(さすがお嬢様学校……私、これからここに通うんだよね?)
ぼんやりとした晴れ空に遅咲きの桜が舞う。
閑静な住宅街の中、一際存在感があるここは雪椿学園高等学校。私立の女子校だ。窓の細工が美しいクリーム色の校舎には汚れひとつなく、八重桜が咲き乱れる敷地内は綺麗に舗装されている。
多希は、学校指定のカバンをぎゅっと握った。さあ、と吹いた風に真っ直ぐな長い黒髪をさらわれる。一歩踏み出した時、鼻から入ってきた空気は花の甘い香りを含んでいた。
校舎内、ざわざわと聞こえる誰かの話し声から少し離れたところを歩く。廊下にある数々のトロフィーや賞状は、何も言わず、ガラス張りの棚の中に佇んでいた。
(変じゃないかな)
そのガラスに、制服であるくすんだ赤のジャンバースカートを纏った少女の姿が映る。数時間前、家を出る時に母と義父からこれでもかと褒められたが、きっと身内贔屓だ。実際に似合っているのか、それは彼ら以外に聞かないと分からない。
ふぅ、と息を吐いた多希は不安気な表情から一点、穏やかな笑顔の仮面をかぶる。
校長室と書かれた扉をノックすると、はい、と声が返ってくる。ほんの少しの色気が混じった落ち着く低音。多希の心臓はどくんと音を立てた。
(……兄さん?)
今朝の夢に出てきた人。9年前、多希の心を助けてくれた人。名前すら忘れてしまったけど、優しい手で頭を撫でられたことは忘れていない。扉の内側から聞こえた声は、彼によく似ている。
静かに開けられた引き戸から、20代後半くらいの男性が出てくる。
身長160センチの多希よりも20センチほど背が高く、肩につかない長さの黒髪を額の中央で分けている。すっとした鼻筋と輪郭に薄い唇、儚げな瞳と左右対称の眉、口の右下には小さな黒子。シャツ、ジャケット、ズボン、手袋、靴……。ネクタイ以外の身につけているもの全てが黒い。
彼は、細い楕円形フレームのメガネ越しに漆黒の瞳を見張る。顔立ちが整った人はどんな表情をしても絵になるとはよく言ったものだ。
(兄さん……じゃなさそう。痛いくらいに刺々しくて、それでも優しい人だったはずだから)
数秒見つめあった後、微笑みを浮かべた彼に入室を促された。どうぞ、と招くその姿勢も笑顔も指の先まで、全てが様になっている。
(こんな完璧な笑顔なんて浮かべる人じゃなかったはず。私と同類じゃなかったよね)
男性の笑顔にはどこか違和感がある。よく見ると目の奥底が笑っていない。その温度のなさにゾクリとするのだ。
にこやかな様子を取り繕っている多希もまた同様である。果たしてそれに気づいた人は何人いるのか。もしかしたら多希以外誰もいないのかもしれない。
失礼しますと入った校長室は味のある深い焦茶色でまとめられていた。同じ色のデスクとチェア、中央にはソファがある。
その一席に腰掛けているのは人の良い笑みを浮かべた男性。髪の毛には白が混じり、側には杖が立てかけられている。その年齢と経験から出てくるものなのか、不思議な迫力がある人だ。背中がすっと伸びた。
勧められるがまま向かいのソファに座ると、完璧な人は老齢の男性の横に腰を下ろす。
初めて会う人、初めての場所、それも学校は特に緊張する。おくびにも出さないが、息をするのにも気を遣うほどだ。
「初めまして。ここで校長をしている如月といいます。雪椿学園高校へようこそ。こちらは——」
自己紹介をした老齢の男性——校長に促され、完璧な人は話し出す。
「僕は2年A組、多希さんが所属するクラスの担任、糸井桂です」
(やっぱ絵になるなぁ、……じゃない! そうじゃなくて、気をつけないと大変なことになりそう)
にこりと笑った桂は整っているを超えて美しい。目を奪われてしまいそうになる。だが目の奥底が笑っていないことは確かだ。気づかないうちに彼の手のひらの上で転がされていた、なんてことにならないように気をつけなければ。
向かい側の二人にはもちろん知られているようだが、この流れで多希だけ名乗らないのは違和感があるというもの。彼女は自己紹介をしようと口を開く。
「……糸井多希です。どうぞよろしくお願いします」
(糸井、で合ってるよね)
名字が間違っていないかと確認したくなるのも仕方のないことだろう。2週間ほど前に突然変わったのだから。
母親の再婚、その再婚相手との同居を機に、多希の生活は大きく変化させられた。
ある日母から緊張した面持ちで、家族が増えても良い? と聞かれた時にはすでに色々な手続きが終わっていたのだろう。
多希は、心配や苦労を必要以上にかけてしまった母の願いを断るわけもなく、二つ返事で了承する。次の日には名字が変わっており、その早技には驚くを超えて感心した。
名字の他にも家、生活、学校……、何より変わったと感じているのは家族構成。これまで母と二人暮らしだったのが、義父ができ、義兄ができたのだ。
一人暮らしをしている義兄とは、全くと言っていいほど予定が合わず、まだ会ったことはない。母たち曰く優しくてかっこいい人らしい。
一般的に家族になるのに会ったことがないなんてことはありえないが、それが気にならないほどに目まぐるしい2週間だった。
(そういえば義兄は高校の先生だって言ってたような……?)
全身が黒に包まれており、違和感のある笑顔の持ち主に視線を向けるとばっちり目が合う。慌てて見ていないふりをするがもう遅い。
(この人、名乗ってたよね? 絶対に名乗ってたよね? ……糸井桂って)
「よろしくお願いしますね。何やら糸井先生は多希さんのお義兄さまとなったのだとか。先生、生徒としても、義兄妹としても仲良くしてくださいね」
「……ぇ」
(本当に義兄だった……。……え? この違和感のある笑顔な担任の先生が……? 本当に義兄なの?)
それからの話は全くもって入ってこなかった。覚えているのは、不思議そうな表情の校長と目の奥底が笑っていない桂が対照的だということだけ。気づいた時には、桂と共に廊下にいた。
「さて、行きましょうか」
多希は、2年A組へと歩き始めた桂の背を追う。
左手に抱える学校案内のプリントの隅、よく見るとメモ書きが残されていた。内容は覚えていないが、メモを取るのは忘れなかったよう。多希はほっと息をつく。
「しかし、こうして会うのも久しぶりですね、多希さん。何年振りでしょうか?」
「……はい?」
チャイムが鳴り、静かになった汚れひとつない廊下に、多希の呆然とした声が響く。桂はその様子に目を見開いた。
(先生とよく似た人なら会ったことはありますけど、先生とは会ったことがないですよ? こんな印象が強い人、会ったら絶対覚えてるって)
「覚えていないのですか?」
「……はい。どこかでお会いしましたか?」
多希は少し首を傾げて答える。
「それは都合が良いですね。……いえ、気にしないでください」
「分かりました……?」
(都合が良いってどういうことです? 怪しすぎません?)
説明を求めて視線で訴えるが、返されるのはあの笑顔だけ。言うつもりは毛頭ないようだ。
(まあ別にいいですけど)
思わず溢れそうになったため息を飲み込む。彼女は、早くも遅くもない程よい速さで歩く桂についていく。
「呼ぶので少し待っていてくださいね」
2年A組の教室の前で桂にそう言われる。頷いて答えると、彼は静かに引き戸を開けて入室する。
「皆さん、おはようございます。知っている方もいるかもしれませんが、今日から転入生がやってきました」
どんな子かな、可愛いかな、仲良くできるかな……。教室内からざわざわとそんな声が聞こえる。だが、それは桂のひとことによって止められた。
「ふふ、彼女はとても可愛い子ですよ。ぜひ仲良くしてくださいね」
彼は心底嬉しそうに見える笑顔で言う。
今まで、全員を褒めることはあれども一人だけを褒めることはせず、生徒たちからみんなのジェントルマンと呼ばれている桂。そんな人が突然、誰かを特別扱いするなんて想像もしていなかっただろう。2年A組に衝撃が走る。
それを分かっているのか、分かっていないのか、彼は気にせず続ける。
「多希さん、こちらへどうぞ」
(今、ですか? このタイミングで、ですか?)
まだ教室にも入っていないが、クラスメイトから怒りの感情がひしひしと伝わってくる。逃げ出したいと足がすくむが、ここを進まなければいけない。少々不自然な笑顔の仮面を被り直し、教室へと入る。
多希は、大きな黒板を背に、人ひとり分の距離を開けて桂の隣に立った。教室内にはくすんだ赤のジャンバースカートを着こなした30人ほどの生徒がいる。彼女らの大半は嫉妬や嫌悪といった感情を隠しもしていない。
(大丈夫、あの時ほど怖くない)
微かに震える手には気づかないふりをして、クラス全員を見回し、微笑んだ。
転校初日、午前中の授業が終わり、昼休みがやってくる。
多希は、自分の机で母作の彩りゆたかなお弁当を食べていた。食欲がなく、無理やり口に入れて飲み込んでいる状態である。
(やっと半分)
お弁当の味はとても美味しい。母が丹精込めて作ってくれたのが分かる。だが、今はそれが辛い。残す勇気もなければ捨ててしまう勇気もない。昼休みが終わるまでに食べ終わらなければ、そう思えば思うほど箸を運ぶ手はスピードを落とし、冷たくなる。
突然ぬっと影が差した。目の前にいる一人の女子生徒から敵意をむき出しに睨まれている。身長150センチほどの彼女は茶色がかったボブヘアをハーフアップにして、制服を崩さずに着ている。
(笑わないと、笑顔でいないと……。そうじゃないといじめられる)
多希はしゃらんと効果音がつきそうな微笑みを作る。見え方を研究した笑顔はいつも通り完璧だが、その目の奥底は笑っていない。いや、心から笑う余裕がないのだ。
「何か、ご用ですか?」
「あなた糸井先生の義妹なんですってね?」
(なんでそれを知って……?)
校長や事情を知る先生など、学校側がむやみやたらと話すとは考えにくい。生徒に事情を知っている知り合いはいないはず。ならば誰が話したのだろうか?
(まさか糸井先生が……いや、さすがにないはず)
周囲のクラスメイトのほとんどからもじろりと睨まれている。中には、目の前の彼女へよく言ってくれたと言わんばかりに称賛の視線を送る人もいた。どうしてあんな子が、ぽっと出の義妹のくせに……、明らかな嫌みが聞こえてくる。
下手に肯定も否定もできないこの状況、多希は困ったように笑うしかない。目の前の彼女は肯定と受け取ったのだろう。キッと睨みを強めて言った。
「糸井先生には近づかないで。妹って言っても血の繋がりはないのでしょう? 糸井先生はあなたみたいな人が独占して良い方じゃないの。いいわね?」
黒いクリップボードを持って教室に入ってきた桂を見て、彼女は何事もなかったように去っていく。
桂の方へ視線をやったほんの一瞬、彼が嗤うのが見えた。これが心底嬉しそうなのだ。表情に違和感なんてものはなく、瞳の奥から嗤っている。
(怖い……)
拳に力を入れ、この場から逃げ出したい衝動を抑える。じっとりとした冷や汗が肌に張り付く。
この日のお弁当は食べ切ることができなかった。
「どうです、多希さん? 学校には慣れましたか?」
雪椿学園高校に通い始めてから1週間。多希は来るのが習慣となりつつある国語準備室にいた。
教室の半分ほどの広さに、所狭しと辞典や教科書、ファイルが並ぶ。きっちり整理整頓されており、掃除も行き届いているよう。桂が管理する部屋なだけのことはある。
桂はキャスターのついた事務椅子に座り、多希はその正面に置かれた折りたたみ式の椅子に腰掛ける。放課後に毎日呼び出され、その日の出来事を報告させられているのだ。
表面上はお互いににこやかだが、目の奥底は笑っていない。多希は一見和やかなこの時間がどうしても苦手だった。
「少しは……。でも、完全に慣れるまではもう少しかかりそうです」
「そうですか」
そう言った彼に多希は頷く。秒針の音がやけに大きく聞こえる。
笑わない黒い瞳に吸い込まれてしまいそうだ。多希は冷たくなった手に力を込め、ごくりと唾を飲み込む。
(……来た)
最後の質問として、お決まりの言葉をかけられる。
「何か困ったことなどありませんか?」
この質問に、桂の目を真っ直ぐと見て答えられたことはない。鋭い光が宿ったその瞳に囚われた時、全てを見透かされてしまう。
多希は今日も目を逸らした。
「……ありません」
「そうですか」
ゆっくりと瞬きをした彼の瞳からあの鋭さは消えていた。代わりにあるのはいつも通りの冷たさだけ。完璧な笑顔は変わらない。
無意識に止めていた呼吸を再開すると、4月にしてはえらくひんやりとした空気が多希の肺を満たす。
「何かあった時はいつでも声をかけてくださいね」
「ありがとうございます」
多希は、では、と席を立ち、廊下に繋がる引き戸に手をかける。後ろから、ぎ、と椅子の軋む音が聞こえた。
「多希、後ほど家に伺いますね。父さんと母さんにもたまには会っておきたいので」
「……! 分かりました。母さんたちに伝えます」
「お願いします」
「先生」よりも少し柔らかい声で言った「兄さん」に、今度こそ、では、と伝えて引き戸を開けた。
(母さんたちに会いたい、……本当にそれだけですか?)
一人暮らしをしている桂が、多希たちの住む糸井家に来るのは初めてのこと。もっともらしい理由だが、目の奥底の冷たさを思うとそれだけではないのかもしれない。
多希は少し離れたところにある教室へと歩く。遠くから小気味良い音楽が聞こえてくる。いーち、にー、さん、し、と誰かの掛け声が響く。
だんだんと景色がすぎるスピードが上がるが、決して走りはしない。優等生は廊下を走らない。
2年A組の教室はすぐそこだ。多希はほっと息を吐き、固くなった体と表情から力を抜く。
(さっさと帰って、先生が来る前に寝ちゃおうかな)
がらがらと開けた引き戸の内側、多希の席に茶色がかったボブヘアの小柄な少女が腰掛けている。覚えてしまった少女の名前は新宮千代。逃したはずの力が戻ってきた。
(どうして……? もう帰るか部活やってる時間じゃ?)
制服をきっちりと着た千代は多希を一瞥して窓の外に視線を向ける。転校初日から毎日のように「糸井先生に近づくな」と言ってくるあの子だ。
(忘れてくれてはなかったか……)
何も言われない日はないらしい。れっきとした困ったことではあるが、桂には話していない。
(下手に騒がない方が良いよね。きっと、そのうち飽きてくれるだろうし。9年前ほどじゃない、よね)
心も体も殴られ、蹴られる日々が続いた9年前よりも、何十倍もましだ。学校に一切居場所がなかったあの時と違って、今は話を聞こうとしてくれる桂がいる。
何も見なかったことにして去ることもできなくはないが、机に掛かっているカバンを置き去りにしてしまう。
困ったような微笑みの仮面を被り、多希は千代に近づいた。
「あたし、あなたに糸井先生には近づかないでって言ったわよね?」
「……言われましたね」
「それで? どうして近づいているの?」
「それは……」
(私からじゃなくて、むしろ先生の方から近づいて来てるんだけど……)
事実だが、それを言っても聞く耳すら持ってもらえないだろう。多希は言葉を飲み込む。
こちらを一切見ない彼女は、それ以上何も言わなかった。そっとカバンを取った多希は早足に教室を出る。おそるおそる確認したカバンの中身は何も減っていなかったし壊れていなかった。
「——ただいま」
カバンから出した鍵で、グレーの扉を開ける。鍵についているピンクグレーの皮でできたキーホルダーは、つい先日、義兄からもらったもの。使うと言った手前そうするしかなかったが、案外気に入っている。
最近引っ越してきた一軒家には新築の匂いが漂っている。
靴を揃え、洗面所で手を洗い、リビングのドアを開ける。
「おかえりー」
間延びした声の持ち主はソファに座って読書をしていた。多希と同じ色の黒髪とピンクグレーの瞳を持つ女性。緩くカーブがかかったミディアムヘアが柔らかな雰囲気を出している。
「ただいま、母さん」
「学校どうだった?」
「まあまあだよ」
多希は苦笑して言う。その瞳にはうっすらと疲れが浮かんでいた。
「あ、そういえば、せんせ……桂兄さんが今日うちに来るって」
「桂くんが? 本当?」
「うん、来るって言ってたよ」
「よし、分かった!」
母はしおりを挟んで本を閉じ、横に置いていたエプロンを嬉々としてつける。鼻歌を歌い出しそうな勢いだ。
新たに増えた家族に誰よりも喜び、誰よりも積極的に関わろうとしている。そんな母に義兄が怖いだなんて言えるわけがない。
(私も素直に喜べたらな……)
「そうだ、桂くんに夕ご飯用意するよって連絡してくれない?」
「うん、するね」
「お願い」
多希はスマホを取り出し、メッセージアプリで、数日前に追加されたばかりの黒猫のアイコンをタップする。ゆっくりとフリック入力を始めた。
多希:母さんが、夕ご飯用意するよって言ってます。
メッセージを送ると、すぐさま既読の表示がつく。
(早くないですか? ……スマホ見てたのかな)
K.Itoi:「ありがとうございます。楽しみにしていますね」と伝えてください。
「せん……桂兄さんが、『ありがとうございます。楽しみにしていますね』って言ってる」
「おーけい、任せて!」
母はリビングと繋がっているキッチンからそう言い、手元の作業に戻る。
多希:伝えました。「おーけい、任せて!」とのことです。
K.Itoi:【にこりと笑う黒猫のスタンプ】
K.Itoi:多希も伝えてくれてありがとうございますね。
多希:いえいえ。
会話は終わっただろうとスマホを閉じ、カバンと共に2階の自分の部屋へ行く。
(先生が来る前に寝ちゃうのは無理そうかな)
ジャンバースカートの制服を脱ぎ、だぼっとしたライトグレーのパーカーと細身の黒いズボンに着替える。ひどく重かった肩が嘘のように軽くなった。
カバンから教科書とノート、プリントを取り出し、宿題に取り掛かる。
「——よし、できた」
多希が宿題を終える頃、日はすっかり落ちていた。しっかりと明日の準備まで終わらせて、1階へ下りる。
リビングのドアの内側からわいわいと何かを話す声が聞こえる。
(父さん帰って来たのかな。もしかしたら先生もいる?)
がちゃりとドアを開けると、ソファに座った3人が一斉にこちらを向く。そこには予想通り義父と義兄の姿があった。
義父は、纏う雰囲気こそ柔らかくて違うが、真っ直ぐな黒髪と整った顔立ちが桂とよく似ている。
黒いジャケットと黒い手袋を脱いだ桂はほんの少しだけ幼く見えた。
「宿題は終わりましたか?」
思わず立ち尽くしていると、桂に問いかけられる。
「……終わらせました。いらっしゃい、です。父さんもおかえりなさい」
「うん、ただいま」
「多希も来たことだし、ご飯食べよう? 桂くんが来てくれたから、ちょっと張り切っちゃった」
母の言葉に頷き、キッチンからダイニングテーブルに食事を運ぶ。
(わ、久しぶりのハンバーグだ……!)
多希は、誕生日やテストで満点を取った日など、嬉しいことがあった日に作ってくれることが多いこのハンバーグが好きだった。
母と義父、桂と多希の順に座り、手を合わせる。
「「「いただきます」」」
早速、ハンバーグを口に運ぶ。ふんわりした食感のそれに多希は頬を緩めた。
「美味しそうに食べますね、多希」
「美味しいですからね。先生も食べれば分かります」
学校で話す時よりもほんの少しだけ仮面が剥がれた多希に、桂は笑顔を深める。
「多希? 『兄さん』と呼んではくれないのですか?」
いつも以上に冷たい瞳から見つめられ、多希の心臓は跳ねる。
(……もしかして怒ってたりします?)
内心びくびくしていることは一切表に出さず、困ったような笑顔の仮面を貼り付けて彼女は答えた。
「ごめんなさい、兄さん。つい学校での呼び方が出てしまいました」
一瞬の間の後、ふふ、と笑った声がしたと思ったら、目の前に迫ったすらりとした手が迫る。目を見張り、動けなくなった多希の頭に温かいものが触れた。
桂にゆっくりと頭を撫でられているようだ。その撫で方は心地よくて優しくて、自然と仮面が外れていく感覚がする。頬が緩まり、目が細まっていく。
(何でだろう。すごく、落ち着く。9年前の兄さんもこうやって撫でてくれたっけ)
突然動きを止めた手に手を重ね、上目遣いで桂を見る。
「兄さん?」
(もっと撫でてくれないんですか?)
目を見開いた彼の目の奥底には驚きの感情があった。すぐさまいつも通りの完璧な微笑みに戻ったが。
「……いいねぇ。仲良くなったんだね」
テーブルの向かい側から聞こえてきた声に多希は顔を向ける。にまにまとしている母と、複雑そうな表情を浮かべた義父がいた。
「それはもう。『多希』、『兄さん』と呼び合う仲になりましたからね」
(その仲になったのは3日前のことですけどね)
心の中で補足する。
どこか誇るように言って述べた桂に義父は心臓の辺りを抑えた。
「父さん? 大丈夫、ですか……?」
「大丈夫ですよ。父さんはただ僕に嫉妬しているだけですから」
「え……?」
(兄さんそれは一体どういうことです?)
「言うな、桂。多希ちゃんが可愛すぎる表情を見せたのが俺ではなく桂だった、くそ、桂め……なんて思っているだけだから」
「そうなんですね?——」
仮面の下が見え隠れしながらも、わいわいと夜は更けていく。
***
「多希さん、少し手伝っていただけますか?」
(また来た……。周りからの視線、気づいてます?)
翌日の昼休み、2年A組にて多希は選択を迫られていた。
先ほどまで受けていた授業の片付けを手伝うか、手伝わないかという単純な2択問題である。とある問題点がなければ、即座に引き受けていたことだろう。
その相手が桂でなければ、優等生として喜んでやっていた。
桂に手伝いを頼まれたり呼び出されたりするのが数日に一度ほどであればまだ良かった。が、実際のところ、毎日のように手伝いを頼まれたり呼び出されたりしている。
ここで手伝いを断ってしまったら、優等生としてのイメージが壊れるだろう。そして確実に「糸井先生のお願いを断るなんて」と、他の生徒から批判を買う。
逆に手伝う選択をすると、イメージは守られるが、「どうして多希ばかり」と言われてしまう。
(本当にどうすれば……)
どちらにしても損をするのなら、失うものが少ない方が良い。そう考えて手伝う選択をするまでがここ数日の流れである。
「もちろんです。何をすればいいですか?」
「ありがとうございます。ではこれを国語準備室までお願いします」
「分かりました」
示されたのは3冊の国語辞典、1冊1キロくらいはありそうだ。力を込めて持ち上げると桂から、行きましょうか、と言われる。彼は軽々と6冊の辞典を持っていた。
クラスメイトがぐさぐさと刺してくる視線には気づかないふりをして、多希は教室を出る。背中の方で「糸井先生から離れてよ」と誰かが呟く。
斜め前を歩く桂は相変わらず完璧な笑顔でいる。前を向いている彼の目の奥底は見えない。
(先生、絶対気づいてますよね? それなのにどうして私に構うんですか?)
口に出していない問いに答えが返ってくるわけがなかった。
「……いつでも頼ってくれて良いんですからね、多希」
昼休みの喧騒にさらわれて、桂の言葉は聞き取れない。
「何か言いましたか?」
「いえ、何でもないですよ」
笑顔は崩さぬままこちらに顔を向けた彼の瞳の奥には、どうしてか喜色が見えた。
また新たな週が始まった。
相変わらずクラスメイトからは遠巻きにされ、嫌われている。友達なんてもの、もうできはしないだろう。
「それではホームルームを終わります。気をつけて帰ってくださいね。ありがとうございました」
担任である桂の挨拶に、多希たちはありがとうございましたと返す。教卓の前に立つ彼は、微笑み、頷いてから黒いクリップボードの確認を始めた。
それを一瞥し、多希は教科書とノートをカバンに詰め込んだ。
(やっぱり国語準備室行かなきゃだよね……)
数日前、何も言われなかったのをいいことに一度だけそのまま帰ったことがある。その後に桂から極寒の瞳で窘められ、もう二度と勝手に帰らないと決めたばかり。
だが、すでにその決断は揺らぎ始めている。放課後に国語準備室へ行っていることをクラスメイトから隠し通せるはずがなかった。
「あなた帰宅部なのよね? 今から用事なんてないわよね?」
ぱっと顔を上げると机の前で仁王立ちしている千代と目が合う。
(今日も来た……)
全く笑えないが、多希は笑顔の仮面を被った。
話しかけてきた彼女を中心に、4人のクラスメイトから囲まれる。
「……着いてきて」
その言葉から逃げることなんてできなかった。
千代たちが向かった先は、人気の少ない校舎裏。校舎の影になっているここは日が当たらず、湿気が多い。冷えた足元から体温が奪われる。
心地が良くない場所で、多希の心臓はばくばくと主張を強めている。ここにいてはいけないと警告しているようだ。
4人対1人、じろりと敵意を向けられ、無言の時間は過ぎる。びゅうと風が吹いた。
「ねぇ、多希さん。毎日放課後に糸井先生のもとへ行っているって本当?」
桂とは違う冷たさのある声で、千代に訊かれる。訊くという体だが、千代たちは確信を持っているだろう。でなければわざわざこんなところまで連れてきていないはず。
嘘をついても本当だと言っても、どちらにしても詰んでいる。ならばここで嘘をつくメリットはない。
「……本当です」
そう伝えた瞬間、千代の左にいた女子が手を伸ばしてくる。彼女は怒りに染まり、何かを叫んでいた。
その様子はやけにゆっくりで、世界がスローモーションになったようで。バランスを崩した体は何もできず、ただ水色の空が見える。
どさっ、と後ろに倒れ込んだ時、多希は突き飛ばされたと理解した。
(……え)
「ひゅっ」
心臓が暴れる。気道が狭くなる。酸素が足りない。
校舎裏、多希よりも体の大きい人に突き飛ばされる。その人も彼に従うクラスメイトも、誰も助けてはくれない。やめてと叫んでもにやにやと嗤われて、痛いと叫んでも暴力の雨は止まず。
力も言葉も何もかもが敵わない。9年前の記憶が蘇る。
目の前にいるクラスメイトたちが慌てたように何かを口走っているが、限界を叫ぶ心音に邪魔をされて何も聞こえない。
ふと、誰かの手が伸びてくる。
「ひっ……!?」
(嫌、殴らないで……!)
どれくらいそうしていたのだろうか。ぎゅっと瞑った目を開けた時には、もう誰もいなかった。
「行か、ないと」
朦朧とする世界に呟く。心臓も呼吸もいつも通り、大丈夫だと自分自身に暗示をかける。
「……行かないと」
(秘密基地に行ったらきっと、兄さんが待っててくれる)
(いつもみたいにあったかい手で頭を撫でてくれる)
(あの低い声で多希って呼んでくれる)
目の前を覆っていたもやが晴れる。多希は国語準備室の前に立っていた。
(そ、っか。あの時とは違う、か……)
9年前の「兄さん」はいないのだと、心の拠り所となってくれた彼はいないのだと、冷え切った手を握りしめる。
何の前触れもなく開いた引き戸から、不思議そうな表情をした黒髪黒目の背の高い男性が出てきた。その瞳の奥底はやはり冷たい。
「多希さん? 入らないのですか?」
(兄さん……)
目の前の彼と9年前の彼は違うのに、黒いスーツに身を包んだ「兄さん」と高校の制服を着た「兄さん」が重なる。多希は、違う人だと、助けてくれる人ではないと、心の中で首を振った。
「……多希さん? どうぞ?」
「あ、……はい。失礼します」
促されるまま、多希は国語準備室に入った。閉められる引き戸の音、ひんやりとした空気、紙の匂い、椅子を用意する桂の姿……。何もかもが遠い。
(私、笑えてるかな)
ふと意識してみた笑顔の仮面は、元の形が分からないほどに崩れている。多希の表情に色彩はなくなっていた。
「さて、今日はどうでしたか?」
多希が用意された折りたたみ式の椅子に腰掛けると、その正面に座った桂は話し出す。
国語準備室に来るのが遅れた理由でもなく、多希の様子がおかしい理由でもなく、テンプレートと化しているこの質問をされたのには何か理由があるのだろうか。
一瞬過った考えに、彼女は苦笑した。曲がりなりにも担任であり義兄であるこの人にどれだけ警戒しているのか、と。
「何か苦笑するようなことでもありましたか?」
目の奥底に冷たさを湛え、完璧な笑顔で桂は問う。
「……いえ、特にないです。変わりのない1日でした」
「そうですか」
目を逸らして答えた多希に、桂はそれだけを答えた。先ほどまでの出来事が変わりないわけがない。だがこれを話してしまったら、彼は動かざるを得なくなるだろう。
(また何か言われるのなんて嫌だ……)
あの出来事を知るのはあの場にいた5人だけ。手を出した側の千代たちがこのことを誰かに話すわけがない。桂に伝わってしまえば自ずと多希が話したと特定される。
助けを求めたことがバレた時、どうなるのか。どうなったのか……。9年前の恐怖を思い出し、震えが体を走る。
すると桂は後ろの棚からひざ掛けを取り出した。
「寒いのならこれを使ってください」
「……ありがとうございます」
寒くて身震いをしたわけではないが、冷えているのは確か。受け取ったひざ掛けは触り心地が良く、暖かい。
ほっと一息ついた多希に桂は微笑む。
「では、何か困ったことなどはありませんか?」
彼はゆっくりと瞬きをして、瞳に鋭い光を宿らせた。国語準備室を支配する空気が張り詰める。首、肩、腕、足、腹……、体のあちこちに力が入る。
「……特にありません」
全てを見透かされそうな瞳から目を逸らした。視界の端で桂が笑みを深める。
(もうさっさと帰ろう)
「本当に、ないんですか?」
(え……?)
「新宮千代さんたちに何かされたのではないですか?」
「っ!?」
(どうしてそれを!? いや、先生のことだから把握してない方がおかしいかもしれないけど。でもどうして今日聞くの……?)
笑顔の仮面が外れた状態の感情が出やすい多希、桂からしてみればこれ以上分かりやすいものはない。
じっとこちらを見ている漆黒の瞳から右往左往と視線を逃す。完璧な笑顔は変わらない。
「多希さん? どうなんですか?」
悪いことをした子どもに言い聞かせるような声色は多希を震えさせるのには十分なものだった。ひとことひとことに込められた感情は大きく、言外に「絶対に逃がさない」と言われている。
(絶対に、言いませんからね。……もうこれ以上いじめられたくない)
桂は、はぁ、とわざとらしくため息を吐く。
(いつも完璧な先生がため息なんて……)
気になって視線を向けてしまったのがいけなかった。鋭い光を全面に押し出した瞳と目が合う。彼はもう完璧な笑顔なんて浮かべていない。
刺々しく、荒々しく、桂は嗤っていた。見たことのない表情に多希の思考は止まる。
「せんせ、い……?」
「新宮千代たちに何かされたんだろう?」
低く唸るようなそれは形だけの問い。嘘もだんまりも通じない鋭い光を宿した瞳に囚われた。目を逸らせない、逸らすことを許してもらえない。
(もういいかな……、もう吐き出したい……)
「……突き飛ばされました」
気づけばそう口走っていた。
彼の表情はみるみるうちに歪んでいく。
(あ、……言っちゃった)
目が熱くなる。視界が歪む。許容量を過ぎた涙がぽろぽろと溢れ出す。
(怖い……、どうしよう。……怖い。……どうしたらいい? 私はどうすれば?)
桂に黒いハンカチで流れる涙を拭われる。こちらへ伸ばされたその手は不思議と怖くない。そっと頭に乗せられた手は大きくて温かくて、冷え切った心と体にじんわりと温度をくれる。
その真綿で包むような撫で方は9年前の「兄さん」とそっくりだ。
(——もういっそのこと、桂兄さんがあの時の兄さんだったらいいのに)
しばらくして、落ち着きを取り戻した多希はふぅ、と息を吐く。笑顔の仮面は崩れたままだが、その表情には色彩があった。
「落ち着いたか?」
「はい、おかげさまで」
鼻声になっている多希にふっと笑いながらも優しく頭を撫でてくれる彼が、完璧な笑顔を浮かべていた彼と同一人物。
(分かるけど、分からない……)
口調も、声の出し方も、表情も変わっている。唯一変わっていないところは仕草くらいだろう。今の桂は、瞳の奥底に見えた冷たさの正体なのかもしれない。だが、不思議と違和感はなかった。
「一つ、新宮千代たちに対して考えがある」
「考えですか?」
「ああ。……だが、今日はもう帰れ。帰って休め」
だるい体、泣き腫らした目、すり減った心。多希は自分が疲れていることに言われて初めて気づく。
(確かに、もう限界かも)
「そうします」
「一人で帰れるな?」
「大丈夫です、帰れます」
失礼します、と国語準備室から出る。引き戸を閉める寸前、桂の呟きが聞こえた。
「手を出すとはいささか想定外か」
(想定外? もしかして先生は私がいじめられるように……、いや、やめておこう)
廊下の窓から見える空は茜色に染まっていた。
(変わらない……)
教壇に立ち、おはようございますと挨拶する桂は普段と何も変わらない。朝日に照らされ、完璧な笑顔を浮かべる姿は絵画のよう。その瞳の奥底は冷たい。
昨日の出来事が、刺々しさ溢れる彼が夢だったのではないかと思うほどに変わっていないのだ。
が、校舎裏で突き飛ばしてきたあの4人組はちらちらと多希に視線を向けている。この状況が昨日あったことは現実だと告げている。
内心どぎまぎしながらも多希は微笑む。形を忘れていた仮面は元に戻り、何もなかったように着席している。ホームルームが進む中、彼女は思考の海に入っていた。
(先生が言ってた考えって何だろう。……本当に、何だろう)
桂の企むように嗤う姿が目に浮かび、びくりと体を震わせる。その時、彼の鋭い視線が多希を射抜く。嘘や隠し事が通じないその瞳は、突然震えた多希を案じていた。
(変わってる……)
変わっていない、なんてことはなかった。一瞬だけ、彼の表情から完璧な笑顔が消える。多希はわずかに目を見張る。普段であれば桂がこれほど分かりやすく感情を出すはずがない。
それに気づいた者は多希以外にも3人いた。昨日多希を取り囲んだうちの3人、千代以外の3人は、動かなくなったり、ぷるぷると震え出したり、気のせいかと二度見をしていたり。その反応は三者三様だ。
(先生のことだから、あの3人だけが気づくようにしてたり……? まさか、ね?)
朝のホームルームが終わり、授業が始まり、昼休みが過ぎ……、呆気ないほど何もなく、気づけば放課後の時間。
(久しぶりにこんな平和な1日だったかも……。このまま穏やかに終わってくれないかな)
そうも都合よくいかないのが現実というものだ。つかつかと近づいてくる足音は多希の机の前で止まる。
「多希さん、着いてきて」
絞り出すように言った千代は、必死の形相をしている。その表情は溢れ出しそうな感情を堪えるようにぎゅっと力が入っていた。
普段であればその横にいるはずの3人は、教室の引き戸のそばからこちらを窺っている。昨日とは対照的な不安気な表情を隠せていない。
(え……、何かあったの?)
桂が何かをしたのかもしれない、過った考えを確かめるにも、当の本人の姿はこの教室に見えない。
「……着いてきて!」
びくりと多希の体は震える。
しびれを切らし、突然大声を出した千代にクラス内の視線は集まった。
(大丈夫、……大丈夫だから。あの時とは違う)
「分か、りました」
多希は、かろうじて外れていなかった笑顔の仮面を被り直し、震える左手を右手で掴む。ぎこちなく立ち上がり、椅子を机に入れ、早足な千代を追いかけた。
「千代ちゃん! さすがにまずいって」
「そうだよ、やめておこう?」
「ほら、糸井先生に言われたでしょ?」
教室を出る直前、引き戸のそばにいる3人に止められる。顔色が悪い彼女らの言葉に千代は何も返さない。
無言で教室を出た彼女に、多希は着いていくしかなかった。
(先生が何かしたんですか? どこに行くんですか?)
そう訊ける雰囲気ではない。多希はただ、同世代にしては小さめの背中を追いかける。
無言ですたすたと廊下を歩く二人に、周りの生徒たちは珍しいものを見るひしひしとした視線を向ける。その中から、一つ、刺さるような視線を感じた。
千代が足を止めたのは、3階と2階を繋げる階段の踊り場。ここは校舎の端にあり、放課後の時間帯は滅多に人が通らない。
背中を向けていた彼女はこちらに振り返った。同時に手が伸びてくる。
「っ!?」
多希は肩を押され、一歩後ろによろめく。ばくばくと鳴る心臓を慌てて宥める。
(大丈夫。今は9年前じゃない、ここは校舎裏じゃない。相手に何もかもが敵わないわけじゃない。大丈夫。……大丈夫)
狭まり始めた気道が苦しくて、浅い呼吸を繰り返す。
目の前の千代は泣いていた。ぐちゃぐちゃな表情をしていた。
「どうして? どうしてなの? ねぇ、あなたばかり。あなたのせいであたしは糸井先生に嫌われたの!」
千代が一歩近づく。火山のように溢れ出す感情は止まることを知らない。
多希は一歩下がる。冷や汗が背を伝う。冷たくなった手が震える。
(怖い、……怖い。千代さんは私のせいでこんなにも)
「いじめはよくないですねって怒られた! 失望された! 絶対に嫌われた! 糸井先生から怒られたことなんてなかったのに、あんなに冷たい目で見られたことなんてなかったのに、今までみんなに平等でみんなに優しかったのに……。転入生で義妹だからってあなたばかり。あたしは、ただ、それは良くないと思って注意していただけなのに……!」
また一歩近づく。茶色がかった髪が言葉と共に揺れる。怒りと悲しみと無力感に支配される。
また一歩下がる。心臓がこれ以上ないくらいに動く。酸素が足りない。
(私、私のせい……、え、あ……、どうすれば)
「憧れの糸井先生に嫌われたの! 全部、……ぜんぶ、あなたのせいよ!」
また一歩近づく。思い切り突き飛ばす。
また一歩下がる。肩を押される。重心が後ろに傾く。
「……ぁ」
あるはずの地面がなかった。多希の足は宙を踏む。
こちらへ伸ばされた手を掴もうとするが、数センチのところで届かない。汚れひとつない壁が、天井が過ぎていく。ふわりと体が投げ出される。
(たすけて)
頭に浮かんだのは一人の男性。まっすぐな黒髪はセットされており、漆黒の瞳は鋭い光を宿す。高校の制服を纏った彼も、真っ黒なスーツを纏った彼も、これでもかと整った顔を歪め、嗤う。
(……落ちる)
多希はぎゅっと目を瞑った。
どさっ、と衝撃を感じた背中は予想に反して温かい。近くにある自分のものではない心臓はどくどくと早鐘を打っている。
おそるおそる目を開けた多希は、階段の真ん中辺りで黒い手袋を嵌めた人に抱き抱えられていた。
(助かった?)
「……大丈夫ですか、多希?」
耳の近くから聞こえてきたのは、心地よい低音の声。顔を上げると、荒く呼吸をする桂と目が合った。
「にいさ、ん」
「はい」
桂は相変わらずの完璧な笑顔を浮かべている。その瞳の奥底にはいつもの冷たさと同時に安堵が見えた。
(たすかった? たすけてくれた?)
「にぃさん……、兄さん」
「はい、そうですよ」
(どうして、ここに……?)
「怪我はありませんか?」
微笑む桂から、疑問を口に出す暇は与えられなかった。
優しい声はこの状況が現実だと知らせてくる。階段から落ちた後に見ている幻覚などではなく、現実だ。
全身に意識を巡らせてみるが痛みは感じない。
「大丈夫、だと思います」
「それはよかった……、一人で立てますか?」
ふぅと息をついた桂の手を借りながら、ゆっくりと立つ。千代がいる階段の踊り場まで歩みを進める。
千代は見ているこちらが心配になる程真っ青な顔をしていた。
「多希、少し待っていてくださいね」
(待っていてって何を……?)
多希の返事も聞かず、桂は千代の目の前に移動した。顔面蒼白な彼女の耳元へずいっと近づき、口を開く。
「これ以上俺の多希に何かしてみろ。俺はお前を許さない」
低く、鋭く、温度がない。自分に向かって言われたわけではない多希も震えてしまうほどの怒り。その表情は見えない。だが、「完璧な笑顔を浮かべる桂」がしない表情をしていることは確かだろう。
数センチの距離で言われた千代は、声にならない悲鳴を上げ、その場に座り込んだ。
(『俺の』って、違いますけど。なんて言ってもあの時みたいに『俺のだが?』って返されるんだろうな。……あの時?)
彼女と違い、多希は震えながらも思考に意識を飛ばしていた。
桂は千代から一歩離れ、すぐさま完璧な笑顔を浮かべる。
「では、さようなら。新宮千代さん。気をつけて帰ってくださいね」
彼はホームルームの時のように穏やかに告げる。千代は慌てて立ち上がり、こちらを見ようともせず走り去った。
その背は、多希の瞳にやけに小さく映った。
忙しい足音が聞こえなくなり、階段の踊り場に静寂が訪れる。こちらを振り向いた桂はその整った顔から完璧な笑顔を消す。
(あれ、兄さんってこんなに背が高かったっけ?)
多希は冷たさを感じ、足元に視線をやった。気づいた時にはもう、その場にべったりと座り込んでいた。立ちあがろうにも上手く力が入らない。
すたすたとこちらに来た桂は膝をつき、多希に目の高さを合わせる。黒い手袋をつけた手でさらりと頬を撫でられた。
(あの……? くすぐったいです)
そう言おうにも口が動かない。表情筋が機能を失っている。
「立てるか?」
刺々しく、怒りが滲んでいる桂の声に、先ほどまでの分かりやすい心配はない。その怒りの矛先は千代に向けられているのだろうか。
もう一度チャレンジしてみるが、やはり力は入らない。
多希はふるふると首を振る。
「そうか。……行くぞ」
(え?)
立てないのにどうやってと考える前、もう一歩近づいてきた桂に補助され立たされる。体が上がったと思ったら、背中と膝裏で抱え直された。
突然の浮遊感に驚き、近くにあったものに抱きつく。すると真横から、ふっ、と笑い声がした。
「そのまま抱きついておけよ?」
「……ぇ?」
多希が抱きついたもの、それは桂の首だった。顔が熱くなり、ぱくぱくと口を動かす。
(この状況ってどう考えても……え? これ、いわゆるお姫様抱っこだよね? どうして? あ、私が立てないからか。でも他にもやりようありましたよね?)
心の中でぐちぐちと言っている間にも、多希を抱えた桂はすたすたと階段をおりていく。危なげがないどころか、安定感が抜群だ。
放課後の時間、生徒は部活動に行ったり帰ったりしているおかげか、誰ともすれ違うことはない。職員室の前にある焦茶色のベンチに降ろされる。
「少し待ってろ」
桂はぶっきらぼうに言い、完璧な笑顔に切り替えて職員室へ入っていく。
(切り替えが早すぎる……)
数分後、黒い手提げカバンを持った彼は、校長を連れて職員室から出てきた。校長は気遣わし気な表情をして、こちらへ歩いてくる。
「多希さん、糸井先生から事情は聞きました。大丈夫……ではないと思いますので、ゆっくり休んでください。私も他の先生も、困った時など、いつでもお話を聴きますからね」
座っている多希に目線を合わせ、校長は言う。多希はぺこりと頭を下げ、感謝を伝えた。
校長が職員室に戻ると、隙のない笑顔を浮かべる桂が近づいてくる。その後ろからいくつか心配の視線が向けられていた。
(……なるほど)
桂の刺々しい姿はそう易々と明かしているものではないようだ。同僚の教師にもそれは変わらない。
「さあ、帰りましょうか」
黒い手袋が似合うすらりとした手を差し伸べられる。
声色は多希を気遣っているようだが、漆黒の瞳は手を取れと言わんばかりに冷たく光っていた。
(兄さ……先生の手を取らない選択肢なんてないのに)
散々「兄さん」と呼んでいたが、ここは学校。一応「先生」と心の中で言い直した。
この学校で多希に手を差し伸べる人はただ一人、桂だけ。他の人は皆、手を振り払うか、他人事として傍観するのみ。
多希は差し出された左手に迷うことなく右手を重ねた。
「——お邪魔します」
「ああ」
教室に置いていた多希のカバンを回収した後、桂に連れてこられたのは、雪椿学園高校から車でおよそ15分のところにあるマンションの一室。桂の家だ。
ダークブラウンのフローリングに白とアッシュグレーの壁。家具は黒、グレー、白でまとめられており、ほこりひとつ見当たらない。一人暮らしをするには少し広めの部屋は隅々まで整っている。
(帰るってそういうことだったんですか!? 確かに兄さんからしてみれば帰ってますけど……? これは、……大丈夫な状況ですか?)
多希は、案内されたソファーに浅く腰掛ける。徐々に回復してきた笑顔の仮面をつけながらも、これ以上ないほどに混乱していた。だんだんと力が入るようになってきた体と表情は強張っている。
ジャケットを脱ぎ、手袋を取った桂は、黒い棚から両手に乗る大きさの箱を持ってきた。多希の足元にそれを置き、彼自身も膝をついて座る。
「……あの?」
「右足首、怪我しているだろう?」
言われたところに意識をやると、確かにずきずきとした痛みがあった。
「本当だ……」
「歩き方がおかしかったからな」
どうして分かったのか、口に出していない多希の疑問に簡潔に答え、右足の靴下を脱がされる。慌てて止めるが彼は何も言わない。足を引っ込めようにもその手で固定されている。
(これ何言ってもダメなやつだ……)
抵抗を諦めた多希はされるがままだ。桂は立ち上がり、キッチンの冷凍庫から氷嚢を持ってくる。そしてそっと患部に当てた。
じんわりと熱を持っていた足首が冷やされていく。
落ち着いて考えてみると疑問だらけのこの状況。しばらく視線をうろつかせた後、多希は黙々と処置を続けていく桂に向けて口を開いた。
「あの、兄さん」
「ん、なんだ?」
ふっと顔を上げた桂と視線が合う。その瞳には不安気な表情をした多希が映っている。
「この状況って大丈夫なんでしょうか?」
(とても大丈夫じゃない気がする……)
桂が昨日言っていた考え、なぜ階段から落ちかけた多希を助けることができたのか、突然変わった彼の様子……、聞きたいことはいくつもある。多希はその中でも聞きやすいことを選んだ。
真剣な様子の多希に一瞬目を見張った桂は、ふっと嗤って言う。
「逆に聞くが、お前にとって俺はどういう立場の人間だ?」
(どういう立場って、そんなの……)
「担任の先生で義理の兄ですけど……あ」
「そういうことだ」
ただの担任であれば大問題だが、義理とはいえれっきとした家族。家族の家に行くのに何の問題があるだろうか。ぐうの音も出ない正論に多希は頷くしかない。
再びの沈黙に支配される前に彼女は口を開く。
「もう一つ聞くんですけど、昨日言っていた考えって何だったんですか? 千代さん、私が突き飛ばされたと兄さんに言ったことを知ってたような口ぶりだったんですが」
「それはそうだろう。新宮千代たちには分かりやすく言ったらからな。だがまさかあそこまでやるとは、これも想定外だ」
分かりやすく、と言った桂の声を聞いてぞくりと肌が粟立つ。表情は何も変わらなかったが、その瞬間だけ強い怒りが込められていた。
(千代さんたち、兄さんから何言われたの? ……考えないほうがいいか)
その部分についての思考を放棄した多希は、ふとした疑問を口に出す。
「……私が階段から落ちてたらどうするつもりだったんですか?」
「それはありえない。目を離さないようにしていたからな」
(それって監視というものでは)
認めてしまったら何も信じられなくなる、多希はすぐさま首を振って否定した。
もしも見失っていたら、目を離していたら……、一瞬過った考えは目の前の桂を見て消え失せる。彼がそんな失敗をするわけがないのだ。
桂が手を離した足首は綺麗に包帯で固定されていた。彼は、使った包帯の残りとはさみを箱に戻し、多希の隣に腰掛ける。その重さでソファーは少し沈んだ。
ゆっくりと伸びてきた手は多希の頭に着地する。リズムよく優しく撫でられる感覚は9年前の「兄さん」そっくり。
ちらりと表情を窺った桂は静かに笑っていた。その瞳の奥底には穏やかな光がある。
(そっ、か。兄さん、こっちが素の姿なんだ)
完璧な笑顔を浮かべている姿はいわゆる外面だろう。目の奥底が冷たく、感情が見えないのは素の姿を隠しているから。
そう考えついた時、すっと記憶が落ちてくる。
「兄さんってもしかして……」
ぽろりと口に出た言葉に、桂は笑う、くつくつと声を上げて笑う。
「お前を傷つけていいのは俺だけで癒していいのも俺だけだ」
高校の制服を着た彼と、目の前の黒いシャツを着て楕円形のメガネをかけた彼。その表情と声が重なる。
年齢、纏うもの、髪型……、変化したものは多いが、9年前、「兄さん」が言ったことと一言一句同じだ。
「俺が素を明かすのはこれまでもこれからもお前だけだ、多希。まあ、一部例外はあるがな? だが、全てはお前を守るためだな」
「どうして、そこまで……?」
(私、兄さんからそこまで言われるようなことしたかな)
「なんだ、それも覚えていないのか。初めて会った時、俺に言っただろ? 『無理して笑わなくて良いんだ』って」
「……っ!」
9年前、秘密基地で出会った目だけが笑っていない「兄さん」、多希の代わりに怒ってくれた「兄さん」、ぶっきらぼうだけど優しく怪我の手当てをしてくれた「兄さん」……。
堰き止めていた川の水が溢れ出すように、「兄さん」との記憶が脳裏を巡る。
(どうして忘れてたの? あの時、ずたずただった私の心を助けてくれたのは桂兄さんなのに)
握り締めた手はくすんだ赤のジャンバースカートにしわを作る。それをそっと解いたのは温かい彼の手だった。
「聞いてなかったか? お前を傷つけていいのは俺だけで癒していいのも俺だけだ。たとえお前自身であっても、傷つけるのは許さない」
瞳の奥底から微笑んでいる桂が、じわりとぼやける。瞬きをすると温かいものが頬を伝った。
泣くな、と涙を拭われる。その手はどうしようもないほどに優しい。
(言ってること、めちゃくちゃなのにな)
体に入った余計な力が抜けていく。多希は笑って言った。
「9年前も、今も、助けてくれてありがとうございます。桂兄さんがいなかったら、きっと、私はここにいませんから。……だから、ありがとうございます」
「当然だ。お前は俺の唯一だからな。誰にも渡さない俺の多希。……誰にも見せたくない俺だけの多希」
そう言って、桂は嗤う、整った顔を歪ませて嗤う。
その冷たく光る感情が見えない瞳に多希は笑いかけた。
(——全てが仕組まれていたものだとしても、それでも、私には兄さんしかいないんだから)
【end.】