一年は長いようで短い。気が付けばあっと言う間に春が来ていた。通学路の途中で、梅の蕾が膨らむのを横目に直哉は思った。去年の今頃は、幼い頃からの友人達と離れ難い半面、新しい環境へ足を踏み入れることに緊張していた覚えがある。怪我をして、部活のできなくなった自分は学校生活で何を楽しみに生きていくのか。馴染めるものは何かあるのか。とりあえず試しに始めたアルバイトは、店長が親しみやすかったし、他のアルバイト達も気さくな人達が多くてすぐに馴染むことが出来た。入学式を終えて一週間たった頃には、勉強は適度に頑張って、暇な時はアルバイトをし、普通にクラスに馴染んで、何事もなくただゆったりと三年間を過ごせば良いと考えていた。
だがそれも、図書委員会の活動が始まってから変わった。ただゆったりと学校生活を送ることが出来なくなった。それは、如月馨という二つ上の先輩が、どうしようもなく気になる存在になってしまったからだった。
初めて委員会で見た時は、モテそうな人だとそう思うだけで、大して気に留めていなかった。しかし、同じ曜日の当番初日に見た寝顔が、あまりにも綺麗で衝撃的だったのだと思うと、今では自分の気持ちに納得がいく。窓辺で居眠りをしている彼は、陽の光を背負って色素の薄いサラサラの髪と長いまつ毛を金色に光らせていた。あれを忘れろと言う方が無理だと今でははっきりと言えるだろう。それに加えて、あの日から自分の生活に馨は入りっぱなしだ。当番の日は勿論のこと、放課後も、アルバイト中も、夏休みも冬休みも。入学してから今の今まで、思い出の中心はいつも馨だった。それが卒業式を迎えた途端にパタンと終わりはおかしな話だ。しかし、先週の木曜日に、もう図書室には来ないと言われた。次に来るのは卒業式だとも。急に全部が閉じていく気がして、あれから上の空な事が続いた。来年もそのまた来年も、その次の年も、その次も。馨は自分の横にいるものだと勝手に思っていた。知らず知らずのうちに、一緒にいるだけでそう思っていた。自分の知らない誰かと一緒にいるだけで騒つく心臓、時々返事に困る言動や行動、猫舌な癖にラーメンを食べに行きたがるところや、人の予定などお構いなしにぐいぐい来るところ。腹が立つくせに全部、愛おしくて、憎らしくて今更手放すことなど考えられない。
どこかでずっと分かっていた。たぶん、きっと、去年の春先から。
俺は……馨さんが好きなのだ、と。
直哉の中で出た答えは、呆気なく腑に落ちた。はっきりと言葉にして自覚した途端から、ずんと胸の奥が重たく感じる。
来週の卒業式……俺、ちゃんと送り出せるのだろうか……。
図書室の施錠をして司書室に鍵をしまった直哉は、旧校舎の階段で部活動終わりの芽衣に出会った。
「あれ。一人?」
「あぁ」
芽衣はわざとらしくキョロキョロと視線を動かして、「如月先輩いないの?」と見れば分かることを直哉に尋ねた。
「……先週で来るのは最後だと」
「へぇ。珍しい」
芽衣から見てもそう思うのか、と直哉は小さく息を吐く。
「ねぇ、先輩に何渡すの?」
「え?」
「送別品。あげないの?あれだけお世話になっておいて」
「お世話って……」
どっちがだよ。
そう言いかけたが、直哉はぐっと堪えた。
「考えてなかった」
「薄情ねぇ」
うるせぇな……。
直哉は芽衣に聞こえないぐらいの小さな舌打ちをする。別のことで頭が回らなかったのだ。何も知らない他人に口を出されては面白くはない。
「プレゼントとまでは言わないけど、お礼ぐらい言ったら?」
「そーだな……」
苛立ちを飲み込むように深呼吸すると、直哉は芽衣に振り返る。
「そっちは?」
「え?」
「吹部の先輩に何贈るんだ?」
「花とか、ハンカチ……とか?」
「なるほど」
「あくまでも私達の話よ。他にもあるでしょ、手紙とか色々」
色々ねぇ……。
贈る言葉よりも、内に秘めた想いの方が強い。そう思うのだが、今それを彼にぶつけるべきなのかはまだ答えが出ていなかった。
「手紙はなぁ……」
「例えばでしょ、例えば。気持ちさえ籠っていれば何だって良いの」
直哉は無意識に、ブレザーの胸ポケットを触った。そこには馨からクリスマスに貰ったシャーペンが挿さっていた。これこそ、気持ちが籠ったプレゼントなのだろうか疑問である。あの日馨は、勘違いした直哉の誤解を解くためにわざわざアルバイトが終わる時間にやって来て、使い古したシャーペンを渡してきた。あの時は即急でこれしか無かったのかもしれない。だがこれは彼自身が使っていた物。他に替えの効かない物だ。これを貰った時は、確かに内心穏やかとは言えなかったが、今になっては大事な物になっていた。そして、馨はあの時『何でも言うことを聞く券』を直哉にねだったのを思い出した。
多分、馨さんはその辺で買った物でも喜んでくれるだろう。だが、他と替えの効かない物が一番反応が良いはずだ。
「……面倒くせぇな」
直哉は思わず声に出して溜息を吐く。
「ちょっと、気持ちまでなくす気?」
「うるさいな、そうは言ってないだろ」
「ちゃんとしなさいよ」
「はいはい」
芽衣に適当な返事をし、直哉は階段を降りていく。
卒業式まであと数日。あの人に何を贈ろうか……。
卒業式の朝は雲一つない良い天気だった。卒業式は午後からで、在校生が午前中に登校し、準備を行う。一年生は三年生の教室掃除を、二年生は体育館の設営と体育館回りの清掃を任され、学校全体が既にお祭り状態だった。
直哉の担当した教室は、あいにく馨の教室ではなかったが、美化委員から渡された雑巾で床拭き班に参加した。掃除中も度々掛け時計を見上げては、卒業式開始の十三時に近付くたびに奥歯を噛み締め、欠伸を堪える。昨晩は殆ど眠ることが出来なかった。直哉がベッドに入った直後、図ったように馨からメッセージが届いたのだ。
『明日、卒業式後に図書室に集合』
有無を言わせないメッセージが馨らしい。しかし、おかげで直哉は寝不足だった。自分の気持ちをぶつけるならこの時がチャンスだ。だが、伝えるべきか否か迷っていた。もし、振られてしまったら。そもそも同性の自分に好きだと言われたら困るのではないだろうか。迷惑になるのではないだろうか。言わないで後悔するよりは、言ってしまった方がいっそ楽なのは分かっている。しかしそれは自分の一方的な考え方ではないだろうか……。一つ考えると後から後から色んな不安が浮かんでくる。羊を数えるよりもぽんぽんと出てくる不安の数に、明け方まで眠ることが出来なかったのだった。
卒業式はつつがなく始まった。体育館の後方に左右に作られた在校生席は一年と二年で分かれており、その間を卒業生が通って入場した。啜り泣きと入場の音楽が体育館に響く中、卒業生達も複雑な顔つきで歩いている。
馨さん……。
直哉は普段伸ばさない背筋を、ぎりぎりまで伸ばした。制服と制服の交差する隙間から、どうにか馨を探そうと必死だった。結局、直哉の席からは殆ど見えなかったのだが、それでも馨の後ろ姿はばっちりと捉えた。相変わらず目立つ容姿で、彼が通った後は体育館に小さな騒めきが起きていた。普段一緒に居ることが多かったくせに、こんなに彼に憧れる人がいたとは考えたことがなかった。最近まで本当に気が付いておらず、目の当たりにして実感する。それと同時に、自分が馨について自分から知ろうとしなかった事を今になって悔やんだ。遠くに行ってしまう時になって惜しむなんて、子どもみたいで情けない。こんな中途半端なまま、自分勝手に好きだなんだと悩んで良かったのかとまた、堂々巡りを脳内で展開する。
いや、もう気にするなって思う方が無理だ。
こんな些細な事を悩むほど、馨の事で頭の中は一杯なのだ。前方はもう卒業生の後頭部しか見えない。入場が終わり、全員に起立の号令がかけられた。芽衣のいる吹奏楽部が校歌の伴奏を開始する。あの中に想い人がいて、その人はもう間も無くこの学校から卒業する。どうして自分は同い年ではないのだろうか。どうしようもない事に苛立って仕方ない。伸ばした背筋をまた曲げると、直哉は卒業生から視線を逸らす。
こんなにも退屈で苦しい卒業式は、初めてだった。
卒業式が終わると、三年生は最後のホームルームをするために教室に向かった。在校生はその三年生の出待ちをする者と帰宅する者で分かれたが、直哉は司書の星野から掃除をすることを条件に鍵を借りて図書室を開けた。鞄をカウンターに置くと、窓を開けて空気を入れ替える。冷たい風が図書室に入り込み、中の湿った空気が逃げていった。まだホームルームは終わらないと踏み、直哉は掃除用具を司書室から運び出すと、一人で掃き掃除を開始した。
そういえば、最初の掃除は馨さんと二人だったんだっけな。
芽衣は部活で、馨と同じクラスの女子生徒も休みで当番には来られなかったあの日。掃除用具の場所から、カウンター業務の手順などを馨から教わった。どこか強引なところがあったが、寧ろ引っ張ってくれるのが有難いぐらいで、ついていく方は楽だった。中学の部活で後輩を面倒見ていたばかりだったせいか、久々に学校で先輩と過ごす時間は楽しかった。
これが週一ではなく、ほぼ毎日になるとは思っていなかったけども……。
思わず苦笑いが溢れる。図書室全体履き終わると、塵を取った。一人でやるならここまでで良いだろう。直哉は時計に目を向けた。最後の長いホームルームは終わった頃だろうか。ふと、窓の外から騒ぐ声が聞こえてきた。三年生が昇降口に降りてきたのを迎える後輩達の声だった。直哉はいつも馨が座っていた窓辺の本棚に腰を下ろすと、その様子をぼんやりと眺めた。
「なーに見てるの?」
直哉の背後で凛とした声がし、振り返るとそこには馨が立っていた。
「……もっと音立てて入ってきてくださいよ。心臓に悪い」
「図書室では静かにするのがマナーなので」
馨はくすくすと笑うと、直哉の横に腰掛けた。鞄は直哉と同じようにカウンターに置いてきたようだ。
「卒業式、寝てたでしょ」
「起きてましたよ」
「うそ。欠伸してたもん」
「……見てたんですか」
「ふふふ」
笑って誤魔化す馨を見て、適当にカマをかけられたのだと気がつく。直哉は外で先輩達を囲む在校生を見ながら溜息を吐いた。
「幸せ逃げるぞ」
……幸せより先にアンタがいなくなる。そうポロッと言えてしまえたらどんなに楽だろうか。
直哉は咄嗟に浮かんだ悪態を、喉元から外へは飛び出させないよう必死に飲み込んだ。
「……あの、馨さん」
「ん?」
「送別品なんですけど」
「え、なになに?何かくれるの?」
馨が目を輝かせた。しかし、直哉はゆっくりと首を横に振る。
「あはは、正直だなぁ。いいよ、物が欲しいって駄々を捏ねるど子どもじゃないし」
「っていうか、そもそも馨さんって普通の物じゃ満足しないじゃないですか。だから何も浮かばなくって……」
「なにそれ。俺ってそんなに偏屈?」
気付いていないのか、と返事の変わりに直哉はジト目を馨へ向けた。
「クリスマス、何が欲しいって言ったか覚えています?」
「あー、あはは。確かに」
馨は思い出してケラケラと笑う。直哉はまだ使われていないあの券の所在が気になって仕方なかった。
「じゃあさ、また偏屈なこと言って良い?」
「……限度によりますけど」
馨はニヤリと笑った。
「それ、ちょーだい」
「……え、これですか?」
「うん。それ。それが良い」
「……何に使うんですか。使い道何もないでしょう?」
「別に。ただ持っていたいだけ」
「それ、どういう意味です?」
「さぁ?どういう意味だろうね」
何を言っても笑い返すだけの馨に根負けした直哉は、本棚から腰を上げると馨の前に立った。嬉しそうな顔で直哉の顔を見上げる馨と目が合う。その瞳がまた窓から差し込む陽によって眩しく見えた。ゴクリと唾を飲み込んで、直哉は自分のネクタイを緩めると、その下に見えるワイシャツの第二ボタンを摘み取った。
「……どうぞ」
小さなボタンを手のひらに乗せ、馨に差し出す。今になって自分がやったことが恥ずかしくなり、直哉は下を向いたまま視線を逸らした。
「ふふ、どーも」
手汗が滲む手のひらから、ボタンを貰うと馨はくすくすと笑った。
「ワイシャツ、お母さんに怒られない?」
「……そーいうの言わないでもらえますか」
「ふふっ。あ、じゃあ俺はこれね」
今度は馨がネクタイを緩めた。第二ボタンまで開いていたワイシャツからチラリと肌が見え、直哉は視線だけ気不味そうに逸らす。
「はい、どうぞ」
そうして直哉が手渡されたのは、馨が付けていた制服のネクタイだった。
「洗濯の替えにでもしなよ」
「……はあ」
気の抜けた返事が図書室に響く。手にした馨のネクタイは、まだほんのり温かくて直哉の心臓が妙に騒がしくなった。
「あの……馨さん、俺」
「あ、そうだ。直哉、来月の三日って空いてる?」
直哉に被せて馨が尋ねた。
「え、三日?まぁ、まだ春休みなので……」
「じゃあ、決まり。入学式後、迎えに来て」
「……は?」
「入学祝いしてくれないの?」
「いや、そんな訳ない……ですけど」
考えていなかった訳ではないが、このタイミングに驚いて直哉は口をぽかんと開けたまま馨の顔を見つめている。
「じゃあ、決まりな」
くすくすと笑いながら馨は言った。直哉は頭を掻きながら、スマホを取り出して勝手だなんだと呟きながら、忘れないうちにスケジュールを入れる。
「なぁ、ネクタイを贈る意味って知ってる?」
「いえ、知らないですけど……」
「……ふぅん、そっか」
直哉がスマホから顔を上げると、眉をハの字にして馨が笑う。
ネクタイを贈る意味、か。
後で調べようと、直哉は頭の隅にメモを残す。それよりも今は自分の胸の奥がざわついて仕方ない。
「あの、馨さん」
今だと思い、直哉が口を開くと馨は「あーダメダメ」と片手を振り、また直哉の話を遮った。
「今日ここに直哉のボタンが欲しくて呼び出したのは俺。直哉からの話は、そっちから約束取り付けてからじゃないと聞いてあげない」
「……はぁ、何言って」
すると、馨はムッとした顔を直哉へ向けた。
「俺だってな、お前から呼び出してくれた方がドキドキすんの」
「……は…………え?」
直哉の心臓がばくんと大きく鳴った。目の前でほんのりと頬を染める馨にも、その音が聞こえてしまう程に大きな音だった。
今のって、絶対このまま流して良いやつじゃないだろ……。でも俺はそれをどう捉えたら?だけどこれって、そういうことで……。
窓から流れ込む冷たい空気さえ、気にならないほど身体中が火照り出す。ごくりと喉を鳴らし、直哉はじっと馨を見つめ直した。目が合って、顔を逸らされる。馨の耳が赤く染まっているのが見え、堪らず息を呑んだ。耳の奥で響く心音がだんだんと大きくなり、さっきまではっきり聞こえていた外の声も全く聞こえなくなっていく。
何か言わなきゃ……。言わないと、この人はまた……。
だが、さっきの馨の言葉が頭の中でリフレインして、直哉は押し黙る。歯切れの悪い自分に苛立ちが込み上げて、握った拳に力が入った。
あぁ、クソ……!絶対チャンスなのに……!
先に先手を打たれてしまった手前、肝心なことは言い出せない。
「じゃあ……俺、友達待たせてるから。また連絡する」
馨は下を向いたまま本棚から降りると、カウンターに放り投げた鞄を取りに向かう。シトラスの香りがふわりと直哉の鼻をくすぐった。
「あのっ、馨さん」
直哉は咄嗟に手を出し、馨の手を掴んだ。名前を呼ばれて馨の肩がぴくんと揺れる。少し前までその肩を下から見上げていた気がする。その肩も今では直哉の視線の下にあって、掴んだその手を強く引けば、馨を抱きしめるのだって簡単に出来そうだった。しかし、呼び止めたところでその続きの言葉は一向に出てこない。強引にでも伝えたい想いがあって手を伸ばしたのに、結局直哉の声は掠れるだけだった。
「……クッソ……」
空いた方の手を握りしめ、その拳を膝に叩きつける。悔しさが沸々と込み上げるのに、苦しさはまったくなかった。
「……あのさぁ。一つ、ずっと言い忘れてた事があるんだけど」
先に口を開いたのは馨だった。直哉の口の中はカラカラに渇き、飲み込む唾もなくなっていて返事すら出来ない。
「……その胸ポケのペン、俺の合格ペンだから。大事にしろよ」
「……それ今、言います?」
やっと振り絞って出たのはいつもと同じ悪態だったが、同時に咽せて咳き込んだ。
「直哉が何も言わないから、わざわざ気遣ってやったのに」
大丈夫?と馨が心配そうに顔を覗き込むと、直哉は首を軽く縦に振った。
「……俺からの話は、別日に聞くんでしょ」
というか、何も言えなくしたのはそっちのくせに。噛み付いてやりたいと思ったが、直哉もここは馨を立ててやることにした。
「うん。だから、また……ね?」
「……はい」
直哉はゆっくり力を抜いて、馨の手を離した。
「馨さん、卒業おめでとうございます」
「うん。ありがと」
窓の外から再び風が入り込む。入学式の以降の約束は自分から取り付けることを誓って、直哉は溜息を吐きながら力無く笑った。
だがそれも、図書委員会の活動が始まってから変わった。ただゆったりと学校生活を送ることが出来なくなった。それは、如月馨という二つ上の先輩が、どうしようもなく気になる存在になってしまったからだった。
初めて委員会で見た時は、モテそうな人だとそう思うだけで、大して気に留めていなかった。しかし、同じ曜日の当番初日に見た寝顔が、あまりにも綺麗で衝撃的だったのだと思うと、今では自分の気持ちに納得がいく。窓辺で居眠りをしている彼は、陽の光を背負って色素の薄いサラサラの髪と長いまつ毛を金色に光らせていた。あれを忘れろと言う方が無理だと今でははっきりと言えるだろう。それに加えて、あの日から自分の生活に馨は入りっぱなしだ。当番の日は勿論のこと、放課後も、アルバイト中も、夏休みも冬休みも。入学してから今の今まで、思い出の中心はいつも馨だった。それが卒業式を迎えた途端にパタンと終わりはおかしな話だ。しかし、先週の木曜日に、もう図書室には来ないと言われた。次に来るのは卒業式だとも。急に全部が閉じていく気がして、あれから上の空な事が続いた。来年もそのまた来年も、その次の年も、その次も。馨は自分の横にいるものだと勝手に思っていた。知らず知らずのうちに、一緒にいるだけでそう思っていた。自分の知らない誰かと一緒にいるだけで騒つく心臓、時々返事に困る言動や行動、猫舌な癖にラーメンを食べに行きたがるところや、人の予定などお構いなしにぐいぐい来るところ。腹が立つくせに全部、愛おしくて、憎らしくて今更手放すことなど考えられない。
どこかでずっと分かっていた。たぶん、きっと、去年の春先から。
俺は……馨さんが好きなのだ、と。
直哉の中で出た答えは、呆気なく腑に落ちた。はっきりと言葉にして自覚した途端から、ずんと胸の奥が重たく感じる。
来週の卒業式……俺、ちゃんと送り出せるのだろうか……。
図書室の施錠をして司書室に鍵をしまった直哉は、旧校舎の階段で部活動終わりの芽衣に出会った。
「あれ。一人?」
「あぁ」
芽衣はわざとらしくキョロキョロと視線を動かして、「如月先輩いないの?」と見れば分かることを直哉に尋ねた。
「……先週で来るのは最後だと」
「へぇ。珍しい」
芽衣から見てもそう思うのか、と直哉は小さく息を吐く。
「ねぇ、先輩に何渡すの?」
「え?」
「送別品。あげないの?あれだけお世話になっておいて」
「お世話って……」
どっちがだよ。
そう言いかけたが、直哉はぐっと堪えた。
「考えてなかった」
「薄情ねぇ」
うるせぇな……。
直哉は芽衣に聞こえないぐらいの小さな舌打ちをする。別のことで頭が回らなかったのだ。何も知らない他人に口を出されては面白くはない。
「プレゼントとまでは言わないけど、お礼ぐらい言ったら?」
「そーだな……」
苛立ちを飲み込むように深呼吸すると、直哉は芽衣に振り返る。
「そっちは?」
「え?」
「吹部の先輩に何贈るんだ?」
「花とか、ハンカチ……とか?」
「なるほど」
「あくまでも私達の話よ。他にもあるでしょ、手紙とか色々」
色々ねぇ……。
贈る言葉よりも、内に秘めた想いの方が強い。そう思うのだが、今それを彼にぶつけるべきなのかはまだ答えが出ていなかった。
「手紙はなぁ……」
「例えばでしょ、例えば。気持ちさえ籠っていれば何だって良いの」
直哉は無意識に、ブレザーの胸ポケットを触った。そこには馨からクリスマスに貰ったシャーペンが挿さっていた。これこそ、気持ちが籠ったプレゼントなのだろうか疑問である。あの日馨は、勘違いした直哉の誤解を解くためにわざわざアルバイトが終わる時間にやって来て、使い古したシャーペンを渡してきた。あの時は即急でこれしか無かったのかもしれない。だがこれは彼自身が使っていた物。他に替えの効かない物だ。これを貰った時は、確かに内心穏やかとは言えなかったが、今になっては大事な物になっていた。そして、馨はあの時『何でも言うことを聞く券』を直哉にねだったのを思い出した。
多分、馨さんはその辺で買った物でも喜んでくれるだろう。だが、他と替えの効かない物が一番反応が良いはずだ。
「……面倒くせぇな」
直哉は思わず声に出して溜息を吐く。
「ちょっと、気持ちまでなくす気?」
「うるさいな、そうは言ってないだろ」
「ちゃんとしなさいよ」
「はいはい」
芽衣に適当な返事をし、直哉は階段を降りていく。
卒業式まであと数日。あの人に何を贈ろうか……。
卒業式の朝は雲一つない良い天気だった。卒業式は午後からで、在校生が午前中に登校し、準備を行う。一年生は三年生の教室掃除を、二年生は体育館の設営と体育館回りの清掃を任され、学校全体が既にお祭り状態だった。
直哉の担当した教室は、あいにく馨の教室ではなかったが、美化委員から渡された雑巾で床拭き班に参加した。掃除中も度々掛け時計を見上げては、卒業式開始の十三時に近付くたびに奥歯を噛み締め、欠伸を堪える。昨晩は殆ど眠ることが出来なかった。直哉がベッドに入った直後、図ったように馨からメッセージが届いたのだ。
『明日、卒業式後に図書室に集合』
有無を言わせないメッセージが馨らしい。しかし、おかげで直哉は寝不足だった。自分の気持ちをぶつけるならこの時がチャンスだ。だが、伝えるべきか否か迷っていた。もし、振られてしまったら。そもそも同性の自分に好きだと言われたら困るのではないだろうか。迷惑になるのではないだろうか。言わないで後悔するよりは、言ってしまった方がいっそ楽なのは分かっている。しかしそれは自分の一方的な考え方ではないだろうか……。一つ考えると後から後から色んな不安が浮かんでくる。羊を数えるよりもぽんぽんと出てくる不安の数に、明け方まで眠ることが出来なかったのだった。
卒業式はつつがなく始まった。体育館の後方に左右に作られた在校生席は一年と二年で分かれており、その間を卒業生が通って入場した。啜り泣きと入場の音楽が体育館に響く中、卒業生達も複雑な顔つきで歩いている。
馨さん……。
直哉は普段伸ばさない背筋を、ぎりぎりまで伸ばした。制服と制服の交差する隙間から、どうにか馨を探そうと必死だった。結局、直哉の席からは殆ど見えなかったのだが、それでも馨の後ろ姿はばっちりと捉えた。相変わらず目立つ容姿で、彼が通った後は体育館に小さな騒めきが起きていた。普段一緒に居ることが多かったくせに、こんなに彼に憧れる人がいたとは考えたことがなかった。最近まで本当に気が付いておらず、目の当たりにして実感する。それと同時に、自分が馨について自分から知ろうとしなかった事を今になって悔やんだ。遠くに行ってしまう時になって惜しむなんて、子どもみたいで情けない。こんな中途半端なまま、自分勝手に好きだなんだと悩んで良かったのかとまた、堂々巡りを脳内で展開する。
いや、もう気にするなって思う方が無理だ。
こんな些細な事を悩むほど、馨の事で頭の中は一杯なのだ。前方はもう卒業生の後頭部しか見えない。入場が終わり、全員に起立の号令がかけられた。芽衣のいる吹奏楽部が校歌の伴奏を開始する。あの中に想い人がいて、その人はもう間も無くこの学校から卒業する。どうして自分は同い年ではないのだろうか。どうしようもない事に苛立って仕方ない。伸ばした背筋をまた曲げると、直哉は卒業生から視線を逸らす。
こんなにも退屈で苦しい卒業式は、初めてだった。
卒業式が終わると、三年生は最後のホームルームをするために教室に向かった。在校生はその三年生の出待ちをする者と帰宅する者で分かれたが、直哉は司書の星野から掃除をすることを条件に鍵を借りて図書室を開けた。鞄をカウンターに置くと、窓を開けて空気を入れ替える。冷たい風が図書室に入り込み、中の湿った空気が逃げていった。まだホームルームは終わらないと踏み、直哉は掃除用具を司書室から運び出すと、一人で掃き掃除を開始した。
そういえば、最初の掃除は馨さんと二人だったんだっけな。
芽衣は部活で、馨と同じクラスの女子生徒も休みで当番には来られなかったあの日。掃除用具の場所から、カウンター業務の手順などを馨から教わった。どこか強引なところがあったが、寧ろ引っ張ってくれるのが有難いぐらいで、ついていく方は楽だった。中学の部活で後輩を面倒見ていたばかりだったせいか、久々に学校で先輩と過ごす時間は楽しかった。
これが週一ではなく、ほぼ毎日になるとは思っていなかったけども……。
思わず苦笑いが溢れる。図書室全体履き終わると、塵を取った。一人でやるならここまでで良いだろう。直哉は時計に目を向けた。最後の長いホームルームは終わった頃だろうか。ふと、窓の外から騒ぐ声が聞こえてきた。三年生が昇降口に降りてきたのを迎える後輩達の声だった。直哉はいつも馨が座っていた窓辺の本棚に腰を下ろすと、その様子をぼんやりと眺めた。
「なーに見てるの?」
直哉の背後で凛とした声がし、振り返るとそこには馨が立っていた。
「……もっと音立てて入ってきてくださいよ。心臓に悪い」
「図書室では静かにするのがマナーなので」
馨はくすくすと笑うと、直哉の横に腰掛けた。鞄は直哉と同じようにカウンターに置いてきたようだ。
「卒業式、寝てたでしょ」
「起きてましたよ」
「うそ。欠伸してたもん」
「……見てたんですか」
「ふふふ」
笑って誤魔化す馨を見て、適当にカマをかけられたのだと気がつく。直哉は外で先輩達を囲む在校生を見ながら溜息を吐いた。
「幸せ逃げるぞ」
……幸せより先にアンタがいなくなる。そうポロッと言えてしまえたらどんなに楽だろうか。
直哉は咄嗟に浮かんだ悪態を、喉元から外へは飛び出させないよう必死に飲み込んだ。
「……あの、馨さん」
「ん?」
「送別品なんですけど」
「え、なになに?何かくれるの?」
馨が目を輝かせた。しかし、直哉はゆっくりと首を横に振る。
「あはは、正直だなぁ。いいよ、物が欲しいって駄々を捏ねるど子どもじゃないし」
「っていうか、そもそも馨さんって普通の物じゃ満足しないじゃないですか。だから何も浮かばなくって……」
「なにそれ。俺ってそんなに偏屈?」
気付いていないのか、と返事の変わりに直哉はジト目を馨へ向けた。
「クリスマス、何が欲しいって言ったか覚えています?」
「あー、あはは。確かに」
馨は思い出してケラケラと笑う。直哉はまだ使われていないあの券の所在が気になって仕方なかった。
「じゃあさ、また偏屈なこと言って良い?」
「……限度によりますけど」
馨はニヤリと笑った。
「それ、ちょーだい」
「……え、これですか?」
「うん。それ。それが良い」
「……何に使うんですか。使い道何もないでしょう?」
「別に。ただ持っていたいだけ」
「それ、どういう意味です?」
「さぁ?どういう意味だろうね」
何を言っても笑い返すだけの馨に根負けした直哉は、本棚から腰を上げると馨の前に立った。嬉しそうな顔で直哉の顔を見上げる馨と目が合う。その瞳がまた窓から差し込む陽によって眩しく見えた。ゴクリと唾を飲み込んで、直哉は自分のネクタイを緩めると、その下に見えるワイシャツの第二ボタンを摘み取った。
「……どうぞ」
小さなボタンを手のひらに乗せ、馨に差し出す。今になって自分がやったことが恥ずかしくなり、直哉は下を向いたまま視線を逸らした。
「ふふ、どーも」
手汗が滲む手のひらから、ボタンを貰うと馨はくすくすと笑った。
「ワイシャツ、お母さんに怒られない?」
「……そーいうの言わないでもらえますか」
「ふふっ。あ、じゃあ俺はこれね」
今度は馨がネクタイを緩めた。第二ボタンまで開いていたワイシャツからチラリと肌が見え、直哉は視線だけ気不味そうに逸らす。
「はい、どうぞ」
そうして直哉が手渡されたのは、馨が付けていた制服のネクタイだった。
「洗濯の替えにでもしなよ」
「……はあ」
気の抜けた返事が図書室に響く。手にした馨のネクタイは、まだほんのり温かくて直哉の心臓が妙に騒がしくなった。
「あの……馨さん、俺」
「あ、そうだ。直哉、来月の三日って空いてる?」
直哉に被せて馨が尋ねた。
「え、三日?まぁ、まだ春休みなので……」
「じゃあ、決まり。入学式後、迎えに来て」
「……は?」
「入学祝いしてくれないの?」
「いや、そんな訳ない……ですけど」
考えていなかった訳ではないが、このタイミングに驚いて直哉は口をぽかんと開けたまま馨の顔を見つめている。
「じゃあ、決まりな」
くすくすと笑いながら馨は言った。直哉は頭を掻きながら、スマホを取り出して勝手だなんだと呟きながら、忘れないうちにスケジュールを入れる。
「なぁ、ネクタイを贈る意味って知ってる?」
「いえ、知らないですけど……」
「……ふぅん、そっか」
直哉がスマホから顔を上げると、眉をハの字にして馨が笑う。
ネクタイを贈る意味、か。
後で調べようと、直哉は頭の隅にメモを残す。それよりも今は自分の胸の奥がざわついて仕方ない。
「あの、馨さん」
今だと思い、直哉が口を開くと馨は「あーダメダメ」と片手を振り、また直哉の話を遮った。
「今日ここに直哉のボタンが欲しくて呼び出したのは俺。直哉からの話は、そっちから約束取り付けてからじゃないと聞いてあげない」
「……はぁ、何言って」
すると、馨はムッとした顔を直哉へ向けた。
「俺だってな、お前から呼び出してくれた方がドキドキすんの」
「……は…………え?」
直哉の心臓がばくんと大きく鳴った。目の前でほんのりと頬を染める馨にも、その音が聞こえてしまう程に大きな音だった。
今のって、絶対このまま流して良いやつじゃないだろ……。でも俺はそれをどう捉えたら?だけどこれって、そういうことで……。
窓から流れ込む冷たい空気さえ、気にならないほど身体中が火照り出す。ごくりと喉を鳴らし、直哉はじっと馨を見つめ直した。目が合って、顔を逸らされる。馨の耳が赤く染まっているのが見え、堪らず息を呑んだ。耳の奥で響く心音がだんだんと大きくなり、さっきまではっきり聞こえていた外の声も全く聞こえなくなっていく。
何か言わなきゃ……。言わないと、この人はまた……。
だが、さっきの馨の言葉が頭の中でリフレインして、直哉は押し黙る。歯切れの悪い自分に苛立ちが込み上げて、握った拳に力が入った。
あぁ、クソ……!絶対チャンスなのに……!
先に先手を打たれてしまった手前、肝心なことは言い出せない。
「じゃあ……俺、友達待たせてるから。また連絡する」
馨は下を向いたまま本棚から降りると、カウンターに放り投げた鞄を取りに向かう。シトラスの香りがふわりと直哉の鼻をくすぐった。
「あのっ、馨さん」
直哉は咄嗟に手を出し、馨の手を掴んだ。名前を呼ばれて馨の肩がぴくんと揺れる。少し前までその肩を下から見上げていた気がする。その肩も今では直哉の視線の下にあって、掴んだその手を強く引けば、馨を抱きしめるのだって簡単に出来そうだった。しかし、呼び止めたところでその続きの言葉は一向に出てこない。強引にでも伝えたい想いがあって手を伸ばしたのに、結局直哉の声は掠れるだけだった。
「……クッソ……」
空いた方の手を握りしめ、その拳を膝に叩きつける。悔しさが沸々と込み上げるのに、苦しさはまったくなかった。
「……あのさぁ。一つ、ずっと言い忘れてた事があるんだけど」
先に口を開いたのは馨だった。直哉の口の中はカラカラに渇き、飲み込む唾もなくなっていて返事すら出来ない。
「……その胸ポケのペン、俺の合格ペンだから。大事にしろよ」
「……それ今、言います?」
やっと振り絞って出たのはいつもと同じ悪態だったが、同時に咽せて咳き込んだ。
「直哉が何も言わないから、わざわざ気遣ってやったのに」
大丈夫?と馨が心配そうに顔を覗き込むと、直哉は首を軽く縦に振った。
「……俺からの話は、別日に聞くんでしょ」
というか、何も言えなくしたのはそっちのくせに。噛み付いてやりたいと思ったが、直哉もここは馨を立ててやることにした。
「うん。だから、また……ね?」
「……はい」
直哉はゆっくり力を抜いて、馨の手を離した。
「馨さん、卒業おめでとうございます」
「うん。ありがと」
窓の外から再び風が入り込む。入学式の以降の約束は自分から取り付けることを誓って、直哉は溜息を吐きながら力無く笑った。



