きっかけは母方の祖母が亡くなったことだった。交通事故だった。祖母の遺体は損傷が激しかったらしく、お通夜を前に早々に棺に納められ、死に顔も拝めないようになっていた。
 詳しい事情は知らなかったが、僕が生まれる前から母と祖父母は絶縁状態にあった。だから、僕は母方の祖父母には一度も会ったことがなかった。
 昨夜、祖母が亡くなったので、お通夜と告別式に出るようにと母に言われ、僕は生まれて初めて祖父母の家に連れてこられたのだ。無理やりだった。
 なぜ、無理やりなのかと言うと、僕はゴールデンウィーク明けから、すでに一カ月も高校に行かず、家に引きこもっていたからだ。
 父方の家族は代々医師の家系で、父も同居する祖父も医師だった。当然の如く、僕も医師になることを求められた。生まれた時から、しっかりとしたレールに乗せられていた僕は、それが当たり前だと思うようにすり込みをされていた。故に僕は他の道を考えることもないまま幼少期を過ごした。
 僕は勉強の甲斐もあって、三年前、無事に第一志望の中高一貫校に入学した。トップの成績で中学から高校に進級したのは、ほんの二カ月前のことだった。
 母は看護師で、両親共、いつも多忙だった。優しい両親ではあったが、二人はいつも疲れた顔をしていた。三人でゆっくりと過ごせる時間はほとんどなく、旅行に連れて行ってもらった記憶もなかった。
 そして、今年のゴールデンウィーク前、とうとう父が過労で倒れた。その姿を見た時、僕は初めて、それまでの自分の人生に、そしてこれからの進路に疑問を抱いた。一所懸命勉強を続けた結果としてたどり着くのが父と同じ場所ならば、どうして苦労して勉強を続けなければならないのだろう。馬鹿馬鹿しいと思った。
 人間というものは堕ちる時には速いもので、僕はあっという間に、前から好きだったゲームやアニメ、そしてネットにどっぷりとはまり、部屋に引きこもる生活に入った。

 祖父母の家に着いた時には、既に母方の親戚がたくさん集まっていた。もちろん初めて会う人たちばかりだったが、彼らの視線はどこか刺々しかった。
 当然、僕は居づらくなって母屋を抜け出した。祖父母の家は昔風だったので、敷地内には大きな物置小屋が建っていた。扉に手を掛けてみると、あっさりと開いた。
 僕は中に入り、ちょうど良い高さの木箱の上に腰を降ろすと、ポケットからスマホを取り出し、自分だけの世界に浸った。
 僕は、通夜の時間ぎりぎりまで、そこに居座ることにした。

 しかし、僕の思惑はあっさりと潰えた。
 三十分程すると、不意に物置小屋の扉が開き、一人の老人が入ってきた。
「ん。お前は隆史か?こんな所で何をしている?しかし、お前、若い頃のお前の親爺そっくりだな」
 僕の名前や、父の若い頃の顔まで知っているということは、彼は僕の祖父なのだろうと思った。
「すみません。周りが皆、知らない人ばかりなので気が重くなってしまい、ここに逃げ込んでしまいました」
 僕はとりあえず下手に出ることにした。
「お前、高校に行ってないそうだな。愛子がそう言っていた」
 どうやら、僕の母は祖母とは連絡を取り合っていたようだ。愛子とは祖母の名前なのだろうと思った。それはともかく、僕は祖父の言葉にとりあえず適当な返答をすることにした。
「はい、ちょっと事情があって行っていません」
「健康で、金もあるのに、行けない事情などあるものか。その気になれば、何とでもなるはずだ。お前はただ逃げてるだけだ」
 祖父の言葉にはカチンときたが、反抗してみても意味が無いような気がした。今の状況を見る限り、この先、僕が祖父と関わることはなさそうに思えた。不謹慎と言われるかもしれないが、次に僕がまたこの家に来る時があるとしたら、それはたぶん祖父の葬儀の時だ。ならばここは、妙に反抗したりせず、適当に受け流した方が利口だと思った。
 しかし、なぜ母は祖父母と疎遠になったのか、なぜ祖父は初めて会った自分の孫にこうもつらく当たるのか、それは気になった。僕はこの際、聞いてみることにした。
「あの、一つ聞いても良いですか?」
「何だ?」
 祖父は相変わらず不機嫌そうだった。
「どうして、お祖父さんと、僕の家族は疎遠になっているんですか」
「お前、何も聞いてないのか?」
「はい、子供の頃からお二人は遠くにいるのだと聞かされていただけでした」
「そうか、無難な嘘で誤魔化していたんだな」
 祖父は僕に真相を告げるべきかどうか少し迷ったようで、すぐには答えが返ってこなかった。
「隆史、お前も、もう高校生だから知っても良い頃だな。私たちがこんな風になってしまったのは、全部お前の親爺のせいだ」
「どういうことですか?」
「お前の親爺は、まだ看護学生だったお前の母親に手を出したんだ。その頃、お前の母親は長く付き合っていた男に裏切られて落ち込んでいた。お前の親爺はそこに付け込んだんだ。そうしてできたのがお前という訳だ。私は、とても、そんな男に大切な娘はやれないと思った。だから結婚には反対したんだ。だが、お前の母親は、どうしても結婚してお前を生むと言って、この家を出て行ったんだ」
 令和の高校生の僕にとっては、デキ婚などは珍しい話ではなかった。だが、昭和生まれの祖父の怒りは分からなくもなかった。しかし、父はきちんと責任を取って母と結婚し、母もそのせいで看護師になれなくなったわけでもなかった。僕の目から見ても両親の夫婦仲は良好だった。すぐには無理でも、とっくに和解しているが普通ではないかと思った。
 祖父は未だに父のことは許せないという顔をしていた。気まずいままなのは嫌だったので、僕は祖父の機嫌を取るネタは何ないかと辺りを見回した。そして、隅の方に卓球台が有るのに気付いた。更にその脇に置かれたガラスケースには賞状やトロフィー、カップなどが収まっていた。賞状の記載から僕は祖父の名前が「桑原久雄」であると知った。どうやら祖父は卓球が得意だったようだ。僕は良いネタが見つかったと思った。
「あの、お祖父さんは卓球が得意だったんですか?」
「実業団でプレイしていたが、まあ、一流とは言えんな。一番大事な試合には勝てなかったからな」
 それまで高圧的だった祖父の態度が、急に弱気に転じたような気がした。
「お前は卓球をしたことはあるのか?」
「本物はありませんが、コンピューターの卓球ゲームなら、結構強いですよ」
「ふん」
 僕の言葉に心底あきれ果てたという顔で、祖父は更に僕を否定しにかかった。
「勝つと決まっている相手に勝って、お前嬉しいのか?」
「そんなことないですよ。良く負けますから。負ければ悔しいですし、勝てば嬉しいですよ」
「お前、良い学校に通っているくせに物事の本質が分かっていないな。チェスではもう人間はスパコンに勝てないことは知っているな。市販のゲームなんてものはな、人間に負けるようにプログラミングされているんだ。絶対にクリアできないゲームなんて売れないからな。そんなものに振り回されている自分が愚かだとは思わんのか?」
 ムカついたが、一理あると思った。反論できずにいると、更に追い打ちを掛けられた。
「いいか、本物の卓球、いやスポーツはそんなものじゃない。時には自分の実力の百五十パーセントを出せても勝てない相手がいる場合もある。それにだ、多くの勝負では、一度負ければ、次の機会なんてないんだ。そこへゆくと、コンピューターゲームなど、何度負けても次があるだろう」
 傷口に塩を塗るような祖父の追撃に、僕はぐうの音も出なかった。
 僕が黙り込んでしまうと、祖父は別の質問をしてきた。
「隆史、お前、冒険旅行みたいなものをしたことがあるか?」
「はい、あの...」
 ゲームでと言いかけて僕は言葉を飲み込んだ。何度でも生き返ることができるなら冒険とは言えないと言われるのが想像できたからだ。
「あの、いえ、ありません」
「まあ、そうだろうな。今の高校生ならそんなものだろう」
 思い切り馬鹿にされると思っていたがそうでもなかった。話の流れからして、祖父は自分の自慢話でもしたいのだろうと思った。それが大したことでなければ、ケチをつて一矢報いることができるかもしれなかった。
「お祖父さんは、何かすごい冒険をしたことがあるんですか?」
 僕は少し嫌味っぽい口調で言った。しかし、祖父は嬉しそうに僕の問いに答えた。
「あるぞ。お前と同じ十六歳の時だ。福井県の敦賀から、長野県の安曇野まで、自転車で約四百キロを走る七泊八日の旅をしたんだ。決して忘れられない、自分の人生にとって大きな意味を持つ旅だったな」
 僕の目論見はもろくも崩れた。ケチのつけようがなかった。
 呆然としている僕の前で、なぜだか急に祖父の顔が優しくなった。
「なあ、隆史、お前、部屋に籠っていないで旅に出てみないか?お前の中で、何かが変わるかもしれないだろう。旅は良いぞ。人や物、毎日が新しい出会いの連続だ。その多くが一期一会の出会いだがな。でも、それもまた、貴重な経験だ。お前、一期一会とはどんな意味か知っているか?」
「茶道に由来する言葉で、一生に一度だけ会うという意味ですよね」
「ほう、良い学校に行っているだけあるな」
 初めて祖父に褒められた。
「隆史、ちょっと来てみろ」
 気乗りしなかったが、ついて行くしかなかった。僕は卓球台の隣に連れていかれた。そこにはビニールのカバーが掛けられた自転車が置かれていた。
「十六歳の夏、私はこの自転車で旅をしたんだ。そして、その途中に、愛子に、お前の祖母に出会ったんだ」
 言いながら祖父は自転車に掛けられたカバーを取り払った。現れた祖父の自転車を見たその瞬間に目の前が真っ暗になった。

*

 気が付くと僕は、田舎を走る列車の中にいた。対面式の直角椅子の向かいには大学生くらいに見える青年が座っていた。
「やあ、よく眠っていたね。寝台列車ではよく眠れなかったと言っていたから、そのせいかな」
 見知らぬ青年は、まるで旧知の仲であるかのように僕に話しかけてきた。誰だ、この人は?僕には、まるで見当がつかなかった。
「あの、どちら様ですか?」
 僕はしかたなく尋ねた。
「なんだい、ちょっと眠っただけで、もう忘れちゃったのかい?僕は斉藤、斉藤弘幸だよ」
 斉藤弘幸、その名前にはまるで覚えがなかった。
 一度も会ったことがないこの人が、なぜ僕の前にいるのか、そもそも、なぜ僕はこの列車に乗っているのか、いったい何処へ向かっているのか、全てが謎だった。
 不思議に思い、車内を見回してみると、何かがおかしかった。車両そのもの、そして他の乗客の服装や持ち物、それらがどうも古臭く見えるのだ。それに、そこそこの数の乗客がいるというのに誰一人としてスマホをいじっていないのだ。謎を解くためには、とりあえず、目の前の斉藤さんに尋ねるしかなかった。
「斉藤さん、僕たちは前から知り合いだったんですか?」
 斉藤さんはちょっと変な顔をした。
「妙なことを言うね。僕たちは今朝、たまたま大垣から同じ列車に乗ったんだよ。僕たちは共にサイクリストで、随分と話が弾んだのにな」
 サイクリスト?最近はあまり聞かない言葉だ。それと大垣って何処だっけ。そうだ、松尾芭蕉の「奥の細道」の旅の終着点だ。たしか、愛知か岐阜の辺りだ。
 斉藤さんとのことは少し分かったが、自分はサイクリストなどではない、謎は深まるばかりだった。とにかく、僕は質問を続けるしかなかった。
「あの、斉藤さん、この列車は何線ですか?どこに向かっているんですか?」
「この列車は国鉄北陸本線、僕たちは、たまたま同じ福井県の敦賀に向かっているところだよ」
 次の瞬間、僕は驚いて口走ってしまった。
「国鉄なんて、とっくに民営化されて、今はJRでしょう」
 斉藤さんは、眉をしかめて問い返してきた。
「国鉄の民営化、JR、いったい君は何の話をしているんだい?国鉄が私鉄になんてなる訳がないじゃないか」
 斉藤さんは真面目そのものだった。ふと車内の広告を見回してみると、たしかにあちこちに「国鉄」の文字が見てとれた。まさか、と思った。謎を解くために、とにかく僕は質問を続けるしかなかった。
「あの、斉藤さん、僕は、もう自分の名前を名乗っていたでしょうか?」
 さすがに斉藤さんも少し不機嫌な顔になった。
「君は『桑原久雄』だって名乗ったじゃないか」
 「桑原久雄」という名前を聞いて僕はおや?と思った。それは先ほど初めて会った母方の祖父の名前だったからだ。妙な話だなと頭をひねっていると、斉藤さんに更に声を掛けられた。
「寝ぼけているのにも程があるなあ。ちょっとトイレで顔でも洗ってきたらどうだい」
 言われて僕は、ふと思った。眠い訳ではなかったが、一度席を外して、冷静に考えてみた方は良さそうだった。
「分かりました。そうします」
 僕は、そうことわると、立ち上がって近くのトイレに向かった。トイレに入り、鏡を見た瞬間に唖然とした。そこに映っていた顔は僕の顔ではなかった。
 僕の中で一つの仮説が芽生えた。それは、僕が少年時代の祖父と入れ替わった、あるいは一方的に体を乗っ取ったというものだった。
 まさかと思った。しかし、そう考えれば、この現象に説明がついてしまうのも確かだった。ここはまず、斉藤さんを頼るしかなかった。

 席に戻ると、僕は、まず斉藤さんに詫びを入れた。
「斉藤さん、すみません。僕の態度は、とても失礼だったかもしれません」
「いや、寝ぼけていたんだろう。気にすることはないよ」
 斉藤さんは笑顔でそう言ってくれた。お陰で僕は次の質問を切り出す勇気が湧いた。
「たぶん、いくつか変な質問をしますが、答えてもらえますか?」
「もちろんだよ」
 斉藤さんの顔はすっかり爽やかさを取り戻していた。
「あの、今、西暦何年の何月何日ですか?」
「ええと、昭和、違った西暦一九七八年の七月二十九日だよ」
 寒気がした。僕の考えはどうやら正しいようだった。しかし、僕には、まだ聞かなければならないことがたくさんあった。
「あの、僕は何歳だか言っていましたか?」
「十六歳だって、言っていたよ。やっと輪行ができるようになって、嬉しくてしょうがないって、言ってたけどな」
 斉藤さんは少し不思議に思いながらも丁寧に答えてくれた。
「あの、『輪行』って何ですか?」
「どうしてそんなことを聞くんだい?自転車を分解して、特別な袋に入れて列車に乗せることじゃないか」
 そう聞いて、僕はようやく自分が置かれている状況が見えてきた。僕は今、十六歳、高校一年生の祖父になって、祖父が語っていた自転車の旅を始めようとしているのだ。馬鹿馬鹿しい。こんな旅はさっさと止めて東京に帰ろう。僕は即決した。
 しかし、まだ、斉藤さんには聞いておいた方が良いと思うことがいくつかあった。彼は中々の好人物で、礼儀さえわきまえれば、変な質問にでも真剣に答えてくれるような気がした。だから僕は、自分が置かれた状況をありのままに話してみようと思った。しかし、いきなり本題に入るのもはばかられるので、少し前置きをすることにした。
「あの、斉藤さん、SF小説とかお好きですか?」
「好きだよ、さっきもタイムスリップする女の子の話で盛り上がったばかりじゃないか」
 好都合だった。出来過ぎているような気さえした。きっと信じてもらえると思い、僕は精いっぱい真剣な態度で斉藤さんに真実を語ることにした。
「あの、斉藤さんなら信じてもらえると思うので、正直に言います。僕は西暦二千二十四年から来たんです。僕の名前は『山口隆史』で『桑原久雄』は祖父の名前です。どうやら僕の魂だけがタイムスリップして、祖父の体の中にいるようです」
 斉藤さんは、ポカンと口を開けたまま、僕を見ていた。
「君、それ、本気で言ってるの?」
 斉藤さんの目は笑ってはいなかった。通じたと思った。
「本気です。本当なんです。ですから、少し助けていただけないでしょうか?」
 斉藤さんは、少し考えるような素振りをしてから答えてくれた。
「わかった、君を信じよう。君は真面目そうだし。こんな嘘みたいな話を持ち出して僕をだましたところで何の得にもならないのに言っているんだから、本当のことなんだろうね」
「ありがとうございます」
 今まで、これほど人に素直に感謝したことはなかったような気がした。
「僕にどんな手助けができるかは分からないけど、とりあえず、君がこの時代に来たいきさつを教えてくれないかな?」
 斉藤さんにそう言われて僕は少し気分が落ち着いた。そして、それまでのいきさつを全て斉藤さんに話した。

 いきさつを語り終えたところで、僕は自分の考えを斉藤さんに伝えた。
「それで、僕は、こんな馬鹿馬鹿しい旅は止めて東京に帰ろうかと思うのです」
 言ってしまってから、しまったと思った。
「ああ、すみませんでした。祖父や斉藤さんにとっては自転車の旅は素晴らしいものだったんですよね。馬鹿馬鹿しいなんて言って済みませんでした。訂正します。僕の時代には、自転車で長旅をするような高校生はいませんし。しようと思っても親が許してくれないと思います。価値観が変わってしまって。そういう時代なんです」
「そうか、二千二十四年には自転車で旅をする高校生なんていないのか。じゃあ、そう思うのも無理はないな」
 笑って僕の失礼な発言を許してくれた斉藤さんに僕は改めて詫びを入れた。
「本当にすみませんでした」
「いや、気にしなくていいよ。君は四十年以上先の未来からきたんだから。価値観が違うのは当たり前だよ。今からわずか三十年ちょっと前、僕の年齢の人たちの中には、第二次大戦末期の特攻に進んで身を投じた人たちがいたんだ。その人たちにからすれば、僕や君のお祖父さんの旅なんて、呑気な遊びに過ぎないんだから」
「そんな風に言ってくれると助かります」
 僕がそう言った後、不意に斉藤さんの表情が難しいものに変わった。
「でも、隆史君、東京に帰るのはまずいんじゃないかな。そんなことをしたら、歴史が変わってしまうじゃないか」
「歴史が変わる?」
「そうだよ。確か、お祖父さんにとって忘れがたい出会いがいくつもあったんだろう。それが全部なくなってしまったら、お祖父さんだけでなく、お祖父さんが出会った相手の人生にも影響が出る可能性があるしね」
 はっとした。出会い、出会い、出会い。
「そう言えば、祖父はこの旅の途中で、祖母と出会ったと言っていました」
 それを聞いて、斉藤さんの表情が一気に険しくなった。
「それは大問題だな」
「どうしてですか?」
「こういうことだよ。もし君が旅を止めて東京に帰ったら、君のお祖父さんとお祖母さんは出会わなかったことになる。そうすると君のお母さんは生まれてこない。当然、君も生まれてこない。つまり君は消滅してしまうことになるじゃないか」
「え、嘘でしょう!」
 僕は思わず叫んでしまった。通路の向かいの乗客たちの視線が一斉に僕たちの方を向いた。
「隆史君、落ち着いて。少し小さな声で話そう」
 僕とは反対に斉藤さんはかなり冷静だった。他人事だから、当たり前と言えば当たり前だったが・・・
「いいかい、隆史君。さっき君のお祖父さんが作った計画表を見せてもらったんだ。とても高一の子が作ったと思えないくらい綿密なプランだった」
「だから、どうだって言うんですか」
 僕は狼狽えていた。そんな僕を諭すように、斉藤さんは話の続きを始めた。
「計画表には、泊る場所や、見学する場所などが、すごく細かく書かれているんだ。だから、君がその通りに行動すれば、君はお祖母さんに出会えるはずなんだ」
「でも、同じ場所に行くだけで祖母に出会えるなんてとても思えません」
 僕は絶望的な気分になっていた。
「まあ、そんなに落ち込むなよ。本来の時間の流れの中で、お祖父さんとお祖母さんは、旅の途中で出会っているのだから、二人が出会うことは運命と言ってもいいんじゃないかな。ということは、君が流れに逆らわず、お祖母さんを避けようとしない限り、きっと出会えるはずだよ」
 斉藤さんの言っていることは楽観的に過ぎるような気がした。僕の様子に気づいたのか斉藤さんは話を更に具体的な方向に持っていった。
「いいかい、隆史君。旅で人と人が出会う機会なんて、そうあるもんじゃない。出会う可能性のある場所なんて限られているのさ。例えば、今みたいに列車の中とかね。それとユースで出会った可能性はかなり大きいな。計画では、金沢と乗鞍、そして安曇野ではユースに泊まることになっていたからね。そのどこかで出会った可能性はかなり高いと思う」
 SF好きの斉藤さんは少し興奮ぎみになっていた。しかし、僕は斉藤さんの言うユースすら何のことか知らなかった。また、尋ねざるを得なかった。
「斉藤さん、ユースって何ですか?」
「ああ、ユースはね、相部屋の安い宿泊施設のことだよ。一つの部屋に二段ベッドがいくつかあるというのが一般的だね」
 プライバシーが皆無で、見ず知らずの人たちと同じ部屋に泊まるなど、信じられなかった。しかし、斉藤さんの話は、まだ序の口だった。
「通常、食事は二食付きで、みんなで一緒の時間に食堂で食べるんだ。だから、食事の時間の間に近くにいる人と会話が弾むこともある」
 食事も一緒とは地獄でしかなかった。しかも、話はそれで終わりではなかった。
「後は、ミーティングの時間に他の人と親しくなることも多いね」
「あの、ミーティングって何をするんですか?」
「そうだね。宿泊者が集まって一緒に歌を歌ったり、ゲームをしたりして交流を深める時間だよ」
 その話を聞いた途端、僕はぞっとした。まるで危ない宗教団体の活動としか思えなかった。そんなものには間違っても参加したくないと思った。
「ミーティングって参加は義務なんですか?」
「義務じゃないよ。参加するかしないかは個人の自由だ」
「良かった。僕は参加しないことにします」
「それはまずいな」
 すぐさま斉藤さんが顔をしかめた。
「何がまずいんですか?」
「さっき言っただろう。君のお祖父さんは、ユースでお祖母さんと出会った可能性が高いって。ミーティングは宿泊者同士が親しくなる一番の機会だ。だから、君がミーティングに出ないと、お祖母さんと出会えなくなる恐れが非常に高くなる。ミーティングへの出席は義務だと思った方がいいな」
 また寒気がした。そんな怪しい儀式に参加するくらいなら死んだ方がましだと思った。
 しかし、僕が消滅の危機を避けるためには、そのおぞましい儀式に参加することは不可避のようだった。僕の気分は更に沈んでいった。
「斉藤さん、僕にとっては、とても無理なことのように思えるのですが」
 僕は思わず弱音を吐いた。
 すると斉藤さんは、それまでと少し違う厳しい顔をして僕の発言に応えた。
「二千二十四年に生きている君がそう思うのは無理もないことかもしれない。でも、今の君にできることは、お祖父さんの計画通りに旅をして、お祖母さんに出会うことしかないんじゃないかな。君にとっては大変な旅になるだろうけれど、そこから逃げても、どうにかなるものでもないだろう」
 斉藤さんの言うことは正にその通りだった。しかし、僕は、まだ、覚悟をきめることなどできなかった。四百キロも自転車を漕いで、会えるかどうかも分からない祖母を探すなどというバカげた旅をする気にはなれなかった。
「どうするつもりだい?」
 僕が少し落ち着くのを待って斉藤さんが声を掛けてきた。
「説教臭く聞こえるだろうけど、僕は君にチャレンジして欲しいと思う。ここで会ったのも何かの縁だ。僕は君がこの旅をなし終えた話を聞いてみたいな」
 斉藤さんの優しさが身に染みた。ここまで親身に相談に乗ってくれたのだから、旅を止めて東京に帰るのは、斉藤さんに対して失礼な気がした。
「わかりました。やってみます」
 そう答えるのが斉藤さんに対する礼儀のような気がしただけで、僕は、まだ確固たる決意をした訳ではなかった。
 僕の答えを聞いた斉藤さんはなんだかとても嬉しそうだった。
「そうか、良かった。じゃあ、これからいくつかアドバイスがあるからしっかり聞いてくれ」
「はい、わかりしました」
 答えながら僕は、さっきより少しだけやる気が増したような気がした。
「隆史君、まずはお祖父さんの計画表を見ながら話そうか。実は君のお祖父さんにも言ったんだけど、ひとつ大きな問題が有るんだ」
 斉藤さんの言葉に僕はぞっとした。出発前から既に問題ありとは思わなかった。そもそも僕は計画表自体がどこにあるかさえ知らなかった。
「あの、斉藤さん計画表ってどこにあるんでしょうか?」
「お祖父さんの持っていたノートに書かれていたよ。さっきフロントバッグのポケットに入れていたな」
 斉藤さんは網棚の上を指さした。僕はそこにあった荷物の群れを見渡したが、どれがフロントバッグなのか見当もつかなかった。
「あの、フロントバッグってどれでしょうか?」
「一番右にある緑色のバッグだよ。自転車のハンドルの前につけるバッグなんだ」
 僕はそのバッグを網棚から降ろし、椅子に腰を降ろした。蓋を開いてみると、前方に着いたポケットの中にノートが入っているのが見えた。中を開いてみると、何人かの人の住所が並んだページの後に、今回の旅の計画が書かれているのが目についた。斉藤さんが言った通り、計画書は十六歳の高校生が書いたと思えない程に綿密なものだった。僕は、自分にはこんなものは作れそうにないと思った。
「これでしょうか?」
 僕はそのページを斉藤さんに見せた。
「そう、これだ」
 目的のものが見つかり、少しほっとした僕は、とりあえず今日の宿泊地がどこなの見て疑問が湧いた。
「あの、今日の宿泊の予定地が国鉄芦原温泉駅になっているんですが、どういうことでしょう?駅にホテルがあるんでしょうか?」
「違うよ。駅のベンチに寝袋を敷いて寝るんだよ。初日は野宿だって言ってたから」
 唖然とした。
「嘘でしょう。そんなことしたら警察を呼ばれるでしょう」
 斉藤さんは笑い出しそうな顔をしていたが、しっかりと答えてくれた。
「そうか、二千二十四年はそんな時代になっているんだね。千九百七十八年では、若者が夏、駅で野宿するなんて当たり前のことなんだ。去年、僕は北海道に行ったんだけど、札幌や、旭川などの大きな駅では、魚市場のマグロみたいに寝袋がズラリと並んでいたよ。だから心配しなくても大丈夫だよ」
 大丈夫ではないと思った。僕は計画表の宿泊地を全て確認した。一日目・芦原温泉駅、二日目・金沢のユース、三日目・常花駅、四日目・白川郷民宿、五日目・高山駅、六日目・乗鞍のユース、七日目・安曇野のユースと書いてあった。野宿が三泊。気絶しそうになった。
「このユースとか、民宿とかもちろん予約してあるんですよね?」
 僕は斉藤さんにすがるように尋ねた。
「いや、予約はしていないって言っていたな。全部、飛び込みだってさ。ああ、この時代ではユースや民宿の飛び込みはごく当たり前のことだから」
 予約していない、飛び込み、ありえないと思った。
「じゃあ、僕、これから予約をしようと思います」
 すると斉藤さんの表情が少しだけ硬くなった。
「それはまずいんじゃないかな」
「どうしてですか。予約しなかったら、泊まれないかもしれないじゃないですか」
「そうだね。でも、それは本来あるべき時間の流れに逆らうことになるよ。もしかしたら、お祖父さんは計画通りにユースや民宿に泊まれなかったかもしれないんだ。その場合、別の宿泊先を探すことになるわけだけど、お祖父さんは計画表とは別の宿泊先でお祖母さんと出会った可能性もある。だから、君はお祖父さんがしていなかった予約をしてはいけないんだよ」
 嘘だと思いたかった。野宿の数が増える可能性もあるわけだ。
 計画表に目を戻すともう一つ疑問が浮かんだ。
「このユースってどうやって行けばいいんですか。計画表には住所も電話番号も載っていませんが」
 斉藤さんの答はすぐに返ってきた。
「ハンドブックというのがあるんだ。日本中の全てのユースの住所や電話番号などの情報が載っているんだ。地図もついているから、ちゃんとたどり着けるよ」
 ほんの少し、ほっとしたのも一瞬だった。改めて計画表を見た僕は目まいがしそうになった。「四日目・白川郷民宿」、世界遺産の白川郷の民宿に予約もなしに泊まろうとは自殺行為にしか思えなかった。その思いは、そのまま僕の口からこぼれた。
「世界遺産の白川郷の民宿なんて、めったに予約さえ取れないのに、飛び込みで泊まろうなんて信じられません」
「世界遺産って何だい?聞いたことがないな」
 千九百七十八年、白川郷は、まだ世界遺産ではなかったようだ。そして、「世界遺産」という言葉すら、まだ広く浸透していなかったことが分かった。
「すみません。忘れてください。ところで、民宿なんてどうやってみつけるんでしょう?」
 僕が心細げに尋ねたが、斉藤さんの声は明るかった。
「ああ、たぶん、観光案内所で紹介してもらうつもりだったんじゃないかな」
 世の中ではそんなことも行われているとは想像もつかなかった。
 僕が浮かない顔をしているというのに、斉藤さんは更に恐ろしい話を僕に聞かせた。
「隆史君、君のお祖父さんにも言ったんだけど。この計画表には一つ大きな問題があるんだ」
 輪をかけてひどい寒気がした。
「どういうことでしょうか?」
 聞くのが怖かった。
「六日目のことなんだけど、たぶん、お祖父さんは乗鞍のユースにはたどり着けなかったと思うんだ」
 寒気を通り越して、全身が凍り付いたような気がした。
「高山から安曇野に行くには、日本アルプスを越えなければいけないんだ」
 自転車で日本アルプス越え。卒倒しそうな話だった。
「高山と松本の間には、平湯峠と安房峠という、とても険しい場所があるんだ。それはお祖父さんが今まで経験してきた峠越えの常識を覆すほどにタフな場所なんだ。常識的に考えるとお祖父さんは乗鞍のユースにはたどり着けず、どこか別の場所に泊まったはずなんだ。だから君は、この計画表にはない宿泊場所を自分で探さなければならないんだ」
「どうすればいいんでしょう?」
「分からない。だが、お祖父さんはこの旅を無事に成し遂げたんだ。君が本来の時間の流れに逆らわないようにすれば、自然と道が開けるんじゃないかな」
 斉藤さんの言葉は大した慰めにならなかった。しょげている僕に追い打ちを掛けるように斉藤さんが別の方面の警告をしてきた。
「そうだ、あといくつか君に忠告をしておかなければならないな。まず、歴史が変わるようなことをしてはいけないよ。君しか知らない未来のことは決して他人に話してはダメだ。君はあくまでも昭和の高校生として振舞うんだ」
「わかりました」
「それともう一つ注意するべきことがある。旅の間には、判断に迷う局面も出てくるだろう。その時に君は、君がどうしたいかではなく、お祖父さんだったらどうするかを考えて行動しなければならないんだ。君がお祖父さんとは違う判断をしてしまうと、歴史が変わってしまう恐れがあるからね」
「はい、肝に命じます」
 そうは言ったものの、会ったことがないに等しい祖父ならばどうするかを考えて判断を下すのは難しいことのように思えた。僕はそのような局面が来ないことを祈るしかなかった。

 その後、僕はサイクリングのことや、タイムスリップに関する情報を可能な限り聞き出した。しかし、まだ、全てを聞き出せないままに、列車は敦賀に着いてしまった。
 僕と斉藤さんは一緒に敦賀駅の改札を抜け、自転車の入った二つの輪行袋を駅前に並べた。
「じゃあ、隆史君、君の輪行袋を開いてごらん」
 僕は斉藤さんに言われた通り輪行袋のチャックを開けた。中には分解された自転車の部品が複雑に絡み合うように収められていた。
「隆史君、旅が終ったら、君は自転車をこの状態にして輪行袋につめて東京に帰ることになるんだ。だから、この入れ方をきちんと図に描いておきたまえ」
 僕は計画表の載ったノートの最後のページに、言われた通りにできる限り詳しく図を描いていった。スマホがあれば写真を撮るだけで済むのに、なんでこんな苦労をしなければいけないのだと思った。斉藤さんは僕が図を描き上げるのを辛抱強く待ってくれた。

「じゃあ、組み立ててみようか」
 図を描き上げると、斉藤さんにそう声を掛けられた。
 そして僕は、斉藤さんのアドバイスを受けながら自転車の組み立てに入った。工程は全てノートにメモを取った。最終日にはこれと逆のことを一人でやらなければならないのかと思ったら気が重くなった。
 組み立てが終ると、今度は自転車に荷物を取り付けていった。まずフロントバッグと呼ばれるバッグをハンドルの間に収めた。次にパニアバッグという振り分けのバッグを後ろの荷台に被せ、その上に寝袋を置いてゴムバンドで固定した。最後にナップザックを背負って僕の出発の準備が整った。斉藤さんはその間、自分のことはそっちのけで僕を手伝ってくれた。
「隆史君、準備は整ったね、じゃあ、出発して」
 斉藤さんにそう言われて僕は少し驚いた。
「いえ、僕も斉藤さんのお手伝いをしますよ」
 斉藤さんは首を振った。
「僕のことはいいから、君は先を急いだほうが良いよ。今日の予定だって結構ハードだから早く出発しなさい」
 最後は命令口調だったが、優しい言い方だった。
「斉藤さん、見ず知らずの僕のためにここまでしてくれて、本当に何とお礼を言っていいやら」
「何言っているんだい、僕たちはサイクリング仲間じゃないか」
「サイクリング仲間?」
 僕は少し、ぼっとしたような対応をとってしまった。
「そうだよ、サイクリング仲間さ。サイクリング仲間はね、お互いに情報交換なんかして助けあうものなんだ。君はこれからたくさんのサイクリング仲間に出会うと思うよ。道ですれ違う時は、右手を挙げて挨拶するんだ。『お互いに頑張ろうって』ね。一瞬ですれ違っても、僕たちは仲間なんだ。もしかしたら、今度は君が誰かを助ける時が来るかもしれないね」
 正に昭和人のものの言いようだと思った。もしこれが映画だったら、僕は斉藤さんの言葉を「クサイ台詞だ」と蔑んだことだろう。しかし、これは現実の話だった。斉藤さんの言葉は激しく僕の心を揺さぶった。
「ありがとうございました。本当にありがとうございました」
 言っているうちに涙がこぼれてきた。しかし、僕は男のくせに恥ずかしいとは思わなかった。
「馬鹿だなあ。泣くやつがあるか。お互い笑顔で別れようじゃないか」
 その言葉も、またクサイとは思わなかった。
 斉藤さんが、僕の右肩を優しく叩いた。一瞬のことなのに、その手の温もりがやけに温かく思えた。僕は俯いていた顔を上げた。
「じゃあ、僕、出発します。帰ったら手紙書きますから」
「ああ、楽しみにしているよ」
 僕はハンドルを掴み、サドルにまたがった。
「頑張れよ」
 斉藤さんに言われ、また泣きそうになった。
「はい、頑張ります」
 僕はペダルを踏んで自転車を走らせた。後ろは振り向かないことにした。それでも僕は、斉藤さんが背中を見送ってくれているのが分かるような気がした。
 こんなに深く人と関わったのは、いったいいつ以来だろうかと僕は思った。

 こうして、僕の旅が始まった。ゲームの勇者とは程遠い、情けない旅立ちだった。最低三回は野宿もしなければならない。ユースや民宿も泊まれる保証はない。七泊八日で約四百キロも自転車で走るのに、頼りは紙の地図だけだ。スマホがないので、自分が今、どこにいるのかさえ分からない。
 行く手には多くの坂があり、終盤には平湯峠と安房峠というラスボスが待ち構えている。そして僕は自分自身ではなく、祖父として旅路を行かなければならないので、正にロールプレイングゲームだ。
 更に旅の途中で祖母に出会い、再会を誓い合うような仲にならなければいけない。つまり恋愛ゲームのようでもある。
 しかも、このゲームには、復活の呪文などない。失敗すれば僕には消滅の道しか残っていない。自分でこの旅をゲームに例えながら、もし、こんなゲームを僕に押し付けたゲームクリエーターがいたとしたら、そいつは悪魔だと思った。

第一話 終