草尾先生は5月のはじめに、山袋へ家庭訪問にやってきた。
先に私の家に来る、というので父は久しぶりのスーツで先生を待っていた。
「パパ、スーツ着るとカッコいいね」
去年は小学校の卒業式も入学式もスーツを着ていた。
もう思い出せないが、小学校の入学式にはスーツ姿の父の横に母もいたのだった。
「そうか?ありがとう」
車の音がして外に出ると、先生の乗ったセダンが家の前にいた。
「先生、五十嵐くんの家の駐車場に停めてくださいっておばさんが…」
「五十嵐の?」
一軒挟んで向こうの家から、郁人のお母さんが玄関を開けて出てきた。
「先生、こちらにどうぞ」
集落の道は狭く、路上駐車には向かない。
郁人の家はお父さんが仕事なので、駐車スペースが1台分空いていた。
父も家から出てきて、車を停めて降りてきた草尾先生に挨拶した。
「娘がお世話になっております」
先生は父と家に入って行って、私は郁人の家で待つことにした。
「郁人ママ、今日素敵だね。綺麗」
「ありがとう凛花ちゃん」郁人のママに肩をぎゅっと抱かれて、嬉しくなる。
郁人も家にいて、パクリと大口で酒饅頭を食べながらこちらを見ていた。
酒饅頭は郁人のおばあちゃんの得意料理で、グレープフルーツくらいの大きさがある。
おばあちゃんは集落の旅館の駒木屋の調理場で働いていて、集落でも評判の料理上手だった。
「郁人は何か怒られるような事してるの。あるなら先生から聞くより先に言いなさいよ」
「ない」
「凛花ちゃんは何も心配ないけど郁人は心配。けんかしたりしてないの」
「してない」
本当は先週も部活終了後に、野球部がサッカー部のボール集めの邪魔をしてボールを蹴ったのに怒って、郁人が野球部のボールの入ったかごをぶちまけた。
山袋の男子は全員柔道経験者というのは知れていて、普段は喧嘩を売られたりはしない。
山袋からは須山西中のサッカー部に何人か部員がいて、郁人はたしなめられ、野球部のボール拾いも手伝い、その場は収まった。
「凛花ちゃん、郁人は嘘を言ってるかしら」
郁人のママは郁人の悪事に関しては勘が鋭い。酒饅頭を食べながら、目が据わっている郁人は自白しているも同然だ。
ガラリと音がして、今後もよろしくお願いしますという父の声が聞こえる。
郁人と二人家から出て、庭を通って自分の家に行った。
「パパー」
「おかえり凛花。いつも通り、櫻井さんはこのまま頑張ってだってさ」
「わかった。パパスーツ脱いじゃうの」
「スーツで畑の仕事はできないからね」父は二階へ行った。
我が家もささやかだが、畑があり父は毎日夕方には畑の仕事をして、その晩のおかずになる野菜も収穫し、戻って来る。
「草尾先生は郁人ママに言わないと思う。部活であったことじゃん」
集落の親はケンカには厳しい。
ガラと音がして郁人のママの声がした。先生は五十嵐家に行ったようだ。
「私先生に挨拶してくる。私の部屋に隠れてていいよ」
「サンキュ」
郁人は私の部屋へ行った。
玄関から出ると、先生が車で私の家の前にいた。
「櫻井、神社の場所教えてもらっていいか?」
「那珂都山神社ならその先を右です。神社の駐車場があります」
「もし、時間があれば案内してもらってもいいかな」
「はい。じゃあ神社の駐車場で」
先生の車は発進し、私は裏道を通って神社の駐車場まで行った。
草尾先生は車から降りてきた。
「こっちが本殿です」
ひとけのない参道を進む。両脇のケヤキの大木が並木道に夕暮れの斜めの影を落としている。
「こちらが舞台です。夏は奉納芝居、節分の時は巫女舞をここでします。ほかにも…」
「一昨年と去年の節分に来たんだ。その時は人が多くて、流されるようにここまで来た」
「普段はこんな感じです」
「一昨年の節分の時、踊っていたのは櫻井?」
「一昨年ならそうです」
「鈴を持って、頭に花をつけていたね」
「……はい。巫女鈴と花も…踊りも毎年同じです」
「綺麗だった。去年の子も上手だったけれど、一昨年は衆人静まりかえって見入ってた。私もだよ」
気まずい沈黙があった。
草尾先生にジロジロと顔をみられて、ショートパンツにTシャツにサンダルでやってきた事を後悔する。
「分社もあるんだよね」
「はい。参道を真っすぐあちら側に行くと、山に突き当たって、山の中にあります。階段を登って…」
「案内してくれないか」
「歩いて行くのは無理です」
「車で行く」
「凛花!」ジャージ姿の背の高い男の子が本殿のほうから参道を走って来た。
「俊兄ちゃん」
「久しぶり。こんにちは、須山高校3年の名賀です」
宮司の家の息子の名賀俊輔は愛想のいい笑顔を見せた。
「須山西中の草尾先生。山袋を案内して、これから先生の車で分社を見に行こうって…」
「分社なら僕がご案内します。那珂都山神社の分社は15歳未満の子ども禁制です。それにあちら側はイノシシが出ますから」
「そうか、それは知らなかったな。そろそろ暗くなって来たから今日は帰ります。櫻井、ありがとう」
「どういたしまして。先生さようなら」
先生は参道を歩いて駐車場へ戻って行った。
「今のは担任?」
「うん。去年、須山西中に来た先生。家庭訪問に来た」
「何があっても先生の車に乗らないって約束して欲しい。二人で車でお山様に行こうだなんて変だ」
「先生に山袋を案内して欲しいって頼まれたから。私の巫女舞を観たって言ってた」
「一昨年の?」
「うん」
「凛花、家族ではない男の人と二人きりにはなってはいけない。お父さんには俺から言う。いいね」
「……はい。ごめんなさい」
「人に親切にしたのは何も悪くない。でも凛花は山袋の大切な子だから」
山袋集落では女性は宝だ。
一種の母系社会で、女性が集落に残って家督を継ぐ事が昔は主流だった。江戸時代は通い婚が主流で、那珂都山集落やもっと離れた街から通ってくる夫もいた。
私の母も郁人のママも集落の出身で、生家を継いで住んでいる。
女性を守るのが山袋の男の務めだった。
その日、俊兄ちゃんが家に来て父と話し、父は俊兄ちゃんの家、つまり那珂都山神社まで行って、郁人の両親や他の人たちも集会所に集まり、なかなかの騒ぎになった。
15歳未満がお山様へ行くのは禁止と、集落の掲示板に神社からの確認の御触れが出され、恥ずかしかったが仕方ない。
私は翌日の土曜日に、今まで長く伸ばしていた髪を切った。
集落には美容院が一軒あり、今まで郁人のママが切ってくれて居たのだが、そろそろ美容院へ行こうと誘ってくれて、美容師さんと話して背中の中程までのロングヘアをギリギリ後ろで縛れるくらいの長さに切った。
スッキリして嬉しくなり、郁人に見せに行った。
土間に入りブローしたての髪を見せびらかす。
「すごく軽くなった」
「髪おろしてるとかわいい」
「ありがとう」
郁人は私の髪を触り、手で梳いた。
「サラサラだな。触らないほうがいい?」
「触っていいよ」
「お山様が怒るだろ」
「15歳過ぎたらでしょ。それまでは平気」
15歳を過ぎたら、友達でも気安く体に触れてはならない。
私は髪を梳いていた郁人の手を握り、ほおを郁人の手に寄せた。手からはさっき郁人が食べていたおやつの酒饅頭の匂いがする。
15歳まではこれは罪ではない。
「郁人、15歳を過ぎてもずっと友達でいよう」
郁人の手は私の手を握りかえし、束の間熱くなり、離れた。
草尾先生は週明けから2週間学校に来なかった。
山袋集落の人が文句をつけて謹慎していたわけではなく、なんとかと言う感染症にかかって肺炎になって入院して、復帰してから一ヶ月後に学校に本格的に来なくなるまで、ずっとおかしな様子だった。
夏休み開けからは教頭先生が担任を代行し、三学期になってやっと大矢場先生が担任としてやって来た。
「『凛花、家族でない男の人と二人きりになるな』と俊兄ちゃんが言ったの」
「凛花ちゃんはもう今年のお正月で数えで15歳。それに山袋はみんな家族。俊輔とお山様のところへ行っても大丈夫ですよ」
白ワンピースに、白いコートを着た。
外に出ると袴姿の俊兄ちゃんがいて、慣れないヒールのあるショートブーツの私に手を貸してくれた。
「俊兄ちゃんのお母さんが俊兄ちゃんとお山様のところへ行けって」
「俺もおばあちゃんにそう言われて凛花を迎えに来た」俊兄ちゃんの母方祖母は、那珂都山神社の宮司の母親だった。
「お山まで行くの?」
「巫女舞の後だけれど、歩ける?」
私は頷いた。
「凛花、おいで」
「前の巫女舞の時はお山様に行かなかった」
「巫女が子どもだった。15歳を過ぎた巫女が舞をしたあとはお山様まで行く」
「お山様で何をするの」
「俺も知らない」
俊兄ちゃんは歩き出し、私もその後について行った。
途中、大矢場先生に会って挨拶し、山へ向かう。
「足痛くない?」
「大丈夫。俊兄ちゃんは草履で寒くないの」
「ちょっと寒い」
俊兄ちゃんが笑い、私も俊兄ちゃんが笑ったことが嬉しくて笑った。
「口紅を塗っていると大人みたいだ」
「俊兄ちゃんの高校の女の子たちは口紅を塗る?」
「そういう子もいる」
「俊兄ちゃんはどこの大学に行くの」
「東京」
「すごく遠いね」
「凛花に電話してもいい?」
「私中学生だけど大学生と電話してもいいのかな」
「電話はたぶん平気」
「私のことが好き?」
俊兄ちゃんの足は止まった。
参道をとうに通り過ぎ、畑の中の道をお山様へ向かっていた。
もうお山様は見えていて、あと五分も歩けばふもとのは鳥居だ。
「凛花、大学を卒業するまで待っていてくれる?その時にもう一度言う」
俊兄ちゃんは真剣なまなざしで私を見下ろした。
綺麗な人だ。きりりとした眉に切れ長の美しい目、真っすぐに通った高く程よい幅の鼻梁。
俊兄ちゃんは集落でも飛び抜けて綺麗な顔をしている。
なぜだかわからないが、その瞬間、私はもう俊兄ちゃんでいいと思った。
この先色々な事が人生には待ち構えているだろうが、未来に繋がる確かな事が一つくらいあってもいい。
私はうなずいた。
「ありがとう。凛花を4年後に迎えに行く」
「私から俊兄ちゃんのところに行ってもいい?」
俊兄ちゃんは笑った。
「いいよ、凛花らしい。凛花が俺を迎えに来て」
将来の約束をしたところで、お山様の鳥居に着いた。
鳥居の前で一礼する。
祭りの提灯がお山様の鳥居の先にも灯っていて、薄暗い山の中の参道を、照らしていた。
「みこさま、参りましょう」
参道の階段を一段一段慣れないショートブーツで上がる私の後ろを、俊兄ちゃんが歩く。
お山様の社は鳥居の手前の畑のあたりからは山の中腹にあるのが見えるが、山に入り階段を上がっていると上をみあげても提灯が連なるのが見えるばかりで、お社は見えなかった。
足元をみながら一段一段上がり、ここにもお地蔵さまがいるのに気がついた。
集落に入る門柱のお地蔵さまとは違う。
あちらのお地蔵さまはニコニコと笑顔で赤い頭巾を被せられ季節を問わず色とりどりのお花が供えられているが、こちらのお地蔵さまは無表情で、白いマントのようなものを着せられずらりと参道の両脇に並んでいる。
こちらのお地蔵さまにも花がそれぞれ1輪花立に供えられているが、白いそれは、巫女舞の巫女の冠に付けられているのと同じ作り物の百合の花だった。
花の香りがしたような気がして上をみると、お社が見え、手前の最後の鳥居をくぐる。
やっとお山様の社へ着いたのだ。
一礼をしてお山様の社の前まで行く。
石造りの階段があり、本殿の扉は開かれ、中にも明かりが灯っている。ブーツを脱ぎ、中へ入る。
明かりが一斉に消え、辺りは真っ暗闇になった。
「みこさま」
声をかけられ、目を開ける。
私は那珂都山神社の本殿の控えの間に白い着物を着て座っていた。
「みこさま、那珂都のお殿様が村の境までお出ましでございます」権禰宜が言った。
「なにゆえ」
「巫女舞の評判がお耳に入ったとか。みこさまにお会いしたく、刀を持って里に入ると申されて」
「ならぬ」
「それでもと」
「ならぬものはならぬ」
「みこさま、山の社へお逃げください。まもなく殿はここまで参られましょう」
「刀を持ってか」
「はい」
「それでは殿を社へ」
「みこさま、なりませぬ」
寒い日であった。
本殿の外に出ると辺りには集落の者たちが集まっている。
「みこさま」
「みこさま」
「皆は家に戻りなさい」宮司が言い、私は馬に乗り、みなを宮司に任せ、権禰宜が馬を引いて二人、参道を山の社の方へ向かった。
後ろから馬の走る音がする。それも何頭も。
「そこのもの、待たれよ!」
権禰宜は私の前に出て、道の端に跪いて座った。
「それがしは」殿のおつきが声をかけた。
「那珂都山神社、権禰宜に候、このお方は那珂都山神社のみこさまにございます。これより山の社にて……」
「笠を取り、顔を見せよ。美しいと評判の山の巫女よ」低い声が命じた。
私は応じなかった。
那珂都の殿さまは自分の馬を私の乗る馬に寄せ、垂れ絹を乱暴に捲った。
「巫女舞をした女は確かにこの顔でした」
殿のおつきのものが一人、不躾に私の顔をみながら言った。
ドッと山からの刺すように冷たい風が吹き、垂れ絹を揺らした。
「山の社には何があるのだ」
「そちらでみこさまが奉納の舞を」権禰宜が言った。
山の社の下の鳥居のところで馬を降りる。
那珂都の殿さまはおつきを二人連れて、山の社へ向かった。
私も権禰宜を従え、階段を上がる。
「齢は」
「みこさまに齢はございません」
「名は」
「みこさまと」
「名も無いのか。みこよ、口はきけぬのか」
殿は立ち止まって私を振り返り、私も階段を登る足を止めた。
ザァ…と雨が降り始めた。
如月らしい冷たい雨は、山の参道を覆う葉もない季節に、殿さまの上にも分け隔てなく降った。
早足で社まで上がる。
権禰宜が扉を開け、私がまず社の中へ入る。
権禰宜が後に続こうとしたのを首を横に降り、そこで待たせた。
「ここで待て」
殿さまもお付きのものを社の外に待たせ、社の中へは殿さまだけが入った。
「なかなか立派ではないか」
中は那珂都山神社とは比べ物にならない小ささだが、この小さな集落の山の中に作られた社としては広いだろう。
那珂都山城も立派だと聞いていた。
「ここは拝殿です。奥へ参りましょう」
私が口をきいたことに殿さまは驚いたようだった。
「声が若いな」
「十五ですから」
「十五…いつから巫女を」
「十。それまでは百姓の娘で、別の名でした」
「なんと申した」
「りん」
「おりんか。言われてみれば、そのような顔をしている」
「ただの百姓の娘にございます」
私は拝殿から本殿と入った。
中は暗く、入り口から入る光だけが頼りだ。おおぬさを取り、殿さまが本殿に入る前に清める。
「提灯がいる」殿さまはゆっくりと本殿に入って来た。
私は本殿の奥の扉を開けた。
「なんと、ご神体は刀であったか」
「ええ。那珂都山は戦では負け知らず。戦の神が護っておりますゆえ。戦の神の前に刀は御法度。挑戦なされるおつもりかと、お山様がお怒りに…」
暗い中、本殿に入ったわずかな光は震え、鈴の音のような音をたてた。
二人の目の前で刀は次第に紅く紅く光りはじめ、暗い本殿の中で刀の立てる音が鳴り響いた。
「どうすればいい」
「あなたさまの刀をこの里から出すことです。私はここでお山様の怒りを鎮めましょう」
殿さまは本殿から出て行き、私はお山様の刀に向き合った。
刀は今や怒りにガタガタと震え、紅く紅く染まって行き、私の装束も呼応するように次第に裾から紅くなっていった。
「みこさま!」
権禰宜が本殿にやって来た。
「殿はどうなされた」
「お付きのものの刀も取り上げて、里から全ての刀を全て一刻も早く出すように、と命じておられました」
私はうなずいた。
「みこさま、なぜ衣が茜色に」
「私がその扉を開けお山様を殿に見せた報いであろう。お山様はお怒りになられた。鎮めねばならぬ」
「外は大雨にございます。一度那珂都山神社に戻り明日にでも…」
「雨はお山様が穢を払おうとしているのだ。私はここでお山様の怒りが鎮まるまで祈る。権禰宜殿は馬を連れて戻り、雨が止んだら迎えを」
禰宜は無言で本殿から出て行き、辺りは静まりかえり、ただ激しい雨の音だけが響いた。
「凛!!俊輔!この変態野郎が!」
タンタンタンと板の間を駆ける音がして、目を開けるとこちらへ突っ走って来る郁人が見えた。
「凛花が急に倒れたんだ」
「うるせぇ!!」
郁人は俊兄ちゃんの言う事を一蹴し、奪い取るように俊兄ちゃんの膝に抱かれていた私を抱えて、板張りの部屋の隅へ引っ張って行った。
「郁人?」
「凛花、大丈夫か」
「ここどこ?」
「お山様の社の中。大矢場先生が俺にこれを渡して来たんだ」
郁人が懐から出した紙切れには乱雑な字があった。
『サクライがミョウガくんとオヤマサマへふたりきり』
「あ…、いいの?郁人は鬼なのに」
「凛花を守らないと母ちゃんに殺される」
「何も危険な事は無かった」俊兄ちゃんが言った。
「俊兄が凛花が好きなのは知ってんだよ!」
「何もしない。ただうちの親に巫女舞が終わった後に凛花を連れてお山様へ行けと言われたんだ」
「なぜ」
「わからない。ただ行けと言われて、本殿まで行ってお参りして戻るつもりだったのが凛花が倒れた。凛花、大丈夫か」俊兄ちゃんは静かな足どりで私の方へやって来て、ひざまずき、額にさわった。
「冷たい」
「寒い」
「当たり前だろ。こんな日に薄着で、バカ凛花」郁人が私を座らせた。
「私は夢を見た。昔々のこの村の夢。夢の中でも私は巫女で、お山様のご神体を隠した。お山様がそうしろと言ったの。戦が起こらず、みなが笑って暮らせるように」
俊兄ちゃんは私をじっと見た。私の正気を疑っているようでもあった。
「凛花ちゃん、ご神体の場所を夢に見たのね」
本殿の方から人影が現れた。
「お母さん…」俊兄ちゃんが言った。現れたのは宮司の妻で、巫女舞の世話をしてくれた俊兄ちゃんのお母さんだった。
「見ました」
「夢で、ご神体をどこに隠したの」
俊兄ちゃんのお母さんは何時ものニコニコとした顔を何処かに置き忘れたかのように、やけに無表情でこちらに近づいてきた。
「宮司のおばさん、見つけてどうするんですか。お山様に大昔からご神体が無いのはみんな知ってるけど、これまでなんとも無かった」郁人が聞いた。
「凛花ちゃん、教えて」
「ハァ、やっと着いた…。階段が思ったより長くて…櫻井大丈夫かい?五十嵐も」
「大矢場先生…」
拝殿の入り口に現れたのは、大矢場先生だった。汗をかき、片手に懐中電灯を持っている。
「来る途中で、桑坂さんっていうおじいちゃんに会って、これからお山様へ行くって言ったら、帰りは暗くなるからって軽トラに積んであった懐中電灯を貸してくれたんだ。親切な人だ。櫻井、やっぱり担任として高校生とふたりきりで行くのは止めなきゃいけなかったな。でも名賀くんのお母さんも来てらしたんですね。失礼しました」
「櫻井さんに少し聞きたい事があるだけです。巫女舞のあとに神懸になって、夢を見るものがいるので。那珂都山神社のものとして、神社のためにその夢の内容を知る必要があるんです」
「ご神体の場所は言えません」何処かで鈴の音がした。
「お母さん、凛花に無理強いしないで。さっき倒れて目を覚ましたところなんだ」
「俊輔、黙りなさい」
「暗くなる前に帰る。凛花、立てるか?大矢場先生、肩貸して」郁人が言った。
「凛花ちゃん、ご神体はどこなの。言うまで行かせませんよ」
「話せだとか、帰さねえとかふざけんな。ホントに凛花のお母さんと友達かよ。うちの母ちゃん一回もアンタの話をしたことない。
凛花、お前頭も打ったしいままで何回も気絶してんだろ。凛パパに話して病院に行くぞ」
「五十嵐の言う通りだ。櫻井は病院に行った方がいいな。先生につかまって」大矢場先生は座っている私に両腕を差し出した。
「行かせません」
「先生、行こう」
「凛花ちゃん、教えてくれたらあなたのお母さんがどこにいるか教えてあげる」
その場は静まり返り、また何処かでリーンと鈴の音がした。
母は私が小学1年生になってすぐの5月に行方不明になった。
父は早朝に市場へ行き、母は私を学校に送り出した後に市場の近くの食堂で働いていた。
その日、父が仕事が終わった後に食堂の前を通りがかると母は食堂にいなかったが、店の裏にでもいるのだろうと父は思い、そのまま帰った。
私は父が午後三時に市場から帰って来るまで、家で仕事をしている郁人のお母さんに、預かってもらっていた。
その日の午後四時にいつも通り父が帰って来て、私を家に連れ帰った。
午後六時になっても母は帰って来ず、父はおかしいと思ったが待った。
私と父は一緒に風呂に入り、歯も磨いて父が仕上げ磨きをしてくれた。
8時になっても帰らず、おかしいと思った父は食堂に電話した。
母はその日、少し早く帰りたいと言ってランチの時間が終わった午後2時に食堂から帰っていた。
そして、それっきり母は帰っては来なかった。
車はなぜか那珂都山神社の駐車場に停めてあり、それを誰が運転したのかは謎だった。
美しかった母。
警察は車が家の近くまで戻っていることと、車の指紋からおそらく母が運転してここまで来たのだろう、そして誰かの車に乗り換えて失踪した、自発的な家出ではないかと言った。
ニュースにもならず、捜査もさほどされず、母の行方不明事件はそのまま七年の月日が経った。
父は失踪から三年目に、母はきっと亡くなった、私たちの事が大好きな母が自分から居なくなるわけが無いと言って、父と私のあいだでは母は死んだことになった。
今年失踪宣告をして母は正式に『死んだ』。
「凛花、このババアの言うことを信じるな」
郁人は私と大矢場先生を自分の後ろに隠し、俊兄ちゃんのお母さんを睨みつけた。
「本当に知ってるのよ。ご神体の場所を教えてちょうだい」
「お母さん、家で話そう」
俊兄ちゃんが郁人のさらに前にたち、お母さんから私たちを隠した。
「名賀くんのお母さん。
ご神体が戻ってくると何かあるんですか。那珂都山神社の方には鏡がご神体としてあるんですよね。山袋の方のご神体は郷土史によると、江戸時代に失われているとか」大矢場先生が聞いた。
「田舎の時の流れは都会とは違います。
山袋では何百年もずっとご神体を探しているのです。
以前も巫女が舞の後に神がかりになって、お山様の社でご神体のありかの話をしたことがありました。その時は途中で巫女が半狂乱になり、肝心の場所はわからない上に巫女の口からお山様からの御言葉もあった。
よくない予言でした。お山様の怒りをおさめるためにはご神体が…きちんとお山様をお祀りして怒りを鎮めるために必要なのです。
今年の巫女が二人も倒れたのも、きっとお山様が怒っているせい。祭りのときに那珂都山神社のご神体にも障がありました。
だから今年は祭りでもご神体は開帳しなかった。鏡が真っ黒になっていたのです。
巫女舞のあとにお山様がお喜びになられたかと思って一度のぞきましたが、黒いままでした」
俊兄ちゃんのお母さんは大矢場先生に説明をしたが、私が今日見たものとは違った。
「舞の後、お山様はお喜びでした。山袋の者たちは怖がる必要はありません」
私は舞の後に、『喜び』を見た。
今この時もこの社にいて、何も恐ろしい感じはせず、りんという昔の巫女が殿様のひどい行いをただし、お山様の怒りをおさめたのだと、嬉しい心持ちがした。
きっとあの殿様は良い人間になったはずだ。
それが、山袋に伝わる馬の尻尾を切り落とした話になったのだろう。
私は俊兄ちゃんのお母さんを見た。
何かよくないものはお山様ではなく、お母さんから漂って来るような気がした。
「お山様の刀で何をするつもりですか」
「お山様の怒りを鎮めるには刀と紅い衣がいるの」
「紅い衣!」
口からは笑い声が出たが、わたしの声では無かった。
外からは雷の音が聞こえ、雨はより一層激しく降り始めた。
「あれは血で染まったのでは無い。お山様が染めたのです。
私は傷一つ無く、お山様の怒りが鎮まるよう祈りながら、白い装束が紅く染まるのを見ていた。雨が止み、権禰宜殿から着物を借りて社の裏から山を下り、山袋を出ました。お社に残る紅い衣を見て、みなが泣いたのは権禰宜殿から後に聞いて知っています。申し訳ないことをしました」
俊兄ちゃんのお母さんは口を開き、何か言おうとパクパクと動かしたが、何も声は出なかった。
「お前の穢はご神刀であろうと祓えぬ。いかにも鏡は黒かったであろう。黒いものが覗けば、黒く映るもの」
私は気分が悪くなった。
何かこの世ならなざるものが私の口を借りているのを、内側からじっと見ていることしかできない。
急に呼吸が楽になり、何かは私の体から出て行った。
「……郁人、帰りたい」
郁人はハッとして私の顔をのぞき込み、大矢場先生もわたしに腕を差し出して、3人で出ていこうとした。
「那珂都山神社に逆らって、五十嵐さんも櫻井さんも山袋で生きてはいけませんよ!」
「必死過ぎるだろ、クソババア!お山様はオメーに怒ってんだよ。俺達に押し付けんな。凛花、『お口チャックチャック』」
郁人は私に向かって母の口真似をしてニヤリと笑い、口にチャックをして鍵を投げ捨てる仕草をした。
二人に支えられながら拝殿から出て階段を降りようとしたとき、後ろから俊兄ちゃんの悲鳴のような声が聞こえた。
「お母さん!!」
振り返ると、そこには猟銃を構えた俊兄ちゃんのお母さんが立っていた。
「全員、戻りなさい。おばさんもこんな事はしたくないの」
一瞬後に、俊兄ちゃんは猟銃を取り上げ、母親を殴り倒した。
郁人が加勢に行き、柔道のやり方で俊兄ちゃんのお母さんを抑え、拝殿隅の柱を使い後ろ手に手首を縛り、逃げないようにした。
「なんで……」
母親を縛り付けた俊兄ちゃんは言った。
外は雷が激しく鳴り響き、雨は叩きつけるように降っていて、雨具もなく、ここから出ていくのは不可能だった。
リーンと雨音の中、どこかから鈴の音がした。
先に私の家に来る、というので父は久しぶりのスーツで先生を待っていた。
「パパ、スーツ着るとカッコいいね」
去年は小学校の卒業式も入学式もスーツを着ていた。
もう思い出せないが、小学校の入学式にはスーツ姿の父の横に母もいたのだった。
「そうか?ありがとう」
車の音がして外に出ると、先生の乗ったセダンが家の前にいた。
「先生、五十嵐くんの家の駐車場に停めてくださいっておばさんが…」
「五十嵐の?」
一軒挟んで向こうの家から、郁人のお母さんが玄関を開けて出てきた。
「先生、こちらにどうぞ」
集落の道は狭く、路上駐車には向かない。
郁人の家はお父さんが仕事なので、駐車スペースが1台分空いていた。
父も家から出てきて、車を停めて降りてきた草尾先生に挨拶した。
「娘がお世話になっております」
先生は父と家に入って行って、私は郁人の家で待つことにした。
「郁人ママ、今日素敵だね。綺麗」
「ありがとう凛花ちゃん」郁人のママに肩をぎゅっと抱かれて、嬉しくなる。
郁人も家にいて、パクリと大口で酒饅頭を食べながらこちらを見ていた。
酒饅頭は郁人のおばあちゃんの得意料理で、グレープフルーツくらいの大きさがある。
おばあちゃんは集落の旅館の駒木屋の調理場で働いていて、集落でも評判の料理上手だった。
「郁人は何か怒られるような事してるの。あるなら先生から聞くより先に言いなさいよ」
「ない」
「凛花ちゃんは何も心配ないけど郁人は心配。けんかしたりしてないの」
「してない」
本当は先週も部活終了後に、野球部がサッカー部のボール集めの邪魔をしてボールを蹴ったのに怒って、郁人が野球部のボールの入ったかごをぶちまけた。
山袋の男子は全員柔道経験者というのは知れていて、普段は喧嘩を売られたりはしない。
山袋からは須山西中のサッカー部に何人か部員がいて、郁人はたしなめられ、野球部のボール拾いも手伝い、その場は収まった。
「凛花ちゃん、郁人は嘘を言ってるかしら」
郁人のママは郁人の悪事に関しては勘が鋭い。酒饅頭を食べながら、目が据わっている郁人は自白しているも同然だ。
ガラリと音がして、今後もよろしくお願いしますという父の声が聞こえる。
郁人と二人家から出て、庭を通って自分の家に行った。
「パパー」
「おかえり凛花。いつも通り、櫻井さんはこのまま頑張ってだってさ」
「わかった。パパスーツ脱いじゃうの」
「スーツで畑の仕事はできないからね」父は二階へ行った。
我が家もささやかだが、畑があり父は毎日夕方には畑の仕事をして、その晩のおかずになる野菜も収穫し、戻って来る。
「草尾先生は郁人ママに言わないと思う。部活であったことじゃん」
集落の親はケンカには厳しい。
ガラと音がして郁人のママの声がした。先生は五十嵐家に行ったようだ。
「私先生に挨拶してくる。私の部屋に隠れてていいよ」
「サンキュ」
郁人は私の部屋へ行った。
玄関から出ると、先生が車で私の家の前にいた。
「櫻井、神社の場所教えてもらっていいか?」
「那珂都山神社ならその先を右です。神社の駐車場があります」
「もし、時間があれば案内してもらってもいいかな」
「はい。じゃあ神社の駐車場で」
先生の車は発進し、私は裏道を通って神社の駐車場まで行った。
草尾先生は車から降りてきた。
「こっちが本殿です」
ひとけのない参道を進む。両脇のケヤキの大木が並木道に夕暮れの斜めの影を落としている。
「こちらが舞台です。夏は奉納芝居、節分の時は巫女舞をここでします。ほかにも…」
「一昨年と去年の節分に来たんだ。その時は人が多くて、流されるようにここまで来た」
「普段はこんな感じです」
「一昨年の節分の時、踊っていたのは櫻井?」
「一昨年ならそうです」
「鈴を持って、頭に花をつけていたね」
「……はい。巫女鈴と花も…踊りも毎年同じです」
「綺麗だった。去年の子も上手だったけれど、一昨年は衆人静まりかえって見入ってた。私もだよ」
気まずい沈黙があった。
草尾先生にジロジロと顔をみられて、ショートパンツにTシャツにサンダルでやってきた事を後悔する。
「分社もあるんだよね」
「はい。参道を真っすぐあちら側に行くと、山に突き当たって、山の中にあります。階段を登って…」
「案内してくれないか」
「歩いて行くのは無理です」
「車で行く」
「凛花!」ジャージ姿の背の高い男の子が本殿のほうから参道を走って来た。
「俊兄ちゃん」
「久しぶり。こんにちは、須山高校3年の名賀です」
宮司の家の息子の名賀俊輔は愛想のいい笑顔を見せた。
「須山西中の草尾先生。山袋を案内して、これから先生の車で分社を見に行こうって…」
「分社なら僕がご案内します。那珂都山神社の分社は15歳未満の子ども禁制です。それにあちら側はイノシシが出ますから」
「そうか、それは知らなかったな。そろそろ暗くなって来たから今日は帰ります。櫻井、ありがとう」
「どういたしまして。先生さようなら」
先生は参道を歩いて駐車場へ戻って行った。
「今のは担任?」
「うん。去年、須山西中に来た先生。家庭訪問に来た」
「何があっても先生の車に乗らないって約束して欲しい。二人で車でお山様に行こうだなんて変だ」
「先生に山袋を案内して欲しいって頼まれたから。私の巫女舞を観たって言ってた」
「一昨年の?」
「うん」
「凛花、家族ではない男の人と二人きりにはなってはいけない。お父さんには俺から言う。いいね」
「……はい。ごめんなさい」
「人に親切にしたのは何も悪くない。でも凛花は山袋の大切な子だから」
山袋集落では女性は宝だ。
一種の母系社会で、女性が集落に残って家督を継ぐ事が昔は主流だった。江戸時代は通い婚が主流で、那珂都山集落やもっと離れた街から通ってくる夫もいた。
私の母も郁人のママも集落の出身で、生家を継いで住んでいる。
女性を守るのが山袋の男の務めだった。
その日、俊兄ちゃんが家に来て父と話し、父は俊兄ちゃんの家、つまり那珂都山神社まで行って、郁人の両親や他の人たちも集会所に集まり、なかなかの騒ぎになった。
15歳未満がお山様へ行くのは禁止と、集落の掲示板に神社からの確認の御触れが出され、恥ずかしかったが仕方ない。
私は翌日の土曜日に、今まで長く伸ばしていた髪を切った。
集落には美容院が一軒あり、今まで郁人のママが切ってくれて居たのだが、そろそろ美容院へ行こうと誘ってくれて、美容師さんと話して背中の中程までのロングヘアをギリギリ後ろで縛れるくらいの長さに切った。
スッキリして嬉しくなり、郁人に見せに行った。
土間に入りブローしたての髪を見せびらかす。
「すごく軽くなった」
「髪おろしてるとかわいい」
「ありがとう」
郁人は私の髪を触り、手で梳いた。
「サラサラだな。触らないほうがいい?」
「触っていいよ」
「お山様が怒るだろ」
「15歳過ぎたらでしょ。それまでは平気」
15歳を過ぎたら、友達でも気安く体に触れてはならない。
私は髪を梳いていた郁人の手を握り、ほおを郁人の手に寄せた。手からはさっき郁人が食べていたおやつの酒饅頭の匂いがする。
15歳まではこれは罪ではない。
「郁人、15歳を過ぎてもずっと友達でいよう」
郁人の手は私の手を握りかえし、束の間熱くなり、離れた。
草尾先生は週明けから2週間学校に来なかった。
山袋集落の人が文句をつけて謹慎していたわけではなく、なんとかと言う感染症にかかって肺炎になって入院して、復帰してから一ヶ月後に学校に本格的に来なくなるまで、ずっとおかしな様子だった。
夏休み開けからは教頭先生が担任を代行し、三学期になってやっと大矢場先生が担任としてやって来た。
「『凛花、家族でない男の人と二人きりになるな』と俊兄ちゃんが言ったの」
「凛花ちゃんはもう今年のお正月で数えで15歳。それに山袋はみんな家族。俊輔とお山様のところへ行っても大丈夫ですよ」
白ワンピースに、白いコートを着た。
外に出ると袴姿の俊兄ちゃんがいて、慣れないヒールのあるショートブーツの私に手を貸してくれた。
「俊兄ちゃんのお母さんが俊兄ちゃんとお山様のところへ行けって」
「俺もおばあちゃんにそう言われて凛花を迎えに来た」俊兄ちゃんの母方祖母は、那珂都山神社の宮司の母親だった。
「お山まで行くの?」
「巫女舞の後だけれど、歩ける?」
私は頷いた。
「凛花、おいで」
「前の巫女舞の時はお山様に行かなかった」
「巫女が子どもだった。15歳を過ぎた巫女が舞をしたあとはお山様まで行く」
「お山様で何をするの」
「俺も知らない」
俊兄ちゃんは歩き出し、私もその後について行った。
途中、大矢場先生に会って挨拶し、山へ向かう。
「足痛くない?」
「大丈夫。俊兄ちゃんは草履で寒くないの」
「ちょっと寒い」
俊兄ちゃんが笑い、私も俊兄ちゃんが笑ったことが嬉しくて笑った。
「口紅を塗っていると大人みたいだ」
「俊兄ちゃんの高校の女の子たちは口紅を塗る?」
「そういう子もいる」
「俊兄ちゃんはどこの大学に行くの」
「東京」
「すごく遠いね」
「凛花に電話してもいい?」
「私中学生だけど大学生と電話してもいいのかな」
「電話はたぶん平気」
「私のことが好き?」
俊兄ちゃんの足は止まった。
参道をとうに通り過ぎ、畑の中の道をお山様へ向かっていた。
もうお山様は見えていて、あと五分も歩けばふもとのは鳥居だ。
「凛花、大学を卒業するまで待っていてくれる?その時にもう一度言う」
俊兄ちゃんは真剣なまなざしで私を見下ろした。
綺麗な人だ。きりりとした眉に切れ長の美しい目、真っすぐに通った高く程よい幅の鼻梁。
俊兄ちゃんは集落でも飛び抜けて綺麗な顔をしている。
なぜだかわからないが、その瞬間、私はもう俊兄ちゃんでいいと思った。
この先色々な事が人生には待ち構えているだろうが、未来に繋がる確かな事が一つくらいあってもいい。
私はうなずいた。
「ありがとう。凛花を4年後に迎えに行く」
「私から俊兄ちゃんのところに行ってもいい?」
俊兄ちゃんは笑った。
「いいよ、凛花らしい。凛花が俺を迎えに来て」
将来の約束をしたところで、お山様の鳥居に着いた。
鳥居の前で一礼する。
祭りの提灯がお山様の鳥居の先にも灯っていて、薄暗い山の中の参道を、照らしていた。
「みこさま、参りましょう」
参道の階段を一段一段慣れないショートブーツで上がる私の後ろを、俊兄ちゃんが歩く。
お山様の社は鳥居の手前の畑のあたりからは山の中腹にあるのが見えるが、山に入り階段を上がっていると上をみあげても提灯が連なるのが見えるばかりで、お社は見えなかった。
足元をみながら一段一段上がり、ここにもお地蔵さまがいるのに気がついた。
集落に入る門柱のお地蔵さまとは違う。
あちらのお地蔵さまはニコニコと笑顔で赤い頭巾を被せられ季節を問わず色とりどりのお花が供えられているが、こちらのお地蔵さまは無表情で、白いマントのようなものを着せられずらりと参道の両脇に並んでいる。
こちらのお地蔵さまにも花がそれぞれ1輪花立に供えられているが、白いそれは、巫女舞の巫女の冠に付けられているのと同じ作り物の百合の花だった。
花の香りがしたような気がして上をみると、お社が見え、手前の最後の鳥居をくぐる。
やっとお山様の社へ着いたのだ。
一礼をしてお山様の社の前まで行く。
石造りの階段があり、本殿の扉は開かれ、中にも明かりが灯っている。ブーツを脱ぎ、中へ入る。
明かりが一斉に消え、辺りは真っ暗闇になった。
「みこさま」
声をかけられ、目を開ける。
私は那珂都山神社の本殿の控えの間に白い着物を着て座っていた。
「みこさま、那珂都のお殿様が村の境までお出ましでございます」権禰宜が言った。
「なにゆえ」
「巫女舞の評判がお耳に入ったとか。みこさまにお会いしたく、刀を持って里に入ると申されて」
「ならぬ」
「それでもと」
「ならぬものはならぬ」
「みこさま、山の社へお逃げください。まもなく殿はここまで参られましょう」
「刀を持ってか」
「はい」
「それでは殿を社へ」
「みこさま、なりませぬ」
寒い日であった。
本殿の外に出ると辺りには集落の者たちが集まっている。
「みこさま」
「みこさま」
「皆は家に戻りなさい」宮司が言い、私は馬に乗り、みなを宮司に任せ、権禰宜が馬を引いて二人、参道を山の社の方へ向かった。
後ろから馬の走る音がする。それも何頭も。
「そこのもの、待たれよ!」
権禰宜は私の前に出て、道の端に跪いて座った。
「それがしは」殿のおつきが声をかけた。
「那珂都山神社、権禰宜に候、このお方は那珂都山神社のみこさまにございます。これより山の社にて……」
「笠を取り、顔を見せよ。美しいと評判の山の巫女よ」低い声が命じた。
私は応じなかった。
那珂都の殿さまは自分の馬を私の乗る馬に寄せ、垂れ絹を乱暴に捲った。
「巫女舞をした女は確かにこの顔でした」
殿のおつきのものが一人、不躾に私の顔をみながら言った。
ドッと山からの刺すように冷たい風が吹き、垂れ絹を揺らした。
「山の社には何があるのだ」
「そちらでみこさまが奉納の舞を」権禰宜が言った。
山の社の下の鳥居のところで馬を降りる。
那珂都の殿さまはおつきを二人連れて、山の社へ向かった。
私も権禰宜を従え、階段を上がる。
「齢は」
「みこさまに齢はございません」
「名は」
「みこさまと」
「名も無いのか。みこよ、口はきけぬのか」
殿は立ち止まって私を振り返り、私も階段を登る足を止めた。
ザァ…と雨が降り始めた。
如月らしい冷たい雨は、山の参道を覆う葉もない季節に、殿さまの上にも分け隔てなく降った。
早足で社まで上がる。
権禰宜が扉を開け、私がまず社の中へ入る。
権禰宜が後に続こうとしたのを首を横に降り、そこで待たせた。
「ここで待て」
殿さまもお付きのものを社の外に待たせ、社の中へは殿さまだけが入った。
「なかなか立派ではないか」
中は那珂都山神社とは比べ物にならない小ささだが、この小さな集落の山の中に作られた社としては広いだろう。
那珂都山城も立派だと聞いていた。
「ここは拝殿です。奥へ参りましょう」
私が口をきいたことに殿さまは驚いたようだった。
「声が若いな」
「十五ですから」
「十五…いつから巫女を」
「十。それまでは百姓の娘で、別の名でした」
「なんと申した」
「りん」
「おりんか。言われてみれば、そのような顔をしている」
「ただの百姓の娘にございます」
私は拝殿から本殿と入った。
中は暗く、入り口から入る光だけが頼りだ。おおぬさを取り、殿さまが本殿に入る前に清める。
「提灯がいる」殿さまはゆっくりと本殿に入って来た。
私は本殿の奥の扉を開けた。
「なんと、ご神体は刀であったか」
「ええ。那珂都山は戦では負け知らず。戦の神が護っておりますゆえ。戦の神の前に刀は御法度。挑戦なされるおつもりかと、お山様がお怒りに…」
暗い中、本殿に入ったわずかな光は震え、鈴の音のような音をたてた。
二人の目の前で刀は次第に紅く紅く光りはじめ、暗い本殿の中で刀の立てる音が鳴り響いた。
「どうすればいい」
「あなたさまの刀をこの里から出すことです。私はここでお山様の怒りを鎮めましょう」
殿さまは本殿から出て行き、私はお山様の刀に向き合った。
刀は今や怒りにガタガタと震え、紅く紅く染まって行き、私の装束も呼応するように次第に裾から紅くなっていった。
「みこさま!」
権禰宜が本殿にやって来た。
「殿はどうなされた」
「お付きのものの刀も取り上げて、里から全ての刀を全て一刻も早く出すように、と命じておられました」
私はうなずいた。
「みこさま、なぜ衣が茜色に」
「私がその扉を開けお山様を殿に見せた報いであろう。お山様はお怒りになられた。鎮めねばならぬ」
「外は大雨にございます。一度那珂都山神社に戻り明日にでも…」
「雨はお山様が穢を払おうとしているのだ。私はここでお山様の怒りが鎮まるまで祈る。権禰宜殿は馬を連れて戻り、雨が止んだら迎えを」
禰宜は無言で本殿から出て行き、辺りは静まりかえり、ただ激しい雨の音だけが響いた。
「凛!!俊輔!この変態野郎が!」
タンタンタンと板の間を駆ける音がして、目を開けるとこちらへ突っ走って来る郁人が見えた。
「凛花が急に倒れたんだ」
「うるせぇ!!」
郁人は俊兄ちゃんの言う事を一蹴し、奪い取るように俊兄ちゃんの膝に抱かれていた私を抱えて、板張りの部屋の隅へ引っ張って行った。
「郁人?」
「凛花、大丈夫か」
「ここどこ?」
「お山様の社の中。大矢場先生が俺にこれを渡して来たんだ」
郁人が懐から出した紙切れには乱雑な字があった。
『サクライがミョウガくんとオヤマサマへふたりきり』
「あ…、いいの?郁人は鬼なのに」
「凛花を守らないと母ちゃんに殺される」
「何も危険な事は無かった」俊兄ちゃんが言った。
「俊兄が凛花が好きなのは知ってんだよ!」
「何もしない。ただうちの親に巫女舞が終わった後に凛花を連れてお山様へ行けと言われたんだ」
「なぜ」
「わからない。ただ行けと言われて、本殿まで行ってお参りして戻るつもりだったのが凛花が倒れた。凛花、大丈夫か」俊兄ちゃんは静かな足どりで私の方へやって来て、ひざまずき、額にさわった。
「冷たい」
「寒い」
「当たり前だろ。こんな日に薄着で、バカ凛花」郁人が私を座らせた。
「私は夢を見た。昔々のこの村の夢。夢の中でも私は巫女で、お山様のご神体を隠した。お山様がそうしろと言ったの。戦が起こらず、みなが笑って暮らせるように」
俊兄ちゃんは私をじっと見た。私の正気を疑っているようでもあった。
「凛花ちゃん、ご神体の場所を夢に見たのね」
本殿の方から人影が現れた。
「お母さん…」俊兄ちゃんが言った。現れたのは宮司の妻で、巫女舞の世話をしてくれた俊兄ちゃんのお母さんだった。
「見ました」
「夢で、ご神体をどこに隠したの」
俊兄ちゃんのお母さんは何時ものニコニコとした顔を何処かに置き忘れたかのように、やけに無表情でこちらに近づいてきた。
「宮司のおばさん、見つけてどうするんですか。お山様に大昔からご神体が無いのはみんな知ってるけど、これまでなんとも無かった」郁人が聞いた。
「凛花ちゃん、教えて」
「ハァ、やっと着いた…。階段が思ったより長くて…櫻井大丈夫かい?五十嵐も」
「大矢場先生…」
拝殿の入り口に現れたのは、大矢場先生だった。汗をかき、片手に懐中電灯を持っている。
「来る途中で、桑坂さんっていうおじいちゃんに会って、これからお山様へ行くって言ったら、帰りは暗くなるからって軽トラに積んであった懐中電灯を貸してくれたんだ。親切な人だ。櫻井、やっぱり担任として高校生とふたりきりで行くのは止めなきゃいけなかったな。でも名賀くんのお母さんも来てらしたんですね。失礼しました」
「櫻井さんに少し聞きたい事があるだけです。巫女舞のあとに神懸になって、夢を見るものがいるので。那珂都山神社のものとして、神社のためにその夢の内容を知る必要があるんです」
「ご神体の場所は言えません」何処かで鈴の音がした。
「お母さん、凛花に無理強いしないで。さっき倒れて目を覚ましたところなんだ」
「俊輔、黙りなさい」
「暗くなる前に帰る。凛花、立てるか?大矢場先生、肩貸して」郁人が言った。
「凛花ちゃん、ご神体はどこなの。言うまで行かせませんよ」
「話せだとか、帰さねえとかふざけんな。ホントに凛花のお母さんと友達かよ。うちの母ちゃん一回もアンタの話をしたことない。
凛花、お前頭も打ったしいままで何回も気絶してんだろ。凛パパに話して病院に行くぞ」
「五十嵐の言う通りだ。櫻井は病院に行った方がいいな。先生につかまって」大矢場先生は座っている私に両腕を差し出した。
「行かせません」
「先生、行こう」
「凛花ちゃん、教えてくれたらあなたのお母さんがどこにいるか教えてあげる」
その場は静まり返り、また何処かでリーンと鈴の音がした。
母は私が小学1年生になってすぐの5月に行方不明になった。
父は早朝に市場へ行き、母は私を学校に送り出した後に市場の近くの食堂で働いていた。
その日、父が仕事が終わった後に食堂の前を通りがかると母は食堂にいなかったが、店の裏にでもいるのだろうと父は思い、そのまま帰った。
私は父が午後三時に市場から帰って来るまで、家で仕事をしている郁人のお母さんに、預かってもらっていた。
その日の午後四時にいつも通り父が帰って来て、私を家に連れ帰った。
午後六時になっても母は帰って来ず、父はおかしいと思ったが待った。
私と父は一緒に風呂に入り、歯も磨いて父が仕上げ磨きをしてくれた。
8時になっても帰らず、おかしいと思った父は食堂に電話した。
母はその日、少し早く帰りたいと言ってランチの時間が終わった午後2時に食堂から帰っていた。
そして、それっきり母は帰っては来なかった。
車はなぜか那珂都山神社の駐車場に停めてあり、それを誰が運転したのかは謎だった。
美しかった母。
警察は車が家の近くまで戻っていることと、車の指紋からおそらく母が運転してここまで来たのだろう、そして誰かの車に乗り換えて失踪した、自発的な家出ではないかと言った。
ニュースにもならず、捜査もさほどされず、母の行方不明事件はそのまま七年の月日が経った。
父は失踪から三年目に、母はきっと亡くなった、私たちの事が大好きな母が自分から居なくなるわけが無いと言って、父と私のあいだでは母は死んだことになった。
今年失踪宣告をして母は正式に『死んだ』。
「凛花、このババアの言うことを信じるな」
郁人は私と大矢場先生を自分の後ろに隠し、俊兄ちゃんのお母さんを睨みつけた。
「本当に知ってるのよ。ご神体の場所を教えてちょうだい」
「お母さん、家で話そう」
俊兄ちゃんが郁人のさらに前にたち、お母さんから私たちを隠した。
「名賀くんのお母さん。
ご神体が戻ってくると何かあるんですか。那珂都山神社の方には鏡がご神体としてあるんですよね。山袋の方のご神体は郷土史によると、江戸時代に失われているとか」大矢場先生が聞いた。
「田舎の時の流れは都会とは違います。
山袋では何百年もずっとご神体を探しているのです。
以前も巫女が舞の後に神がかりになって、お山様の社でご神体のありかの話をしたことがありました。その時は途中で巫女が半狂乱になり、肝心の場所はわからない上に巫女の口からお山様からの御言葉もあった。
よくない予言でした。お山様の怒りをおさめるためにはご神体が…きちんとお山様をお祀りして怒りを鎮めるために必要なのです。
今年の巫女が二人も倒れたのも、きっとお山様が怒っているせい。祭りのときに那珂都山神社のご神体にも障がありました。
だから今年は祭りでもご神体は開帳しなかった。鏡が真っ黒になっていたのです。
巫女舞のあとにお山様がお喜びになられたかと思って一度のぞきましたが、黒いままでした」
俊兄ちゃんのお母さんは大矢場先生に説明をしたが、私が今日見たものとは違った。
「舞の後、お山様はお喜びでした。山袋の者たちは怖がる必要はありません」
私は舞の後に、『喜び』を見た。
今この時もこの社にいて、何も恐ろしい感じはせず、りんという昔の巫女が殿様のひどい行いをただし、お山様の怒りをおさめたのだと、嬉しい心持ちがした。
きっとあの殿様は良い人間になったはずだ。
それが、山袋に伝わる馬の尻尾を切り落とした話になったのだろう。
私は俊兄ちゃんのお母さんを見た。
何かよくないものはお山様ではなく、お母さんから漂って来るような気がした。
「お山様の刀で何をするつもりですか」
「お山様の怒りを鎮めるには刀と紅い衣がいるの」
「紅い衣!」
口からは笑い声が出たが、わたしの声では無かった。
外からは雷の音が聞こえ、雨はより一層激しく降り始めた。
「あれは血で染まったのでは無い。お山様が染めたのです。
私は傷一つ無く、お山様の怒りが鎮まるよう祈りながら、白い装束が紅く染まるのを見ていた。雨が止み、権禰宜殿から着物を借りて社の裏から山を下り、山袋を出ました。お社に残る紅い衣を見て、みなが泣いたのは権禰宜殿から後に聞いて知っています。申し訳ないことをしました」
俊兄ちゃんのお母さんは口を開き、何か言おうとパクパクと動かしたが、何も声は出なかった。
「お前の穢はご神刀であろうと祓えぬ。いかにも鏡は黒かったであろう。黒いものが覗けば、黒く映るもの」
私は気分が悪くなった。
何かこの世ならなざるものが私の口を借りているのを、内側からじっと見ていることしかできない。
急に呼吸が楽になり、何かは私の体から出て行った。
「……郁人、帰りたい」
郁人はハッとして私の顔をのぞき込み、大矢場先生もわたしに腕を差し出して、3人で出ていこうとした。
「那珂都山神社に逆らって、五十嵐さんも櫻井さんも山袋で生きてはいけませんよ!」
「必死過ぎるだろ、クソババア!お山様はオメーに怒ってんだよ。俺達に押し付けんな。凛花、『お口チャックチャック』」
郁人は私に向かって母の口真似をしてニヤリと笑い、口にチャックをして鍵を投げ捨てる仕草をした。
二人に支えられながら拝殿から出て階段を降りようとしたとき、後ろから俊兄ちゃんの悲鳴のような声が聞こえた。
「お母さん!!」
振り返ると、そこには猟銃を構えた俊兄ちゃんのお母さんが立っていた。
「全員、戻りなさい。おばさんもこんな事はしたくないの」
一瞬後に、俊兄ちゃんは猟銃を取り上げ、母親を殴り倒した。
郁人が加勢に行き、柔道のやり方で俊兄ちゃんのお母さんを抑え、拝殿隅の柱を使い後ろ手に手首を縛り、逃げないようにした。
「なんで……」
母親を縛り付けた俊兄ちゃんは言った。
外は雷が激しく鳴り響き、雨は叩きつけるように降っていて、雨具もなく、ここから出ていくのは不可能だった。
リーンと雨音の中、どこかから鈴の音がした。



