間の皺は一層深く刻まれていた。
 冷房とは違う冷たい空気が、直哉と芽衣の間に流れ込む。
「……ごめん、朔間くんに言う話じゃなかったよね……。きっと見間違いだよね、如月先輩はそんな人相手にするわけないし……!」
 芽衣が捲し立てるように言うのを、直哉の低い声が制した。
「……出所は?」
「え」
「神崎は誰に聞いた?」
「……え、えっと……」
 芽衣の口から聞き出したその出所は、腹の中で想像した通りで、不愉快ながらも腑に落ちた。そして同時に、今日のシフトを思い出して直哉は盛大に深い溜息を吐いた。



 芽衣の話から推察するに、噂の出所は馨に告白をした女子生徒達だった。馨は卒業間近に多数の女の子に告白されておきながら、登校日には直哉と共に行動をしていたし、卒業してからも男の先輩達と行動をしている。自分に好意を寄せて貰えなかったと僻んだ女子生徒達は、共謀して在らぬ噂を流したのだろう。卑屈で嫌な作戦に直哉はゾッとしたが、彼女達の気持ちが少なからず分かってしまう。思いを寄せ、気持ちをぶつけたというのに、応えてもらえなかった時のショックはきっと大きい。諦めが悪いのは当の本人が一番分かっている。その傷が別の方向に向かって突っ走り、勢い余ってブレーキが踏めなくなったのだろう。面と向かって胸に秘めた自分の思いを、好きな人に勇気を振り絞って直接伝えたのだ。潔く諦めて次に切り替える、なんて直ぐには無理なことだろう。
 俺だったらきっと……。
 直接思いを伝えた訳でもないのに、直哉は想像して込み上げた胸の痛みに顔を歪ませた。しかし、だからといってこれを肯定するわけじゃない。よりによって、直哉の苦手なあの綾瀬郁人との噂なのだから余計である。
 だいたい、ホテル街から出てきたって……それを見たやつこそホテル街に何の用があったんだよ……!つーか、馨さんはなんであの人とホテル街に……。あぁ、クッソ。もっと無理矢理にでも馨さんとの時間、作れば良かった……!
 馨に迷惑をかけたくないと思って、強引に約束を取り付ける必要性はないと考えていたのが甘かった。もう少し積極的にいけば、そんな噂なんて立つ事は無かったかもしれない。
 つーか、どんだけ綾瀬さんと一緒に居るんだよ……!しかもホテル街って……。
 アルバイト先のコンビニが見えてきて、直哉は舌打ちをした。今日のシフトはタイミングが悪く、郁人と同じだ。勤務時間的に彼より先に上がることになるが、数時間は同じ空間にいることになる。更に、今日に限ってやたらと早く着いてしまった。シフト開始前に郁人とばったりロッカールームで鉢合わせする可能性を考えると、どこかで時間を潰してから来れば良かったと後悔した。
 裏口へ回ると、胃のあたりがむかつき始めた。仕事に支障が出ないことを祈りながら、ドアノブを回すと、気の緩んだ声が奥から聞こえてきた。
「花火やろーよ。ね、良いじゃん。今度の休みとかどう?人がやるって話聞いたらさ、やっぱやりたいなぁ〜って思っちゃったんだよね」
「えぇー……。綾瀬くんさ、去年花火持って僕のこと追いかけたの覚えてる?あれ凄く怖かったんだけど……?」
「あんなの愛情表現じゃん」
「いやいや、バイオレンスすぎるでしょ……あ、おはよう」
 呆れ気味の店長の声が切り替わる。彼に続いて、郁人も顔を出した。
「あ、噂をすれば」
 嬉々としたその声に、眉がピクリと反応する。嫌な予感が当たった直哉は軽く会釈をすると、小さな声で挨拶をしてロッカールームに引っ込んだ。呼び止めようと直哉の名前を呼ぶ郁人の声がしたが、振り返るのは癪だった。彼の髪色は派手な色をしていたし、どれだけ開ければ済むのか分からないピアスの数は、高校生から見れば悪い人扱いも納得がいく。更に加えて、馨と同じラーメン同好会に所属しているのだ、芽衣に聞いた噂の男は郁人で間違いない。
 でも今、噂っていったか……?
 噂って……いや、俺が聞いたのは馨さんの……。
「なぁに難しい顔してんの?」
「うわっ!」
 郁人に背後から話しかけられた直哉は着替えを床に落とした。
「考え事?それも朔間ちゃんの趣味ってやっぱ百面相?」
「……は?」
「あはは、うわぁ怖い顔。俺、何かしたかな?」
 郁人が直哉の制服を拾って手渡しながら尋ねた。
「……別に、何も」
「ふーん」
 直哉の口からそれ以上の言葉が出て来なかった。事実、彼は何もしていなのだ。ただ一人でヤキモキと腹を立てているのはわかっている。だが、直哉はどうしても目の前の男が許せなくて仕方なかった。
「ねぇ、もう一つ聞いても良い?」
 そう言って郁人は直哉の返事を待たずに口を開いた。
「朔間ちゃんて馨と付き合ってるの?」
「…………はい?」
 思わずワイシャツのボタンを開けている手が止まり、直哉が聞き返した。
「俺が……馨さんと?」
 そう言い直した直哉の胸がじん、と熱くなる。
「そっ。馨さぁ、大学で超モテるんだよね。誰にでも優しいし、その気にならない女の子いないっていうか……ほら、高校でもそうだったでしょ?」
 にんまりと笑い、誇らしげに話すのは釈然としないが、郁人の問いに直哉は渋々頷いた。
「聞いているとは思うけど、この前も二年生の女の子振ってたじゃん?結構可愛い子だったし、あの二人、だいぶ良い雰囲気だったから、美男美女カップル誕生かなぁってみんな盛り上がっていたんだけどねぇ。馨ってば、あっさり振ったんだわ。それで、流石に恋人いるんじゃないかって話になって、本人にも聞いたら、否定するどころか、はぐらかされたんだよねぇ」
「だからってなんで俺……」
 つーか、そんな話聞いてねぇし。
 当たり前に聞かされていると思っている郁人の発言に、直哉の苛立ちが増す。一言余計なことに気が付かないのかと文句を言おうとしたが、また先に口を開いたのは郁人だった。
「だから、周りに言えない恋人がいるのかなぁって思ったの」
 郁人はくすりと笑って続けた。
「それに、朔間ちゃんって、いーっつも馨のこと考えてるじゃん?馨も朔間ちゃんのことばっかだし」
「……え」
「この前さ、駅の反対側にあるラーメン屋行ったんだよ」
 また聞いてない話を喋り出し、直哉の鼻がぴくぴくと動く。郁人のゆったりとした口調は、聞くだけで苛立ちが増した。直哉は耳を塞ぎたいのを我慢して、目線だけを郁人へ向ける。
「その時にさ、ここ美味しかったから直哉に教えよーって。その前のお店も、別のお店の時も。毎回朔間ちゃんの話ばーっかり」
 本当かよ、と話半分に聞いて直哉は着替えを終わらせた。
「馨の中心って、だいたい朔間ちゃんで出来てるんだよ」
「その割には、全然会ってくれないですけどね」
 嫉妬心剥き出しの返答に、直哉自身嫌気がさす。馨の新生活を応援したい気持ちがあるから、無理矢理時間を合わそうとはしなかった。だが、この目の前に立つ男が、自分よりも馨と時間を共にしていると考えるだけで腹が立ち、冷静な返しが出来なくなっていく。
「あはは」
「……笑わないでくださいよ」
 笑われるような事をしたと、自覚はあった。直哉はロッカーをいつもより強く締め、郁人を見上げる。夏休みに入って身長は少しだけ伸びたのだが、それでも郁人の方が頭一つ分高い。こればかりはどうにもならない事なのだが、それにさえも苛立った。
「朔間ちゃんの可愛いとこ見れたから、特別に良い事教えてあげる」
 相変わらずのにんまり顔に直哉は怪訝な顔を向けた。
「駅の反対側にあるラーメン屋ってね、ちょっと立地がややこしいとこなの。だから、朔間ちゃんは高校卒業したら連れてってもらいなさい」
「……は?」
「まだ買えないでしょ、えっちな本」
 そう言われてようやく話の意味を理解した直哉は、顔を赤く染め上げた。
「あ、綾瀬さんっ!」
「あはは、朔間ちゃん本当可愛いなぁ。安心してよ、ラーメン食べに行っただけだから。あそこ本当に美味しいんだよ。あ、それからさ」
 郁人は事務室に続くドアを開けながら言った。
「今年も花火、楽しみにしてるっぽいよ」
 じゃ、先行くね〜。木の抜けるような声でそう加えると、郁人はロッカールームから出て行った。
 花火……って、なんで綾瀬さんがそんな事知って……。
「朔間くん、時間になるよー!」
 ドアを睨みつけると同時に店長の声が聞こえた。壁に掛けられた時計を見上げると、時刻はもう間も無くシフト開始の時間だった。
「い、今行きます」
 直哉はスマホだけポケットに忍ばせ、ロッカーの鍵を閉めると、ロッカールームを後にした。



「やっほー」
 呑気な挨拶をして現れたのは、最近殆どメッセージでしかやり取りをしていない、直哉の想い人だった。特にあの噂を聞いてからは、先輩達と居る方が楽しいのかもしれないと、変な嫉妬心で連絡をおざなりにしてきた。会いたいくせに見栄を張り、馨から連絡があっても、バイトや学校を理由に忙しいと断った。その相手が今、自分の目の前に立っている。
 今日も午前中は学校で作業をし、一度帰宅して昼寝をし、夕方からシフトに入るというハードなスケジュールだった。既に夕飯時のピークも超え、利用客も疎になった時間を見越して来たのだろう、馨以外の客は居なかった。
「馨さん……。お久しぶりです」
「郁人さんにシフト聞いて来ちゃった。直哉、全然連絡くれないしさぁ。ていうか焼けたねぇ、一瞬誰だか分からなかった」
 レジのカウンターを挟んでまじまじと顔を見つめられて、直哉は顔を背けた。気恥ずかしいのもあったが、郁人の名前が出た事の方が、何より気に食わなかった。
「まぁ、炎天下で作業してるので」
 あからさまに不機嫌になり、自己嫌悪になる。馨の前でこの態度は、子供っぽいを通り越して情けないと思った。
「そういえば夏休み明けってすぐ文化祭だったね。準備大変?俺、行くから案内してよ」
「はい?馨さん案内要らないでしょ、数ヶ月前まで通っていたんだから」
「えーいいじゃん」
「……だいたい、綾瀬さんにシフト聞くんじゃなくて、俺に聞いてくださいよ」
「サプライズだったんだけど」
 全然サプライズになってねぇよ、と喉元まで出掛けたが、それを堪えた直哉は代わりに溜息を吐いた。
「ねぇ花火しない?」
「は?」
 突然の提案に直哉の声が裏返る。馨以外に客がいなかったのが幸いだが、馨は直哉の分かりやすく不機嫌な対応にケラケラと笑っていた。
「あはは、ごめんごめん。ね、またうちでやろうよ」
「良いですけど、いつですか?」
「今日!」
 サプライズだもん、と一人で馨は楽しそうに笑う。
「……いや、急すぎ。家の人に迷惑ですよ」
「大丈夫だよ、今年もいないから」
「えっ」
 直哉の目が思わず見開いた。昨年も馨の家族の留守中に泊まりに行き、花火をした。しかし、あの時と今では、馨に対する想いが違う。胸の奥で熱を帯びた心臓が、ばくんと跳ねた。
「俺が一人暮らし出来るって証明するために、出てもらってるの。そのためにバイトして、旅行プレゼントしたんだ」
「……洗濯と掃除、出来るんですか?」
 心臓の音が煩くて、馨の声がほんの少し遠くで聞こえる。揶揄うのがやっとの事になるとは、思ってもみなかった。
「ふふふ、なんとかね。ね、だから良いでしょ?明日、バイトないって聞いたし」
「文化祭の準備はあるかもしれませんよ?」
「え、あるの?」
 馨の眉がハの字になった。無意識なその表情を見た瞬間、直哉の胸がグシャっと締め付けられる。
「……ないですけど」
「じゃあいいじゃん!終わったら俺の家集合。もちろん、泊まりね」
 馨の表情が明るく変わり、揶揄った事に少しの罪悪感を持った。しかし、行きたい気持ちはあれど、そこにこの馨への気持ちを持ち込んでも大丈夫なのか、直哉は不安だった。
 それに……。
 先日、郁人の口から「今年も花火、楽しみにしているっぽいよ」と聞かされたことを思い出し、また嫌な反抗心がじわじわと湧いてくる。
「……俺の意見は無視ですか」
 溜息混じりで直哉が溢す。しかし、馨はくすりと笑って答えた。
「だって直哉、絶対来てくれるだろ?」
 馨の言葉に直哉の心臓がまた強く脈を打った。想い人にそう言われて、行かないという選択肢を誰が選ぶのだろうか。直哉は奥歯を強く噛み締めた。
「……じゃあ、条件つけます」
 咳払いをして、直哉は言った。そうでないと、口角が上がってどうしようもなくなりそうだった。
「条件?」
「……今後、俺のシフトは俺に聞いてください。その約束してくれるなら行きます」
 馨はたったそれだけ?と言いそうな顔だったが、それだけの事でムキになってしまう。またこんな情けない気持ちになるのならば、事前に潔くお願いした方がマシだと、直哉は思った。
「うん、分かった。約束する」
 馨はあっさりとその条件を飲んだ。さほど気に留めない事なのだろう。直哉の心情的には複雑だが、そもそも、卒業式に言いかけた言葉すらまだ伝えきれていないのは自分だ。自分が誘った時に言う約束をしたくせに、誘う事すら殆ど出来ていない。もしかしたら、痺れを切らした馨が、気を遣ってチャンスをくれているのかも。それともやはり、彼にとって直哉の言いかけた言葉も、さほど気に留めないことなのかもしれない。
 そろそろ本気でぶつかるべきだよな……。
 直哉は拳をぎゅっと握りしめる。
「じゃあ、一度帰って準備してから行きます」
「うん。迎えはいる?」
 嬉しそうに返事をした馨に、直哉は首を横に振った。
「遅いと危ないから」
「生意気」
 ふふふっと、馨は微笑むと、レジの横にあった花火セットを指差した。
「なら、これもお願いね」
「買ってってくれるんですか?」
「まさか」
顔はにやりと笑った。
「直哉の奢りだろ?」
「はぁ?やりたいって言ったのは」
「じゃ、待ってる」
 馨は小さく微笑み、「またあとで」と手を振ると、くるりと踵を返して自動ドアへと向かって行った。
「ちょっ……あぁ、もぅっ」
 足速に出て行った馨を見送った直哉は、その背中を見て面倒くさそうな顔をした。
いい加減、遠慮っていうのを覚えろっつーの。
直哉の眉間に皺が寄ったのも束の間、すぐさま嬉しそうな表情に変わって、やれやれと小さな溜息が漏れた。


 シフト終了の十分前から、直哉はソワソワと落ち着かない様子で仕事をしていた。つい三十分前に出勤した郁人は、その様子をにんまりと眺め、わざと直哉と目を合わせる。
「……なんですか」
「ううん、別に〜ぃ。朔間ちゃんて、本当に分かりやすいっていうかさぁ」
 じとっとした郁人の目に、直哉はあからさまに嫌そうな顔をした。
「……単純って言いたいんでしょ、別に良いですよ。単純な男で」
「そんな言い方してないじゃん。それで、何かあったの?あ、もしかしてフライングであのラーメン屋に」
「行ってません。ていうか、聞かなくてもどうせ知っているんでしょう?」
 先日、花火がどうのと言っていた所を見れば、去年の話をしているはずだ。そうなると、今日の花火の話だって既に耳に入っているだろう。
「あ、バレた?」
「俺には黙ってろって言われなかったんですか?」
「へぇ、朔間ちゃんって馨のことはなんでもお見通しなんだぁ。言われたよ。でも、朔間ちゃんがそーんな顔してると、揶揄いたくなるでしょ」
 ふふん、とにやけ顔を近付けながら郁人は言った。
 ったく。この人の、こういうところが嫌だから言わないで欲しかったのに……っ!
「まぁでも、良かったじゃん。全然会えてなかったんでしょ、相思相愛なのに」
「別にそんな関係じゃ……」
「朔間ちゃん」
 郁人がまた直哉に顔を近付けた。
「逃げ腰のままでいると痛い目見るんじゃない?馨のことを好きになる人が女の子だけじゃないって、自分が一番分かっていると思うけど」
「それは……」
 言い返す言葉が見当たらず、目が泳ぐ。自分のように惹かれていく者が現れるのは、時間の問題なのも頭の隅では分かっていた。
 険しい顔で直哉が黙り込んでいると、裏の事務室から花田が顔を出し、直哉に上がるよう声を掛けた。
「じゃ、朔間ちゃんお疲れ〜」
「……お疲れ様です」
 微妙な空気のまま、直哉が花田と入れ替わりに事務室へ引っ込もうと踵を返すと「あ、そうだ」と郁人が直哉を呼び止めた。
「揶揄ったお詫び、ちゃんと持って帰ってね」
「……はい?」
「お疲れ様」
 郁人はにんまりと笑いながら直哉を見送る。彼の言った「お詫び」というのが何なのか分からず、聞き返そうとしたのだが、丁度レジにやって来た客の対応に入ってしまったため、直哉はそのままタイムカードを切りに事務室へ引っ込んだ。



「ねぇ、二人でこんなにできると思う?」
「……知りませんよ。綾瀬さんが押し付けたんだから」
 溜息混じりに直哉が答えた。タイムカードを切って、私服に着替えようとロッカールームへ行くと、直哉のロッカーの前に大容量の手持ち花火が置かれていたのだ。それもご丁寧に、ポストイットで「返品不可」と郁人の手書きメッセージ付きだ。買う手間が省けたのは有難いが、この量は流石に多すぎる。帰りにコンビニの入り口からレジに立つ郁人を睨んでみたが、いつものニヤニヤ顔を返されただけだった。
「まぁ、いっか。郁人さんに後でお礼しとこ」
「……ありがた迷惑でしたって伝えてください」
 直哉の溜息が再び漏れた。
「ありがたいことには変わりないだろ」
 馨に嗜められ、直哉が唇を尖らせた。馨はそんな直哉の顔を見て静かに笑う。直哉は不貞腐れたまま花火の袋を開け、適当にウッドデッキに並べ始めた。
「で、どれからやる?」
「どれでも良いですよ」
「んじゃ俺が決めよーっと。はい、直哉はこれね」
 そう言って馨が直哉に渡した花火の持ち手には、可愛らしいペンギンのイラストが描いてあった。
「花火とペンギンって何がどう繋がるんです……?」
「そんなの、俺だって分かんないよ」
 ケラケラと笑って順番に火を着けた。二人の持つ花火が赤や緑の閃光を放ち、その火が消える前にもう一本、もう一本と、どんどん花火を消費していく。赤と緑、黄色やピンクの光が混ざり合い、真っ暗な庭先が明るく照らされた。
「見てよ、オレンジ色って珍しくない?」
「ちょ、危なっ!」
 はしゃいで花火を振り回す馨に、慌てて直哉がその身をかわす。
「あはは、セーフ!」
「セーフって、あのですね……」
 次に行くペースが早いだの、こっちに向けるなと言い合いながら、真夏の湿った夜風も気にならないほど、二人は夢中になって花火を楽しんだ。


「じゃあ、はい。これ」
 ウッドデッキに並んでいた花火が半分ほど消えた頃。馨が線香花火を直哉に手渡した。
「……もうやります?」
「だって疲れちゃった。続きはまたやれば良いしさ」
 ね?と言ってしゃがみ込む。それもそうだと、直哉もそれに倣って馨の横にしゃがみ込んだ。
「そうだ、今年も勝負する?」
 手に持ったライターのレバーをカチカチと鳴らしながら馨が言った。
「また朝食当番賭けますか?」
「んー、今年は別のにしよ」
「別のって?」
「そうだなぁ……」
 馨が空を見上げながら考え込む。所々に小さな星々が顔を出していた。
「俺が勝ったら……直哉は卒業式に言いかけたことを言う。逆に俺が負けたら、直哉のお願いを聞いてあげる……。これでどう?」
 馨の提案に直哉は息を呑んだ。
「え……あの」
 心臓がどくどくと音を立て、身体中が熱くなる。自分がここまで何も出来ず、ぐずぐずとしていたのは分かっていた。だが、こんな直球を投げられるとは思ってもおらず、返事をするにも上手く声が出ない。
「良いよね?」
 膝を抱え、上目遣いの馨が言った。暗がりでよく見えないその表情にさえ、直哉の胸は締め付けられそうになった。
「……わ、わかりました」
 ゴクリと唾を飲み込んで直哉は答えた。
「それで、良いです」
 心臓の音は更に大きくなった気がした。自分の声もぼんやりと聞こえ始めていた。すぐ真横にいる馨の耳にも届いてしまいそうな心音は、深呼吸をしたところで全く落ち着く様子がない。
「ん。じゃあ、着けるよ」
 火を着けるため、馨は直哉の方へにじり寄った。それぞれの持つ線香花火をぴたりとくっつけて、ライターで火を着ける。馨の肘が膝に当たって、直哉の背中は思わず跳ねた。小さな面積でも肌が当たっているという事実に、奥歯を噛み締め、静かに堪える。たったの数秒足らずだというのに、やけに長く感じた。どこからか聞こえる虫の音や、近所を走る車の音は、煩過ぎる心音に消されて、だいぶ遠くに感じていた。
 ライターを離して数秒後。二人の持つ線香花火の先端に、橙色の球体がぽかんと浮かんだ。次第に球体からパチパチと小さな火花が咲き始め、二人の視線は自分の手元に集中した。
「俺さ」
 線香花火が激しく火花を飛ばし始めると、馨が口を開いた。
「会える日が減って、ちょっと、寂しかった」
「……えっ」
 直哉の心臓が更に大きな音でばくんと跳ねる。
「ふふふ。あれ、落ちない?」
「なっ……!揶揄ったんですか」
「半分だけね」
 にこにこと笑って直哉を見つめる馨に、直哉は眉を寄せた。心臓はまだバクバクと煩く脈を打つ。
「半分って……」
 複雑な返答に揺さぶられ、文句の一つでも言ってやろうと直哉が口を開きかけた時だった。真夏の夜にしては珍しく、涼しくて心地良い風が吹いた。風は馨の頬を撫で、直哉へと滑るように吹く。
「あ……」
 直哉の視線は、馨の持つ線香花火の灯を捉えた。小さな橙が震え、その先端から滑り落ちた。二人は同時に息を呑み、消えた馨の線香花火を見つめた。
「……今年は、馨さんの負けですね」
 風のせいで殆ど微弱になっていたが、直哉の持つ線香花火は、まだ小さな火花を懸命に飛ばしている。
「……うん。残念、だったな」
 本気で悔しがっているのか、珍しく馨は黙り込んだ。
「じゃあ俺、何してもらお…………んんっ」
 突然の唇に落ちた柔らかい感触と、暗くなった視界に驚き、直哉は瞬きを忘れた。手に持っていた線香花火は指からすり抜け、代わりにその手は覆いかぶさってきた馨の身体を支えていた。
「……ごめ、ん」
 ゆっくりと唇を離した馨が、下を向いたまま言った。その身体が小さく震えているのが、支えている直哉の手に伝わる。
「馨さ……」
「負けたらまた、直哉の気持ちを聞くタイミング逃しちゃうって思ったら、身体が動いて……」
「俺の、気持ち?」
 直哉が聞き返すと、馨は躊躇いがちに頷いた。
「俺、やっぱり待つのはもう無理だよ。本当はさ、もっと余裕ある年上でいようって思っていたんだけどね。卒業したら全然会えないし、すごく苦しくて……。お互いの生活だって尊重しなきゃって我慢したけど、もう限界だよ」
 馨の泣きそうな目が夜の暗がりにキラキラと光る。その表情は、図書室で見かけたあの寝顔と同じぐらい綺麗に見え、直哉はゴクリと喉を鳴らした。
「馨さん、俺……」
 心臓が締め付けられる。あの噂を聞いて、勝手に苛立って、適当な事を言って会わないようにしていた自分が情けない。嫉妬するほど想っているくせに、その想い人をこんなにも苦しめていたなんて……。
 喉の奥が熱い。もうすぐそこまで、あの二文字は登り詰めているというのに……。
「ねぇ、直哉。俺のこと好きなら……好きって言ってよ……」
 馨の震えるその声に、直哉の視界が歪みかけた。気が付いたら直哉の方から手を伸ばして、馨の唇を塞いでいた。重ねた唇の隙間から互いの吐息が漏れる。心臓の音が耳奥からドクドクと聞こえて、虫の音や遠くで聞こえる車の音なんて今度はなに一つ聞こえない。勢い任せのキスに、理性まで張り裂けてしまいそうだった。唇を離した直哉は馨を抱き寄せ、その耳朶に触れるだけのキスをした。
「……好きです、馨さん」
 直哉の背中に回された馨の腕に力が入る。
「……うん。俺も」
 いつもより近い馨の香水の匂いに、目がチカチカする。身体は火照っていて、互いの耳元で吐く息にも熱が籠っていた。
「……馨さんの忘れ物、届けるの遅くなってごめんなさい」
「どこで道草食ってたんだよ」
 そう言って馨は直哉の肩に頭を擦り寄せた。
「だいぶ、見つかりにくいとこにあったので」
 くすぐったくて、直哉がその頭を軽く撫でてやると、今度は首に腕を回した。
「嘘つけ、こーんなに分かりやすく落としてあげたのにっ」
 不貞腐れた声がやけに明るくて、直哉は馨の背中に腕を回すと、にやけてしまいそうな顔を隠しながらもう一度強く抱きしめた。
「もう落とさせないので良いでしょう?」
「……生意気だ。絶対落としてやる」
「あはは。万が一落としても追いかけて押し付けますよ」
 線香花火の勝負はすっかり頭の中からすっぽ抜け、二人は抱き合ったままくすくすと笑い合った。


「あ、そういえば……」
 馨は直哉から身体を離し、ポケットから以前直哉から貰ったパスケースを取り出すと、本来ならば定期券を入れるポケットに差し込んでいた「なんでも言うことを聞く券」を直哉に渡した。
「これで俺、お願い聞いてあげるよ」
「え?」
「線香花火、直哉が勝ったじゃん」
 拗ねたような言い方に、直哉は思わず吹き出した。
「これは馨さんにあげたやつだから。好きな時に使ってください」
「でも……」
「じゃあ、俺が高校卒業したら駅の反対側にあるラーメン屋に連れてってくださいよ。それで良いので」
 直哉がジト目でそう答えると、馨の顔がだんだんと赤く染まっていった。
「べ、別の場所にしようよ!大学の近所にもたくさん美味しいところがあってね?」
「なんで。ただのラーメン屋でしょう?」
「そうなんだけどっ!あの場所がちょっと……」
「なら」
 直哉は馨に顔を近付ける。
「そのラーメン屋は、もう他の人とは絶対に行かないようにしてください」
「……わ、分かった」
「あと、綾瀬さんと二人で出かけるのも色んな事喋るのも程々にしてください。あの人、超絶面倒なので」
「……ふふっ、はぁい」


「わかってます?」
「わかってまーす」
「わーぉ、思っていた以上に不機嫌じゃん」
「直哉、そんな顔しない。先輩に失礼だと思わないの?」
「会うたび失礼なのはそこの先輩ですけど」
 直哉は顎で郁人を指し、不機嫌なまま答えた。今日は弄月高校の文化祭当日。図書室で開催していた古本市の当番の最中、直哉のもとに郁人と馨がやって来た。事前に二人で来ることを聞いてはいたが、やはりどうにも納得がいかない。直哉が何度注意しても馨と郁人の距離は近いのだ。
「いやぁ、ここはいつもオアシスだね」
 季節は秋に入ったとはいえ、まだ気温は高い。図書室同様に校内全体でも冷房は稼働しているはずだが、人の出入りも多いため、大して涼しさは感じられなかったらしい。郁人は汗ばんだシャツの裾を掴み、本棚を眺めながら内側へ空気を送っている。
「ならずっと居れば良いですよ。俺、あと十分で交代するので」
「えー、朔間ちゃんが焼きそば奢ってくれるんじゃないの?」
「そんな約束いつしました?」
「そうだ、星野っちは?久々に会いたいなぁ」
「話すり替えやがって……!先生なら司書室か職員室ですっ」
 馨はヘラヘラと笑う郁人に直哉が食ってかかるのを眺めて笑った。卒業してまだ数ヶ月しか経っていないというのに、図書室はまるで違う世界のように見え、馨はふらりと中を歩き出す。
「俺、ちょっと星野っち探してくるー」
 司書室を覗いた郁人は、星野がいないことを確認すると、そのまま図書室からでて行ってしまった。どこに居ても勝手な人だと、直哉は目線だけで悪態を付け、馨の後を追った。
 馨はよく昼寝をしていたあの窓辺に腰掛け、校庭をぼんやりと眺めていた。
「あれ、郁人さんは?」
「星野先生探しに行きました。つーか、何で連れて来たんです?一緒に出掛けるのは程々にしてって言ったでしょ」
 直哉の眉間に寄った皺を見て、馨は困ったように笑った。
「行き先が直哉のとこでもダメなの?」
「よりタチが悪いってもんですよ……まったく」
 直哉は呆れ気味に溜息を吐く。馨は自分が無意識に人の懐へ入り込んでいることを知らないため、直哉の心情は気が気ではない。学校が別になってからは特にだ。更に言えば、先日の花火で思いを打ち開けてからの方が苛立つことが増え、自分の独占欲の強さにほとほと呆れていた。
「そういえばさ、覚えてる?去年の文化祭」
 あ、と声を上げたかと思うと、馨は懐かしそうに直哉に言った。
「ええ、嫌でも覚えていますよ、その待受のせいで。ホーム画面、さっさと変えたらどうですか」
 まだ苛立ちが収まらない直哉は、顎で馨のスマホを指した。 
「えー?自分だって変えないくせに」
 唇を尖らせた馨が直哉に言い返した。見せた覚えはないが、一緒にいる時に目に入ったのだろう。それは、去年の夏休み前に図書当番を決める委員会で撮ったホワイトボードの写真だった。
「……俺のはただの備忘録です」
「ふぅん」
 当初は本当にただの備忘録のはず、だった。メモを取るより写真を撮ってロック画面に設定した方が分かりやすいと思っていただけで、日付の下に並んで書かれた自分と馨の名前に、大きな意味を持ってはいなかった。ただ、今はその名前の並びを見るだけで安心することがあり、変えるに変えられていない。そもそも、代わりになる画像が浮かばないのもあるのだが、ここで何を言ったところで馨の顔がニヤけていくことは間違いないと踏んで、直哉は黙っておくことにした。
「じゃあ、新しい写真、撮ろうよ」
「……え?」
「この前さ、同好会の女の子が彼氏とのツーショットを自慢して来たの。あれ、ちょっと羨ましくて」
 少しだけ頬を赤らめて言う馨に、直哉の視線が泳いだ。
「あー、椎奈ちゃんね。あの子の彼氏かっちょ良いもんねぇ」
「ちょっ、綾瀬さんっ」
 直哉と馨が振り向くと、にこにこと満面の笑みで立つ郁人がいた。
「星野先生には会えたんですか?」
「うん、すぐそこの階段で。俺が卒業式に忘れたていった卒アルを職員室に取りに行くってさ。わざわざいいのにねぇ。そんな訳で、星野っちが戻るまで朔間ちゃんは当番ゾッコーでぇす」
 郁人はへらりと笑ってそういうと、馨に手を差し出した。
「じゃあ、はい」
「……郁人さん?」
「スマホ、かしてみ?写真撮るんでしょ?」
 郁人は話をどこから聞いていたのかと、突っ込まれる前に馨からスマホを受け取った。何か言いたげな顔をする直哉に、郁人はにやりと笑ってみせる。
「んじゃ、俺ここ座るっ」
 直哉が郁人を睨んでいると、馨が窓辺の本棚に腰掛けた。
「お、良いねぇ。馨、目細めて。うんうん、超綺麗じゃーん」
「セクハラですよ」
「朔間ちゃんは頭も表情もかったいなぁ」
 郁人は軽く直哉の睨みをかわすと、馨のスマホを構えた。
「んじゃ、二人とも笑ってー」
「ほら、直哉」
 馨に嗜められた直哉は、不貞腐れ顔で郁人の方へ顔を向ける。
 なんで綾瀬さんに……。
「別に今日じゃなくたって…………ちょっ」
 完全に気分ではなくなった、と直哉が言い切る前に馨の手が直哉の手を握った。指の間に指を滑り込ませ、手をがっしりと繋がれる。
「なっ……!」
「だって。まだ繋いだことなかったし」
「いや、だからって今じゃ……」
 直哉はちらりと郁人を見る。しかし、直哉の心配をよそに、郁人は「仲良しだねぇ」と呑気に微笑んでいた。
「いや?」
「い……嫌じゃ、ないですけど……っ!」
 首を傾げる馨に目が合わせられず、直哉はぎこちなく答えた。同時に心臓が煩く鳴り出した。その時だった。
 カシャ。
「……えっ」
「ふふふ〜ん。良い写真撮れたよ」
「い、今のはっ」
「本当だ、すっごい良い顔」
 スマホを郁人から渡された馨は、画面を見つめて嬉しそうに笑った。覗き込んで確認した写真は、窓辺に座った馨の手を握る直哉が、逆光でシルエットのように写っていた。
「赤くなったの誤魔化せて良かったじゃん?」
 郁人に冷やかされ、直哉は小さな舌打ちを返す。その悔しそうな表情に馨はくすくすと笑った。



 星野が職員室から戻って来たのは、写真を撮ってからほんの数分後だった。郁人の卒業時の担任をわざわざ引き連れて来たため、直哉は当番を星野に引き継ぐと、馨を連れて図書室を後にした。
「ねえ、さっきの写真待ち受けにしても良い?」
「えっ」
「あ、ダメだった?」
「いや、ダメじゃないですけど……」
 足を止めて直哉は言い淀む。するしないはさて置き、その後が気になった。世間の偏見は変わりつつあるが、それでも自分達が同性に惹かれた感覚に違和感を覚える人は多い。更に言えば、学校に通う者同士、逃げ場は狭まってしまう。何かあっても直ぐに駆けつける気ではいるが、今はそれが難しい距離であることも、直哉は懸念していた。
「……見られても大丈夫ですか?」
 直哉は恐る恐る思っていたことを吐き出した。しかし、馨は不思議そうな顔で直哉の顔を見つめると、照れながら小さな声で呟いた。
「……ちょっとぐらい浮かれたって良いじゃん」
「は?」
 小さな馨の声は、渡り廊下の向こう側から聞こえる文化祭の喧騒に掻き消される。
「見られても良いって言ったのっ」
 馨は語尾を強調して答えると、早歩きに変わった。
「どこ行くんですか」
 直哉はその後を小走りで追いかけた。何で機嫌を損ねたのか分からないが、待ち受けぐらいでそんな態度に変わるものかと眉を寄せていると、馨が「そうだ」と急に口を開いて足を止めた。またお化け屋敷だのかき氷だのと、行きたい所を急に言い出すのかと思い、直哉はスラックスの後ろポケットに丸めて入れていたパンフレットを取り出して、ページを捲り始めた。
「今年はお化け屋敷じゃなくて、脱出ゲームならやっているみたいですね」
「俺、あの券何に使うか決めた」
「……は?」
 突然の斜め上過ぎる発言に、直哉は困惑する。あの券というのは、去年の冬に手渡したあの『なんでも言うことを聞く券』だろうことは察知できたが、それが何故今会話に出てくるのだと、直哉の頭の中で疑問符が浮かんだ。
「直哉さ、大学は行く?」
「……えぇ、まぁ。行く予定ですけど……」
 会話の流れが全く見えないまま直哉は答えた。すると、ふふんと馨が鼻を鳴らして小さく笑う。
「じゃあ俺、一人暮らしするのやめた」
「え、せっかく練習したのに?」
「もちろん、練習は続ける。その方が直哉も困らないし」
「俺?」
「うん。直哉が高校出たらさ、二人で住もうよ」
「…………は?」
「券、それに使っても良いよね?」
 くすりと笑って微笑むと、馨は直哉の腕を取り、「それじゃあ、芽衣ちゃんのクラス行こう!たこ焼き食べたいしっ」と足早に廊下を進んでいく。
「ちょっ、待って、待ってマジ何言って」
「何でも言うこと聞く券、でしょ?」
「いや、限度ってものがっ!」
 困惑と混乱と、動悸と嬉しさと、色んな感情が身体中から込み上げそうになった。顔なんて一瞬で溶けてしまいそうなほど熱く、心臓は張り裂けそうに煩い。すんなりと返事の出来る話ではないのに、即答してしまいたい気持ちと、本当にして良いのかといった不安で、直哉の頭の中はぐちゃぐちゃだ。顔を赤く染め、直哉は黙り込む。すると、ふわりと甘いシトラスの香りが直哉の鼻を掠めた。
 同時に直哉の唇で柔らかい感触とチュッというリップ音がし、我に返った。
「……あと一年も我慢して待ってやるんだから、覚悟決めてよ」
 馨のその言葉にゾクリと背中が粟立ち、身体中の熱が一瞬で中心に集まってくるような気がした。馨が我儘なのはいつもの事だが、こんな我儘は初めてだった。直哉の心臓は写真を撮った時以上に騒がしく、呼吸すら苦しいほどだった。
 あぁ、もう……この人は…………っ!
 自分の家から通える大学なんて、探せばいくらでも見つけられる。現に馨だって実家から通っているのだ。一人暮らしだって、社会人から始める人も多いだろう。それに、高校を卒業したとて、まだ未成年だ。そう考えると、親にどう説明しようだとか、家具を揃えるお金はどう捻出するしようだとか、現時点でバイト代はどのぐらい貯まっていたかとか、頭の中で近くて遠い未来の苦労に、先走って嘆き始めてしまう。こんな事を考えてしまう以上、答えは決まっていて、だがそれをすんなり答えるのが怖かった。家を出る理由が、馨の我儘以外に全く思い当たらないことに不安がある。だが、その我儘が自分だけに向けられたものというのが、堪らなく嬉しくて仕方がない。
 直哉はすうっと息を飲み込み、ゴクリと喉を鳴らした。そして、深い溜め息を漏らすと首を静かに縦に振った。
「…………わかりました。そっちこそ、途中で気が変わるのは無しですからね」
「ふふふ。そうくると思った」
 嬉しそうに微笑んだ馨は「さてさて。たこ焼き、どの教室かなぁ?」と呑気に言いながら、くるりと踵を返して先を歩きだす。たった今、一世一代の返事をしたつもりだった直哉にとって、その変わり身は拍子抜けだった。
 追いかけても追いかけてもすり抜けて行くような人だと思っていたけど、ここまでとは……。
 ずん、と急に頭が重くなる。今後は一層体力と気力を使いそうだと、直哉が半ば諦めかけた時だった。
「……あっ」
 馨の後頭部が揺れた拍子に、少し長めの髪の隙間から、真っ赤に染まった耳がチラリと顔を出したのだった。




「もー。たこ焼き食べるなら俺も誘ってよぉ。朔間ちゃん、一個ちょーだい」
「……いやです」
「ふふふ。じゃあ、俺の食べます?」
「え、いいの?じゃあ遠慮なく〜」
「ちょっ……!綾瀬さんは俺のやつ食ってくださいっ」
「え、良いのぉ?ラッキーぃ」
「結局あげるんだ」
「……これはあれです、花火のお礼」
「あー。そう言えば花火あげたねぇ。あの量全部できた?」
「流石に無理でした。まだうちにありますよ」
「ふーん。じゃあ残りは俺が店長とやろうかなぁ」
「店長と?」
「ん。誘ったのにやってくれなかったから。現物持っていって、目の前で着火したらやらざるを得ないでしょ」
「……それ、ただの放火っすよ」

作品を評価しよう!

ひとこと感想を投票しよう!

あなたはこの作品を・・・

と評価しました。
すべての感想数:9

この作品の感想を3つまで選択できます。

この作家の他の作品

太陽くんとましろちゃん

総文字数/54,705

青春・恋愛24ページ

第2回青春BL小説コンテストエントリー中
本棚に入れる
表紙を見る
我儘と肉まんの半分こ

総文字数/5,243

青春・恋愛1ページ

本棚に入れる
表紙を見る
穴があったら入りたいっ!

総文字数/8,864

青春・恋愛1ページ

本棚に入れる
表紙を見る

この作品を見ている人にオススメ

エラーが発生しました。

この作品をシェア