7月15日放課後。
僕は羽川に言われた通り生物化学準備室の扉を開けていた。
はっきりと言えば、殺されるかもしれない、と思っている。若しくは、それに類似するなにか惨いことをされるかもしれない、とも。
けれども僕がここに足を運んでしまった理由は、羽川に提示されたカンニング用紙だ。
両親にそのことを知られたくなかった。バレて父親に逆上されるのならば、羽川に痛めつけられる方がマシかもしれない。
「赤坂くん。来てくれましたか」
「……羽川先生、あなたが脅しのようなことをするからです」
「脅しとは人聞きが悪いですね。警戒心が強くプライドが高いきみを呼び出すのに一番効果的な方法を選択した、ただそれだけです」
生物化学準備室はやはりやけにクーラーが効いていて肌寒い。夏の暑さがここにだけ届いていない気がする。
いつものように入口に背を向けて座っていた羽川先生が振り返り、一昨日から出しっぱなしになっているパイプ椅子をとんとんと叩く。ここへ座れという意味だろう。
色々ありすぎて感覚が麻痺しているのか、単なる興味本位か。僕は抵抗することなくそのままパイプ椅子へと歩き腰掛ける。
羽川の顔は相変わらず笑っている。
ゆるく、やわらかく。
「先生、ひとつ聞いてもいいですか」
「赤坂くんから質問してくれるなんて珍しいですね。もちろんです」
「先生は今日、僕が死ぬ夢を見たと言いましたが、その死因はなんですか」
死因は何ですか。僕をここへ呼び出した理由は何ですか。僕が死ぬ理由はなんですか。殺したのは誰ですか。
「そうですね、その話をしなければなりませんね」
羽川はにこりと笑い、座ったまま透明なグラスを取り出して机に置いた。一度立ち上がり棚を開けると、そこから小さな牛乳パックを取り出した。
「……牛乳、ですか?」
羽川は何も返事をしない。
ゆっくりとこちらへ戻ると、机の上のグラスに躊躇いもなくその牛乳を注ぐ。白濁色の液体が揺れている。
羽川の表情は変わらない。
「赤坂くん、僕は今から善意できみにこの牛乳を渡します」
「……」
「けれどもし、この牛乳に僕もきみも想像していない薬物が入っていて、死に至る可能性もあるとすればどうしますか?」
「何を……」
「赤坂くん、さあ飲んでみてください。ただの牛乳です、怖くはありません」
羽川の目の奥に自分が映っていた。ひどく恐怖に満ちた顔の自分が。
ころされる、若しくは痛めつけられる。
指先が震えて動かない。逃げよう、今すぐここから。
そう立ちあがろうとした瞬間。
「なんて、少し怖がらせましたね」
ひょい、と机の上の牛乳を持ち上げて、羽川が笑った。
「え……」
「今のは冗談です」
「な、にを、」
「遅くなりましたが、赤坂くんの質問に答えましょうか。きみの死因は毒入りの牛乳を飲んだ毒殺です。ですが今こうしてこの時間僕と一緒に会話をしている。つまり、予知夢で見た未来が変わったんです」
どういうことだ? 羽川は僕をなんらかの理由で狙っているんじゃないのか?
「僕は教師ですからハンムラビ法典のように罪を罪で返していいとは思いません。きみたちは若くて優秀で、それでいてとても無知だ。だからこそ更生の余地がある。けれどわざとでないとはいえ、“きみがやったこと”を野放しに許すわけにはいかなかったんです。それで、こんな風に少し怖がらせてしまいまいした」
「……“僕がやったこと”ってなんのことですか? 秋山さんを怒らせたこと? カンニング?」
「勿論、秋山さんの件もカンニングの件も、指導すべきことではありますが。きみは重要な悪事をしているはずです。もしかしたら気づいていないかもしれませんが」
「すみません、それならば本当にわからないんです」
「きみが校舎裏の“子猫を殺した”ことについてです」
驚いて思わず固まった。
校舎裏の子猫を僕が殺した?
何を言っているのだろう。身に覚えのないことを言われて足が竦む。子猫を殺したのは羽川先生じゃないのか?
「待ってください。身に覚えがありません」
「ということは、やはりわざとではなかったのでしょう。不慮の事故というのが正しいかもしれません」
「すみません、状況がよく掴めなくて……。羽川先生は、生物化学室のサカナたちを殺して、校舎裏の子猫を殺して、終いには生物だけじゃ飽き足らず、人間を───僕を殺そうとしているんですよね?」
「まさか。どうしてそんなことになっているんですか?」
常に表情の変化がなかった羽川先生が本当に驚いたように目を丸くする。その顔に嘘は見えない。
「僕はてっきり、先生がサカナも猫も殺して、しまいには人間、つまり僕を狙っているんじゃないかって……」
「生物化学室のサカナたちがいなくなったのは感染症のせいで故意的ではありません。猫に至っては、きみがあげた牛乳が原因で亡くなってしまったんですよ。子猫に人間用の牛乳をあげてしまったことによって乳糖不耐症を引き起こしてしまったんです。僕は無関係です」
「僕があげた牛乳?」
さっきから話が絶妙に嚙み合っていない気がする。僕たちは何かを見落としている。
「きみを監視するのは、《子猫を殺した犯人》を狙った毒殺を未然に防ぐ為です。つまり、子猫に牛乳をあげてしまった人物が狙われているんです。言いませんでしたか? きみを死なせはしない、と」
「待って下さい。先生、先生は僕が《子猫を殺した犯人》、即ち”子猫に牛乳をあげた人物”だと思っているんですか?」
「どういうことですか? 子猫に牛乳をあげたのは赤坂くん、きみじゃないんですか?」
「僕は子猫に牛乳なんてあげていません。それどころか、校舎裏で猫を飼っているなんてこと自体、昨日まで知りませんでした」
どういうことだ?
羽川先生が驚いて口元に手をやる。僕はあらぬ疑いをかけられたことに驚いて必死に弁解する。
「本当に僕じゃありません。事実、そんな夢を見たんですか? 先生が見た予知夢を教えて下さい」
僕の必死の訴えを信じたのか、羽川先生が困惑したように口を開く。さっきまで冷たいと感じていた空気が急に熱を帯びていく。
「子猫が亡くなる少し前から、きみが牛乳を毎朝飲んでいる夢を見ていました。子猫がなくなった前日、牛乳を溢し、帰り道のコンビニで牛乳を買ったこと。それから、その牛乳をもって、学校へと引き返したこと。牛乳が入ったビニール袋をぶら下げて校舎内を歩いているシーンも、夢で見ました。そして、次の日子猫が死んでいた。死因は乳糖不耐症による病死です」
「つまり、僕が猫に牛乳をあげているシーンは見ていないんですよね?」
「……」
羽川先生は黙り込む。沈黙は肯定だ。
羽川先生が見る予知夢とやらはやけに断片的だ。確かに今言われたことはすべて合っている。けれど重要なことが抜け落ちていて、羽川先生はその部分を自身の“想像”で埋めている。
子猫に牛乳をあげたのは僕ではない。
「あの日、僕は確かに学校帰りのコンビニで、パックの牛乳を買いました。そして課題に使う教科書を教室に忘れたことを思い出して、一度引き返しました。牛乳をもって校内を歩いていたのはそのためです。でも、そのまま教科書と牛乳を持って学校を出ました。猫に牛乳をあげた事実はありません。全部偶然の重なりで、僕が猫に牛乳をあげたというのは、先生の憶測でしかありません」
羽川先生は驚きの表情を隠さず目を泳がせる。
考えている。今何が起きているのか。
羽川先生が予測していたことと、現実で起きていることの”差異”は何なのか。
羽川先生は《子猫を殺した犯人》を狙った毒殺自体は実際に夢で見たのだろう。事件を未然に防ぐ為に僕を呼び出した。
けれども先生は守る人物を履き違えた。狙われている人物が僕だと勘違いしてしまった。
《子猫を殺してしまった犯人》は他にいるのだ。
「羽川先生、教えてください。本当に僕が毒殺されるシーンを見たんですか?」
「……とある人が……名前は伏せますが……身近にある薬物を牛乳に混ぜているところを夢で見ました。もちろん致死量です。そして今日の放課後、つまり今の時間帯、その牛乳を”誰か”に差し出していました」
その”誰か”までは夢で見ることができなかったから、同時に見ていた夢の中で現れた僕だと勘違いしたということか。
断片的に見えた予知夢によって、羽川先生は履き違えてしまった。
「子猫の死因は牛乳で間違いないですか」
「生物教師です、動物病院にも連れて行きました。間違いありません」
「ということは……」
「赤坂くん、きみでないなら一体誰が子猫に牛乳を……」
僕と羽川先生は同じタイミングで顔を見合わせた。羽川先生が名前を伏せた何者かが、《牛乳をあげた人物》を毒殺しようとしている。つまり、羽川先生が守らなきゃいけなかったのは僕ではなく───
「───秋山さんです。彼女、子猫をすごく可愛がっていました。つまり《子猫を殺してしまった犯人》は彼女で───狙われているのは僕ではない」
「そんな……」
「先生、教えて下さい。予知夢の中で、牛乳に薬物を混ぜていたのは誰ですか」
僕たちは顔を見合わせる。先生の瞳は揺れている。間違えてしまったとでもいうように。
「……美術の南先生です」
一昨日牛乳を飲んで亡くなった子猫のことを、ひどく愛おしそうに哀しそうに抱きしめていました。南先生は以前からあの子猫の親猫を可愛がっていましたから、生まれた子猫のこともひどく大切にしていたのでしょう。
そう述べる羽川の声がひどく震えていた。
だとしたら、南先生が狙っているのは僕ではなく───秋山さんだ。
僕たちは視線を合わせ、急いで生物化学室を飛び出した。



