昼休み明け、5限目。美術の授業にて。
美術室では名簿順になるので、さっき羽川先生───もとい羽川が言った秋山さんと毎回隣の席だ。
羽川が言ったように、僕は今日午前中から調子が優れなかった。理由は明白で、毎朝飲んでいる牛乳を飲めなかったからだ。日々のルーティーンを壊されるとひどくストレスを感じてしまう。この過敏さは昔から治らない。
「今日の授業は友人の絵を描いてもらいます。所謂”似顔絵”ですね。夏休みに入る前に完成させてください」
年老いたおばさんの美術教師は大きな黒板に『似顔絵』と書く。
友人。それが一番難しい。
「好きな人とペアになって、と言いたいところですが、今回は隣の席でペアを組むことにしましょうか。普段中々相手の顔を見ることもないでしょう。じっくりとよく観察して描いてみてください」
自分たちでペアを作って下さい、と言われるより随分マシだ。友人と呼べる人が殆どいない僕にとっては。
けれどこれでは、羽川に言われたことと同じになってしまった。まるで僕と秋山さんがペアになることを事前に知っていたような口ぶりを思い出していらいらする。『ペアにならない方がいい』なんて言ったって、これじゃ回避する術がない。
羽川が本当に予知夢を見ているとして。それはひどく断片的なものではないかと思う。事実、今現在秋山さん以外とペアを組む選択はできそうにない。
逆に言えば、秋山さんとペアになれば羽川の予知夢が信頼できるものか再度確認出来るともいえる。
友人が多くクラスのカースト上位である秋山さんからすれば、僕とペアになるのは少々不満だと思うけれど。彼女とペアになって何が起るのかは僕も気になるところだ。
「あーあ、最悪、わたしミカと組みたかったのに」
「……」
美術の授業は週1回。火曜日の5.6限目。連続2時間だ。美術教師の南先生は、5限目で鉛筆下書き、6限目で色を塗るように、と指示をした。
◆
秋山さんの容姿はひどく整っている。大きな二重の眼に小さな顎。胸下まであるストレートの艶髪に陶器のような肌。明るい彼女の性格はもちろんだけれど、この容姿もクラスメイトを惹きつけるひとつの要因なのだろう。スカートのポケットから垂れるスマホのキーホルダーや、蛙と猫のシールが貼られたペンケースから少しだけ秋山さんの特性が見える気がした。蛙と猫って、変な組み合わせだ。
鉛筆での下書きを殆ど終えて、6限目に差し掛かった頃。僕に見向きもせず友人と駄弁っていた秋山さんが、怪訝そうに詰め寄ってきた。
「あのさあ、赤坂」
「……何?」
「じろじろ見るなよ、気持ち悪い」
突然のことで驚いた。僕は美術の課題に集中していただけなのに、こんな言われようはあんまりだ。
けれど冷静さを欠いたら負けだと思った。秋山さんに逆らうべきじゃない。
「……気分を害したならごめん。でも、美術課題だから仕方ない。他意はないよ」
「だとしても、あんたの視線キモいんだよね。なんかこう、ねっとりしてるっていうかさ」
「そう言われても、」
「ていうかこんなの適当に描けば。アンタに描かれるの、嫌なんだけど」
「わかった、もう下書き終わったし、色つけは適当にやるよ」
こっちだって、見たくて見ているわけじゃない。自意識過剰だろ。ふざけんな。
けれどそんな気持ちを吐露するのは得策じゃない。秋山さんはこのクラスの絶対君主だ。
下書きの時点で確かに秋山さんのことを凝視していたかもしれない。絵を描くことはどちらかというと得意分野なので、後先考えず没頭してしまっていた。
この先はもう色を付けるだけだ。秋山さんの実物を目で追わなくても大体の色合いは想像で描ける。
焦げ茶の髪に紺色のセーラー服。肌色はひとよりも幾分か白い。頬は少し赤らんでいて、唇は……どんな色だっただろう。
想像の中で描いていく秋山さんと、夕方の美術室で見る秋山さんは色が変わって見えるはずだ。何故か好奇心のような、或いは悪戯な気持ちが高ぶる。今朝、牛乳を飲まなかったせいかもしれない。ずっと調子が悪くていらいらしている。この気持ちの落とし所がわからない。
僕はわざとじっとりと彼女を見つめた。昼過ぎの光があたる彼女の髪や頬を一概に“茶色”や“赤色”で表現したくない。
栗のようにこっくりとした深い茶色に、光が当たる部分はひどく艶やかで艶めかしい。肌はほんのりピンクがかっていて、乳白色よりももっとぬるりとした質感を放っている。セーラー服の紺色は想像よりもずっと鮮やかで───
「だからさ、きもいって言ってんじゃん」
ばしゃ、と。
一瞬なにが起きたのかわからなかった。途中まで色を重ねていた僕のキャンバスに、秋山さんがひどく鮮やかな赤色をぶちまけた音だった。
「何度も言わせんなよ、あんたのその目、気持ち悪いんだって」
気持ち悪い。
さっきも言われた言葉が急に熱を帯びて降ってくる。
確かに今回は、秋山さんが言うように、じっとりと彼女を見ていたかもしれない。当てつけのように。
けれど決して、邪な視線ではない。
ただ、そんなことが他人に図れるはずもない。
はっと気を戻すと、クラスメイトたちが一斉に僕を見つめていた。その冷めた視線に思わず息をのむ。
秋山さんはこのクラスの絶対君主だ。
赤く染まったキャンバスから、自身が描いた秋山さんの視線が僕をひどく鋭く射抜いているようで思わずこぶしを握る。
『午後の美術の授業は気をつけてください。隣の席の秋山さんとは、ペアにならない方がいいかもしれません。若しくは、彼女の絵の具とは距離をとって下さい。物理的に、若しくは精神的に、彼女はきみを傷つけるかもしれない』
ほらね、だから言ったじゃないですか、と。羽川がどこかで笑った気がした。
次の日、12時昼休み。
僕はどうしてかまた生物化学準備室を訪れていた。
昨日と同じように、入口に背を向けて座っていた羽川先生が、扉が開いた音に反応してゆっくりと振り返る。
「赤坂くん。もう口を聞いてくれないんじゃないかと思いました」
相変わらず表情は穏やかで、口調はやけに丁寧だ。
「今日もここへやってきたということは、僕の話を信じたくなりましたか?」
羽川先生はにこりと笑う。昨日僕が座っていたパイプ椅子はそのままだ。まるでそこに座りなさいとでも言われているようだ。
「信じているとか、そういう話じゃないです。ただ、羽川先生の言うとおりになったのが、気に食わないだけ」
「そうですか、信用を得るのは中々難しいようですね。特にきみは警戒心が強いようですし」
信じているかいないかといえば、前者だ。牛乳に始まり、地震のことも、秋山さんのことも言い当てた。先に未来を知っていたとしか言いようがない。流石にこの奇妙な事実を信じるしかない状況にある。
けれど、もし本当にそうであるのならば、羽川が言った7月15日、僕は死ぬことになる。それはひどく信じがたい、いや、信じたくないことだ。
「赤坂くん、きみは警戒心が強くひどく思慮深い。頭のいいきみは僕の話がほぼ100%の確立で事実だとわかっているはずです」
「だとしたら、羽川先生、僕の死因はなんですか。いつ、どうやって、死ぬんですか。そしてあなたの予知夢とやらは、事前に知った未来を変えられますか」
我ながら必死に言葉があふれて気持ちが悪い。明日死ぬなんて想像できない。死にたくない。
「……そうですね、その話をする前に、もうひとつきみについて話をしましょう」
何故素直に応えてくれないのか。僕の死因がわかっていて『監視させてくれ』だなんて頼むのなら、なにか打開策があるんじゃないのか。
まだ何かあるのか─────
「きみ、カンニングしていますね」
「……は?」
「世界史の小テストですよ、今日の2限目でしょうか。優秀なきみが珍しいですね。昨日の秋山さんとの一件と、奇妙な僕のことを考えていて予習ができなかった、といった所でしょうか?」
「なにを、馬鹿な事」
「赤坂くん、きみは外見や外面を取り繕うのが下手なくせにひどくプライドが高い。賢く効率的に物事をこなすように見えてあまりに打算的だ。きみは自身の正の為なら手段を選ばない性分です。例え小テストであれ、普段より大きく成績を下げることを、きみはきみ自身でゆるせないでしょう」
「何言ってんだよ、」
「すみません、今の分析はすべて僕の主観でしたね。けれどカンニングしたことは僕が昨日見た夢の中での話です。つまりこれが予知夢かどうか、きみ自身がいちばんよくわかっているはず。さて、現実はどうでしたか?」
羽川の表情はかわらない。あまりにやさしくゆるやかに微笑んでいる。
まるで、僕のことは何でもお見通しだとでもいうように。
「沈黙は肯定と同義です。どうやら僕の予知夢は当たっていたようですね。その様子だと、今までも何度か同じ行為をしたことがあるのではないですか?」
「……」
「赤坂くん、きみのズボンの右ポケットに小さく折り畳まれたカンニング用紙が入っているはずです。よかったら見せて貰えますか」
指先が震えるのがわかった。咄嗟に右ポケットを抑えると、羽川は満足そうににこりと笑う。
「筆跡から見て赤坂くんのものだと言う証拠には十分でしょうね」
さあこちらに、見せてください、やっぱりそうですね、これは僕が預かっておきます。赤坂くん、きみは大人の言うことを聞くことが苦手なようですから。淡々と降ってくる言葉を頭で噛み砕こうとしてもうまくいかない。頭痛がする。
「何故でしょうか、きみの悪事ばかり夢に見るんです。ああ、そんなに怖い顔をしないでください。大丈夫ですよ、きみが今後そのようなことをしないと誓ってくれるのなら、今回のことは誰にも言いません。大事な生徒ですから、将来を無碍にするようなことはしません。それに僕は、明日きみを死なせもしません」
羽川の表情はずっと変わらず穏やかだ。
朝からずっと胃が痛い。気持ちが悪い。頭痛もする。昼間に羽川と話したせいだ。あの胡散臭い、気持ちの悪い笑顔が頭からこびりついて離れない。吐き気がする。
なんとか5限目の授業を終えたけれど、どうにも気分が悪い。いつも以上に誰とも関わりたくない。
ただでさえ昨日の出来事で、僕はクラスメイトたちから嫌な視線を受け続けている。今朝上履きが片方無くなっていたのも、僕の先まで数学のプリントが回ってこなかったのも、きっと気のせいではないだろう。確実に始まっている。
このまま教室にいるのはひどく苦痛だ。直接手を下されるまでそう時間はかからないだろう。耐えられない。
6限目を待たずにこのままサボろうかと、廊下に出たところで。
「ねえ赤坂、ちょっといい?」
突然声をかけられた。昨日下ろしていた髪をポニーテールに結った秋山さんだった。
◆
「あのさあ、」
できれば人目のつかないところで、という気持ちは僕も秋山さんも同じだったのだろう。会話のないまま生物化学室までやってきた。僕は正直この部屋には来たくなかったが、先を歩いていたのもこの部屋を選んだのも秋山さんだから仕方がない。
秋山さんの声はひどく低かった。昨日のことをまだ怒っているのかもしれない。だとしたらあまりに理不尽じゃないか。僕はただ美術の授業を真面目に受けていただけなのに。頭痛がひどくなる。
「……昨日言いすぎた、ごめん」
「え」
思わずまぬけな声が出た。
勢いよく頭を下げた秋山さんがゆっくり顔をあげる。
「あれ、そんなに怒ってなかった?」
「いや、秋山さんの方が怒ってただろ」
「そう、ごめんね、ちょっと嫌なこと思い出してさ」
まさか彼女の方から謝られるとは思ってもみなかった。心の中で悪態をついていたことを即座に反省する。
いや、でも、秋山さんの自分勝手さと一時的な感情的任せに言葉を発するところには軽蔑さえ生まれる。クラスメイト達の嫌な視線を思い出して吐き気がする。
「いや、別に……謝ってもらうようなことでもない」
「でも、わたしのせいでクラスの皆、ちょっと嫌な感じになってるじゃん? そういうの、ちょっと気分悪くてさ」
その状況を作り出した張本人が何を言うのだろう。第一、昨日僕に対して『気持ち悪い』と言葉を放ったことを忘れたのだろうか。
そう思うのとは裏腹に、やはり彼女に逆らうのは得策ではないとわかっている僕は、何も気にしていないような素振りで「大丈夫だから」と話す。
正直彼女とはもう関わりたくない。これで話が済んだかと思ったけれど、秋山さんはまだ教室を出ようとしない。
頭が痛い。早くここから出たいのに。
「……あのさ、勘違いだったらごめんなんだけど、」
僕の怪訝そうな表情をくみ取ったのか、ぼそぼそと秋山さんが口を開く。未だ何かあるのか。
いつもハッキリとしている彼女にしては珍しい声色だった。言葉を濁す秋山さんに段々と苛立ちを覚えて「うん、それで?」と少々乱暴に聞き返す。
「……赤坂、今日昼休み、ここに来てなかった?」
「え?」
「生物化学準備室」
想像もしていなかった話題に思わず固まってしまう。今いる生物化学室と、昼間訪れた生物化学準備室は隣接しているのだ。
何故秋山さんがそんなことを?
どこかで見られていたのだろうか。昼休み、生物化学準備室まで向かう道のりはそう短くなく、廊下には人がいつも溢れかえっている時間帯だ。誰かに見られていても変な話ではない。
話の先を聞きたいというはやる気持ちをなんとか抑え、冷静を装う。
僕と羽川の会話を聞かれていたらまずいことがある。それは僕が“カンニングをしている”という事実だ。
「まあ、うん。それがどうかした?」
副担任の羽川の話題になること自体はおかしな話ではない。けれど、それは秋山さんがわざわざこんなところへ僕を呼び出す理由にしてはどうだろう。
「わたしが言うことじゃないかもしれないけど、」
「うん」
「気をつけた方がいいよ、あいつちょっとおかしいと思う」
秋山さんの言う『あいつ』が、羽川を指すのだということは容易に想像がついた。
意外な返答だった。羽川は教師らしくない整った容姿のおかげで、ひどく好感度が高いことを知っているからだ。
「……なんで?」
「……」
好奇心か悪戯心か。僕は秋山さんの返答を待つ。
「ここ、生物化学室で飼ってた魚、半年前から何匹もいなくなってる。今じゃ1匹もいないの、気づいてた?」
秋山さんがこの部屋を見渡す。僕も同じように視線を泳がせる。
言われてみれば、窓際に並べられていた水槽はすべて空になっている。唯一、一番黒板に近い大きな水槽に、一匹だけ綺麗な色をした小さなサカナが泳いでいるけれど。
化学実験や生物の授業でたまにここを訪れるけれど、全く気がつかなかった。
一体いつから消えていたのだろう。この部屋を管理するのは生物化学準備室と同様───即ち羽川先生だ。
「気づかなかった。週1はここで授業があるのに」
「段々、ゆっくり少なくなってたんだよ。1ヶ月にひとつ水槽が減って、1日に1匹サカナがいなくなる。誰も気がつかない」
「なんで秋山さんがそんなこと……」
「わたし動物というか、生き物が好きなんだよ。だからここのサカナたちもよく観察してたし、校舎裏の猫だって……」
「猫?」
秋山さんが気まずそうに目を伏せた。彼女が生き物好きだなんて知らなかったけれど、確かに缶のペンケースには蛙と猫のシールが貼られていた気がする。変な組み合わせだと思ったことを思い出した。
「あいつ大事に育ててると思ってたのに、」
「え? どういうこと?」
言われたことが理解できない。彼女は一体なんの話をしているのだろう。いや、頭ではなんとなく予想が出来ている。理解したくない、が正しいのだろう。
これは秋山さんの、忠告なのかもしれない。
「1ヶ月前くらいに、南先生が拾ってきたの。親子の捨て猫。生物教師だから生き物に詳しいだろうって、羽川先生にも協力してもらって……一緒に育ててた、のに」
つまり、南先生が拾ってきた捨て猫を、秋山さんと羽川と3人で育てていたということだろうか。
頭痛がひどくなってくる。やけに酸素が薄い気がする。
「でも、ここのサカナたちと、同じ事になっちゃった」
秋山さんの目に涙がたまった。その先の言葉はなんとなく予想ができていたけれど、ひどい頭痛で目眩がする。考えたくない。
「死んじゃったの、昨日の朝、突然。まだ小さかったのに」
告げられた核心的な言葉に目を閉じる。
頭が痛い。割れそうだ。
◆
揺れる感覚と聞き慣れないエンジン音にゆっくりと目を開く。真っ暗だった視界が少しばかりの光を拾う。ぼんやりとした視界のなかで、段々と手放していた意識が戻ってくる。
「目が覚めましたか?」
降ってきた聞き覚えのある声にはっとして目を見開く。急に視界と思考がクリアになる。
走る車の中。助手席。聞いたことのない洋楽が小さな音で流れている。外は暗く、小雨が降っているようだ。
「な、んで、」
「すみません、驚かせましたか」
横を見ればゆったりとした口調の羽川が運転している。狭い車内、ふたりきり。
どうして僕はこんなところに。記憶がない。5限終わり、秋山さんと生物化学準備室で話をしいる最中、ひどく頭が痛くなって、それから……。
「6限目をサボって生物化学室にいたようですね」
「え……」
「秋山さんが保健室に駆けこんだそうですよ。赤坂くんが倒れたって。小柄な高校生とはいえ、気絶している人間を運ぶのは大変でした」
何を。
その淡々とした口調に背筋が凍る。車は進んでいく。
夏の蒸し暑さと小雨が混ざり合って生ぬるい空気が漂っている。吐きそうだ。
「担任の相川先生と僕、数学の山田先生もですね。担架に乗せてひとまず保健室に運びましたが、どうやら深い眠りについているようだったので、こうして僕が家まで送り届けることになったんです」
そうだ、僕はあの時急激に頭が痛くなって、意識を手放したのだ。
「体調はどうですか?」
「……さっきよりは、悪くないです」
「そうですか、それならよかった。少し寝て落ち着いたのかもしれませんね」
「……」
「過敏なきみのことです。連日の僕の話や秋山さんとの一件でひどく大きなストレスを感じていたんでしょう。いくらきみが賢いとはいえ、少々負担をかけてしまいましたね。すみません」
突然意識を手放した僕に秋山さんは相当驚いただろう。さっきより体調は戻ったものの、まだ頭の後ろがずきずきと痛んでいる気がする。
───『死んじゃったの、昨日、突然。まだ小さかったのに』
秋山さんが言っていたことを思い出す。
ゆっくりと気づかれないようにいなくなった生物化学室のサカナたち。大切に育てていた校舎裏の子猫。
僕が死ぬ夢を見たという羽川先生。
疑うのも当たり前だ。小さなサカナ、大切に育てていた子猫、次に消し去るとすれば。
「先生、」
「ああよかった、返事がなかったのでまた気を失っているのかと思いました」
「……家まで送ってくれるんですか」
「はい。倒れた生徒を放っておく教師はいませんよ」
「親に連絡は、」
「担任の相川先生がしてくれましたよ。親御さん、毎日仕事で帰宅が遅いそうですね。迎えに来られないとのことだったので、家の方向が近い僕が送ることになったんです」
親に連絡がいっていると知って安堵する。秋山さんが遠回しに僕に忠告したように、もし羽川が僕を何らかの理由で狙っていたとしても、自身がやったと確実にバレる状況で行動に起こすタイプではないだろう。生物化学室のサカナのようにじっくりと、校舎裏の子猫のように突然に、証拠を残さず消し去る。少なくとも親にも他の教師たちにも”僕を家まで送り届ける”と知られている状態で、おかしなことはしてこない筈だ。勿論、警戒するに超したことはないけれど。
「ところで赤坂くん、美術の南先生に聞きましたが、」
「はい、」
「昨日、やはり秋山さんと色々あったようですね」
「……」
車窓が小雨で濡れて光の粒がぼやけて落ちていく。高校から僕の家まで車で40分程度だろうか。
羽川の予知夢が当たっていることを指摘されたようで僕は黙り込む。
「昨日の美術の授業で、何故彼女がきみに対して怒ったのか理解していますか?」
「そのシーンを夢で見たんですか」
「そうですね。もちろん、予知夢はあくまで断片的ではありますが」
「……彼女が怒った理由は、僕にじろじろ見られるのが気持ち悪かったから、です」
「そうですね。きみが邪な気持ちで彼女を見ているんじゃなかと疑いひどく不快に思った。咄嗟に出た『気持ち悪い』という言葉がきみを傷つけるかもしれないという予測をすることなく。彼女は一時的な感情を抑えることのできないタイプです。けれども自身のせいできみがクラスメイトから好奇の目で見られた途端同情が湧く。我に帰って後悔した後、きみに謝罪を述べたのでしょう」
それは秋山さんに対しての羽川の主観だろう。
何も答えない僕に触れることもなく、羽川は言葉を止めない。まるで黙る僕に言い聞かせるようだ。
「すみません。また僕の主観を織り交ぜて話をしてしましました。悪い癖ですね。ですが聞いてください。僕は副担任に過ぎないですが、意外と生徒たちのことを見ています。これは勿論、僕に限ったことではなく、きみたちのことを熱心に考えている教師全員に共通していることですが」
小雨がつよくなる。車窓は水滴に反射する夜のひかりで膨張していく。視界がやけにぼやけて見える。
「さて、今回の件について、きみに邪な気持ちがあったかなかったか、それを図ることは誰にもできません。秋山さんの言動が正しかったかどうかは一旦置いておきましょう。要は、被害を受けた側がどう感じるか。この世の中はそこが1番重要なはずなんです」
「……」
「つまり、秋山さんが引き起こしたクラスメイト達のきみへの態度は、決して褒められたものではないですが、正当な報復とも言えます」
こいつ、どうかしている。
秋山さんが僕の視線に嫌な気持ちを抱いたのなら謝るが、僕は美術の授業を真っ当に受けただけじゃないか。僕の方が声を上げることのできない被害者だ。
ただ、確かにあの時、少しだけ故意的な思想があった。わざと嫌な気持ちにさせてやろう、という残虐性。
「報復といえば、ですが。赤坂くん、きみはハンムラビ法典を知っていますか」
今度は突然何の話をするのだろう。
ハンムラビ法典。知っている。中学の社会で習った。バビロン王ハンムラビが紀元前中頃に制定した法典だ。一般教養だろう。
沈黙は肯定だと理解したのか、或いは優秀な僕が知らないわけがないと判断したのかもしれない。羽川は続ける。
「有名ですよね。目には目を、歯には歯を。同害同復法。有名な復讐方法です」
目を潰された者は仕返しに相手の目を潰し、歯を折られた者は相手の歯を折ってもいい。加えられた被害には同じような方法で仕返しするという報復方法。
「きみはこれについてどう思いますか?」
「……どうって?」
「残虐だと思いますか。それとも、報復するのは当たり前だと思いますか」
どちらでもない。強いて言えば、行った悪事に対して同等の報復をするのは至極当たり前とも思える。
相変わらず反応の薄い僕に対して、羽川の声色はずっと変化しない。
「……ハンムラビ法典の復讐方法は一見残虐そうに見えますが、過度な復讐を抑制する意図があるんです。つまり、受けた被害よりも大きな報復をしてはならないということですね」
僕が秋山さんに対して行ったことと、秋山さんが引き起こした僕に対するクラスメイトの態度は、同列に成り得るだろうか。傷跡が見えない痛みは大きさを図ることがひどく難しい。
「同じだけの痛みならば与えていい。そういった考えを持った人はたくさんいます」
「……自分がした悪事に対して同じことが返ってくるのは当たり前ってことですか?」
「そうですね、そう言った考えもあります。では、日本の死刑制度についてはどう思いますか?」
さっきから何の話をしているのだろう。秋山さんと僕の話なのか、或いは明日死ぬという僕の死因についての前置きなのか。
何にせよ早くこの車内から脱出しなければならない。息が詰まりそうだ。僕は普段と違う状況にひどく弱い。
「日本の死刑制度はハンムラビ法典と比べるとひどく優しいと言えます。人をひとり殺しても死刑にはなりません。ましてや動物虐待は罪にも問われないことがある」
秋山さんの言葉をまた思い出す。
消えていった生物化学室のサカナたち。突然亡くなった校舎裏の子猫。動物虐待は罪に問われないと言う羽川先生。
『人をひとり殺しても死刑にならない』───喉元がひゅっと嫌な音をたて、心臓の音が早くなる。
「この国では、余程の重罪でない限り、更生の余地が与えられるんです。それを悪とするか善とするかは意見が別れるところですが」
羽川がもしサカナを消し去って、校舎裏の子猫を殺して、それだけじゃ飽き足らず、人に手を掛けようとしているのだとしたら。
───『人をひとり殺しても死刑にはならない』
───『更生の余地が与えられる』
身震いする。羽川が予知夢という特殊能力をつかって、僕のことを狙っているのだとしたら。明日死ぬのだと言い聞かせ、それに怯える僕の姿を楽しんでいるのだとしたら。
冷や汗と共に手足の震えを感じる。ずっと表情の変わらない羽川の笑顔がやけに嘘っぽく感じて気持ちが悪い。緩やかに進んでいく自動車のスピードとは逆行して鼓動が早くなっていく。
「すみません、少し話をし過ぎましたね」
「いえ、」
「悪事に対して同列の痛みを与えるか、それとも更生の余地を与えるか。正解はないんです。要は、他人にどこまで信頼をおけるかの違いなのかもしれません」
「……羽川先生、」
「そうだ、話は変わりますが、赤坂くん。きみのご両親はひどく教育熱心なようですね。言い方を変えれば過保護、というのでしょうか」
「え……」
何故突然そんなことを。身体が固まる。
「怖がらないでください。言ったじゃないですか、僕たち教師はきみたちが思っている以上に生徒のことを考えているんです」
「っ、」
「優秀なきみがカンニングなんてしなくちゃいけない理由は、厳しいご両親に成績低下を知られるのがまずいからではないですか?」
「羽川先生、」
「つまり、きみはカンニングしていることをバレるのがひどく怖い。僕ら教師にバレることよりも、ご家族にバレることがいちばん厄介でしょう」
羽川の言いたいことはわかる。これは脅しだ。
「赤坂くん、明日放課後、生物化学準備室に来てくれますか? きみを死なせない為です。どうか僕の言うことを聞いて下さい」
返事をする前に車が停まった。見れば僕の家の前だった。
視線を運転席に戻すと、羽川の手には僕がカンニングして高得点をとった世界史のテスト用紙と、昼間羽川に奪われたカンニングの為のメモ用紙が握られていた。
7月15日放課後。
僕は羽川に言われた通り生物化学準備室の扉を開けていた。
はっきりと言えば、殺されるかもしれない、と思っている。若しくは、それに類似するなにか惨いことをされるかもしれない、とも。
けれども僕がここに足を運んでしまった理由は、羽川に提示されたカンニング用紙だ。
両親にそのことを知られたくなかった。バレて父親に逆上されるのならば、羽川に痛めつけられる方がマシかもしれない。
「赤坂くん。来てくれましたか」
「……羽川先生、あなたが脅しのようなことをするからです」
「脅しとは人聞きが悪いですね。警戒心が強くプライドが高いきみを呼び出すのに一番効果的な方法を選択した、ただそれだけです」
生物化学準備室はやはりやけにクーラーが効いていて肌寒い。夏の暑さがここにだけ届いていない気がする。
いつものように入口に背を向けて座っていた羽川先生が振り返り、一昨日から出しっぱなしになっているパイプ椅子をとんとんと叩く。ここへ座れという意味だろう。
色々ありすぎて感覚が麻痺しているのか、単なる興味本位か。僕は抵抗することなくそのままパイプ椅子へと歩き腰掛ける。
羽川の顔は相変わらず笑っている。
ゆるく、やわらかく。
「先生、ひとつ聞いてもいいですか」
「赤坂くんから質問してくれるなんて珍しいですね。もちろんです」
「先生は今日、僕が死ぬ夢を見たと言いましたが、その死因はなんですか」
死因は何ですか。僕をここへ呼び出した理由は何ですか。僕が死ぬ理由はなんですか。殺したのは誰ですか。
「そうですね、その話をしなければなりませんね」
羽川はにこりと笑い、座ったまま透明なグラスを取り出して机に置いた。一度立ち上がり棚を開けると、そこから小さな牛乳パックを取り出した。
「……牛乳、ですか?」
羽川は何も返事をしない。
ゆっくりとこちらへ戻ると、机の上のグラスに躊躇いもなくその牛乳を注ぐ。白濁色の液体が揺れている。
羽川の表情は変わらない。
「赤坂くん、僕は今から善意できみにこの牛乳を渡します」
「……」
「けれどもし、この牛乳に僕もきみも想像していない薬物が入っていて、死に至る可能性もあるとすればどうしますか?」
「何を……」
「赤坂くん、さあ飲んでみてください。ただの牛乳です、怖くはありません」
羽川の目の奥に自分が映っていた。ひどく恐怖に満ちた顔の自分が。
ころされる、若しくは痛めつけられる。
指先が震えて動かない。逃げよう、今すぐここから。
そう立ちあがろうとした瞬間。
「なんて、少し怖がらせましたね」
ひょい、と机の上の牛乳を持ち上げて、羽川が笑った。
「え……」
「今のは冗談です」
「な、にを、」
「遅くなりましたが、赤坂くんの質問に答えましょうか。きみの死因は毒入りの牛乳を飲んだ毒殺です。ですが今こうしてこの時間僕と一緒に会話をしている。つまり、予知夢で見た未来が変わったんです」
どういうことだ? 羽川は僕をなんらかの理由で狙っているんじゃないのか?
「僕は教師ですからハンムラビ法典のように罪を罪で返していいとは思いません。きみたちは若くて優秀で、それでいてとても無知だ。だからこそ更生の余地がある。けれどわざとでないとはいえ、“きみがやったこと”を野放しに許すわけにはいかなかったんです。それで、こんな風に少し怖がらせてしまいまいした」
「……“僕がやったこと”ってなんのことですか? 秋山さんを怒らせたこと? カンニング?」
「勿論、秋山さんの件もカンニングの件も、指導すべきことではありますが。きみは重要な悪事をしているはずです。もしかしたら気づいていないかもしれませんが」
「すみません、それならば本当にわからないんです」
「きみが校舎裏の“子猫を殺した”ことについてです」
驚いて思わず固まった。
校舎裏の子猫を僕が殺した?
何を言っているのだろう。身に覚えのないことを言われて足が竦む。子猫を殺したのは羽川先生じゃないのか?
「待ってください。身に覚えがありません」
「ということは、やはりわざとではなかったのでしょう。不慮の事故というのが正しいかもしれません」
「すみません、状況がよく掴めなくて……。羽川先生は、生物化学室のサカナたちを殺して、校舎裏の子猫を殺して、終いには生物だけじゃ飽き足らず、人間を───僕を殺そうとしているんですよね?」
「まさか。どうしてそんなことになっているんですか?」
常に表情の変化がなかった羽川先生が本当に驚いたように目を丸くする。その顔に嘘は見えない。
「僕はてっきり、先生がサカナも猫も殺して、しまいには人間、つまり僕を狙っているんじゃないかって……」
「生物化学室のサカナたちがいなくなったのは感染症のせいで故意的ではありません。猫に至っては、きみがあげた牛乳が原因で亡くなってしまったんですよ。子猫に人間用の牛乳をあげてしまったことによって乳糖不耐症を引き起こしてしまったんです。僕は無関係です」
「僕があげた牛乳?」
さっきから話が絶妙に嚙み合っていない気がする。僕たちは何かを見落としている。
「きみを監視するのは、《子猫を殺した犯人》を狙った毒殺を未然に防ぐ為です。つまり、子猫に牛乳をあげてしまった人物が狙われているんです。言いませんでしたか? きみを死なせはしない、と」
「待って下さい。先生、先生は僕が《子猫を殺した犯人》、即ち”子猫に牛乳をあげた人物”だと思っているんですか?」
「どういうことですか? 子猫に牛乳をあげたのは赤坂くん、きみじゃないんですか?」
「僕は子猫に牛乳なんてあげていません。それどころか、校舎裏で猫を飼っているなんてこと自体、昨日まで知りませんでした」
どういうことだ?
羽川先生が驚いて口元に手をやる。僕はあらぬ疑いをかけられたことに驚いて必死に弁解する。
「本当に僕じゃありません。事実、そんな夢を見たんですか? 先生が見た予知夢を教えて下さい」
僕の必死の訴えを信じたのか、羽川先生が困惑したように口を開く。さっきまで冷たいと感じていた空気が急に熱を帯びていく。
「子猫が亡くなる少し前から、きみが牛乳を毎朝飲んでいる夢を見ていました。子猫がなくなった前日、牛乳を溢し、帰り道のコンビニで牛乳を買ったこと。それから、その牛乳をもって、学校へと引き返したこと。牛乳が入ったビニール袋をぶら下げて校舎内を歩いているシーンも、夢で見ました。そして、次の日子猫が死んでいた。死因は乳糖不耐症による病死です」
「つまり、僕が猫に牛乳をあげているシーンは見ていないんですよね?」
「……」
羽川先生は黙り込む。沈黙は肯定だ。
羽川先生が見る予知夢とやらはやけに断片的だ。確かに今言われたことはすべて合っている。けれど重要なことが抜け落ちていて、羽川先生はその部分を自身の“想像”で埋めている。
子猫に牛乳をあげたのは僕ではない。
「あの日、僕は確かに学校帰りのコンビニで、パックの牛乳を買いました。そして課題に使う教科書を教室に忘れたことを思い出して、一度引き返しました。牛乳をもって校内を歩いていたのはそのためです。でも、そのまま教科書と牛乳を持って学校を出ました。猫に牛乳をあげた事実はありません。全部偶然の重なりで、僕が猫に牛乳をあげたというのは、先生の憶測でしかありません」
羽川先生は驚きの表情を隠さず目を泳がせる。
考えている。今何が起きているのか。
羽川先生が予測していたことと、現実で起きていることの”差異”は何なのか。
羽川先生は《子猫を殺した犯人》を狙った毒殺自体は実際に夢で見たのだろう。事件を未然に防ぐ為に僕を呼び出した。
けれども先生は守る人物を履き違えた。狙われている人物が僕だと勘違いしてしまった。
《子猫を殺してしまった犯人》は他にいるのだ。
「羽川先生、教えてください。本当に僕が毒殺されるシーンを見たんですか?」
「……とある人が……名前は伏せますが……身近にある薬物を牛乳に混ぜているところを夢で見ました。もちろん致死量です。そして今日の放課後、つまり今の時間帯、その牛乳を”誰か”に差し出していました」
その”誰か”までは夢で見ることができなかったから、同時に見ていた夢の中で現れた僕だと勘違いしたということか。
断片的に見えた予知夢によって、羽川先生は履き違えてしまった。
「子猫の死因は牛乳で間違いないですか」
「生物教師です、動物病院にも連れて行きました。間違いありません」
「ということは……」
「赤坂くん、きみでないなら一体誰が子猫に牛乳を……」
僕と羽川先生は同じタイミングで顔を見合わせた。羽川先生が名前を伏せた何者かが、《牛乳をあげた人物》を毒殺しようとしている。つまり、羽川先生が守らなきゃいけなかったのは僕ではなく───
「───秋山さんです。彼女、子猫をすごく可愛がっていました。つまり《子猫を殺してしまった犯人》は彼女で───狙われているのは僕ではない」
「そんな……」
「先生、教えて下さい。予知夢の中で、牛乳に薬物を混ぜていたのは誰ですか」
僕たちは顔を見合わせる。先生の瞳は揺れている。間違えてしまったとでもいうように。
「……美術の南先生です」
一昨日牛乳を飲んで亡くなった子猫のことを、ひどく愛おしそうに哀しそうに抱きしめていました。南先生は以前からあの子猫の親猫を可愛がっていましたから、生まれた子猫のこともひどく大切にしていたのでしょう。
そう述べる羽川の声がひどく震えていた。
だとしたら、南先生が狙っているのは僕ではなく───秋山さんだ。
僕たちは視線を合わせ、急いで生物化学室を飛び出した。
「さて、あなたをここに呼び出したのはとても大事な話をする為です。よかったら座ってください。長くなるかもしれません。そうです、どうぞこちらに。さて、秋山さん、あの子猫に牛乳をあげたのは貴女ですか? そうですか。やっぱりそうだと思っていました。生き物が好きで正義感の強いあなたのことです、か弱い子猫を見て何かできないかと思ったのでしょう。善意からでしょうね。けれども殺意があったかどうか、知識があったかどうか、そんなことは被害者にとって関係ありません。秋山さん、わたしはね、この世で無知な人間が2番目に嫌いです。知っていますか? 人間が飲む市販の牛乳は乳糖が多く含まれているんです。猫はそんな乳糖をうまく分解できず、消化不良、即ち乳糖不耐症を引き起こす可能性があるんです。ましてや生まれたばかりの子猫に牛乳を与えたらどうなるでしょうか。自身の傷には人一倍敏感なくせに他人の傷に関する想像力はひどく乏しいあなたには難しい話だったかもしれませんね。さて、わたしは先ほど無知な人間が2番目に嫌いだと言いましたが、それ以上、この世で1番に嫌いなものは、動物の命を軽んじる人間です。わたしはね、動物の、今回で言えば猫ですが───自分より小さな生き物を痛めつける人間を許さないと決めています。しかるべきところで罪を償って貰うのもひとつの手ですが、残念ながら故意的だと判明できない動物虐待は罪に問われません。司法が裁かないのなら個人で制裁を加えるしかありませんね。これは仕方がないことです。美術室には法律もルールもありません。重ね重ねですが、あなたに殺意があったかどうか、知識があったかなかったかは関係ありません。秋山さん、あなたが与えた牛乳によって子猫は息を絶ってしまった。あるのはただその事実のみです」
コップが一つ置かれる。中には白濁色の液体が揺れている。
「さあ飲んでください、ただの牛乳です、怖くはありません」
◆
◇
「羽川先生、カンニングのこと、黙っていてくれてありがとうございました」
「あれからきみの悪事は落ち着いたようですから。ただ、本来はきちんと罪を償ってもらうべきなのかもしれませんが。僕は教師として失格かもしれません」
まだ肌寒い3月。卒業証書を抱えて僕は生物化学準備室を訪れていた。相変わらずこの部屋の空気は冷たい。
あの後、間一髪のところで秋山さんを助けることが出来て、南先生は毒物所有の罪で捕まった。秋山さんはしばらく学校を休んで、クラスメイトにも碌に知らされず転校してしまった。
悪事にはおなじ重さの痛みで返すべきだという南先生。対して更生の余地を与えるべきだという羽川先生。どちらが正しいのか、正しかったのか、僕には未だわからない。
無知だったとはいえ子猫の命を奪ってしまった秋山さんと、命の重さを尊ぶ為行動に出た南先生、果たしてどちらが正解で、どちらが間違っていたのだろう。或いはどちらも間違っていなかったのかもしれない。僕には正解を導き出すことが出来ない。
「先生、ひとつ聞いてもいいですか」
「勿論です」
「先生はあの時、僕が子猫に牛乳を与えたと勘違いしていました。カンニングもして、子猫を死に追いやって、そんな救いようのない生徒をどうして守ろうとしてくれたんですか」
「はは、それは僕が教師だからです。それ以上でも以下でもありません」
いつか羽川先生が車の中で言っていたことを思い出す。
────『悪事に対して同列の痛みを与えるか、それとも更生の余地を与えるか。正解はないんです。要は、他人にどこまで信頼をおけるかの違いなのかもしれません』
僕はあれから牛乳が飲めない。
けれど羽川先生は今日もわらっている。
やわらかく、ゆるやかに。
【了】2025.01.31