それは、ようやく山の雪が溶けて暖かい風が吹いて、それでもたまに雨が降ると体の芯まで冷え込んでしまうような日だった。
とある大手動画投稿サイトに、新しいアカウントが生まれた。それは毎分毎秒よくあることで、名前は初期登録のランダム英数字のまま、自己紹介文も何もないそのアカウントは、すぐにその他大勢に埋もれてしまうはずだった。
開設されたそのアカウントには、すぐに一本の動画がアップされた。タイトルは、漢数字の一。タグもついていなければ紹介文もない。そんな、数分もない動画だった。
黒い画面にノイズが走る。音も不鮮明だ。少し遠いところから、電車の走る音と、遮断機のかん、かん、かん、という音が聞こえる。後から入れた音ではなくて、多分、撮影の時に入った音を加工しているのだろう。水の膜の向こう側から聞こえるかのような、少し遠くに音がしている。たまに、一つの音だけが鮮明に響いたりもする。
その暗い画面の中央に、男が映った。後ろ姿だ。スーツを着ている。髪は短く刈り込まれてはおらず、襟足はスーツの襟元には届かない程度だから、まだ若い男だろう。黒髪なのか茶色く染めているのかは、画面が暗く加工されているから分からない。
画面にノイズが走る。
男は歩き出す。ここは、駅前の商店街のようだ。なにか音声が流れているけれど、時折走るノイズが邪魔をしてどこの商店街なのかの特定をさせない。商店街ごとにある独特の、スピーカー越しの音楽やアナウンスが流れている、それは分かるのに。鮮明になるのは音楽だけで、告知の文言になると不鮮明になる。
男は商店街を抜けて、国道か県道か、大きな街道沿いを歩く。どこかの曲がり角を左に曲がって、そこから先は住宅街。というところで、ふつり、と、動画は切れて終わった。
この動画は、万はおろか数百も見られることはなかった。一部の年寄り連中が、「昭和の時代のビデオみたいないいエフェクトだった」と喜んでいたくらいだ。
▽
それから数日して、また次の動画がアップされた。タイトルは漢数字の二。まだアカウントの紹介文もないし、名前はランダム英数字のままだ。先日アップされた一にも紹介文はないし、今回の二にも紹介文はなかった。
前回と同じように黒い画面。走るノイズ。しばらくして映るのは男の後ろ姿。そしてノイズが走る。服装はスーツではない。着替えたのだろうか。それでも、前回と同じ男だとわかる。髪の長さか、それとも佇まいか。
今回もまた、短いものだった。いや、前回よりもさらに短い。
背景はどこだろうか。BGMはなく、画面はわざと暗く加工されているのだろう、昼なのか夜なのかも分からない。
ノイズに交じって時折響く靴音から推察するに、アスファルトではなく、森か、雑木林か、山か。
丁寧に走るノイズが邪魔をして、葉擦れの音はよく聞き取れない。
ふ、と男が足を止めた。
そしてゆっくりと、こちらを、カメラを振り返る。
そういえばこれまで、男の顔は見えず、声も聞こえず、ただ服装だけで男だと判断していた。
男の顔がカメラに完全に映る前、横顔すら映らずにノイズが走り、男は消えた。しばらく誰もいない空間を映してから、動画は終わった。
前回よりはちょっとだけ再生数は多くなったけれど、そこどまりだ。まだ千には再生回数は届かない。
解放されているコメント欄では、平成の頃の呪いのビデオ風がとてもいいと、絶賛されてはいた。けれど、もっと若い世代に見て貰えなければこれ以上の再生数にはならないだろう、というのが、コメント欄の大方の見方だった。
▽▽
それからまた数日が経って、三と書かれた動画がアップされた。
名前はいまだにランダム英数字だし、投稿者の紹介文はないし、投稿動画の紹介文もない。ここまでくればわざとなんだな、と分かってくる。もしかしたらそこそこ有名なクリエイターがやっているのかもしれない、と、コメント欄は謎の盛り上がり方をした。
前回は男が消えたところで終わったから、今回はその続きではないか。そう期待をして、動画を再生する。
黒い画面にノイズが走る。どうやらまた森の中のようだ。今回は男の真後ろから撮影はしておらず、少しカメラが引いていて、森の中の開けた空間だとわかる。画像は暗く加工されているから、昼か夜かは分からない。
男は手に何かを持っている。それを、持ち上げて、振り下ろした。持ち上げて、振り下ろす。持ち上げて、振り下ろす。
BGMはないから、男が何かを殴打している音がノイズに交じって聞き取れる。それは硬質な何かだ。人のような柔らかい生き物を殴打しているのではないようだ。もっと、硬い。石のようではない。金属のようでもない。
ならば男が殴打しているのは、木か。
しかし男の向こうには男よりも大きな木は生えていない。いや、男の立っている空間の向こう側には、男の背丈よりも高い木は生えている。しかし、男が殴打しているあたりには、無い、はずだ。
男は数回殴打した後、上から下へと手を振り降ろすのをやめて、横に殴ように振りぬいた。右から、左へ。右手に持った何かを、右に大きく開いて振る。ちょうど男の体に隠れるような位置に何かあるらしく、右手はその辺りで止まる。
片手で殴打するのを数回繰り返し、その後は両手で持って殴打した。一回、二回、三回。
ひときわ大きなノイズが走り、動画はそこでぶつりと切れた。男が何を殴打していたのか、それが分かる前に動画は終了した。
コメント欄はそこそこ盛り上がった。何を殴打しているのか、考察大会が開かれたのだ。
少なくともこの時点では、視聴者はこれが、フィクションであると認識していた。
▽▽▽
翌日。四、と書かれた動画がアップされた。
新しくアップされた四は、三の続きであった。
手に持った何かを両手で構え、野球のバットをフルスイングする要領で殴る。殴る。殴る。殴打すること三回目にしてひときわ硬質な、そして大きな音が響いたと思うと、男の体の左側に、無残に壊されたそれが見えた。
それは、小さき神々を祀る祠の形をしていた。
コメント欄はざわめいた。
確かにしばらく前に、大規模SNSで祠を壊すのが流行した。しかしそれは文字での流行で、実際に壊した者はいなかったはずだ。作っていた者はいたけれど。
日本人としては、フィクションの世界ならともかく、実際に損壊しているのを目の当たりにするのは冒涜的だと感じたのか、この祠について特定しよう、という動きが出た。
男は入念に、丹念に祠を壊す。画面は暗く、黒く、男を取り巻いている木々の葉の形も幹の形も絶妙に潰されていて、地方すら特定できない。
祠を破壊し尽くしたころ、一心不乱に殴打していた男は、肩で息をしていた。しかしその音は入って来ない。徹底的に、男の音声は排除されていた。
ぶつりとノイズも走らずに動画は終わった――かに見えたが、画面はホワイトアウトした。そこに黒文字がゆるゆると浮かび上がる。
・この動画はフィクションです。
・この動画で破壊された祠は、本殿修理のため遷宮していただいた仮設のお社となります。神さまはすでに本殿にお戻りになられており、廃棄予定のお社を動画に使用する許可は得てあります。
・また動画内で破壊した祠はちゃんと儀式を執り行い、廃棄してあります。
*絶対に真似をしないでください。
ゆるゆると浮かび上がったその文字は、水に溶けるようにして消えて、動画は終わった。
許可を出したのは誰だとか、なんで関係者がこんなモキュメンタリーホラー動画撮影してアップしたんだ、などと、コメント欄は、ちょっと沸いた。
▼
それは秋の終わりの、寒い日だった。前日までは上着は必要だったり必要なかったりしていたけれど、雨が降ったその日はいきなり真冬並みの寒さとなっていた。
綿入れを着こんでくるのだったと自分の尻尾を抱えてガタガタ震えながら、キツネの春愁はその静謐なお社の廊下を速足で進んでいた。キツネの姿であれば毛皮があるが、肉球が廊下に直接触れるから冷たくて困る。雪国や北の方に住んでいるキツネなら、肉球の間に長い毛が生えていて、それで暖かいのだろうけれど。
生憎、春愁は関東は東京の、王子稲荷のキツネである。毎年冬になると寒い寒いと文句を言っていた。
主祭神であらせられる宇迦之御魂神様からお呼び出しを受けた春愁は、着ていた自分の体温でぬくぬくになった綿入れ半纏を脱いで、重ね履きしていたふわもこソックスも脱いで、半べそをかきながら静謐なお社の廊下をずんずんと進んでいた。走らなかっただけ褒めて欲しいと本人は思っている。
「春愁。罷り越して御座います」
どうしてお社における神様の部屋は一番奥なんだと、ちょっと脳内で毒づいてから、春愁はその部屋のふすまの前、廊下に座して参上を告げた。耳も尻尾もちゃんと仕舞って、完全に人の似姿である。
「おはいりなさい」
宇迦之御魂神様がお招きくださったので、サッサと春愁は部屋の中に滑り込んだ。春愁は王子稲荷の頭領キツネではないけれど、この部屋には最近よく呼び出されていたから、慣れたものだ。あまり慣れたくなかったな、等とは今はもう思わない。
「お前、そんな薄着できたのですか! ああほら、火鉢にお当たりなさい」
「お言葉に甘えまして」
宇迦之御魂神様のおわすお部屋の中には、大ぶりの火鉢があった。春愁はそれを抱えるかのようにへばりつくと、ちらり、と、宇迦之御魂神へと視線をやった。さっきまでは辛うじて人の似姿を取れていたけれど、もはやそれもままならない。大きなキツネの耳は頭上でその存在を主張しているし、尻尾は火鉢にへばりつくことのできなかった足の裏を温めている。
宇迦之御魂神は女性的な立ち振る舞いを好む傾向にあるが、歴とした男神である。伝承では女神とされていることも多い。長い髪を後ろで一つに結び、それをさらにこなれたお団子にし。おくれ毛部分を緩っと巻いているのだからそりゃ女神にも間違えられようモノだと、キツネたちの間でもっぱらの噂である。
ちなみに宇迦之御魂神様のヘアスタイルを整えている天女たちの趣味で、心根のお優しい宇迦之御魂神様はなにも突っ込んでいないだけなのも、キツネたちは知っている。
そんな宇迦之御魂神様はキツネたちと話す時はキツネの面をつけることが多かった。別にキツネに気を使っての事ではない。キツネになりたいわけでもない。ただ可愛いキツネの面を見つけた時に着けておくと、キツネたちが反応してくれるからだ。ちなみにキツネたちの間では、反応するように、と申し送りされている。コメントすると、宇迦之御魂神様喜ばれるので。
今日の宇迦之御魂神様のキツネ面は、スコティッシュフォールドのように耳の折れた、茶色いキツネの面だった。そんなのあるのか。
「なんか普通のキツネですね、本日のお面」
「ね、私もびっくりした」
天女が温かいお茶を持ってきてくれた。礼を言って受け取って、春愁はありがたく飲み干す。胃の中から温まる。
ようやく人心地ついた所で、春愁は宇迦之御魂神様の方に向き直った。そうして、座り直し、頭を下げる。
「ご用命は」
「あのね。いま。もきゅめんたりーほらー、っていうのが、流行っているっていうでしょう?」
「ますね。はい」
どこでその情報を得たんだ、と、春愁は内心突っ込むが口には出さない。その情報は今は不要だ。
「やらない?」
「やらないですね」
「やろう?」
「ご下命ですか」
「……出来る?」
「出来るか出来ないかで言えば、多分出来ます」
「じゃ、やって!」
「承りて御座います」
まだ年若く、頭領になる予定なんてこれっぽっちもないキツネの春愁が宇迦之御魂神様によくお呼ばれしているのは、こういう理由である。すなわち、遊び相手。
▼▼
静謐なお社の廊下を駆け抜けないぎりぎりのスピードで通り抜けて、自室に春愁は滑り込んだ。綿入れ半纏を着こんでふわもこソックスをはいて、こたつに足を突っ込む。それから、こたつの上の保温ポットからお茶を湯飲みに注いで飲み干した。よし。
「寒い……」
「お疲れ様。宇迦之御魂神様なんて?」
同室にいた春愁の兄弟キツネ、炎陽が湯飲みにもう一度お茶を注ぎつつそう問うてくる。
「モキュメンタリーホラーやりたいって」
「うん?」
「多分全部こっちに丸投げだろうけれど」
「うん?」
炎陽は首を右に傾げ、それから左に傾げた。何を仰っておいでなのだ、あのお方は。
「今モキュメンタリーホラー流行ってるじゃんって」
「みたいね」
「だからやろうって」
「……また……あのお方はもう……」
炎陽のその呟きは、宇迦之御魂神様を主と仰ぐキツネ族全体の感想でもある。
とりあえず体の温まった春愁は、先日家電量販店で購入してきたノートパソコンを立ち上げた。やることになったのだから調べものである。モキュメンタリーとは、何か。
対する炎陽はノートを広げる。
「ええとじゃあ、誰に声かける?」
「とりあえず俺とお前で」
「ええ……」
「あとはシナリオ出来てからじゃん?」
「そうだけど」
まあ、そんな感じで。その日は更けていった。
▼▼▼
「よし、祠壊そう」
「はあ?!」
ぽちぽちぽち、と、ノートパソコンをいじっていた春愁の突飛な発言に、こたつに足を突っ込んで、寝転がってゲームをしていた炎陽が素っ頓狂な声を上げた。
「いや今ざっと読んでみたんだけどさ」
「うん、うん。それで?」
炎陽は起き上がってこたつの上の保温ポットから自分の分と春愁の分のお茶をそれぞれの湯飲みに注いだ。
「まあ要するにドキュメンタリー風のフィクション動画がメインなんだよ」
「よく分からないけど、うん」
「ありがとう。でさ、まあ色々なことを色んな人たちがやってるわけさ。で、じゃあ俺たちが出せる特色は何かって考えたら、祠壊しても祟られないなって」
「祟られるでしょ。全力で神様ご本神から怒られるじゃん」
「だからこそさ、ちゃんと神様に許可取って壊せばいいじゃん。祠壊すのも流行ったし」
「流行ったけどさ。誰が自宅壊され……んあー、祠である必要ないのか。そんな区別そうそうつかねぇか」
「そ。本殿修理のための一時遷宮していただいたお社なら小さいだろうし、本殿修理後ならどうせ壊して廃棄するんだし、オッケーくれる神様いるでしょ」
宇迦之御魂神様が祀られている所で修理があれば、すごく楽なのだけれど、とぶつぶつ言いながら、炎陽はその赤い髪をガシガシとかいた。
まずは、他のキツネに話をしてみよう。誰か、一匹くらい、丁度いい奴がいるはずだ。なぜならキツネって生き物は、神様の御使いとして、全国津々浦々にいるのだから。
▽
謎の男が祠を壊した動画は、瞬く間に拡散されはしなかった。流石に冒涜的が過ぎたからか、それまでは年寄り連中しか見ていなかったからか。
「なあ、これ、子供が映り込んでいないか?」
コメント欄の誰かが、それに気が付くまでは。
動画の三、祠のあるおそらくは森の中の開けた所で、若い男が何かを振り下ろしているだけの動画。
その、背景である森のふちに、着物姿の子供が映り込んでいる、というのだ。
よくよく見ると、確かに、いた。おそらくは黒い髪を、今風のショートボブというよりはおかっぱに切っている。着物の色は分からないところを見ると、黒い髪の部分だけエフェクトがかかっていないのかもしれない。
編集された様子も、再アップロードされた様子もなかったから、この子はアップされた当時からここにいたことになる。
女の子向けの大振りの花柄の着物などではなく、また被せ布を上から羽織ってしまっている都合上帯も見えない。だから、こちらもまた性別の特定が出来ない。
その子供は、一心不乱に破壊される祠を見ている。視聴者には、そう、見えた。
動画の四にも、その子供は映り込んでいた。そのまま長い尺で撮影し、あとから編集したのだろう。子供の服装も変わっていなければ、よくよく見ると男の服装も同じだ。
フィクションだ、と注釈がついているから、おそらくは制作陣の誰かの子供なのだろうけれど。その子供はほぼ身じろぎせず、ほとんど瞬きもせず、ただ、そこに、立っていた。
▽▼
この動画がどういう経路で若い――もっと言うなら幼い、成人前の子供たちの目に触れたのかは分からない。
特に劇的に再生数が増えたとか、インフルエンサーと呼ばれる人が紹介したとか、そう言うことはなかった。少なくとも、春愁はそう記憶している。
ちゃんとフィクションである、と明記したのだ。これは本殿修理のために遷宮していただいた簡易のお社で、ご本神様はまあまあ興味津々でお社をぶっ壊すのを最前列でかぶりつきでご覧になっていた上に、出演も果たしてくださったが。
そしてそれがしばらくしてから視聴者に気が付かれて、コメント欄が盛り上がっていたし、確認のために再生数を伸ばして貰えたので、ありがたかった、で終わる話ではあるのだが。
「それでなんで壊していいってなるわけ???」
コメント欄に「祠って壊していいんだ!」「近所の祠壊してみる!」みたいな書き込みが増えだしたのだ。
単純に最後まで見ずに、コメント欄だけ見ているとか、祠の破壊が終わったところで止めたとか、そう言うことかもしれない。ちゃんと紹介文に書かないとだめか、という思いと、ちゃんと紹介文に書いてもこの手合は読まないよな、という思いの両方が春愁をさいなむ。
いや、この壊した子供が――子供だと言ってくれ。大人だったらどうしてくれよう。
勝手に神に呪われるのであれば好きにしてもらって構わない、とは思う。一族郎党呪われたとしても、春愁の尻尾は傷まない。
痛まない、が。
「多分これ、怒られるよね」
「怒られるね」
原因を作ったこと、について、怒られるだろう。理不尽なことに、宇迦之御魂神様は怒られないのだ。依頼してきたのあっちなのに。
「となると取れる手は一つだけか」
「書き込みだけで終わるといいよね」
春愁と炎陽はため息を吐いて、キツネのネットワークに話を流してもらうために、王子稲荷の頭領の部屋へととぼとぼと向かうのだった。
それは、桜のつぼみもほころび始め、通り沿いには花が咲き乱れるほどではないが咲き始め、花粉も飛散をしだす頃だった。
▽▼▼
びくびくしながら、春愁と炎陽は王子稲荷の頭領、風致の部屋へと滑り込んだ。
今自分たちがやっている件について、頭領はちゃんと把握している。あの冬のめちゃくちゃ寒い日に、ちゃんと企画書を作り上げてそれを提出したのだから。ただその時、風致は熱燗飲んでご機嫌だっただけである。
「なるほどなあ」
さて春めいてきた昨今、熱燗にするかぬる燗にするかそれとも、と悩んでいた風致の部屋の、障子をあけ放った廊下に、ちょこんと伏せるキツネが二匹。キツネ色の春愁と、赤色の兄弟キツネ炎陽だ。
とりあえず二人を部屋に呼び入れて、さてどんな悪さをしたのやら、と話を聞いてみれば。確かに二人が悪いといえば悪いが、手放しで拳骨を落とすほどの事でもなかった。
「一番ありがたいのは口だけで実行に移さないのはそれとして」
「ありがたいですね」
「それならまあ、まあ」
うんうん、と、子ぎつねよりはちょっとだけ大人になったキツネ二匹が頷く。
「次点は、自宅の神棚か。年神さまは心根のお優しい方が多いから、その家にちょっとした不幸を下さるだけで許して下さるかもわからん」
祠を壊してみたい、と思うような子供のいる家に、神棚があるかどうかはちょっと悩ましいところだと、腕を組んで風致は少し考える。あるだろうか。無いような気もする。あと問題がないのは仏壇あたりか。
親御さんからはしこたま怒られるだろうが、それでも自分の家の物であれば、怒られるだけで済むだろう。
「あと問題が少なそうなのは、キツネの社か」
かねて古くより、日の本の民は稲荷神社を崇拝している。大きな稲荷大社も各地にあるし、そうでなければ神社に併設されている。個人宅にある場合もある。
風致が言及したのは、この個人宅にある稲荷神社である。いくらなんでもここ王子稲荷のような大きなところを襲撃はしないだろうし、神社に併設されている小さな社であっても、他人のもの、という認識はあるだろう。流石にそこを襲撃した、とあっては、キツネの手に余る。
人間が人間の法の元に裁くだろう。
隣近所の稲荷の社、というのであれば、これもまた人間が人間の法で裁くだろうが、そこにちょっとしたことをその社のキツネが足すくらいの事は容易い。話を流しておけば、その社を祀っていた一族に被害も出ないだろう。というより、被害が出る可能性がある以上、話は流しておかねばならない。
何の罪もなく、これまで稲荷の社を維持してきた人々が不幸になるのはよろしくないからだ。
「一番の問題は、やはり失伝している祠だろうな」
辻々にあるようなお地蔵様や、管理人がちゃんといるような道端の祠であれば、割と問題はない。いや問題自体が皆無なわけではなく、誰かが介入することが可能である、という話だ。
事前に祠を壊そうとしている悪童どもがいる、という情報があれば人の似姿を取って顕現し、破壊される前に怒鳴り散らして追っ払うことだってできよう。
失伝している祠、というものは、それらのコミュニティの外にある。ゆえに彼ら彼女ら、そこに祀られている神々に情報が行かない、というのが、問題なのではない。
「そればかりは、狙わないでくださいと神に祈るしかありませんね」
「どの神だ」
「どなたでも」
ふう、と、三匹のキツネはそろってため息を吐いた。
そうしてまあ大体、物事というのは、最悪を引き当てるものである。
△
それは山の中に在ったと彼は言う。
実際にその場所に行ってみれば、車通りのそれなりにある山の中、県道から外れて頂上の方へと向かう側道からちらりと視界の端に映りこむ事もあった。
大体は乱雑に生え放題の下草に隠れてしまい、気が付くことはない。それでいいのだ。わざわざこの朽ちかけた社を見に来るもの等そうはいないだろう。
あの山にそのお社が出来たのは、いつだったか。少なくとも、まだ電気はない頃だった。活字もなかった。麓にあった村々は統合されたり喧嘩別れをしたり、川の流れが変わったり道路が引かれたりと色々あったが、今は一つの大きな市になっている。
落人の隠れ郷の伝説は、山の麓の市が町であり、村であったころから細々と語り継がれていた。しかし、人の古老はすでにその頃の話を忘れ、語り継ぎはしていない。酔狂な学者の耳に届かなければ、このまま朽ち果てるに任せるだけであった。
けれど子供が、彼が、それを見つけた。
その子供は近所の子供ではなかった。ある時親の親戚の家に遊びに行った帰りの車で移動中に、ふ、と視界に入ったに過ぎない。そうしてそれは、子供の記憶の片隅に、ずっと残っていた。彼は、そう語った。
子供――佑都(仮名)は、ある日、とある動画を見たという。それは男が祠を壊している動画だった。何か棒、佑都はバットだと思った。それを振りかぶり振り下ろし、振りかぶり振り下ろし。横に薙いでは殴打した。
やりたい、と思ったという。
やっていいんだ、とも思ったそうだ。
だから佑都はそれを、思わずその動画のコメント欄に書き込んだ。そうしたら賢しらな、自分に良識があると思い込んでいる大人たちから止めるようにと言われた。大人だってやっているのだから、自分だってやっていいはず、なので、ある。
大人に言ったら止められる、という事をその一件で学んだ佑都は、親には何も言わないことにした。まずは祠を壊すためのバットを入手しなければならない。
別に、野球をやるわけじゃないし、手に馴染むとか軽いとかそういのはどうでもいいと思った。でも強度は、大事かもしれない。
ネットで、バットについて調べてみたけれどよく分からなくて、とりあえず護身用、って書いてある、安い奴を買うことにした。あ、でも家に送ったらバレる。どうしよう。そうだ、コンビニ受け取りにすればいいんだ。
そう言った時、佑都は僕頭がいいでしょうと言わんばかりの顔をしていた。
「あのおじさん家って、どこだっけ」
リビングで寝そべりながら、さりげなさを装って佑都は父に聞いた。父の兄弟ではなく、父の親戚。そう何度も遊びには行っていないけれど、たまに行く、親戚の家。
「山の中を車で通るところ」
そうしてまんまと父親から、あの祠のある山の場所を聞き出した佑都は、その最寄りのコンビニエンスストアでバットを受け取ることにした。貯めてあったお小遣いで安いけれど護身用って書いてあるから、それなりに強度があるだろう奴を買ったのだ。
親にその山まで車で送ってくれ、というのは無理なので、佑都は移動方法もネットで調べた。履歴に残って知られるのは嫌なので、けれど家族みんなで使う用のタブレットの履歴の消し方なんて分からないしそれを検索してるのが見つかるとそれはそれでうるさそうだから、佑都は他にも色々と検索して、上書きをすることにした。色々と用意した言い訳は、気が付かれなかったのか興味を持たれなかったのか分からないが、使うことはなかった。
決行は、学校が半日の土曜日にした。実際は登校しない。両親はどうせ仕事でいないし、学校には駅前の公衆電話から休みますと連絡を入れた。その電話を受けたのは担任ではなく、佑都の家の電話番号を把握していなかったので、お大事にね。といって疑いもしなかった。
自宅最寄り駅から電車に乗って一時間。それから乗り換えて、もう一時間。乗り換え案内をノートに写すのは、別に大変じゃなかった。両親がいない時間を狙うのは、そんなに大変でもない。どうせ二人とも仕事で帰りは遅いんだ。
むしろ大変だったのは、金曜日にバットがコンビニに届くように指定をすることだったと佑都は回想する。コンビニ受け取りをするのは、初めてだった。
目的の駅に着いたら、駅の掲示板にある地図を見て、山までの道のりを調べた。登山をするような山じゃないし、観光名所があるような駅でもないから、分からなかった。駅間についてしか書いてなかったんだ。だから交番で聞いた。
バットを受取る予定のコンビニの場所も聞いて、バスに乗った。帰りの交通費の事を考えると、昼飯は抜きになった。お小遣いが少ないと、佑都は唇を尖らせた。
佑都はコンビニでバットを受取って、もう一回念のために山の場所を聞いて、なんでって店員に聞かれたから、その近くに親戚が住んでいるから、と答えた。一人で来てみたかったのだと。でも自分用のスマートフォンを持っていないから、地図を見れなくて、コンビニで聞いたのだと。確かに、嘘は言っていない。
「なんか、変な子でしたよ」
コンビニに当時の事を伺いたいと問い合わせたら、その時、佑都を接客したという店員がまだ働いていた。彼は、伊藤(仮名)と名乗った。
「近所の子じゃなかったし、県道が通ってる山の事は聞いてくるし。うちのコンビニからだと……歩いて三十分くらいですか? いやいつも車で、歩かないで分からないんですけど。車だと十分くらいですかね? だから、近くないんですよ。全然。
なのに、そこの近くにいる親戚の家に行くっていうし。うちの店で何か細長い箱の通販物受取るし」
通報は?
「店長と話し合って、まだ何も起きてないとはいえ、しました。通報というよりは、相談、ですかね?」
巡回がてらおやつを買っていくといういつもの警察官が来たときに、話した、と伊藤さんは言った。警察官は、そちらにパトロールをしてくれることになったそうだ。佑都がコンビニを出てから少し時間が経っていた。どれくらい経っていたかは、覚えていないけれどと、伊藤さんは申し訳なさそうに付け足した。
もっとも、その結果を伊藤さんたちは警官に聞いていない。翌日以降これといって殺人事件とか暴行事件とかのニュースになっていなかったから、気のせいだったか未遂で防げたのだろう、と店長と話していたそうだ。
佑都はコンビニを出て、店員に教わった通りに目の前の道を歩きだした。それに沿って歩けば、目的の山へと辿り着く。三十分か、もうちょっとか。時計を持っていなかった佑都は、沢山歩いた、としか記憶していない。
沢山歩いて山に到着した佑都は、山を登った。勿論、県道はその山を越えているから、道なりに歩いていくだけでよかった。
目的地の祠が見える側道は、中腹よりも上にあった。実際にその道を歩いてみたが、車通りはさほどないとはいえ、歩道はなく、傾斜はそれほどないがカーブはあり、大人でも、いや車を運転する大人だからこそ、少し恐怖を感じた。
佑都はコンビニで通販の段ボール箱を開けて、バットを自分の通学鞄に挿した。段ボール箱はコンビニに捨てた。
「あんた何してんの」
佑都が壊したという祠を求めて右往左往していると、一台の車がすぐそばで止まった。
運転手は、佑都のそばを走り去った車の一台だったという。あの時も不思議に思ったけれど、声はかけなかったと言っていた。歩いて祠に向かいたいことを説明すると、もっと先だよ、と教えてくれた。
礼を言って、また山道を登った。登った、というほど傾斜はない。感覚としては、緩やかなスロープである。
祠が見える側道の所では、先ほどの車が止まって待っていてくれた。ありがたく、インタビューさせて貰うことにした。
「言われてみれば、昔からあるね」
麓の町に住む清水(仮名)さんは、毎日この道を通って通勤している。子供の時は何であんなところに、と思っていたけれど、大人になるにつれて気にならなくなっていったという。そこにある、というのが、日常になったのだろう。
県道から少し側道に入ったところの車止めから、その祠は見えた。少し、傾いでいるようだ。
「どうかなあ。前からああだった気もするなあ」
佑都がバットで殴りつけたことによる損壊ではなく、経年劣化の可能性もある、と清水さんは首をひねる。ここまでまじまじと祠を見たことがなかったそうで、記憶に自信がないとの事だ。
「あんたたちなにしてるの」
今度は、パトカーがやってきた。
清水さんと自分は側道の車止め近くに居り、祠には近寄っていない。だから警官としては、強く止めることは出来ないようだった。
自分は佑都の足取りを追っているのだと伝えた。
「ああ、あの子か」
警察官である松本(仮名)さんはあの日、いつものようにパトカーでの巡回中、伊藤さんのいるコンビニエンスストアに寄った。警察官がパトカーで巡回している、という姿を地域住民に見せるためだ。
そこで伊藤さんから相談を受け、いつもの巡回ルートを外れ、こちらに走ってきた、という。
「多分少年がコンビニを出てから、自分たち
がコンビニに行くまでに、それなりに時間が経っていたんでしょうね。見落とさないように、と制限速度以下のスピードで走っていたのもあって、山の麓までの間に、追いつくことは出来ませんでした」
パトカーがコンビニを出た時刻は、大体午後になったところだと松本さんは言う。
佑都が家を出たのが朝の八時過ぎで、そこから電車に乗って約二時間、バスに乗って三十分弱、コンビニを出て三十分弱なので、単純計算では午前の終わりには山に到着していたことになる。
松本さんと同僚の乘ったパトカーは、念のため山を通り過ぎてしばらく走り、この先にはいないだろうと判断したところで山を登る道へと入っていったという。
山の麓には家屋があるが、中腹にはない。故に、まずは裾野から捜索した形になる。
「自分たちがここに着いた時には、少年はもう祠の所にいてね」
佑都は荷物を持ったまま、茂みに入り込んでいたという。鞄を下において、バットを振りかぶったところで、制止が間に合ったと、松本さんは結んだ。
「ほら、ネットでブームになったでしょう。だからまあ、やる子は出るだろうなあとは、思ってはいたんですよねぇ」
大人はネタにして笑っても、実際には行動に移さない。不法侵入や器物破損など、複数の法に触れるだろう、ということが分かるからだ。けれど、分別のつかない子供だと、その限りではない。
神様に祟られるだとかそういう事を抜きにした人間が定めた法の部分でも、色々ある、ということを知らないからだ。
「声をかけたら、びっくりしてね。とりあえず、話聞かせてって声をかけて、パトカーに引っ張ってって。
いや、素直でしたよ。何してるのって聞いたら、ネットの動画で祠壊してるの見たから、自分もやろうと思ってって」
松本さんは、あの祠が誰のものか知っているのか、等佑都に聞いたという。佑都の物でないのであれば、それは他の誰かの物で、その他の誰かにとって大切なものかもしれない。それを佑都が許可も取らずに勝手に壊していいはずがないだろう、と伝えたそうだ。
「下草とか生え放題でしょう? だから誰も大切にしてないんじゃないかって言われましたけどね。誰もずっと大切にしていないなら、もう壊れてるよって言ったら納得してくれましたよ」
とはいえそれは五分十分の話ではない。一時間でも二時間でも、松本さんたちは付き合うつもりだったという。
対話することで色々なことが回避できるなら安いものだと、今日もパトカーに同乗していた同僚の方ともども、とてもいい笑顔だった。
△▲
「という、訳ですので」
春愁は伏したまま、言葉を綴る。
「少年は壊しておりませんし触れてもいないようですので、お許しいただけませんでしょうか」
左伊多津万は返事をしない。返事をしない。返事をしない。
春愁は生え放題の下草の上に伏したまま、その朽ちかけているけれどまだ形を保ったままの祠の側に佇む左伊多津万の言葉を待つ。待つ。待つ。
陽がゆっくりと傾いて、風が梢を揺らす。時折車が通りすぎるが、春愁にも左伊多津万にも気が付かずに走り去っていく。春が過ぎて夏が近くなってきていて、夕方でも上着は必要ないほどだ。寒がりな人は薄手の長袖のシャツをもって出歩いたりもしているだろうが、春愁には必要ない。
陽が落ちて夜になった。ひときわ強い風が春愁とこずえを揺らした。
左伊多津万は、もうそこにはいなかった。
祠の中に戻ったのだろう。佑都が許されたのかどうかは分からないけれど、まあ、すぐにどうこうはなりそうないからいいかと、春愁はお山を後にした。
とある大手動画投稿サイトに、新しいアカウントが生まれた。それは毎分毎秒よくあることで、名前は初期登録のランダム英数字のまま、自己紹介文も何もないそのアカウントは、すぐにその他大勢に埋もれてしまうはずだった。
開設されたそのアカウントには、すぐに一本の動画がアップされた。タイトルは、漢数字の一。タグもついていなければ紹介文もない。そんな、数分もない動画だった。
黒い画面にノイズが走る。音も不鮮明だ。少し遠いところから、電車の走る音と、遮断機のかん、かん、かん、という音が聞こえる。後から入れた音ではなくて、多分、撮影の時に入った音を加工しているのだろう。水の膜の向こう側から聞こえるかのような、少し遠くに音がしている。たまに、一つの音だけが鮮明に響いたりもする。
その暗い画面の中央に、男が映った。後ろ姿だ。スーツを着ている。髪は短く刈り込まれてはおらず、襟足はスーツの襟元には届かない程度だから、まだ若い男だろう。黒髪なのか茶色く染めているのかは、画面が暗く加工されているから分からない。
画面にノイズが走る。
男は歩き出す。ここは、駅前の商店街のようだ。なにか音声が流れているけれど、時折走るノイズが邪魔をしてどこの商店街なのかの特定をさせない。商店街ごとにある独特の、スピーカー越しの音楽やアナウンスが流れている、それは分かるのに。鮮明になるのは音楽だけで、告知の文言になると不鮮明になる。
男は商店街を抜けて、国道か県道か、大きな街道沿いを歩く。どこかの曲がり角を左に曲がって、そこから先は住宅街。というところで、ふつり、と、動画は切れて終わった。
この動画は、万はおろか数百も見られることはなかった。一部の年寄り連中が、「昭和の時代のビデオみたいないいエフェクトだった」と喜んでいたくらいだ。
▽
それから数日して、また次の動画がアップされた。タイトルは漢数字の二。まだアカウントの紹介文もないし、名前はランダム英数字のままだ。先日アップされた一にも紹介文はないし、今回の二にも紹介文はなかった。
前回と同じように黒い画面。走るノイズ。しばらくして映るのは男の後ろ姿。そしてノイズが走る。服装はスーツではない。着替えたのだろうか。それでも、前回と同じ男だとわかる。髪の長さか、それとも佇まいか。
今回もまた、短いものだった。いや、前回よりもさらに短い。
背景はどこだろうか。BGMはなく、画面はわざと暗く加工されているのだろう、昼なのか夜なのかも分からない。
ノイズに交じって時折響く靴音から推察するに、アスファルトではなく、森か、雑木林か、山か。
丁寧に走るノイズが邪魔をして、葉擦れの音はよく聞き取れない。
ふ、と男が足を止めた。
そしてゆっくりと、こちらを、カメラを振り返る。
そういえばこれまで、男の顔は見えず、声も聞こえず、ただ服装だけで男だと判断していた。
男の顔がカメラに完全に映る前、横顔すら映らずにノイズが走り、男は消えた。しばらく誰もいない空間を映してから、動画は終わった。
前回よりはちょっとだけ再生数は多くなったけれど、そこどまりだ。まだ千には再生回数は届かない。
解放されているコメント欄では、平成の頃の呪いのビデオ風がとてもいいと、絶賛されてはいた。けれど、もっと若い世代に見て貰えなければこれ以上の再生数にはならないだろう、というのが、コメント欄の大方の見方だった。
▽▽
それからまた数日が経って、三と書かれた動画がアップされた。
名前はいまだにランダム英数字だし、投稿者の紹介文はないし、投稿動画の紹介文もない。ここまでくればわざとなんだな、と分かってくる。もしかしたらそこそこ有名なクリエイターがやっているのかもしれない、と、コメント欄は謎の盛り上がり方をした。
前回は男が消えたところで終わったから、今回はその続きではないか。そう期待をして、動画を再生する。
黒い画面にノイズが走る。どうやらまた森の中のようだ。今回は男の真後ろから撮影はしておらず、少しカメラが引いていて、森の中の開けた空間だとわかる。画像は暗く加工されているから、昼か夜かは分からない。
男は手に何かを持っている。それを、持ち上げて、振り下ろした。持ち上げて、振り下ろす。持ち上げて、振り下ろす。
BGMはないから、男が何かを殴打している音がノイズに交じって聞き取れる。それは硬質な何かだ。人のような柔らかい生き物を殴打しているのではないようだ。もっと、硬い。石のようではない。金属のようでもない。
ならば男が殴打しているのは、木か。
しかし男の向こうには男よりも大きな木は生えていない。いや、男の立っている空間の向こう側には、男の背丈よりも高い木は生えている。しかし、男が殴打しているあたりには、無い、はずだ。
男は数回殴打した後、上から下へと手を振り降ろすのをやめて、横に殴ように振りぬいた。右から、左へ。右手に持った何かを、右に大きく開いて振る。ちょうど男の体に隠れるような位置に何かあるらしく、右手はその辺りで止まる。
片手で殴打するのを数回繰り返し、その後は両手で持って殴打した。一回、二回、三回。
ひときわ大きなノイズが走り、動画はそこでぶつりと切れた。男が何を殴打していたのか、それが分かる前に動画は終了した。
コメント欄はそこそこ盛り上がった。何を殴打しているのか、考察大会が開かれたのだ。
少なくともこの時点では、視聴者はこれが、フィクションであると認識していた。
▽▽▽
翌日。四、と書かれた動画がアップされた。
新しくアップされた四は、三の続きであった。
手に持った何かを両手で構え、野球のバットをフルスイングする要領で殴る。殴る。殴る。殴打すること三回目にしてひときわ硬質な、そして大きな音が響いたと思うと、男の体の左側に、無残に壊されたそれが見えた。
それは、小さき神々を祀る祠の形をしていた。
コメント欄はざわめいた。
確かにしばらく前に、大規模SNSで祠を壊すのが流行した。しかしそれは文字での流行で、実際に壊した者はいなかったはずだ。作っていた者はいたけれど。
日本人としては、フィクションの世界ならともかく、実際に損壊しているのを目の当たりにするのは冒涜的だと感じたのか、この祠について特定しよう、という動きが出た。
男は入念に、丹念に祠を壊す。画面は暗く、黒く、男を取り巻いている木々の葉の形も幹の形も絶妙に潰されていて、地方すら特定できない。
祠を破壊し尽くしたころ、一心不乱に殴打していた男は、肩で息をしていた。しかしその音は入って来ない。徹底的に、男の音声は排除されていた。
ぶつりとノイズも走らずに動画は終わった――かに見えたが、画面はホワイトアウトした。そこに黒文字がゆるゆると浮かび上がる。
・この動画はフィクションです。
・この動画で破壊された祠は、本殿修理のため遷宮していただいた仮設のお社となります。神さまはすでに本殿にお戻りになられており、廃棄予定のお社を動画に使用する許可は得てあります。
・また動画内で破壊した祠はちゃんと儀式を執り行い、廃棄してあります。
*絶対に真似をしないでください。
ゆるゆると浮かび上がったその文字は、水に溶けるようにして消えて、動画は終わった。
許可を出したのは誰だとか、なんで関係者がこんなモキュメンタリーホラー動画撮影してアップしたんだ、などと、コメント欄は、ちょっと沸いた。
▼
それは秋の終わりの、寒い日だった。前日までは上着は必要だったり必要なかったりしていたけれど、雨が降ったその日はいきなり真冬並みの寒さとなっていた。
綿入れを着こんでくるのだったと自分の尻尾を抱えてガタガタ震えながら、キツネの春愁はその静謐なお社の廊下を速足で進んでいた。キツネの姿であれば毛皮があるが、肉球が廊下に直接触れるから冷たくて困る。雪国や北の方に住んでいるキツネなら、肉球の間に長い毛が生えていて、それで暖かいのだろうけれど。
生憎、春愁は関東は東京の、王子稲荷のキツネである。毎年冬になると寒い寒いと文句を言っていた。
主祭神であらせられる宇迦之御魂神様からお呼び出しを受けた春愁は、着ていた自分の体温でぬくぬくになった綿入れ半纏を脱いで、重ね履きしていたふわもこソックスも脱いで、半べそをかきながら静謐なお社の廊下をずんずんと進んでいた。走らなかっただけ褒めて欲しいと本人は思っている。
「春愁。罷り越して御座います」
どうしてお社における神様の部屋は一番奥なんだと、ちょっと脳内で毒づいてから、春愁はその部屋のふすまの前、廊下に座して参上を告げた。耳も尻尾もちゃんと仕舞って、完全に人の似姿である。
「おはいりなさい」
宇迦之御魂神様がお招きくださったので、サッサと春愁は部屋の中に滑り込んだ。春愁は王子稲荷の頭領キツネではないけれど、この部屋には最近よく呼び出されていたから、慣れたものだ。あまり慣れたくなかったな、等とは今はもう思わない。
「お前、そんな薄着できたのですか! ああほら、火鉢にお当たりなさい」
「お言葉に甘えまして」
宇迦之御魂神様のおわすお部屋の中には、大ぶりの火鉢があった。春愁はそれを抱えるかのようにへばりつくと、ちらり、と、宇迦之御魂神へと視線をやった。さっきまでは辛うじて人の似姿を取れていたけれど、もはやそれもままならない。大きなキツネの耳は頭上でその存在を主張しているし、尻尾は火鉢にへばりつくことのできなかった足の裏を温めている。
宇迦之御魂神は女性的な立ち振る舞いを好む傾向にあるが、歴とした男神である。伝承では女神とされていることも多い。長い髪を後ろで一つに結び、それをさらにこなれたお団子にし。おくれ毛部分を緩っと巻いているのだからそりゃ女神にも間違えられようモノだと、キツネたちの間でもっぱらの噂である。
ちなみに宇迦之御魂神様のヘアスタイルを整えている天女たちの趣味で、心根のお優しい宇迦之御魂神様はなにも突っ込んでいないだけなのも、キツネたちは知っている。
そんな宇迦之御魂神様はキツネたちと話す時はキツネの面をつけることが多かった。別にキツネに気を使っての事ではない。キツネになりたいわけでもない。ただ可愛いキツネの面を見つけた時に着けておくと、キツネたちが反応してくれるからだ。ちなみにキツネたちの間では、反応するように、と申し送りされている。コメントすると、宇迦之御魂神様喜ばれるので。
今日の宇迦之御魂神様のキツネ面は、スコティッシュフォールドのように耳の折れた、茶色いキツネの面だった。そんなのあるのか。
「なんか普通のキツネですね、本日のお面」
「ね、私もびっくりした」
天女が温かいお茶を持ってきてくれた。礼を言って受け取って、春愁はありがたく飲み干す。胃の中から温まる。
ようやく人心地ついた所で、春愁は宇迦之御魂神様の方に向き直った。そうして、座り直し、頭を下げる。
「ご用命は」
「あのね。いま。もきゅめんたりーほらー、っていうのが、流行っているっていうでしょう?」
「ますね。はい」
どこでその情報を得たんだ、と、春愁は内心突っ込むが口には出さない。その情報は今は不要だ。
「やらない?」
「やらないですね」
「やろう?」
「ご下命ですか」
「……出来る?」
「出来るか出来ないかで言えば、多分出来ます」
「じゃ、やって!」
「承りて御座います」
まだ年若く、頭領になる予定なんてこれっぽっちもないキツネの春愁が宇迦之御魂神様によくお呼ばれしているのは、こういう理由である。すなわち、遊び相手。
▼▼
静謐なお社の廊下を駆け抜けないぎりぎりのスピードで通り抜けて、自室に春愁は滑り込んだ。綿入れ半纏を着こんでふわもこソックスをはいて、こたつに足を突っ込む。それから、こたつの上の保温ポットからお茶を湯飲みに注いで飲み干した。よし。
「寒い……」
「お疲れ様。宇迦之御魂神様なんて?」
同室にいた春愁の兄弟キツネ、炎陽が湯飲みにもう一度お茶を注ぎつつそう問うてくる。
「モキュメンタリーホラーやりたいって」
「うん?」
「多分全部こっちに丸投げだろうけれど」
「うん?」
炎陽は首を右に傾げ、それから左に傾げた。何を仰っておいでなのだ、あのお方は。
「今モキュメンタリーホラー流行ってるじゃんって」
「みたいね」
「だからやろうって」
「……また……あのお方はもう……」
炎陽のその呟きは、宇迦之御魂神様を主と仰ぐキツネ族全体の感想でもある。
とりあえず体の温まった春愁は、先日家電量販店で購入してきたノートパソコンを立ち上げた。やることになったのだから調べものである。モキュメンタリーとは、何か。
対する炎陽はノートを広げる。
「ええとじゃあ、誰に声かける?」
「とりあえず俺とお前で」
「ええ……」
「あとはシナリオ出来てからじゃん?」
「そうだけど」
まあ、そんな感じで。その日は更けていった。
▼▼▼
「よし、祠壊そう」
「はあ?!」
ぽちぽちぽち、と、ノートパソコンをいじっていた春愁の突飛な発言に、こたつに足を突っ込んで、寝転がってゲームをしていた炎陽が素っ頓狂な声を上げた。
「いや今ざっと読んでみたんだけどさ」
「うん、うん。それで?」
炎陽は起き上がってこたつの上の保温ポットから自分の分と春愁の分のお茶をそれぞれの湯飲みに注いだ。
「まあ要するにドキュメンタリー風のフィクション動画がメインなんだよ」
「よく分からないけど、うん」
「ありがとう。でさ、まあ色々なことを色んな人たちがやってるわけさ。で、じゃあ俺たちが出せる特色は何かって考えたら、祠壊しても祟られないなって」
「祟られるでしょ。全力で神様ご本神から怒られるじゃん」
「だからこそさ、ちゃんと神様に許可取って壊せばいいじゃん。祠壊すのも流行ったし」
「流行ったけどさ。誰が自宅壊され……んあー、祠である必要ないのか。そんな区別そうそうつかねぇか」
「そ。本殿修理のための一時遷宮していただいたお社なら小さいだろうし、本殿修理後ならどうせ壊して廃棄するんだし、オッケーくれる神様いるでしょ」
宇迦之御魂神様が祀られている所で修理があれば、すごく楽なのだけれど、とぶつぶつ言いながら、炎陽はその赤い髪をガシガシとかいた。
まずは、他のキツネに話をしてみよう。誰か、一匹くらい、丁度いい奴がいるはずだ。なぜならキツネって生き物は、神様の御使いとして、全国津々浦々にいるのだから。
▽
謎の男が祠を壊した動画は、瞬く間に拡散されはしなかった。流石に冒涜的が過ぎたからか、それまでは年寄り連中しか見ていなかったからか。
「なあ、これ、子供が映り込んでいないか?」
コメント欄の誰かが、それに気が付くまでは。
動画の三、祠のあるおそらくは森の中の開けた所で、若い男が何かを振り下ろしているだけの動画。
その、背景である森のふちに、着物姿の子供が映り込んでいる、というのだ。
よくよく見ると、確かに、いた。おそらくは黒い髪を、今風のショートボブというよりはおかっぱに切っている。着物の色は分からないところを見ると、黒い髪の部分だけエフェクトがかかっていないのかもしれない。
編集された様子も、再アップロードされた様子もなかったから、この子はアップされた当時からここにいたことになる。
女の子向けの大振りの花柄の着物などではなく、また被せ布を上から羽織ってしまっている都合上帯も見えない。だから、こちらもまた性別の特定が出来ない。
その子供は、一心不乱に破壊される祠を見ている。視聴者には、そう、見えた。
動画の四にも、その子供は映り込んでいた。そのまま長い尺で撮影し、あとから編集したのだろう。子供の服装も変わっていなければ、よくよく見ると男の服装も同じだ。
フィクションだ、と注釈がついているから、おそらくは制作陣の誰かの子供なのだろうけれど。その子供はほぼ身じろぎせず、ほとんど瞬きもせず、ただ、そこに、立っていた。
▽▼
この動画がどういう経路で若い――もっと言うなら幼い、成人前の子供たちの目に触れたのかは分からない。
特に劇的に再生数が増えたとか、インフルエンサーと呼ばれる人が紹介したとか、そう言うことはなかった。少なくとも、春愁はそう記憶している。
ちゃんとフィクションである、と明記したのだ。これは本殿修理のために遷宮していただいた簡易のお社で、ご本神様はまあまあ興味津々でお社をぶっ壊すのを最前列でかぶりつきでご覧になっていた上に、出演も果たしてくださったが。
そしてそれがしばらくしてから視聴者に気が付かれて、コメント欄が盛り上がっていたし、確認のために再生数を伸ばして貰えたので、ありがたかった、で終わる話ではあるのだが。
「それでなんで壊していいってなるわけ???」
コメント欄に「祠って壊していいんだ!」「近所の祠壊してみる!」みたいな書き込みが増えだしたのだ。
単純に最後まで見ずに、コメント欄だけ見ているとか、祠の破壊が終わったところで止めたとか、そう言うことかもしれない。ちゃんと紹介文に書かないとだめか、という思いと、ちゃんと紹介文に書いてもこの手合は読まないよな、という思いの両方が春愁をさいなむ。
いや、この壊した子供が――子供だと言ってくれ。大人だったらどうしてくれよう。
勝手に神に呪われるのであれば好きにしてもらって構わない、とは思う。一族郎党呪われたとしても、春愁の尻尾は傷まない。
痛まない、が。
「多分これ、怒られるよね」
「怒られるね」
原因を作ったこと、について、怒られるだろう。理不尽なことに、宇迦之御魂神様は怒られないのだ。依頼してきたのあっちなのに。
「となると取れる手は一つだけか」
「書き込みだけで終わるといいよね」
春愁と炎陽はため息を吐いて、キツネのネットワークに話を流してもらうために、王子稲荷の頭領の部屋へととぼとぼと向かうのだった。
それは、桜のつぼみもほころび始め、通り沿いには花が咲き乱れるほどではないが咲き始め、花粉も飛散をしだす頃だった。
▽▼▼
びくびくしながら、春愁と炎陽は王子稲荷の頭領、風致の部屋へと滑り込んだ。
今自分たちがやっている件について、頭領はちゃんと把握している。あの冬のめちゃくちゃ寒い日に、ちゃんと企画書を作り上げてそれを提出したのだから。ただその時、風致は熱燗飲んでご機嫌だっただけである。
「なるほどなあ」
さて春めいてきた昨今、熱燗にするかぬる燗にするかそれとも、と悩んでいた風致の部屋の、障子をあけ放った廊下に、ちょこんと伏せるキツネが二匹。キツネ色の春愁と、赤色の兄弟キツネ炎陽だ。
とりあえず二人を部屋に呼び入れて、さてどんな悪さをしたのやら、と話を聞いてみれば。確かに二人が悪いといえば悪いが、手放しで拳骨を落とすほどの事でもなかった。
「一番ありがたいのは口だけで実行に移さないのはそれとして」
「ありがたいですね」
「それならまあ、まあ」
うんうん、と、子ぎつねよりはちょっとだけ大人になったキツネ二匹が頷く。
「次点は、自宅の神棚か。年神さまは心根のお優しい方が多いから、その家にちょっとした不幸を下さるだけで許して下さるかもわからん」
祠を壊してみたい、と思うような子供のいる家に、神棚があるかどうかはちょっと悩ましいところだと、腕を組んで風致は少し考える。あるだろうか。無いような気もする。あと問題がないのは仏壇あたりか。
親御さんからはしこたま怒られるだろうが、それでも自分の家の物であれば、怒られるだけで済むだろう。
「あと問題が少なそうなのは、キツネの社か」
かねて古くより、日の本の民は稲荷神社を崇拝している。大きな稲荷大社も各地にあるし、そうでなければ神社に併設されている。個人宅にある場合もある。
風致が言及したのは、この個人宅にある稲荷神社である。いくらなんでもここ王子稲荷のような大きなところを襲撃はしないだろうし、神社に併設されている小さな社であっても、他人のもの、という認識はあるだろう。流石にそこを襲撃した、とあっては、キツネの手に余る。
人間が人間の法の元に裁くだろう。
隣近所の稲荷の社、というのであれば、これもまた人間が人間の法で裁くだろうが、そこにちょっとしたことをその社のキツネが足すくらいの事は容易い。話を流しておけば、その社を祀っていた一族に被害も出ないだろう。というより、被害が出る可能性がある以上、話は流しておかねばならない。
何の罪もなく、これまで稲荷の社を維持してきた人々が不幸になるのはよろしくないからだ。
「一番の問題は、やはり失伝している祠だろうな」
辻々にあるようなお地蔵様や、管理人がちゃんといるような道端の祠であれば、割と問題はない。いや問題自体が皆無なわけではなく、誰かが介入することが可能である、という話だ。
事前に祠を壊そうとしている悪童どもがいる、という情報があれば人の似姿を取って顕現し、破壊される前に怒鳴り散らして追っ払うことだってできよう。
失伝している祠、というものは、それらのコミュニティの外にある。ゆえに彼ら彼女ら、そこに祀られている神々に情報が行かない、というのが、問題なのではない。
「そればかりは、狙わないでくださいと神に祈るしかありませんね」
「どの神だ」
「どなたでも」
ふう、と、三匹のキツネはそろってため息を吐いた。
そうしてまあ大体、物事というのは、最悪を引き当てるものである。
△
それは山の中に在ったと彼は言う。
実際にその場所に行ってみれば、車通りのそれなりにある山の中、県道から外れて頂上の方へと向かう側道からちらりと視界の端に映りこむ事もあった。
大体は乱雑に生え放題の下草に隠れてしまい、気が付くことはない。それでいいのだ。わざわざこの朽ちかけた社を見に来るもの等そうはいないだろう。
あの山にそのお社が出来たのは、いつだったか。少なくとも、まだ電気はない頃だった。活字もなかった。麓にあった村々は統合されたり喧嘩別れをしたり、川の流れが変わったり道路が引かれたりと色々あったが、今は一つの大きな市になっている。
落人の隠れ郷の伝説は、山の麓の市が町であり、村であったころから細々と語り継がれていた。しかし、人の古老はすでにその頃の話を忘れ、語り継ぎはしていない。酔狂な学者の耳に届かなければ、このまま朽ち果てるに任せるだけであった。
けれど子供が、彼が、それを見つけた。
その子供は近所の子供ではなかった。ある時親の親戚の家に遊びに行った帰りの車で移動中に、ふ、と視界に入ったに過ぎない。そうしてそれは、子供の記憶の片隅に、ずっと残っていた。彼は、そう語った。
子供――佑都(仮名)は、ある日、とある動画を見たという。それは男が祠を壊している動画だった。何か棒、佑都はバットだと思った。それを振りかぶり振り下ろし、振りかぶり振り下ろし。横に薙いでは殴打した。
やりたい、と思ったという。
やっていいんだ、とも思ったそうだ。
だから佑都はそれを、思わずその動画のコメント欄に書き込んだ。そうしたら賢しらな、自分に良識があると思い込んでいる大人たちから止めるようにと言われた。大人だってやっているのだから、自分だってやっていいはず、なので、ある。
大人に言ったら止められる、という事をその一件で学んだ佑都は、親には何も言わないことにした。まずは祠を壊すためのバットを入手しなければならない。
別に、野球をやるわけじゃないし、手に馴染むとか軽いとかそういのはどうでもいいと思った。でも強度は、大事かもしれない。
ネットで、バットについて調べてみたけれどよく分からなくて、とりあえず護身用、って書いてある、安い奴を買うことにした。あ、でも家に送ったらバレる。どうしよう。そうだ、コンビニ受け取りにすればいいんだ。
そう言った時、佑都は僕頭がいいでしょうと言わんばかりの顔をしていた。
「あのおじさん家って、どこだっけ」
リビングで寝そべりながら、さりげなさを装って佑都は父に聞いた。父の兄弟ではなく、父の親戚。そう何度も遊びには行っていないけれど、たまに行く、親戚の家。
「山の中を車で通るところ」
そうしてまんまと父親から、あの祠のある山の場所を聞き出した佑都は、その最寄りのコンビニエンスストアでバットを受け取ることにした。貯めてあったお小遣いで安いけれど護身用って書いてあるから、それなりに強度があるだろう奴を買ったのだ。
親にその山まで車で送ってくれ、というのは無理なので、佑都は移動方法もネットで調べた。履歴に残って知られるのは嫌なので、けれど家族みんなで使う用のタブレットの履歴の消し方なんて分からないしそれを検索してるのが見つかるとそれはそれでうるさそうだから、佑都は他にも色々と検索して、上書きをすることにした。色々と用意した言い訳は、気が付かれなかったのか興味を持たれなかったのか分からないが、使うことはなかった。
決行は、学校が半日の土曜日にした。実際は登校しない。両親はどうせ仕事でいないし、学校には駅前の公衆電話から休みますと連絡を入れた。その電話を受けたのは担任ではなく、佑都の家の電話番号を把握していなかったので、お大事にね。といって疑いもしなかった。
自宅最寄り駅から電車に乗って一時間。それから乗り換えて、もう一時間。乗り換え案内をノートに写すのは、別に大変じゃなかった。両親がいない時間を狙うのは、そんなに大変でもない。どうせ二人とも仕事で帰りは遅いんだ。
むしろ大変だったのは、金曜日にバットがコンビニに届くように指定をすることだったと佑都は回想する。コンビニ受け取りをするのは、初めてだった。
目的の駅に着いたら、駅の掲示板にある地図を見て、山までの道のりを調べた。登山をするような山じゃないし、観光名所があるような駅でもないから、分からなかった。駅間についてしか書いてなかったんだ。だから交番で聞いた。
バットを受取る予定のコンビニの場所も聞いて、バスに乗った。帰りの交通費の事を考えると、昼飯は抜きになった。お小遣いが少ないと、佑都は唇を尖らせた。
佑都はコンビニでバットを受取って、もう一回念のために山の場所を聞いて、なんでって店員に聞かれたから、その近くに親戚が住んでいるから、と答えた。一人で来てみたかったのだと。でも自分用のスマートフォンを持っていないから、地図を見れなくて、コンビニで聞いたのだと。確かに、嘘は言っていない。
「なんか、変な子でしたよ」
コンビニに当時の事を伺いたいと問い合わせたら、その時、佑都を接客したという店員がまだ働いていた。彼は、伊藤(仮名)と名乗った。
「近所の子じゃなかったし、県道が通ってる山の事は聞いてくるし。うちのコンビニからだと……歩いて三十分くらいですか? いやいつも車で、歩かないで分からないんですけど。車だと十分くらいですかね? だから、近くないんですよ。全然。
なのに、そこの近くにいる親戚の家に行くっていうし。うちの店で何か細長い箱の通販物受取るし」
通報は?
「店長と話し合って、まだ何も起きてないとはいえ、しました。通報というよりは、相談、ですかね?」
巡回がてらおやつを買っていくといういつもの警察官が来たときに、話した、と伊藤さんは言った。警察官は、そちらにパトロールをしてくれることになったそうだ。佑都がコンビニを出てから少し時間が経っていた。どれくらい経っていたかは、覚えていないけれどと、伊藤さんは申し訳なさそうに付け足した。
もっとも、その結果を伊藤さんたちは警官に聞いていない。翌日以降これといって殺人事件とか暴行事件とかのニュースになっていなかったから、気のせいだったか未遂で防げたのだろう、と店長と話していたそうだ。
佑都はコンビニを出て、店員に教わった通りに目の前の道を歩きだした。それに沿って歩けば、目的の山へと辿り着く。三十分か、もうちょっとか。時計を持っていなかった佑都は、沢山歩いた、としか記憶していない。
沢山歩いて山に到着した佑都は、山を登った。勿論、県道はその山を越えているから、道なりに歩いていくだけでよかった。
目的地の祠が見える側道は、中腹よりも上にあった。実際にその道を歩いてみたが、車通りはさほどないとはいえ、歩道はなく、傾斜はそれほどないがカーブはあり、大人でも、いや車を運転する大人だからこそ、少し恐怖を感じた。
佑都はコンビニで通販の段ボール箱を開けて、バットを自分の通学鞄に挿した。段ボール箱はコンビニに捨てた。
「あんた何してんの」
佑都が壊したという祠を求めて右往左往していると、一台の車がすぐそばで止まった。
運転手は、佑都のそばを走り去った車の一台だったという。あの時も不思議に思ったけれど、声はかけなかったと言っていた。歩いて祠に向かいたいことを説明すると、もっと先だよ、と教えてくれた。
礼を言って、また山道を登った。登った、というほど傾斜はない。感覚としては、緩やかなスロープである。
祠が見える側道の所では、先ほどの車が止まって待っていてくれた。ありがたく、インタビューさせて貰うことにした。
「言われてみれば、昔からあるね」
麓の町に住む清水(仮名)さんは、毎日この道を通って通勤している。子供の時は何であんなところに、と思っていたけれど、大人になるにつれて気にならなくなっていったという。そこにある、というのが、日常になったのだろう。
県道から少し側道に入ったところの車止めから、その祠は見えた。少し、傾いでいるようだ。
「どうかなあ。前からああだった気もするなあ」
佑都がバットで殴りつけたことによる損壊ではなく、経年劣化の可能性もある、と清水さんは首をひねる。ここまでまじまじと祠を見たことがなかったそうで、記憶に自信がないとの事だ。
「あんたたちなにしてるの」
今度は、パトカーがやってきた。
清水さんと自分は側道の車止め近くに居り、祠には近寄っていない。だから警官としては、強く止めることは出来ないようだった。
自分は佑都の足取りを追っているのだと伝えた。
「ああ、あの子か」
警察官である松本(仮名)さんはあの日、いつものようにパトカーでの巡回中、伊藤さんのいるコンビニエンスストアに寄った。警察官がパトカーで巡回している、という姿を地域住民に見せるためだ。
そこで伊藤さんから相談を受け、いつもの巡回ルートを外れ、こちらに走ってきた、という。
「多分少年がコンビニを出てから、自分たち
がコンビニに行くまでに、それなりに時間が経っていたんでしょうね。見落とさないように、と制限速度以下のスピードで走っていたのもあって、山の麓までの間に、追いつくことは出来ませんでした」
パトカーがコンビニを出た時刻は、大体午後になったところだと松本さんは言う。
佑都が家を出たのが朝の八時過ぎで、そこから電車に乗って約二時間、バスに乗って三十分弱、コンビニを出て三十分弱なので、単純計算では午前の終わりには山に到着していたことになる。
松本さんと同僚の乘ったパトカーは、念のため山を通り過ぎてしばらく走り、この先にはいないだろうと判断したところで山を登る道へと入っていったという。
山の麓には家屋があるが、中腹にはない。故に、まずは裾野から捜索した形になる。
「自分たちがここに着いた時には、少年はもう祠の所にいてね」
佑都は荷物を持ったまま、茂みに入り込んでいたという。鞄を下において、バットを振りかぶったところで、制止が間に合ったと、松本さんは結んだ。
「ほら、ネットでブームになったでしょう。だからまあ、やる子は出るだろうなあとは、思ってはいたんですよねぇ」
大人はネタにして笑っても、実際には行動に移さない。不法侵入や器物破損など、複数の法に触れるだろう、ということが分かるからだ。けれど、分別のつかない子供だと、その限りではない。
神様に祟られるだとかそういう事を抜きにした人間が定めた法の部分でも、色々ある、ということを知らないからだ。
「声をかけたら、びっくりしてね。とりあえず、話聞かせてって声をかけて、パトカーに引っ張ってって。
いや、素直でしたよ。何してるのって聞いたら、ネットの動画で祠壊してるの見たから、自分もやろうと思ってって」
松本さんは、あの祠が誰のものか知っているのか、等佑都に聞いたという。佑都の物でないのであれば、それは他の誰かの物で、その他の誰かにとって大切なものかもしれない。それを佑都が許可も取らずに勝手に壊していいはずがないだろう、と伝えたそうだ。
「下草とか生え放題でしょう? だから誰も大切にしてないんじゃないかって言われましたけどね。誰もずっと大切にしていないなら、もう壊れてるよって言ったら納得してくれましたよ」
とはいえそれは五分十分の話ではない。一時間でも二時間でも、松本さんたちは付き合うつもりだったという。
対話することで色々なことが回避できるなら安いものだと、今日もパトカーに同乗していた同僚の方ともども、とてもいい笑顔だった。
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「という、訳ですので」
春愁は伏したまま、言葉を綴る。
「少年は壊しておりませんし触れてもいないようですので、お許しいただけませんでしょうか」
左伊多津万は返事をしない。返事をしない。返事をしない。
春愁は生え放題の下草の上に伏したまま、その朽ちかけているけれどまだ形を保ったままの祠の側に佇む左伊多津万の言葉を待つ。待つ。待つ。
陽がゆっくりと傾いて、風が梢を揺らす。時折車が通りすぎるが、春愁にも左伊多津万にも気が付かずに走り去っていく。春が過ぎて夏が近くなってきていて、夕方でも上着は必要ないほどだ。寒がりな人は薄手の長袖のシャツをもって出歩いたりもしているだろうが、春愁には必要ない。
陽が落ちて夜になった。ひときわ強い風が春愁とこずえを揺らした。
左伊多津万は、もうそこにはいなかった。
祠の中に戻ったのだろう。佑都が許されたのかどうかは分からないけれど、まあ、すぐにどうこうはなりそうないからいいかと、春愁はお山を後にした。